「和田家文書」年表

この表は概ね、私が以前作成した「「猪垣裁判」過程での偽書論争」に至るまで、あるいはその後の若干の推移を含めて「和田家文書」そのものと関連書籍等について年表としてまとめたものである。また、「昭和24年和田親子発見の場所に関する諸書の記載」との重複は出来るだけ避けた。

年次 事項 出典 発言者 備考
昭和15年6月27日 和田長作死去 48
昭和二十二年夏 和田さんの話しでは、昭和二十二年夏に天井裏から文書が落ちてき て、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せ たということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二十四年編集完了、二十六年発行)に掲載されていますね。 9 古賀 佐藤堅瑞へのインタビュー
昭和22年8月(1947) 青森県五所川原市飯詰字福泉の和田元市家に於いて、真夜中、天井から大きな挟箱が落ちてきた。天井裏を調べてみると、その他にも鎧箱や船荷箱が麻縄で吊されていた(和田喜八郎弁) 47 和田
昭和23年6月(1948) 和田喜八郎、魔神山法蔵洞発見。(藤本光幸ノート「魔神山法蔵洞発掘」No1より) 47 藤本
昭和二十四年 梵珠山系魔神山麓、糠塚沢付近で炭焼釜を造築中、偶然にも洞窟を発見。その中を探索した所、種々の仏像、仏具、護摩器等を見つけ、それらの中に太い竹筒を細い糸で幾重にも巻き、漆で塗りかためた経筒があり、この中から多数の修験宗の資料と共に金光上人に関する資料も発見されたものだと、されて居ります。 1 藤本
昭和二十四年 洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返 さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められま した。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のこと を知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そう いうことをおっしゃるのか、はっきり示してくだされば、いくらでも反論できます。ただ、こうじゃないだろうか、そうじゃないだろうかという憶測や、安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。
9 佐藤 佐藤堅瑞へのインタビュー
昭和二十四年七月 そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんで す。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩 の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二十四年七月でし たから、その後のことですね。

−−佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

 そばまでは行きましたが、見ていません。

−−開米さんは洞窟に入られたようですね。

 そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。
9 佐藤 佐藤堅瑞へのインタビュー
昭和廿四巳丑年霜月 『飯詰村史』付録・開米智鎧「藩政前史梗概」「自序」 開米
昭和24年
(1949)
・和田元市父子、梵珠連山のある場所から、木皮120枚・銅板48枚等発掘。(福士貞蔵「郷土資料蒐集録」より)
・和田元市父子、梵珠山糠塚沢付近の洞窟より、役行者・金光上人関係資料を発見。(7月) (開米智鎧『飯詰村史』『金光上人』より)
※『東日流六郡誌全』あとがき(和田喜八郎)では、昭和23年夏とする。
47 和田 「郷土資料蒐集録第拾壱號」福士貞蔵 書写年次 1948〜1949年
昭和二十五年八月二十九日 長勝寺三門(中略)黒枝技官が調査のために来弘し、昭和二十五年八月二十九日に国重要文化財として再指定されたものであります(現弘前博物館宮川慎一郎係長の言)。この時、黒枝技官の来弘を聞いて『飯詰村史』編輯に協力していた和田氏は、当時の飯詰村長中谷氏及び中谷助役、開米智鎧師共々、宿泊先である弘前市石場旅館に黒枝技官を訪ねて、発掘物の鑑定を依頼していると云う事実があり、この事は昭和二十六年以前に和田氏が『飯詰村史』編輯に積極的に協力している事を如実に物語っているのではないでしょうか。 1 藤本
昭和二十五年十一月記す 津輕考古學會『役小角の古墳發見について』
昭和25年
(1950)
弘前市長勝寺三門の国重要文化財申請に伴う調査のため黒枝技官来弘。宿泊先弘前市石場旅館に、当時の中谷飯詰村長・助役・開米智鎧住職・和田喜八郎が訪ね、発掘物の鑑定を依頼。黒枝技官より盗品扱いをうける。(7月頃) 47
昭和廿六辛卯年田草月 『飯詰村史』付録・開米智鎧「藩政前史梗概」飯詰村長・中谷彌八郎「序文」 中谷
昭和26年
(1951)
開米智鎧、役行者研究を脱稿(1949年)。発刊(1951年) 47 『飯詰村史』「藩政前史梗概」・・・役行者とその宗教 開米智鎧
昭和26年11月・12月 『浄土』合併号に「阿波之介の舎利塔」と題して、当時岩手教区長の、昆野秀賢氏が詳しく述べられているので 13 佐藤
昭和廿七壬辰文月起筆 福士貞蔵『郷土史料異聞珍談』「はしがき」 25 福士
昭和27年8月14日 筆写の悩みは、発見者の和田喜八郎君がいぜんその貴重な資料をあからさまに提供しないことであって、年代的にいっても、またもっと他学説対照にも力となるべき掘り出された木皮の書が充分研究できぬところから行き詰まりを来している状態であって、和田君の積極的な解決意志をのぞんでいる。 24 開米
昭和二十八年癸巳年梅見月 福士貞蔵『郷土史料異聞珍談 続篇』「続篇について」 福士
昭和二十八年癸巳年文月 福士貞蔵『郷土史料異聞珍談 続々篇』「続々篇について」 福士
昭和二十八癸巳年霜月中旬 福士貞蔵『郷土史料異聞珍談』「巻頭に小言をおくる」 26 中道
昭和二十年代の後半 −−和田さんは「忍海」という法名をもらって、「権律師」の位 だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

