丸山晋司氏の私年号に関するツイート集成

2017年2月4日から2022年5月22日まで

本邦正史に記載されない古代年号群は一般に逸年号、私年号(総括的には私年号の語をここでは用いる)と称され、古田氏はこれらを鶴峯戊申『襲国偽僭考』中に記される九州年号(以下、古田氏と絡めてこれを述べる場合は九州年号と称する)という語を用いているが、これらは古田氏の九州王朝説支持者にとって不可欠のアイテムとなっているかに思える。

在野の研究者である丸山晋司氏は、この私年号について深く探究され、1992年に『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』を上梓された。本書は私年号に関心を持つ者ならば必ず一読しておくべき書であろう。

本書に手の届かない向きにとっては、twitter上での丸山氏のツイートは私年号への水先案内として深く耳を傾けるに値するものと思う。ただ、時と状況に応じてのツイートであるから、局所的認識の用には足るとしても全体像をうかがうにはもどかしさを感じるのも事実かもしれない。また、twitterの特性上、引用や分岐など個々のツイートの相互関係を捉えるのは容易ではない。

そこで、ここ数年の丸山氏の私年号に関するツイートをリプライ・リツイート等を頼りに遡りながら採集を試み、それを単純に時系列に並べて1頁を作成し御本人の許諾を得て公開することとした。

かかる事情により、当ページは以下のような特質を持つこととなったので列記しておく。

・単純に時系列に並べたのみであるから、表示順が必ずしもスレッドの流れを反映したものではない。
・複雑な分岐により採集漏れしたものや、私年号に関わらないツイートも流れの中で取りこんでしまった部分もある。
・上掲期間のうち2018年~2021年については大方の収集を尽くしたのではないかと思うが、その前後の年については煩雑さを避けるために割愛した部分も少なくない。
・丸山氏の応答相手のツイートについては、某's tweetととのみ表示した。

尚、丸山晋司氏の属していた「市民の古代研究会」*主流派による『東日流外三郡誌』批判を嫌った古田氏を含む古田派が「市民の古代研究会」を離脱したことにより、会は古田氏支持派と袂を分かって再出発し、以後丸山氏らは九州王朝説に対しても批判的立場に立つ。氏から寄せられたツイート2本を以下に掲げ、もって氏の現在の九州王朝説観の紹介に代えたい。
*古田武彦の影響下に設立された日本古代史を研究する市民団体 by Wikipedia
古田武彦「九州王朝説」の没落は、(ネットの一部で根強く主張されてはいても)(上のようなこと以外に実態らしいものはなく)(解釈で論を繋げていて)(実態が見つからないのは都合の悪い勢力に隠されたからだとまでの陰謀論が言われるようになって)もはや避けがたい。
午前7:58 · 2022年12月28日
で、わたしとしては、「九州王朝説」とともに忘れ去られてしまいそうな「実態」、「九州年号とされた30数個の年号群」と「筑紫舞」の伝承は忘れ去られてはならないと考える。 ツイート、リツイートを重ねる所以だが、本当はどうして良いか分からない。
午前10:15 · 2022年12月28日

【2017年】
批判されていることは知っていた。訂正を要求されていることも知っていた。しかし、応えるためには時間も必要、文献探しも必要。なので、ツイッター上で、言い訳めいたことを書いていきたい。書き上がれば富川ケイさんに届けたい。間に合えば...。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou68/kai06806.html
午前3:27 · 2017年2月4日

→まず、冨川ケイ子(のっけから苗字も名前もまちがっていた。ごめんなさい)さんには、次の点でお礼を申し上げる。
わたしは鶴峰戊申の『襲国偽僭考』の中から余計な要素を排除して、鶴峰が古写本『九州年号』としていたものを抽出したつもりだった。しかし、批判対象の古田武彦氏からは反論も賛意も
午前4:03 · 2017年2月4日

得られず、それは何故かというと、古田氏は、別史料『和漢年契』が登場したのが理解できない様子だったのだ。氏は、古写本『九州年号』という資料の中に「一説には」という文章があると思いこ込んでいて、古写本と「一説」が対比されていることを理解し得なかったのだ。
午後7:26 · 2017年2月4日

→冨川さんは、多くの古田説支持者が沈黙する中で、「一説に曰く」の「一説」が『和漢年契』であることに、キチンと言及した希有な人(三人ほど?)である。しかも『襲国偽僭考』の中に、貝原益軒『続和漢名数』の読み下し文が多用されていることも認めておられる。これはたった一人の人ではないのか。
午後8:57 · 2017年2月4日

→おっと、早くも冨川さんの文意を誤解していたようだ。冨川さんは、「読み下し文」と決めつけてはならないと、「一説」は『和漢年契』のことと決めつけてはならないと。その他の可能性を言っておられる。
感謝すべきは、「批判してくれた」こと、いろんな可能性を提示してくれたということになる。
午後10:04 · 2017年2月4日

→わたしが何故冨川さんの文意を誤解したかというと、鶴峰が古写本『九州年号』としていたものは、たかだか半紙一枚程度のもの、というわたしの主張を認めてくれたからだ。わたしにとってはここが眼目である。(そんなものを「本」と言うのか!)このことに触れた古田説支持者は一人としていなかった。
午後10:59 · 2017年2月4日

→【閑話休題①】(冨川ケイ子さんへ)分かりにくかったかも知れませんが、わたしは『臼杵小鑑大全?』復刻版を所有していました。散らかしていて、書名がどうだったかは覚えていませんが...。わたしの本の138頁の最後に引いてある文章はその本からの引用です。もう一度当該文を引用します。
午前5:56 · 2017年2月5日

→ 「(豊後満月寺の)十三仏の石像に、正和四年卯月五日とあるは、日本偽年号(九州年号といふ)の正和四年にて、花園院の正和にてはあらず。さてその偽年号の正和は、継体天皇二十年丙午為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年は継体天皇の二十四年にあたれり。然れば日羅が開山も此頃の事と見えた
午前10:10 · 2017年2月5日

→り。偽年号は、麗気記私抄・海東諸国記、及伊予温湯銘にもあり。むかし九州にて立る処か。余論日出風土抄に詳なり。」
ご覧の通り、鶴峰が『続和漢名数』偽年号項を「見た」ことは「確実」だと思うのです。冨川さんなら、「見た」とはっきり書かれていないから「確実」とは言えない、とは仰らないと
午前10:30 · 2017年2月5日

→思うのですがどうですか? とにかく、冨川さんが紹介されたように『和漢名数』を見ていたことは「確実」なのですから、『続』も見ているのではないですか? 貝原益軒が京都の書店で『水戸黄門漫遊記』の助さんたる佐々宗淳と邂逅していたように、書を求めるものは得るべきものを得ていたのでは?
午前10:50 · 2017年2月5日

『日出風土抄』というのはよく分からないものです(岩波『国書総目録』に『異称皇朝風土記』{水戸彰考館}として紹介されているものか)。わたしは、『襲国偽僭考』に発展すべき書物かなと思っています。地の利を生かしてお調べ頂けたなら幸いです。(以下、本編に戻る。)
午前11:05 · 2017年2月5日

【閑話休題②】(本編に戻る前に)下の文章は、わたしを直接批判したものではないが、関連しているし、無視できない理路を含んでいるので触れておく。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou65/kai06501.html
午後4:44 · 2017年2月7日

→わたしは、今泉定介は、江戸期・明治期文人の作法(出典・参考史料を明示しない)にのっとって、当時比較的手に入り易かった『襲国偽僭考』『海東諸国記』『如是院年代記』の刊本を見ながらこの論を書き上げたと考える。こう考えることで、冨川ケイ子さんが「両者には違いも目立つ」とした理由も
午後9:55 · 2017年2月7日

→十分説明出来る。ここでは、後発の今泉が先発資料を基に、独自の解釈を披瀝しているだけに過ぎない。「今泉は鶴峰と無関係に、独自にその論文を執筆したと考えることができる。」などと言えるものだろうか。また、「それ(古写本『九州年号』の正体)は九州年号と近畿暦年代との対応表(略)換算表で
午後2:30 · 2017年2月8日

→あったようである。」ともしているが、その「換算表」を作ったのが今泉だ、という視点も必要なのではないか。
勿論、わたしの解釈も間違ってもいるだろうが、鶴峰とは別の古写本『九州年号』を明治期の今泉が見たと判断するより先に、検討しなければならぬことと思っている。【閑話休題②終】
午後2:52 · 2017年2月8日

【閑話休題②追補】「古田史学の会」では高評価?
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou86/kai08601.html
http://furutasigaku.jp/jfuruta/nikki/nikki009.html

【追補終わり】
午後4:51 · 2017年2月8日

→さて、本編に戻るのだが、冨川さん紹介の復刻版編者によれば、『臼杵小鑑』には後々の書き足しがある。しかも本人でない書き足しさえあると言う。わたしが【閑話休題①】で紹介したような、明らかに『続和漢名数』を参照したと思われる文面があっても、鶴峰のものとは限らないとなってしまう。幸い
午前7:21 · 2017年2月10日

→幸い?冨川さんも鶴峰が『和漢名数』を見たことは認めておられる(それも妙な話かも)。学問熱心な鶴峰戊申が、当然、刊本として広まっていた貝原益軒のすべて、高安芦屋の『和漢年契』を見ていたとしてよいのではないか。もとの書名を知らずに、あとで気がついて「一説」を『年契』に変えたなどとは
午前8:59 · 2017年2月10日

→どうでもよい話で、鶴峰が古写本『九州年号』の原形をどう考えていたのかが、とりあえずの重要課題と思われる。
冨川さんは、『襲国偽僭考』から『続和漢名数』の要素、『和漢年契』の要素を切り離し、残った半紙一枚程度のものを古写本とすることに賛成されたのであるが、鶴峰自身は、実は、『続和
午前10:14 · 2017年2月10日

→漢名数』の読み下し文を、古写本『九州年号』と捉えていたのではないか。『和漢年契』たる「一説」と古写本を対比させていることで、そのことが分かると思うのだ。古田氏が古写本の範囲を限定せず、「一説」まで含めてすべて古写本だと思ってしまったのも、その辺の詐術に引っ掛かってしまった結果で
午前10:59 · 2017年2月10日

→はなかろうか。今、鶴峰の詐術と書いたのだが、この辺を冨川さんは丸山の「鶴峰不信」とされる訳である。鶴峰は誰かの『続和漢名数』読み下し文を見ただけかも知れない、誰かが『九州年号』という書名をつけていたかも知れない、という解釈、その可能性まで議論するのかという話にならざるを得ない。
午後2:08 · 2017年2月10日

→仮に、鶴峰が捏造家でなくて、誰かの『続和漢名数』読み下し文を古写本と信じて紹介していたとしても、同じことではないか。後世の我々が、それを『続和漢名数』の読み下し文と判断できなくてどうするのか。端的に言えば、わたしのは「鶴峰戊申不信論」ではなくて、「古田武彦不信論」なのである。
午後3:41 · 2017年2月10日

→【閑話休題③】鶴峰戊申が見たという古写本『九州年号』は、貝原益軒『続和漢名数』偽年号項の読み下し文とは限らないという論者も確かにいた。両者を読み比べると、違う文面もあるからだという。問うべきは、AからBは派生し得ないのかという一点のみ。後代文献は、いくらでも違いを付け足せる。
午後4:02 · 2017年2月10日

→一応、両者の対比表を作って発表している。例えば次のようである。
『続名数』継体天皇十六年。始建年号。為善記。海東諸国記作善化。継体廿年丙午。為正和元年。同廿五年辛亥改元。海東諸国記作發例。➡『偽僭考』襲の元年度継体天皇十六年壬寅。梁普通三年にあたる。海東諸国記に。善化に作る。
午後9:17 · 2017年2月10日

→継体天皇二十年丙午。正和元年とす。継体天皇二十五年辛亥。殷到元年とす。海東諸国記發例に作り。
どこを取ってみても、『偽僭考』から『続名数』への流れはない。『偽僭考』は、『続名数』読み下し文に、鶴峰が知識を付け加えたものとすべきではないか。(閑話休題②の、今泉定介のように。)
午後9:26 · 2017年2月10日

訂正。『偽僭考』襲の元年度→襲の元年

【閑話休題③】終わり
午後9:46 · 2017年2月10日

【2018年】
質問ありがとうございます。「継体」あるいは「善記」を始めとする「古代年号」の原形を論ずるに当たっては、当然その年代にその年号が実在したという前提が必要です。わたしも、その本を出すときには実在したと思って論じておりました。ただ、その後前提が変わり、「実在したかも知れない」となり、→
午後6:18 · 2018年10月12日

その立場で論ずることになりますが、それでよろしいでしょうか? なお、わたしは「古代年号は後代に偽作されたもの」という立場と、単純に実在したと考える立場、双方とも論証しきれていないと考えていますので、誰もが、必然的に「実在したかも論」にならざるを得ないと思っています。→
午後6:46 · 2018年10月12日

ですから、本当は、実在論、偽作論の双方を否定してからやるべきかとも思います。どう思われますか?
午後6:48 · 2018年10月12日

いや、実は「かも知れない」論は、「実在論」を不十分とする概念なので、別に立てるべきものと考えています。1と2の「実在」のうしろに「かも知れない」をつける2案が必要と思います。
午後8:16 · 2018年10月12日

分かりました。本を書いていた時は「実在論」でしたので、「原形論」は重要と思っていましたが、「かも知れない」論になると、さして重要でないと思うようになりました。「継体」年号のあることで、「古代年号」の実在を論証できるのなら話は別と思いますが。
午後8:34 · 2018年10月12日

昔の史料には説明のつかないものが沢山あって、「継体」もその1つと考えています。意味あると思うものが、とりあえずは説明すべきです。『二中歴』という書物があって、その中の「継体」は517年に実在した年号だと言っても誰も納得しないのですから、意味付けしなくてはなりません。
午後8:50 · 2018年10月12日

そりゃ、平安後期に遡るかも知れない史料の中に、訳の分からない年号群があれば、何かと思います。あるいはもっと昔に実在したものかと思います。それが「かも知れない」論です。偽作論はこの年号は何かを説明していないので「論」と言える資格がないとは思うのですが、「実在論」も成功していません。
午後9:38 · 2018年10月12日

「白鳳」を年号として使った同時代木簡などが出れば、かなりOKなのではないでしょうか? その場合でも旧来説の人は何とか説明しようとするとは思います。
午後10:05 · 2018年10月12日

古賀達也氏、古田武彦氏は、時々「実在」を論証しようとしたと思いますが、わたしから見れば「こうこうこうだから、こうに違いない」と強弁しているに過ぎません。万人が納得する「理屈」を出せていないと思うのです。もし、「これはどう?」と思われるものがあれば、ご紹介いただければと思います。
午後10:46 · 2018年10月12日

上のことは、わたしもそのような説明の仕方をし、「論証した」と思い、本まで出してしまったということも含んでいます。わたしの本に意味があるとすれば、古田氏の手法はかなり批判できたということ、新しい史料を発掘したこと、その二点ではないでしょうか。
午後10:54 · 2018年10月12日

@mizuki_dan1 こういう想定をするところが、自分がまだ古田氏の「くびき」から脱せられていないと思うところです。「普通」の歴史学徒は、ハナから「そんなもん出る訳がない」と思ってるはず。
午前7:47 · 2018年10月13日

古賀氏論文でしたかね。肝腎の年号名がないという。「白雉」であれば『二中歴』ということでなく「古代年号群史料」が有利と思いますが、片方で「暦の二年差」論を論じておられる訳ですから、どちらかに統一してほしいとは思います。「二年差」論を論ずるのなら、それは従来の『日本書紀』論の範疇。
午前10:25 · 2018年10月15日

あ、「白雉」であれば、の後に「元年であれば」が抜けていました。
午前10:33 · 2018年10月15日

@mizuki_fan1 もう少し詳しくいうと、木簡解説者は「三壬子年」と思ったから「白雉」を候補に入れた。古賀氏は「白雉」だけを採用した。調べてみたら「元」の字の可能性がある。ここで、「元壬子年」の年号を調べるべきなのに、「白雉元年」しか頭にないから、その他の年号は調べない。→
午後1:07 · 2018年10月15日

わたしも(反論する気がないから)「元壬子年」の年号が他にあるか調べていないので、偉そうには言えませんが、古賀氏は、そう言った作業過程を示すべきでした。
午後1:11 · 2018年10月15日

わたしの早とちりで、木簡研究者も干支関係では7世紀半ばで良いと考えているようですね。後は、何故古田サイドだけが「元壬子年」でよいと主張し、学際的な協力を得られていないのかと言うところですかね。一刻も早く、学問的機関に訴え「元壬子年」を確定させた方がよいと思うのですが、どうですか?
午後7:10 · 2018年10月15日

「論文」は、全部は読めていません。教育委員会の担当者に「元壬子年」と読めますねと確認を取ったのでしょうか? もし古田サイドだけで盛り上がっていて、他の第三者の誰にも確認を取っていないのであれば、自慰行為にしかならない気もします。疑うものには、芦屋市まで見に行けというのでしょうか?
午後7:26 · 2018年10月15日

写真だけでは「元」か「三」かは判断出来ません。わたしが芦屋まで行って「元」の字だと思ったとして、どんな影響力があるものでしょうか? 「元」の字と必ず読める写真を発表したとして、学界に波紋を投げかけられるものでしょうか? 「九州年号」としか考えられないと主張出来得るものでしょうか?
午後7:36 · 2018年10月15日

