ツイッターデビュー連投集成

新型コロナウイルスが我が国でも本格的に流行しはじめた2020年春。コロナ禍の自粛ムードの中で、思い切ってツイッターへの投稿をやってみることにした。Yahoo!掲示板には十数年屯していたが、ツイッターは敷居が高そうで躊躇させるものがあった。書くことと言えば日本古代史以外のネタを持ち合わせていない。取り敢えずはYahoo!掲示板時代にも連投した愚生のメインテーマで書いてみることにしたのが以下のツイート群である。
今でも古田武彦氏の唱えた「邪馬壹国説」に与している方は少なくないと思いますが、これは誤りです。現在、我々が見ている南宋刊本までの間に種々の典籍に引用・参照された『魏志』は、悉く「臺」とします。邪馬「壹」などという表記は一切登場しません。理由は簡単です。
2020年3月8日 午後10:09

5世紀南朝劉宋の『後漢書』に始まって、唐代の『梁書』『北史』は『魏志』の行程記事を襲っていますが、「臺」。『隋書』は既述の通り。あと、唐代では『通典』もそうですね。「邪馬壹」なんてどこにも出てきません。 #邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前8:33

5世紀南朝劉宋の『後漢書』に始まって、唐代の『梁書』『北史』は『魏志』の行程記事を襲っていますが、「臺」。『隋書』は既述の通り。あと、唐代では『通典』もそうですね。「邪馬壹」なんてどこにも出てきません。 #邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前8時33分

あと、660年成立と言われる『翰苑』も『魏志』を見ているようですが、現存のものは日本での写本で、文字が非常に乱れています。それでも「邦臺」とか「馬臺」など、どうやら「邪馬臺」という記述に拠ったと見られる字句が残っていますね。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前8時39分

宋代に入っても「臺」を用いた転籍があります。『太平御覧』に引用された『魏志』では「耶馬臺」ですし、同じく引用の『後漢書』ももちろん「邪馬臺」です。『冊府元亀』でも『梁書』からの引文で、「邪馬臺」とします。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前8時43分

「転籍」は「典籍」の誤変換です(^^;)
2020年3月9日 午前8時44分

宋代で忘れてならないのが『通志』です。唐代の『通典』、元代の『文献通考』とあわせて〝三通〟と呼ばれているこの『通志』にも「邪馬臺」とあります。この『通志』は南宋紹興年間の成立ですから、『三国志』紹興本とほぼ同時期ということになります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前9時32分

私のように、あれも誤写だ!これも誤写だ!なんて言うと、不審に思う人もいるかも知れませんが、実際に誤写は多発しています。『百衲本三国志校勘記』という本があります。「百衲本二十四史」を編纂刊行した張元済が記したものです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前9時39分

『百衲本校勘記』は二十四史全てについて刊行されています。そのうちの『三国志校勘記』では、張元済が「宋本」とする「紹興本」+「紹煕本」と、清の「武英殿版」との間の対校が逐一取り上げてあります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前9時43分

※2023/2/16hy注)「二十四史全てについて刊行されています」は誤りで、百衲本二十四史校勘記 整理緣起の表中に「遺失7種40册」と示すように、現存して刊行されたものは全体の3分の2程である。
その中では、4,605項目の異同が掲げてあります。その後の増減もありますが、実にこれだけの異同が、たった二つの刊本の間に生じているということになります。他にも名の通った刊本はありますので、それら相互の異同を数えたら一体どれほどに、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前9時48分

例えば、先にも画像をUpしました「汲古閣本」の狗古制卑狗は、この『三国志校勘記』では取り上げてありません。「百衲本」「武英殿版」いずれも狗古智卑狗であり、異同はありませんから、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前9時51分

「倭人伝」中には二度【自女王国以北】という字句が出てきますが、その最初のは、「紹興本」では「女三国」なんですね。『百衲本三国志校勘記』では、これを取り上げません。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前9時57分

なぜかと言うと、「百衲本」の倭人伝部分は「紹煕本」に拠っているので、『百衲本三国志校勘記』の対校対象外ということだからです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前10時0分

誤写誤刻で多いのは、字形が似ているものですね。「北」「比」「此」の異同は多出します。「一」「二」「三」も多いですね。中には「三」と「五」の異同も見えます。『北史』で「景初三年」が「景初五年」となっていることはご存じの方も、、、
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前10時18分

少し話がそれますが、『隋書』俀国伝に【内官有十二等】とありますが、これはもちろん冠位十二階のことですね。岩波文庫の書影でも「十二等」になっていますが、「百衲本」の底本となった「元大徳刊本」では「十五等」なんですね。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前10時24分

影印本というのは写真撮影して刊行されるものですから、底本そのままのはずだ!と思うかも知れませんが、幾許かは画像修正を施してあります。考えてみれば怖いことですよね、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前10時27分

『北史』に「景初五年」とあるからと言って、景初は五年まであったのだ!と主張する人はいないと思います。しかし、〝原文通りに〟読めば、景初は五年まであったことになります。ここは「修」にはなっていないんですね。不思議です。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前10時30分

修正してあるお見合い写真を見てお見合いを決めた方もいるかも知れませんね。実際にお見合いすると、写真との落差に愕然とする体験の持ち主もいらっしゃるかも、、.
2020年3月9日 午前10時33分

これが〝修正後〟の「十二等」です!これを見て、もとは「十五等」だった、、、なんて気がつく人は〝超能力〟でも持っていない限り、いないでしようね、、、
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前10時46分

この「十五等」を「十二等」へ修正するについては『校勘記』の下段「備註」に【修 見北史】と書かれています。修正しました。北史を御覧ください、、、という意味ですね。で、その『北史』の「景初五年」は?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前10時50分

『隋書』俀国伝からもう一つご紹介。【有男弟】とは、卑弥呼について記述した部分ですね。この「男弟」が、「百衲本」の底本となった「元大徳刊本」では「第」となっています!こちらの備註はただ「修」のみ。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前11時4分