 正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂 を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位 を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

−−それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二〜三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

−−佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

 淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

−−量はどのくらいあったのでしょうか。

 あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さ んの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそ うだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

−−和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写 していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写 されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。

 そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
9 佐藤 佐藤堅瑞へのインタビュー
昭和二十九年二月十四日 ・・・飯詰村・・・農業和田元市さん(五五)同長男喜八郎さん(二六)親子は昭和二十四年七月同村東方の飯詰山中で炭焼窯を造ろうとして土中を掘り返したところ相当大きい石室を発見、発掘の結果仏、神像をはじめ仏具経木を利用した古文書などが出土した。出土品は本邦の原始宗教につながりのある全く珍しいものとされているが、同親子は出土品と場所を公開することを極端に拒否したためその真偽をめぐって関係者から興味を持たれていたが、初の出土品の公開が十二日午前十時から同村大泉寺で行われた。 29
昭和30年12月5日 佐藤堅瑞『金光上人』浄圓寺発行 佐藤
昭和三十一年 (『末法念仏独明抄』について)素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三十一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。 9 佐藤 佐藤堅瑞へのインタビュー
昭和三十一年度より三十二年度 たまたま右の発見されたる古文書を研究中これから左記にあげる金光上人に関する古い資料がでてきたのである。早速小生を呼び共に整理し、書写した次第である。開米上人はその資料を宗報に発表されたが、私は更に資料を中心に私の推考を以下記することゝした次第である。 21 佐藤 133頁
昭和三十一年四月二十三日から二十七日 中川大僧正は、弘前市新寺町西光寺の法要に招かれ、二十三日には、開山金光上人の七百四十回忌の法要にあたり、本堂に溢れた善男善女に対して“金光上人の昔を偲びて”と題して、声をふるわせ、涙にむせび乍ら獅子吼なされた。 21 佐藤
昭和三十一年四月三十日 中川大僧正、大泉寺開米上人と親交あったため、同寺を訪れし際、左記の金光上人の古き資料を拝見致し、感激のあまり、自房に帰られてから、、早速これを謹写致し(中川僧正の芳書によると三十数枚)増上寺椎尾大僧正台下をはじめ、浄土宗の諸大徳に贈っている。(私もその一枚を僧正から頂いている。) 21 佐藤 133頁
昭和三十一年五月 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』序文・中村辨康僧正「佐藤氏の「金光上人」に寄せて」
昭和三十一年七月五日 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』序文・椎尾大僧正法主「序文」
昭和31年
1956
佐藤堅瑞(柏村浄円寺住職)、飯詰村大泉寺住職開米智鎧より、金光上人関係資料を見せてもらう。 「郷土史料異聞珍談」福士貞蔵(1956年)
昭和三十二年元旦 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』自序
昭和三十二年正月 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』序文・宗会議員沙門泰宣議員「序文」
昭和三十二年一月 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』序文・青森教区宗祖七百五十年御忌事務局・工藤昌瑞「序文」
昭和参拾弐年七月頃 月影抄は極く最近和田喜八郎氏によって発見された貴重な古文書である。 20 佐藤
昭和三十二年頃 金光上人の研究』脱稿 9 佐藤
昭和三十五年一月 淨円寺佐藤堅瑞師、殉教の聖者『金光上人の研究』発刊

