虚妄の古田7世紀史=序章=

いつの間にか主客逆転した九州王朝とヤマト

古田氏によれば、磐井の乱により筑紫は「占領」されたはずなのに、7世紀初頭になると「東なる天皇家の統治領域をもふくんで、その両者の上に立つ「天子」として、俀王は自負していた」だとか。古田氏の第2書『失われた九州王朝』を丹念に読んだ人なら気がつくはずの〝空白の70年間〟。「磐井王朝の滅亡」から多利思北孤の王朝へと華麗なる復活を遂げた九州王朝!そのような復活が史料上から裏付けられるのか?

2021年5月22日午後10:11から2021年5月23日午後11:40までのツイートを集成。

磐井の乱後のシンボリックな記事である『日本書紀』宣化紀二年、大伴磐筑紫執政のフリップを2023年2月13日作成したので以下に掲げる。

7世紀舞台の #九州王朝説(大宰府とか山城とか)を語る人は、推古紀に書かれてある裴世清の訪倭(ヤマト)について触れません。筑紫大宰がヤマトから任じられていることにも触れません。触れると『書紀』を否定しなくてはならなくなります。でも、残念なことに、否定する根拠が見当たりません。
午後10:11 · 2021年5月22日

磐井の乱の後、安閑2年(535)5月には筑紫・豊国・火国に屯倉が造らます。翌宣化元年(536)5月には那の津の官家が造られ、筑紫・肥・豊の物資を集めさせます。同夏5月の宣化天皇の詔に【夫筑紫國者、遐邇之所朝屆、去來之所關門】とあり、筑紫の重要性が示されます。九州王朝の天子など出る幕ありません。
午後10:25 · 2021年5月22日

九州王朝説支持の方々は、この安閑紀、宣化紀の屯倉・官家の記事に触れようとしません。磐井の乱後、10年以内の筑紫の有様です。

恐らく〝見なかったことにする〟作戦なんでしょう。
午前10:30 · 2021年5月23日

宣化2年(537)10月壬辰朔、天皇の詔により、大伴金村大連はその子磐と狹手彥を任那救援に遣わし、うち磐は【留筑紫執其國政、以備三韓】です。この磐は那津官家の初代ボスだったのかも知れません。狭手彦は任那に往き鎮め百済を救います。磐井の乱10年後のことです。
午前10:41 · 2021年5月23日

福岡市博物館「那の津の官家と激動の東アジア」

「東光寺剣塚 6世紀前半~中頃に築かれた福岡平野で最大級の古墳」
友人の案内でアサヒビール工場内のこの古墳を見学しました。「畿内系の技法をもつ埴輪」が出てるので、思えば、被葬者は磐の可能性も?
午前10:54 · 2021年5月23日

同サイト:石屋形という筑後や肥前に例の多い遺骸安置施設をもつなどの特徴があり、東光寺剣塚古墳は、「那津官家」にかかわる人物の墓だった可能性があります。

石室は現地技術に頼ったのかも。磐の筑紫執政は官家修造の翌年ですから、可能性は濃いかも、、、
午前10:57 · 2021年5月23日

大伴連磐
宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し筑紫に派遣され、那津官家(大宰府の起源)で執政。


へえ~asahi-netって、プロバイダ?

大伴氏の系図ってのも。
午前11:33 · 2021年5月23日

「大伴磐と筑紫の君磐井は同一人物?」っちゅうブログもめっけ(*^_^*)


色んな人が色んなこと考えてるもんだァ、、、
午前11:36 · 2021年5月23日

『#失われた九州王朝』p355で、
倭国の場合、中国の使節から中心の王者とみなされているのは、九州王朝なのである。まだ天皇家は「地方の豪族」中の雄なるもの、と見なされているにすぎぬ。だから記載されていないのである。

んで、帝記には「地方の豪族」の遣使が記載された?まさかぁ、、、
午前11:51 · 2021年5月23日

『#失われた九州王朝』p300からの「俀と倭の間」「倭国と推古紀」をお読み下さい。『隋書』帝記の「倭」「倭国」は「天皇家側の使者であったことをしめすものである」

んで、「中心の王者とみなされている」はずの「九州王朝」は帝記に書かれてないそうです。古田氏のご都合主義の一例です。
午前11:54 · 2021年5月23日

同書p344には「占領地分割案の示唆するもの」という項目を立てています。継体21年(527)詔して物部大連麁鹿火らに諮り麁鹿火に征討を命じます。結局翌年磐井は討たれますので、古田氏風に言えば筑紫などは「占領」されたということになるはずです。
午後2:37 · 2021年5月23日

『書紀』の乱後の記載を見れば、おおよそそれを裏付けていると言えそうです。ところが、古田氏によれば、『隋書』の俀王多利思北孤は九州王朝の天子なんだそうですから驚きです。
午後2:43 · 2021年5月23日

多利思北孤が遣使した隋の開皇20年(600)は「磐井の滅亡」(p338)から72年後。いつの間に(隋代に於いても)「地方の豪族」に過ぎなかった天皇家に「占領」されたはずの九州王朝が、「中心の王者」へと復活したんでしょうか?まるで手品です。
午後2:49 · 2021年5月23日

p310
俀王の直接の統治領域は「九州」にとどまっていたにもかかわらず、東なる天皇家の統治領域をもふくんで、その両者の上に立つ「天子」として、俀王は自負していた。

