『隋書』列傳第四十七 南蠻 赤土國

〈原文〉

赤土國,扶南之別種也。在南海中,水行百餘日而達所都。土色多赤,因以為號。東波羅剌國,西婆羅娑國,南訶羅旦國,北拒大海,地方數千里。其王姓瞿曇氏,名利富多塞,不知有國近遠。稱其父釋王位出家為道,傳位於利富多塞,在位十六年矣。有三妻,並鄰國王之女也。居僧祗城,有門三重,相去各百許歩。毎門圖畫飛仙、仙人、菩薩之像,縣金花鈴毦,婦女數十人,或奏樂,或捧金花。又飾四婦人,容飾如佛塔邊金剛力士之狀,夾門而立。門外者持兵仗,門内者執白佛。夾道垂素網,綴花。王宮諸屋悉是重閣,北戸,北面而坐。坐三重之榻。衣朝霞布,冠金花冠,垂雜寶瓔珞。四女子立侍,左右兵衞百餘人。王榻後作一木龕,以金銀五香木雜鈿之。龕後懸一金光焰,夾榻又樹二金鏡,鏡前並陳金甕,甕前各有金香爐。當前置一金伏牛,牛前樹壹寶蓋,蓋左右皆有寶扇。婆羅門等數百人,東西重行,相向而坐。其官有薩陀迦羅一人,陀拏達义二人,迦利蜜迦三人,共掌政事;倶羅末帝一人,掌刑法。毎城置那邪迦一人,鉢帝十人。其俗等皆穿耳剪髮,無跪拜之禮。以香油塗身。其俗敬佛,尤重婆羅門。婦人作髻於項後。男女通以朝霞、朝雲雜色布為衣。豪富之室,恣意華靡,唯金鎖非王賜不得服用。毎婚嫁,擇吉日,女家先期五日,作樂飲酒,父執女手以授壻,七日乃配焉。既娶則分財別居,唯幼子與父同居。父母兄弟死則剔髮素服,就水上構竹木為棚,棚内積薪,以屍置上。燒香建幡,吹蠡撃鼓以送之,縱火焚薪,遂落於水。貴賤皆同。唯國王燒訖,收灰貯以金瓶,藏於廟屋。冬夏常温,雨多霽少,種植無時,特宜稻、穄、白豆、黑麻,自餘物産多同於交阯。以甘蔗作酒,雜以紫瓜根。酒色黄赤,味亦香美。亦名椰漿為酒。煬帝即位,募能通絶域者。大業三年,屯田主事常駿、虞部主事王君政等請使赤土。帝大悅,賜駿等帛各百匹,時服一襲而遣。齎物五千段,以賜赤土王。其年十月,駿等自南海郡乘舟,晝夜二旬,毎値便風。至焦石山而過,東南泊陵伽鉢拔多洲,西與林邑相對,上有神祠焉。又南行,至師子石,自是島嶼連接。又行二三日,西望見狼牙須國之山,於是南達雞籠島,至於赤土之界。其王遣婆羅門鳩摩羅以舶三十艘來迎,吹蠡撃鼓,以樂隋使,進金鎖以纜駿船。月餘,至其都,王遣其子那邪迦請與駿等禮見。先遣人送金盤,貯香花并鏡鑷,金合二枚,貯香油,金瓶八枚,貯香水,白疊布四條,以擬供使者盥洗。其日未時,那邪迦又將象二頭,持孔雀蓋以迎使人,并致金花、金盤以藉詔函。男女百人奏蠡鼓,婆羅門二人導路,至王宮。駿等奉詔書上閣,王以下皆坐。宣詔訖,引駿等坐,奏天竺樂。事畢,駿等還館,又遣婆羅門就館送食,以草葉為盤,其大方丈。因謂駿曰:「今是大國中人,非復赤土國矣。飲食疎薄,願為大國意而食之。」後數日,請駿等入宴,儀衞導從如初見之禮。王前設兩牀,牀上并設草葉盤,方一丈五尺,上有黄白紫赤四色之餅,牛、羊、魚、鼈、猪、蝳蝐之肉百餘品。延駿升牀,從者坐於地席,各以金鍾置酒,女樂迭奏,禮遺甚厚。尋遣那邪迦隨駿貢方物,并獻金芙蓉冠、龍腦香。以鑄金為多羅葉,隱起成文以為表,金函封之,令婆羅門以香花奏蠡鼓而送之。既入海,見綠魚羣飛水上。浮海十餘日,至林邑東南,並山而行。其海水闊千餘歩,色黄氣腥,舟行一日不絶,云是大魚糞也。循海北岸,達于交阯。駿以六年春與那邪迦於弘農謁,帝大悅,賜駿等物二百段,倶授秉義尉,那邪迦等官賞各有差。
※「漢籍電子文献」による
【毎?便風】の「?」は「値」。修。

