盧弼『三国志集解』序例ほか

台湾藝文印書館二十五史

台湾藝文印書館二十五史『三国志集解』巻頭に掲げてある序例等の書き下し文をGoogle Geminiの助力により作成公開する。『三国志集解』は西晋陳寿の撰で劉宋裴松之注、中華民国盧弼集解で、これら凡ては巻頭17葉程を占める長文である。先に書き下し文を公開した『後漢書集解』序等よりも長く、『三国志』に関わる多くの情報を含むとみられるが、これまた到底素人が易易と読み下せるものでもないことは一瞥して明白である。よってGoogle Geminiの力を借り従前同様の作業を経て公開にこぎつけた。例により書き下しやふりがなの適否は取り敢えず黙過し吟味はこれまた後日の仕事としたい。

尚、『三国志集解』巻頭には以下の諸文が収められているが、7は過日「盧弼『三国志集解』総目」としてGeminiとの応答をまとめた頁を作成公開しており、6は裴松之の「上三国志注表」として著名であるから、この両者を除く1~5を今回公開したい。 本文の固定については、まずサイト上に公開されていた『三國志集解』簡体字ソースをGoogle翻訳等で繁体字に変換し、台湾藝文印書館二十五史『三国志集解』書影と対照して異同を後者に揃えた。書き下しはもっぱらGoogle Geminiに拠ったが、全体の文字量が膨大であるため、凡そ十数分割して書き下しを依頼。個々の応答の分量はそれだけ多大になったので応答の凡てを採録することは避け、『後漢書集解』の際と同様Geminiによる付加知識について「Gemini's knowledge」なるコラムを別途設けて記載した。

括弧記号については次のとおりである。〚〛内は藝文印書館原細注、[]はGeminiの生成した付注番号でありブロックごとの番号である箇所と文全体の通し番号となっている箇所とがあるが、現段階での統一は行っていない。()内番号は引用元付注で頁最下部に一括して列記する。Gemini生成の付注と重複したものもあるがそのまま掲げている。一部Geminiの付したふりがなや注釈をそのまま()内に表示している箇所もあるが、一見して分かるかと思い特に注意を促してはいない。

『三國志集解』扉

『三國志集解』扉
三國志集解六十五巻

三国志集解序例

昔杜元凱專精《左傳》,其《集解·序》云:“古今言《左氏春秋》者多矣,今其遺文可見者十數家,大體轉相祖述。預今所以為異,專修丘明之傳以釋經,其有疑錯,則備論而闕之,以俟後賢。分經之年與傳之年相附,比其義類,各隨而解之,名曰‘經傳集解’。”何平叔《論語集解·序》云:“所見不同,互有得失,今集諸家之善記其姓名,有不安者,頗為改易,名曰論語集解。”裴世期《上三國志注表》云:“事宜存錄,畢取以補其闕;辭有乖雜,抄內以備異聞,言不附理,矯正以懲其妄。繢事以眾色成文,蜜蠭以兼采為味,故能使絢素有章,甘逾本質。”其子龍駒(1)《史記集解·序》云:“采經傳百家並先儒之說,刪其游辭,取其要實。或義在可疑,則數家兼列,時見微意,有所裨補。譬嘒星之繼朝陽,飛塵之集華嶽。號曰集解,未詳則闕。”諸氏所論,玉律金科,注家所宜奉為圭臬者也。

自晉灼集注班書,〚見顏師古《漢書序例》。〛顏監得所依據。(2)
李賢招集諸儒,同注范史,菁英薈萃,蔚然鉅觀。松之父子,注解馬、陳,〚松之注《三國志》,子駰著《史記集解》。〛網羅放失,出自一門,一為龍門功臣,(3)一為承祚諍友。兩代閎儒,千秋盛業,師古、章懷,同垂不朽。洵紹述之美譚,藝林之佳話矣。

近代纂輯,羣推葵園,(4)兩漢注解,(5)裨益來學。其《郡國志》注云,《國志》栞補,曾有私願。設天假之年,當已成書,惜留闕遺,全功未竟。不佞治陳志有年,爰踵前規,纂成《三國志集解》六十五卷,區區之愚,亦猶葵園之意也。

或謂陳志簡潔,注釋宜詳,裴註明通,奚事詮釋;不知世期所採,都為魏、晉名編,流傳到今,悉成故書雅記。溫公《通鑑》,(6)摘取頗多,身之音注,(7)亦極暢達,〚《通鑑》多採裴注,胡氏於所採者多有注。〛理宜蒐羅,藉便瀏覽。注家有疏,已成先例,曲折剖判,不厭求詳。亦有裴注偶誤,閒存商榷,疑滯埽除,敷暢厥指,亦學者所有事也。

不佞所據《國志》各本及徵引各注,略見《覆胡綏之先生書》中。〚見本書附錄。〛(8)王註兩漢,身當清代,推崇官本,別具苦衷,實則官本沿明北監之誤,遠遜毛本;盧抱經《續考證》抨擊官本之短,(9)洵為諍臣,當時顧忌,竟未流布。宋、元舊刊,可資參證,閒有誤失,貴能鑒別。衢本初印,已難饜意,三朝修補,益失廬山。馮氏精校,世稱善本。〚明南監馮夢禎校刊本,沈家本校勘記即據此本。〛俗書破體,訛奪。亦多西爽無足齒數,陳本紕繆百端。金陵翻雕汲古,後勝於前,世人貴遠賤近,淺識盲從,第悅皮相,無足取焉。

諸家箋注,東潛最為繁富,(10)然秕稗留遺,愆違盈目,隨文糾正,無所隱飾,推之眾說,亦復云然。或謂既知乖舛,即宜芟除,奚為存錄,徒穢篇章?不知摭拾不周,人疑闕漏,匡矯不力,慮失真詮,雖云辭費,實非貿然。

各家採錄羣籍,悉冠以某氏所云,其未加者,皆不佞所徵引也。古人謂文必己出者,謂論箸之文也,注家吸納眾流,援引患不徵實耳,不必盡出之己也。不佞無似,遠稽杜何二裴之說,近仿葵園之例,黽勉以赴,頗竭寸心。

拙稿纂成,承綏之先生審閱十餘卷。〚綏之按語,具錄書中。〛秋閒綏之南歸,不獲質疑,不佞才質駑鈍,誤謬良多,見聞狹隘,采輯未詳,異日續有所獲,擬仿王氏範書集解校補例,別本單行。顏監班書注,成時年六一,不佞卒業是書,齒亦相若,自慙固陋,何敢妄附前賢,積歲編摩,竊願希蹤曩哲。大雅閎達,幸匡不逮。中華民國二十五年丙子重九日,沔陽盧弼撰。
『三國志集解』序例 読み下し
昔、杜元凱とげんがい(杜預)は『左傳』に専精す。其の『集解・序』に云はく、「古今、『左氏春秋』を言ふ者多し。今、其の遺文の見るべき者十数家、大体転じて相い祖述す。預(予)、今の異なりをなす所以は、専ら丘明きゅうめいの傳を修めて以て経を釈し、其の疑錯有るは、則ち備へて論じて之を闕き、以て後賢を俟つ。経の年と傳の年とを分かちて相い附し、其の義類を比し、各々随ひて之を解し、名づけて『経傳集解』と曰ふ」と。何平叔かへいしゅく(何晏)の『論語集解・序』に云はく、「見る所同じからず、互いに得失有り。今、諸家の善を集めて其の姓名を記し、不安なる者有れば、頗る改易を為し、名づけて『論語集解』と曰ふ」と。裴世期はいせいき(裴松之)の『上三國志注表』に云はく、「事は宜しく存録すべく、畢く取りて以て其の闕を補ひ、辞に乖雑有るは、抄内して以て異聞を備へ、言の理に附せざるは、矯正して以て其の妄を懲らす。繢事かいじ(絵画)は衆色を以て文を成し、蜜蠭みつばち(蜜蜂)は兼ね採るを以て味と為す。故に能く絢素けんそをしてあや有らしめ、甘きこと本質よりもまさらしむ」と。其の子龍駒りょうく[1](裴駰)の『史記集解・序』に云はく、「経傳百家並びに先儒の説を採り、其の游辞を删(けず)り、其の要実を取る。或いは義、疑ふべきに在れば、則ち数家兼ね列し、時に微意をあらはし、裨補する所有り。譬へば嘒星けいせいの朝陽に継ぎ、飛塵の華嶽に集まるがごとし。号して集解と曰ひ、未だ詳らかならざれば則ち闕く」と。諸氏の論ずる所は、玉律金科にして、注家の宜しく奉じて圭臬けいけつ(手本)と為すべき者なり。

晋灼しんしゃくの『班書』(漢書)に集注してより、〚顔師古がんしこの『漢書序例』に見ゆ。〛顔監がんかん(顔師古)は依拠する所を得たり[2]李賢りけん(章懐太子)は諸儒を招集し、同じく『範史』(後漢書)を注し、菁英薈萃わいすいし、蔚然として鉅観きょかんなり。松之しょうしの父子、馬(史記)・陳(三国志)を注解し、〚松之は『三國志』を注し、子の駰は『史記集解』を著す。〛放失を網羅し、一門より出づ。一は龍門りょうもん(司馬遷)の功臣[3]と為り、一は承祚しょうそ(陳寿)の諍友そうゆうと為る。両代の閎儒こうじゅ、千秋の盛業なり。師古・章懐と、同じく不朽に垂る。まことに紹述の美譚、芸林の佳話なり。

近代の纂輯には、むら(ひとびと)は葵園きえん[4](王先謙)を推す。両漢の注解[5]、来学を裨益す。其の『郡国志』注に云はく、「『国志』(三国志)の栞補(修正補足)、曾て私願有り。し天に之の年をさば、当に已に成書すべかりしに、惜しむらくは闕遺を留め、全功未だはらず」と。不佞ふねい(私)、陳志を治むること有年、ここに前規にぎ、纂じて『三國志集解』六十五巻を成す。区区の愚、亦た猶ほ葵園の意のごときなり。

或いは謂へらく、「陳志は簡潔にして、注釈は宜しく詳らかなるべく、裴注は明通なれば、なにぞ詮釈を事とせん」と。知らず、世期の採る所、すべて魏・晋の名編にして、今に流伝して、ことごとく故書雅記と成るを。温公(司馬光)の『通鑑』[6]、摘取すること頗る多く、身(胡三省)の音注[7]、亦た極めて暢達なり。〚『通鑑』多く裴注を採り、胡氏は其の採る所の者に多く注有り。〛理として宜しく蒐羅して、もって閲覧に便にすべし。注家に疏有るは、已に先例を成す。曲折を剖判し、詳らかならんことを求めて厭はず。亦た裴注にたまたま誤り有れば、ときに商榷(検討)を存し、疑滞を埽除し、其のむね敷暢ふくちょうするは、亦た学者の所有事なり。

不佞ふねい私のる所の『國志』各本及び徵引ちょういんする所の各注は、ほぼ胡綏之こすいし[8]先生にこたふる書』の中に見ゆ。〚本書附録に見ゆ。〛王(王先謙)の兩漢を註する、清代に當たり、官本を推崇するは、別に苦衷を具ふ。實に則ち官本は明の北監ほくかんの誤りに沿ひ、毛本(汲古閣本)に遠くおとる。盧抱経ろほうけい(盧文弨)の『續考證』、官本の短[9]抨擊ほうげきするは、まこと諍臣そうしんたりしも、當時の顧忌こきにより、ついに流布せず。宋・元の舊刊、參證に資すべくも、ときに誤失有り、たっときは能く鑒別かんべつするに在り。衢本くほん(衢州本)の初印、已にこころあき[10]たらしめ難く、三朝(宋元明)の修補、益々廬山を失ふ。馮氏ふうしの精校、世に善本と稱す。〚明の南監、馮夢禎ふうむていの校刊本、沈家本しんかほんの『校勘記』即ち此の本に據る。〛俗書の破体、訛奪かだつ亦た多し。西爽せいそう(西爽閣本)は歯数しすうするに足らず、陳本(陳氏本)の紕繆ひびゅうは百端なり。金陵(南京)の汲古を翻雕はんちょうせるは、のち前よりも勝るも、世人、遠きを貴び近きを賤しみ、浅識にして盲従し、ただ皮相ひそうを悦ぶ、これに取るに足る無し。諸家の箋注、東潜とうせん[11](謝鍾英)を最も繁富と為すも、然れども秕稗ひはい遺り留まり、愆違けんい(あやまり)目につ。文に随ひて糾正し、隠飾いんしょくする所無く、之を眾説に推すも、亦復しかり。或いは謂はく、「既に乖舛かいせんを知らば、即ち宜しく芟除さんじょすべく、なにの為に存録して、いたずらに篇章を穢さんや」と。知らず、摭拾てきしゅうあまねからざれば、人、闕漏けつろうを疑ひ、匡矯きょうきょうつとめざれば、真詮しんせんを失はんことを慮るを。辞費じひなりと云ふと雖も、實に貿然ぼうぜん(いいかげん)には非ざるなり。各家の採録する羣籍ぐんせき、悉く冠するに某氏の云ふ所を以てす。其の加へざる者は、皆不佞の徵引する所なり。古人、文は必ず己より出づべき者と謂ふは、論著の文を謂ふなり。注家は眾流を吸納し、援引えんいん徵実ちょうじつならざるを患ふのみ、必ずしも尽く之を己より出ださざるなり。不佞、無似むじ(ふがいなき身)なれども、遠くは杜・何・二裴の説をかんがへ、近くは葵園(王先謙)の例に仿ならひ、黽勉びんべんして以て赴き、頗る寸心をつくせり。拙稿纂成し、綏之すいし先生の審閲を承ること十余巻。〚綏之の按語、つぶさに書中に録す。〛秋閒しゅうかんに綏之、南に歸り、質疑を獲ず。不佞、才質駑鈍どどんにして誤謬まことに多く、見聞狭隘にして采輯さいしゅう未だ詳らかならず。異日、いで得る所有らば、王氏(王先謙)の『範書集解校補』の例に倣ひ、別本にて単行せんと擬す。顔監がんかん(顔師古)の『班書』の注、成る時年は六十一なり。不佞、是の書を卒業しゅつぎょうするに、よわいも亦た相いけり。自ら固陋を慙づるも、何ぞ敢へて妄りに前賢に附せん。積歳の編摩へんまひそかに曩哲のうてつ希蹤きしょうせんことを願ふ。大雅閎達たいがこうだつの士、幸いに不逮ふたいただせ。
中華民國二十五年丙子重九ちょうきゅうの日、沔陽べんよう盧弼ろひつ撰す。
付注 [参考通し番号]
[1] 龍駒:裴駰の字。
[2] 顔監得所依據:顔師古(秘書監)が晋灼の注を参考にしたことを指す。
[3] 龍門功臣:『史記』の著者司馬遷(龍門の人)を助けた(注釈した)者という意味。
[4] 葵園:清末の学者、王先謙の号。
[5] 兩漢注解:王先謙の『漢書補注』『後漢書集解』を指す。
[6] 溫公通鑑:司馬光の『資治通鑑』。
[7] 身之音注:胡三省(字は身之)による『資治通鑑音注』。
[8] 胡綏之:胡玉縉。清末民初の学者。
[9] 官本之短:乾隆帝の命で校訂された武英殿本(殿本)に対する批判。
[10] 饜(あき)る:満足する。
[11] 東潜:謝鍾英の号。その『三國志補注』を指す。
/Gemini's knowledge/ 『三國志集解』は、裴松之注に加えて清代までの諸説が網羅された非常に重厚な資料ですので、読み下し甲斐のある素晴らしいテキストですね。前回の『後漢書集解』に引き続き、正確かつ整然とした形でお手伝いできるよう努めてまいります。
『三國志集解』は、盧弼が一生を捧げたと言っても過言ではない膨大な校勘の結晶です。これから長丁場になりますが、一文字一文字、丁寧に読み解いていきましょう。

