「臺」が正しい理由

ⅰ   3世紀末、陳寿によって『三国志』が著わされて以降、11世紀初頭『三国志』刊行までの間に多くの書物にそれは引用・参照されて来たが、「邪馬壹」「壹與」とするものは、ただ一つの例外『太平御覧』(984成立)「珍宝部」の「壹與」を除いて出現しない。

ⅱ   11世紀に到るまで流布していた『三国志』に「邪馬壹」「壹與」とあり、後代の文献がこぞってそれを「邪馬臺」「臺與」と書き改めたと考えるより、流布していた『三国志』には「邪馬臺」「臺與」とあり、諸書はみな、それをそのまま引き写したとみる方が容易に理解しうる。

ⅲ   北宋代、諸書の刊行が盛んになった折り、刊刻のテキストとして集められた『三国志』は「臺」と「壹」が類似した字体で書かれてあり、実際に刊刻に当たって、それが正されることなく刊行された。

ⅳ   それでは実際に「臺」と「壹」の誤は発生しているのであろうか。多くはないが、例を挙げることが出来る。
ⅰ)「如壹」・・・『宋書』「五行志人痾」
  「如臺」・・・『晋書』「五行志人痾」

ⅱ)「太壹宮」・・・『漢書』巻十五「江充伝」
  「太臺宮」・・・『太平御覧』巻一百七十三「居所部一」

ⅲ)「魏臺訪議」・・・『史記』「凶奴列伝」注文
  「魏壹訪議」・・・百衲本『史記』「凶奴列伝」注文

ⅳ)「沙壹」・・・『後漢書』「西南夷哀牢伝」
  「沙臺」・・・『水経注』(『後漢書集解』同上注)       
  「沙壺」・・・『華陽国志』(同上)

※このほかに、『呉志』「孫賁伝」に注する『三国志集解』では、  
ⅴ)「孫聖壹」は兄弟の名前に「臺」を持つことから「孫聖臺」の誤ではないかとする郝經『續後漢書』がある。
ⅴ  最後に『太平御覧』「珍宝部」に見える「壹與」について考えてみる。
    『太平御覧』のような類書にはいくつかのスタイルがあり、法制的なもの(『通典』など)、博物誌的なもの(『修文殿御覧』?)、通史的なもの、地誌的なもの(『太平寰宇記』など)、参考書的なもの(『藝文類聚』『初学記』など)がある。『太平御覧』はそれらを輯合したものだが、博物誌的な部分である「珍宝部」と、夷蛮伝的な部分である「四夷部」とでは、その出自を異にするのではないかと考えられる。「四夷部」には『舊唐書』が引かれていることからも、『太平御覧』成立直前の挿入であろう。一方の「珍宝部」は恐らく先行類書類の排列を襲ったものであろうから、その「壹與」と「四夷伝」の「臺舉」とはソースが違う可能性が大である。
    この推測を傍証するのは『冊府元亀』「朝貢」に見える「一與」である。『冊府元亀』「継襲」が『梁書』を引いて「臺與」とそのまま踏襲しているのに比しての「一與」である。これもまた、先行類書の排列と記事とに倣って編纂したための表記の不整合かと思われる。
    恐らくは『太平御覧』の藍本となった先行類書の書写中の誤伝かと考えられる。

ⅵ  以上のごとく、『魏志』「倭人伝」に見られる「臺と壹の誤」は、現行刊本に先行し、『魏志』を引用・参照した後代史書によって比較的容易に校勘しうるケースであり、かつて内藤湖南が「卑弥呼考」の中で「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり」と簡明に論じたとおり、異論を挟む余地極めて少ない例である。

ⅶ  なお、上記概説についての詳細は古代史トピに書き込んだものを集めた下記ページ参照のこと。
   a)「臺」と「壹」について
   b)「古本三国志」について
   c)「三国志」版本について


   ※2020/11/10 >『三国志集解』上の誤である『續漢書』を『續後漢書』へ訂正。
   ※2020/11/14 「魏志と他書の時系列モデル図」をUp。
   ※2024/2/3 「魏志と他書の時系列モデル図」の梁書、北史修正後の画像Up。