丸山晋司氏の私年号考察と古田氏の姿勢にかかるツイート集成

2015年10月19日 午前11:01から2015年10月26日午後3:01まで

在野の日本古代史研究者である丸山晋司氏が特に逸年号、私年号について造詣の深いことは、古代史研究者の間では既によく知られていることかと思うが、それは当サイトに公開した以下2頁を見ていただいても容易に理解できることと言えよう。
丸山晋司氏の私年号に関するツイート集成
丸山晋司「40年目の再検討」
たまたまこの私年号について古田氏の当時の姿勢が窺える丸山氏の連投ツイートが目に止まったので採集し、氏の許諾を得て公開することとした。当ページを読むについては上記2頁を注記も含めて併読していただければ幸いである。尚、2020年3月24日の関連ツイート3本も末尾に付加した。
古田氏の説いてたことで印象に残っているのは、文化が外からやってきたということだけでなく、列島の古代文化がどこへ行ったかも考えようということだった。
2015年10月19日 11:01

@newsplusmin
玄界灘をまたぐ倭国という発想も魅力的だった。(韓半島南部の倭国は、好太王あたりの高句麗に追い出された? あるいはもっと後?)
2015年10月19日 11:11

@newsplusmin
神話を史実の反映と考えるのも面白かった。いくら荒唐無稽な神話であってもだ。
神話学の基本だろうと思うのに、日本の神話だけは、皇国史観だとか言って忌み嫌われているのを、考え直す動機づけとなった。
2015年10月19日 12:09

大阪市外国人教育協議会のえらいさん(昔)に、新羅の初代王は倭人だったと『三国史記』に書いてあるよと言ったら、「どうせ神話でしょ」みたいなことを事もなげに言われたのを思い出す。
そうだけども、あんたら、さんざ『三国史記』で歴史を説いているでしょと思ったものだった。
2015年10月19日 12:43

@nemurikappa
『三国史記』の歴史部分で、人質となっていた倭国の王子が新羅から逃げ出すのだが、すぐ倭国に逃げ込んでしまう。
これなども倭国が韓半島南部にあったとしか考えられない、というのが古田説だった。
2015年10月19日 12:52

@nemurikappa
日本の朝鮮古代史研究者は、不思議とその辺には触れないとの印象をもっている。
また、12、3世紀成立の『三国史記』を基本に据えて、その視点から『日本書紀』をこき下ろすこともあるという印象だ。『書紀』の記述は皇国史観だからしょうがないとでも言うのか。
2015年10月19日 14:17

@nemurikappa
反面、戦前からの朝鮮史研究者は、『日本書紀』を基点に据えているという印象。
印象という言葉を連発するのは、茫漠とした頭で書いているからです。
2015年10月19日 14:21

@nemurikappa
古田武彦氏にしても『三国史記』編者が明らかに『旧唐書』を誤読したものを根拠にして、論を立てていることがあった。
「白村江戦」が、龍策三年か二年かというやつである。古田氏が主張していた、とりあえずは古い文献を尊重しよう、というのは自己都合で捨てられた。
2015年10月19日 14:37

@nemurikappa
くわしく書くと、後代文献に前代のと違う主張が現れたら、新しい別の史料があったに違いないという。
証拠がなくとも「無いとは言えない」万能の論理である。歴史学の論争では似たようなことがあちこちにありそう。
古田氏は、この論理をどこまでも使うことになっていく。
2015年10月19日 15:17

@nemurikappa
もっと詳しく書くと、『旧唐書』にも「白村江戦」を龍策二年と誤読させる要素はある(『三国史記』編者のように)。煩雑にならない時に、何故三年でなければならないのかを書くつもり。
要するに古田氏は、『日本書紀』龍策三年と違う暦のあったことを主張したかったのだ。
2015年10月19日 16:28

@nemurikappa
邪馬台国は、実は「邪馬壱国」だったというのは、一番古い文献を尊重したに過ぎない。『三國志』(これは中国文献)より新しい『後漢書』に「邪馬臺国」とあり、通説の邪馬台国の根拠となっているが、古田氏の龍策二年のように、確固とした史料があったはずとするのみ。
2015年10月19日 17:38

