『隋書』の古田武彦氏的解釈について

2020年3月29日
古田武彦氏の「九州王朝説」において『隋書』の解釈が一つの柱となっているのは確かだろう。しかし、概して古田氏の所論には強弁や我田引水にも見える箇所があり、これらの点について検証してみると、「九州王朝説」を支えるような解釈に至るとは到底言えない。

主な点としては「俀と倭」「多利思比孤か多利思北孤か」、そして「裴清の道行き文」の解釈がある。これらの点について思いつくままにツイートしたものを、とりあえずひとまとめにしようと思い、自分のサイトに1ページを加えることとした。
午前11:45 · 2020年3月26日
『隋書』俀国伝で裴世清が辿ったコース、所謂「裴清の道行き文」を、かつて図にしてみたことがある。一目瞭然。私のサイトの「裴清の道行き文」も併せて参照宜しく。
午前11:58 · 2020年3月26日
古田氏の「九州王朝説」の立場に立って、このような図を示すことはできないでしょう。『失われた九州王朝』300頁では、「裴清の道行き文」について述べてありますが、竹斯国を四角で囲んであります。そして「俀王の都は「竹斯国」に位置している」と言います。しかし、俀王の都は「邪靡堆」です。
午後1:26 · 2020年3月26日
古田氏は「すなわち、俀王の都は「竹斯国」に位置している。―それが右の道行き記事によって導かれる率直な結論である」。有り得ない解釈です。「海岸」を九州東岸と考えているようですが、竹斯国から九州東岸までに、秦王国と十余国がある?なぜここに、九州東岸までの記述があるのか?説明不可です。
午後1:28 · 2020年3月26日
「裴清の道行き文」を見てみましよう。【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國】とあります。「竹斯国」は単なる〝通過国〟としてしか描かれていません。『魏志』の場合は【邪馬壹国女王之所都】と明記してあります。一方、「竹斯国」には何も書かれてありません。
午後1:31 · 2020年3月26日
「道行き文」の終わりは【既至彼都】です。裴世清が倭都に到着したことがちゃんと書かれてあります。来迎の様子も含めて。では、「竹斯国」の箇所は?何の記述もありません。「竹斯国」に「俀王の都」がある!とするのは強弁に他なりません。
午後1:39 · 2020年3月26日
「竹斯国」の次に「秦王国」があり、はたまた「十余国」があって九州東岸に達する?この「十余国」って、一体九州のどこに想定できるんでしょうか?筑紫から九州東岸へは当初、筑紫平野を通ります。秦王国をこのあたりに想定するにしても、これより東は山です。日田、玖珠、由布院、、、どこに十余国?
午後1:39 · 2020年3月26日
「裴清の道行き文」は裴世清が煬帝の命を受けて倭都へ赴く行程を記してあるわけです。「竹斯国」に倭都があるのなら、なにゆえ以東の国々を書かねばならないのか?南方はなぜ書かなかったのか?西方は?竹斯国の北はどうなってるの?
午後1:51 · 2020年3月26日
300頁の1行目。「又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。」と書きます。その直後の文です。【俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎.後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞.既至彼都】。来迎はどこであったのでしょう?