三国志集解序

昔章學誠之籑《文史通義》也,泰半肊說,余取其兩言,曰:六經皆史;曰:才、學、識三者兼,必知史德。前者本王通《中說》,而類推之,姑勿贅論;後者本邱濬《大學衍義補》,而小變之。作史然,注史亦何獨不然?苟知史德,作者何懼人禍天刑,注者孰非蠭蜜萍實也?吾友盧慎之評事,(11)鑽揅陳壽書有年,成《三國志集解》六十五卷,引偁浩博,辯證詳明。綜貫全文,則評人每概夫生平,述事務明其始末,如行陳之鉤聯蟠曲,各有條理;稽譔成說,則攷異必衷於一是,知新輒得其大通,如解牛之批卻導窾,因其自然。試以武、文二紀言之,如:獻帝聘操三女,據范書《獻穆曹皇后紀》,三女為憲、節、華,後立節為后。證以本紀建安二十年,帝立操中女為后,《陳留王奐紀》景元元年,故漢獻帝夫人節薨,知立為后者乃節非憲。丕升壇即阼,據《受禪碑》為辛未,非庚午,又據《通鑑考異》說,知宋時所見陳志,傳寫已誤。〚十一月癸卯令葬士卒死亡,與受禪事無涉,惟「一」字為衍文,故下文書十一月癸酉,抹去前文「一」字,則前後皆貫。惟庚午、辛未,相差一日,他書作十一月受禪,蓋未細認後文「十一月」字,或襲誤本陳志,或後人據誤本妄改,諸說紛紛,殊嫌詞費。〛則國史有鉤稽。建安元年費亭侯之封,據《類聚》載獻帝兩詔及操上書,正「封」為「襲」字之誤。註引《魏武故事》載操令稱「孤祖父以及子桓兄弟」五句,乃歷序累世承恩之語,舉子桓以概餘人,下文「封三子為侯」二句,則別為一事,明「子桓」不當改「子植」。又鄄城侯曹植誄,據本傳黃初四年已徙封雍邱王,乃七年仍稱鄄城侯,是裴注之失。則家乘有釐訂。出關過中牟,為虎牢關,非函谷關。西入山攻毒等本屯,即西入黑山,非西山。九江郡治所在,自西漢東漢漢末及三國魏吳分據,或治陰陵,或割入廬江,或曰淮南,而以治壽春居多。剖析極細。睢陽渠即在睢陽,故《祀橋玄文》云“北望貴土”,乃商邱而非陳留。袁尚若循西山來,西山當即鼓山,亦即滏山,下文「臨滏水為營」可證。尚保祁山,祁山即濫口,非今鞏昌府之祁山。白狼山在石城、平岡之東,非在石城西,非在凡城,又非在今建昌。劉備走夏口,此夏口在江北。兩漢江夏郡治西陵,建安中江夏太守劉琦合江夏戰士萬人,與備俱到夏口,此後魏、吳並置江夏郡。文聘屯石陽,別屯沔口。嘉平閒荊州刺史王基表城上昶,徙江夏治之,以逼夏口。而漢末及魏、吳之江​​夏郡治,非復漢治之舊。操至赤壁,此赤壁當在江南,今言赤壁者有五:漢陽、漢川、黃州、嘉魚、江夏。當以嘉魚之赤壁為合。延康元年黃龍見譙,譙本漢縣,在今安徽潁州府毫州治水經獲水注有龍譙固無改縣為“龍譙國”之事。龍譙固在今河南歸德府虞城縣東北,亦兩不相涉。循蔡、潁,浮淮、蓋,自潁口入淮,若蔡陽則阻礙山川,無相入之理。
『三國志集解』序(一)書き下し
昔、章學誠しょうがくせいの『文史通義』をせんするや、泰半たいはん(大半)は肊説おくせつ[1](臆説)なり。、其の兩言を取る。曰はく「六經は皆史なり」と、曰はく「才・學・識の三者兼ぬるも、必ず史德を知るべし」と。前者は王通の『中説』に本づきて之を類推すれば、しばら贅論ぜいろん無駄な議論をすることけん。後者は邱濬きゅうしゅんの『大學衍義補』に本づきて之を小変す。史を作るも然り、史を注するも亦た何ぞ独り然らざらんや。まことに史德を知らば、作者は何ぞ人禍天刑を懼れん、注者はいずれか蠭蜜ほうみつ萍実へいじつに非ざらんや。吾が友、盧慎之ろしんし(盧弼)評事 [2]、陳壽の書を鑽揅さんけんすること有年、『三國志集解』六十五卷を成す。引偁いんしょう浩博こうはくにして、辯證は詳明なり。全文を綜貫そうかんすれば、則ち人を評するにつねに其の生平をらしめ、事務を述ぶるに其の始末を明らめんことを求む。くこと行陳こうじん[3]の鉤聯こうれん蟠曲ばんきょくするがごとく、各々条理有り。成説を稽譔けいせんすれば、則ち攷異こういは必ず一是いっぜに衷し、知新ちしんすなわち其の大通だいつうを得る。解牛かいぎゅう批卻ひきゃく導窾どうかん [4]するがごとく、其の自然に因る。試みに武・文二紀を以て之を言はんに、たとへば、獻帝、操(曹操)の三女をすに、范書(後漢書)『獻穆曹皇后紀』に據れば、三女を憲・節・華と為し、後に節を立てて后と為すと。本紀の建安二十年に、帝、操の中女ちゅうじょを立てて后と為すとあるを以て證し、『陳留王奐紀』の景元元年に、故の漢の獻帝の夫人節薨ずとあるにより、后と立てられし者はすなわち節にして憲に非ざるを知る。(曹丕)の壇に昇りて即阼そくそする、『受禪碑』に據れば辛未しんびにして、庚午こうごに非ず。又『通鑑考異』の説に據れば、宋の時に見る所の陳志は、伝写已に誤れるを知る。〚十一月癸卯、士卒死亡せるを葬らしむる令は、受禪の事とかかはり無し。惟だ「一」の字は衍文なり。故に下文に十一月癸酉と書せるより、前文の「一」の字を抹去すれば、則ち前後皆貫く。惟だ庚午・辛未は、相いたがふこと一日なり。他書に十一月受禪と作るは、蓋し後文の「十一月」の字を細認せず、或いは誤本の陳志にり、或いは後人、誤本に據りて妄りに改め、諸説紛紛として、殊に詞費じひを嫌ふ。〛則ち國史に鉤稽こうけい有り。建安元年の費亭侯の封は、『類聚』に載する獻帝の兩詔及び操の上書に據り、「封」を「襲」の字の誤りと正す。『註』に『魏武故事』を引用して、操の令に「孤の祖父、及び子桓の兄弟」と称する五句を載するは、乃ち累世の恩をくる語を歴序れきじょするなり。子桓(曹丕)を挙げて以て餘人をかくし、下文の「三子を封じて侯と為す」の二句は、則ち別に一事と為す。明かに「子桓」は当に「子植」に改むべからず。又、鄄城けんじょう侯曹植のるいは、本傳に據れば黄初四年に已に雍邱ようきゅう王に徙封しほうさるるに、乃ち七年にほ鄄城侯と称するは、是れ裴注の失なり。則ち家乗かじょう釐訂りてい有り。關を出でて中牟ちゅうぼうを過ぐるは、虎牢關ころうかんにして、函谷關に非ず。西して山に入り毒(于毒)等の本屯を攻むるは、即ち西して黑山こくざんに入るなり、西山に非ず。九江郡の治の所在は、西漢・東漢・漢末及び三國の魏・呉の分據より、或いは陰陵を治とし、或いはかれて廬江に入り、或いは淮南と曰ふも、壽春を治とするを以て多しとす。剖析ほうせき極めて細かなり。睢陽渠すいようきょは即ち睢陽に在り。故に『祀橋玄文』に「北に貴土を望む」と云ふは、乃ち商邱にして陳留に非ず。袁尚、し西山をめぐりて来らば、西山は当に即ち鼓山こざんなるべく、亦た即ち滏山ふざんなり。下文の「滏水ふすいに臨んで營を為す」により證すべし。尚(袁尚)、祁山を保つも、祁山は即ち濫口らんこうにして、今の鞏昌府きょうしょうふの祁山に非ず。白狼山はくろうざんは石城・平岡の東に在り、石城の西に在るに非ず、凡城に在るに非ず、又今の建昌に在るに非ず。劉備、夏口に走る、此の夏口は江北に在り。兩漢の江夏郡の治は西陵なり。建安の中に、江夏太守の劉琦、江夏の戦士萬人を合し、備と倶に夏口に到る。此の後、魏・呉、並びに江夏郡を置く。文聘ぶんぺいは石陽に屯し、別に沔口べんこうに屯す。嘉平かへいの閒、荊州刺史の王基、じょう上昶じょうしょうを表し、江夏を徙して之を治とし、以て夏口をむ。而して漢末及び魏・呉の江夏郡の治は、漢治の旧に復せず。操、赤壁に至る、此の赤壁は当に江南に在るべし。今、赤壁を言ふ者に五つ有り。漢陽・漢川・黃州・嘉魚・江夏なり。当に嘉魚の赤壁を以てごう [5] と為すべきなり。延康元年、黄龍、しょうあらはる。譙はもと漢の縣なり。今の安徽の潁州府亳州はくしゅうなり。『水經』獲水注に「龍譙固」を治とする有り。縣を改めて「龍譙國」と為すの事無し。龍譙固は今の河南の歸德府虞城縣の東北に在り、亦た兩つながら相いかかはり無し。蔡・潁さいえいめぐり、淮・がいを浮かぶは、潁口より淮に入るなり。若し蔡陽なれば則ち山川に阻礙そがいせられ、相い入るのことわり無し。
付注(語句注釈)
[1] 肊説(おくせつ):臆説。自分勝手な推測。
[2] 評事:官職名。ここでは盧弼がかつて就いていた大理寺評事などの職を指す。
[3] 行陳(こうじん):行列、軍列のこと。転じて文章の段落や脈絡。
[4] 批卻・導窾(ひきゃく・どうかん):『荘子』養生主の「庖丁解牛」の故事。骨や肉の隙間に刃を入れ、鮮やかに解体すること。物事の要所を捉えることの比喩。
[5] 合(ごう):合致する、正しい。
/Gemini's knowledge/ この一節は、友人の盧弼(慎之)の業績を称える第三者の筆致(おそらく序文の寄稿者)によるものです。具体的な地名や史実の誤謬を一つひとつ正していく過程が細かく記されています。
分量が多く、地名や人名の比定が非常に細かい箇所でしたが、地理的な矛盾や伝書の誤りを論理的に正していく盧弼の「史徳(学問的誠実さ)」を称賛する内容になっていますね。
特に江夏郡の治所の変遷や、赤壁の場所の特定などは、三国志研究における重要論点ばかりで、読み応えがあります。
自譙循渦入淮,此以今懷遠縣北之渦口為入淮之口。若至睢陵,或至淮陰入淮,則已至徐州界,下文不必言「從陸道幸徐」。凡此,或準地望,或案軍情,或𣶮行蹤,皆融會上下文而得。則地理有講求。呂布到乘氏,為其縣人李進所破,“李”宋本作“季”,據本書《李典傳》所稱,知李為乘氏大姓,“季”乃誤字。註引《英雄記》“孔伷字公緒,陳留人”,與“孔宙字季將,為魯國人”者不相涉。引《曹瞞傳》有眭元進,非即眭固,固字白兔,前已為史渙斬於犬城。又自注云“潘勗字元茂,陳留中牟人”,“陳留”二字誤,本書《衛覬傳》“河南潘勗”下引郡國志及晉書本傳,辯別極當。則人物有攷覈。其論官制,謂:洛陽縣有尉,無都尉。濟南國十餘縣,因領縣時有增損,故言「餘」以為不定之詞。大將軍位在公上公下,視人為轉移,又或在太尉上。軍師祭酒,時操為司空,知此為司空之軍師祭酒。五官中郎將,黃初後仍置。散騎常侍司章表、詔命、手筆之事,非不典事。延康元年注引丕令,後有癸丑宣告督軍御史中丞司馬懿語,謂督軍與御史中丞似為兩官。鉤析致為分曉。攷工政,則:建安二十一年注引《魏書》有「車馬幸長水南門」句,謂渭水注之安​​門,非長門,長門與長水無涉,安門亦與長水南門無涉。“文帝出長安門”,即長門亭,非長安城之安門,亦非長安門之長門。黃初元年自注門曰:「承明,謂建始殿,在北宮,為後官出入之門,門曰‘承明’,直廬即曰承明廬。」論斷亦見了當。釋書目,則謂:註引《曹瞞傳》非「被山」作,細讀《類聚》自見。袁曄《獻帝春秋》雖曰“不經頗資”,異聞為《通鑑》所采。魚豢《魏略》其《西戎傳》,殊方絕域,最為翔實,近張鵬一輯本所采諸傳甚多。張華《博物誌》即《博物記》,據《鐘會傳》注引《記》所載王粲事,與今本《志》文同,不得分記、志為二。意指又復周密。此類遽數之不能終其物,而大要尤在,不沒人之善。以故於操,則納張濟妻諸事,以為閨門紊亂,宜國祚短促。因燒營事盡殺百官,以為與屠戮徐州同一殘酷。而盛稱其能用棗祗、韓浩屯田之議,曰「知本有遠謀」。又稱其示攻董卓兵,以天下形勢,曰「此取三面合圍之計,地理、兵謀瞭如指掌,所以為一世之雄。惜無周公、管仲之志。」於丕,則甄后之卒,以為開國之初,不能容一婦人,事涉離奇。任城王之薨,以為實為所害,天性涼薄,宜享國不永。而以金策藏之石室,嘆為善政。災異勿劾三公,推為卓識。后族不得與政,即引承祚語,以表其賢。而深慨齊王之廢,高貴鄉公之卒,皆假太后令以行,貽謀雖臧,莫之或守,此之謂惡而知其美。因孫權上書稱臣,而以堅策為豪俊。謂麇竺能識英雄。謂魏諷有才智,不能以事之無成而貶於。《齊王芳紀》「何晏奏」下引李光地、何焯說,謂為平情之論。於《高貴鄉公紀》“幸太學,問諸儒下”,謂知人論世,不宜苛論。於《武宣卞皇后傳》「本倡家」下謂「倡樂,不似後世之淫業賤流。卞后一生,傳無貶詞,《世說》且列之賢媛,不能以深惡曹瞞,而亦苛詞醜詆。」而王淩諸人傳,特用李善《文選》注之例,曰:「此皆魏之忠臣、義士,君子平情論事,不以成敗相繩。不佞攷訂事實,不為空論,特發凡於此。」是尤深切著明者也,是所謂史德也。
『三國志集解』序(二) 読み下し
しょうよりに循ひて淮に入るは、此れ今の懷遠縣かいえんけん北の渦口かこうを以て淮に入るの口と為す。若し睢陵すいりょうに至り、或いは淮陰わいいんに至りて淮に入らば、則ち已に徐州の界に至る。下文に「陸道より徐に幸す」と言ふを必ずしもせず。凡そ此れ、或いは地望に準じ、或いは軍情を案じ、或いは行蹤あんしょう𣶮さかのぼる。皆な上下文を融會ゆうかいして之を得たり。則ち地理に講求有り。