@mizuki_fan1 やっぱり年号名がなければ、主張できないものと考えます。
午後7:44 · 2018年10月15日

@mizuki_fan1 『二中歴』(年号部分の話)が平安後期まで遡る可能性を指摘したのはわたしです。先学の分析から、年号部分について考察したのです(いわばオリジナル)。古田氏はそういう分析をせずに、スラッと「平安後期まで遡る史料」とやっていました。最も古いから「継体」が原形だと...。
午前7:45 · 2018年10月15日

これ、7世紀半ばの木簡に「元壬子年」というものがあったとして、それより4世紀か5世紀あとに現れた「古代年号群史料」の「白雉」(『日本書紀』より2年遅れとする)だと主張するためには、どれだけの説得力が必要と思ってんのか、分かってんのか、ということだと思う。
午後1:13 · 2018年10月16日

木簡に錯誤ありと主張するものではないが、錯誤、誤写、誤読、誤記、あらゆる可能性を否定してからの「論理的帰結」ではないのか。
午後1:24 · 2018年10月16日

そもそも、11世紀か12世紀の文献(『二中歴』など)に現れた「継体」あるいは「善記」を嚆矢とする31の「古代年号群」は、伝承していたものたちからは、5世紀始めから7世紀末に「実在していたもの」と信じられていた(はずだ)。信じていた主体は、僧侶たちというのも間違いのないところと思われる。
午後8:33 · 2018年10月16日

この年号群を知らない人たちには信じ難いことと思うが、鎌倉建長寺、奈良興福寺、京都建仁寺など、学問が盛んだった名刹は「年代記」「皇代記」などという年表を持っていた(その他も同様のはず)。その中では「勝照二年用明天皇即位」などと、天皇の事跡を訳の分からない年号で説明していたのである。
午後10:08 · 2018年10月16日

訳の分からないというのは、現代人だから言うことであって、当時(鎌倉期以降)の教養というものは、30数個の年号でその時代の天皇の事跡を教え、「大宝」以後は正史の年号で教えていくというのが、僧侶社会では当然のことだったように思われる。史料状況からはそのようなことが主張できると思う。
午後10:26 · 2018年10月16日

興味深い例としては、丹後「縁城寺年代記」(1556年成立)というものがあり、写本で伝えられて来たが、明治維新以後、地元の小学校の教科書として使用されていたという。教科書が間に合わずという側面もあったかも知れないが、先ほどの「勝照二年用明天皇...」とかの教育が行われていたことになる。
午後10:48 · 2018年10月16日

遡って、鎌倉期以降は各寺で年表が作られ、書き写され拡散されていった。この中で、先ほどのような年号を持たない「年代記」も流布されていた。この比率も分からないし、派閥があったから年号記述に差が出来たのかも分からない。歴史学者、文献学者の出番だと思うが、余り興味は示されていないようだ。
午後11:04 · 2018年10月16日

この後の連ツイを軽くするため、繋ぎのツイートを削除しました。
午前2:53 · 2018年10月17日

(自分なりの古代年号群史料論をまとめたくなり、上からの部分を切り離しました。以下、続けます。)
午前3:28 · 2018年10月17日

(連ツイの途中でも、もし質問があればお寄せいただきたく思います。読んでおられましたら、古田説支持者大歓迎です。)
午前3:40 · 2018年10月17日

別系統と思われる「古代年号群史料」がある。古田武彦氏一統が特別視する『二中歴』である。別系統という理由は、伝えた人たちが学者たちというところだ。僧侶たちは、あくまでも「実用」のためにこの年号群を使用していたが、学者たちは「知識」のためにこの年号群を紹介したと受け止められる。
午前6:12 · 2018年10月17日

この「実用」と「知識」の違いはよく分からない。学者たちも「実用」で使用した形跡がある(後述)ので、どうとも言えないが、文献が少なすぎるし、印象としてはそうなる。神社・仏閣の縁起書には、「常色」「命長」などの「古代年号」が使われているから、僧侶たちのは「実用」でよいと思っている。
午前6:23 · 2018年10月17日

現代の縁起書には「古代年号」が使われていないが、鎌倉期以降では「古代年号」を使うのが大はやりだったのではないか。(その証拠はないのだが、そう思う方が各地での現れ方〔この調査はいろいろとある〕を見ても自然でしょ、ということだと思う。ただし、前述の派閥というのはあったかも知れない。)
午前6:33 · 2018年10月17日

(わたしが、やたら「鎌倉期以降」を強調しているように思われるかも知れないが、現実にそれ以前には史料がない.。「法興」は?と聞かれるかも知れないが、これは別問題として論じたい。古田氏が江戸後期の文献に幻惑されて一緒に論じてしまった問題として。)(『続日本紀』の「白鳳」は、やや難解。)
午前7:16 · 2018年10月17日

(それ以前にはない、というのは言いすぎで、「影響を与えるほどにはない」ということかな? わたしが「古代年号は実在したかも」論だったのも、そして、そこへ戻りそうになってしまうのも、その辺が解決していないからだった。)
午前7:23 · 2018年10月17日

(ここで、『二中歴』史料論に戻りたかったが、先に「白鳳」年号問題を片付けておきたい。)
午前10:08 · 2018年10月17日

①わたしが、古田武彦グループの一員だった頃は、当たり前に「白鳳は古代年号」と思っていた。『続日本紀』724年条に「白鳳以来朱雀以前と言ってもそんな古い時代のことは分からない。」とあり、この表現は「白鳳」「朱雀」が年号ということを示している。古代史の碩学・坂本太郎氏が「白雉」「朱鳥」
午前11:44 · 2018年10月17日

の誤解と解説してみせたのは、「年号」と思わざるを得なかったからだろう。しかるに、正史たる『日本書紀』にこの年号が無い故の、誤解論だったのだ。それで、わたしたちは、古田氏の「白鳳=九州年号論」に拍手喝采を送った訳である。(わたしは、直ちには「九州年号」とならないとも言っていた。)
午前11:52 · 2018年10月17日

②ここに、『藤氏家伝』(760年成立、藤原家の「家伝」)というものがある。その中に649年を元年とする「白鳳年号」が見られる(正史では大化5年)。『続日本紀』が「分からない」とした年号は、このような「家伝」がそれぞれに古くからあったからと想定するのが、無理がなくてよいと思われるのだ。
午後1:25 · 2018年10月17日

また、「朱雀」については、1100年頃の『扶桑略記』などが672年を元年としていて、そのような「家伝」が『続日本紀』当該記事のころにあったと言えるかも知れない。まさに同じ頃の「古代年号群史料」の「朱雀」を『続日本紀』の「朱雀」と同定するのなら、『扶桑略記』も候補としてよいのではないか。
午後2:11 · 2018年10月17日

ここで註釈。13世紀以降(11か12と書いてきたのは誤りだった=後述)の『二中歴』などの「古代年号群史料」の「白鳳」はどうなっているかというと、661年を元年とし684年の「朱雀」へと繋がっている。「九州王朝」論者にとっては非常にロマンに満ちた年号で、23年間もの長い年号は「白村江」での唐との
午後4:48 · 2018年10月17日

戦いに破れ、その収拾をつける為の期間だったのではないかと言われている。その他、年号に合わせていろいろな解釈をするのが「九州王朝」論者の特徴だと思うが、13世紀以前に遡れないかも知れない年号群について、まずは、その年号群がいわれている年代に実在したと論証すること、これではなかろうか。
午後5:14 · 2018年10月17日

【参考】
『続日本紀』神亀元年十月(「治部省奏言」に対する「詔報」)
  詔報曰、白鳳以来朱雀以前、年代玄遠尋問難明。
  亦所司記注、多有粗略。
(以下、『二中歴』の史料論に入ります。)
午後8:17 · 2018年10月17日

(結局、「白鳳」元年はいつかということを論じていない。『類聚三大格』にも「白鳳年より淡海天朝まで」という言葉があるので、この年号が実在したことは確実と思う。わたしの力ではこれ以上論じられないので、13世紀「古代年号群」の「白鳳」も辛うじて候補として生き残っているとも言えそうである。)
午後9:48 · 2018年10月17日

さて、古田武彦氏が愛して止まない『二中歴』の「古代年号群部分」であるが、この来歴が一向に分からない。誰がこのような年号群を見いだして13世紀初頭のこの書物に記録することとなったのか。好事家が古い書物とにらめっこしながらこの年号群を作り出したのか。両方の可能性を考えるのだが...。
午後10:37 · 2018年10月17日

「常識的に考えて」誰かが作り出したものを、学者たちが自分の書物に大事そうに書き残すものだろうか。
「常識的に考えて」この年号群があったとされた時代に実在したとして、13世紀初頭までその片鱗をどの書物にも残さずに、突然浮上するものだろうか。二つの「常識」があり、ある人々は
午後11:08 · 2018年10月17日

どうしようもなく、上の方の「常識」を選んでしまうのだろう(わたしもそうだった)。「実在」したと思いつつ、それは論証しなければならない。それは苦難の道のはずなのだが、古田氏を始めとして、論証できていないものを論証したと言い、安直に満足することで済まそうとしていたように思うのだ。
午後11:08 · 2018年10月17日

『二中歴』「古代年号群部分」に関しては、何が不思議かと言えば、1988年所功『年号の歴史』が出るまでは、年号を考えるにあたって『二中歴』を思い浮かべるものがいなかったろうし、『二中歴』をよく見ていた「和辞書」研究家は、さほど「古代年号群部分」には着目していなかったろうということだ。
午前4:57 · 2018年10月18日

まるでブラックゾーンのように、貝原益軒に始まる事物研究家たちの目には止まらず、20世紀の終わりまで世に紹介されることがなかったと言ってよいのではないか。この所功氏の博識ぶりがなければ、「九州王朝説提唱者・支持者」たちが、『二中歴』を知らずに過ごしていた可能性すらあると思うぐらいだ。
午前5:06 · 2018年10月18日

『二中歴』は秘匿されていた訳ではない。研究者の中から「古代年号群部分」に関心を持つものが育たなくて、世に注意喚起する「思い付き」もなかったという感じだろうが、残念で仕方ない。wikiには、「古代年号群部分『二中歴』」に関して「査読された論文はない」と書かれる始末で、確かにそうだと。
午前5:26 · 2018年10月18日

たまたま「説」が提唱され、たまたま本が出版され、素人がその二つを繋ぎ合わせてワイワイやっているの図なのかなと思ってしまう。この先、この「古代年号群部分」が書誌学の対象とされ、キチンと分析されることがあるのだろうか。書誌学に造詣の深いものが「年号問題」に詳しいとは限らないし。
午前5:38 · 2018年10月18日

この『二中歴』「古代年号群部分」が中世に、一度だけ「陽の目を見たか」と思うことがある。それは李氏朝鮮の(日本琉球紹介書)『海東諸国紀』(1471年成立)に見られる「古代年号」である。これらの史料を比較した人なら分かると思うが、該書の「古代年号」は明らかに『二中歴』の影響を受けている。
午前10:38 · 2018年10月18日

詳述しないが、『二中歴』『海東諸国紀』の「古代年号」の年号立ては、別系統と言っていた僧侶たちの「年代記」「皇代記」の年号立て(686年を「大化」、692年を「大長」とする)とは違う。年号の文字の異同すらも『海東諸国紀』は『二中歴』の影響を受けている。(和僧・鏡當・光元・倭京など)
午前10:55 · 2018年10月18日

僧侶たちの「年代記」が華々しく書写され、版本が盛んになってからは『和漢合運図』などと命名されて市販されていった経緯とは真逆に、国学者たちからまったく気付かれもせず、『二中歴』は所功氏に見いだされるまで、ひっそりと前田家文書の中に眠っていたのである。(違うけど、大袈裟に書いてみた。)
午前11:10 · 2018年10月18日

実は、衝撃的に捉えて欲しくて、嘘を書いている。「古代年号群」を搭載した版本『和漢合運図』の存在は確認されておらず、写本としては『和漢合運図』『三国合運』『和漢合符』というものが「古代年号群」を搭載している。波及力として全然違うものなのだ。一体何があったのか。
午前11:57 · 2018年10月18日

これは、益軒周辺を研究する人、書誌学・文献学に堪能な人に聞かねばならぬと思うのだが、貝原『続和漢名数』(偽年号項)にある「此偽年号浮屠所妄作也」(此の偽年号は浮屠〔僧侶〕の妄作するところなり)という記述は、こういう「学術的な」年表などを出版するに当たり、影響を与えるものだろうかと
午後2:54 · 2018年10月18日

いうことである。全国各地の書肆を訪ね歩き、本を購めていた益軒がそのような考えを持つ時に、雰囲気としてでも版本の年表に「古代年号」を搭載することは辞めとこう、ということが有ったのか無かったのか。現実にそのような版本が出版されていないとすれば、そのような想定も可能かと思う次第である。
午後2:54 · 2018年10月18日

ともあれ、刊本(古代年号を搭載した)年表は出版されていない。僧侶たちの書写による「古代年号」が流通していたにしても、刊本としての「古代年号」は、藤貞幹、高安蘆屋などのキワもの、イカサマの世界に移って行かざるを得なかったのではないか(鶴峰戊申を付け加えてもよいぐらいのものか)。
午後3:03 · 2018年10月18日

こうして、現代正統歴史学の礎のような(?)貝原益軒が『二中歴』を知らず「古代年号」を僧侶による偽作として研究対象から外して行くのなら、現代の歴史学界が『二中歴』を知らず「古代年号」は僧侶の偽作と思っても「むべなるかな」ということだとも思うけれど、
午後4:29 · 2018年10月18日

「偽年号」としても13世紀初頭には確実に存在した「古代年号」の来歴、誕生の由来を訊ねなくとも良いのかということを、いつも言っているのだけれど、今回も言ってみている。
午後4:34 · 2018年10月18日

【補遺①】
「法興」年号問題であるが、いわれている8世紀以前の史料状況の中で、ヤマト王朝以外の王権の実在が論証されたのであれば、その王朝の年号である可能性は否定できないし、別の論証されていない権力のものだったと言えるのかも知れない。ただ古田氏は鶴峰戊申『襲国偽僭考』の中の「法興」を
午後6:31 · 2018年10月18日

何の検討も史料批判もなく、引用されている古写本『九州年号』からのものと誤読して立論しているので、それに対しては明確に否定しているし、今も、支持者たちがその迷妄から脱出してほしいと思っている。
午後6:38 · 2018年10月18日

【補遺②】
『海東諸国紀』編者が見た「古代年号」については、『二中歴』のその部分を書き出しものの粗雑な写しがあったのかな? というぐらいの受け止めしかない。一つ一つ史料を比較しながらの説明になると思う。他史料との異同を一々大事に考えて、「他王朝」の説明に使おうとするのは見苦しい。
午後6:57 · 2018年10月18日

学者たちが「古代年号群」を「実用」として使ったというのは、その程度のことを考えている。
午後6:59 · 2018年10月18日

【補遺③】『二中歴』の成立年自体を「平安後期」と思ってしまっているものがいる。古田武彦氏自身がそうだったように思う。氏自身が論証を試みた訳ではないのに、同書の中の「古代年号群部分」を平安後期とする「論証」(実はわたし)を見て納得した故に、「古代年号部分」を「平安後期」と思っている
午前11:47 · 2018年10月21日

うちに、『二中歴』成立を「平安後期」と簡単に講演などで言ってしまうというクチだとは思うのだが、こういう傾向はよく見られるので注意すべきだ。古代年号群史料として簡単に、『如是院年代記』を紹介する人もいるが、これも史料を見ていない人のいうことだ。(説明略)
『二中歴』自体の成立年は、
午後0:03 · 2018年10月21日

古田氏は、とうとう『襲国偽僣考』の中の古写本『九州年号』(といわれているもの)にある「一説」が、『和漢年契』であることを理解されなかった。古田氏が「丸山さんは、何故、『和漢年契』ばかりいうのでしょうね」と語っていた講演会記録をみたことがある。
午前9:44 · 2018年10月23日

@suishinger_y さま、これは、 @uirousakura
さんに紹介した連ツイですが、古田氏が批判者にどのような姿勢で臨んでいたか、を想像できるかと思います。わたしは、一連の「古代年号」を「九州年号」と捉えることは出来ないと批判したのでしたが、そのような批判は「なかった」かのように扱われました。
午前10:03 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午前10:24 · 2018年12月10日

古田説に、何故か詳しいのです。詳しいのが、悔しいというヤツですかね。
午前10:26 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午前10:28 · 2018年12月10日

それはもう、わたしの本でして、『古代逸年号の謎-古写本『九州年号』の原像を求めて』というのがあったのですが、今は買うのは困難と思います。まだ、「九州王朝説」を信じていた頃のものですが、書誌的には正しく書けていると思います。あとは、原田実氏の古田批判本。
午前10:37 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午前10:44 · 2018年12月10日

もし取り消されるのであれば、差し上げますけども。
午前10:52 · 2018年12月10日

「取り消せる」。
午前10:52 · 2018年12月10日

ただし、わたしが信用できて、住所をDMとかで教えてもらえたら、ですが。
午前10:54 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午前10:55 · 2018年12月10日

うわお、安い! まあ仕方ないですね。お買い上げありがとうございます。専門家でなく、素人の代表▪古田武彦の(一時)側近、という感じですかね。
午前10:59 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午前11:14 · 2018年12月10日

市民の古代研究会のwikipediaがあって、それを読んでいただくと、事情は大体掴んでいただけるかと。

「高い」値がつくと自尊心がくすぐられます。
午前11:17 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午前11:32 · 2018年12月10日