画像を添付するのを忘れました(^^;)
2020年3月9日 午前11時5分

中でも「二」と「三」の異同は一番多いケースかも知れません。もちろん、「景初二年」か「景初三年」か、、、という例の問題にも関わってきますが。これも「三」が正しい!現文面への頑なな拘泥は迷路への近道だという気がします。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前11時17分

取り上げればキリがありませんが、「王」「主」「玉」「三」「土」という異同もまま見られます。こういうケースは版木の消耗からくるものもあるのかも知れません。一枚の版木から大量に印刷されるのでしょうから、細かい画は脱落破損することも、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前11時25分

画像は『後漢書』李賢注です。北宋淳化刊本を南宋福唐郡庠で重刊した仁寿本二十六史『後漢書』です。『後漢書』の淳化刊本は最初の刊本です。字が崩れていますが、「推」のようにも見えますね。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午前11時40分

前掲の画像の場合は、誤写誤刻というより、版木の消耗でしょう。あと、汲古閣本の「狗古制卑狗」の画像にも見えるように、紙の破れや、あるいは虫食いなどによる欠損も生じるでしょう。紙の上に書かれた文字の宿命といえるでしょうね。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午前11時46分

版木の損耗で文字が化けてしまった例は、『校勘記』にもあります。巻一「武帝紀」の【殺太祖弟德于門中】ですね。この「弟」が底本の「紹興本」では「弔」に化けています。『校勘記』では、「宋似板損 未批修,已修」と備註が記されています。「板損」ですね。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午後7時31分

「宋似板損 未批修,已修」というのは、「宋本(ここでは紹興本)は板損のようだ。未だ調べ正してなかったので既に修正した」という意味でしょう。影印した時点での紹興本のこの箇所は「弔」とあったわけです.
2020年3月9日 午後7時44分

この部分の前後の文は【謙兵至,殺太祖弟德于門中】です。ここが「弔」ならどういう訳になるでしょうか?【謙兵至,殺太祖弔德于門中】。「陶謙の兵は至り、太祖を殺し、曹徳を門の中で弔った」。太祖がここで死んじゃイケナイでしょう、、、(~_~;)
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午後7時51分

「武帝紀」の「弟→弔」の異同についてご紹介しましたが、作図してみましたので御覧ください。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月9日 午後10時55分

先に「弟」と「第」の異同について紹介しましたが、こちらは「弟」とするべきところを「第」としますので、板損とは言えません。小学生の頃でしたか、この二つの文字の書き分けが出来ない児が少しいましたね。通用字かもしれません。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午後11時6分

「二」や「三」を「五」に間違えるケースについては理解に苦しみます。あと、ちょくちょく見かけるのが「郡」「都」「部」の異同ですね。「倭人伝」でも一例あります。「郡支国」と「都支国」ですね。前者は宮内庁書陵部蔵南宋紹煕刊本です。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月9日 午後11時11分

複数の書物に文字の異同があれば、〝誤写〟なんてすぐに捉えがちですが、誤写は異同の要因の一部でしか有りません。一部とは言ってもその比率が少なくないだろうことは想像できます。異同の一つに〝避諱〟がありますね。裴世清と裴清はその一例でしょう。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前9時52分

避諱はなかなか私のような素人が判別することは難しいケースがほとんどですが、もうひとつよく施されるのが〝欠画〟です。漢字の最後の画(かく)を省くというものです。これは活字化された原文では当然反映されませんので、影印でしか分かりません。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前10時1分

この避諱・欠画を調べることでかなり重要なことが分かります。それは刊刻された時代が、いつか?ということです。いわゆる紹煕本という名称も実は次の寧宗の嫌名である郭廓を欠くので誤りだと尾崎康博士は「宋元刊三国志やよび晋書について」の中で仰っています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前10時15分

ついでですから、刻工についても。尾崎博士の論文では、この刻工を取り上げます。版木を彫った職人さんの名前ですね。版心の下部に小さく刻まれています。下の画像では「嚴」みたいです。紹興本の武帝紀巻一の版木を彫ったのは「嚴」という人ということです。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月10日 午前10時23分

この刻工名を追っていくことで、版本のその部分が実はいつの時代に版木が刻まれたのかが分かるというわけです。この「嚴」という人が、元代の多くの版本に登場するなら、いくら紹興本とは言っても、この葉は元代の補修の可能性があるということです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前10時26分

百衲本『三国志』について見てみると、巻一から巻三までは紹興本に拠っていますが、版心の刻工名はきちんと刻まれているようです。巻四から以降は紹煕本に拠っていますが、刻工名はありません。岩波文庫版でも確認できます。これは坊刻と言って民間刊行に拠るからだとか。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前10時34分

誤写誤刻の話からそれてしまいました。身近な話に戻します。「対海国」「一大国」も、それぞれ「対馬国」「一支国」の誤であることは明白です。これらを誤と認めない人は、それによって何を主張しようとするのでしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前10時56分

12世紀刊本の文面が、3世紀に陳寿の書いた〝そのまんま〟だという奇跡的なことを主張していることになります。「古本三国志」と呼ばれる古写本断簡や、各種典籍に引かれる『三国志』の文面を見ても、そのような〝奇跡〟など期待できないことは明らかでしょう。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前11時2分

今、気が付きました。『三国志校勘記』の巻三十・韓の項で、宮内庁書陵部蔵・南宋紹煕刊本では「方可四十里」となっているんですね!その画像をここにUpしたいのですが、「図書寮文庫出納係への申請が必要」と書かれてありますので、控えます。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前11時13分

この宮内庁書陵部蔵南宋紹煕刊本を影印したはずの百衲本では、「四千里」と修正されています。紹煕本が紹興本に勝ると唱える人もいますが、その方はこの原文の「方可四十里」をどのように解釈するのか?原文通りに読むと、韓半島の大きさは、、.
2020年3月10日 午前11時18分