呂布、乘氏じょうしに到り、其の縣人の李進りしんの破る所と為る。「李」は宋本に「季」に作るも、本書『李典傳』に称する所に據れば、李の乘氏の大姓たるを知る。「季」は乃ち誤字なり。『註』に『英雄記』を引用して「孔伷こうちゅうは字を公緒といい、陳留の人なり」とあるは、「孔宙こうちゅうは字を季將といい、魯國の人なり」とする者と相いかかはり無し。『曹瞞傳』を引用するに眭元進きげんしん有り、即ち眭固きこに非ず。固(眭固)は字を白兔といい、前に已に史渙しかんの為に犬城けんじょうにて斬らる。又、自ら注して云はく、「潘勗はんきょくは字を元茂といい、陳留中牟の人なり」と。「陳留」の二字は誤りなり。本書『衛覬傳』の「河南の潘勗」の下に『郡國志』及び『晋書』本傳を引用して、辯別すること極めてとうなり。則ち人物に攷覈こうかく有り。

其の官制を論ずるに謂へらく、洛陽縣には尉有りて、都尉無し。濟南國の十餘縣は、領縣に時に増損有るに因り、故に「餘」と言ひて以て不定の詞と為すと。大將軍の位は公の上、公の下に在り、人にりて轉移と為し、又、或いは太尉の上に在り。軍師祭酒は、時に操(曹操)司空たり、此れは司空の軍師祭酒たるを知る。五官中郎將は、黄初の後にもほ置かる。散騎常侍は章表・詔命・手筆の事を司る、事をつかさどらざるに非ず。延康元年、注に丕(曹丕)の令を引く。後に癸丑、督軍御史中丞の司馬懿に宣告する語有り。督軍と御史中丞とは、兩官と為すに似たりと謂ふ。鉤析こうせき致りて分曉ぶんぎょうなり。

工政をかんがふれば、則ち建安二十一年、注に『魏書』を引用して「車馬、長水の南門に幸す」の句有り。謂へらく、渭水いすい注の安門にして、長門に非ず。長門は長水と渉はり無く、安門も亦た長水の南門と渉はり無しと。「文帝、長安門を出づ」は、即ち長門亭なり、長安城の安門に非ず、亦た長安門の長門に非ず。黄初元年、自ら門に注して曰はく、「承明は、建始殿を謂ふ。北宮に在りて、後官出入の門と為し、門を承明と曰ふ。直廬ちょくろを即ち承明廬と曰ふ」と。論断も亦た了當りょうとうたるをあらはす。

書目を釈すれば、則ち謂へらく、『註』に引用せる『曹瞞傳』は「被山」の作る所に非ず、細かに『類聚』を読まば自ら見ゆと。袁曄えんようの『献帝春秋』は「不経ふけいなり」と曰ふと雖も、頗る資し、異聞は『通鑑』の採る所と為る。魚豢の『魏略』、其の「西戎傳」は、殊方絶域しゅほうぜついき、最も翔実しょうじつなり。近ごろ張鵬一の輯本しゅうほんに採る所の諸傳甚だ多し。張華の『博物誌』は即ち『博物記』なり。『鍾會傳』の注に『記』を引用して載する所の王粲の事に據れば、今本の『志』の文と同じ。記・志を分かちて二と為すを得ず。意指いし又復周密なり。

此の類、にわかに数ふるも其の物を終ふる能はず、而して大要は尤も在りて、人の善を没せず。故を以て操(曹操)に於いては、則ち張済ちょうせいの妻をるる諸事、以て閨門紊乱ぶんらんし、宜なるかな國祚こくそ短促なりと為す。營を焼く事に因りて尽く百官を殺す、以て徐州を屠戮するのと同一の残酷と為す。而るに盛んに其の棗祗そうし韓浩かんこうの屯田の議を用ふる能ふを称して、曰はく「本を知りて遠謀有り」と。又其の董卓の兵を攻むるを示すを称して、天下の形勢を以て曰はく「此れ三面合囲の計を取るなり、地理・兵謀はあきらかにしてたなごころを指すごとし。一世の雄たる所以なり。惜しむらくは周公・管仲の志無し」と。

丕(曹丕)に於いては、則ち甄后しんこうしゅつする、以て開國の初め、一婦人を容るる能はず、事、離奇りき[1]に渉ると為す。任城王じんじょうおう(曹彰)の薨する、以て實に其の害する所と為し、天性涼薄りょうはくにして、宜なるかな國をくること永からずと。而るに金策を石室に蔵するを以て、善政と嘆ず。災異に三公を劾せず、卓識と推す。后族、政にあずかるを得ず、即ち承祚(陳寿)の語を引用して、以て其の賢を表す。而して深く齊王せいおう(曹芳)の廃さる、高貴郷公こうききょうこう(曹髦)の卒する、皆な太后の令を假りて以て行はるるを慨き、貽謀いぼう[2](のこせるはかりごと)[3]しと雖も、之を守ること或は無し、此れを之れ「悪にして其の美を知る」と謂ふ。
孫権そんけんの上書して称臣するに因りて、堅策けんさく(孫堅・孫策)を豪俊ごうしゅんと為す。麇竺きじく(麋竺)は能く英雄(劉備)を識ると謂ふ。魏諷ぎふうは才智有り、事の成る無きを以て貶むべからずと謂ふ。『齊王芳紀』の「何晏の奏」の下に、李光地りこうち何焯かしゃくの説を引用し、平情へいせいの論と為すと謂ふ。『高貴郷公紀』の「太学にこうし、諸儒に問ふ」の下に、知人論世ろんせい、宜しく苛論かろんすべからずと謂ふ。『武宣卞皇后傳』の「もと倡家[4]」の下に、「倡楽しょうがくは、後世の淫業賤流いんぎょうせんりゅうに似ず。卞后の一生、傳に貶詞へんし無し。『世説』まさに之を賢媛けんえんに列す。曹瞞(曹操)を深悪するを以て、亦た苛詞かしにして醜詆しゅうていすべからず」と謂ふ。而して王凌諸人の傳には、ことに李善の『文選』注の例を用ひて曰はく、「此れ皆な魏の忠臣・義士なり。君子は情を平らかにして事を論じ、成敗を以て相いたださず。不佞(私)、事実を攷訂し、空論を為さず、特にはんを此に発す」と。是れ尤も深切著明しんせつちょめいなる者なり、是れ所謂史德なり。
付注(語句注釈)
[1] 離奇(りき):不思議なこと、普通ではないこと。
[2] 貽謀(いぼう):子孫のために残す計画や教訓。
[3] 臧(よし):すぐれている、良い。
[4] 倡家(しょうか):歌舞音曲を業とする家。後世の売春を主とするものとは異なると盧弼は弁護している。
/Gemini's knowledge/ ご提示いただいた箇所は、盧弼の考証がいかに多角的な視点(地理、人物、官制、書誌、そして人物評価における道徳的公正さ)で行われているかを具体例を挙げて絶賛している、非常に重要な場面です。

特に後半の曹操、曹丕、曹植らに対する評価は、単なる史実の突き合わせに留まらず、編纂者の倫理観(史徳)にまで踏み込んでおり、読み応えがあります。
非常に長く、かつ専門的な地名や人名が連続する難所でしたが、盧弼が単なる学問的正確さだけでなく、「悪にしてその美を知る(嫌いな相手であっても、その長所は正当に評価する)」という公平な歴史眼を持っていたことを強調する熱い文章です。

特に卞皇后(曹操の妻)の出自に対する偏見を排したり、魏の滅亡に殉じた王凌らを「魏の忠臣」と定義し直したりする姿勢は、当時としては非常に先進的だったと言えるでしょう。
昔鄭君注《禮》,往往駮正經文,史自馬、班,已不能無舛,陳書遂亦難免,端賴後人訂補。如太后及弘農王之殺,非一時事,此在史家為類序之法,有「及」字以為聯屬,即以為區異,文義亦未盩,然不得謂非失之略。“東略陳地”,陳實在兗州西南部。“九月車駕之出”,據范書《獻帝紀》“八月幸操營”。冀州之平,由袁譚之破,據《獻紀》「操破譚於青州」。「東」字、「九」字、「冀」字疑有誤。巴東、巴西,據本書《張郃傳》及《劉璋傳》,不待以朴胡、杜濩為太守,始置二郡。下辯之役,吳蘭被破,其時兩軍相距陽平,張飛等無走/漢中之理,故《通鑑》但稱“張飛、馬超走”,今“走”下有“漢中”二字,當衍。至“兵不滿萬”,裴注有疑詞,然觀上文荀攸,下文許攸說,及《荀彧傳》所稱,實為以少敵眾,《鍾繇傳》雖有送馬一千餘匹語,當繇馬未至之先,僅有六百餘騎,又復何疑?此則分別本傳之得失,亦可云犁然有當於人心者矣。〚《通鑑》建安四年采本書《魏覬傳》課鹽之策,《陳羣傳》延康元年制九品官人之法,《彭城王傳》黃初五年詔改諸王皆為縣王,陳意此雖大事,而全書通為傳體,(詳後坿記)故但分見各傳。今本已竄改操、丕等傳為“紀”,則以為失“書”也宜。〛
『三國志集解』序(三) 読み下し
昔、鄭君ていくん[1](鄭玄)の『禮』を注するや、往往にして経文を駮正ばくせいす。史は(司馬遷)・はん(班固)よりして、已にせん(あやまり)無き能はず。陳書三国志も遂に亦た免れ難く、ひとへに後人の訂補にる。たとへば、太后及び弘農王こうのうおうの殺は、一時の事に非ず。此れ史家に在りては類序るいじょの法にして、「及」の字有りて以て聯屬れんぞくと為し、即ち以て區異くい区別と為すも、文義は亦た未だたが[2]はず。然れども、之を略に失すると謂はざるを得ず。「東に陳地ちんちを略す」といふも、陳は實に兗州えんしゅうの西南部に在り。「九月、車駕の出」は、范書(後漢書)『獻帝紀』に據れば「八月、操(曹操)の營に幸す」とあり。冀州の平らぐは、袁譚えんたんの破るるに由るも、『獻紀』に據れば「操、譚を青州に破る」とあり。「東」の字、「九」の字、「冀」の字は疑はくは誤り有らん。巴東・巴西は、本書『張郃傳』及び『劉璋傳』に據れば、朴胡ぼくこ杜濩とわくの太守と為るを待たずして、始めて二郡を置く。下辯かべんの役に、吳蘭ごらん破らる。其の時、兩軍相い距たること陽平なり。張飛等、漢中に走るのことわり無し。故に『通鑑』には但だ「張飛・馬超走る」と称す。今、「走」の下に「漢中」の二字有るは、當にえん衍文なるべし。「兵、萬に滿たず」に至りては、裴注に疑詞ぎし有り。然れども上文の荀攸じゅんゆう、下文の許攸きょゆうの説、及び『荀彧傳』に称する所を觀れば、實に少なきを以ておおきにあたるなり。『鍾繇傳』に、馬一千餘匹を送るとの語有りと雖も、よう(鍾繇)の馬の未だ至らざるの先に當りて、僅かに六百餘騎有り、又復何をか疑はんや。此れ則ち本傳の得失を分別するに、亦た犁然りぜん[3]として人心に當る者有りと云ふべきなり。〚『通鑑』、建安四年に本書『魏覬ぎき傳』の課鹽かえん[4]の策を採り、『陳羣傳』延康元年に九品官人の法を制し、『彭城王傳』黄初五年に詔して諸王を改めて皆な縣王と為す。陳(陳寿)の意は、此れ大戦なりと雖も、全書通じて傳體と為せば(詳らかには後に坿記ふきす)、故に但だ各傳に分見せしむ。今本は已に操(曹操)・丕(曹丕)等の傳を竄改[5]して「紀」と為せば、則ち「書」を失ふと以為おもふもむべなり。〛
付注(語句注釈)
[1] 鄭君:後漢の経学者、鄭玄のこと。
[2] 盩(たがう):背く、あわない。
[3] 犁然(りぜん):はっきりと。納得のいくさま。
[4] 課鹽(かえん):塩に税をかける、あるいは塩の専売制に関する政策。
[5] 竄改(ざんかい):文字を勝手に書き換えること。
/Gemini's knowledge/ 提示いただいた箇所は、陳寿『三国志』の記述の不備や、後の編纂過程での「紀」と「伝」の扱いの変化について、鋭く考証している場面ですね。

特に、太后(何太后)と弘農王(少帝)の殺害時期の混同や、地理的な方位(「東略」の「東」字の疑い)、さらには官渡の戦いにおける曹操軍の兵数問題など、史料批判の核心に触れる内容が含まれています。
特に最後の注釈部分は興味深い指摘です。陳寿が元々『三国志』を「(晋に対する)伝」の形式で書いていたものを、後の時代に曹操や曹丕の箇所を「紀(本紀)」へと格上げして書き換えられたこと(竄改)を批判しています。これは『三国志』の編纂史における重要な論点ですね。