ほとんど政治闘争でしたよ。分裂した頃は、ユダ的な扱いをされましたかね。仲間内では、「ソ連崩壊後」の左翼のたまり場とか言ってたりして...。
午前11:43 · 2018年12月10日

桜ういろう's tweet
午後1:08 · 2018年12月10日

実世界ですからね。道で会っても知らぬ顔というのは、「ざら」でした。
午後1:48 · 2018年12月10日

もう一つのラインで答えますね。
午後2:40 · 2018年12月10日

根源的な部分は、古田氏が禄に『襲国偽僭考』の諸本を訪ねていないところです。恐らく明治の刊本だけを頼りに大事な「判定」をしてしまったから、古写本『九州年号』といわれるものの中に『和漢年契』という怪しげな書物が入っていることさえ気付かなかった、という批判には答えていません。
午後0:40 · 2018年12月10日

そして、わたしは、しつこく問い詰めるという環境にはありませんでした。
午後0:42 · 2018年12月10日

ありがとうございます。精一杯答えますね。『失われた九州王朝』にあるごとく、古写本『九州年号』を見たという人間(本)は、鶴峰戊申のみです。大事なのはその書名だったのです。(ここで注意してほしいのは、明治期にもその古写本を見たと思わせる記述が見られます。それを「発見」して喜んで報告→
午後1:41 · 2018年12月10日

して、多くの人が見たように考えている人が「古田ファン」の中に見られますが、まず、江戸期・明治期の学者世界というものは、百田氏も及ばない「剽窃・孫引き」の世界であることを知らねばなりません。その中で吟味されて通過したものだけが、新しい証言者と言えるのではないでしょうか?)
午後1:46 · 2018年12月10日

この古代年号群を「九州王朝」の年号というために、古写本『九州年号』というものが実在したと思えれば、非常に有利ですからね。わたしは、そういう古写本は実在したのかと疑っている訳で、いろいろと論証を試みています。鶴峰の古写本は、怪しい内容を含んでいるから信じがたいのです。
午後2:46 · 2018年12月10日

その理屈は当然ですね。しかし古田氏は、有力な物証と考えた訳ですね。「九州年号」という名称にはこだわっておられましたからね。
わたしは、当初は「古代逸年号」がよいだろうと考えました。そして、「九州王朝」と本当に関連があるか考えるべきと思いました。(今は、「逸」も取って考えてます。)
午後3:06 · 2018年12月10日

ありがとうございます。その方とはかなり前に連絡が取れていまして、同じ結論に達した(特に『和漢年契』のところ)ことを喜びあいました。そこには、わたしの名も出てくるはずです。
午後3:21 · 2018年12月10日

@suishinger_y さま、冨川ケイ子さんが、古田説支持の立場から、わたしの「古写本『九州年号』論」を批判してくれた、唯一の人です。その中で、鶴峰戊申は貝原益軒の『続和漢名数』を見た証拠がない等と主張されていたりしたのですが、それに反論したものです。ご批評戴ければ幸いです。
午後4:52 · 2018年12月11日

改めて読み直すと、わたしが「ここに『続和漢名数』からの引用があるやんけ」と言っている部分を、「他の人の手が入っていると言われているから、その部分は、ちょうどその、他の人の手の部分かも知れんやんけ」と反論されている気がする。これ、もう論証のしようのないことかも知れん。(負け?)
午後6:59 · 2018年12月11日

冨川さんの論法を見ていると、すごく理不尽に感ずる。
①鶴峰戊申は、貝原益軒の『和漢名数』「日本年号」項を見ているのだから、続編の『続和漢名数』「日本偽年号」項を見ているだろうという類推。
②学習熱心な鶴峰が、貝原益軒の諸本を読むだろうという類推。
③現実に、鶴峰が『続和漢名数』の→
午後11:12 · 2018年12月11日

当該部分を引用していることを指摘している。
④冨川氏は、鶴峰のその本は他の人も書き継いでいるという記述を見つけた。
⑤わたしの引用部分は、他の人が付け足したかも知れないじゃないかという。
⑥わたしは、鶴峰の全著作を読み、やっぱり鶴峰は『続名数』を見ていたと論証しなければならないの?
午後11:19 · 2018年12月11日

⑦見つけられなければ冨川氏の言い分が通ってしまうの?
ここは、鶴峰戊申が古写本『九州年号』を見たという記述が信用できるか否かということで、非常に重要なところなんです。って、興味のない人には意味はないのか。(『日本国紀』のあれやこれやも、一部からはこんな風に見られてるんだろうか。)
午後11:28 · 2018年12月11日

①②の理由があり、鶴峰戊申の本と言われてるものに『続名数』からの引用文があるのに、その本は「後の人の書き継ぎも含まれているから」、その引用文は、鶴峰戊申が引用したものではない(かも知れない)と言われなければならないのか? 同じことばかり書いているが、それは論文の作法と言えるのか?
午後10:00 · 2018年12月12日

ともあれ、前の反論文は、他にも富川氏のを読みこなせていなかったところを発見したので、書き直す必要を感じている。
午後10:48 · 2018年12月12日

「普通」、書き継ぎをする人でも、『続和漢名数』の引用まで入れるとは思えないのだが、「お前の思う『普通』にしか過ぎない」と言われそうで、以前にも似た展開があったのだけれど...。
午前7:14 · 2018年12月13日

文章の構造上、ここに『続和漢名数』の引用文があっては不自然だからとかの理由があって、ここは書き継ぎ者が書いたところと、特定するものではないの? それを「お前が書き継ぎ者が書いていないことを論証せよ」と言われている気がする。まあこれも、原文を目の前にしてやりあっても分かり合えない?
午前7:30 · 2018年12月13日

原本を手放しているので、これ以上は書けない。心ある人がもう一度子細に検討して欲しい。何度も言うが、鶴峰戊申が、早い内に『続和漢名数』を見ているか見ていないかということは、古田界隈にとっては、非常に重要なことなのです。(やっぱり一般の人にとってはどうでもよいことか。)
午前7:37 · 2018年12月13日

そんなことをなんでツイッターに書く? もし間違いの指摘があれば、すぐ訂正がきくから。同人誌などに発表してしまったら、ずっと間違いが素通りしていくから。(古い記述がいつまでも批判されたりする。)
午前7:41 · 2018年12月13日

歴史クラスタというのは、過去に「偽年号」と言われたものについては、それが論証されていなくとも、ただその認識の継続だけを願ってスルーし続ける存在なのかと、挑発的に書いてみているのだけど、誰も乗ってくることはないのだろうな。
午後0:00 · 2018年12月22日

「戦後歴史学」と言われてからも60有余年、いつまで貝原益軒以来の「浮屠の妄作」説に安住しているのか、ここらで(史料を集め)総力を上げて、「偽年号」であることを論証してみてはどうだろうか。(「出来まい」という気持ちを持ちながらの問い掛け。)(多分、それぞれが自分の課題に忙しすぎる。)
午後0:09 · 2018年12月22日

最初のツイに出たお名前は、畠山健介さんの間違いでした。謹んでお詫びいたします。
午後1:21 · 2018年12月22日

「神事芸能研究会 筑紫舞聞書 ⑥

磯の神のこと

ある時、筑紫からやって来た人がいた。検校に挨拶をして四方山の話になった時、その人が、『私達の先祖はあらかびさんです。』と誇らしげに言った。そして、『あらかびさんが、筑紫の磯の神を大和の○○にお移ししたのです。』
http://shinji-geinoh.sakura.ne.jp/6.html
午後8:49 · 2018年12月27日

というようなことを話した。光子は側で聞いていた。ちょうど、家の女中がお茶を持って来て、それをちらっと聞いて、後で光子を呼んで、『ちょっと、とうはん、あの人、あらかびの子孫やいうてましたけど、カビ?の子孫やて、きたない!あんなん信じたらあきまへんで!』と言った。側で母が、『そやかて
午後8:56 · 2018年12月27日

最近、かびからえらい薬が出来たということらしい。かびかて役にたつのもあるということやし...。』と言った。当時、ペニシリンが発明されたことを母は言っているらしい。/とにかく、無知な女中によって、あらかびはかびの一種にされてしまったのであるが、そんなやりとりがあったので、光子はその時の
午後9:13 · 2018年12月27日

ことを鮮明に覚えていた。/この時習った舞は、『若菜』(肥後系)と『夏の曲』である。/『若菜』(肥後系)は、○○の舞で、○○である。巫女二人が、神葉を二枚摘み、この二枚のみの具合で吉凶を占う。この舞は、最初、筑紫の磯の神を大和にお移しする時、どこに祀ったらよいかを占ったところ、摘んだ
午後9:08 · 2018年12月28日

神葉に虫喰みで、『○○』と出たという起源伝承を持つ。またその後、道鏡の事件で、和気清麻呂が宇佐で神託を聞く時、この舞を舞うと凶と出た。そして清麻呂の姉が石上で舞ったがこの時も凶と出たと伝えている。/こうした舞に用いるのは、すべての葉である。椰の葉は、筑紫と大和に群生している。
午後9:18 · 2018年12月28日

石上は、日本中で一番良い土地である。以上のようなことをその人は語った。/『夏の曲』は、筑紫舞では『祓?いの舞』という。筑紫の磯の神を大和の石上にお移しする舞で、『私達もお供をしてゆきます。いつもあなたのお側にいますから、私達の不事災難を祓ってお守り下さい。』という心で舞えと光子は
午後9:35 · 2018年12月29日

(は→)に教えたそうである。/また、次のような話も光子は聞いた。『あらかびさんが、磯の神を筑紫から大和にお移しする時、船出をしたら、海が荒れた。周防灘の辺りで船の舳先が自然と陸の方へ向いたので、そこへ上陸した。そこは出雲の神と吉備の神が出迎えておられた。二人の神が両側から守って
午後9:43 · 2018年12月29日

大和へ行かれた。/その間、行く先々がずーっと○○だった。/大和の石上にお移しして、三人がそこに居ついた。』/これは、まぎれもなく『筑紫物部』の伝承であると考えられる。あらかびといえば、かの物部麁鹿火?が思いうかぶが、光子は、『物部』という名は聞かなかった。/その頃、光子の家は、大和の
午後9:43 · 2018年12月30日

【2019年】
天理教に酒を納めていた。磯の神の話も石上の話も知らない父だったが、娘を神社で舞わすことにかけていた。天理に酒を納めに行って、石上神宮のことを知り、帰って来て、検校に、『石上神社いう、りっぱな神社がおますけど、舞を奉納したらどうでっしゃろ。』と言うと、検校は、『石上さまですね。まだ
午後9:50 · 2018年12月30日

まだ、(とうさんには)資格が足りません。』と言ったという。/平成三年九月八日、西山村光寿斉として光子は、石上神宮にこの舞を奉納した。六十年間、この神に捧げるために持っていた舞であった。この舞の最後の歌詞は、『夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は涼しき風や吹くらむ』であるが、まさしく時も、
午後4:58 · 2018年12月31日

九月八日、『夏と秋との行き交う』時、この歌のところで、ご神木の神杉の辺りから一陣の涼風が拝殿に吹き込んだ。大神も御照覧あったと私(鈴鹿千代乃氏)は感じたことであった。

大和のこと

石上神宮の奉納を終え、その夜は天理に泊まった。翌日、私は、光寿斉氏を『大和の地主の神様に御挨拶して
午後9:54 · 2018年12月31日

おきましょう。といって大和神社に案内した。/私には、ひそかな目論みがあった。石上の伝承を持つくぐつ族であれば、大倭の伝承を持っているかも知れない。私の心に、日本書紀崇神天皇条の大和大国魂神事斎の一条がひっかかっていた。/大和神社の境内で、私は、光寿斉氏に崇神天皇?の話をした。/果た
午後10:02 · 2018年12月31日

して、私の話をさえぎるかのように、光寿斉氏の口をついて出たのは、次のような伝承であった。この話をしたのは、石上の舞を教えに来た人であったという。『石上さまからちょっと離れた所に大和の神?が祀られています。時の天皇?であるすめろぎ(崇神天皇とは言わなかったが)が、ここに都を移したか
午後10:10 · 2018年12月31日

ったのですが、遂に果たせずに亡くなってしまいました。/その土地は、地神の力が強すぎて、よくも悪しくも殺してしまう土地で、また、攻められやすく、守りにくい土地でした。そのすめらぎは、そんなことをお気になさらない方でしたが、都にできなかったのです。/神に仕える女が、その神聖な石を心臓の
午後8:41 · 2019年1月1日

下に抱いて、そのすめらぎの都に移そうとしましたが、その女は腹がへこんで体がしなえてしまいました。そこで、その石はもとの所へもどしたということです。』以上のような話だった。/大和神社を出て、崇神天皇陵に参拝した。御陵の側に大きな蛇がいた。光寿斉氏が、『くぐつの人が、〈すめらぎの陵は
午後8:47 · 2019年1月1日

蛇がお守りしています。〉というてはったけど、ほんまやなあ...』と、しみじみ言われたのが印象的だった。/検校もくぐつ達も、天皇のことは『すめらぎ』と言い、また『--天皇』と言わず、『--天皇と言われたすめらぎの御代』というように言い慣わしていたという。/この話は、書紀に大和大国魂の神
午後9:54 · 2019年1月1日

を奉斎したが、神霊の強さに『髪落ちみて、祭りあへざりき』という一条と類型の伝承と考えられる。

(鐘が岬)のこと

光子の友達に花柳流の踊りを習っている子がいて、その子の『娘道成寺』を見て光子が、『いいわあ、あんなん、したいわあ。』と言っているのを聞いて、検校が、『それなら、教えて
午後2:30 · 2019年1月3日

あげましょう。』と言って、教えてくれた舞である。しかし、それは、歌詞は、例の『鐘にうらみは...』で同じであるが、光子の見た『娘道成寺』とは全く違っていた。光子が、『こんなん、違うわ。』と言うと、検校は、『これが、もとです。』と言ったという。/検校が語ったこの舞にまつわる伝承は次の
午後2:36 · 2019年1月3日

ようなものであった。/『筑紫国鐘が岬に釣り鐘が船で運ばれてきた。陸に上げようとしたが、海が荒れてどうしようもない。一人の里の娘が海の神の怒りを鎮めるために人柱に立てられることになった。娘は海に沈んだ。鐘は無事上げられたが、娘の母親は狂って鐘を恨んで舞う。そこへ娘の幻があらわれて、
午後9:33 · 2019年1月3日

ありし日の姿で舞う。〈鐘に恨みは〉の恨みとは、娘を殺された母親の恨みである。』/父十三が、この舞を見て、『鐘供養でっか?』と聞くと、検校は、『鐘祓いです。なんで鐘を供養しなければならないのですか。鐘はかたきですよ。〈金?がかたき〉と言いますでしょ。もともとは〈鐘がかたき〉です。
午後9:40 · 2019年1月3日

言葉というものは、代々変わるものです。鐘は権力に対する抵抗です。』と言ったという。更にこの時、検校は、『世阿弥といえども、九州の話をもとに沢山物語を書いています。世阿弥は、いつの程かはわかりませんが、久留米のいぶせき小屋の生まれ、三才で熊野へ行き、そこで成長しました。』と語ったと
午後9:44 · 2019年1月4日

(いぶせき→むさくるしい、汚なくて不快だ、とある。ベネッセ国語辞典)
午後9:48 · 2019年1月4日

いう。/この舞で、ありし日の娘の亡霊が出て舞う時、母親は舞台の上手奥に坐って、手をすり合わせて娘を見守る所作がある。これを光寿斉氏は、何を意味するのかわからなかったが、光子が西山村光寿斉としてこの舞をはじめて上演した時、その夜の夢に検校があらわれ、『あれは香を練っているのです。』
午後9:56 · 2019年1月4日

と教えたそうである。後にビデオを見ると、まさしくそれは『反魂香』の所作であった。

尾張ものの伝承

筑紫舞のうちの『尾張もの』の伝承は、平成四年五月三十日、愛知県名古屋市千種区鎮座の上野天満宮社務所で第一回の稽古がはじまった。/年来の友人である三輪隆裕氏(清洲日吉神社宮司)と半田茂
午後2:37 · 2019年1月5日

氏(上野天満宮祢宜)に伝承を呼びかけたところ、心よく応じてくれ、第一回の稽古の日は、正式参拝の後、社務所において、半田寛宮司、奥様をはじめ、半田家の方々のあたたかいおもてなしを受けた。また、三輪、半田両氏の友人も二十人程集まられ、光寿斉氏と私の話を聞く機会を催けて下さった。/
午後2:46 · 2019年1月5日

こうして伝承がはじまり、稽古に立ち会って実感したことであるが、『尾張もの』の特長は、ゆったりとした舞いぶりであるということであった。/尾張から教えに来た人も、『平野を思い描いて下さい。濃尾平野は豊かです。出来高では日本一です。この土地は、神から与えられた土地、豊かな土地です。
午後9:34 · 2019年1月5日

だから、必死で神に祈ることはない。ただ神に感謝すればよいのです。』と、誇らしげに語ったという。まことに、その通りに雄大な振りである。/上野天満宮での第一回の稽古を終え、六月一日、三輪隆裕氏のお招きで、三輪氏が宮司をつとめる、清洲(須)市の日吉神社に参拝した。/本殿の前に四体の石の猿が
午後9:45 · 2019年1月5日

あった。それを見て光寿斉氏が、尾張から来た人が語った話を思い出された。それは、豊臣秀吉の出生にまつわる次のような話であった。/『秀吉は、その母が山王の神に祈って生まれた申し子で、神から〈日吉丸〉と名付けよというお告げがあった。信長もそれを知っていて〈猿〉と呼んだ。』/これを聞いて
午後9:06 · 2019年1月6日