@nemurikappa
そして、九州王朝説の根拠となる『旧唐書』の「倭国」「日本国」(七世紀の話)。日本列島内に二つの国があったというのだ。『唐会要』という辞典?にも書かれ、そうした地図も作られている。
これを通説側は中国文献のええ加減さの証明とする。
古田氏はトンデモ?
2015年10月19日 19:00

@nemurikappa
より古い文献が尊重されるべきなら、『旧唐書』よりずっと古い『日本書紀』の一国王朝説が尊重されるべきだが、こう考える。
八世紀になって近畿王朝が九州王朝を併呑した。そして、近畿王朝が古来から日本列島を統治してたように歴史書を編纂する。現代の南北朝鮮のよう。
2015年10月19日 19:27

@nemurikappa
かくて、わたしたち古田説支持者は、古田氏が『日本書紀』などの文献のここに九州王朝の片鱗が見られる、考古学的にもこう、中国文献でもこう、との「研究成果」を心待ちにし、自分たちでも見つけてみようと「研究」することとなった。その時は、なんと幸せであったことか!
2015年10月19日 19:36

@nemurikappa
わたしたちの「研究」は、初期段階では「文献渉猟」に過ぎなかった。何か九州王朝説に有利そうな論文や文書を見つけたら、文章にしてみたり、古田氏に報告してみたり、氏が喜んでいる姿を見たかったのだ。それもやがては独自解釈に進んだりして、ある意味トンデモの世界に。
2015年10月19日 21:05

@nemurikappa
それでも、古田氏も案外原文を尊重していないのだなあとか、文書の淵源をたどっていないのだなあと気がつくことがあった。
あるいは氏の座右の銘というのが本居宣長の「師の説になづみそ(師の説を真似してはならない)」だったが、批判されると機嫌が悪くなったりした。
2015年10月19日 21:16

@nemurikappa
師の説に、な、なづみそ
2015年10月20日 01:39

@nemurikappa
『旧唐書』以外でも、中国文献では、倭国は九州ではないかと思わせるものが多い。しかし、九州王朝が存在したのではないかと素人愛好家に思わせた最大のものは、「九州年号」と呼ばれた不思議な31個の年号群の存在ではあるまいか。以下、敷延しておきたい。
2015年10月20日 15:03

@nemurikappa
①520年頃に始まり、700
年に終わる31、2個の年号群があった。②日本の正史に登場しない年号群である。③有名な「大化」年号とは別のものである。④通説では、中世の僧侶などが創った偽年号と云われていた。⑤江戸時代中期あたりに「西国年号」「九州年号」と
2015年10月20日 21:25

@nemurikappa
紹介する文人がいた。⑥これらの年号は、確かに神社仏閣の縁起書に書かれていることが多かったが、統計的に九州に多く残っているという調査はまだない。⑦東限は会津辺りか。⑧江戸初期辺りから「和漢年代記」(教科書に載っているような縦書き年表)が流行り出すが、
2015年10月20日 21:44

@nemurikappa
その中に採り入れる著者もいた。⑨『和漢年代記』などの淵源は古く、鎌倉中期には写本の形で出回っており、そこでもこの年号群を採用したのもある。寺院で作られたと思われる。(⑧の年代記はそれを商売にしたものか) 10飛び抜けて古い物に鎌倉初期の辞典(『二中歴』)
2015年10月20日 22:04

@nemurikappa
がある。今のところ、これらの年号群を「群」として紹介する文献としては、この『二中歴』が一番古い。神社仏閣で散見される個別の年号で、これより古いものがあるのかどうかはまだ分からない。
2015年10月20日 22:16

@nemurikappa
『和漢年代記』は、例えば「常色二年」に誰某がこういうことをしたとかを書き綴った歴史年表で、『二中歴』は、こんな年号群があったよと紹介するだけのものです。
2015年10月20日 22:28

@nemurikappa
なんか、こういう風にまとめていてアホラシなってきた。これを古代にまで遡る年号だなんて誰が信ずるのだろう。
でも、わたしたちは古代の年号だと信じたのです。
何故信じたのか。多分、通説側がうまく説明しきれていなかったから。中世の僧侶が創ったなんて、何のため?
2015年10月20日 22:42

@nemurikappa
何故、古いとされる31の年号を実在のものと信じてしまったのか。
それは古田武彦氏のような人物が江戸中期にもいたからでした。その人の名は、鶴峯戊申。彼は古代九州の襲の国が朝廷を偽って中国と交通していたとの説を掲げ、『九州年号』という古写本があり、これは
2015年10月20日 23:16