「千」と「十」は、それこそ板損でしょうから、そんな誤は有り得る!と容認してもらえるかも知れません。じゃ、「一大国」は?『校勘記』をめくった限りではビンゴっ!のケースは見当たりませんが、「友」と「支」のケースなら、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前11時32分

「対海国」と「対馬国」のケースは、〝似ているから云々〟は通用しないでしょう。しかし、似ていなくても異同が生じることは、狗古智卑狗と狗古制卑狗の例でも、有り得ることです。「対海国」は『文献通考』所引『魏志』と『大明一統志』にも見えますが、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前11時44分

お分かりの通り、『文献通考』『大明一統志』いずれも刊本流布以降成立したものです。『三国志』の刊本でも紹興本では「対馬国」ですし、汲古閣本や武英殿版も同じです。何より、『魏略』や『太平御覧』所引『魏志』、『通志』も同じです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前11時49分

Wikiで「対海国」を調べたら、「現存する最古の版である紹熙本では「對海國」とされ」とありますが、最古は紹興本ですね。Wikiの記事はまんま引用する人もいるかも知れませんのでご注意を!
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午前11時54分

「邪馬壹国」が正しいのか、「邪馬臺国」が正しいのか、今でもネット上でそれぞれの意見が掲げられていますが、これはもちん「邪馬臺国」が正しい。今から丁度40年前、1980年3月25日に刊行された『論争邪馬台国』の中で、井上光貞氏が語っています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後1時19分

井上氏という高名な学者が言っているから〝正しい〟というわけではなく、そこに述べられていることこそ、〝正しい〟考え方だ、ということです。恐らく図書館にも所蔵されているでしょうから、一読を勧めます。松本清張氏が古田説について水を向けた問いに対するものでした。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後1時22分

内藤湖南が明治43年に書いた「卑弥呼考」では次のように明断しています。則ち「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に造れり。」つまり、今私たちが見ている「邪馬壹」とは、「邪馬臺」が誤伝されたものだ、、、ということです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後7時6分

これに対して、古田氏を始め、今では少なからざる人たちが〝原文は壹であり、改訂は許されない!〟という立場で、この「邪馬壹」説をとっています。しかしその〝原文〟なるものは、12世紀南宋代の版本であり、陳寿から9世紀を経ているのです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後7時9分

その9世紀の間に『魏志』はいろんな典籍に引用・参照されていますが、ことごとく「臺」であり、「壹」とするものは一つもありません。古田氏はこれを後発の『後漢書』の「邪馬臺」によって改訂されたものだとする解釈を示しています。しかしそれでは「臺與」が説明付きません。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後7時16分

「臺與」は『後漢書』には登場しないからです。各種典籍には「臺與」あるいは「臺舉」「臺輿」として引かれており、いずれも「臺」です。北宋代になって、『太平御覧』「珍宝部」に引かれる『魏志』に「壹與」が出現します。しかし、「倭人伝」本文では「臺舉」。「臺」です。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後7時19分

しばしば持ち出される『翰苑』ですが、わが国での写本という訳かどうか、文字はかなり乱れています。その中で「臺與」は張楚金の本文、雍公叡といわれる注文いずれにも「臺與」として見えています。唐代の『魏志』に「臺與」とあったことは動かないと思います。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月10日 午後7時27分

『翰苑』の書影から作図してみました。ここに見える「臺」はやや字形が違っていますが、これは異体字の一つです。「臺」の異体字には「壹」に近いものもあるようです。逆は無さそうですね。「臺」「壺」「壹」の誤写については旧知ですが、異体字つながりのようです。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月10日 午後11時31分

「邪馬壹」「邪馬臺」の場合のように、いずれが先行する表記であるか意見の分かれている場合が多いようですが、議論の余地のない異同の例がありますので、画像を添えてご紹介します。百衲本『史記』匈奴列伝注引『魏臺訪議』です。確かに「魏壹訪議」と、、、
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月11日 午前9時15分

この『魏臺訪議』又は『魏臺雑訪議』は『隋書』経籍志や新旧『唐書』の経籍志芸文志にも著録されている書物で、もちろん『魏壹訪議』という書は存在しません。なので、ここの『魏壹訪議』の「壹」は、明らかに「臺」からの誤伝であることになります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時1分

古田氏は『魏臺訪議』を取り上げていましたね。例の〝神聖至高文字〟の論証として。その『魏臺訪議』の「臺」が「壹」と誤伝されているケースがあるというのは皮肉と言えるかも知れません。古田氏の第一書に「孫聖壹」の場合が取り上げられています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時7分

『呉志』孫賁伝に、その父孫羌の字として「聖壹」と記されています。孫羌の弟である孫堅の字は「文臺」、その弟である孫静の字は「幼臺」なので、孫羌も「聖臺」ではないか?という考証を古田氏は否定したのです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時18分

その「考証」というのは盧弼の『三国志集解』の中にあります。【郝経續漢書作字聖臺孫堅字文臺孫静字幼臺羌爲堅兄作臺是】。弟二人の字に「臺」を用いているのだから、孫羌も「聖臺」が正しい!という考証です。古田氏はこの考証を否定して「聖壹」でいいのだ!と主張します。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時28分

その論拠は、古田氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』の51ページから述べられています。一字を共有する法則はない、「壹」は長男であることを示す、というものです。しかしこれは白崎昭一郎氏により否定されてしまいます。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時30分

白崎昭一郎氏は『東アジアの中の邪馬臺国』で「孫聖壹か孫聖臺か」という項目を設け、『三国志』中からの多くの挙例に基づき、反証を行いました。一字を共有する傾向はある。長男に字「壹」を用いた例は無い。名としてですが「士壹」「孫壹」は弟だ!などです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時35分

