赤土國は、扶南の別種也。南海の中に在り、水行百餘日にして都する所に達す。土色は赤多く、因りて以て號と為す。東は波羅剌國、西は婆羅娑國、南は訶羅旦國にして、北は大海に拒(あた)り、地は方數千里。其の王姓は瞿曇氏、名は利富多塞、國の近遠有るを知らず。稱(とな)ふるに其の父王位を釋(捨)て出家して道を為し、位を利富多塞に傳へ、在位すること十六年か(矣)。三妻有り、並びに鄰國王の女也。僧祗城に居り、門に三重有り、相ひ去ること各(おのお)の百許(ばかり)歩。門毎に飛仙、仙人、菩薩の像を圖畫し、金花鈴毦(ジ:羽毛の飾り、毛のように垂れ下がる総)を縣け、婦女數十人の、或ひは樂を奏で、或ひは金花を捧ぐ。又四婦人を飾り、容飾(態度・動作の美しさ)は佛塔邊の金剛力士の狀(さま)ノ如くして、門を夾(はさ)みて而して立つ。門外の者は兵仗を持ち、門内の者は白佛を執る。道を夾(はさ)みて素網(しろぎぬの網)を垂らし、花を綴る。王宮諸屋は悉く是れ重閣(チョウカク:たかどの)にして、北戸,北面して而して坐す。三重の榻(トウ:細長く低い寝台、こしかけ、長椅子)に坐す。朝霞布を衣(着)、金花の冠を冠り、雜寶瓔珞(ヨウラク:古代インドの習俗で、玉をつないだ首飾り)を垂る。四女子の立ちて侍り、左右の兵衞は百餘人。王榻の後に一木龕(神仏を安置する小箱、仏壇、神棚)を作り、金銀五香木を以て之を雜鈿(混ぜて埋め込み細工をする意か?)す。龕の後に一つの金光焰を懸(か)け、榻を夾みて又二金鏡を樹(立)て、鏡の前に金甕を並陳(並陳:並べる)し、甕の前には各の金香爐有り。當に前に一つの金伏牛を置き、牛の前に壹つの寶蓋(仏の上につるす宝玉で飾った天蓋)を樹(立)て、蓋の左右は皆寶扇有るべし。婆羅門等數百人は、東西に重行(?)し、相ひ向ひて而して坐す。其の官に薩陀迦羅一人、陀拏達义二人、迦利蜜迦三人有りて、共に政事を掌(つかさど)る;倶羅末帝一人、刑法を掌る。城毎に那邪迦一人、鉢帝十人を置く。其の俗等しく皆な耳を穿ち髮を剪り、跪拜の禮無し。香油を以て身に塗る。其の俗佛を敬ひ、尤(しか)も婆羅門を重んず。婦人は髻を項(うなじ)後に作(な)す。男女は朝霞を以て通じ、朝雲(男女の情交)するに雜色布をして衣と為す。豪富(勢力があって富むこと、人)の室(部屋、家屋)は、恣意(心をほしいままにする)華靡(カビ:美しく派手)にして、唯だ金鎖は王賜に非ざれば服用するを得ず。毎(つね)に婚嫁(=結婚)は、吉日を擇(えら)び、女家は先づ五日を期し、樂を作(な)し酒を飲み、父は女(むすめ)の手を執りて以て壻に授け、七日にして乃ち配(めあわ)す(焉)。既に娶(めと)らば則はち財を分かち居を別にするも、唯幼子は父と同居す。父母兄弟の死すれば則はち剔髮(=髪を剃る)素服(白い喪服)、水上に就きて竹木を構へ棚と為し、棚内に薪を積み、屍を以て上に置く。香を燒き幡(はた)を建て、蠡を吹き鼓を撃ち以て之を送り、火を縱(放)ち薪を焚き、遂に水に落とす。貴賤皆同じなり。唯國王の燒(火葬)訖(終)はるや、灰を收め金瓶を以て貯へ、廟屋に藏(おさ)む。冬夏常に温く、雨多く霽(晴)少く、種植(種植:草木や作物を植える)に時(季節)は無く、特に稻、穄(セイ:うるちきび)、白豆、黑麻に宜しく、自餘(自餘:その他)の物産は多く交阯に同じ。甘蔗を以て酒を作り、紫瓜根を以て雜(まじ)ふ。酒の色は黄赤にして、味は亦香美なり。亦椰漿(椰子の実液)を名づけて酒と為す。煬帝の即位するや、能く絶域に通づる者を募る。大業三年、屯田主事の常駿、虞部主事の王君政等は赤土に使ひするを請ふ。帝は大ひに悅び、(常)駿等に帛各の百匹、時服(時候に応じた衣服)一襲(上下揃いの衣服)を賜ひ、而して遣はす。齎物五千段を、以て赤土王に賜ふ。其の年十月、(常)駿等は南海郡より舟に乘り、晝(昼)夜二旬(旬は10日)、毎(つね)に便風に値(遇)ふ。焦石山に至り而して過ぎ、東南して陵伽鉢拔多洲に泊て、西は林邑と相ひ對し、上に神祠有り(焉)。又南行して、師子石に至り、是より島嶼連接す。又行くこと二三日、西に狼牙須國(マレー半島南部、Lingkasukaか?)の山を望見し、是に於て南雞籠島に達し、赤土之界に至る。其の王は婆羅門鳩摩羅を遣はし舶三十艘を以て來迎し、蠡(ひょうたん)を吹き鼓を撃ち、以て隋使に樂(音楽を奏でる)し、金鎖を進めて以て(常)駿の船を纜(つな)ぐ。