〈書き下し〉

赤土國は、扶南の別種也。南海の中に在り、水行百餘日にして都する所に達す。土色は赤多く、因りて以て號と為す。東は波羅剌國、西は婆羅娑國、南は訶羅旦國にして、北は大海に拒(あた)り、地は方數千里。其の王姓は瞿曇氏、名は利富多塞、國の近遠有るを知らず。稱(とな)ふるに其の父王位を釋(捨)て出家して道を為し、位を利富多塞に傳へ、在位すること十六年か(矣)。三妻有り、並びに鄰國王の女也。僧祗城に居り、門に三重有り、相ひ去ること各(おのお)の百許(ばかり)歩。門毎に飛仙、仙人、菩薩の像を圖畫し、金花鈴毦(ジ:羽毛の飾り、毛のように垂れ下がる総)を縣け、婦女數十人の、或ひは樂を奏で、或ひは金花を捧ぐ。又四婦人を飾り、容飾(態度・動作の美しさ)は佛塔邊の金剛力士の狀(さま)ノ如くして、門を夾(はさ)みて而して立つ。門外の者は兵仗を持ち、門内の者は白佛を執る。道を夾(はさ)みて素網(しろぎぬの網)を垂らし、花を綴る。王宮諸屋は悉く是れ重閣(チョウカク:たかどの)にして、北戸,北面して而して坐す。三重の榻(トウ:細長く低い寝台、こしかけ、長椅子)に坐す。朝霞布を衣(着)、金花の冠を冠り、雜寶瓔珞(ヨウラク:古代インドの習俗で、玉をつないだ首飾り)を垂る。四女子の立ちて侍り、左右の兵衞は百餘人。王榻の後に一木龕(神仏を安置する小箱、仏壇、神棚)を作り、金銀五香木を以て之を雜鈿(混ぜて埋め込み細工をする意か?)す。龕の後に一つの金光焰を懸(か)け、榻を夾みて又二金鏡を樹(立)て、鏡の前に金甕を並陳(並陳:並べる)し、甕の前には各の金香爐有り。當に前に一つの金伏牛を置き、牛の前に壹つの寶蓋(仏の上につるす宝玉で飾った天蓋)を樹(立)て、蓋の左右は皆寶扇有るべし。婆羅門等數百人は、東西に重行(?)し、相ひ向ひて而して坐す。其の官に薩陀迦羅一人、陀拏達义二人、迦利蜜迦三人有りて、共に政事を掌(つかさど)る;倶羅末帝一人、刑法を掌る。城毎に那邪迦一人、鉢帝十人を置く。其の俗等しく皆な耳を穿ち髮を剪り、跪拜の禮無し。香油を以て身に塗る。其の俗佛を敬ひ、尤(しか)も婆羅門を重んず。婦人は髻を項(うなじ)後に作(な)す。男女は朝霞を以て通じ、朝雲(男女の情交)するに雜色布をして衣と為す。豪富(勢力があって富むこと、人)の室(部屋、家屋)は、恣意(心をほしいままにする)華靡(カビ:美しく派手)にして、唯だ金鎖は王賜に非ざれば服用するを得ず。毎(つね)に婚嫁(=結婚)は、吉日を擇(えら)び、女家は先づ五日を期し、樂を作(な)し酒を飲み、父は女(むすめ)の手を執りて以て壻に授け、七日にして乃ち配(めあわ)す(焉)。既に娶(めと)らば則はち財を分かち居を別にするも、唯幼子は父と同居す。父母兄弟の死すれば則はち剔髮(=髪を剃る)素服(白い喪服)、水上に就きて竹木を構へ棚と為し、棚内に薪を積み、屍を以て上に置く。香を燒き幡(はた)を建て、蠡を吹き鼓を撃ち以て之を送り、火を縱(放)ち薪を焚き、遂に水に落とす。貴賤皆同じなり。唯國王の燒(火葬)訖(終)はるや、灰を收め金瓶を以て貯へ、廟屋に藏(おさ)む。冬夏常に温く、雨多く霽(晴)少く、種植(種植:草木や作物を植える)に時(季節)は無く、特に稻、穄(セイ:うるちきび)、白豆、黑麻に宜しく、自餘(自餘:その他)の物産は多く交阯に同じ。甘蔗を以て酒を作り、紫瓜根を以て雜(まじ)ふ。酒の色は黄赤にして、味は亦香美なり。亦椰漿(椰子の実液)を名づけて酒と為す。煬帝の即位するや、能く絶域に通づる者を募る。大業三年、屯田主事の常駿、虞部主事の王君政等は赤土に使ひするを請ふ。帝は大ひに悅び、(常)駿等に帛各の百匹、時服(時候に応じた衣服)一襲(上下揃いの衣服)を賜ひ、而して遣はす。齎物五千段を、以て赤土王に賜ふ。其の年十月、(常)駿等は南海郡より舟に乘り、晝(昼)夜二旬(旬は10日)、毎(つね)に便風に値(遇)ふ。焦石山に至り而して過ぎ、東南して陵伽鉢拔多洲に泊て、西は林邑と相ひ對し、上に神祠有り(焉)。又南行して、師子石に至り、是より島嶼連接す。又行くこと二三日、西に狼牙須國(マレー半島南部、Lingkasukaか?)の山を望見し、是に於て南雞籠島に達し、赤土之界に至る。其の王は婆羅門鳩摩羅を遣はし舶三十艘を以て來迎し、蠡(ひょうたん)を吹き鼓を撃ち、以て隋使に樂(音楽を奏でる)し、金鎖を進めて以て(常)駿の船を纜(つな)ぐ。月餘にして、其の都に至るや、王は其の子那邪迦を遣はし(常)駿等と禮見するを請ふ。先づ人を遣(や)りて金盤を送り、香花并(なら)びに鏡鑷(毛抜き)を貯ふること、金合(函、蓋物)二枚、香油を貯ふること、金瓶八枚、香水を貯ふること、白疊布四條、以て使者の盥洗(カンセン:客に敬意を示すために水で手を洗い、爵=さかずき=を洗う)に擬供す。其の日未だ時ならずして、那邪迦は又象二頭を將(ひき)ひ、孔雀の蓋(傘か?)を持ち以て使人を迎へ、并びに金花、金盤を致し以て詔函(詔を入れる函)に藉(敷)く。男女百人は蠡鼓を奏で、婆羅門二人は路を導きて、王宮に至る。(常)駿等は詔書を奉じて閣に上るや、王以下皆坐す。詔を宣(の)べ訖(おわ)るや、引こて(常)駿等は坐し、天竺の樂を奏づ。事畢(おわ)りて、(常)駿等の館に還るや、又婆羅門を遣はして館に就(つ)きて食を送るに、草葉を以て盤と為し、其の大ひなること方丈なり。因りて(常)駿に謂ひて曰く、「今是れ大國中人(中人:なみの力量のある人、なみの資産のある人)にして、復(ま)た赤土國に非ずや(矣)。飲食は疎薄(うとんじる、冷淡にあしらう)にして、願はくは大國の意を為して而して之を食さむと」。後數日、(常)駿等に請ひて入宴し、儀衞は初見の禮の如くに導從す。王の前に兩牀を設け、牀上に草葉盤を并設するに、方一丈五尺、上に黄白紫赤四色の餅、牛、羊、魚、鼈、猪、蝳蝐(タイマイ)の肉百餘品有り。(常)駿を延(招)きて牀(長椅子)に升(昇)らせ、從者は地席に坐し、各の金鍾を以て酒を置き、女樂は迭(繰り返し)奏し、禮遺(礼を尽くすことか?)甚だ厚し。尋遣(尋遣:訪れ遣わす)の那邪迦は(常)駿に隨(従)ひて方物を貢じ、并(なら)びに金芙蓉冠、龍腦香を獻ず。鑄金を以て多羅葉と為し、隱起成文(?)して以て表と為し、金函之を封じ、婆羅門をして香花を以て蠡鼓を奏で而して之を送らしむ。既に入海し、綠魚の水上を羣飛するを見る。海に浮ぶこと十餘日、林邑の東南に至り、山に並んで而して行く。其の海水の闊(広)きこと千餘歩にして、色は黄、氣(匂い)は腥(生臭い)なること、舟行一日にしても絶へず、是を云ひて大魚の糞也と。海に循ひ、岸を北するに、交阯に達す。(常)駿は以て六年春那邪迦と弘農に於ひて謁し、帝は大ひに悅び、(常)駿等に物二百段を賜ひ、倶(とも)に秉義尉を授け、那邪迦等の官の賞は各の差有り。
※2022/6/30 読み下し文の送り仮名表記をかなに変更。