古田、白崎両氏の主張を読み比べ、その当否を考えれば、白崎氏の主張を是とせざるを得ません。つまり、郝経が指摘し、盧弼が「是」と断じた如く、「孫聖壹」は「孫聖臺」の誤である!ということになります。『三国志』中に「臺」「壹」の誤写の例が存在することになります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時39分

「孫聖臺」「孫聖壹」の例も「臺」から「壹」への誤伝の例となります。『魏臺訪議』『魏壹訪議』もそうでした。これは「臺」「壹」の異体字の有り様を見てみれば、何となくありそうな気がします。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時46分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A kensyou_jikenboさん、横レス失礼しますm(_ _)m 最近twitterに参入した新参者です。丁度私もこの件について投稿していたところでした。「邪馬壹国」「邪摩惟」いずれも誤写誤刻です。以上、取り急ぎ要用のみにて失礼致しますm(_ _)m
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前10時57分

@hidaka494 お邪魔しますm(_ _)m
>「ヤマト国」と読む
は多分正解だと思いますよ。邪馬台国はどこにあったか?ではなく、邪馬台国は「ヤマト国」で、ずっとあそこにあったのでしょう。卑弥呼がどこにいたか?についてはもう少し幅広く考える余地も、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前11時7分

@hidaka494 ゆららよさん、早速のご返信、ありがとうございますm(_ _)m 数日前にtwitterに参入したばかりで、作法も何も分かりません。お気づきの点などございましたら、どうぞ何なりとご指摘ください。今後とも宜しくお願いいたします。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午前11時28分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A kensyou_jikenboさん、コメントありがとうございますm(_ _)m 宋代に至るまでの間に『魏志』を引用・参照した各種典籍には「壹」が一切登場しません。悉く「臺」です。最たるものが【則魏志所謂邪馬臺者也】ですね。仰る「継承」には根拠がないと思いますが・・・
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後1時52分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 拝復。『隋書』の他には唐代として『梁書』『北史』『通典』があり、また『翰苑』には「邦臺」「馬臺」と「邪馬臺」に拠ったと見られる表記があります。宋代では『太平御覧』『冊府元亀』『通志』も「臺」ですね。これらはいずれも南宋刊本に先行するものです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後3時8分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 承前。
>臺は中国の都のことを示す雅文字なので
とのことですが、それは古田氏の〝神聖至高文字〟のことでしょうね。「魏臺」が天子を表すという。しかし、「臺」には「京観」という意味があり、これは死体を積み重ねて築かれた冢という意味もあります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後3時11分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 古田氏が「魏臺」を天子一人を指す、と解釈していますが、この「魏臺」とは尚書省のことです。『通典』に書かれてあります。それに、『三国志』本文中には、「魏臺」という文字は出てきません。『三国志』中の「臺」の全調査は古田氏が第一書で行われていますね。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後3時15分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 逆に、「壹」あるいは「一」とするものは、南宋刊本以降に出現します。元代や明代の刊本には「邪馬一国」とするものが出てきますし、『魏志』を引用している元代の『文献通考』や15世紀の『大明一統志』も「邪馬一」とします。南宋の前と後で明らかな違いがあります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後3時21分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 再度横レス失礼しますm(_ _)m 塚田敬章氏のサイトから引用されていますが、「今の名を案ずると、邪摩惟(ヤマユイ)音の訛りである」というのは誤訳です。正しくは「案ずるに、今の名邪摩惟は音の訛なり」です。そうでなければ「今名」とは何か?意味が通じなくなります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後4時55分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 「今名」は李賢の生きた時代の倭都の名ですね。それはつまり、李賢の生まれる少し前に成立した『隋書』の「邪靡堆」、李賢の生存中に成立した『北史』の「邪摩堆」です。李賢は『隋書』『北史』から当時の倭都の名を知り、それが『後漢書』の邪馬臺と違うから附注したのです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後5時1分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 因みに「邪摩惟」とするのは、南宋紹興刊本のみで、他の刊本はおおむね「邪摩推」に作ります。画像は「汲古閣本」を元にした『後漢書集解』です。「武英殿版」を元にした啓明書局本『後漢書』や、わが国で江戸時代に刊行された和刻本『後漢書』も「邪摩推」です。
#邪馬台国 #魏志倭人伝
2020年3月11日 午後5時12分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 拝復
>何ページに書いてありますか?
第一書ではなく、朝日新聞社から出ている『続・邪馬台国のすべて』の中の「邪馬台国論争は終わった」で述べられており、その後の持論となっています。昭和52年1月4日「NHKスタジオ102」で発表されたものを掲載してあります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後7時2分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >倭人についての記述があるとは書いていません
『冊府元亀』をお持ちでしょうか?巻九五七外臣部国邑一に以下の通り見えます。しかも、李賢注が「邪摩堆」とあります。『冊府元亀』は成立後、まもなく刊行されていますから成立時の姿をよく残していると考えられます。
2020年3月11日 午後7時29分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 『冊府元亀』外臣部には、種族、土風、封冊、朝貢、褒異、来遠、継襲などの項目に倭についての記述があり、多くは『魏志』倭人伝からの引用です。この『冊府元亀』の記述が貴重なのは、今はほぼ失われてしまった「咸平本」の姿をよく残していると考えられるからです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後7時38分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >従って古田氏の考証は魏の時代に「臺」がどのように使われていたかです
もちろんそうですよ。その『三国志』中の「臺」の用例の話です。『魏志』「鄧艾伝」に【使於緜竹築臺以為京觀,用彰戰功】という記述があります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後10時28分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 訳せば「緜竹において臺を築き、以て京観となし、もって戦功を明らかとする」。この「京観」とは何か?同じく『魏志』の「高貴鄉公紀」に【古者克敵,收其屍以為京觀】とあります。「古くは敵に克つや、その屍を収め以て京観となす」。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後10時32分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A この「使於緜竹築臺以為京觀,用彰戰功」の例を古田氏は第一書の46-47ページの一覧表の中で取り上げていませんね。このことは三木太郎氏が『季刊邪馬台国18号』「『三国志』の中の「臺」の用例と字義」の中で指摘しています(p76)。死体の山が〝神聖至高文字〟なんでしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後10時49分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >邪馬壹国を邪馬臺国と転記ミスしているというのが古田氏の説です
というのは正しくないと思いますね。『失われた九州王朝』の59ページで、「「タイ国」という現地音があり、これを「臺」字についてのタブーを持たない范曄が、「臺」と表記したのであろう」。意図的ですね。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後11時3分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >そうするとその「咸平本」が写本ミスで邪馬臺国と書き後漢書もそれに従った可能性があります
ちょっと意味不明です。「咸平本」は版本です。11世紀の「咸平本」に、どうしてはるか昔の『後漢書』が従うことができるのでしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後11時6分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >後漢書の著者の范曄は南朝宋の人なので魏の臺という漢字に対する思いを理解してないかもしれません
古田氏の第一書75頁に『容斎続筆』が出てきます。「晋宋の間、朝廷禁省を謂ひて臺となす」とあります。これによれば、南朝劉宋にあっても「臺」の字は使えなかったのでは?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後11時13分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A 事実、古田氏が『失われた九州王朝』49-51頁で掲げている『後漢書』の「臺」の用例をみれば、大方『三国志』と同様の使い方のように窺えますね。三木太郎氏の検証結果については私のサイトに表を作成しています。
『三国志』中の「臺」の用例
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後11時19分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >陳寿の時代の壹と臺の違いの厳密さがない