いた三輪氏は驚いて、『その通りなんです。ここが、その日吉山王神社です。秀吉公の母上が奉納した土塀が残っています。安産石というのもあります。』と言って、案内して下さった。/その後、社務所に行くと、もっと驚くべきことが待っていた。/社務所には、戦前から現在までの氏子総代の写真が掲げて
午後9:13 · 2019年1月6日

あった。何げなく見ていた光寿斉氏は、その中の一人の写真の前で動かなくなった。『この人や!この人が、尾張から三人連れて挨拶に来た人やわ!』/一瞬、何のことかと三輪氏もポカンとしていたが、『えーっ!ほんとうですか!実は、この方が、その秀吉出生の伝承を文書から発見したんです。この人なら
午後9:20 · 2019年1月6日

その話をしても当然です。』と、興奮した様子で話した。/その人は、河邑泰朗氏。この地方の豪農で、戦前の日吉神社の責任役員であり、清洲町町長もした人であるという。立派な顔立ちである。/尾張ものを教えに来たのは六人であるが、まず最初にこの河邑氏が三人連れて挨拶に来た。河邑氏が大変りりしい
午後9:40 · 2019年1月6日

(この、清洲町町長をつとめた豪農が、筑紫舞を密かに伝えていた「傀儡子」だったということなのか?)
午後9:43 · 2019年1月6日

顔立ちであったので、山十の女中達が大さわぎをしていたという。河邑氏は、一泊しただけで、三人を残して、先に帰ってしまったという。/この三人が『古山王?の舞』を教えた。これを、六十年後に、その神社の宮司である三輪氏が伝承することになったということは、私には偶然とはどうしても思えない。/
午後7:30 · 2019年1月7日

日吉神社の本殿前にある四体の石猿にについても、その尾張から来た人が話していた。『この四つの猿は、〈見ざる、言わざる、聞かざる〉と、もう一匹は、〈お耳役〉といって、〈聞きとどけ役、見とどけ役〉の猿です。昔、この神社には、〈吐き出し参り〉という風習がありました。自分の心を神に吐き出す
午後7:37 · 2019年1月7日

のですが、それを、四つの猿が守っている。〈見ざる〉〈言わざる〉〈聞かざる〉で、その吐き出したことは、絶対に秘密にする。そうしてそれが、絶対に秘されているかどうかを見とどける役としてもう一匹の猿がいるのです。/これは一種の懺悔のようなものですが、こころを浄化させるために、安心して
午後9:17 · 2019年1月7日

吐き出せる所が必要だったんですよ。/昔々、戦争があった頃、落ちのびて来た一人の兵士が、このお日吉さんで、神のお供えものを食べ、お賽銭を盗みました。神さんや、四匹の猿はもちろん、宮守も一部始終見ていましたが、見ざる、言わざる、聞かざるで、誰にも言いませんでした。/何年かたって、その
午後9:24 · 2019年1月7日

兵士は、歳?をとり、手柄を立て高い身分にとりたてられた時、その時のことを思い出し、お日吉さんに沢山のお礼をしておかえしをしたということです。/お日吉さんには、皆が吐き出し参りをしました。普段人には言えないようなことを吐き出しに来たのです。吐き出しても、四匹の猿が、その人の秘密は
午後9:18 · 2019年1月8日

守ってくれます。/境内に敷きつめられている小石に向かって吐き出すのです。これを〈聞き石〉と言います。その石は、いろんな人の吐き出しを聞いているうちに色が変わってきます。それで、近くの川に運んでつけておくのです。五日から十日位つけて置くと、またもとの色になるので、境内に運んで来て
午後9:25 · 2019年1月8日

置きます。』このような話であった。/尾張には、日本で唯一人の検校、土居崎正富氏がおられた。光寿斉氏とは二十年来の親交があり、尾張系の貴重な古曲の伝承者であった。そして、伺えば、上野天満宮の半田寛宮司の父君義正氏と土居崎検校は、ともに佐藤検校に学ばれた同門であったという。そして、
午後9:34 · 2019年1月8日

(土居崎正富検校〈1920-2000〉については、検索すればいろいろと出てくる。)
午後9:37 · 2019年1月8日

その佐藤検校は、光寿斉氏の師であった菊邑検校と親交が篤かった。不思議な縁の糸を感ぜざるを得ない。/現在では、日吉神社で神事芸能研究会の名古屋教室が毎月開かれ、会員達が伝承にいそしんでいる。/『古山王?の舞』も、三輪隆裕宮司の子息である三輪禰宜が伝承することとなった。/また、先述した
午後10:12 · 2019年1月9日

『吐き出し参り』の風習は、三輪宮司が『吐き出し祭り』として現代に甦らせ、日吉神社の年々の例祭としてとり行われている。/『吐き出し祭り』では、三輪宮司によりくぐつの事跡をしのぶ祝詞が奏上され、続いて本殿で『古山王』の舞が奉納される。その後参列者は皿?を受け取り、おのおの『吐き出し』
午後10:23 · 2019年1月9日

たいことをそこに託し、それを境内中央の石にぶつけて割るのである。/『穢れの多い現代だからこそ、このような祭りが必要』との三輪宮司の志は、かつて世の人々の穢れを我が身に受け、舞によってこれを祓い、神に託すことを○として生きたくぐつの一族の精神を、今の世に受け継ぐものと言えよう。/
午後10:32 · 2019年1月9日

かくして『古山王』の舞が、それを伝えに神戸までやってきた人々のゆかりの神社で恒例として舞われるようになったことも、感慨深いことである。/今回取り上げたように、筑紫舞の曲目には、尾張ものの他にも筑紫もの、畿内もの、出雲もの、越もの、東ものといった各地域ゆかりのもの、さらには大和や
午後10:38 · 2019年1月9日

近江、明石といった特定の土地にゆかりのものもある。一つでも多くの曲が、再びそれぞれの地で舞われる日が来ることを念願してやまない。」筑紫舞聞書 ⑥ 終わり
午後7:06 · 2019年1月10日

偽作論は「鎌倉後期の僧侶たちが偽作したもの」ということになっているが、それでは『二中歴』所収のものを説明できない。(時期的な問題、『二中歴』に関わった人の問題。)
午前4:08 · 2019年5月19日

実証主義者たちは、上の偽作論を概ね肯定しているのではないか。「実証主義だから、史料が少ないこのことには触れない」というのもどうか。もしこの年号群が実在していたのなら、歴史が大きく書き変わるはず。今の(実証主義者たちも認める)歴史像を守るのであれば、全力でこの偽作を論証すべきだ。
午前4:37 · 2019年5月19日

「九州王朝論」がフツフツと残り火を保っているのは、偽作論があまりにも安易だからだ。説明できていないものを「説明できた」と放りっぱなしにしているから、間隙を縫って「トンデモ論」さえ飛び出す。大上段に振りかぶって『日本国紀』を切りまくった人がいたように、「古代年号」も切りまくるべき。
午前4:49 · 2019年5月19日

古田武彦氏が亡くなったし、所功氏の「偽作論」があるからと、安心し過ぎではないのか。所氏のは「こう考えられる」と説明しただけのもので、「実証」の片鱗すらない。歴史家はそれで良いのか?(百田氏がこれを言ったら、みんな必死になって叩くのだろうか? 叩ける論理を持っていないと思うけど。)
午前5:00 · 2019年5月19日

「九州年号論」は「ブツ」を基にした「論」である。古代末期に「六世紀半ばにこの年号があった」と紹介した「ブツ」がある。これをこの時期の捏造物と誰が論証したかという話である。(誰もしていない。)
午前5:11 · 2019年5月19日

まあ百田氏が「古代年号実在論」を説く訳はないですがね。そんなことでもした日には、右からの総攻撃で論壇にはおれなくなりますわな。(桂ざこばの口調)
批判されついでに、そんなこともやってみてくれないものかしら。
午前5:29 · 2019年5月19日

「右からの」と書いたのは書き過ぎで、科学的論証が出来たなら誰もが認めるはずだ。この、「科学的論証」を出来ていないところが、「実在論」の弱いところ。古田氏も論証出来ていなかったのに、本人も支持者たちも出来ているかのように思ってしまっているのが、多くのトンデモ論を生み出す背景。
午後1:02 · 2019年5月19日

「科学的論証」たって、結局は「ブツ」の話になる。「九州年号論」者は(何のかのと言いながら)「せめて八世紀ぐらいのブツ(六世紀半ばに、それらの年号群が存在したと主張する史料)」がほしいと思っているのではないか。
午後2:12 · 2019年5月19日

そこで「代用品」になるのが『続日本紀』や『類聚三代挌』『藤氏家伝』に見られる「白鳳」(「朱雀」)年号という訳だが、これはすでに書いているが、「古代年号群」の中の「白鳳」「朱雀」と思うことも出来るし、そうでないと見ることができるものだ。
午後4:51 · 2019年5月19日

実在論者は、『藤氏家伝』が何故649年を「白鳳元年」とするのか説明せよ。偽作論者は、上の三書に何故「白鳳」や「朱雀」という年号があるのかを説明せよ。「実証主義」のせめての面目はこんなところにあるのではないか。
午後5:40 · 2019年5月19日

上のは、自分がそこで止まっていることを偉そうに書いてみただけですけどね。自分はこういう狭いところからしか見ることが出来ないので、「百田歴史」に対して「実証主義」でなきゃという批判があることから、自分の知っている「実証主義」の段階はこんなものではないかしらと振り返ってみたものです。
午後6:12 · 2019年5月19日

訓練を受けた研究者の、感想でも良いので、ほしいと思っています。切に...。
午後6:43 · 2019年5月19日

訓練された歴史研究者は、こんな年号群なんて即座に偽物と思ってしまうのだと思う。わたしはそういう勘所の掴まえ方を羨ましく思っているのだが、でも理論的に、素人に分かるように説明してもらえないものだろうか。「ひと目見て、少し史料状況を知って、偽物と判断できるのは何故か」。
午後7:27 · 2019年5月19日

井沢元彦『逆説の日本史』最新版文庫を買い溜め志向で買ってしまった。「実証主義者」から批判されているので、どんなところだろうと思いながら読みたい。今までは楽しんで読んでいて文庫は全部読んでいる。(違った、買っている。)
今のところ、新しい発見があったように思ってばかりだったけど...。
午前11:41 · 2019年5月20日

「実証主義者」も「実証主義」と言いながら、そうでないものを決まったように思ってしまっているのではないか、と感じていることは上の通りだ。
午後0:01 · 2019年5月20日

あの博覧強記のすんすけさんにして、「古代年号群江戸期偽作説」だったのは衝撃。呉座勇一さんにしろそういう固定観念がないとも限らない。(実証主義であっても...。皮肉でなくそう思う。)
午前5:45 · 2019年5月25日

あれだけ『二中歴々々々』と(「二厨轢」と揶揄されようと〈そんなことはない〉)呟いてきたのに、届いていなかったのね。今回届いたのであれば嬉しい。
午前6:09 · 2019年5月25日

今気付いた訳でもないが、古田説にも大きな欠陥があって、(百田氏が改訂版を出さないから批判されているように)『失われた九州王朝』の改訂版が出されるべきだった。確かに衝撃的な内容で「古代通史」的な書物としては処女作だったから、そのまま大事にしておきたいというのも分からぬではないが、→
午後7:39 · 2019年5月25日

『失われた九州王朝』が古田九州王朝説の真髄だからと言って、そしてこの書物を批判したからと言って、古田説を批判したことにならないところがある。以下、わたしの「得意分野」である「古代年号史料論」でのみそのことを述べていきたい。(古田説はアメーバーのように成長する。)→
午後7:57 · 2019年5月25日

『失われた..』を読んで、特に年号論を読んで、テキストクリティークに慣れた人なら、一瞬にしてこの本は駄目だと思うだろう。江戸期に「九州年号」という写本があったからと言って、それが古代まで遡って存在したとは言えない。それを指摘すると、次の本ではもっと古い別の「本」があったと主張する。
午後9:00 · 2019年5月25日

じゃあ『失われた..』は、間違った本かというとそうは言わない。今でも古田武彦氏の代表的な本であり、この本から読み始めて「九州王朝説」に惹かれる人も多いはずだ。他方、この本を読んで「史料理解」がおかしいと思い、その後を読まない人もいる訳である。まるで、百田尚樹氏の『日本国紀』第一刷。
午前6:24 · 2019年5月26日

わたしは、鶴嶺戊申が本当に古写本『九州年号』を見たのかということを疑っている(要するに捏造と)ものだが、鶴嶺が本当に見たとして、その後誰もその本を見ていない。見たと書いてあるだけのものを古田氏(および支持者)は信用する訳である。「実証主義」と対極の考えがここにある。
午前6:45 · 2019年5月26日

仮に本物と考えて論を進めようという感覚が、古田氏にも支持者にもない。「仮に..考えているだけ」ということであれば、批判が出た時に「そう言うこともあるかもね」と振り返れるはずだが、「本物に違いない」と思いこんでいると、批判は受け付けられなくなる。
午前7:01 · 2019年5月26日

わたしが史料を漁って、鶴嶺の見たという古写本『九州年号』なるものは貝原益軒『続和漢名数』を骨子として高安芦屋『和漢年契』をまぶしただけのものではないの? と指摘した時にはもう遅かった。「それはもういいの。もっと古い史料があったの。『二中歴』っていうの。」と、全然似ても似つかぬもの
午前7:12 · 2019年5月26日

が、以後の「九州年号論」の主役となっていくのである。そこには「九州年号」という言葉もないし、古田氏が古写本『九州年号』について並べた諸解釈もない訳だが、「九州年号」という言葉だけが引き継がれていった。『失われた..』という「古代通史」は廃墟となったのに、その間違いは検討されぬまま。
午前7:23 · 2019年5月26日

『失われた..』が今でも大きな顔をしているから、「古代年号群江戸期偽作説」のように勘違いされても仕方のないことだと思う。古田説はアメーバーのように成長していて、以前に書いたことはそのまま放置されている。そこを批判しても「今はそう思ってません」と木で鼻をくくったような返事があるだけ。
午前7:39 · 2019年5月26日

百田尚樹『日本国紀』ではないが、少なくとも索引が必要だ。誰かが古田氏の「九州年号論」を知りたいと思っても、どの本のどの部分を読めばそれが分かるというのかと言えば、そんなものはない。wikiは不充分。主張が定まっていないから不可能かも知れんが。
午前7:55 · 2019年5月26日

【2020年】
しかし、「九州王朝って日本じゃないんだ麻生さん」という言い方は、どうしても「九州王朝実在」前提と読めるのだが...。(日本のこえ派、いいだももの系統、正森成二、松本善明等は「九州王朝説万歳」だったけどね。)(正森等はそれで国会質問を残している。)(平野貞夫も「九州王朝説」だった。)
午前10:31 · 2020年1月20日

取り敢えず過去ツイを。←「乗っ取って」は、「則って」の間違い。
午前10:51 · 2020年1月20日

正森質問を読み返してみると、かなり「イって」いる感じで、日本共産党も、今では恥ずかしいところもあるのではないか。(なお、丹生山明要寺を「二次発見」したのはわたしで、わたしも日本共産党の国会質問に資料を提供した一人と言えるのかな?)
午後3:14 · 2020年1月20日

その祭りの本当の意味での「時代考証」が出来てるのだろうか。だから福永氏のキチンとした論文がなければならないと考える。(古田氏の思い付きを思い出すだけ。)(youtuveばかりでは駄目だ。)
https://twitter.com/kodaizine/stat
午前7:34 · 2020年3月1日

これなど、福永氏はかなりヤバい。「中元」「果安」などの年号は、江戸期の高安芦屋が言い出した「古代年号」であり、その高安芦屋たるや根拠のないことを書き散らすことで定評のある人だ。(藤原貞幹と並べられる人。)
午前8:21 · 2020年3月1日

そもそも「『襲国偽僭考』によれば」というのが間違いで、「『襲国偽僭考』が引用した高安芦屋『和漢年契』によれば」としなければならない。
午前8:26 · 2020年3月1日

福永ファンは心すべきと思うが、年号論に関しては、福永氏は古田氏同様、史料の来歴などに考慮を払わない人です。
午前10:31 · 2020年3月1日

くどいが、『襲国偽僭考』に「中元」「果安」の年号が載っているなんて理解は、本当に駄目ですからね。(引用関係が分からなければこのことについて語る資格なし。)ここで大元の『和漢年契』著者高安芦屋(ろおく)について書かれた平凡社『人名辞典』を引いておきます。
午後6:19 · 2020年3月1日

k.hide39's tweet
午後10:23 · 2020年3月3日

福永さんは、『和漢年契』をご覧になりましたか? まずそこを聞いて下さい。それで「中元・果安の年号など何処にもない」と言うのであれば、その方は「粗忽」であるだけです。わたしが『襲国偽僭考』を見たかについては、「from:nemurikappa」で存分に検索して下さい。「誹謗中傷」とする前に(以下略
午前0:04 · 2020年3月4日

能楽に残された九州王朝の舞楽(正木裕)。
これは「九州王朝説」に拘らなくとも面白いと思ったけど、サラっと書かれているのが「九州年号資料は、基本的には九州王朝の事績を記すと考えられるから」。
古代年号が搭載されていれば論証なしにそういう扱いにすると言うこと。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou98/kai09806.html
午前4:19 · 2020年3月12日