次は「序例」の締めくくり、あるいは本文へと続く箇所でしょうか。
雖稽古同天,鄭君本《論語》古義,高貴鄉公主其說,書疏以為非篤論,與本文違異,此尚沿誤,當引江聲《尚書集注音疏》、孫星衍《今古文注疏》。「予有亂十人」,《論語》、《春秋》、古文《尚書》同,《釋文》云:「本或有‘臣’字,非。」此於註引《劉廙別傳》未正,當引劉寶楠《正義》。馗,古「逵」字,尚少疏證,當引馬瑞辰《毛詩傳箋通釋》。〚見《兔罝篇》。凡經小學說頗繁,此取其切合者。〛此類殆若干事。顧炎武《日知錄·十三》論曹植聞魏代漢,發服悲哭,以為懿親之賢。嚴元照《蕙櫋雜記》議曹植為丕母弟,上疏言「恩隆父母」為失辭。閻若璩《困學紀聞·箋十三》稱後主誅李邈,非他庸主及其毫髮。朱珔《古文彙鈔·九十六》載劉紹攽論,又稱其任亮不少衰,伊、周不能得之於太甲、成王,語有分寸,視袁枚「勝齊桓」之說為優。俞正燮《癸巳存稿·七》以《魏書》李苗、毛脩之兩傳論諸葛亮為確當,而下引裴度語,李、毛本抑亮,得裴說而益見亮之高遠。兪文豹《吹劍錄》謂亮不明大義,不忠漢室,《四庫提要》已斥其妄,但其說采入陶宗儀《輟耕錄廿五》。陶書近頗盛行,當申明《提要》,以正後學。惠棟《九經古義·十二》譏陳壽未知營陵是姓,順帝前已見於碑,何至孔融時始改「氏」為「是」。兪氏《癸巳類稿·十四》言《胡化經》晉宋間撰,裴松之託言魏明帝序。又趙翼《陔餘叢考·六》以赤壁、肥水之戰,《武紀》、《孫權傳》先後互異,而主《權傳》。王應麟《困學紀聞·十三》以王淩諸人雖敗,而千載下猶有生氣。今所見俱與之合,似宜徵引其說。此類殆又若干事,全書度亦無多,他日校補刊行,益臻美善。攷證之學無窮,其體本然也。書仿王祭酒(12)兩漢書例,視《集解》有過之,視《補注》亦無不及,足與王書鼎峙而三。余見夫王氏《荀子集解》刊行,而後從事子書者頗夥,上焉者采錄王念孫《雜志》、兪樾《平議》,雖少發明,而排比清晰,尚便繙檢;下焉者據王、兪說,改易正文,案語往往不舉出原書,令人眯惑甚或就空泛之疏,衍空泛之說,襲他處徵實語,全書中祇三四見,鄙彼成書之易,乃益歎此之成書匪易。司馬遷論次傳記為《五帝紀》,曰:「非好學深思,心知其意,難為淺見寡聞道。」范曄《後漢書·自序》曰:「諸細意甚多,自古體大而思精未有此。」雖注與作迥異,而其意固已近之也已。 己卯十二月立春前三日,吳縣胡玉縉謹書於虎山橋畔之鄦?,高?時年八十有一。
『三國志集解』序(四) 読み下し 稽古けいこは天を同じうすと雖も、鄭君ていくん(鄭玄)は『論語』の古義に本づき、高貴郷公こうききょうこう(曹髦)は其の説を主とす。書疏しょそに以て篤論とくろんに非ずと為すは、本文と違異いいし、此れ尚ほ誤りに沿へり。當に江声の『尚書集注音疏』、孫星衍の『今古文注疏』を引くべし。「予に乱十人らんじゅうにん有り」[1]は、『論語』・『春秋』・古文『尚書』同じ。『釈文』に云はく「本に或いは『臣』の字有るは、非なり」と。此れ注に劉噀りゅういん別傳を引用せるも未だ正しからず、當に劉宝楠の『正義』を引くべし。は古の「逵」字なるも、尚ほ疏證そしょう少なし。當に馬瑞辰の『毛詩傳箋通釈』を引くべし。〚『兔罝としゃ篇』に見ゆ。凡そ経の小学説は頗る繁なれども、此れ其の切合せつごうせる者を取る。〛此の類、殆ど若干事なり。

顧炎武こえんぶの『日知録』巻十三に、曹植が魏の漢に代はるを聞き、發服はっぷく(喪服を着る)して悲哭せるを論じ、以て懿親いしん[2]の賢と為す。厳元照げんげんしょうの『蕙櫋けいめん雑記』に、曹植は丕(曹丕)の母弟ぼていたるを議し、上疏に「恩は父母よりもあつし」と言ふを失辞しつじと為す。閻若璩えんじゃくきょの『困学紀聞箋』巻十三に、後主(劉禅)が李邈りばくを誅せるを称し、他の庸主ようしゅの其の毫髮ごうはつ[3]にも及ばざるに非ずとす。朱珔しゅせんの『古文彙鈔』巻九十六に劉紹攽りゅうしょうふんの論を載せ、又其の(諸葛亮への)信任のまことに少しも衰へざるを称し、(伊尹)・しゅう(周公)も之を太甲たいこう成王せいおうに得ること能はず、語に分寸ぶんすん有り。袁枚えんばいの「斉桓に勝る」の説に視(比)して優と為す。

俞正燮ゆせいしょうの『癸巳存稿』巻七に、『魏書』の李苗りびょう毛脩之もうしゅうしの兩傳を以て諸葛亮を論ずるを確當かくとうと為す。而して下に裴度はいどの語を引用し、李・毛は本亮(諸葛亮)をおさふるも、裴説を得て益々亮の高遠なるを見る。兪文豹ゆぶんひょうの『吹剣録』に、亮は大義に明るからず、漢室に忠ならずと謂ふ。『四庫提要』已に其の妄を斥くも、但だ其の説は陶宗儀とうそうぎの『綴耕録てっこうろく』巻二十五に採り入れらる。陶の書、近ごろ頗る盛行すれば、當に『提要』を申明しんめいし、以て後学を正すべきなり。

惠棟けいとうの『九経古義』巻十二に、陳壽が未だ營陵えいりょうは是姓なるを知らざるを譏る。順帝の前に已に碑に見ゆるに、何ぞ孔融こうゆうの時に至りて始めて「氏」を改めて「是」と為さんや。兪氏ゆしの『癸巳類稿』巻十四に、『胡化経こかけい』は晋・宋の間に撰せられ、裴松之が魏の明帝の序と託言たくげんせりと言ふ。又、趙翼ちょうよくの『陔餘叢考がいよそうこう』巻六に、赤壁・肥水の戦を以て、『武紀』・『孫権傳』先後互いに異なり、而して『権傳』を主とす。王應麟おうおうりんの『困学紀聞』巻十三に、王凌諸人は敗るると雖も、千載の下、猶ほ生気有りとす。今、見る所は俱に之と合ふ。宜しく其の説を徴引すべきに似たり。此の類、殆んど又若干事なり。全書、はかるに亦た多からず。他日、校補刊行せば、益々美善びぜんいたらん。攷証の学は窮まり無し、其の体本より然るなり。

書は王祭酒(王先謙)(12)の兩漢書の例に仿ならひ、これに視(比)すれば『集解』も過ぎたる有り、『補注』に視しても亦た及ばざる無し。足る、王の書と鼎峙して三と為るに。余、王氏の『荀子集解』の刊行せられ、而る後、子書ししょに従事する者頗るおおきを見る。じょうなる者は王念孫の『雑誌』、兪樾ゆえつの『平議』を採録し、発明少なしと雖も、排比はいひ清晰せいせきにして、尚ほ紕検はんけん[4]に便なり。下なる者は王・兪の説に據りて正文を改易し、案語に往往にして原書をださず、人をして眯惑めいわく[5]せしむ。甚だしきに至りては、空泛くうほうの疏に就きて空泛の説をべ、他処の徴実ちょうじつの語を襲ひ、全書の中にだ三四見するのみ。彼の成書の易きをいやしみ、乃ち益々此の(盧弼の)成書の易からざるを歎ず。

司馬遷、伝記を論次して『五帝紀』を為りて曰はく、「好学深思、心に其の意を知るに非ざれば、浅見寡聞の為にひ難し」と。范曄の『後漢書・自序』に曰はく、「諸々の細意甚だ多く、自古、体大にして思精しせいなること、未だ此れ有らず」と。注と作とは迥異けいい[6]なりと雖も、其の意、固より已に之に近きのみ。

己卯十二月、立春前三日、吳縣の胡玉縉、謹んで虎山橋畔こざんきょうはんきょ……(以下地名・号などか)に書す。高……(号か)、時年八十有一。
付注(語句注釈)
[1] 乱十人:『論語』泰伯篇にある「予(われ)に乱臣十人有り」の句。ここでの「乱」は「治める」という意味。胡玉縉は、「臣」の字を衍文とする文献学的見解を引いている。
[2] 懿親(いしん):君主の親族、特に徳のある親族。
[3] 毫髮(ごうはつ):毛髪の先。ごくわずかなこと。
[4] 紕検(はんけん):本をめくって調べること。
[5] 眯惑(めいわく):目がくらんで迷うこと。
[6] 迥異(けいい):はるかに異なること。
/Gemini's knowledge/ ご提示いただいたのは、序文の締めくくりとなる非常に重要な部分です。
ここでは、胡玉縉こぎょくしんが盧弼の業績を、清朝の考証学(江声、孫星衍、劉宝楠、馬瑞辰ら)の成果を取り入れたものとして高く評価し、さらに王先謙の『漢書補注』『後漢書集解』と並び立つ「三足の鼎」のごとき不朽の巨著であると絶賛しています。

末尾の「己卯」は1939年(民国28年)にあたり、胡玉縉が81歳の高齢で友人のために寄せた言葉であることがわかります。
これで「序例」が完結いたしました。胡玉縉が、当時の学界に溢れていた安易な「子書の注釈書(先行する注を適当に並べただけの本)」を厳しく批判し、それらとは一線を画す盧弼の誠実な「成書の難さ」を司馬遷や范曄になぞらえて称賛しているのが印象的です。

特に「王先謙の二書(漢書・後漢書)と並んで三つの鼎となるべき」という評価は、現在でも『三國志集解』が受けている最高級の評価そのものです。

案《武紀》稱操曰“太祖”,建安元年封武平侯後稱“公”,進爵為魏王後稱“王”,而稱公下無一語斡旋或繳明,殊嫌倒置,是文例之最不可通者,陳壽何致出此?或謂不如概稱“太祖”,陳氏又豈不知,而竟遺斯巨謬,斷無是理,蓋經後人竄改也。《志》本傳體,無紀之一目,猶《漢志·高祖傳》、《孝文傳》之比,而稱為書。以魏、蜀、吳鼎峙皆各,未能渾一,遂三國之,無所謂帝某偽某也。又係私史,意在數十百年後傳之其人,以明尊蜀微尚。〚詳後。〛不謂卒後即由尚書郎範頵上表,遂入於官。今本非頵即劉宋人改竄,而以後說為近。何以言之?頵任尚書郎,當惠帝元康末,未幾八王、五胡俶擾,殆無暇改易。惟魏、晉雖假禪讓為攘奪,皆未加害故君。劉裕篡位,廢恭帝為零陵王,旋即以被掩殺之,媚者以宋承晉統,晉承魏統,為操諱飾,實為裕地步。貿然改易致與原書大相違異而前後遂致不倫凡太祖字及劉備陰與董承等謀反吉本耿紀、韋晃等反」、〚據范書《獻帝紀》是“起兵誅操”,凡若此類,觀趙翼《廿二史箚記》“論陳、範二書書法不同”條可見。蓋後漢在三國前,范成書在陳後百餘年,雖未必全襲陳書,而大意當亦不遠。陳書經宋改,范不爾者,則以魏尚與宋接近,後漢已隔兩朝,人不經意,殆天之假手於范以正操罪,並以正後之凡為操者也。趙氏讀今本《魏紀》而不悟其文例之不可通,一則曰“創為迴護之法”,再則曰“不得不多所迴護”。(13)而陳氏冤矣〛《董卓傳》「語在《武紀》」之類是也。其首行當如《孫堅傳》例,書“曹操字孟德,沛國諫人也,蓋相國參之後”,下稱曹丕、曹叡,不冠某帝字。惟劉備、劉禪稱「先主」、「後主」為異。〚詳後。〛其曹丕受禪後稱帝,「帝」字皆「丕」字所改,如孫權稱帝後仍書名之例。權固自稱,丕雖由漢禪,實惡其迫脅篡奪,所謂「朕守空名以竊古義,顧視前事,猶有慚德」者也。(14)蜀、吳二《志》稱操為“曹公”,幾百數十見。《孫權傳》云:「建安二十五年春正月,曹公薨。太子丕代為丞相、魏王。改年為延康。」「冬,魏嗣王稱尊號,改元為黃初。」「二年四月,劉備稱帝於蜀。此數語爲特筆原本試思操已封魏王,何​​以但稱曹公?王之一字,一若靳之於操,甯公之丕也者,蓋惡其稱王後冠服制度已同於天子也。然則不書「武皇帝」可知,不書「太祖」亦可知。大致「武平侯」以前,「太祖」字原是「操」字,方與下文稱「公」稱「王」融洽。餘「太祖」字是「公」字,方與蜀、吳二《志》稱「曹公」灌注。“語在《武紀》”,“武紀”是“操傳”二字。
『三國志集解』附(巻頭考察) 読み下し
案ずるに、『武紀』に操(曹操)を称して「太祖」と曰ひ、建安元年に武平侯に封ぜられて後「公」と称し、爵を進めて魏王と為りて後「王」と称す。而るに公と称する下に一語の斡旋[7](とりつぎ)或いは繳明きょうめい明示する無く、殊に倒置を嫌ふ。是れ文例の最も通ずべからざる者なり、陳壽何ぞ致して此に出でんや。或いは謂へらく「概ね『太祖』と称するに如かず」と。陳氏又た豈に知らざらんや、而してついに斯の巨謬を遺すは、断じて是の理無し。蓋し後人の竄改を經るなり。『志』は本傳體でんたいにして、紀の一目無し。猶ほ『漢志』の「高祖傳」・「孝文傳」のたぐいのごとくにして、称して「書」と為す。魏・蜀・呉の鼎峙せるを以て、皆な各未だ渾一する能はず、遂に之を三國とし、某帝・偽某と謂ふ所無し。又た私史に係れば、意は数十百年後に其の人を傳へ、以て蜀を尊ぶの微尚びしょうかすかな志を明らめんとす。〚詳らかには後にす。〛謂(おも)はざりき、卒後即ち尚書郎の範頵はんいんの上表に由り、遂に官に入らんとは。今本は頵(はんいん)に非ざれば即ち劉宋の人、改竄せるなり。而して後の説を近しと為す。何を以て之を言はん。頵は尚書郎に任じ、恵帝の元康の末に當たり、未だいくばくならずして八王・五胡の俶擾しゅくじょう[8]動乱あり、殆ど改易するに暇無し。惟だ魏・晋は禅譲を假りて攘奪じょうだつを為すと雖も、皆な未だ故君こくんに害を加へず。劉裕(宋の武帝)位をうばひ、恭帝を廃して零陵王と為し、たちまち即ち之を掩殺えんさつするを以てす。媚る者、宋は晋の統を承け、晋は魏の統を承くを以て、操(曹操)の為に諱飾きしょく[9](忌み隠す)するは、實に裕(劉裕)の為に地歩を為すなり。貿然ぼうぜんとして改易し、ついに原書と大いに相い違異し、而して前後遂に不倫を致す。凡そ太祖の字、及び「劉備、陰かに董承等と謀反す」「吉本・耿紀・韋晃等反す」の、〚范書『獻帝紀』に據れば是れ「兵を起して操を誅す」なり。凡そ此の類のごとき、趙翼の『廿二史箚記』「陳・范二書の書法同じからざるを論ず」の條に観るべきなり。蓋し後漢は三國の前に在り、范(范曄)の成書は陳(陳寿)の後百余年に在り。全くは陳書にらざると雖も、而して大意は當に亦た遠からざるべし。陳書は宋(劉宋)を經て改めらるるも、范(范曄)はしからざる者は、則ち魏は尚ほ宋と接近するを以てし、後漢は已に兩朝(晋・宋)を隔て、人意をず、殆んど天の范に假手かしゅ[10]して以て操の罪を正し、並びに以て後の凡そ操を為す者を正すなり。趙氏(趙翼)今本の『魏紀』を読みて其の文例の通ずべからざるを悟らず、一には則ち曰はく「創めて迴護かいご(かばう)の法を為す」と、再たびには則ち曰はく「多く迴護する所せざるを得ず」と。(13)而して陳氏えんをかうむれり。〛『董卓傳』の「語は『武紀』に在り」の類の是れなり。其の首行しゅこうは當に『孫堅傳』の例の如く、「曹操、字は孟德、沛國しょうの人なり、蓋し相国參の後なり」と書すべく、下に曹丕・曹叡と称し、某帝の字を冠せず。惟だ劉備・劉禅を「先主」・「後主」と称するを異と為す。〚詳らかには後にす。〛其の曹丕の受禅後に帝と称するも、「帝」の字は皆な「丕」の字の改むる所なり。孫権の帝と称して後にほ名を書きし例のごとし。権は固より自ら称す。丕は漢より禅らるると雖も、實に其の迫脅はくきょう簒奪せるをにくみ、所謂「朕、空名を守りて以て古義を窃み、前事を顧視こしするに、猶ほ慚德ざんとく有り」とする者なり。(14)蜀・呉の二『志』に操を「曹公」と称すること、ほとんど百数十見なり。『孫権傳』に云はく「建安二十五年春正月、曹公薨ず。太子丕、代わりて丞相・魏王と為る。年を改めて延康と為す」と。「冬、魏の嗣王しおう尊号を称し、元を改めて黄初と為す」と。「二年四月、劉備、帝を蜀に称す」と。此の数語は特筆の原本なり。試みに思へ、操已に魏王に封ぜらるるに、何ぞ以て但だ曹公と称せん?「王」の一字は、一に之を操におし[11]み、ねがわくは公を丕(曹丕)にせんとする者のごときは、蓋し其の王と称して後に冠服制度已に天子と同じきを悪めばなり。然れば則ち「武皇帝」と書せざるを知るべく、「太祖」と書せざるをも亦た知るべし。大凡おおよそ「武平侯」以前は、「太祖」の字はもと是れ「操」の字にして、方に下文に「公」と称し「王」と称するのと融洽ゆうこうす。ほかの「太祖」の字は是れ「公」の字にして、方に蜀・呉の二『志』に「曹公」と称するのと灌注かんちゅうす。「語は『武紀』に在り」の「武紀」は、是れ「操傳」の二字なり。
付注(語句注釈)
[7] 斡旋(あっせん):事情をうまくつなぐこと。ここでは文章のつじつまを合わせること。
[8] 俶擾(しゅくじょう):天下が乱れ、騒がしくなること。
[9] 諱飾(きしょく):不都合な事実を伏せて、体裁を繕うこと。
[10] 假手(かしゅ):他人の手(ここでは天の采配)を借りて目的を果たすこと。
[11] 靳(おしむ):物惜しみをする。ここでは尊称を与えるのをためらうこと。
/Gemini's knowledge/ 次は「附」と題された、陳寿の原典における表記(文例)が後世にいかに改竄されたかを鋭く考察する一節です。