磐井の乱後、「占領」された話はどうなったんでしょうか?
午後2:52 · 2021年5月23日

p307で「東西五月行南北三月行」という『隋書』の記事を取り上げます。p308に掲げられた図が以下。なんで南北に長い図になってんのか?意図不明。
午後3:10 · 2021年5月23日

古田氏の好きな『舊唐書』倭国伝【四面小島五十餘】。素直に読めば倭国は四面が海!『舊唐書』にも『隋書』の「東西五月行南北三月行」は、そのまま引き継がれています。

ということは倭国というのは東西に長い島国ということになるんじゃ?九州は南北に長い島なんで、、、
午後3:15 · 2021年5月23日

第2書p352「Ⅱ二つの王朝 倭と日本」の中で、『舊唐書』倭国伝冒頭から「世〻中国と通ず」まで引いています。【其國居無城郭以木為柵以草為屋】の後に【四面小島五十餘】と続きますが目に入らなかったのでしょうか?それとも別の場所で所見を述べてる?
午後4:25 · 2021年5月23日

p367でようやく
四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。これは、九州ではあるまいか。「四面に(2字傍点)に小島」というのは、日本列島の場合以上に、九州について、より適切であろう。

あれ?「東西五月行南北三月行」は?連続した文脈なのに、何故切り離して?九州は南北に長いんです。
午後7:45 · 2021年5月23日

便利ですね~

俀王の直接の統治領域は「九州」にとどまっていたにもかかわらず、東なる天皇家の統治領域をもふくんで、その両者の上に立つ「天子」として、俀王は自負していた。

伸縮自在です。
午後7:50 · 2021年5月23日

一番ご都合主義なのか、p299-300の「筑紫への道行き」ですね。「右の道順を図示しよう」として百済から海岸へのルートを示していますが、竹斯国が四角で囲んであるんですね。しかし原文は【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國】で単なる通過国。
午後10:16 · 2021年5月23日

これを『魏志』倭人伝と比べてみましょう。【南至邪馬壹國女王之所都】です。邪馬壹国に女王之都である旨、特記してあります。一方、隋書の「竹斯国」は単なる通過国にすぎない表現です。一支国と同じ扱いですね。
午後10:20 · 2021年5月23日

p300で「だから、この「海岸」が九州の東岸(北部)であることは疑えない。」といいます。古田氏は『邪馬一国の証明』p320で、
「竹斯国」こそ俀王の都
と書いてます。前頁では秦王国を「筑後川流域」と。そこから「十餘國」を経た九州東岸(北部)までのルートをなぜわざわざ書く必要があるのか?
午後10:26 · 2021年5月23日

『邪馬一国の証明』p321では、
「秦王国」は「竹斯国―阿蘇山」間である可能性が高い。
と。だいたい筑紫平野でしょう。そして、
「東高」とは阿蘇山の山系を指していると。はあ?p318で「海岸の竹斯国」と書いてます。つまり博多付近。そこから阿蘇山がどうして「東高」?
午後10:34 · 2021年5月23日

古田氏の所論は延々と文字の羅列。そこに書いてあることを作図してみるとオカシナことが出来します。第1書からそうでした。文字の洪水で、読者は思考停止に陥り、なんとなくその主張を受け入れてしまうんでしょう。作図してみましょう。
午後10:39 · 2021年5月23日

第2書p299-300では、「道行き」が「竹斯国以東は、皆な俀に附庸す。」までしか書いてありません。続きは【俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎.後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞.既至彼都】です。さて、小德阿輩臺を遣わして「來迎」したのはどこで?「彼都」はどこに?
午後10:49 · 2021年5月23日

なんで「既至彼都」が竹斯国のところに書いてないんでしょう?『魏志』倭人伝の場合は、邪馬壹国直後に「女王之所都」と書いてあり、明白です。しかし、竹斯国は「又」の連鎖の中の一通過国にすぎません。
午後10:53 · 2021年5月23日

古田氏が面白いことを仰ってます。「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編「邪馬臺国の常識」所収p162)で、「太平御覧所引魏志」の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがうこともない文章に書き改められている・・・」。
午後10:55 · 2021年5月23日

「又」でつながった行程文は順次式に読むのだそうです。「裴清の道行き文」はどうでしょうか?
又東至一支国
又至竹斯国
又東至秦王国
又經十餘国
「又」でつながっていますね。「明年」に始まる「裴清の道行き文」は「既至彼都」で終わるんです。途中は全て通過国。非常に平明な文章です。
午後10:59 · 2021年5月23日

実は『隋書』には、「裴清の道行き文」に似た事例があります。同じく大業三年、屯田主事の常駿が赤土国へ遣わされた行程文が同赤土国伝に見えます。もちろん、そこでも常駿が途上で見た光景などが順次記されます。「来迎」の後、「至其都」という部分まで似ています。
午後11:06 · 2021年5月23日

この件については #川村明 氏の「#九州王朝説批判」に詳述してありますので、是非お読み下さい。※2023/2/14現在、リンク切れ
午後11:14 · 2021年5月23日

ご参考までに。拙HP「#裴清の道行き文
午後11:33 · 2021年5月23日

これもご参考までに。拙HP「『隋書』列傳第四十七 南蠻 赤土國」
午後11:40 · 2021年5月23日