午後2:03 · 2020年3月26日
来迎の場所については、Yahoo!掲示板時代も何度か話題になりました。「九州王朝説」派の中には竹斯国だという方も。でも「裴清の道行き文」をどう読めば、そのような理解が生じるのか?不思議でなりません。【既至彼都】とあるように、裴世清の訪倭行程の終わりがこの4文字なのです。
午後2:22 · 2020年3月26日
さて、『日本書紀』推古紀には裴世清訪倭が詳しく記述されていることは周知のことですが、細かい点で両者の記述に齟齬がある事を以て、裴世清の訪れた先を「九州王朝」だ!と解釈するのが古田説なんですね。では、九州王朝に裴清訪倭を記した記録があるのか?ありません。
午後2:29 · 2020年3月26日
「推古紀」の他に、「丈六光背銘」の問題もあります。裴世清が畿内を訪れたこと自体については、「九州王朝説」の方々も否定しないのでしょう。では、九州も訪れ、しかも畿内へも行った?あるいは畿内へは別の年次に行ったのだ!『書紀』は改変している!というイチャモンまで、、、
午後2:57 · 2020年3月26日
〝別の年に行った〟説は、いわゆる〝十二年のズレ〟という解釈です。アホくさいので詳しくは読んでいませんが、都合の悪い文献の改作を疑うこと自体が、自分の寄って立つ土台を崩してしまうことに気がついていないのですね。なぜなら、齟齬をきたしていると唱えることは、
午後2:59 · 2020年3月26日
『書紀』の記述を信じているから、、、に他なりません。『書紀』と『隋書』に齟齬をきたしているという主張は、両者が史実を正しく描いているという前提に立たなければ言えないはずです。「正しく描いている」はずなのに、齟齬がある!だから、裴清の訪問先は、、、なのです。
午後3:12 · 2020年3月26日
「推古紀」の記事は改変されているのか?いないのか?どっちでもいいんです。そんな難癖をつける時点で、「九州王朝説」が成り立ち難いことを吐露しているに等しいのですから、、、裴世清は難波津に停泊した。そして秋八月、唐客入京。海石榴市の街(ちまた)に唐客を迎えた。
午後3:19 · 2020年3月26日
裴世清が帰国した翌年、筑紫大宰が奏上しています。百濟の僧らが肥後国葦北の津に泊てたと、、、この頃、「肥後国」は無かったでしょうが、『書紀』編纂時点での認識なんでしょう。なんでも九州王朝説によると大宰府が首都という考え方も強いようですが、これは何?
午後3:30 · 2020年3月26日
そもそも、磐井の乱以後の九州はどうだったか?乱後10年を経ずして那の津の官家を造り、筑紫・肥・豊の穀物を集めさせました。誰が?ヤマトの朝廷がですね。推古17年(609)筑紫大宰が『書紀』に初出します。以後、大宰の記事が頻出します。どこに「九州王朝」の出番があるんでしょうか?
午後6:26 · 2020年3月26日
裴世清が訪れた倭都が九州王朝だ!という証拠はどこにもありません。「裴清の道行き文」をフツーに読めば、そういう結論にしかなりません。裴世清が訪れた先が畿内ヤマトでしかありえないのですから、『隋書』俀国伝の「俀」も畿内ヤマトということになります。
午後6:33 · 2020年3月26日
古田氏は『失われた九州王朝』353頁以降で、高表仁について取り上げます。数日前、この件について書きました。「舒明紀」を持ち出して「両者の間、すこぶる仲むつまじいのだ。何の不和のさまもない」と。しかしこれは読者をミスリードさせるものです。
午後6:39 · 2020年3月26日
「舒明紀」4年を見れば分かります。冬10月、高表仁一行は難波津に停泊します。そこでの歓迎はあります。しかし、次の記事は5年の春正月、高表仁帰国なんです。【到于舘前】とあります。文脈からして難波津のこと。つまり、推古16年、難波の高麗の舘の上に作った新館に入ったのです。
午後6:46 · 2020年3月26日
舒明4年、高表仁が都に入った記録はありません。無いけど入ったのだ!と主張するのはご自由に、、、ですが、説得力はないでしょう。裴世清の時はもちろん、推古18年の新羅と任那の使いの際の記述と比べれば明らかです。