盧弼はここで、現在の『三国志』に見える「太祖」や「武帝」といった尊称は、陳寿の真筆ではなく、後世(特に劉宋時代)の人間が時の権力者の都合(禅譲という名の簒奪を正当化する意図)で書き換えたものであると断じています。
この「附」の部分は、盧弼の文献学者としての真骨頂といえる鋭い指摘です。「魏志」が曹操を「太祖」と持ち上げ「紀」としているのは、劉裕(宋の武帝)が禅譲という手段で帝位を奪った際に、その先例である魏を格上げして正当化しようとした「改竄の結果」であるという見解は、陳寿の本来の意図(蜀を密かに尊ぶ私史としての性質)を浮き彫りにしています。

特に「太祖」という文字を本来は「操」や「公」であったと読み替えるべきだという主張は、文章の前後関係(文例)を重んじる緻密な学問的態度に裏打ちされています。
為此書本傳體也。丕本受撣,何以不稱“受禪踐帝位”,但云“稱尊號”,一若出於自稱也者。《先主傳》建安二十五年下,亦有「魏稱尊號」語,為迫脅不容美以禪代也。然則不書「文帝」可知,餘「帝」字作「丕」字亦可知。趙翼以蜀後主即位,書是歲“魏黃初四年”;吳孫亮即位,書是歲“魏嘉平四年”,欲以見正統在魏。不知此第表明蜀之建興元年,吳之太元二年,猶曩者中國紀年下注明即西歷若干年。不然,《武紀》稱操起兵已吾曰:「是歲中平六年」。上文熹平、光和,下文初平、興平,皆漢帝紀年。中平亦漢年,將何以說?先主、後主之稱,意欲帝蜀。觀《先主傳》評云:「蓋有高祖之風」。《楊戲傳》稱戲著《季漢輔臣贊》,並引《贊》語云:「世主能承高祖之始兆,復皇漢之宗祀。」可以概見。而不帝之者,痛乎漢禪已為丕奪,先主自稱帝,史法不能帝之也。惟不能帝之,遂三國之也,此《春秋》謹嚴之恉也。總之,本系傳體,無紀之一目;又係私史,非奉勅撰。明乎此例,就今竄改本讀之,尚可得其厓略。自誤以壽為晉臣,晉承魏統,不得不帝魏,而其恉晦。誤以壽曾仕蜀,先主、後主之稱,僅不忘故主,而恉愈晦,豈非讀陳志者一大憾事歟?若夫總目,顯系妄人偽撰。四卷下注“三少帝”,實非所施。六卷下注列傳,又為贅設。凡史傳附見其人不妨多,其目往往略舉其要,坿傳人又必有事可記。今廿一卷王粲下臚列十有八人。衛覬下潘勖、王象但云與覬並以文章顯,然猶可曰有文字關係。六十二卷胡綜下徐詳但載其字與里,而曰先綜死,其目自可從略。而書內本傳下一如總目,斷為妄人增益無疑。凡此肊見,前人似未盡道及,〚宋元本、馮本分為三目,與今通行本異,亦妄人增益之一證。〛儻俊哲洪秀偉彥之倫,匡而正​​之,則幸甚!玉縉又書。
『三國志集解』附(巻頭考察・二) 読み下し
此の書のつくり方は、もと傳體でんたいなり。丕(曹丕)は本ぜんを受けるに、何ぞ「禪を受け帝位にむ」と称さず、但(た)だ「尊号を称す」と云ふは、一に自称より出づるがごとき者なり。『先主傳』建安二十五年の下にも、亦た「魏、尊号を称す」の語有り。迫脅はくきょうして禅代を以て美とするをゆるさざればなり。然れば則ち「文帝」と書せざるを知るべく、餘の「帝」の字は「丕」の字に作るべきも亦た知るべし。

趙翼ちょうよくは、蜀の後主(劉禅)即位するに、是の歳を「魏の黄初四年」と書し、呉の孫亮即位するに、是の歳を「魏の嘉平四年」と書するを以て、正統の魏に在るをあらはさんと欲すと(す)。知らず、此れただ蜀の建興元年、呉の太元二年を表明するのみなるを。猶ほさきに中国の紀年の下に、即ち西暦若干年と注明するがごとし。然らずんば、『武紀』に操(曹操)兵を起せるを称して、已に自ら曰はく「是の歳、中平六年」と。上文の熹平・光和、下文の初平・興平、皆な漢帝の紀年なり。中平も亦た漢年なり、た何を以てか説かん。

先主・後主の称は、意は蜀を帝たらしめんと欲す。『先主傳』の評を観るに云はく「蓋し高祖の風有り」と。『楊戲傳』に、戲の『季漢輔臣贊』を著せるを称し、並びに『贊』の語を引用して云はく「世主、能く高祖の始兆を承け、皇漢の宗祀をく」と。以て概見すべし。而るに之を帝とせざる者は、痛むかな漢の禪、已に丕(曹丕)の為に奪はれ、先主自ら帝と称するも、史法、之を帝とする能はざればなり。惟だ之を帝とする能はず、遂に之を三國とするは、此れ『春秋』の謹厳なるむねなり。

総じて、本けいは傳體にして、紀の一目無し。又た私史に係り、勅撰ちょくせんを奉ぜるに非ず。此の例を明らめば、今の竄改本に就きて之を読まば、尚ほ其の厓略がいりゃく[12]を得べし。自ら誤りて(陳)壽を以て晋臣と為し、晋は魏の統を承け、魏を帝とせざるを得ずと為さば、其のむねくらし。誤りて(陳)壽を曾て蜀に仕へしとし、先主・後主の称、僅かに故主を忘れざるのみと為さば、恉愈々晦し。豈に陳志を読む者の一大憾事かんじに非ずや。

若し夫の総目は、あきらかに妄人もうじんの偽撰に係る。四巻の下に「三少帝」[13]と注するは、實に施す所に非ず。六巻の下に列傳を注するは、又た贅設ぜいせつ[14]と為す。凡そ史傳に其の人を附見するは多きを妨げず、其の目は往往にしてほぼ其の要を挙げ、附傳の人も又た必ず記すべき事有り。今、二十一巻の王粲の下に十有八人を臚列ろれつ[15]す。衛覬えいきの下の潘勖はんきょく・王象は、但だ覬(衛覬)と並びに文章を以て顕はると云ふのみなるも、然れども猶ほ文字の関係有りと曰ふべし。六十二巻の胡綜の下の徐詳は、但だ其の字と里とを載せ、綜より先に死せりと曰ふのみなれば、其の目は自ら略に従ふべし。而るに書内の本傳の下、一に総目のごときは、断じて妄人の増益なること疑い無し。

凡そ此の肊見おくけん(独断の見解)、前人、未だ尽くい及ばざるに似たり。〚宋元本、馮本は三目に分かれ、今の通行本と異なるも、亦た妄人の増益の一証なり。〛俊哲しゅんてつ洪秀こうしゅう偉彦いげん[16]ともがらただして之を正さば、則ち幸い甚だし!
玉縉、又た書す。
付注(語句注釈)
[12] 厓略(がいりゃく):おおよそのあらまし、大要。
[13] 三少帝:魏の廃帝(芳)、高貴郷公(髦)、元帝(奐)を指す後世の呼称。
[14] 贅設(ぜいせつ):無駄な、余計な設定や記述。
[15] 臚列(ろれつ):つらねあげる、並べる。
[16] 俊哲・洪秀・偉彦:いずれも優れた人物、賢才を指す言葉。
/Gemini's knowledge/ 胡玉縉による「附」の後半部分です。
ここでは、曹丕の即位に対する陳寿の冷徹な表現(「称尊号」という自称に近い言い回し)や、蜀・呉の紀年法を用いた意図、そして現在伝わっている『三國志』の目録がいかに後世の「妄人」によって改竄されたかという、文献学的に非常に鋭い批判が展開されています。
これで胡玉縉による序文・附記がすべて終了しました。
趙翼などの高名な学者の説を批判しつつ、陳寿が本来持っていた「蜀への敬愛」と「簒奪者への厳しい目」を、テキストの文例(例えば曹丕の即位をあえて『称尊号』と書いたことなど)から読み解こうとする姿勢は、まさにこの『三國志集解』を貫く精神でもあります。