@nemurikappa
襲の国の年号だとした訳ですね。
わたしは今は、いろんな理由で、鶴峯が古写本があったという嘘をついたと思っています。が、とにかく訳の分からない年号ですし、むげに否定できないと思った訳です。
この辺を歴史学の訓練を受けたものならどう考えるのか。
2015年10月20日 23:33

@nemurikappa
今まで、記憶に頼って間違ったことを撒き散らして来たかもしれない。ここで一つの史料を紹介しておきたい。貝原益軒の『続和漢名数』(1695年、現代の名数辞典にあたる?)である。
「日本偽年号」善記(継体天皇十六年。始建年号。為善記。海東諸国記作善化)[略]
2015年10月21日 13:40

@nemurikappa
殷倒(同廿五年辛亥改元。海東諸国記作發倒。)等々とあり、「白雉」「朱雀」「大和」「大長」などを列挙した挙げ句、此偽年号浮屠所妄作。・・・海東諸国記悉挙此年号。以為実有此号。可嘆哉。と、僧侶が妄作したものなのに『海東諸国記』(李氏朝鮮の日本見聞記)などが、
2015年10月21日 13:58

@nemurikappa
本物と思っている、と不満を漏らしている。
江戸初期の貝原益軒が「浮屠妄作」と決めつけているものは、先に紹介した中世からの寺社縁起やら『和漢年代記』の年号なのだ。
2015年10月21日 14:14

@nemurikappa
あるいは、江戸初期の寺社縁起や印刷『和漢年代記』等にこれらの年号を、更に採り入れる動きがあり、益軒はその動きに警鐘を鳴らしたのかも知れない。(想像)
2015年10月21日 14:26

@nemurikappa
鶴峯戊申の『襲国偽僭考』の「九州年号」部分は、『続和漢名数』の「日本偽年号」部分をそっくり裏返しただけのものである。これに、また別の『和漢年契』という書物の「年号」部分をくっつけている。
こういうのがお好きな方は、是非、図書館で両書を比較して見てほしい。
2015年10月21日 14:35

@nemurikappa
さて、古田武彦氏であるが、古写本『九州年号』というものがあったと信じてしまった。信じて探求し、その結果真実が分かったということもあり得るのだから、信ずることに問題はない。ただ、確かにそれ以上の探求をしなかったのである。
2015年10月21日 14:49

@nemurikappa
その後の古田武彦支持者の間で、明治期の論文や辞典の中に古写本『九州年号』の言葉が見られ、別の流れで存在を確認できたに違いない等の論説があるようだが、わたしに言わせれば、『襲国偽僭考』の孫引きに決まっている。明治期や江戸期の書物は、孫引きや剽窃の嵐だ。
2015年10月21日 16:21

@nemurikappa
大体、存在が証明されていない古写本を基に、あの年号群を「九州年号」と呼称するとは何事か。
それで、古代逸年号という呼称を提唱したりもしたのだが、「逸年号」という言葉自体に「実在した」という意味が含まれるとか批判されたりして。
2015年10月21日 18:39

@nemurikappa
『和漢年代記』系統の年号群を紹介しておく。善記522・正和・教到・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・知僧・金光・賢称・鏡常・勝照・端政・吉貴・願転・光充・定居・倭景縄・仁王・聖徳・僧要・命長640・常色647・白雉652・白鳳661・朱雀684
2015年10月21日 21:58

@nemurikappa
大化686・大長692。そして、正史の大宝700
へ。
『二中歴』系統。継体*・善記→→→師安・和僧*・金光・賢称・鏡当*・勝照・端政・告貴*・願転・光元*・定居・倭京*・仁王・ナシ*(聖徳が現れない)・僧要→→→朱雀・朱鳥*686・大化*695。大宝
2015年10月21日 22:24

@nemurikappa
数字は西暦。「*」印は、『和漢年代記』と異なっているところ。「→」印は、『和漢年代記』と異なっていないので、飛ばした。
『二中歴』は、『海東諸国記』→『続和漢名数』→『襲国偽僭考』に影響を与えるが、『和漢年代記』系統に影響を与えることはない。
2015年10月21日 22:36

@nemurikappa
20年目にして気づいたが、『二中歴』は学者だけのものだったんだ。
それとは別に、何だか知らんけどあの年号群を実用的に用いていた神社仏閣。
2015年10月22日 03:08

@nemurikappa
流行りだから、縁起書に書き込んでいたのだろうか。年表に彩りをつけていたのだろうか。

分からん!