「壹」は一ですね。もっぱら、ひとへに、みなという意味もあるようです。「臺」は「うてな」で、土を方形に積み重ねて上を平らにしたもの。転じて、その上の建築物のことです。「違いの厳密さ」とは何でしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月11日 午後11時30分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A おはようございます。
>歴史考証が進歩した
ではなぜ、他の典籍では相変わらず「臺」のままだったんでしょうか?それに、それらの時代に「写本」が遺存していたことはほとんど望めないと思いますよ。大量に流布したはずの刊本ですら、次々に滅んでいったわけですから・・・。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前8時37分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A もう少し丁寧な言い方をすれば、『魏志』を引用・参照した唐宋代の典籍は、宋代以降も、引き続き「臺」を使っています。ここには「歴史考証」の「進歩」が無かったのでしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前8時47分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A kensyou_jikenboさん、おはようございます。
>①「邪馬壹国」説は合っているのではないか
『隋書』や『太平御覧』が直接『魏志』と明記して引用していますし、他の典籍も間違いなく『魏志』を参照しているのですから、「邪馬臺」で間違いないと思いますよ。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前9時24分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 箸墓は3世紀中葉の築造で動かないでしょう。安本氏の「東遷説」ですが、一時氏が取られていた〝重ね合わせ写真〟説という考え方を取り入れれば、可能性的には幾らかはあるかも、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前9時28分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >両方ともに根本的な誤りがあるとなれば
古田氏の「邪馬壹国博多湾岸説」は成立不可ですね。安本氏の甘木説は魅力的といえば魅力的ですが、『魏志』の水行陸行をどのように解釈するのか?そこが隘路かもしれません。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前9時33分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >色々検索していたのに何故か出て来ていませんでした
エゴサーチしても随分下位でヒットしますね(^^;)
>お、hyena_no_papaは、どのように読めば良いですかね
〝ハイエナのパパ〟です。お父さんではなく、パパラッチなんですが、、、(^^;)
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前10時30分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >畿内説が主だが、安本氏説には魅力あり」という感じでしょうか?
そのとおりです。最初は安本説から邪馬台国問題に入りました。その後、畿内説に転向したのですが、未だに安本説には魅力を感じています。古田説以外の九州説には頑張って欲しいと思っています(^^)
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前10時33分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A ほぼ纏向説で間違いないと思っています。解釈的には笠井新也が最も自分の肌にあっていると思います。ただ、古田説以外の九州説にも十分議論の余地はあるとも考えています。実は吉野ヶ里が邪馬台国でも構わないんですが・・・(^^;) あそこから親魏倭王印とか出てくれば。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前10時38分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >318年と見てます
そうですね。邪馬台国問題に首を突っ込んだ当初読んだ本の中に、肥後和男氏の『邪馬台国は大和である』がありますが、そこでも確か318年説だったような記憶が・・・。ただ、『記紀』と漢籍とを結びつけるには躊躇するものがあります。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前10時53分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 古墳の話を始めると、止まらないのが私の古代史病の一症状です。箸墓、崇神陵、景行陵は、位置的にも近いし、円部の径がほぼ同じですね。このあたりがヤマトの王権確立の画期だと見ています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前10時57分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A あれ?肥後和男氏ではなくて、井上光貞氏だったかな?318年説は、、、数十年前の記憶ではっきりしません(+_+) 暇をみて確認してみましょう。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時4分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >神功皇后記の「120年」繰り上げは
んと、それって神功皇后の活躍した時代が3世紀だったということですか?
>神功皇后の即位年が卑弥呼共立年ではないか
って仰るんですから、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時7分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A ありゃりゃ~、どうやらkensyou_jikenboさんの術中にハマってしまったようですね(^^;) でも、嫌いな話ではないので、出来る範囲でおしゃべりさせていただきます。
ツイートが長くなりそうなんで、一旦改ページを、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時15分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >箸墓→西殿塚→崇神→景行の順
「西殿塚」は一部に臺與の墓ではないか?という説もありますよね。概ねその順序でいいかと、、、崇神、景行を逆にみる人も、、、
>また「なぜ垂仁陵が離れているのか?」なども検討必要と考えています
治定に問題は?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時17分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 問題は、それらの巨大古墳というより、中小の古墳でしょうね。ホケノ山とか東田大塚とか纏向石塚とか、、、素人的には、早くハッキリさせてほしいっ!と思うんですが・・・。でも、陵墓参考地を調べるほうが確かかも(^^;)
宮内庁が何と?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時20分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >という意味です
了解しました。
>書紀作者は卑弥呼共立年を大体知っていて
そうでしょうね。『魏志』を引くからには年代も理解した上でしょう。ただ、『書紀』については疎いのですが、あれは後注説もありましたよね。どうなんでしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時26分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >古代史論でこの論議が余りされていないようなのが不思議です
それは古墳を含む考古学と『記紀』とを結びつけることに慎重だからでしょう。素人的には歯がゆい気がしますが、考古学は頼りになる学問ですので、じっくりと待つしかないかも、、、ですね。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時33分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >思ったより少ない感じ
そうなんですね、、、「神功紀」に引かれる『魏志』の文と現行文面との対校上、やや気になる点があるものですから・・・。「神功紀」の巻九は北野神社本だと思いますが、後注としたらいつの時代か?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午前11時57分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >シロートの割に論点が多く
私も同じです。シロートの特権でしょう。逆に、専門家は少しテリトリーを外れると変なこと言い出すんですよね(^^;)
>例えば”「壹」と「臺」”は2002年
もう18年も昔ですか、、、(・_・;)
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後3時40分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 貴ブログ、頭だけ覗かせて頂きました。はるか遠い世界にお住まいのように感じられます(@_@;)
>yahoo!ブログ停止で
私もyahoo!さんからの転入組です。今はFC2さんにご厄介になっております。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後3時45分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 先にも申し上げましたが、『記紀』には疎いもので、質問になります。『魏志』や『晋起居注』を引用している「神功紀」の年次記事には本文が無いんですよね。いや、三十九年には「是年也、太歳己未」がありますが、、、百済系史料の場合はどうなんでしょう?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後4時4分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 武田祐吉氏の『日本古典全書 日本書紀』「神功紀」頭注に「ここに魏志を引いたのは、後人の所業とする説がある。わが國の文献に徴證が無いので、編者が参考に記しておいたのであらう。」というのが、ずっと頭に残っています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後4時8分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A いやはや、大変なご苦労をされての仮説構築なんですね(^^;) こういう仮説が正しいかどうか、当否の決め手は何になるんでしょうかねぇ、、、箸墓から金印が出てきたり、陳寿の墓から『三国志』自筆原本が出てくれば、様々な仮説について当否判定が出来るんでしょうが、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後4時18分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 「日本書紀は「卑弥呼と台与の存在を薄める」ために「崇神天皇の後」にずらした?」との仮説のようですが、『書紀』は倭の五王を無視していますので、卑弥呼、台与、神功皇后に関して、そのような作為を施す必要は無かったんではないでしょうか?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後4時22分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >本文が無くて分注のみは、『魏志』や『晋起居注』引用部だけというご認識でしょうか?