午後6:53 · 2020年3月26日
まず【臻(至る)於京】と明記してありますし、朝廷に招かれ拝謁したり饗宴を受けたりと裴世清のときに劣らぬもてなしぶりです。それに比べて高表仁の場合はどうでしょうか?難波津に停泊し、大伴連馬養などが船32艘などで出迎え、歓迎の言葉を交わしますが、それだけです。
午後6:59 · 2020年3月26日
歓迎セレモニーの最後は【即日給神酒】とあるだけで、次の記事は5年春正月の高表仁帰国です。高表仁は難波津から出ていないと解釈せざるを得ません。つまり、「舒明紀」の記事を読む限り、高表仁は倭京へ入ることができなかった!つまりこれが『旧唐書』に記す【争礼】と捉えるのが妥当でしょう。
午後7:05 · 2020年3月26日
『旧唐書』のその箇所を引きます。【表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還】。難波津から出ていないのであれば、「朝命を宣(の)べる」ことなどできません。「而還」はまさしく、舒明5年春正月のそっけない高表仁帰国の記事に通じるものがあります。
午後7:11 · 2020年3月26日
尚、「王子」とありますが、恐らくは「王」が本来の表記かと思います。『旧唐書』より1世紀半早い『通典』や、北宋代の『新唐書』では「王」となっています。尚、「九州王朝説批判」では右に出る人はいない「Strom_dorfさん」は、一歩踏み込んで『書紀』の〝カット説〟を示されています。
午後7:15 · 2020年3月26日
「Strom_dorfさん」によれば、『通典』『新唐書』の他に、『唐会要』『冊府元亀』『資治通鑑』も「王」だとします。今日ではこれらすべてネット上で確認できそうですので、是非お勧めします。古田氏の言う「『旧唐書』倭国伝と舒明紀は完全に矛盾する」というのは、全くの虚偽です。
午後7:18 · 2020年3月26日
特に、「舒明紀」で高表仁入京の記事が無いこと。裴世清の時の「推古紀」の具体的な記事と比べて大きな差異があることなど古田氏が触れないのは不審です。いちいち『書紀』で確認する読者は少ないでしょう。そのあたりを見越してのレトリックだと言って構わないのではないかと思います。
午後7:31 · 2020年3月26日
『通典』倭の「與其王争禮」です。
午後7:39 · 2020年3月26日
「Strom_dorfさん」は挙げておられませんでしたが、ついでですから『太平寰宇記』からも引いておきます。ここでも「王」です。
午後10:22 · 2020年3月26日
下図は、Yahoo!掲示板上で、ある投稿子が唱えた解釈に基づいて作図したものです。九州王朝の都を大宰府だとし、「海岸」とは豊前あたりの海岸だと言います。つまり、竹斯国から秦王国、十余国は、図中の白破線の如きコースになるというのです。倭都からは外れます。
午後10:28 · 2020年3月26日
あの「裴清の道行き文」とは、煬帝の命を受けて裴世清が俀王・多利思比(北)孤に会うために訪倭する行程なのです。なのになぜ、筑豊から豊前海岸ヘ至る地理を記さねばならないのか?全く理解に苦しみます。あり得ない解釈と言わざるを得ません。
午後10:40 · 2020年3月26日
「裴清の道行き文」について述べてきましたが、関連して言及しなければならないのは、「多利思北孤」です。古田氏はこれも通説の「多利思比孤」を非とし原文の「北」が正しいとします。そして、この5文字の一字一字の意味の解釈を『失われた九州王朝』283-284頁で述べているのです。
午後10:53 · 2020年3月26日
「北」は「〝天子は南面し、臣は北面す〟というように、〝天子の座〟である」と。しかしこれは奇っ怪な解釈です。『隋書』俀国伝には固有名詞と思しき名前が出てきます。阿輩雞彌、雞彌、利歌彌多弗利、阿輩臺、哥多毗、そして多利思北孤の前に冠する「阿每」も、皆音写ではないのでしょうか?