金光上人の研究』で和田家史料を紹介。そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小 角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べ ましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや 『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
1/9 藤本/佐藤
昭和35年
(1960)
『金光上人の研究』佐藤堅瑞(1960年1月)
昭和三十六年 藤本光幸、和田喜八郎と出会う。
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昭和三十六年の秋、八戸市十王院高橋松海師が火傷をされ、藤崎町福井医院で入院治療をして居りましたが、丁度病院の隣りが攝取院であった関係上、宗祖法然上人の御忌の日の御説教で、金光上人が「奥州皆浄土化」を御遺言に、宗祖の教えを如何に東北の地に布教されたかを説かれました。
 その後の親和会で、僻地津軽地方に於ける金光上人の念仏弘通のための御苦心を伝える古文書が、飯詰大泉寺の開米智鎧師のもとに保存されてある事に話が及び、それによって攝取院成田教淳師、佐藤末太郎氏、加福喜一氏、私藤本光幸が大泉寺を訪れ、和田喜八郎氏が発掘された古文書の数々、ガンダーラ佛の様な釈迦苦行像、アトラス神像、護摩器等を拝観すると共に、この日初めて大泉寺に於て和田喜八郎氏に出合ったものでした。
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以上述べました様に、私と和田喜八郎氏との最初の出会いは昭和三十六年の事であります。しかし、この頃はまだ『東日流外三郡誌』の存在を知りませんでした。
1 藤本
昭和三十六年 私と和田氏の出会いは昭和三十六年の事であると前回述べました。しかし、その後、幾度か和田氏と会って資料発見後の経過等を聞きましたが、この頃はまだ『東日流外三郡誌』の事は話してくれませんでした。     2 藤本
昭和三十六年ころ? 開米氏の『金光上人』を出版する事になって、その原稿の中に天真名井(あまない)宮の事項が出て来ましたので、私の姓は藤本ですが、父(幸一)が天内(あまない)家から藤本家に養子に入って居る事、私が小学生の頃、天内家の祖父から先祖が宮様であった事、山伏屋敷と云われて山伏の出入りが常にあった事、屋敷の中に茶の木が栽培されてあった事など、私の先祖が天真名井宮である事を話しました所、和田氏から私に渡されたのが“天真名井家関係資料”でした。そこでその後、整理研究したのが“天真名井家文書”なのです。
 最初、私は“天真名井家文書”と『東日流外三郡誌』とは全く別々の資料と考えて居りましたので、北方新社刊の『東日流外三郡誌』にも明白に“外三郡誌”と表題のあるものに書かれてある資料のみを第四巻に掲載したものです。
父方の実家に於ても、祖父が先祖は宮様であったという事しかわからず、どの様な宮様で、どの様な事績があったのか等は全く知られていないと云う有様です。わずかに数本の刀と大きな鈴が一箇遺されて居るだけでした 。そこに“天真名井家文書”が出て来たのです。私も自分自身のルーツに関連のある資料の出現ですので、全く夢中になってその研究に取り掛かった次第です。
2 藤本
昭和36年秋
1961
藤崎摂取院住職成田教淳、檀徒佐藤末太郎・加福喜一・藤本光幸、大泉寺を訪ね、住職開米智鎧と和田喜八郎に会う。 47
昭和三十六年から三十七年にかけて 和田喜八郎氏の所から“天真名井家文書”“高楯城関連文書”がくるようになり、これら資料の整理研究を進めている所に 3 藤本
昭和三十六年から昭和三十八年にかけて 調査研究してゆくと、資料に書かれてある事柄は、祖父の家屋敷の地形と全く合致するし、その他の事項でも調査事項と合致するものが多々ありますので、昭和三十六年から昭和三十八年にかけては“天真名井家文書”の整理研究に打ち込みました。
 そして、“天真名井家文書を整理しているうちに、それらと平行して飯積高楯城 藤原一族関連の資料が来る様になりました。後に判明した事ですが、文明十二年(一四八〇)に天真名井宮が北落、東日流に下幸して南朝系の忠臣藤原藤房公子孫の朝日左衛門尉の高楯城に御成幸した事は当然のことと考えられます。
2 藤本
昭和三十七年頃 “天真名井家文書”と“高楯城文書”が大量 に私の所へ持ち込まれました。 2 藤本
昭和三十八年 “安東氏関連文書”が出て来たのですが、最初はそれも『東日流外三郡誌』の表題のない断片的なものばかりでしたが、今まで全くと云って良い程、敗者の側即ち安東氏側から見た資料がなく勝者の側からの資料が多く残って居った為、私にとっては和田氏が持参する全てが、大変貴重な生の資料でした。