パラパラと見た限りでは百済系史料からの引用のみの年次もありそうなんですね。しかし、『書紀』は分量も多いし、そのあたりについての研究も当然あるんでしょう。そういう意味でした。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後4時30分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >「女帝」が記録されることの回避ではないかと推測してみています
推古以下の女帝は「記録され」ても構わなかったということでしょうか?
>ただ卑弥呼や台与が女系か男系か
どうせ欠史八代は系譜も捏造なんでしょうから、どうとでもなったんじゃ?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後4時37分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A しかし、完全に術中にハマってしまったようですね(^^;) 完全アウェーです(^^;) 一息入れましょうかね、、.
2020年3月12日 午後4時39分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >親魏倭王を認めたくないプライド問題
というか、『書紀』編者たちには卑弥呼とか邪馬台国とか、その正体がはっきりしなかったのかもしれませんね。
>皇室の祖が女帝から始まった
天照大御神は一応〝女性〟なんでしょうが、、、日本男児はそれを認めたくないのかな?
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後6時23分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 推古朝以後の倭朝廷のバイアスも忘れてはならないのかも、、、
笠井新也の卑弥呼=夜麻登登母母曾比賣で行きましょう!スッキリ爽やか!
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後6時26分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 宜しく(^^;)
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後6時27分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A えっと、すみませんm(_ _)m 掲示板と違って、どのツイートがどれに対する返信なのかが、つかめません(^^;) 何しろ、超・新参者ですから、、、(^^;) なので、テキトーに赴くままにツイートしてみますので、返信漏れとかありましたら、ご指摘のほど宜しくm(_ _)m
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後10時49分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A それと、現在、范曄の「後漢書自序」別名「獄中與諸甥侄(姪)書」と格闘中でして、極めて難儀しております。なので、返信も手抜きになろうかと思いますので、その点ご理解賜りたく、、、m(_ _)m
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後10時52分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >相当難しそうなことを
身の程を知るための苦行です(^^;)
>邪馬台国問題の検証がメインでは無いということでしょうか?
いえいえ、最終目標は邪馬台国問題の解決です。そのための基礎知識というか、そんなものを鈍歩で積み重ねているのです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後11時36分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A あれ?倭迹々日百襲姫って書きたかったのに、変な変換候補で確定してしまってますね(^^;) 訂正します。倭迹々日百襲姫です!
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月12日 午後11時41分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A kensyou_jikenboさん、おはようございます。
>同感です
ありがとうございます。『三国志』及び同時代の史料の里数値はかなり検証しました。
>以下が何故そうなのか?
白鳥にも解けなかったのですから、難題でしょう。2案は持っています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前8時21分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >なかなかの策士
古田氏を評することは難しいですね。「東日流外三郡誌」についてもかなり追っかけましたので、その独特の個性に、ある意味驚いたものです。奥様が弁護士らしく、古田氏のスタイルにはその匂いが感じられます。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前8時25分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >気が向いたときにでも
ありがとうございます。ツイッターの使い方や作法についても勉強しなくては、、、です。
>「歩」まで縮小
結局袋小路に迷い込むんですよね。「白樺湖シンポジウム」で敗北決着したはずなのに、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前8時29分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >白樺湖シンポジウム
1991年8月1日から6日にかけて、古田氏の在職していた昭和薬科大学の諏訪校舎で行われた東方史学会主催「古代史闘論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争―邪馬壹国問題を起点としてー」のことです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前9時56分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 古田氏が「白樺湖畔」という表現をしていますので、私の個人的略称として「白樺湖シンポジウム」を用いています。尚、このシンポジウムに関しては古田氏側から4冊刊行されており、その内容の概略が紹介されています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前9時58分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 書名をご案内しますと、『「邪馬台国」徹底論争ー邪馬壹国問題を起点としてー」の第一巻から第三巻までと、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』の4冊です。前三者は新泉社から、最後は駸々堂からの刊行です。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前10時0分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A その第一巻「言語、行路・里程編」で短里について議論されており、『三国志』中の百里単位のケースについて白崎昭一郎氏の指摘に対して古田氏の反論は破綻していました。古田氏が「和田家文書」へと、より傾倒してゆくのは、このシンポジウムが曲がり角になったと思います。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前10時5分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >「歩」に関しては、縮小するのではなく
公定の単位通りですね。六尺一歩、三百歩一里です。ただし、一尺の長さが時代とともに変化しているのは周知の通りです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前10時14分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >卑弥呼の墓は径百余歩
箸墓の円部の径と、ほぼ一致します。箸墓について喋りだすと長くなりますので、改めて、、、ということで。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前10時17分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >偽書を支持してしまうのでは
古田氏にしてみれば、真書であるとの主張は成立する!という立場でしょう。この件については、私も青森県の図書館等から資料を取り寄せたりして検証しました。偽書であることは明らかです。最近、斉藤光政氏の著書が再々刊されて話題ですね。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前10時21分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A 斉藤光政氏の著書は『戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」』で、集英社文庫から出ています。
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #東日流外三郡.
2020年3月13日 午前10時24分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A なんか、ロボットでないことを証明しなくちゃいけないんだとか、、、
同じ文を3回書くはめに、、、(@_@;)
>困惑
そうでしょうね。私自身も自分の解釈に「困惑」しております。Googleにも「困惑」ですが、、、(+_+)
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前11時28分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >韓国面積の誇大値に
三海峡の千里や伊都国への五百里も「短里」ですよね。
>三世紀半ばの墓の径
箸墓は時代的に該当すると思いますよ。径30m位では「大作冢」とは言わないでしょう、、、張政は実見している可能性がありますし、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午前11時33分