30もの年号を、一体、誰が創ったん?

あの頃、古代に実在したと考える方が、確かに楽だった。
2015年10月22日 03:18

@nemurikappa
継体元年は、517年。
2015年10月22日 03:31

@nemurikappa
『海東諸国記』と『和漢年代記』『二中歴』との年号比較。
ナシ517*・善化+・正和・發倒+・僧聴・同要+・貴楽・結清+・兄弟・蔵和・師安・和僧-・金光・賢接+・鏡当-・勝照・端政・従貴+・煩転+・光元-・定居・倭京-・仁王・聖徳*・僧要→→→朱雀684・
2015年10月22日 10:16

@nemurikappa
朱鳥686-・大和695#・大長698+
「*」印は『和漢年代記』と一致する。「-」印は『二中歴』と一致する。「#」印は微妙に『二中歴』と一致する。「+」印は両者とも一致しない。
2015年10月22日 11:19

@nemurikappa
『海東諸国紀』は、「李氏朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417-75)が、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の実情を克明に記した書(1471)。当時、李朝の外交担当官が常に座右においたといわれ、日本・琉球が朝鮮人からどのように
2015年10月23日 21:00

@nemurikappa
理解され、どのように応接されてきたかを知ることのできる貴重な文献である。」(岩波文庫『海東諸国紀』表紙説明文)
この中の「天皇代序」では各天皇の事跡に「古代年号群」を絡ませて説明している。
李氏朝鮮側に「古代年号群」を教えたのは、日本側のどんな人物か。
2015年10月23日 21:14

@nemurikappa
例えば、「孝徳天皇。皇極天皇の同母弟なり。元年は乙巳。(命長を用う)三年丁未常色と改元す。・・・六年壬子白雉と改元す。在位十年、寿三十九。」のごとくである。歴史学にしろ、文献学にしろ、どの辺りの人物が伝えたのか、興味をもって調べてもよいのではないか。
2015年10月23日 21:31

@nemurikappa
あるいは、日本にはこんなに古くから連続した年号があったのだぞと、朝鮮側に誇示したいようなことがあったのかも知れない。
ずっと上に挙げた年号比較では、『二中歴』の朱鳥686大化695と『海東諸国紀』朱鳥686大和695が、特徴ある一致と考えられる。その他の
2015年10月23日 21:48

@nemurikappa
年号の不一致は、書写段階での脱落、誤写が考えられるだけだが、朱鳥、大化(大和)に関しては、年号を群として持つ史料としては、特記すべきと思う。
この「年号を群として持つ史料」という言い方は、後々に「群として持たない史料」と区別するためです。
2015年10月23日 22:43

@nemurikappa
ちょっと方向性に迷いが出てきた。
要するに、古田氏は外国の文献であることをもって『海東諸国記(紀)』を「九州年号」史料として重要視していたのだが、ある日突然、年号群史料としていちばん古い『二中歴』を特筆し出すのだ。それには次のような理由があったはずだ。
2015年10月25日 12:42

@nemurikappa
古い年号群史料なら、氏が『失われた九州王朝』を著した時点で久保常晴『日本私年号の研究』を読んでいたのだから、その存在を知っていたはずである。「会」の中で活発化してきた年号論議に刺激され、『二中歴』を見直した結果、その中に「正史」に見られない記述が年号に
2015年10月25日 13:10

@nemurikappa
絡んで書かれていた。
これこそが、古田氏がこの史料に注目した理由と思われる。一見して「正史」に見られない記述があるからとて、だからそれは「九州王朝」に関する記述とはならない。何かその辺が古田氏や氏の支持者に見られる、いわばご都合主義と言えるものだろう。
2015年10月26日 15:01

『続和漢名数』巻二。「日本偽年号」項は上へスライドして28コマをプッシュすればよい。 https://t.co/DR3NHPCKQs
2020年3月24日 18:04

今は、ネットで探せるようである。https://twitter.com/nemurikappa/status/1242376721422114816?s=09
是非、『続和漢名数』の漢文と『襲国偽僭考』の読み下し文を比較して頂きたい。
2020年3月24日 18:15

上で分岐。
2020年3月24日 18:38