 従って、この頃は天真名井宮一族、高楯城藤原氏一族、安東氏一族の調査研究を並行して進めて居り、和田氏の五所川原市飯詰へは足繁く通って、行く度に安東氏関連の資料のないことと、和田氏の資料の貴重なこと等を説明した所、遂に『東日流外三郡誌』と表題のある安東氏関連文書がくる様になったのです。
 しかし、一巻目から順序よく持参する事はなく順不同であり、しかも冊子本あり巻子ありで、最初はその全貌を把握することが出来ませんでしたが、和田氏からは膨大な量の資料群である事は話されて居りました。
3 藤本
昭和三八年 東日流外三郡誌』(和田末吉書写 本)が初めて私のもとへ和田氏によって持参されましたが、当初はそれが三百六十八巻もの量 であることを知りませんでした。和田氏は五、六巻(冊)ぐらいずつ持参し、一度に大量 に持って来るということはありませんでした。それも一巻目から順序に持って来るということもなく、順不同の状態です。
 後に判明したことですが、膨大な数量ですので、上の方から手当り次第に持参したものであり、しかも和田氏自身、この頃から地元である高楯城の事、安東一族の事、藤原一族の事等に関心を持ちはじめた様で、一応自分自身で読み終ったものを私の所へ持ち込んだものの様でした。
4 藤本
昭和三十八年三月二十五日 開米師は和田氏からの新資料の提供に力を得て、爾来十有余年ひたすらに金光上人の研究に没頭。老齢にもかかわらず昭和三十八年三月二十五日に至って、漸々首尾一貫した金光上人の伝記及びその宗義を完成、脱稿されました。その後、和田喜八郎氏は、新資料の中から攝取院関係の一書を持参し攝取院に寄進されて、開米師の労作出版に対する応援方を攝取院檀信徒に懇請しました。
 これを聞いて攝取院責任役員藤本幸一(私の父)は一日、飯詰大泉寺に開米師を尋ね、開米師の生涯かけた研究をこのまま埋もれさすにしのびないとし、さらに金光上人にゆかりの深い寺々の人達で金光上人の御遺徳を世に発表出来る事、また昭和四十一年の金光上人七百五十年大遠忌を迎えるにあたって、開米師の『金光上人』を記念出版出来るのも、何かしら前世からの因縁に依るものであろうと、出版資金の提供を申し出たのです。開米智鎧『金光上人』序文・浄土門主総本山知恩院門跡・岸信宏
1 藤本/岸
昭和三十八年七月中浣 金光上人の遺跡の一つである正中山梵場寺は或は大中山梵寿寺といわれているが、その跡を今は梵珠山と呼んでいるとのことである。その山の洞窟の中から近年多くの古文書が発見せられたのである。それは修験道に関する文書が多いのであるが、その中に金光上人に関するものが含まれているのである。これらの古文書の真偽については学界では幾多の疑問が持たれているようである。私は昨三十七年九月に青森市油川の浄満寺の五重相伝に巡錫の際に、藤崎の摂取院の檀家で金光上人の研究グループ佐藤未太郎氏らの来訪を受けて、その古文書の一部を見せてもらったことがある。これらの古文書は五所川原市飯詰(いいづめ)の和田喜八郎氏が梵珠山の糠塚の沢という所で、炭焼の釜を掘っている内に洞窟をほりあて、その中より種々の古文書、陶器、銅器などを発見したとのことである。これらの古文書類は今五所川原市の大泉寺に保管せられ、住職開米智鎧師によって整理研究せられているのである。前記佐藤堅瑞師の「金光上人の研究」の中にもこの新出の古文書が素材となっているのであるが、開米師は多年の研究により、この新出の古文書を中心にして、首尾一貫した金光上人の伝記「金光上人」を刊行せられることとなったのである。本書の資料となった新出の古文書は本書の付録第一に収録せられてある。古来の伝説を書き記して残されたと思われるこれ等の新出古文書類の史的価値については学者の批判に俟つべきであるが、それ等の古文書類が伝説を通して今日世に出るようになったことには住意(hy注:注意カ?)を払うべきである。従来その行蹟を審らかにすることのできなかった金光上人の東奥に於ける伝歴が、先の佐藤師の「金光上人の研究」に於て、又今回の開米師の「金光上人」に於て、段々と解明せられるようになったことは宗門にとってもうれしいことである。昭和四十一年には金光上人の七百五十年の遠忌を迎えるのである。好箇の記念出版というべきである。 22 昭和24年和田親子発見の場所に関する諸書の記載」参照