午後10:58 · 2020年3月26日
それだけに留まりません。『北史』に見える「多利思比孤」について282頁で以下のように述べます。「中国側で「多利思比孤」と記したのは、『北史』である。この北史は『隋書』にもとづいて「意改」を加えたものだ。史料のオリジナリティ(原初性)はない。―前著(略)九〇ページ参照」。)
午後11:03 · 2020年3月26日
古田氏の言う「意改」とは何か?前著90頁を見ても、五書の対比表が掲げてあるのみで、その「意改」については触れてありません。手元の『漢和中辞典』には載っていないので、ネットで尋ねると「書物の校訂などの際に、意味のうえから、原文を改めること」とあります。byコトバンク。
午後11:08 · 2020年3月26日
つまり、古田氏によれば『北史』は「多利思北孤」を「書物の校訂などの際に、意味のうえから、原文を改め」たと判断しているということになります。〝天子の座〟の意味で使われた「北」を、どなん「意味のうえから」「比」に「意改」したというのでしょうか?説明はありません。
午後11:16 · 2020年3月26日
実はこの多利思「北」孤は完全に誤なのです。〝天下の弧証〟なのです。古田氏はここでも百衲本『隋書』(元大德刊本)の文面を是として解釈を加えているのですが、これまたとんでもない間違いなのです。開皇二十年の俀からの遣使については、卑弥呼の景初三年の如く、多くの書物に引用されます。
午後11:28 · 2020年3月26日
『北史』『文献通考』『太平御覧所引北史』『通典』『唐類函所引通典』『太平寰宇記』『通志』『冊府元亀』『宋史』『新唐書』『資治通鑑』いずれも「比」です。もし『隋書』のオリジナルが「北」であったとしたら、何故後続の諸書は悉く「比」と「意改」したのか?全く説明がつきません。
午後11:44 · 2020年3月26日
古田氏は『新唐書』にみえる「目多利思比孤」を九州王朝の副王的な存在だと言っているとか目にしたことがあります。残念ながら、これも妄説です。「目多利思比孤」は『通典』に開皇二十年の倭王の名として出てくるのです。
午後11:49 · 2020年3月26日
北宋代の『資治通鑑』『冊府元亀』も「比」ですし、南宋代の『通志』も「比」です。「北」とするのは、元大德刊本という、13世紀から14世紀の境ころに刊行された『隋書』にのみ見える文字なのです。『資治通鑑』には『隋書』が注引されていますが、そこには「俀」ではなく「倭」と見えます。
午前9:54 · 2020年3月27日
古田氏は『失われた九州王朝』300頁に「俀と倭の間」という項目を立て、以下両者の違いについて述べています。そして、「俀」は九州王朝、「倭」は天皇家側(p304)だとします。しかし、そんな見解は不可です。『隋書』『北史』が成立当初から「俀」であったと考えにくいからです。
午前10:07 · 2020年3月27日
それは『太平御覧』所引『北史』が「倭」としている他に『資治通鑑』に注引される『隋書』も「倭」だからです。不思議なことは『太平御覧』所引『後漢書』は「俀」を用いています。これらを案じるに、「倭」「俀」は通用する文字であったとするのが妥当だと言えます。
午前10:11 · 2020年3月27日
『歴史読本 1996年12月号』に坂元義種氏が「『隋書』倭国伝を徹底して検証する」という一稿を寄せていますが、その中で『隋書』『北史』の「俀国伝」と「倭国伝」を取り上げ、両者を同じものとする考えを論じています。この中で氏は「邪靡堆と邪摩堆」などいくつかの問題点について言及しています。
午前10:18 · 2020年3月27日
仮に『隋書』『北史』の成立した唐代から一部に「俀」とする本があったとしても、司馬貞の『史記索隠』「倭は、音は人唯の反(かえ)し。一に俀に作る。音は同じ」を引いて両者は同音であるとします。司馬貞は生没年が679年~732年であり、まさに『隋書』『北史』の編纂された唐中期に生きた人です。
午前10:23 · 2020年3月27日
以前にも紹介しましたが、二十四史の一つである『南史』倭国伝は【倭國其先所出及所在事詳北史】と書き出します。「倭」です。同じ年、同じ編者による『北史』は「俀」です。古田氏が九州王朝だとする「倭の五王」についても『南史』では『宋書』を引いています。そこには「倭」とあります。
午前10:31 · 2020年3月27日
【倭國其先所出及所在事詳北史】は「倭国はその先(昔)の出る所(出自)及び所在の事は北史に詳らかなり」でしょう。何のことは無い。『南史』は南朝の記録ですから、倭と南朝との関わりについては『南史』に集めてあるわけです。北朝との関わりについては『北史』。
午前10:31 · 2020年3月27日
古田氏は『隋書』帝紀に見える「倭」を天皇家側の使者だと言います。それは大業4年と6年に見えます。301頁から引きます。
1、(大業四年)(二月)壬戌、百済・倭・赤土・迦羅舎国並遣使貢万物。〈隋書帝紀三、煬帝上〉
2、(大業六年)(春正月)己丑、倭国遣使貢万物。〈同右〉
午前11:13 · 2020年3月27日
この「大業四年」の遣使について、『書紀』との齟齬を指摘しています。確かに小野妹子が裴世清を伴って帰朝したのは推古16年、大業四年四月ですから、大業四年二月に倭が遣使貢万物したというのは時期的に無理があります。ならばこれは古田氏の言われる通り、天皇家側の使者なのか?