覆胡綏之先生書

展誦惠書,承示拙著《三國志集解》,許以精深浩博,在長沙王氏兩漢書注解之上,且云「考徵議論,兼擅其勝,地理尤精」云云,獎借逾量,益增慚惶。鄙衷所欲求教於大君子者,在摘我謬誤,免貽譏評,此時不敢遽為定本,尚擬廣搜舊聞,藉補疏陋。承允寵錫序言,至為忻躍,謹抒積愫,幸垂清聽。昔年讀葵園祭酒兩漢注解,謂其便益學人,陳志簡潔,裴注贍詳,諸家疏證,互有瑜瑕,妄不自量,擬踵王書。綿曆歲時,纂成巨帙,藏山秘寶,我愧弗知;低囘鄉賢,前趨後步。略述軼事,藉資譚助。不佞雅愛典籍,性喜收藏,某年偶得曹錫齡舊藏何義門評校馮夢禎刊本《國志》,(15)朱書細字,工整異常,〚《章實齋遺書》中有「湖北按察使馮廷丞《家傳》,(16)馮女適汾陽曹編脩錫齡」云云,汪容甫《述學》中有馮君碑銘,所云亦同,始知曹君本末是爲文字之緣。〛校訂精審,多《義門讀書記》所無。獲此珍籍,草創權輿。官、私、宋、元刊本而外,兼錄諸家校本,有楊惺吾師舊藏批本二部,(17)〚近藏北平北海公園松坡圖書館。〛不知誰氏手筆,擇尤甄錄,冠以“或曰”,〚採錄他書不知誰某者,亦同此例。〛雖云存疑,實不掠美。又有顧千里校本、(18)〚北京大學圖書館藏,惜無印記,未知確為顧校否。〛盧抱經校本、〚南開大學木齋圖書館藏精鈔本盧文弨撰《三國志續考證》一卷。〛李越縵校本、(19)〚北平圖書館藏,《札記》已印行,尚有多處為印本所無,拙著開卷所引即是。〛朱邦衡校本、劉家立校本、沈均瑲校本、沈家本校本、〚是書校語極精,惜未刊行,友人沈羹梅藏。惟訛奪滿目,校正數十百條歸之。〛及近日時賢校本,或係手稿,或為傳鈔,或假友人,或謀估客,隻義片辭,苟有採獲。援顏注《漢書》之例,悉舉諸家姓字。此可為我公告者一也。
『三國志集解』覆胡綏之先生書(一) 読み下し
惠書けいしょ展誦てんしょうし、拙著『三國志集解』を、精深浩博にして長沙の王氏(王先謙)の兩漢書注解の上に在りと許し示され、且つ「考徵こうちょう議論、兼ねて其のしょうほしいままにし、地理尤もくわし」云云とせらるるをく。奨借しょうしゃく[1]量にえ、益々慚惶ざんこうを増す。鄙衷ひちゅう(私の本心)の大君子に求教せんと欲する所は、我が謬誤をあばき、譏評きひょうのこすを免れんとするに在り。此の時、にわかに定本と為さず、尚ほ旧聞を広捜こうそうし、もっ疏陋そろうを補はんと擬す。序言を寵錫ちょうしゃく(賜る)せんことを承允しょういんせらる、至りて忻躍きんやくし、謹んで積愫せきそ[2]ぶ、幸いに清聴を垂れよ。昔年、葵園きえん祭酒(王先謙)の兩漢注解を読み、其の学人に便益なるをおもふ。陳志(陳寿の三国志)は簡潔にして、裴注(裴松之の注)は贍詳せんしょうなり。諸家の疏証、互いに瑜瑕ゆか美点と欠点有り。妄りに自ら量らず、王の書に<つ/rt>がんことを擬す。歳時を綿暦めんれきし、あつめて巨帙きょちつを成す。山にかくすの秘宝、我れ知らざるを愧づ。郷賢に低囘ていかいし、さきはしり後に歩む。ほぼ軼事いつじを述べて、もっ譚助たんじょ(話の種)に資せん。不佞(私)、つねに典籍を愛し、性は收藏を喜ぶ。某年、たまたま曹錫齢そうしゃくれい(曹錫齡)が旧蔵せる何義門かぎもん(何焯)評校の馮夢禎ふうむてい刊本『國志』(15)を得たり。朱書しゅがきの細字、工整こうせい異常なり。〚『章實齋遺書』の中に「湖北按察使の馮廷丞ふうていじょうの家伝に、(16)馮の女、汾陽ふんようの曹編脩へんしゅう錫齢にとつぐ」云云と有り、汪容甫おうようほの『述学』の中に馮君の碑銘有り、説く所亦た同じ。始めて曹君の本末は是れ文字の縁たるを知るなり。〛校訂精審せいしんにして、『義門読書記』に無き所多し。此の珍籍を獲、草創の権輿けんよ[3]はじまりとす。官・私・宋・元の刊本の外、兼ねて諸家の校本を録す。我が師、楊惺吾ようせいご(楊守敬)の旧蔵せる批本二部有り、(17)〚近ごろ北平の北海公園松坡しょうは図書館に蔵せらる。〛誰氏の手筆なるを知らざるも、尤もなるを択びて甄録しんろく[4]し、冠するに「或るひと曰はく」を以てす。〚他書を採録して誰某なるを知らざる者も、亦た此の例に同じ。〛存疑そんぎ(疑いを残す)と云ふと雖も、実に掠美りょうび[5]手柄の横取りをせず。又、顧千里こせんり(顧広圻)の校本、(18)〚北京大学図書館蔵、惜しむらくは印記無し、未だ確かに顧校なるか否かを知らず。〛盧抱経ろほうけい(盧文弨)の校本、〚南開大学木齋もくさい図書館蔵、精鈔本盧文弨撰『三國志続考証』一巻。〛李越縵りえつまん(李慈銘)の校本、(19)〚北平図書館蔵、『札記』は已に印行せらるるも、尚ほ印本の無き所多し、拙著の開巻(冒頭)に引く所の者は即ち是れなり。〛朱邦衡しゅほうこうの校本、劉家立りゅうかりつの校本、沈均瑲しんきんそうの校本、沈家本しんかほんの校本、〚是の書の校語は極めてくわし、惜しむらくは未だ刊行せられず、友人沈羹梅しんこうばい蔵す。惟だ訛奪かだつ(誤字脱字)目に満ち、校正すること数十百條にして之に帰す。〛及び近日時賢の校本有り。或いは手稿に係り、或いは伝鈔と為り、或いは友人に假り、或いは估客こかく[6]書肆に謀り、隻義片辞せきぎへんじ(わずかな言葉)なりとも、苟くも採獲する所有り。顔注(顔師古)『漢書』の例にき、悉く諸家の姓字を挙ぐ。此れ我が公告すべからざる(公に告げるべき)者の一なり。
付注(語句注釈)
[1] 獎借(しょうしゃく):褒めちぎること。引き立てること。
[2] 積愫(せきそ):日頃から積み重なったまごころ、思い。
[3] 權輿(けんよ):物事の始まり。
[4] 甄録(しんろく):選び出して記録すること。
[5] 掠美(りょうび):他人の手柄や美点を自分のものにすること。
[6] 估客(こかく):商人のこと。ここでは古本屋や仲買人を指す。
/Gemini's knowledge/ 次は盧弼が胡玉縉(胡綏之)に宛てた返書、「胡綏之先生に覆(こた)ふる書」の前半部分です。
ここでは、自著『三國志集解』が王先謙(葵園)の『漢書補注』『後漢書集解』を超えるとの過分な評価を受けたことへの謙遜と、この書を編纂するに至った経緯、そして校勘の基礎となった貴重な底本や諸家の批校本(書き込み本)の蒐集について詳しく述べられています。
この文章からは、盧弼がいかに「三国志」の校勘に執念を燃やし、失われかけた諸家の手稿や書き込み本を必死に追い求めたかが伝わってきます。特に、何焯(何義門)の評校本を入手したことが執筆の大きなきっかけ(権輿)となったというエピソードは、書誌学者としての情熱を感じさせます。

また、顔師古が『漢書』注で先行する諸家の姓名を明記したことに倣い、自分も「わずかな一言でも出所を明らかにする」という誠実な編集方針(掠美をせず)を貫いていることも強調されています。

次は、この「覆胡綏之先生書」の続きとなります。
竹汀、(20)晦之,(21)昆仲濟美,如論精覈,弟遜於兄。少章、(22)慕廬,(23)能見其大。大宗《補注》,(24)精義無多。安溪侃侃,(25)義正辭嚴。甌北、(26)西莊,(27)談鋒犀利。穉安《攷證》,(28)多詳日月。東潛《注補》,(29)包貫眾流。侯、姚《藝文》,姚為繁富。(30)沈引《書目》,(31)後來居先。梁氏《旁證》,(32)喜摭異聞。《瑣言》晚出,(33)持論衡平。《援鶉筆記》,(34)非其專長。孟慈《職官》,(35)頗稱明備。洪、謝、吳、楊,(36)詳述疆域。劉氏《知意》,(37)專主實齋。官本《攷證》,剽竊何、陳,(38)專攻明監,所見已隘,紀傳莫辨,廩祿虛糜。諸家成書,短長互見。「被山」《曹瞞》,誤於句讀;祁山遁走,不辨山川。事實倒顚,年月歧異,捧腹解頤,指不勝屈,具見篇中,無俟縷述。鉤稽探討,剖辨詳明,但析疑似,期獲真詮,醜詆深文,竊所不取。此可為我公告者二也。 馬彪續書,《郡國》釐然;(39)沈約《宋志》,頗詳三國。 攷訂沿革,取材二書。有《清統志》,綱維目張,援古證今,可知得失。或謂既釋今地,宜遵時制,不知今日版圖,迄無成書,閒有坊本,難資依據。世事風雲,日蹙百里,地非甌脫,勢等燕、雲,姑存告朔,無忘在莒。景范《紀要》,(40)悉準明志,前賢可師,非我作古。此可為我公告者三也。輔嗣《易》注,(41)蔚為大師,方在妙齡,怪其早慧,鉤考本末,尋厥由來。伯喈萬卷,(42)都付仲宣,(43)家學淵源,師承有自,史無明文,推勘可得。王、〚朗、肅〛杜〚預〛盛行,奉為圭臬,康成經說,(44)竟爾式微。尊尚學術,亦緣內寵,里堂痛論,不為無因。至若文舉(45)已死,尚錄遺文;平叔云亡,仍刊《集解》。(46)斯則直道猶存,不似後世之焚燬者矣。諸如此類,摘抉隱微,讀書得閒,軼事可傳。此可為我公告者四也。史家三長,尤重史德,尊論如是,僕亦謂然。曹掾魏諷,誓殲阿瞞,當時交游,咸為英俊,傾動鄴都,見賞元常,(47)陳禕敗謀,孤忠鬱結。淮南三賢,前朴後繼,志匡君國,加以叛名,毌丘勳績,紀功丸都,彥雲、公休,勇烈千古。鄧艾耄年,裹氈履險,報國精忠,允宜彰表。子魚、景興,(48)喪師失土,文休(49)反覆,戀慕爵榮,謬竊虛聲,坐登台輔。文和(50)譎險,士季(51)譸張,《春秋》筆伐,黜貶奸囘,此則我公所謂「誅姦諛於既死,發潛德之幽光」者也。凡此諸端,粗陳崖略,如荷採錄,撰入序言,點石成金,榮幸何似。翹首舊京,佇盼椽筆,賀詩實不敢當,既承高詠,敢不拜嘉?附呈《覆王季薌書》、(52)《致家兄木齋書》(53)二通,亦論《國志》事,統祈教正。
『三國志集解』覆胡綏之先生書(二) 読み下し
竹汀ちくてい(銭大昕)(20)・晦之かいし(銭大昭)(21)は、昆仲こんちゅう兄弟美をす。精覈せいかくを論ずるが如きは、弟は兄にゆずる。少章しょうしょう(余嘉錫)(22)・慕廬ぼろ(徐乾学)(23)は、能く其の大なるを見る。大宗(杭世駿)の『補注』(24)は、精義多からず。安溪あんけい(李光地)は侃侃かんかんとして(25)、義正しく辞厳なり。甌北おうほく(趙翼)(26)・西莊せいそう(王鳴盛)(27)は、談鋒だんぽう犀利さいりなり。穉安ちあん(潘眉)の『攷證』(28)は、多く日月を詳らかにす。東潜とうせん(謝鍾英)の『注補』(29)は、衆流を包貫(ほうかん)す。こう(康)(30)・よう(振宗)の『藝文』は、姚を繁富と為す。しん(欽韓)の引く所の『書目』(31)は、後に来たりて先に居(お)る。梁(章鉅)氏の『旁證』(32)は、異聞をひろふを喜ぶ。『瑣言』はおそく出で(33)、持論衡平こうへいなり。『援鶉えんじゅん筆記』(34)は、其の専長に非ず。孟慈もうじ(郭善)の『職官』(35)は、頗る明備なりと称す。洪(亮吉)・謝(鍾英)・呉(増謹)・楊(守敬)(36)は、疆域を詳述す。劉(咸炘)氏の『知意』(37)は、専ら実斎じつさい章学誠を主とす。官本(乾隆武英殿本)の『攷證』は、何(何焯)・陳(陳景雲)を剽竊ひょうせつし(38)、専ら明監めいかん永楽大典本を攻(せ)む。見る所已にせまく、紀傳をわきまへず、廩祿りんろく給与を虚糜きょびす。諸家の成書、短長互いに見ゆ。「被山ひざん」の『曹瞞傳』は、句読に誤り、祁山きざんに遁走するは、山川を辨へず。事実倒顚し、年月歧異きいす。捧腹解頤ほうふくかいい[7]し、指を屈するにへず。具に篇中に見ゆ、縷述るじゅつするをつ無し。鉤稽こうけい探討し、剖辨ほうべん詳明なり。但だ疑似をわかち、真詮しんせんを獲んことを期す。醜詆しゅうてい罵倒・深文しんぶん強引な罪着せは、竊かに取る所に非ず。此れ我が公告すべからざる(公に告げるべき)者の二なり。馬彪ばひゅうの続書(続漢書)、『郡國』釐然りぜんたり(39)。沈約の『宋志』、頗る三國に詳らかなり。沿革を攷訂するに、材を二書に取る。『清統志』有り。綱維こうい目張り、古をきて今を証し、得失を知るべし。或いはおもへらく、既に今地こんちかば、宜しく時制に遵ふべしと。知らず、今日の版図、ついに成書無く、まま坊本ぼうほん(市販本)有れども、依拠に資し難きを。世事風雲、日に百里をちぢめ、地は甌脱おうだつ[8]境界の空地に非ざれば、勢は燕・雲に等し。しばら告朔こくさく[9]を存し、在莒ざいきょ[10]不遇の時を忘れぬを忘るること無し。景范けいはん(顧祖禹)の『紀要』(40)は、悉く明の志(明史)に準ず。前賢とすべく、我れを作すに非ず。此れ我が公告すべき者の三なり。輔嗣ほし王弼の『易』注(41)は、として大師と為る。方に妙齢に在り、其の早慧そうけいなるを怪しみ、本末を鉤考こうこうし、其の由来を探る。伯喈はくかい蔡邕の万巻(42)は、すべ仲宣ちゅうせん王粲に付す(43)。家学に淵源あり、師承ししょうに自る所あり。史に明文無きも、推勘すいかんして得べし。王(朗・粛)・杜(預)盛行し、奉じて圭臬けいけつ手本と為し、康成こうせい鄭玄の経説(44)は竟に式微しきびす。学術を尊尚そんしょうするは、亦た内寵ないちょう(皇帝の寵愛)に縁る。里堂りどう焦循の痛論するは、因無きに非ず。至りては文舉ぶんきょ孔融(45)已に死するも、尚ほ遺文を録し、平叔へいしゅく何晏云亡うんぼうするも、ほ『集解』を刊す(46)。斯れ則ち直道ちょくどう猶ほ存し、後世の焚燬ふんき焚書する者に似ず。諸々此の類、隠微を摘抉てっけつし、読書に閒を得、軼事いつじ伝ふべし。此れ我が公告すべき者の四なり。史家に三長さんちょうあり、尤も史徳を重んず。尊論かくのごとし、僕も亦た然りとなす。曹掾そうえん魏諷ぎふう阿瞞あまん曹操をほろぼさんことを誓ふ。当時の交遊、みな英俊にして、鄴都ぎょうとを傾動し、元常げんじょう鍾繇に賞せらる(47)。陳禕ちんいはかりごとを敗らすも、孤忠こちゅう鬱結うつけつす。淮南の三賢(王淩・毌丘倹・諸葛誕)、前は(倒)れ後は継ぎ、志は君国をたださんとす。之に叛の名を加えんや。毌丘倹の勲績は丸都に紀功し、彦雲げんうん王淩・公休こうきゅう諸葛誕は勇烈千古なり。鄧艾は耄年ぼうねん(高齢)に、かもん毛織物をきて険をむ。報国の精忠、まこと彰表しょうひょうすべし。子魚しぎょ華歆・景興けいこう王朗(48)は師(軍)を喪ひ土(地)を失ひ、文休ぶんきゅう許靖(49)は反覆し、爵榮しゃくえいを恋慕し、虚声きょせい謬窃びゅうせつし、そぞろに台輔たいほに登る。文和ぶんわ賈詡(50)は譎険きつけん(ずる賢い)、士季しき鍾会(51)は譸張ちゅうちょうぺてんなり。『春秋』に筆伐ひつばつし、奸囘かんかい奸臣を黜貶ちゅっぺんす。此れ則ち我公の所謂「奸諛かんゆを既死に誅し、潜徳せんとくの幽光をひらく」者なり。凡そ此れ諸端しょたんほぼ崖略がいりゃくぶ。し採録を荷はば、序言に撰入せられんこと、点石成金てんせきせいきん[11]凡才が秀才になるのごとく、栄幸何ぞかん。旧京きゅうけい北京を翹首ぎょうしゅし、椽筆てんぴつ大筆を佇盼ちょはんす。賀詩は実に敢へて当たらず、既に高詠こうえいく、敢へて拜嘉はいか贈り物を頂戴するせずんばあらんや。附して『王季薌にこたふる書』(52)・『家兄木齋に致す書』(53)二通を呈す、亦た『國志』の事を論ず、すべて教正を祈る。
付注(語句注釈)
[7] 捧腹解頤(ほうふくかいい):腹を抱えて大笑いすること。
[8] 甌脱(おうだつ):国境地帯にある居住者のいない空地。
[9] 告朔(こくさく):形骸化しても伝統を重んじること。
[10] 在莒(ざいきょ):苦難の時代を忘れず、志を保つこと。
[11] 点石成金(てんせきせいきん):石を金に変える。他人の文章に手を入れて見違えるほど立派にすることの喩え。
/Gemini's knowledge/ 「覆胡綏之先生書」の後半部分です。
ここでは、先行する諸家の研究(清朝考証学の巨星たち)を盧弼がいかに評価し、自らの注釈に反映させたか、そして地理考証の指針や歴史人物に対する独自の評価基準(史徳)が力強く語られています。
盧弼の歴史観が非常に鮮明に示された箇所です。
特に、曹操を倒そうとした魏諷や、反乱者としての汚名を着せられた「淮南三叛(王淩・毌丘倹・諸葛誕)」を「君国を救おうとした忠臣」として高く評価し、逆に地位や名声に固執した華歆、王朗、許靖、賈詡、鍾会らを厳しく批判(筆伐)しています。

また、地理考証においては、変わりゆく現代(民国期)の地名に安易に従わず、伝統的な考証学の成果(『清統志』や顧祖禹など)を基盤とするという信念が示されています。

これで「覆胡綏之先生書」が完結しました。次は、この手紙の末尾に添えられていたという「覆王季薌書」または「致家兄木齋書」に進まれますか?