昭和三十八年 夏の一日 和田喜八郎氏と共に私達が水沢と呼んでいる古密教系の奥院と考えられる寺院跡に参詣しました。この時、初めて和田氏は私達に水沢の洞窟を発表し、入口を掘りました。その時、内部に貯えられた大量の水が奔流となって流れ出し、その流れの中に数枚の書紙が混入して居りました。それを丹念に拾い集めて自宅に持って帰り、一枚ずつガラス戸に貼って乾燥させ、読んで見ました所、全く驚嘆してしまいました。
 そこに出て来た書面の内容は阿弥陀経と安東氏関係の事項なのです。 
 私の出生地藤崎町は安東氏発祥の地であり、その本城のあった土地ですので、私が安東氏についての研究を始めたのは大学生の頃の昭和二十五年頃からの事ですが、その頃は津軽の歴史は津軽藩祖津軽為信にあると云う事で、青森県の歴史も縄文から戦国時代以降の近世史と云う様な状況で、古代中世の歴史は全く曖昧模糊たる有様でした。
 従って、中世史の覇者安東氏も全く歴史の表面に出て来ることは無く、その資料も乏しくしかも断片的であったが、さすが安東氏の居城地であったので私の町には大正四年(一九一五)十月発行の『藤崎城誌』藤井秀世著と云う本がありました。しかし、この書も藩政期以降の事はよくわかりますが、それ以前の事項になると断片的で辻褄の合わない点が多々見受けられます。そこに安東氏関連の文書が現れたのです。
 先に述べた天真名井宮にしろ藤原藤房にしろ、藤崎に本拠を置く安東一族を頼って都から落ち延びて来たものでした。安東一族自体、今までの正史に出て来る事なく青森県の歴史も南北朝から室町期にかけては暗黒の闇に包まれて居った頃ですから、維新の三房の一人とされる“藤原藤房”ですら後半生は不明とされて居ります。
 その様な天真名井宮、藤原藤房一族の関連文書が出現したのに、肝心要の安東一族の文書がなかったのです。そこに安東一族関連文書が出て来たのです。
 早速、私は天真名井宮、藤原一族、安東一族の関係をそれまでに調査研究し、知っている限りを和田氏に説明しました。和田氏がその後、私の所へ持参してくる様になったのが『東日流外三郡誌』でした。
 先に発刊された北方新社版『東日流外三郡誌』補巻の“天真名井家文書について”の文で「原資料の保持者和田喜八郎氏と私の出会いは今から二十三年前の昭和三十八年の事でした。」と述べましたが、和田氏本人との出会いは昭和三十六年の事ですが、『東日流外三郡誌』との出会いが昭和三十八年の事であり、昭和二十五年頃から安東氏の研究を始めていた当時の私にとっては『東日流外三郡誌』即和田喜八郎氏であり、それ程に『東日流外三郡誌』との出会いは衝撃的な事であった訳です。
和田氏は金光上人関係資料が出てから、当初は天真名井家文書、高楯城文書(藤原一族関連文書)を主力にして持って来て居ったのですが、その後は『東日流外三郡誌』を主として資料を持参する様になり、私も『東日流外三郡誌』、天真名井家文書、高楯城文書を互いの関連もある事であり、並行して整理研究調査を進めました。
 所が、それらの文書の研究調査を進めるに従って、驚くべき事に私の町藤崎、和田氏の五所川原市飯詰、十三市浦村、西海岸一帯(深浦町)から津軽地方は云うに及ばず、青森県全域、秋田地方、岩手地方、更には北海道南函館地方から松前、上ノ国、江差にかけて地形、地名、神社、仏閣、伝承等々、書かれてある事項と一致する事が多々出て来ました。これ等の事を和田氏が全て偽作したとて出来得るものではありません。
3 藤本
昭和38年
(1963)
藤崎町金光山摂取院金光上人750年大遠忌記念事業として『金光上人』を刊行する。(「金光上人」編纂委員会委員長藤本光幸)
・藤本光幸、金光上人資料中に天真名井宮関係記事のあることを知り、喜八郎に資料の提供を求める。
・宮関係資料の中に安東氏関係資料が混じてくることがあり、安東氏関係資料も提供を求める。
47 『金光上人』開米智鎧(1963年9月)
昭和三十九年二月 開米智鎧『金光上人』序文・大本山増上寺・法主・椎尾弁匡 23 椎尾
昭和三十九年九月二十五日 出版発行されたのが『金光上人』であります。 1 藤本