午前11:17 · 2020年3月27日
次に進む前に一つ。古田氏は301ページで2箇所で「二月」と書いていますが、これは「三月」が正しい。事実、1993年朝日文庫から出ている文庫版では316ページで「三月」と校正してあります。妙なところで「二と三の誤」が発生しているものです!
午前11:27 · 2020年3月27日
「大業四年」の話しに戻ります。この時遣使した4カ国のうち、迦羅舎国を除いては『隋書』に伝が立ててあります。このうち赤土国については私のサイトに原文書影と拙訳を載せています。「『隋書』列傳第四十七 南蠻 赤土國
午前11:31 · 2020年3月27日
それを見ると、常駿等は大業三年に赤土国へ赴くことを帝に申し出、その10月に南海郡から船出します。そして帰国するのが大業六年。『隋書』帝紀には赤土国の使いが大業四年三月来たことになっていますが、それは常駿らが丁度赤土へ向かう旅の途上の時期に当たります。不審を感じます。
午前11:36 · 2020年3月27日
赤土国からの使いが来たから常駿らは自分が赤土国へ赴くことを申し出た。そう考えるのが当然ではないでしょうか?次に百済国を見ます。こちらはもっと明快です。大業三年、餘璋は使者燕文進を遣わして朝貢します。百済伝に記載されている年次は大業七年です。「四年」の遣使など見えません。
午前11:43 · 2020年3月27日
あるいは「大業三年」にも朝貢があり、「百済国伝」はそれを記載したのか?しかし、「大業三年」に百済遣使の記事はありません。これらはどういうことなのか?
午前11:47 · 2020年3月27日
この「大業四年」【百済・倭・赤土・迦羅舎国並遣使貢万物】の記事には錯誤があるのではないか?赤土国、百済国の例を見ても、そのように疑うことができるのではないか?翻って倭国はどうか?小野妹子を大唐に遣わしたのが推古15年、大業三年(607)秋7月。年内には隋の朝廷に詣ることができるのでは?