世阿弥は久留米の「いぶせき家」の出であるから、能楽の曲の中に九州の話もふんだんに残るものと思う。「九州王朝」に無理やり結びつけなくてよいのだ。
午前10:23 · 2020年3月12日

ここの話は前にも紹介したが、『娘道成寺』の原形は、宗像・鐘ヶ崎にあると言うこと。
午前10:27 · 2020年3月12日

この話が本当に宗像のことと立証できるのなら、似た話ということも出来る。(普通は浪速の話なんだけど。)
午前10:32 · 2020年3月12日

それにしても「....基本的には九州王朝の事績を記す」とは何ぞや。そんな楽な論証で済ませてよいと考えていると思われるだけでも、その「会」の質が(一瞬で)判断されるのではなかろうか。これ、近くの神社の江戸時代の縁起に「古代年号」があれば「基本的に」九州王朝の事績が書かれているってこと。
午後0:29 · 2020年3月12日

「九州王朝論者」は大袈裟に考えるのだが、(何故かは分からないにしても)鎌倉期以降の寺社縁起に「古代年号」が書かれるのは当たり前のことと考えて、それは何故かと考えていくことだろう。要するに「九州王朝論」の立場から「古代年号」で「嬉しがり過ぎ」ということだ。
午後1:46 · 2020年3月12日

重要なことは、何故か密かに伝わってきた『二中歴』(鎌倉期初頭)を、当時の僧侶たちも江戸初期の貝原益軒も知らなかったということで、これは「九州王朝論者」が喜ぶのは無理はないと思う。しかし、それだけの話である。これが「九州年号」とは誰も論証していないのである。
午後2:13 · 2020年3月12日

正確には「『二中歴』古代年号群部分」。
午後9:34 · 2020年3月12日

青松光晴's tweet
午前11:55 · 2020年3月16日

リンクできなくて削除しました。
午後2:55 · 2020年3月18日

失礼しました。あちこちで確認出来るものでしたね。
午後2:57 · 2020年3月18日

青松光晴's tweet
午後3:26 · 2020年3月18日

これらの年号が六世紀に使われていたかは、論証されていないと考えています。(従来説の「偽作論」も不十分と考えています。)
午後3:33 · 2020年3月18日

一週間ほど前の、福永晋三さんへの手紙です。
午後3:38 · 2020年3月18日

ごめんなさい。これもお読み戴ければ...。
午後4:00 · 2020年3月18日

青松光晴's tweet
午後4:17 · 2020年3月19日

ですけれど、「善記」等はもっと苦し紛れになりませんか?
午後4:27 · 2020年3月19日

枝別れを解消するため、途中の部分で削除したのを付けておきます。(ここも枝別れあり。)
午前7:39 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後4:05 · 2020年3月19日

それはまあ、記録あるものはある程度認められる訳ですが、「継体」やら「善記」等の論証は苦労すると思いますね。(不可能と思ったりします。)
午後4:23 · 2020年3月19日

新羅の「建元」年号は、その記録が後代のものなので疑われたりしています。
午後5:39 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後8:31 · 2020年3月19日

キチンと「ブツ」があるから、そのまま認めるべきですね。
午後8:35 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後8:52 · 2020年3月19日

わたしから言えば同じことになりますが、そういう年号は日本にもあるとされています。「大化」「白雉」「朱鳥」、広く取って「朱雀」「白鳳」「法興」。これらは「九州年号」としなくとも様々な説明がなされ得ます。依然として、「善記」等は無理矢理の説明となります。
午後9:00 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後10:12 · 2020年3月19日

これ、説明出来るとしましたが、「九州年号」ということがありうるならば、蘇我氏の年号であっても構わないぐらいのところです。(後世の学者を待ちたいです。)「ブツ」がある限りは「実在」としなければならないと思いますが、異様過ぎますよね。(ホントは何かの間違いとしたいです。)
午後10:25 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後10:34 · 2020年3月19日

いや、その命題は、「法興」では適用されません。「法興」は中世の「ブツ」ではないのではないでしょうか?
午後10:39 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後10:44 · 2020年3月19日

「法興」の「ブツ」は古代のものですね。(今のところ)中世の「古代年号」を、「古代」の「法興」を理由にして「古代のもの」としてはならないと考えています。
午後10:48 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後10:52 · 2020年3月19日

それは良いと思いますよ。「間違いであってほしい」というのは願望ですからね。
午後10:55 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後11:01 · 2020年3月19日

自然と思うのは「願望」と思います。大体、出方が特異なもので、連続年号はすぐ想定出来ないと思います。まさか、『襲国偽僭考』を思い浮かべてはおられませんでしょうね?
午後11:07 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後11:10 · 2020年3月19日

まあこれについては異論があるということで、どうですか?
午後11:12 · 2020年3月19日

青松光晴's tweet
午後11:18 · 2020年3月19日

「法興」については、既にここのところで認めていたのですよ。
午前5:24 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午前10:03 · 2020年3月20日

もちろん、と言いたいところですが、わたしは大体、「九州年号論」との比較で物を言うことが多く、「善記」等の年号が古代に実在したと言うなら、むしろ「同時代史料」の『日本書紀』の「大化」を尊重すべきというのが本意です。従来説の側にも「大化年号不在論」等があるのは知っていますし、→
午前10:13 · 2020年3月20日

それについては、同調したい気持ちもあります。
午前10:14 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午前10:31 · 2020年3月20日

いやこれは、昨日の「朝鮮半島に年号があるなら日本に年号があると考えるのが自然」というのに対し、わたしの「(不均等発展というのがあるのだから)日本に年号がなくても構わない」というのと関連してくるのですね。(あると言うならまず『日本書紀』と"意地悪に"言っているだけかも知れないです。)
午前10:41 · 2020年3月20日

ある意味、『日本書紀』の三年号は疑っても良いと思っていて、むしろ『続日本紀』や『類従三代格』の「朱雀」「白鳳」は信じられると思っているぐらいのことですかね。
午前10:51 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午前11:59 · 2020年3月20日

それだけですね。
取りあえず、白鳳・朱雀に対する考え方を。
午後0:00 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後4:00 · 2020年3月20日

それを知りたいところですね。何処からこの知識を得たのか。まるっきりの「嘘八百」とは思いたくない訳で...。だからと言って「古代からの伝承」と古田さんのように思ってしまっては、いわゆる「歴史的クラスタ」から相手にされないのは目に見えています。ミッシングリンクをあくまでも探すべきと..。
午後4:08 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後4:14 · 2020年3月20日

「明白」というのが言い過ぎなのです。「元年」が違えば「別のもの」という認識は必要と思いますよ。
午後4:16 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後4:30 · 2020年3月20日

一体、何と何が偶然の一致なのですか?
午後4:34 · 2020年3月20日

例えばですよ、『日本書紀』645年大化と『愚管抄』695年大化を比べて「偶然の一致でない」から後の方を正しいとするのですか? そういうのは数理的思考ではありません。『二中歴』を知らず知らずの内に特別なものとしているだけの思考法ではないですか?
午後4:52 · 2020年3月20日

関連性がある場合、「普通は」後の方を真似と判断しますよね。
午後4:56 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後5:08 · 2020年3月20日

「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大化」に関しての話てすね。
午後5:30 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後5:45 · 2020年3月20日

そんな通説は何処にありますか?
後半分の規定に何か意味がありますか?
午後6:21 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後6:32 · 2020年3月20日

それと、あなたの書く「『二中歴』は...」とは似ても似つかぬものですよね。
午後7:05 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後7:40 · 2020年3月20日

まず『二中歴』という規定からして間違いです。『二中歴』は「事物辞典」という認識が必要です。あなたの言われているのは、『二中歴』古代年号群部分とすべきですし、古代年号群を語る時に数多ある「古代年号群史料」の中から、『二中歴』古代年号群部分を強調する意味が分かりません。通説のように→
午後7:48 · 2020年3月20日

「古代年号群史料」および単体の「古代年号」を総体的に捉えて語るのが正解だと思います。群の中の五年号が過去にあるから「通説」が否定されたと考えるのは甘過ぎます。通説側はそのことはキチンと認識していますよ。(久保常晴、所功等)
午後7:55 · 2020年3月20日

青松光晴's tweet
午後9:20 · 2020年3月20日

建設的な議論をするためにはご自分が史料状況をどれだけ把握しているかを認識することから始めなければなりません。あなたの書くことから察するに、ほとんど古田氏の『二中歴』論から脱しきれていないように見受けられます。せめて、「古田史学研究会」の古賀達也氏の論考でも読んでみられたら如何で→
午後9:33 · 2020年3月20日

しょうか? わたしから見て不十分な論考があると思っていますが、古田説に安住せずに、更に「古代年号実在」の根拠を求めて苦闘しておられます。他の人の研究の上澄みだけを読むのでなく、ご自身で史料探求の努力を重ねられることを願ってやみません。再度、話しかけて戴ければ有難いと思っています。
午後9:38 · 2020年3月20日

批判してるのに、批判に答えず「建設的な議論が出来ない」なんて、おかしくないか。
午後10:20 · 2020年3月20日

「九州年号(とされたもの)」は、鎌倉期以降の有名寺社で「古代に実在」として扱われてきた。その年号が九州その他の寺社で使われていたからとて、そこで不思議がる必要はない。大元の有名寺社で何故使われたかを考察すべきである。(もっと先にそれ以上の大元があれば、それに越したことはない。)
午前4:15 · 2020年3月30日

「九州年号(とされたもの)」が中世の寺社縁起、「年代記」に「天皇代序」と共に盛大に拡散(遠くは羽黒山まで)されているのだから、「九州年号」とは言えないわな、と言うのが正直な感想でなければならないはずではなかろうか。
午前11:17 · 2020年3月30日

わたしが鶴峰戊申が「でっち上げた」と主張する古写本『九州年号』が、仮に実物があったとしても、江戸期にそれがあったと言えるだけのものだ。依然として、中世の史料状況を見るならば、「九州年号」と言うこと能わずなのは同じことである。
午後2:45 · 2020年3月30日

おまけ。「九州年号」の載っている「資料」は「九州王朝文書」と考えてよいなど、堕落の極みと思われる。(でも、割りとそんな考えの人が多いんだよね。)
https://twitter.com/nemurikappa/status/1235837053843042306?s=09
午後3:46 · 2020年3月30日

(ごめんなさい)わたし的な感想を言いますと、この史料は、「壬申朱雀」「癸酉白鳳」「乙未(695)大化」を持つ『廉中抄』型年号史料となります。(重ねてごめんなさい)
午前8:03 · 2020年5月26日

他に「壬申朱雀」「壬申白鳳」「乙未大化」を持つ『愚管抄』型年号史料等もあり、いろいろ。
午前11:19 · 2020年5月26日

「白雉」「大化」「朱雀」「白鳳」「朱鳥」「大化」の順に年号立てを持つ史料はそれなりに多くて、「九州年号論者」はこれらを見て喜ぶ訳だが、喜ぶのは自分が見たい部分を見ているだけだから...。
午後4:50 · 2020年5月26日

「神社縁起」「年代記」などにはこの系統の年号が書かれているだけのことかも知れないのに、「九州年号」だと騒ぐ人を何度も見かけた。
午後5:03 · 2020年5月26日

『日本書紀』は「古代年号群史料」ではありませんね。『日本書紀』が何故か分からないけど、「丙戌朱鳥」と捏造したために後継史料(いっぱいある)が「右へ倣え」し、『二中歴』に入ってしまったように思っています。(『書紀』三年号はなかったのではないかというのが、今のところのわたしの考え。)
午後11:48 · 2020年9月5日

ならば、『日本書紀』「大化」も「白雉」もそのまま大事にされる訳ですね?(かなりの学者も三年号に疑問を持っておられ「理路」は成り立つと思ってます。)
https://twitter.com/hinotomoki2/st
午前0:00 · 2020年9月6日

年号の書かれていない木簡に何かの論証力を期待しては駄目だと思いますよ。(逆に言えば『書紀』と干支が一致すれば『書紀』の信頼度は増すとは思いますが...。)
午前0:18 · 2020年9月6日

どんな人が「白雉三年」と思っておられるのですか?
午前0:22 · 2020年9月6日

だけ?(それからあなたにコメントをつけたわたしのツイートも、誰もが返信出来ないようになってるけど、何とかなりませんか?わたしはそういうのは嫌で...。)
午前0:29 · 2020年9月6日

と言うことで、今のところ『書紀』三年号の実在を証明する「金石文」は無いものと思ってます。
午前0:36 · 2020年9月6日

(わたしが同じ設定にすると、二人ともがフォローしている人しか返信出来ないことになりますね。)
午前0:48 · 2020年9月6日

古田後継者グループ以外で「年号木簡」と思ってた人もおられたのですか?
午前1:04 · 2020年9月6日

両方とも了解です。(返信されたい方は、コメント付きリツイートにして戴くと、わたしがこの流れの中に持ってくることにします。)
午前1:11 · 2020年9月6日

確かに「白雉」を捏造する根拠は薄いですかね?(手のひらを返しますが、「朱鳥」にしろ「大化」にしろ捏造とする根拠は薄いなと思うこともあります。←安易に古代年号群に結びつけることに反対)
午前6:40 · 2020年9月6日

ごめん、わたしは「釈古派」「疑古派」という概念がよく分かりません。とにかく考えるのみです。
午前9:57 · 2020年9月6日

わたしも「釈古派」だと思うんですけどね。「状況証拠」の採り方が余りにも性急、恣意的と思う時に異議を唱えていると思ってます。
午前10:08 · 2020年9月6日

だから単体の年号として考えるのだったら、『日本書紀』の「大化」「白雉」も大切に考えるべきです。また「白鳳」は『藤氏家伝』ですね。都合の悪いものははね除けるような、そういう恣意的な「史料操作」が嫌なんですね。
午前10:23 · 2020年9月6日

論理を突き詰めるとしたら、こういう考えもあるとは思います。
午前10:52 · 2020年9月6日

いろいろ議論してきて、「6世紀からの古代年号群」実在論者(しかも「丙戌(686)朱鳥含む」論者)にとって、『日本書紀』の「乙巳(645)大化」こそが邪魔な存在なのかな?と思うようになった。→
午後9:37 · 2020年9月8日

①周知のように、喧伝される「古代年号群(九州年号とされたもの)」は、早くとも鎌倉期初頭に現れたものである。これが古代に実在したとするためには様々な「説明」が必要となってくる。そして、まさかの『日本書紀』の中の「朱鳥」が「九州年号」として実在したものの名残りとされてしまうのだ。→
午後9:54 · 2020年9月8日

②まず、いつの間にか「古代年号群」は実在したものと思われている。(常にこれが先)
③「古代年号群史料」の中で一番古いものはどれか、が検証される。(→鎌倉期初頭の『二中歴』)
③” 実態は古田武彦氏の気に入った史料が『二中歴』だった(該書の註釈に珍しい記述)という事情がある。→
午後10:21 · 2020年9月8日

④しかも『二中歴』は(結果的に)孤高の書だった。
⑤『二中歴』「古代年号群」部分は所功氏が詳述するまでは(幾星霜を乗り越えて)誰も知らなかったのではないか。(明治期以降の古辞書研究者はそれ自体は紹介しているのに、「古代年号群」部分に注目している気配はない。)→
午前7:00 · 2020年9月9日

⑥ ②③により、「古代年号群」の原形は『二中歴』のような「古代年号」の形(丙戌朱鳥を含む)になってしまう。(それは信仰のようなもの)
⑦『書紀』にも「丙戌朱鳥」があるではないか、という話になっていく。(『万葉集』にもあるという話に...。←『書紀』にあれば後発史料には必ず現れる)→
午前11:55 · 2020年9月9日

⑧通説派とされている学者でも「朱鳥年号」に疑義を持っているものはいるが、とにかく『日本書紀』が丙戌年を「朱鳥」としているから後発史料が「朱鳥」を踏襲することは仕方ないことなのに、その「史料状況」さえ、「古代年号に朱鳥がある」派は自分らに有利な状況と思ってしまうのだ。→
午後0:31 · 2020年9月9日

⑨『二中歴』にしても同じこと。該書内「古代年号群」の中の「丙戌朱鳥」は、『日本書紀』のそれの影響を受けただけのものかも知れないのに、何故か12世紀史料を優位に置いてしまって、『書紀』の「朱鳥」を(該書を根拠に)「古代年号群」の一つと思ってしまうのだ(相互にもたれ合わせているだけ)。
午後2:44 · 2020年9月9日

⑩このように『日本書紀』の「丙戌朱鳥」は本来31個の「古代年号群」の一つがその場所にポッと現れ出たものと考えるのならば、その他の『書紀』「乙巳(645)大化」「庚戌(650)白雉」についてはどのように説明するのか。→
午後5:28 · 2020年9月9日

⑪「白雉」については「古代年号群」にも「壬子(652)白雉」があるので、説明術が工夫される。(曰く、その頃の「暦」には二年差が見られるからそれに違いない。)(ある時は二年差を主張し、二年差が確認出来ない時には主張しない、という「出当たりな」説明だ。←結局「暦」の実態の提示がない。)
午前11:10 · 2020年9月10日

(「出当たりな」という言葉は変か。「場当たりな」とか「出任せな」が適当やな。でも、なんか、「出たとこ勝負」的な感じでシックリと来るので、そのままにしとく。)
午前11:24 · 2020年9月10日

(「行き当たりばったり」という言葉もあったな。)
午前11:27 · 2020年9月10日

⑪" 暦の年差問題にはいろいろな立論があって驚く。ある史書に事象の記述があって、同じ史書の別の年次のところに同じような記述があれば(そして13年差があるとすると)、その頃に13年差の暦があるとする。そしてその辺りの記述の固まりを移動させてみると、上手く自説に当てはまったりして大喜びだ。
午後5:13 · 2020年9月12日