昭和三十九年 むしろ、この頃和田氏は一番経済的に苦しんでいた頃で、東京へ出稼ぎに出かけて居り、『金光上人』が出版された昭和三十九年には東京に在住して居り、在住先に出版された『金光上人』を私が送本した事を良くおぼえて居ります。 1 藤本
昭和四十年頃までに 約百巻(冊)程が持参されましたが、その中の一巻に『東日流外三郡誌』は全部で三百六十八巻あると記されて居り、それによって、はじめて『東日流外三郡誌』の全貌がわかった次第です。その後、昭和四六年頃までに約二百巻程が和田氏によって持参されました。 4 藤本
昭和四十年十月 飯詰の和田氏宅へ頻繁に通っているうちに高楯城の関係者である木村実氏、長峰繁正氏、今集次郎氏、山口貞治氏、中野金一氏、角田義雄氏、柳原与四郎氏等と知り合う様になり、昭和四十年十月に第一回目の会合をもって 3 藤本
昭和40年頃
(1965)
和田喜八郎、藤崎摂取院関係者佐藤末太郎・加福喜一・藤本光幸を洞窟に案内する(水沢の窟、金井城の窟)。入口より岩戸遮断地までその先は未踏。(藤本光幸談)
※『東日流六郡誌全』(1987年)の和田喜八郎記事「昭和22年同志4人とともに中山連山の山沢の踏破・・・」に添付の写真はこの時のもの。
※昭51年刊『市浦村史資料編中』グラビア写真は、金井窟での藤本。
47 藤本
昭和四二年頃から 和田氏の地元で、高楯城の関連文書が発見された事から、高楯城に関係のある人々、即ち木村実氏、角田義雄氏、今集次郎氏、長峰繁正氏、山口貞治氏、柳原与四郎氏、中野朝義氏、中野金一氏、中野正明氏、和田喜八郎氏、それに私が入って高楯城史跡保存会を結成し、高楯城を破壊から護る為に、土地の買収と共に関係文書の整理研究に取り掛かったものでした。その時に出てきたのが『角田家秘帳』なのです。 4 藤本
昭和四十二年三月 飯塚平次氏を会長として高楯城史跡保存会を発足させたものでした。 3 藤本
昭和44年 藤本光幸氏宅で「角田家秘帳」が出てきた。この件について角田一義氏は野村孝彦氏へのハガキの中で次のように述べている。
前略 過日御依頼のあった件 資料の出展先について、藤本氏にTELにて確認致しました所、和田氏所蔵の資料より発見したものとの事でした。自分は新聞等に掲載されている通り、藤本氏所蔵のものと考えて居りましたので、意外な感を致して居ります。大変遅くなりましたがご報告まで。早々
10 角田
昭和四十四年九月 角田義雄氏宅から藤原藤房卿御像が発見されたと報告があり、史跡保存会の一同で大いに喜んだものでした 3 藤本
昭和四十四年二月から昭和四十八年八月までの間 この頃、高楯城史跡地の土質がスナ地盤であることに目を付けた土建業者が史跡地を買収して土を採る計画があるとの情報が入り、史跡保存会では会議の結果、史跡地を守るために昭和四十四年二月から昭和四十八年八月までの間に、史跡地の主要部分を土地所有者個人から買い上げて史跡の保存を計ることに努力し、その結果、高楯城の地形をほぼ原型のままの姿で残す事が出来たわけです。 3 藤本
昭和四十五年四月二十六日 “高楯城史跡保存会”が“高楯城史蹟保護会”に改組され、高楯城に直接関係のない地元の人々が多数会員になるにつれて情況が変化して来ました。私としては出来るだけ手を加えずに史蹟としての保護をしたかったのですが、地元の人達は、これを観光資源優先に結びつけたかったようなのです。
 高楯城趾には日清日露戦役、支那事変、太平洋戦争の忠魂碑が以前から建って居ります。その遺族の方々の希望で、高楯城の戦没者を含めた供養を兼ねた資料館を西丸跡地に建てたいと云う希望が出て来たのです。
3 藤本
昭和四十六年頃 『季刊邪馬台国』五二号に、“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”との表題で、ニュースソースはすべて匿名という、およそ学術雑誌とは思えぬ 内容で、虚偽記事が掲載されている。 『東日流外三郡誌』に最も深く携わった者の一人として、ここに真実の歴史、同誌公刊のいきさつを明らかにしておきたい。
 『東日流外三郡誌』公刊の件に関しては『季刊邪馬台国』五二号一一〇頁に藤野七穂氏が述べて居られる