午前11:54 · 2020年3月27日
赤土国、百済国、そして倭国のそれぞれの記録に照らして、『隋書』煬帝紀の大業四年のこの記事には錯誤があるのではないかという疑いを持つことができるかと思います。もちろん、帝紀や各伝の様々な記載事項を照らし合わせる必要があるでしょうが、この見立てはかなりの意味を持つと考えられます。
午前11:58 · 2020年3月27日
煬帝紀大業四年の記事です。【三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。乙丑,車駕幸五原,因出塞巡長城。丙寅,遣屯田主事常駿使赤土,致羅刹】。常駿らは赤土国遣使を受けての訪問だと読めるのではないでしょうか。
午後1:41 · 2020年3月27日
そもそも、『隋書』に伝の立ててある俀国が大業三年に遣使したと「俀国伝」に見えているのに、列島を代表しているはずの九州王朝を差し置いて、天皇家側の使者の遣使を大業四年に載せた!と考えるのは、いかにも不自然です。
午後1:41 · 2020年3月27日
『隋書』流求国伝を見てみます。大業三年の記事に続けて、明年として【時俀國使來朝】とあります。「俀国」です。「明年」ですから当然大業四年ということになります。煬帝紀にある【百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物】も四年です。古田氏が天皇家側の遣使だという四年の「倭」です。
午後7:03 · 2020年3月27日
この流求国伝の「俀国」と煬帝紀の「倭国」を同一のものだと主張することは、当然できます。これが成立するなら、古田氏の「俀<>倭」という主張は成り立たなくなります。ただ、そうすると煬帝紀大業四年の赤土国遣使と、赤土国伝の大業三年常駿遣使と一年の齟齬が生じてしまいます。
午後7:11 · 2020年3月27日
更に問題はあります。『隋書』食貨志に煬帝即位以後の記事がありますが、そこに赤土国、琉球国の記述が見えます。煬帝紀大業四年にもある【屯田主事常駿使赤土,致羅刹】の記事が食貨志にも同文でありますが、【云々...明年云々...四年】とあり、常駿遣使が二年とも受け取れそうな記述なのです。
午後7:15 · 2020年3月27日
この食貨志の記事は何か込み入った書き方になっているのか?判然としません。煬帝紀、陳稜伝、流求国伝に見える、流求を討つ話にしても、年次が定まらないのです。どうやら『隋書』だけでは確定的な年次を定めがたい部分があるのではないかと疑いたくなります。
午後7:23 · 2020年3月27日
古田氏に限らず、日本古代史に関心を持つ人達のかなりの部分は、知らずしらずのうち漢籍史料は基本的に正しいのだ!という前提を立てているように感じます。私自身もその傾向は拭えないでしょう。しかし、この一両日見た限りでも不確かさを感じずにはおられません。
午後11:09 · 2020年3月27日
『隋書』流求国伝の「俀国使」を見ましたが、そもそも『隋書』の「俀」字出現の時期を、どうしても古く捉えることに抵抗がありましたので、唐宋元代の類書等で、この箇所がどのようになっているか調べてみました。まずは唐中期801年成立の『通典』から。
午後11:14 · 2020年3月27日
次は北宋初期984年成立の『太平御覧』所引『隋書』流求から。尚、引書名として『隂書』と見えるが、もちろん『隋書』の誤。
午後11:15 · 2020年3月27日
続いて南宋紹興年間成立の『通志』から。
午後11:17 · 2020年3月27日
最後は元代1317年成立の『文献通考』から。
午後11:20 · 2020年3月27日
以上、唐、北宋、南宋、元代の4つの典籍から該当箇所の表記を見ましたが、いずれも「倭國使」です。これを古田氏風に、『隋書』のオリジナルは「俀」であり、その後引用の際に編者が「俀=倭」との理解の元、「俀」を「倭」と改変したのだ!という解釈を提出することもできるかも知れません。
午後11:24 · 2020年3月27日
しかし、『太平御覧』の引用ぶりをみると、果たしてそのように断じていいのだろうか?との疑念を持ちます。なぜなら、『太平御覧』では所引『北史』が大德刊本の「俀」ではなく、「倭」となっており、所引『後漢書』が、あろうことか「俀」とされます。
午後11:26 · 2020年3月27日
かかる現象をどう説明するか?『太平御覧』が引書上の表記をそのまま襲ったと考えるほうが、最も理に適うのではないかと思えます。すなわち、『太平御覧』の編者・李昉が見た『北史』には「倭」とあったのだ!という判断です。