その時には2年差問題など忘れてしまうのだから便利な思考方法である。(そしてまた、その後には通常の暦を使用して平気だ。)→
午後5:13 · 2020年9月12日

上の枝別れ部を辿って下さい。
午後11:43 · 2020年9月13日

⑫そして残る「乙巳大化」問題だが、「朱鳥」を「九州年号」と思う論者は、このことを説明し得ていない。(何か言っていても言っていないと同じだと言っておく。)古い史書に「丙戌朱鳥」があるから「実在」を主張するならば、古い史書に「乙巳大化」があるからその「実在」を主張しなければならない。
午後10:06 · 2020年9月15日

しめおん1947's tweet
午前6:57 · 2020年9月20日

? 木簡?
午前8:32 · 2020年9月20日

この木簡のことですか?
午前10:36 · 2020年9月20日

「元(?)年壬子」の木簡を「(白雉)元年壬子」としてしまって、「(九州年号とされていた)年号群」がその時代に存在していた根拠とするのには、二重、三重の詐術がある(神戸市教育委員会は「三年」と読み取って、『日本書紀』「白雉」の根拠になるかな?と考えているようだ。)。→
午前11:00 · 2020年9月20日

「古田史学の会」に特徴的なのは暦の年差問題をいうことだが、それならば、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌として、「元年壬子」の木簡が現れても「誤差の範囲」と言えるのに、この場合は干支を厳密に考えて、「九州年号」に話を持っていこうとするのである。→
午後0:34 · 2020年9月20日

まさにご都合主義の典型というべきだが、こういう手法は現在の週刊誌等にもあって、『週刊新潮』は中村格氏の発言に「()かっこ」で補って、「中村氏が『逮捕状の執行を止めた』と発言している」ように細工し、これが世の常識となっている感さえあるのだ。→
午後1:23 · 2020年9月20日

横道に逸れたが、こういうことですね。
午後1:29 · 2020年9月20日

便宜上、「神事芸能研究会」『筑紫舞聞書き』の論考を繋げておく。
午後9:11 · 2020年9月20日

この古賀達也氏の「鬼室集斯墓」論考については、詳しく批判したいとも思うが、結局は①いつ頃のものか特定出来ていない。②「朱鳥三年」とあるから『書紀』(元年だけ)の影響下にないように言うのだが、「史書」からの誤伝なんぞはいくらでもあると考えるところだ。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/koga02ko.html
午後8:53 · 2020年9月21日

鶴峯戊申が古写本『九州年号』を見たと『襲国偽僭考』に書いているのは、わたしはまったくのデマだと思っているが、これなんかもデマの証拠を出せと言われれば「論理」で返すしかない。ただ、その論理を認めないものには効力はない。(まあ古写本『九州年号』があった証拠は?と返すのも可能だが..。)
午後1:23 · 2020年9月22日

「伝王仁墓」については、たとえ学説であったとしても後に伝承に転化する可能性はある訳で、(その辺の経緯を分析せずに)江戸期の「学説」として振り向かないのはおかしいことだ、とは思う(分析していないのかは知らない)。
午後1:32 · 2020年9月22日

大体、古代末期の文献(『廉中抄』など)に現れる「乙未(695)大化」等は「学説」なのか、「伝承」なのか。一人の学者が決めてしまって良いとは思えないけどね。
午後1:50 · 2020年9月22日

この古代末期文献の「乙未大化」は必ず「乙巳(645)大化」「庚戌(645)白雉」「丙戌(686)朱鳥」に加えて(670年頃の)「朱雀」「白鳳」を持つもので、『日本書紀』『続日本紀』の影響下にあるものに「乙未大化」がくっついたと考えざるを得ないものである。(「大化」が二つ)→
午後8:05 · 2020年9月22日

「庚戌白雉」は650年でした。
午後8:35 · 2020年9月22日

この「乙未大化」はある意味重要なのに、「古代末期」に現れる由来を的確に分析したものはいない。『二中歴』「古代年号群」の中に「乙未大化」があり、それと一致することをもって「古代年号群の片鱗」がそこに見えたと主張したい向きもありと思いきや「九州年号論者」でそれを主張するものはいない。
午後9:31 · 2020年9月22日

『二中歴』(鎌倉初期)は「年号群史料」の中で古いものだからと大切に考えておきながら、それより古い「年号史料」である『廉中抄』などは大切に考えない。その理由は、もっと古い『藤氏家伝』の中の「(649)白鳳」について考察しなければならなくなるからと思われる。(微妙に識別しているのだ。)
午後10:12 · 2020年9月22日

誰だって「古代末期」に現れる「乙未大化」が何なのか分からないと思うが、とにかく現れてしまうのだ。『書紀』『続日本紀』の影響下のものかも分からない。確実に言えそうなのは、『二中歴』「古代年号群」の中の「乙未大化」と同じ種類のものではないかということ。(それぐらいは誰でも思いつく?)
午後10:44 · 2020年9月22日

ループすることになるが、一応これも...。
午後10:01 · 2020年9月26日

そして...
午前7:54 · 2020年9月27日

そして、こんなことも書いていたけれど、「認識の歪み」はあったと思う。
午前10:48 · 2020年9月27日

ここは、自分の「悪魔的」な部分が出てるのかな?
午前7:37 · 2020年9月28日

「九州王朝説」「九州年号論」はおくとして、「法興」年号を蘇我馬子の年号とする分析は正しいのではないか。四方八方の文献を渉猟されていて敬服する。(竹田恒泰氏が聖徳太子が年号を建てたとか言ってたが...。)
https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12445259920.html
午前8:09 · 2020年9月30日

一応こんなことを言うだけは言えたんだけど...。
午前10:40 · 2020年9月30日

福永晋三さんはわたしの主張を受け入れられたと聞いています。この動画はその前のものと思われ、紹介されないのが良いと思います。
午後5:22 · 2020年10月4日

これですね。

(k_hide39 さん、失礼します。)
午後5:38 · 2020年10月4日

念のためですが、「中元」「果安」は同じような経緯で『和漢年契』に入り、『襲国偽僭考』に引用されています。
午後6:08 · 2020年10月4日

「歴史史料論」と「現在の事実」をいつも比べてしまうが、「文献」に何か書かれているからと言って、そういう歴史事実があったとは限らない。「被害者」と称する人が何か言っているからと言って、それは必ず事実だとは限らない。下のように「かっこ」で誤魔化してはならない。
午後7:59 · 2020年10月4日

イヌノ マキビ's tweet
午後8:10 · 2020年10月4日

ごめんなさいね。『襲国偽僭考』は伝承ではないです。(このお話は、最近されたものなのですか?)
午後8:14 · 2020年10月4日

イヌノ マキビ's tweet
午後8:28 · 2020年10月4日

古い動画であれば、わたしは安心します。最近のものであれば、福永さんは「歴史資料」の扱いについて、何もご存じないことになります。(そして、あなたが古い動画を紹介されたなら、福永さんを世間に誤解させると思うのですが...。)
午後8:34 · 2020年10月4日

イヌノ マキビ's tweet
午後8:45 · 2020年10月4日

どうやらこれが元みたいですね。わたしの批判を受け入れる前みたいなので安心しましたが、福永さんは(youtubeが流されるままにしないで)公に訂正されるべきと思いました。
[動画:改訂版 白村江の戦いと壬申の乱 講師 福永晋三]
https://www.youtube.com/watch?v=6ABhP72Zv2Y
午後8:54 · 2020年10月4日

偉そうに言ってしまうことになるが、人々は自分の得た知識(経験も)は「絶対」と思いたいのだ。わたしもまたそういう人間ではあるが、批判には誠心誠意答えたいと思っている。(相手にされないのは悲しい。)(嫌な相手のされ方は嫌だし、その境界は〈人によって違ったりしていて〉難しいけど...。)
午前6:32 · 2020年10月5日

『襲国偽僭考』は伝承ではないです、と書いて、馬部隆弘氏の枚方の「アテルイ墓」説は「伝承ではない」というのとリンクしてきてしまった。わたしもまた、変なことを書いてきたか知れない。
午前7:02 · 2020年10月5日

ここですね。辞典の発行の前に「伝承」が存在したことが確認されなければならない。(ここが馬部氏とネット内批判派との争点でしたよね。)
午前7:09 · 2020年10月5日

まさに鶴峰戊申が書いたことを「伝承」と思う人がいる訳で...。(そういう人を非難する訳ではなく、そうなりがちなんだなと改めて思った。)(古田武彦氏も「九州年号」を「伝承」程度に思ってたんだろうな。(・・;))
午前7:18 · 2020年10月5日

「伝承でない」と書くと「事実か」という突っ込みが入りそうだが、その時点での「捏造」「誤解」というのもある訳で...。
午前10:23 · 2020年10月5日

RT>言うのはおこがましかったけど、「在野の<元>研究者」と自称しても良いのかな? (ホントに狭い範囲だけど)誰も調べていないものを調べ、「事実」を提示しているだけなんだけど、調べずにいろいら言っている人に対しては「物が言える」...。
午前10:55 · 2020年10月6日

本当はwikipediaの「九州年号」関連のところが酷すぎるので「せめて」「資料事実」に沿って改編したい(してほしい)。(古い)古田武彦流理解から抜けきれていないからだ。
午後0:20 · 2020年10月6日

高安芦屋『和漢年契』、貝原益軒『続和漢名数』に触れない『襲国偽僭考』内「古写本『九州年号』」論なんてあるものか。( `Д´)/
午後0:28 · 2020年10月6日

「522年から実在したと主張され(後に)九州年号とされた31の年号群」の実在についてはほとんど諦めている。理屈としても平安末期までにしか遡れない年号群が、古代に「あった」などと言うのは(現時点では)妄説であるとしか言えない。(誰かあって、妄説と言われないようなものを出せないものか。)
午後2:57 · 2020年10月6日

と言う訳で、わたしはそれが実在していたとするなら「大化」は丙戌の686年と主張していたのだが、いまこの「案」を採用される向きがあると聞いてしまった。なので、「それはこの年号群全体の実在」が論証されてからにお願いしたく思う。
午後3:04 · 2020年10月6日

わたしとしては、単純にこれらの年号群の実在を信じた時期が懐かしくないことはないのです。(「丙戌大化実在」を大らかに主張し、「丙戌朱鳥」論者をこてんぱんにやっつけてみたい「情動」は常にあります。)
午後5:28 · 2020年10月9日

わたしとしては、あちこちからクレームが付くのを待っていて、それを含めて「増補」しようかと...。
午後7:33 · 2020年11月10日

(参考)以前、福永さんに送り、届いていると思っている手紙です。
午後5:30 · 2020年11月12日

(手前味噌になりますが)同じような意味での「(後に九州年号とされた)『善記』以下の31の年号群」の思想史的意味を探る著書が欲しいなと思いました。
午前1:45 · 2020年12月3日

「純粋日本人」の中には「渡来系日本人」を含むという定義が必要かと...。(要するに「純粋日本人」という規定は不可能であるということか?)(国籍要件を厳しくする必要はあるだろうが...。)
午後8:15 · 2020年12月16日

教えてもらったけど、「純粋日本人」と書いたようにするのはミスリードだった。(大意的には変わらない。)
午前4:03 · 2020年12月17日

あの博識のすんすけさんが「九州年号」は「江戸期に偽作されたもの」と思っていた。多分、足元の史料に「そんなもの」が無かったからと思うが、実際には「あった」のだ。
午後9:49 · 2020年12月19日

自分を「純日本人」と思う人は、(定義をキチンとつけて)それを証明してみろよという話だな。(防長の武士山口氏は「百済・琳聖太子」の末裔であることを誇っていた。)(これは李氏朝鮮との交流のためとも思えるが、他にもこのような武士はたくさんいたのではないか。←知らんけど)
午後0:26 · 2020年12月27日

要するに、こういう乱暴な定義が必要なのだ。(何も定義したことにならない。)
午後0:31 · 2020年12月27日

山口氏→大内氏(わッ、恥ずかしい。)
午後0:39 · 2020年12月27日

また我田引水になるが、大内家古文書には、「善記」以下の「(九州年号とされた)31個の古代年号」がよく出るのよね。(百済年号とか言われたりして...。)
午後2:02 · 2020年12月27日

【2021年】
ホンマに、「中世神話」のように、学界で『二中歴』古代年号群部分が「思想史」として注目されることを願うね。(生きているうちに、と書きたいぐらいだ。)
ある意味『二中歴』(古代年号群部分)は「秘匿されている」と言わざるを得ない。査読論文の現れることはあるのだろうか。
午前4:57 · 2021年1月3日

所功氏は、皇室関係の文献を渉猟中に『二中歴』を見て「古代年号群部分」に目を留めたのかな?と思う。
そして、たまたま鎌倉後期写本を見たために、「古代年号」の「偽作」は鎌倉後期からとやってしまった。(素人が専門家をバカに思った瞬間だったが、しかし素人が専門家を超えられる訳がない。)
午前5:25 · 2021年1月3日

明治の和辞書研究家が前田家「尊経閣文庫」『二中歴』を知っていても、所氏までの現代「歴史学者」は知らなかったのではないか。
古田武彦氏が『二中歴』を基に「九州年号論」を唱えても、『二中歴』でもって反論する学者はいなかった。(相手にしないと言うのは言い訳に過ぎないのではないか。)
午前5:38 · 2021年1月3日

わたしの感覚で言えば、わたしが一所懸命に「これで九州年号とされた年号群」の実在を主張する文献が「平安後期までは遡れる」のではないの?と書いている時に、古田武彦氏が「それは九州王朝文書」だと急に言い出して「かっさらっていった」、という怨念の経過がある。→
午前6:08 · 2021年1月3日

古田氏を支える目的で結成された「市民の古代研究会」の中で、地道に「古代年号群実在」を証明したいと思って「史料探し」に没入していたものは多くいた。中国文献でも古田氏より詳しく渉猟していた者がいた。ある時、古田氏は(ファンを引き連れて)「市民の古代研究会」を分裂させ逃亡した。
午前6:18 · 2021年1月3日

怨念と言えばこうなってしまうな。それよりも『東日流外三郡誌』問題が大きいのですけれど...。
午前6:21 · 2021年1月3日

tass'message

(寝てしまってました。)まあ、史料は万人のもの、ってヤツですね。それに向こうの方が「情熱的な」文章が書ける...ってところ。
午前8:16 · 2021年1月3日

tass'message

そりゃ、今でも亡き後の後継者がズラリ...。
午前8:24 · 2021年1月3日

tass'message

でも、「九州王朝説」に賭ける熱情(と信仰)はすごいもんです。一人ずつ(説の)王様は増えています。
午前8:31 · 2021年1月3日

tass'message

全部素人。わたしのように、専門家をバカにした素人。(わたしはいつからか反省してますけどね。)
午前8:38 · 2021年1月3日

もう少し詳しく言うと、その頃は政治運動化していましたね。一部の共産党衆議院議員、小沢系議員、共産党からの除名され運動家などが馳せ参じていて、「これはマルクス主義没落後のマルクス主義だ」との論説もありました。(そしてわたしも幸せの絶頂(^_^;))
午前10:49 · 2021年1月3日

tass'message

「九州年号」と言うより「九州王朝説」ですね。「マルクス主義」に価値が無くなったと思われた「ソ連の崩壊」後に、旧左翼の「精神的受け皿」となったぐらいの意味でしょうか。
午後0:07 · 2021年1月3日

「九州年号」は「九州王朝説」の重要な支柱となっていて、「年号群」が実在したから「王朝」があったはずだ、「王朝」があったからには「年号」もあったはずだ、の双方もたれ合い状態で「説の信奉」が保たれている、のかな?
午後0:22 · 2021年1月3日

久保常晴『日本私年号の研究』はもっと酷くて、鎌倉建長寺の『和漢年代記』(永徳辛酉〈1381〉で終わる)を実見したはよいが、欠損があり虫食いがあったことで古代年号群の「貴楽」より前と「命長」より以後がなかったことをもって、「無い部分はそれ以後に偽作された」と推定してしまうのだ。→
午後3:19 · 2021年1月3日

これを増田修さん(市民)が鎌倉国宝館や東大史料編纂所などに尋ね、この元禄写本を確認すると、原本に欠けていた年号群がキチンと揃っていた(原本にもあったのだ)。久保氏の仮説は何の意味もなかったことになるのだが、これが、いわゆる通説派の現況なのである。(見たものだけで処理していた。)
午後3:36 · 2021年1月3日

わたしは、こういうことをwikipediaに書き加えてほしいのだが、どうすれば良いのか、全然分からない。
午後3:50 · 2021年1月3日

年号を名に持つ寺は無数(今よく触れている建長寺だってそう)にある。しかし、「九州年号とされた年号」を名に持つ寺はそうそうにあるものではない。そういう意味では「丹生山明要寺」を見つけた時は、寺名も古そうなので大喜びした。由緒を見てもビッタリ「望みの寺名」だった。
午後5:56 · 2021年1月3日

ただ、古い由緒たって確か室町期のものだったので、わたしは「僧侶による使用運動」的なことを連想したのだったが、かなりの人は「これで九州年号実在の証拠」が見つかったという受けとめ方をしていたように思う。正森議員にしろそういう論調なのではないか。(古田氏がそのように話したに違いない。)
午後9:41 · 2021年1月3日

wikipedia用メモ①
西暦 干支 二中歴 諸国紀
517 丁酉 継体 ナシ
522 壬寅 善記 善化
526 丙午 正和 同左
531 辛亥 教到 發倒
536 丙辰 僧聴 同左
541 辛酉 明要 同要
552 壬申 貴楽 同左
554 甲戌 法清 結清
午後5:22 · 2021年1月5日