月餘にして、其の都に至るや、王は其の子那邪迦を遣はし(常)駿等と禮見するを請ふ。先づ人を遣(や)りて金盤を送り、香花并(なら)びに鏡鑷(毛抜き)を貯ふること、金合(函、蓋物)二枚、香油を貯ふること、金瓶八枚、香水を貯ふること、白疊布四條、以て使者の盥洗(カンセン:客に敬意を示すために水で手を洗い、爵=さかずき=を洗う)に擬供す。其の日未だ時ならずして、那邪迦は又象二頭を將(ひき)ひ、孔雀の蓋(傘か?)を持ち以て使人を迎へ、并びに金花、金盤を致し以て詔函(詔を入れる函)に藉(敷)く。男女百人は蠡鼓を奏で、婆羅門二人は路を導きて、王宮に至る。(常)駿等は詔書を奉じて閣に上るや、王以下皆坐す。詔を宣(の)べ訖(おわ)るや、引こて(常)駿等は坐し、天竺の樂を奏づ。事畢(おわ)りて、(常)駿等の館に還るや、又婆羅門を遣はして館に就(つ)きて食を送るに、草葉を以て盤と為し、其の大ひなること方丈なり。因りて(常)駿に謂ひて曰く、「今是れ大國中人(中人:なみの力量のある人、なみの資産のある人)にして、復(ま)た赤土國に非ずや(矣)。飲食は疎薄(うとんじる、冷淡にあしらう)にして、願はくは大國の意を為して而して之を食さむと」。後數日、(常)駿等に請ひて入宴し、儀衞は初見の禮の如くに導從す。王の前に兩牀を設け、牀上に草葉盤を并設するに、方一丈五尺、上に黄白紫赤四色の餅、牛、羊、魚、鼈、猪、蝳蝐(タイマイ)の肉百餘品有り。(常)駿を延(招)きて牀(長椅子)に升(昇)らせ、從者は地席に坐し、各の金鍾を以て酒を置き、女樂は迭(繰り返し)奏し、禮遺(礼を尽くすことか?)甚だ厚し。尋遣(尋遣:訪れ遣わす)の那邪迦は(常)駿に隨(従)ひて方物を貢じ、并(なら)びに金芙蓉冠、龍腦香を獻ず。鑄金を以て多羅葉と為し、隱起成文(?)して以て表と為し、金函之を封じ、婆羅門をして香花を以て蠡鼓を奏で而して之を送らしむ。既に入海し、綠魚の水上を羣飛するを見る。海に浮ぶこと十餘日、林邑の東南に至り、山に並んで而して行く。其の海水の闊(広)きこと千餘歩にして、色は黄、氣(匂い)は腥(生臭い)なること、舟行一日にしても絶へず、是を云ひて大魚の糞也と。海に循ひ、岸を北するに、交阯に達す。(常)駿は以て六年春那邪迦と弘農に於ひて謁し、帝は大ひに悅び、(常)駿等に物二百段を賜ひ、倶(とも)に秉義尉を授け、那邪迦等の官の賞は各の差有り。
※2022/6/30 読み下し文の送り仮名表記をかなに変更。
久しぶりです。私も当初は、metabonohigesanのご指摘通り、「海の北岸に循(したがい)交阯于(に)達ス」と読んでみたのだが、ベトナム沿岸を北上するのに、トンキン湾に近い部分のみ適合すると思える「海の北岸」という表現に若干の違和感を感じたので、「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」と変えた。ただ、私の「海ニ循(したが)ヒ」という読みでは、意味が曖昧になるかとも思うので、metabonohigesanの解釈を是とする意味を込めて引用させて頂くことにした。
少し気になったので
> 大業三年十月、常駿等は海路より赤土國へ向かい、その六年帰還している。その帰路中の次の文だ。
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> 【循海北岸,達于交阯】
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> 読み下せば、「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」で良いだろう。常駿等はベトナム沖を北上し、交阯(今のハノイ付近)に達したという。もちろん、これは実際に常駿らの帰還路中の経路に他ならない。
「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」 これでは、陸路波打ち際を進むことになる。
循海北岸,達于交阯 海の北岸に循(したがい)交阯于(に)達ス これで意味が通じます。
海北岸とするのは、岸が、湖や川の岸ではなく海の岸であることを示しているだけです。