「“和田家文書”が世に出る契機は、昭和四十六年の市浦村長・白川治三郎氏の発意になる村史編纂事業に端を発する。村史編纂委員長の山内英太郎氏が史料の収集に奔走するうちに和田喜八郎氏と知り合い、その家蔵の『得難い貴重な史料』を提供され、通史編に先立って、資料編の刊行に踏み切ったのである。この『得難い貴重な史料』というのが『東日流外三郡誌』だったのである。」

と云う事が本当の事実である。
6 藤本
昭和四六年 昭和四六年に『東日流外三郡誌』約二百冊を見た− − 戦後偽作説を否定する新証言

たしか昭和四六年(注1)の 年で、私は当時、北海道史の編集委員をやってまして、調査で歩いた時に市浦村に行ったんです。その時に山内英太郎という(市浦村史)編集委員がおりまし て、その人が「実は今日、和田さんの家から『東日流外三郡誌』という貴重な史料を借りてきたんで、これからいろいろ調べて村史資料編を作る考えでおりま す」というような話がありまして、その時に私は原本を見せてもらいました。おそらく二百冊から三百冊ぐらいが、だいたい七〇センチの長さ、幅が五〇センチ くらいの木の箱に入っていたと思いますが、それを見せてもらいました。
 それを私が見せてもらった時に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
 それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
 それから書体が明治以降のものであろうと考えまして、『東日流外三郡誌』は、内容は非常に古いことは書いてあるけれども、これはそんなに古いものではないだろうというふうな判断をして、その後、その問題は研究はしなかったということです。
 