558 戊寅 兄弟 同左
559 己卯 蔵和 同左
564 甲申 師安 同左
565 乙酉 和僧 同左
570 庚寅 金光 同左
576 丙申 賢称 賢接
581 辛丑 鏡當 同左
585 乙巳 勝照 同左
589 己酉 端政 同左
午後5:39 · 2021年1月5日

594 甲寅 告貴 従貴
601 辛酉 願転 煩転
605 乙丑 光元 同左
611 辛未 定居 同左
618 戊寅 倭京 同左
623 癸未 仁王 同左
629 己丑 ナシ 聖徳
635 乙未 僧要 同左
640 庚子 命長 同左
午後5:53 · 2021年1月5日

K.MUTO++伊都国王(^-^)v's tweet
午後8:36 · 2021年1月5日

wikipedia用メモ②
原形案 二中歴 諸国記
ナシ  継体  ナシ
善記  同左  善化
正和  同左   同左
教到  同左  發倒
僧聴  同左   同左
明要  同左  同要
貴楽  同左   同左
法清  同左  結清
兄弟  同左   同左
蔵和  同左   同左
師安  同左   同左
午後8:44 · 2021年1月5日

あ、ありがとうです。(それには気が付きませんでした。( ^-^))
午後8:45 · 2021年1月5日

知僧  和僧  同左
金光  同左  同左
賢称  同左  賢接
鏡常  鏡當  同左
勝照  同左  同左
端政  同左  同左
吉貴  告貴  従貴
願転  同左  煩転
光充? 光元  同左
定居  同左  同左
倭景縄 倭京  同左
仁王  同左  同左
聖徳  ナシ  聖徳
午後9:34 · 2021年1月5日

僧要  同左  同左
命長  同左  同左
常色  同左  同左
白雉  同左  同左
白鳳  同左  同左
朱雀  同左  同左
大化  朱鳥  同左
大長  ナシ  ナシ(692年壬辰)
ナシ  大化  大和(695年乙未)
ナシ  ナシ  大長(698年戊戌)
(原形案というのは、丸山案)
午後9:46 · 2021年1月5日

とりあえず説明しておくと、原形案は『二中歴』以後の諸史料を比較して単純に多数決で提案した。これに対して「二中歴が大切派」は『二中歴』が古代年号群史料としては最古のものであると、そして何やら意味ありげな記述もあるということで、『二中歴』原形論を唱えている。→
午後9:57 · 2021年1月5日

わたしは、「そんなこと言ったって『古代年号群実在の証明』が先だろうよ」ということで、議論は噛み合わない。あちこちに「それぞれの九州王朝説論者」がおられるし、その人たちは一人を除いて「証明抜きの九州年号実在論者」なので、観察してみられると良いと思う。以下、気になっているところを..。
午後10:23 · 2021年1月5日

「大化  朱鳥  同左」のところは「686年丙戌」。(後でそのツイ自体に書き込めるアプリはないものか。)(無いよね。不正の温床になるよね。(・_;))
午前8:03 · 2021年1月6日

①「継体」という年号があったするのは『二中歴』のみである。②『二中歴』を比較的踏襲している『海東諸国紀』が「大長」を持つのは、原形に「大長」があったからではないか。③686年の「大化」が文献において多数というのが論議を呼ぶところと思われる。
午前10:26 · 2021年1月6日

647 丁未 常色 同左
652 壬子 白雉 同左
661 辛酉 白鳳 同左
684 甲申 朱雀 同左
686 丙戌 朱鳥 同左
692 壬辰 ナシ 同左
695 乙未 大化 大和
698 戊戌 ナシ 大長
(原形案として686年「大化」、692年「大長」)
午後4:37 · 2021年1月6日

④『海東諸国紀』の年号立ては、「和僧」「鏡當」「告貴」「光元」「倭京」「朱鳥」「大化」のところで『二中歴』に従うようであるので、「継体」「聖徳」「大長」での欠落等があるものの、『二中歴』異本的なもの(かなりの変化あり)からの転記と考えて良いのではなかろうか。
午後7:24 · 2021年1月6日

なお、この推論は30年前に実見したほぼ30史料を基にしている(後に史料名を出す)が、『二中歴』『海東諸国紀』に顕著に見られる特徴としてよかろうと思う。『二中歴』は明治期まで(『諸国紀』を除いては)世に知られなかったと思うので、そういうことなのかなと思っている。
午後9:27 · 2021年1月6日

最近ちょっと(だけ)歴史家とやりとりが出来て思ったが、わたしが思ってるほど「後世に九州年号とされたもの」が中世僧侶の間で蔓延したという認識がないのね。久保常晴『日本私年号の研究』の認識とも違うように思うのだが...。『海東諸国紀』の話で返されるのが「違うだろー」と思う所以だ。
午後4:59 · 2021年1月7日

「九州王朝論者」も中世史料をよく見ていないから、神社の由来に「古代年号」を見つけた時、大喜びして「九州王朝」と結びつけたがるのだが、歴史家の方から「そんな年号ごろごろあるで」と言ってもらわないことには、何か事実と違う理解が広がってしまうように思えてならない。
午後5:07 · 2021年1月7日

いや、わたしの認識が間違っているのなら、それでも良いのだが...。
(ここに拘るのは珍しいかも知れないが、史料事実さえ珍しい話になってしまうのか?)
午後5:10 · 2021年1月7日

まあ、なかなか無いから「市民の古代研究会」では「九州年号探し」に没頭したんだけどね。(しかし、捜せばごろごろあるんだよーッ。(-_-#))
午後6:31 · 2021年1月7日

『山岳史料叢書』やら『日本仏教全書』なんかを見ると、ごろごろと(ちょっとだけ)見つけられるのだ。
午後6:52 · 2021年1月7日

「山岳宗教」やな。
午後6:53 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後6:53 · 2021年1月7日

「白鳳」「朱雀」については↓ のように書いていますのでご意見をお聞かせ下されば幸いです。また、「朱鳥」についても書いている部分で納得できるものを(後程)お示ししたいと思います。
午後7:48 · 2021年1月7日

「朱鳥」については、こんな感じです。
午後7:59 · 2021年1月7日

ここが「眼目」と思います。
午後8:09 · 2021年1月7日

そして、こういうところ...。
午後8:15 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後8:37 · 2021年1月7日

すみません、その『入来院家文書』については知りません。お教え戴ければ幸いです。「書誌」があれば、それも...。多分、以下のようなことかと...。
午後8:52 · 2021年1月7日

わたしの言いたいのは、多分その文書も670年頃に「朱雀」「白鳳」を持つもので、いわゆる「九州年号史料」とは違うものではないかと言うことです。
午後9:14 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後9:45 · 2021年1月7日

結局はこういうこと(右側)を思ってます。(『入来院家文書』は左側のような年号立てを持つものでしょうか?)
午後9:54 · 2021年1月7日

見つけましたが、これは「695年大化」をもつものでしょうか?(別にまだある?) わたしの言う原形案の「686年大化」を持つものに似てる気がします。『日本帝皇年代記』は「年代記」類に入るもので、内倉さんのように大騒ぎするものではないと思います。
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12286184125.html
午後10:50 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後11:06 · 2021年1月7日

結局は、この『日本帝皇年代記』とて「天皇代序」と結びつけて書いているので、直ちに「九州年号」とする訳にはいかないのではないか。話は始めに戻りそうだ。


是非(年代的に詰めて)詳しくお願いします。
午後11:14 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後11:19 · 2021年1月7日

『護摩軍記』というのには「古代年号」はないのですね。「古代年号」を持つものに古いのはないのでしょうか?
午後11:23 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後11:28 · 2021年1月7日

いや、それは『日本帝皇年代記』のことでしょうか?奥付があり原本の時代も分かるものではないでしょうか?(その濁音等の解説書の名前は何というものですか?)
午後11:32 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午後11:44 · 2021年1月7日

すみません、先ほど言われていた「695年大化」もその本ですか? ちょっと不思議に思います。(686年朱鳥も持ってるのですかね?)「奥付」は分からないですかね。(大学の研究者の名前は分かりますでしょうか?)
午後11:51 · 2021年1月7日

森虎彦's tweet
午前0:01 · 2021年1月8日

ありがとうございます。今日は寝ますね。明日またよろしくお願いいたします。
午前0:03 · 2021年1月8日

すみません、乙未大化辺りの写真を戴けないでしょうか。
午前0:06 · 2021年1月8日

森虎彦's tweet
午後8:07 · 2021年1月9日

小文字で「丙戌大化」などはないですかね? 別に挙げた『興福寺年代記』には「丙戌朱鳥」のところに「元年大化ヵ」とあります。
午後8:21 · 2021年1月9日

森虎彦's tweet
午後8:27 · 2021年1月9日

ありがとうございます。
午後8:33 · 2021年1月9日

森虎彦's tweet
午後8:48 · 2021年1月9日

「雉」は大事ですよね。
午後8:53 · 2021年1月9日

なんだかよく分からない「論考」だ。(書いてあることで、信じたいところは信じ、信じたくないところは信じないだけのものに思える。)
ブログNO.56 『書紀』継体紀のなぞに解決の糸口 ―「九州年号」記載「入来院家文書」に―
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12286184125.html
午後5:20 · 2021年1月10日

そもそも古賀達也氏にしろ、根拠なく「九州王朝系史料」というだけで、「年代記」のテンプレがありそれに九州の者が九州の事跡を書き足しただけかも知れないのに、「九州王朝系」とうやうやしく性格付けして、悦に入っている図としか思えない。他の史料にない記述があったとしても、それが本来の伝承→
午後5:45 · 2021年1月10日

だと言うためには様々なフィールドワークが必要で、千数百年も経ってしまった今では不可能と思えることを、「九州王朝系史料」と言ってしまうだけで「万能の力」を得るようである。「一足飛び」いや「千足飛び」に当たるような「姿勢」を改めるべきではないか。
午後5:51 · 2021年1月10日

ようやく入来院家所蔵『日本帝皇年代記』に関連する山口隼正氏論文
で見易いのを見つけた。
https://nagasaki-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=23987&item_no=1&page_id=13&block_id=21
午後8:28 · 2021年1月10日

とりあえず関係箇所を...。
[文献:長崎大学教育学部 社会科学論叢 第六十四号(二〇〇四年三月)]
午後10:01 · 2021年1月10日

[文献:長崎大学教育学部 社会科学論叢 第六十四号(二〇〇四年三月)]
午後10:02 · 2021年1月10日

[文献:長崎大学教育学部 社会科学論叢 第六十四号(二〇〇四年三月)]
午後10:03 · 2021年1月10日

[文献:山口:『日本帝皇年代記』について―入来院家所蔵未刊年代記の紹介―(上)]
午後10:04 · 2021年1月10日

この「年代記」も『二中歴』同様に、1900年頃に朝河貫一氏に「見つけられる」までは世間に知られなかったものと思われ、中身としては幾多の「年代記」類とそれぞれの特長がありつつ、似た物として評価できるのではないか。わたしとしては、以前の分析から大きく変わるものとは
午後10:51 · 2021年1月10日

到底思えないので、他のことに気を取られながら、wikipedia「古代年号」項の編集を目指して準備を重ねたく思う。(ちょっとノロいけど...。)
午後10:55 · 2021年1月10日

さはさりながら、入来院家文書『日本帝皇年代記』中の「古代年号群」に関しては、(研究史は知らないけれど)2004年に山口氏が「発見」ということで良いのだろうか。(あるいは、初御披露目みたいな。)
わたしとしては、このようにしっかりした「年代記」に(『二中歴』の影響を受けたとも思えない)
午前7:32 · 2021年1月11日

「686年朱鳥(丙戌)」「695年大化(乙未)」が搭載されているとは驚きの一語である。(発見されていない類書の存在さえ予想される。)(是非とも中世史研究者に全貌を捉えて戴きたい。)
午前7:38 · 2021年1月11日

入来院家文書への疑問は一部解消し、新たに「乙未大化」は「古代末期文献の影響」と思っていたことは改めて考え直す、考え直さざるを得ない、ということになるのかな?(もう無理やで。)
午前7:54 · 2021年1月11日

山口隼正氏にしろ、所功氏の論考を引いて、「架空年号」とすることで終わりにしている。「架空年号」が何故信じられたか、何故(恐らく)学習書か「正史の入門書」にしたい「年代記」に搭載されるのか。それらは(何度もいう)思想史の課題にはならぬのか。
午前8:14 · 2021年1月11日

「年代記」は仏門に関するものと思っていたが、「入来院家文書」は仏門な関連するかは、わたしは知らない。
午前10:41 · 2021年1月11日

「逃げ道」を用意するなら、「丙戌大化」「壬辰大長」を持つ「年代記」は、「仏門に関係する」。(ホンマ?(^_^;))))(wikipediaにも書けない。)
午前10:48 · 2021年1月11日

とにかく貝原益軒が捕捉できなくて、明治になってからとか、平成になってから捕捉される「古代年号群史料」があると言うこっちゃ。
午前10:54 · 2021年1月11日

『二中歴』にしても「古代年号群史料」としては、昭和になって捕捉されたんだっけか。
午前11:00 · 2021年1月11日

自分の本を読み返すと、「『二中歴』は興福寺周辺の人によって書かれた」などと書いてあって、多分解説書などを見てそう感じた(それでその感じは正しいはずな)んだと思うが、その文面を再度追い掛ける知力が残ってない(史料を処分してるしね)。まあ、思ってることを投げ込んでおくだけである。
午後0:23 · 2021年1月11日

まとめて見ると、興福寺年代記も「丙戌朱鳥」「乙未大化」を持っており、それに『入来院家所蔵日本帝皇年代記』も加わってくることで、「九州年号『乙未大化』原形説」の古田派は喜んで良さそうだが、こういうことは(ツイッターで吠えてるだけだし)彼等には届かないのかなと思うと、少し(略)...
午後0:53 · 2021年1月12日

それでも彼等の文章を読んでいると、調べた様子もないのにわたしが昔調べたようなことが書いてあることもある。それでも良いから、「とにかく『二中歴』が原形だ。」という風な「信仰」からは解放されてほしいものだとは思う。
午後1:02 · 2021年1月12日

これは地道に史料を追っ掛けず(分析せず)、いきなり『二中歴』が大切と思ってしまう傾向を批判している...。
午後4:15 · 2021年1月13日

いろんな「偽年号」の定義があって、どれかは「(わたしのいう)古代年号=九州年号とされたもの」に当てはまるだろうとは思うが、見た中ではしっくり来るものはなかった。
午前7:51 · 2021年1月22日

わたしの拘り順。
①後世に九州年号とされた一連の年号群を何故中世思想史に位置付けないのか問題。②筑紫舞を日本芸能史に取り上げよ問題③百田尚樹氏による『殉愛』における「非人間性」問題。④伊藤詩織氏を一部左翼が異常に取り上げる問題。
それぞれが矛盾すれば上を優先する。
午前11:37 · 2021年1月23日

久保常晴氏は一世紀前の『二中歴』を知らなかったことになるが、歴史学界の趨勢としてそんなものだったのだろうか。(そして、この〈事実上〉「知らない状態」は今も続いている気がするのだが...。)
午前4:09 · 2021年2月1日

学者に恐る恐る「古代年号についてはどう思われてますか?」と尋ねた時に、『海東諸国紀』にもありましたね、という返事では困る...。『二中歴』(大まけにまけて『如是院年代記』)にありましたねとの、意識した返事が欲しい。(『海東...』所収の古代年号は相当偏奇な伝承課程が想定されるので。)
午前4:42 · 2021年2月1日

古田武彦氏がパッと『二中歴』を捉まえて、「九州年号論」を唱えても(実は)古代史学界は揺るがなかった。「中世文献で何をガタガタ言っとる」「お手並み拝見」であったろうと思うし、古田氏が論証抜きで「古代を反映したもの」としてしまったから尚更、旧来の学界は安泰となったはずだ。
午前4:53 · 2021年2月1日

何度も言ってしまうが、「中世史学界はそれで良いの?問題」。「中世に生まれた古代神話」が注目されて来たから、「中世に生まれた(であろう)古代年号」にも光を当てて下さいな。
午前5:01 · 2021年2月1日

K.MUTO++伊都国王(^-^)v's tweet
午前7:15 · 2021年2月1日

古代史学界はそれで良いと思うのです(無理やり)が、中世史の個々人が興味を持たないということは肯けるとして、学界総体として誰もこのことを研究しない(研究し尽くされていると思っているはずがないのに)のは、本当に残念なことです。空気が変わるのを祈るばかりです。(呉座先生なら?...)
午前7:56 · 2021年2月1日

誰かが偽物を作り出したとして、中世の初期から各地の寺院、神社でその年号が多用されていたというのは、事実なのかそうでないのか。一部なら何故一部で留まったのか。を考察してみるのが「歴史学」と思うんだが...。(そのためにはデータが必要)(学際的協力とか、なんとか。)
午前9:50 · 2021年2月1日

中世に作り出された「古代神話」を、ナゼか「中世神話」と呼び慣わすらしい(それが常識と説教された←常識と言うのは変やろ←中世神話と言えば「古代の神話とは違う」やろが)のだが、言ってみれば「偽物」に違いない。それでも研究対象になるのだ。
午後9:09 · 2021年2月1日