@kensyou_jikenbo @qi5yohei @hinotomoki2 @monchi_151A >以下の疑問
現状の倭人伝の記述からのみ推測するのは難しいでしょうね。細かい点については佐伯有清氏ほか、様々な論考が出ていますので、それを参考にして概略を捉えるしかないでしょう。倭人伝末尾の〝書きぶり〟から感じる匂いは、そんなに長くはないと、、、
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後12時52分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo @hinotomoki2 @monchi_151A >古墳としての箸墓はやはり卑弥呼の墓と
候補としては一番でしょう。他にもどんどん候補を挙げればいいんですよね、九州説の方も。吉野ヶ里遺跡の日吉神社の盛り上がりは径百余歩ありそうですが、、、
>卑弥呼と同一人物とは
なんとも判断の仕様がありませんよね。材料不足で!
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後6時39分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo >誰も古田説に反論できなくなっていた
それ、自分で言っちゃ、おしまいでしょうに、、、
有名な「四国山上説」の方も、同じようなことを仰ってるとか、、.
2020年3月13日 午後10時19分

古田氏は『続・邪馬台国のすべて』「邪馬台国論争は終わった」の中で「邪馬壹(一)国は全版本の事実」という項目を立てて力説していますが、そんなものは意味のないことです。内藤湖南が「臺」を「言ふまでもなし。」と明断したのは、刊本刊行以前の時代の話だからです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後10時36分

古田氏は同論文の中で、薮田嘉一郎氏の「邪馬壹国説」批判を取り上げ、反論しています。藪田氏が「壹」を〝天下の弧証〟と断じたことに対して、読者がこう理解するだろうという予測を立てて、それに反論しているんですね。しかしこれは、全くお門違いの反論です。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後10時47分

先に出典を明記しておきます。『続・邪馬台国のすべて』は昭和52年4月30日、朝日新聞社から刊行されています。一方の薮田論文は中央公論社『歴史と人物 昭和50年9月号』43頁からの「「邪馬臺国」と「邪馬壹国」」です。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後10時50分

薮田氏は「邪馬壹国」が、「紹興本と年代の近い「紹煕本」(中略)にも、其他の刊本にも皆同様である」とはっきり書いています。古田氏が紹興本に拠ったとするのは薮田氏の誤認で、古田氏は紹煕本を最良の刊本としますが、薮田氏の趣旨には影響しません。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後10時56分

薮田氏はそれに続けて、『後漢書』以降、宋代の『太平御覧』に至るまで、ことごとく「臺」とする事実を取り上げ、『魏志』本来は「臺」であったと述べます。そして、南宋刊本に「壹」とあるのは靖康の変以降の激しい攘夷思想に基づく改変だとの判断を示しています。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後11時1分

この〝攘夷思想〟云々については言及する術を持ちませんが、薮田氏は確かに『三国志』の諸版本はいずれも「邪馬壹」とすることを文中明示しているのです。しかし、古田氏が反論するや、薮田氏の主張がすり替わってしまうのです。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後11時5分

薮田氏が「天下の弧証」と言ったことを取り上げ、古田氏は次のように述べています。長くなりますので一旦改頁します。
#邪馬台国 #魏志倭人.
2020年3月13日 午後11時9分