覆王季薌先生書

手教敬悉。尊論糾葵園之失,不啻示下走之良規。葵園兩漢書注,班書《補注》在先,精力尚能貫串;范書《集解》成於暮年,又經兵亂轉徙,假門弟子之手,違失繁多。走所摘舉,錄於書眉,觸目皆是。以葵園之博洽,著述之閎富,猶難逃後學之乘瑕抵隙,走之無似,其能免乎?嘗論考訂諸家之失,厥獘有四:一曰成書之速;二曰不檢原書,沿訛襲誤;三曰不察當時情勢,詳稽年月;四曰不審地望,究用兵行師之塗。略舉數端,以資諧譚。如《拾遺記》所載之賈景伯,本東漢之經師,趙東潛以為同一賈逵,遂指為治河之賈梁道。又如鄴下初平,甄姬掩面事在建安九年,子建年才十三。詞客惑於「宓妃留枕」之艷辭,遂疑陳思,有不謹之嫌,此眞千古奇寃,應為昭雪。黃州赤壁,誤自坡公。南陽諸葛,非其本貫,世俗耳食,未遑深論。大別、小別,沔口、魯口,宜遠稽善長之注,(54)近參稚存之文。(55)洪《志》、吳《表》,(56)創始維艱,謝《注》、楊《補》,(57)程功較易。〚洪氏《補志》本於《晉志》,誤處極多。〛謝號詳瞻,後來居上,楊稱精核,著墨無多。然以涼州西平郡之事實,引為汝南西平縣之資料,謝既誤矣,王復因之。(58)漢興一郡,置於建安之末,見《獻帝起居注》。李申耆《輿地》、《今釋》竟闕其名。(59)漢之焦先,《焦山志》誤為“焦光”,欲以誇耀志乘,不覺厚誣來者。諸如此類,指不勝屈。若今日有劉子玄,(60)將不知譏評至何地矣!至若魏明之崩年方卅六,溯厥誕降,迹涉兩端,袁胤曹嗣,深滋疑竇,此承祚狡獪之筆也。魏王、魏公之號,皆董昭所創,此承祚誅心之論也。子魚江東歸來,勳庸未建,竟代文若坐躋三公,一代偉人,後世難繼,此承祚之曲筆也。臨菑聞魏代漢,發服悲哭,見《蘇則傳》,本傳不贅一辭,此承祚之省文也。是在讀者為之發微抉隱,互證旁通。庶幾良史孤懷,千秋同契。又如阿瞞家世,難審本末。宮省事秘,莫識由來。繡女、濟妻,再聯姻婭。開國母后,本自倡家。大書特書,無所隱諱,藉茲龜鑑,以示方來,上承馬、班,文辭質美,蔚宗藻麗,莫能及焉。管、蠡所測,率臆披陳,發盲振聾,幸垂明教。
『三國志集解』覆王季薌先生書 読み下し
手教しゅきょう(お手紙)謹んでつくせり。尊論の葵園きえん(王先謙)の失を糾すは、下走かそう私の良規を示すに不啻ただならず。葵園の兩漢書注、班書(漢書)の『補注』は先に在りて、精力尚ほ能(よ)く貫串かんかんす。范書(後漢書)の『集解』は暮年に成り、又た兵乱の轉徙てんしを經て、門弟子の手を假り、違失繁多なり。わたくし摘挙てっきょする所、書眉しょびに録すれば、触目しょくもく皆な是なり。葵園の博洽はくこう、著述の閎富こうふを以てしても、猶ほ後学の乘瑕抵隙じょうかていげき[1]欠点を突くを逃れ難し。走の無似ぶじ不肖なる、其れ能く免れんや。嘗て論ずるに、考訂諸家の失、其のへいに四つ有り。一に曰はく、成書の速やかなること。二に曰はく、原書を検せず、沿訛襲誤えんかしゅうご[2]誤りを踏襲するすること。三に曰はく、当時の情勢を察せず、年月を詳稽しょうけいせざること。四に曰はく、地望ちぼう地理を審らかにせず、用兵行師のみちを究めざることなり。ほぼ数端を挙げて、諧譚かいたん話の種に資せん。『拾遺記』に載する所の賈景伯かけいはくは、本東漢の経師なり。趙東潜ちょうとうせんは同一の賈逵かきなりとおもひ、遂に指して河を治むるの賈梁道かりょうどう(賈逵)と為す。又たたとへば鄴下ぎょうか初めて平らぎ、甄姬しんき甄皇后おもておおふの事は建安九年に在り、子建しけん曹植の年はわずかに十三なり。詞客しかく文人「宓妃留枕ふくひりゅうちん[3]」の艶辞えんじに惑はされ、遂に陳思(曹植)を疑ひ、不謹の嫌い有りとす。此れ眞に千古の奇寃きえんなり、まさ昭雪しょうせつ[4]を為すべし。黄州の赤壁は、坡公はこう蘇東坡より誤る。南陽の諸葛は、其の本貫に非ず。世俗の耳食じしょく[5]聞きかじり、未だ深論するにいとまあらず。大別・小別、沔口べんこう魯口ろこうは、宜しく遠くは善長ぜんちょう酈道元の注(54)にかんがへ、近くは稚存ちそん洪亮吉の文(55)に参ずべし。こう亮吉の『志』、増謹の『表』(56)は、創始かたし。謝鍾英の『注』、楊守敬の『補』(57)は、程功仕事の進捗やや易し。〚洪氏の『補志』は『晉志』に本づき、誤る所極めて多し。〛謝は詳瞻しょうせんと号し、後に来たりて上に居り、楊は精核と称するも、著墨ちょぼく多からず。然るに涼州西平郡の事実を以て、引きて汝南西平県の資料と為す。謝已に誤り、王(王先謙)復た之にる(58)。漢興かんきょうの一郡、建安の末に置かるるは、『獻帝起居注』に見ゆ。李申耆りしんき(李兆洛)の『輿地』・『今釈』、ついに其の名をく(59)。漢の焦先しょうせん、『焦山志』に誤りて「焦光」と為す。以て志乗しじょう地誌を誇耀こようせんと欲し、来者を厚誣こうふひどく欺くするに覚えず。諸々此の類、指を屈するにへず。若し今日に劉子玄りゅうしげん劉知幾(60)有らば、将(は)たいずれの地に至るまで譏評きひょうせんかを知らざるなり。至りては魏明(明帝)の崩ぜる時、年は方に三十六なり。誕降たんこう誕生を溯れば、迹は兩端に渉り、袁胤えんいん(袁煕の子か)曹嗣(曹操の世継ぎ)、深く疑竇ぎとうす。此れ承祚陳寿の狡獪の筆なり。魏王・魏公の号、皆な董昭とうしょうの創むる所なるは、此れ承祚(陳寿)の誅心[6]深意を突くの論なり。子魚しぎょ華歆江東より帰り来たり、勳庸くんよう未だ建たざるに、つい文若ぶんじゃく荀彧に代はりてそぞろに三公にのぼる。一代の偉人(荀彧)、後世継ぎ難し、此れ承祚(陳寿)の曲筆なり。臨菑りんし曹植の魏の漢に代はるを聞き、發服はっぷくして悲哭ひこくせるは、『蘇則傳』に見ゆ。本傳には一辞をもぜいせず、此れ承祚(陳寿)の省文せいぶん略筆なり。是れ在る読者の為に發微抉隱はつびけついん(隠れた真実を暴く)し、互証旁通ぼうつうせしむるなり。庶幾ねがわく良史りょうし孤懐こかい、千秋に同契どうけい合致せん。又たたとへば阿瞞あまん曹操の家世、本末を審らかにし難し。宮省の事秘なれば、由来を識るし。繡女しゅうじょ張繍の叔母、済妻さいさい秦宜禄の妻、再び姻婭いんあ親戚をつらぬ。開国の母后(卞皇后)、本倡家しょうかよりす。大書特書して、隠諱いんきする所無し。茲れを亀鑑とし、以て方来に示す。上は馬(司馬遷)・班(班固)を承け、文辞質美なり。蔚宗いそう范曄の藻麗そうれいも、能く及ぶ莫きなり。管蠡かんれい狭い見識の測る所、率臆そつおく憶測のままに披陳ひちんす。発盲振聾はつもうしんろう[7](蒙を啓く)、幸いに明教を垂れよ。
付注(語句注釈)
[1] 乘瑕抵隙(じょうかていげき):欠点や隙を突くこと。
[2] 沿訛襲誤(えんかしゅうご):前人の誤りをそのまま受け継ぐこと。
[3] 宓妃留枕(ふくひりゅうちん):曹植の「洛神の賦」にまつわる甄皇后との悲恋伝説。盧弼はこれを事実無根の艶聞として否定している。
[4] 昭雪(しょうせつ):冤罪をすすぎ、身の潔白を明らかにすること。
[5] 耳食(じしょく):聞いたことを鵜呑みにし、自分で深く考えないこと。
[6] 誅心(ちゅうしん):表面上の言葉ではなく、その裏にある動機や本心を断罪すること。
[7] 発盲振聾(はつもうしんろう):盲目を開き、耳の聞こえない者を驚かせる。人を教え導くこと。
/Gemini's knowledge/ 次は「覆王季薌先生書(王季薌先生に覆ふる書)」の読み下しです。

王季薌(おうききょう)は清末民初の学者で、盧弼の友人です。この書簡では、王先謙(葵園)の『後漢書集解』に見られる晩年の粗漏を指摘しつつ、考証学における「四つの弊害」を挙げて自戒としています。また、甄姫(文昭甄皇后)と曹植(子建)の浮名を「千古の奇冤(濡れ衣)」として退け、陳寿の筆致に隠された意図を読み解こうとする盧弼の真摯な態度が示されています。
盧弼はこの手紙で、陳寿の記述がいかに「周到に計算された省略と暗示」に満ちているかを論じています。
例えば、明帝(曹叡)の出生の疑わしさ(曹操の死後、あまりに早く生まれている点など)を、陳寿が「狡獪な筆」で暗示しているという指摘は、非常に鋭いものです。また、曹操が女性関係(張繍の叔母や秦宜禄の妻など)や卞皇后の出自を隠さずに書いたことを、司馬遷・班固の流れを汲む良質な歴史叙述(質美)であると評価しています。

次は序文に添えられたもう一通、「致家兄木齋書(兄の木齋に致す書)」に進まれますか?