〈百衲本二十四史『隋書』「赤土國傳」書影〉


2016/6/1 附注)

Yahoo! TEXTREAM「最近の「反・九州王朝説」くんたちは、まったくレベルが低い」No.3879に於て、metabonohigesanより次のような指摘があったので賛意を以て掲示しておく。
久しぶりです。
少し気になったので

> 大業三年十月、常駿等は海路より赤土國へ向かい、その六年帰還している。その帰路中の次の文だ。
>
> 【循海北岸,達于交阯】
>
> 読み下せば、「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」で良いだろう。常駿等はベトナム沖を北上し、交阯(今のハノイ付近)に達したという。もちろん、これは実際に常駿らの帰還路中の経路に他ならない。

「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」 これでは、陸路波打ち際を進むことになる。

循海北岸,達于交阯 海の北岸に循(したがい)交阯于(に)達ス これで意味が通じます。
海北岸とするのは、岸が、湖や川の岸ではなく海の岸であることを示しているだけです。
私も当初は、metabonohigesanのご指摘通り、「海の北岸に循(したがい)交阯于(に)達ス」と読んでみたのだが、ベトナム沿岸を北上するのに、トンキン湾に近い部分のみ適合すると思える「海の北岸」という表現に若干の違和感を感じたので、「海ニ循(したが)ヒ、岸ヲ北スルニ、交阯于(に)達ス」と変えた。ただ、私の「海ニ循(したが)ヒ」という読みでは、意味が曖昧になるかとも思うので、metabonohigesanの解釈を是とする意味を込めて引用させて頂くことにした。