「それを読んだ読者は〝ああそうか。『三国志』の中ではだいたい「邪馬臺(タイ)国」と書いてあるんだな、ちょっと変わった「邪馬壹(いち)国」という版本があったので、古田はそれを取り上げて「邪馬壹国」が正しいと、おおげさに言っているのだな〟とお思いになる方があるかもしれない。」
#古田.
2020年3月13日 午後11時11分

薮田氏に対する反論となっていないことは明らか。薮田氏は宋代以前の諸書の「臺」に基づいて批判しているのに、古田氏は「だから「邪馬壹国」という字面は、孤立しているどころか、『三国志』の全版本例外のない表記事実である」と。薮田論文を読んでいない人は古田氏に首肯するでしょう。
#古田.
2020年3月13日 午後11時17分

この後も、古田氏は具体的に薮田氏が指摘した点についての反論を行っていません。そして、版本の文面を根拠に「原文手直し」は、よほど慎重にしなければならない、として薮田氏の批判を退ける体裁を取ります。しかし、両論文を読めば、古田氏が正当な反論を回避していることは明らかです。
#古田.
2020年3月13日 午後11時20分

古田氏は、この「全版本の事実」を錦の御旗宜しく翻らせて、「邪馬壹(一)」こそ正しい!という主張を終生保ち続けます。しかし、有効な反論は薮田氏はじめ、昭和50年代以降数多く出されています。古田氏が諸氏が反論として出した唐宋代典籍の「臺」について有効な反論をしたという記憶はありません.
2020年3月13日 午後11時27分

古田氏の「邪馬台国論争は終わった」論文の冒頭の「はじめに」には、頭に「必要「論のかみ合わせ」」と書かれてあります。次の「一、根本の史料事実」の中で、薮田論文に触れているのですから、驚くしかありません。「かみ合わせ」を怠っているのは古田氏に他なりません。
#古田.
2020年3月13日 午後11時33分

古田氏は同書11頁の破線囲みの中に「邪馬壹国を目指す12の証明」を挙げ、「一、根本の史料事実
1.邪馬壹(一)国は三国志全版本の事実
2.三国志の「壹」(86個)と「臺」(56個)にあやまりと認識しうるものなし
3.「魏臺」は天子一人を指す(魏朝)」と書いています。
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月13日 午後11時39分

1は無意味な反論です。理由は前述。
2は孫聖壹の例が極めて誤写誤刻を疑われますので否定されます。
3は間違いです。「魏臺」は尚書省を指すことが『通典』の「物故之義」(巻八十三禮四十三凶五初喪 魏)の記載により明らかです。そもそも『三国志』本文中に「魏臺」という語は出現しません。
#古田.
2020年3月13日 午後11時45分

「魏臺」は天子一人を指す、と古田氏は主張しますが、前述のごとく『三国志』本文中に「魏臺」という語は出現しません。この「魏臺」とは、古田氏が14頁に挙げる通り『魏臺(雑)訪議』のこと。この書名の「魏臺」が天子のことだと古田氏は主張するのです。しかし、、、
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月13日 午後11時54分

『芸文類聚』に引かれた文を示します。【魏臺訪議曰帝問何用未社丑臈(以下略)】。「帝問」とありますね。「帝」と「魏臺」って、どんな関係?
※遅くなりましたので、続きは明日、、、
おやすみなさい~
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月13日 午後11時57分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo おはようございます。
>古田第四書
『邪馬壹国の論理』ですね。古田氏はこの本の中でも「原文改訂」「手直し」と連呼して刊本文面の「邪馬壹」を是とし、あまつさえ先行論者に対して「知的退廃」という言葉さえ用いています。私の該書その箇所には「古田のこと」と朱書きしてあります。
#古田.
2020年3月14日 午前9時55分

@qi5yohei @kensyou_jikenbo >古田氏に反論できなくなっていた
古田氏の本をもっぱら読んでいる人には、そう感じられるでしょう。しかし、ご案内の通り昭和50年代から、多くの批判・反論が出されています。それに対して古田氏は論点をずらした反論をするばかりです。諸氏は恐らく反論しても無駄だと悟ったでしょう。
#古田.
2020年3月14日 午前10時3分

昨日、『通典』の「物故之義」についてご案内しましたが、原文は以下のとおりです。【尚書曹訪云官寮終卒依禮各有制至於其間令長以下通言物故不知物故之名本所依出高堂崇曰聞之先師物無也故事也言無復能於事者也】。「高堂崇曰」以下が『魏臺訪議』からとして諸書に引かれる文です。
#古田.
2020年3月14日 午前10時37分

「高堂崇曰」より前の部分を読み下してみます。
「尚書曹は訪ねて云ふ。官寮の終卒(しゅうそつ=死去)するや禮に依りて各(おのおの)制(=制度)有り。其の間、令長以下に至るまで物故と通言するも、物故の名の本(もと)依(よ)って出づる所を知らず。」でいいかと。
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月14日 午前10時47分

あれ?投稿したと思ったけど、、、書いたものがどっかへ行っちゃった?
気を取り直して、、、つまり「魏臺」とは「尚書曹」のことなんですね。「尚書」については辞典にも載っているかと、、、「曹」は部局のことです。古田氏の「天子一人」説は否定されます。
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月14日 午前10時59分

三木太郎氏も古田氏と同じように『三国志』中の「臺」の全用例について検証しています。『季刊邪馬台国18号 198年冬号』58頁からの「『三国志』の中の「臺」の用例と字義」です。三木氏の論証は詳細で、古田氏の摘出に漏れた「築臺」についても言及します。
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月14日 午前11時10分

一寸補足を。『通典』からの引文に「高堂崇」とあり、『魏臺訪議』の「高堂隆」と一字違いますが、同一人物です。これは唐・玄宗皇帝の諱・隆基の「隆」を忌諱したものですね。
#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古田.
2020年3月14日 午前11時22分