(なんか恨み節みたいになるな)(いや、この面の研究が進んでいたら、「九州年号論」みたいな妄説は出て来なかったはずなんですよ。)
午後9:25 · 2021年2月1日

「天武白鳳三年」などと書いてある神社縁起などを見て「九州年号だ」みたいに喜んでいるアカウントを見かけたが、それは多分天武元年と白鳳元年をおなじとする『愚管抄』型年号を採用したものである。#何か見た
午後4:44 · 2021年2月11日

歴史学で「証明」なんて軽々しく言えるものなのかしら?(中世史以降は言えそうに思うけど...。)(わたしで言えば「九州年号偽作説」なんて、暗黙の了解でOKなだけだ。←偽作者〈集団〉を特定し得ていない。)
午後6:21 · 2021年3月16日

残念ながら福永晋三氏は最近の講演でも(論証抜きで)「白鳳元年=661年」とやっているらしい。福永氏へ送った本では確かに「白鳳元年=661年」と「論証的」に書いているが、その部分だけを摘まみ食いしてほしくはない。福永氏は「現在のわたし=白鳳年は特定出来ない」を論破すべきだ。
午前3:24 · 2021年4月25日

「白鳳元年=661年」を肯定してしまうと、結局は(古い)古田武彦九州年号説を肯定してしまうことになるのです。(アカウントをつけたままにしてしまいました。ごめんなさい。)(このツイは、他の方も読まれるのを期待しています。)
午前3:44 · 2021年4月25日

福永晋三さんも結局はここへ戻って批判しなければならぬのか? 適当にそこらに転がっている「年号」を拾って「歴史事象」に好き勝手に結び付ける手法は、古田武彦氏の手法と同じである。
午前11:04 · 2021年4月25日

これは、西博孝さんの言のパクリです。
午後0:05 · 2021年8月3日

九州年号の観点から見直したい。②
午後3:29 · 2021年8月4日

九州年号の観点から見直したい。⑤
午後3:38 · 2021年8月4日

(ふーッ)
午後3:41 · 2021年8月4日

この辺りから「九州年号」に触れておられた訳ですね。わたしゃ時々「九州年号」で検索を掛けていたのですが、(当然)知ることが出来なかったのが残念です。読ませて戴きますね。
午後3:13 · 2021年8月4日

九州年号の観点から見直したい。①
午後3:30 · 2021年8月4日

明治初期に「古写本『九州年号』」に触れた論説はあるが、これは鶴嶺戊申を無批判に踏襲しただけだからね。江戸期、明治初期というのはそういう学問世界なのだ。鶴嶺以外でも「古写本」を見ているはずと思ってる人は「頭を冷やせ」。
午前10:06 · 2021年8月7日

@hyena_no さんが見ていた古賀氏の論考の後の方を見ていたら、経典の中に九州年号「法清」があると言うのだが、これ、詐欺的過ぎないか?「其法清浄」などの真ん中部分を切り取って「法清」だと言うのだ。「其法、清浄」と読むしかないのではないか(他の例も同様)。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/the-name-of-an-era-for-kyushu-dynasty/post-9256/
午後11:07 · 2021年8月8日

hyena)急ぎ返事になりますが、「其法清浄」は其の法、清浄にして、、、くらいかと。法清という年号自体は『二中歴』『麗気記私抄』『如是院年代記』『襲国偽僭考』にもあるんですよね?他にも事例が欲しかったんでしょう。
午後11:14 · 2021年8月8日

hyena)ただ、現代の元号制定時などは、4字熟語のうち2字をつまみ出して組み合わせることもありますから、そういう例だ!なんて主旨で言い張ることは可能かも。

けど、ありもしない九州王朝の、ありもしない天子が、年号を定めることなど有り得ません。
午後11:23 · 2021年8月8日

わたしは何であれ「年号群史料」を発掘してくれるのは有難いと思っています。本人が「九州年号」と思っていてもそれは構わなくて、とにかく「史料発掘」してくれと思っています。しかし、今回のような無理くりのこじつけは腹が立ってなりません。「喜楽」もあると書いてるのもどうせ「年号」→
午前7:32 · 2021年8月9日

と読めない部分だから紹介出来ないのだと勘ぐってしまいます。
(そんなものはなかったのですけれど)おい、「古田精神」は何処へ行ったのか、の思いですね。
午前7:34 · 2021年8月9日

今気付いたが、古賀氏は「貴楽」で調べずに「喜楽」で調べている。「喜楽」を「古代年号」とするのは江戸初期の『和漢年契』(高安芦屋)が初で、この人は人を騙すのが好きという定評がついていたみたいで、これを取り上げるかという話になり、また長い解説が必要となってしまう。→
午前8:17 · 2021年8月9日

さらに言うと、「喜楽」の初は(本当は)山師みたいな藤原貞幹『衝口發』だったかも知れない。(いまちょっと確認できない。)鶴峯戊申→古田武彦→古賀達也の「騙され方」にご注意というところだ。(喜楽というのは、別系統とされる四年号の内の一つ。)
午前8:25 · 2021年8月9日

という訳で、アカウントを外して勝手に(読み手がないであろう)解説を始めちゃいます。(長くなりそう。)
【テーマ】「九州年号」論者たちは、いかに「江戸初期文献」の迷妄に囚われているか。(いつだったか書いたことの焼き直し)
午前9:30 · 2021年8月9日

「善記」(522年)あるいは「継体」から始まる30個強の「年号群」は平安期末に「偽作」と言えば偽作されたものと思うが、それらの年号群が鎌倉期以後江戸期末まで一部ではあるが、古代の本物の年号と思われ、永らく学者、僧侶等の間で伝えられてきた。わたしは、中世思想史学者がこの問題を解明すべき
午後0:56 · 2021年8月9日

と思っていて、「偽年号」で分かったような気になるのでなく、どうして日本歴史上に現れたのか、何故「実年号」と信じられたのか、どのように使われたのかを明らかにすべきと思っている。わたしにそのような力があれば勿論もっと取り組む訳であるが、いかんせん文献の探し方、史料批判の方法が→
午後4:39 · 2021年8月9日

大学などで訓練を受けた訳でなく、歴史学徒に納得してもらえるような文章を書ける自信がない。ただ矢鱈と読み漁った文献群があるので、それらを並べてみて推論を述べることが出来たと思うので、興味が持てたなら後を膨らませてほしいと願う次第です。(今回は江戸初期文献について)→
午後4:49 · 2021年8月9日

なお、以前「学界を変えたいと思うなら、査読のある『学界誌』に投稿して掲載を得なければ..」というような忠告を受けたのだが、どうすんの?という感じになってしまって、「わたしのようなテーマが受け入れられ易い『学界誌』」までを紹介してほしかった。(希望が持てない「ご忠告」だったと思う。)
午後5:37 · 2021年8月9日

この辺りとんでもない勘違いをしていて、『衝口發』すら江戸後期の書物と言わねばならなかった。そして、『襲国偽僭考』は江戸末期という位置付けのようになる。言ってみれば、「古代年号」に関する「エセ情報」は、学者たちにより江戸期後半以後に盛んになったと考えて良いのではないか。(以下詳述)
午後10:34 · 2021年8月10日

藤原貞幹については竹居明男『考古学の先覚者』の中の「藤原貞幹の古代研究」が詳しい。中でも天明元年(1781)刊の『衝口發』は「口を衝いてひとりでに出てくる」の意で「渡来王朝説」のようなことを説き、反発した本居宣長が『鉗狂人』(きちがひにくつわをはめる)を著すという展開となった。
午後2:18 · 2021年8月11日

とりあえず「年号」部分をすべて紹介しておく。
年号大宝ヲ始トス。此ヨリ前孝徳帝ノ大化(孝徳帝ノ時始テ唐礼ヲ用ルノハシヒラケタリ。年号ハ西土ノコトナレバ古代ノ年号ヲ皆ケツリテ大化ヲ始トスルナリ)天武帝ノ白鳳アレドモ連綿セザル故ニ大宝ヲ始トスト云。按此ノ大化白雉等ノ外ニ俗ニ異年号ト
午前7:01 · 2021年8月12日

覚タル年号アリ。所謂孝霊帝ノ列滴○応神帝ノ璽至○武烈帝ノ善紀(四年)正和(五年)定居(七年)○継体帝ノ殷到(按続教訓抄継体帝即位廿五年辛亥ヲ以教到元年トシ宣和(ママ)帝ノ即位丙辰ヲ教到六年ニシテ安閑帝ノ号トス)○宣化帝僧聴(四年)○欽明帝師安(一年)○大長(三年)○法靖(四年→
午後0:10 · 2021年8月12日

◯靖一作清)兄弟(一年)明要(三年)蔵和(一年和一作知)知僧(一年)貴楽(十八年◯貴一作遺)金光(六年)◯敏達帝賢棲(五年◯棲一作博)鏡常(四年◯鏡一作鐘)勝照(四年)◯用明帝和重(二年)崇峻帝端政(五年)◯推古帝喜楽瑞正始哭(各一年)法興(七年 法興一作吉貴非是)願転(四年)→
午後5:25 · 2021年8月12日

のっけから(長い間醸成していた誤った史料感により)躓いたようだが、江戸後期文献の『衝口發』が「後に九州年号とされた喜楽年号(593)」の初出であること、他に(正当?な)「貴楽」年号(552)があるので、古賀達也氏はそこのところを曖昧にしつつ立論していること等を
午前6:28 · 2021年8月12日

指摘していきたい。(「貴楽」にも誤伝としての「喜楽」があるが、古賀氏が説いているのはそういう問題ではない。)
午前6:33 · 2021年8月12日

光元(六年○光一作弘)和京(五年○一作和景縄)仁王(六年)節中(五年)○舒明帝聖聴(三年○一作聖徳)僧要(五年○要一作安)命長(五年○一作長命)天智帝中元(四年○戊辰為元年一為六年然則六年壬申可係大友天皇)○天武帝白鳳(ヽ年)果安(ヽ年)朱雀(ヽ年)持統帝大和(ヽ年)○文武帝→
午後10:03 · 2021年8月12日

大長(三年◯戊戌為元年)此号其義解スベカザルモノ多シ。竊按ニ応神帝璽至ノ号ハ神功皇后摂政四十年庚申(魏正始元年)魏親魏倭王ノ印ヲ贈ル若ケ様ノコトニ依テ号クル乎。伊予道後湯碑云、法興六年推古即位四年丙辰ヲ元年トス。此年法興寺落成ス。此ヲ以名ヅクナラン。白鳳朱雀続日本紀、朱雀ハ水鏡ニ
午後10:47 · 2021年8月12日

モアリ。金光ハ平家物語、大長、延暦中ノ鮮文ニ出。此等ノ号修史ノ日削テ載ズ。

以上のうち使用例がないと考えられるのが、列滴、璽至、(欽明時の)大長、(用明の)和重、(推古の)喜楽、端正、始哭、節中、(天智の)中元。また、法興については「いわゆる古代年号」とは別に考えるべきだろう。
午後11:00 · 2021年8月13日

「喜楽(593)」の初出は藤原貞幹『衝口發』であることは何度も述べてきた。これは鎌倉期以降?の「古代年号群」と違って神社仏閣における実際の使用例もない。何処かで何かのヒントがあったかも知れないが、とりあえずこの江戸後期に藤原が創り出したものと疑っておくのが先ではないか。
午後0:29 · 2021年8月14日

また、この年号は「推古帝」のものとして「瑞正」「始哭」「法興」の三年号と並べて紹介されたもので、後になって『和漢年契』に取り上げられ、『襲国偽僭考』では古くからの「古代年号群」と並立してたかのような語られ方をしていくのである。
午後1:52 · 2021年8月14日

「喜楽」がそのような年号であるのにも係わらず、古賀氏は経典の中に「喜楽」がないかを探し、「あった」と言うのである。(しかも例文を示さない。)
経典の中に「法清」という言葉もあるだろうよ、「喜楽」という言葉もあるだろうよ、それが「言われている九州年号」と→
午後4:21 · 2021年8月14日

何の関係があるのかを示さなければ「経典に九州年号があった」とはとても言えない。こういう詐欺的手法を古田後継者たる古賀氏が採っていて、他のものも何も言わないというこの現状をどうするの。(とまあ、自分と関係のない組織のことなのに怒っていたってなんにもなりません。)
午後4:28 · 2021年8月14日

使用例がない部分、(武烈期の)定居、(天武期の)果安が抜けていた。
午後9:48 · 2021年8月14日

ここで、『襲国偽僭考』の「吉貴年号」部分を挙げておく。
推古天皇二年甲寅。吉貴元年とす。海東諸国記。従貴に作る。一説告貴に作る。いはく推古帝之時。告貴十年ニ終。又曰。按ニ一説ニ推古元年ヲ為=喜楽-ト。(ここ、返り点の二を=で、一を-で表しておく。)二年ヲ為=端正-ト。三年ヲ為=始哭-ト。
午後10:32 · 2021年8月14日

始哭一作=ル始大-ニ。自=四年-至=十年-為=法興-是ノ四年号。通計十年而終。与=告貴-年数正相符。則十年之間。蓋与=告貴-互相行也耳。いま按に。伊予風土記に。湯ノ郡云々。天皇等於レ湯幸行降坐五度也云々以=上宮聖徳皇子-為=一度-及侍高麗ノ恵慈。(「レ」は「レ点」)葛城ノ王等也。于レ時立=湯ノ岡
午後10:59 · 2021年8月14日

ノ側=碑文-其立=ツ碑文-ヲ処謂=フ伊社迩波之岡-ト記ニ曰。法興六年十月歳在=丙辰-云々と見えたり。丙辰は。推古天皇の四年にして。すなはち法興寺の成し年なり。この年を。法興六年とすれば。その元年は。崇峻天皇の四年辛亥なり。しかるに今記する処とあはず。疑ふべし
午後0:31 · 2021年8月15日

『襲国偽僭考』の一部を引いたついでに書いておきたい。(以前にも書いているが...。)
古田武彦氏は、この「吉貴年号部分」ならそのすべてを『古写本「九州年号」』と思っている。ところが「一説告貴に作る」はその30年前(1789)に出典があった。そんなものを「古写本」というのかという話である。
午後10:56 · 2021年8月15日

古田氏の「凡ミス」ということであれば、鶴峯戊申はどうだったかということになる。好意的に見れば「誰かが1695年の『続和漢名数』の読み下し文を写本として残し」「別の人かが『九州年号』という書名をつけた」のを鶴峯が見たというのが成り立たないこともない。誰一人同時代の証言者はいないけれど。
午前7:21 · 2021年8月17日

しかしこれは、鶴峯が『続和漢名数』を見なかったという前提を作らなければならない。何故なら『続名数』とほぼ同文の「古写本」を見ながらそのことに触れないのは不自然過ぎるからだ。果たして、鶴峯が『続和漢名数』を見なかったことがあるだろうか。その前の『和漢名数』は見ているというのに...。
午前9:59 · 2021年8月17日

(上で枝分かれ)
午後4:15 · 2021年8月17日

(失礼)わたしはこういうのは、「実在が論証されていない」「白鳳年号(661)」を、福永氏が使わないようになるかだけを注目しています。(今回は使ってないのかな?)
午前10:01 · 2021年10月15日

「九州年号」と言われていたものを論証なしに「歴史考証」に使用するかどうかで、その人が「史料批判の出来る人」なのかが分かる。
午前11:38 · 2021年10月15日

(失礼します)その註を書いた人が鈴木正崇氏ですか?
午後6:15 · 2021年11月5日

k.hisadome's tweet
午後7:10 · 2021年11月5日

k.hisadome's tweet
午後7:28 · 2021年11月5日

ありがとうございます。『二中歴』には「九州年号」などという言葉はないのに「『二中歴』に基づく」とは「なんのこっちゃ」となりますね。聞き齧っただけの「九州年号実在論者」みたいに思えました...。
午後7:33 · 2021年11月5日

あ、なるほど...。しかし、そういう註を許してしまうのも「なんだか...」ですね。
午後7:35 · 2021年11月5日

k.hisadome's tweet
午後7:44 · 2021年11月5日

平凡社の校閲がネットで調べるのはご法度にしてほしいぐらいですね。それにしても『二中歴』に基づく、と言うのが嘘過ぎてゾッとするところです。
午後7:56 · 2021年11月5日

ありがとうございます。『二中歴』には「九州年号」などという言葉はないのに「『二中歴』に基づく」とは「なんのこっちゃ」となりますね。聞き齧っただけの「九州年号実在論者」みたいに思えました...。
午後7:33 · 2021年11月5日

現代の「九州王朝説」も、学問というよりも「九州王朝説運動」的なものに思えてならない。
午前9:35 · 2021年12月4日

【2022年】
「書けるところに書く」ということで、わたしはツイッターで書くことを選ばざるを得ないことになりました。これは消えて行くものなのですが、ここしかないという感じになっています。
午後6:31 · 2022年5月22日

向野正弘's tweet
午後6:34 · 2022年5月22日

向野正弘's tweet
午後6:36 · 2022年5月22日

ありがとうございます。今となっては余り考えられないことと思います。
(なお、「ツイッターで書く」という表現はこれからも続けます。わたしはそう言っても良いと思っています。)
午後6:41 · 2022年5月22日

ツイッターは、文章を考えつつ、とりあえず「書いていく」ことに非常に便利なツールと思います。誰かしらに読んでもらえるかも知れないというのも非常に有難いものです。しかも無料ですし...。(お教え戴いたことには感謝々々です。)
午後6:46 · 2022年5月22日