午後11:29 · 2020年3月27日
そのような判断と、先に上げた唐宋元代の類書等上の表記である「倭國使」とを併せて考えるに、「俀」という表記は、『隋書』『北史』について言えば、元・大德刊本上で出現したものと考えるのが、最も合理的ではないかと思います。
午後11:32 · 2020年3月27日
つまり古田氏の言う「俀」と「倭」は別物だ!という主張には根拠に乏しいという結論が導かれてしまうのではないでしょうか?この結論と、『南史』倭国伝冒頭の【倭國其先所出及所在事詳北史】という記述は、古田氏の主張がますます理にかなわないものであることを明らかにしていると言えるでしょう。
午後11:43 · 2020年3月27日
北宋1013年成立の類書である『冊府元亀』にも同記事がありましたので追加します。もちろん「倭國使」です。
午前11:19 · 2020年3月28日
「俀」と「倭」とは別物だ!という古田氏の所論について、様々に史料を用いて探ってきましたが、この件については既に昭和50年の薮田嘉一郎氏の「「邪馬臺国」と「邪馬壹国」」という一文が明快に論断しています。その中のキモの部分を引用させていただくことにします。
午前11:21 · 2020年3月28日
『歴史と人物 昭和50年9月号』49ページです。
午前11:22 · 2020年3月28日
『隋書』に「倭」を「俀」に作る。『北史』及び『太平御覧』なども同様である。古田氏は高著『失われた九州王朝』において、この両字を区別し、「倭」「俀」を別国と解し、それにもとづいてまことに勇敢な議論を展開しておられる。
午前11:23 · 2020年3月28日
そのことは本論ではどうでもよいのだが、ただ、古田氏が「俀(たい)」は「大倭(たいわ)国」の意味であり、『後漢書』では.「臺(たい)国」と表記したと言われるので「倭」と「俀」の異同については一応の解明をしておきたいと思う。
午前11:23 · 2020年3月28日
「俀」と「倭」は古昔においては同字でもあった。「委」と「妥」は唐代以前に混用せらていた。唐の大歴九年(七七四)に顔元孫が撰した『于禄字書』は混用されている多くの文字を挙げ、その正・俗・通を弁別しているが、その中に「緌」と「綏」をならべ、混用されていることを示している。
午前11:24 · 2020年3月28日
これは糸扁に作るが、扁は問題でない。 また、大歴十一年(七七六)に張参の撰した『五経文字』巻上の「手部」に「挼」と「捼」を挙げ、巻下には「糸部」に「緌」と「綏」をならべて、その混用を示している。
午前11:25 · 2020年3月28日
さらに、北宋の大中祥符元年(一〇〇八)に『唐韻』を増補して成った『大宋重修広韻』巻二、下平声、「扌第八」に「捼」をあげ、「俗に挼に作る」とある。
このように「委」と「妥」は混用されていたので、今の場合両字を弁別することは野暮な話である。
午前11:26 · 2020年3月28日
「俀伝」は「倭伝」のことであったのである。『北史』巻九十四の「俀国」を同人が撰した『南史』巻七十九には「倭国」に作る。そして「倭国、その先の出づるところ及び在るところ、事、北史に詳なり」と書いているから、「俀」と「倭」が同語であることは疑いない。
午前11:28 · 2020年3月28日
以上です。今から約45年前のことです。尚、古田武彦氏は薮田嘉一郎氏に対する反論を、いずれかで書いていたように記憶していますが、この件についての反論であったかどうかは、今にわかには思い出せません。関心のあるむきは一読して損はないと思います。
午前11:31 · 2020年3月28日
その上で両氏いずれの言を是とすべきか?はたまたより掘り下げて調べを尽くしてゆくべきと感じるのか?またそこからの思案となるのではないでしょうか。
午前11:34 · 2020年3月28日
「漢籍電子文献」の『隋書』百済伝にこの件についての校注がありましたので拙訳を。「倭」は原(もと)「俀」に作る。按ずるに、古くは從(旁の意か)「委」と從「妥」の字は,時に以て通用す可き有り。「桵」或ひは「㮃」に作り,「緌」或ひは「綏」に作るが如し。
午前11:35 · 2020年3月28日
「俀」は是(これ)「倭」字の別體に應(あた)る。本書煬帝紀上は「倭」に作る。本卷と他處に「俀」に作るは,今一律に改め「倭」と為す。

以上です。
午後1:54 · 2020年3月29日
「妥」と「委」の混用について薮田氏の所論から、手偏、木偏、糸偏の例を引きましたが、張元済『校史隨筆』『北史』の中で、もう一つ取り上げてありましたので画像とともにご紹介します。「餒」と「餧」です。