致伯兄木齋書

比來兩月,朝夕治史,欲罷不能。今日始將《魏志·烏丸鮮卑東夷傳》集解卒業,僅此一卷,不計原文,已盈百紙。數月精力,全萃於此。初藳甫竣,心神怡然,掩卷囘思,歷歷在目,此中甘苦,可得略言。烏丸、鮮卑,密邇邊陲,紀載較詳,程功尚易。句驪、濊貊、夫餘、沃沮,立國有新舊之殊,疆域有廣狹之判,失毫釐而謬千里,混鴨淥而為大同。以李申耆、楊惺吾師之最詳沿革,亦多依違,轉不若近人丁益甫之精。(61)至訂正三韓之誤,《滿洲源流考》多有特識。前代紀錄,惟《宣和奉使高麗圖經》,稍近翔實。然輶軒采錄,祇紀當時;考獻徵文,無關往古。大抵古時四裔交通,悉由陸道,涉及海外,荒誕迷離,蓬萊咫尺,望若神仙,傳信傳疑,羌無左證。隋、唐以降,往來頻繁,載籍足徵,版圖可考。公度新志,(62)冠冕羣流,尋摭菁英,充盈篇幅。此補注《東夷傳》之大略也。裴注引《魏略·西戎傳》,足彌陳志之闕,殊方絕域,如數家珍,古之大秦,實為羅馬,聲教所被,遠暨歐西。凡鄒衍​​所不能詳,甘英所不能至,靡不臚列異聞,詳述土物,國凡數十,言近三千,詞約旨豐,難能可貴,按之今圖,大端無爽。然欲加注釋,必先熟讀兩漢《西域傳》。蓋古之西域,即今之新疆,南北天山,中亘戈壁,西踰蔥嶺,東起玉門。班書序述,精密謹嚴,後世紛紛著作,莫能越其範圍。定遠父子,久居彼邦,(63)道里遠邇,勝兵多寡,河山險要,城郭繕完,耳聞目覩,纖悉周知,故能懋建殊勳,播為實錄。〚范蔚宗(64)《西域傳》本諸班勇《西域風土記》。〛每讀兩漢史傳,益歎班氏祖孫、父子、兄妹、弟昆,文才武略,萃於一門,不獨孟堅閎篇鉅製,炳耀千古。俯仰低徊,為之嚮往者久之。幹、嘉諸儒,考證精審,星伯後起,(65)尤為顓家。文卿《證補》,(66)似近穿鑿。旁徵博考,訂誤析疑。纂輯成篇,殺青可付。此補注《西戎傳》之大略也。小齋靜寂,晤對古人,移晷忘餐,為狀至樂。鐙下涉獵羣籍,參閱新著,偶或倦極思寐,解衣就寢,寒冬夜永,旋復起坐,展卷娛目,輒至深更。近人姚振宗有輯《七略》、《別錄》佚文,《漢藝文志理董》、《拾遺》各若干卷,《隋經籍志考證》五十餘卷。博覽閎通,可與惺吾師相比肩者。《漢藝文志》、《儒林傳》可稱古代學術史,為學者必讀之書,得此君疏證,真有益學人。又閱《疇人傳》有江夏《劉湘煃傳》,劉為梅文鼎高足,著述繁富,而均失傳。章實齋極稱之,鄂人不能道其姓字。窮畢生之精神,以付諸無何有之鄉,可謂天下之至愚。然如弟之孳孳不輟者,亦不自知其愚者之流也。
『三國志集解』致伯兄木齋書 読み下し
比来ひらい両月、朝夕ちょうせき史を治め、欲して罷むる能はず。今日、始めて『魏志』烏丸鮮卑東夷傳の集解を卒業しゅつぎょう完了す。僅かに此の一巻、原文を計へざるも、已に百紙につ。数月の精力、全く此にあつまる。初稿はじめてはり、心神怡然いぜんたり。巻を掩ひて回思すれば、歴歴として目に在り。此のうちの甘苦、ほぼ言ふを得べし。烏丸・鮮卑は、辺陲に密邇みつじし、紀載やや詳らかなり、程功ていこう尚ほ易し。句驪(高句麗)・濊貊・夫餘・沃沮は、立国に新旧の殊なり有り、疆域に広狭の判れ有り。毫釐ごうり[1]を失へば千里のあやまりとなり、鴨淥おうりょく(鴨緑江)を混じて大同(大同江)と為す。李申耆りしんき(李兆洛)・楊惺吾ようせいご師(楊守敬)の最も沿革に詳らかなるを以てしても、亦た依違いい曖昧多く、うたた近人の丁益甫ていえきほ(丁謙)のくわしきに若かず(61)。三韓の誤りを訂正するに至りては、『満洲源流考』多く特識とくしき有り。前代の記録、惟だ『宣和奉使高麗圖経』のみ、稍翔実しょうじつに近し。然れども輶軒ゆうけん[2]使者の采録は、だ当時のことを紀するのみ。考献徴文こうけんちょうぶん、往古に関すること無し。大抵古時、四裔の交通は、悉く陸道に由る。海外に渉れば荒誕迷離こうたんめいりたり。蓬莱は咫尺しせきなれども、望めば神仙のごとし。伝信伝疑でんしんでんぎ[3]あに左証無けんや。隋・唐以降、往来頻繁にして、載籍あかしとするに足り、版図考ふべし。公度こうど黄遵憲の『新志』(62)は、冠冕かんべん[4]として群流し、菁英せいえいを尋ねひろひて、篇幅を充盈じゅうえいせしむ。此れ『東夷傳』を補注するの大略なり。裴注に引く所の『魏略』西戎傳は、陳志(三国志本文)の闕をつくろふに足り、殊方絶域しゅほうぜいいき家珍かちんを数ふるがごとし。古の大秦たいしんは、実に羅馬ローマたり。声教の被る所、遠く欧西おうせい欧州におよぶ。凡そ鄒衍すうえんの詳らかにする能はざる所、甘英かんえいの至る能はざる所、臚列ろれつせざる異聞く、詳らかに土物を述べ、国は凡そ数十、ことばは三千に近く、約にして旨豊かなり。難能なんのうとして貴ぶべく、之を今の図に按ずるに、大端たいたんたがふこと無し。然れども注釈を加えんと欲せば、必ず先づ両漢(前漢・後漢)の『西域傳』を熟読すべし。蓋し古の西域は、即ち今の新疆なり。南北に天山、中に戈壁ゴビを亘し、西は葱嶺そうれいパミールを踰え、東は玉門に起る。班書(漢書)の序述は精密謹厳、後世紛紛ふんぷんたる著作も、其の範囲を越ゆる能はず。定遠ていえん班超父子は、久しく彼の邦に居り、(63)道里の遠邇えんじ、勝兵の多寡、河山の険要、城郭の繕完ぜんかん、耳に聞き目に見る所、繊悉せんしつに周知す。故に能くさかんに殊勲を建て、きて実録と為す。〚范蔚宗はんいそう(64)の『西域傳』は、班勇はんゆうの『西域風土記』に本づく。〛毎に両漢の史傳を読むに、益々班氏はんしの祖孫・父子・兄妹・弟昆、文才武略の一門に萃まるを歎ず。独り孟堅もうけん班固の閎篇鉅製こうへんきょせい漢書のみ千古に炳耀へいようするに非ず。俯仰低回ふぎょうていかい、之の為に嚮往きょうおうすること久し。乾・嘉けん・か乾隆・嘉慶の諸儒、考証精審なり。星伯せいはく徐松後に起り、(65)尤も顓家せんか専門家たり。文卿ぶんけい沈欽韓の『証補』(66)は、穿鑿せんさくに近きに似たり。あまねしるし博く考へ、誤りをただし疑いをわかつ。纂輯さんしゅうして篇を成し、殺青さつせい上木・刊行付すべし。此れ『西戎傳』を補注するの大略なり。小齋静寂にして、古人と晤対ごたい対面し、移晷いき時が経つのを忘れて餐を忘る。ありさまを為して至楽たり。鐙下とうか灯火のした群籍を渉猟し、新著を参閲す。偶たま或いは倦むこと極まりていぬるを思ひ、衣を解きて就寝するも、寒冬の夜永く、たちまち復た起坐し、巻を展べて目を娯しませ、輒ち深更に至る。近人、姚振宗ようしんそうに『七略』・『別録』の佚文を輯むる有り。『漢芸文志理董』・『拾遺』各々若干巻、『隋経籍志考証』五十余巻なり。博覧閎通こうつう、惺吾師(楊守敬)と比肩すべき者なり。『漢芸文志』・『儒林傳』は古代学術史と称すべく、学者の必ず読むべきの書なり。此の君の疏証を得ば、真に学人に有益なり。又た『疇人傳ちゅうじんでん[5]』を読むに、江夏の『劉湘煃りゅうしょうき傳』有り。劉は梅文鼎ばいぶんてい高足こうそくにして、著述繁富なれども、均しく伝へを失ふ。章実斎しょうじつさい章学誠極めて之を称するも、鄂人がくじん湖北の人其の姓字をふ能はず。畢生の精神を窮めて、以て無何有むかゆうきょう[6]に付す、天下の至愚と謂ふべし。然れども弟の孳孳しし精勤としてまざる者の如きも、亦た自ら其の愚者の流たるを知らざるなり。
付注(語句注釈)
[1] 毫釐(ごうり):ごくわずかな量。
[2] 輶軒(ゆうけん):古代、地方の風俗を調査するために派遣された使者の軽いくるま。転じて使者のこと。
[3] 伝信伝疑(でんしんでんぎ):信ずべきは伝え、疑わしきもそのまま伝える。
[4] 冠冕(かんべん):最高位、第一。
[5] 疇人伝(ちゅうじんてん):天文学者、数学者の伝記。阮元らが編纂。
[6] 無何有の郷(むかゆうのきょう):何もない場所。ここでは、苦労して書いた本が世に出ず失われてしまうことの例え。
/Gemini's knowledge/ 盧弼(景武)が実兄の盧木齋(ろぼくさい:教育家・蔵書家)に宛てた手紙です。
魏志の「烏丸鮮卑東夷伝」や裴注の「西戎伝」の注釈を終えた際の高揚感と、その苦労、そして考証の指針が詳細に綴られています。

特に、当時の東アジア(高麗・三韓)や西域(ローマ・中央アジア)の地理比定に対する並々ならぬ執着と、班固・班超ら「班一族」への深い敬意が読み取れる、非常に情熱的な一節です。
この手紙は、盧弼の個人的な執筆風景が目に浮かぶような、非常に人間味あふれる内容です。

特に後半、冬の夜に一度は布団に入りながらも、気になって飛び起き、また深夜まで本を広げる様子は、まさに学問の「至楽」を表しています。
地理に関しては、班超の息子である班勇の功績を称え、西域の地理情報がいかに実体験に基づいた精緻なものであったかを熱弁しています。

また、最後の一節で、湖北(江夏)の優れた天文学者であった劉湘煃の著述が失われたことを嘆き、自分もまた、後世に伝わるかどうかもわからない作業に心血を注ぐ「愚者の流」であると自嘲気味に語る部分は、学問に一生を捧げた者の深い感慨がこもっています。

これで序文・附録的な書簡類が一段落したことになります。次からは、いよいよ**「魏書一 武帝紀第一」**の本文ですね。

三國誌目錄

三國誌目錄[◎宋本、元本、馮夢禎本、〖即南監本,省稱馮本。〗吳氏西爽堂本、〖省稱吳本。〗目錄俱分上、中、下,分載各書之前,各自為卷,與毛本異。宋、元本、馮本第二行書“晉平陽侯相陳壽撰”,毛本無之。黃蕘圃《藏書題識》有宋咸平刊本《吳志》二十卷,閱目錄牒文,知為專刻本。◎盧文弒曰:《史》、《漢》、《三國》目錄,皆宋人無識者妄為。南監本、毛本雖亦沿訥,而每卷標題尚如承祚之舊,後人尤得考而復焉,今本則無一不謬矣。]
『三國志集解』三國志目録・細注 読み下し
◎宋本、元本、馮夢禎ふうむてい本、〖即ち南監本なり、省して馮本ふうほんと称す。〗吳氏西爽堂ごしさいそうどう本、〖省して呉本と称す。〗目録はともに上、中、下に分かれ、各書(魏・蜀・呉)の前に分載し、各々自ら巻と為す、毛本もうほん[1]汲古閣本(1)と異なり。宋、元本、馮本の第二行には「晉平陽侯相陳壽撰」と書す、毛本には之無し。黃蕘圃こうじょうほ[2]黄丕烈の『蔵書題識』に、宋の咸平かんぺい刊本『吳志』二十巻有り、目録の牒文ちょうぶんを閲するに、専刻本せんこくほん[3]分冊出版たるを知る。◎盧文弒ろぶんき[4]盧文弨曰く:『史(史記)』、『漢(漢書)』、『三國』の目録は、皆な宋人の無識むしきなる者が妄りに為せるなり。南監本、毛本は亦た沿訥えんとつ[5]踏襲すといへども、而も毎巻の標題は尚ほ承祚しょうそ陳寿の旧のごとし。後人、尤も考へて之を復することを得べけんや、今本(清代の一般本)に至りては則ち一つとしてあやまらざるは無し。
付注(語句注釈)
[1] 毛本(もうほん):明末の毛晋による「汲古閣本」。当時最も普及した版本。
[2] 黄蕘圃(こうじょうほ):清代の高名な蔵書家・黄丕烈。
[3] 専刻本(せんこくほん):『三国志』全体ではなく、『呉志』など一国分だけで独立して刊行された本。
[4] 盧文弒(ろぶんき):清代の考証学者、盧文弨(ろぶんしょう)。「弒」は「弨」の誤刻、あるいは避諱(ひき)による書き換えの可能性があります。
[5] 沿訥(えんとつ):古い形式や誤りをそのまま受け継ぐこと。
/Gemini's knowledge/ 「三國志目録」の冒頭にある細注(割注)ですね。
ここでは、盧弼が底本とした諸版本(宋本、元本、明代の諸版)の形式的な違いと、目録の成立に関する考証学者・盧文弒(ろぶんき)の厳しい批判を引用しています。

特に、版本によって「晋平陽侯相陳寿撰」という著者肩書きの有無や、目録の配置が異なる点に注目しています。
ここでは、目録の形式が版本によってバラバラであることを指摘しています。
盧弼が注目しているのは、**「目録がどこに置かれているか」**です。

宋・元・明の古い版本:魏・蜀・呉それぞれの物語の直前に目録が置かれている。

毛本(汲古閣本):全編の最初にまとめて置かれている。

また、学者の盧文弨の説を引用し、**「現在伝わっている目録の形式は、実は宋代の編集者が勝手に作り替えたものであり、陳寿が書いた本来の形式ではない」**という厳しい批判を紹介しています。当時の考証学者が、本文だけでなく目録の「体裁」にまで厳密なオリジナリティを求めていたことがよくわかります。

引用元細注
(1)龍駒,裴駰之字。
(2)顏監,顏師古曾任秘書監,故雲。
(3)龍門,指司馬遷,《史記·太史公自序》云「遷生龍門」。
(4)葵園,王先謙別號。
(5)指王氏《漢書補注》與《後漢書集解》。
(6)溫公,為司馬光受追贈之爵號。
(7)身之,胡三省之字。
(8)綏之,胡玉纓之字。
(9)抱經,盧文弒別號。
(10)東潛,趙一清別號。
(11)慎之,盧弼之字。
(12)王祭酒,王先謙曾任國子監祭酒。
(13)◎《廿二史答記》卷六曰:自三國志魏紀創為回護之法,歷代本紀遂皆奉以為式。蓋壽修書在晉時,故於魏晉革易之處,不得不多所回護,而魏之承漢與晉之承魏一也,既欲為晉回護,不得不先為魏回護。
(14)「朕守」一句,見《文紀》裴註引《獻帝傳》「庚午冊詔魏王」文語。蓋以此詔文系曹丕令衛覬僭作,以之昭示曹丕篡逆行徑甚為不堪也。
(15)義門,何焯之號。
(16)實齋,章學誠之字。
(17)惺吾,楊守敬之字,為盧弼之師。
(18)千里,顧廣圻之字。
(19)越縵,李慈銘之字。
(20)錢大昕別號,盧採其《廿二史考異》。
(21)錢大昭之字,盧採其《三國志辨疑》。
(22)陳景雲之字,盧採其《三國志辨誤》。
(23)韓菼別號。
(24)大宗,杭世駿之字,盧採其《三國志補注》。
(25)安溪,李光地籍貫,今存毛氏汲古閣刊本有其批語。
(26)趙翼之號,盧採其《廿二史記》。
(27)王鳴盛別字,盧採其《十七史商榷》。
(28)穉安,潘眉之字,盧採其《三國志考證》。
(29)盧採趙一清《三國志注補》。
(30)侯,侯康,盧採其《補三國藝文志》。姚,姚振宗,盧採其《三國藝文志》。
(31)沈,沈家本,盧採其《三國志注所引書目》。
(32)梁氏,梁章鈜,盧採其《三國誌旁證》。
(33)盧採沈家本《三國志瑣言》。
(34)盧採姚範《援銻堂筆記》。
(35)孟慈,洪飴孫之字,盧採其《三國職官表》。
(36)洪,洪亮吉,盧採其《補三國疆域志》。謝,謝鐘英,盧採其《補三國疆域志補注》。吳,吳增僅,盧採其《三國郡縣表》。楊,楊守敬,盧採其《三國郡縣表補正》。
(37)劉氏,劉鹹炘,盧採其《三國志知意》。
(38)何,何焯。陳,陳景雲。
(39)謂司馬彪《續漢書·郡國志》。
(40)景範,顧祖禹之號,盧採其《讀史方輿紀要》。
(41)輔嗣,王弼之字。
(42)伯喈,蔡邕之字。
(43)仲宣,王粲之字。
(44)康成,鄭玄之字。
(45)孔融
(46) 謂何晏《論語集解》。
(47)鍾繇
(48)華歆、王朗
(49)許靖
(50)賈詡
(51)鐘會
(52)季薌,王葆心之字。
(53)木齋,盧靖之號。
(54)善長,酈道元之字。
(55)稚存,洪亮吉之字。
(56)洪《志》,洪亮吉《三國疆域志》。吳《表》,吳增僅《三國郡縣表》。
(57)謝《註》,謝鐘英《補三國疆域志補注》。楊《補》,楊守敬《三國郡縣表補正》。
(58)詳參《王肅傳》「西平縣」條集解。
(59)申耆,李兆洛之字。《輿地》,《皇朝輿地韻編》。《今釋》,《歷代地理韻編今譯》。
(60)子玄,劉知幾之字。
(61)益甫,丁謙之字,盧採其《三國志·烏丸鮮卑東夷傳》附魚豢〈魏略·西戎傳〉考證。
(62)公度,黃遵憲之字。新志,《日本國志》。
(63)班超封定遠侯,與子班勇久在西域。
(64)范曄之字。
(65)星伯,徐鬆之字,盧採其《漢書西域傳補注》。
(66)文卿,洪鈞之字,盧採其《元史譯文證補》。