−−『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。
 
 市浦村の村役場の中です。

−−数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。

 はい。

−−それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。

 はい。

−−たとえば、戦後になって最近書いたものだとか、

 いや、そういうふうには感じません。

−−そういうふうには見えなかったということですね。

 はい。

−−その時、どなたか他に一緒に見られた方はございますか。

 村役場の編集室というのは、なにか総務課の係の後ろの方にありまして、みんな机を並べていましたから、そこで話していましたから、特別な編集室という形を作っていたようには思いませんでしたけど。

−−見られた物には『東日流外三郡誌』という名前が文書の表紙に書かれていたのでしょうか。

 たしか書かれていたと思いますね。ですら山内さんもそのように言っておられたんだろうと思いますし、行った時も『東日流外三郡誌』という、市浦に関する記録だというようなことを言っていました。

−−墨とかの問題から見ても明治大正のものと言ってもよいのでしょうか。

 まあ、大正の頃はどうか。私はやはり明治の後期だろうと思います。

−−まかり間違っても昭和とか戦後は有り得ないということでございますか。

 戦後はまずないでしょうね。

−−ようするに、明治期の文書であるということは、まず動かない、ということでございますね。

 はい。

−−どうも本当にありがとうございました。
13 永 田
昭和四十六年の秋頃 和田氏から発掘調査の費用を出してほしいと申し出たこと。

 この話は村にもちかけられたこともないし、従って公費を出す訳はない。
 他の五〜六人のひとが、また藤本氏が多額出資したと言うことも聞いていない。その後秘宝が出ないからと言って、和田氏といざこざがあったと言うことも聞いていない。
 また、村では秘宝探しの発掘もしていないから、和田氏を追及する根拠もない。 

東日流外三郡誌』と市浦村関係者が名付けたと言うこと。

 『東日流外三郡誌』を初めて見たのは、昭和四十六年の秋頃と思う。場所は市浦村役場の村長室です。資料は一冊がコピーされてから次の一冊が届けられるので、日数の間隔はかなり費やされている。その都度一冊ずつ、全部読み切らず断片的に見ていた。
 私の記憶では最初から史料に『東日流外三郡誌』と書かれていたと思う。

秘宝探しに公費支出した責任逃れの為、『外三郡誌』を刊行したと言うこと。

 資料(『東日流外三郡誌』)はこれまでの日本史に書かれなかった、安倍安東氏にまつわる極めて貴重と思われる内容が多く、これを一般 に公開して世論を喚起し、その真偽の程を学者の研究にゆだねると共に、安倍安東氏の政策の根底には、混迷せる国際情勢に於てこれからは真に平和な国際社会 醸成の為の人権確立や、正しい宗教観が貫かれていること等を世に喧伝したいという目的があった。責任逃れ等とは、とんでもないことだ。

仏像その他出土品を分けた話。

 村として秘宝発掘の事実はないし、他にも仏像その他発掘による出土品のことは全く聞いていない。従って、これらを出資者が分けたと言う話は全く根拠がない。

[編集部]
 白川氏は市浦村村長を三期十二年務められており、今も御健在である。昭和四六年、村長就任以来、村史編纂にとりかかられたのも幼い頃より福島城趾や唐川 城趾等にまつわる伝承を聞かされていたが、詳しいことは謎に包まれたままなので、土地の古老が存命中にできるだけ記録を残しておきたかった為と言う。故山 内英太郎氏を役場職員として調査研究に当たらせたのが、村史編纂の始まりで、程なくして『東日流外三郡誌』が拝借できるようになり、この豊富な資料を放置 しておくのが勿体ないと考え、村史資料編として刊行することに踏み切られたのである。
 秘宝探しのために公費を支出したなどという『季刊邪馬台国』の記事は、事実無根の中傷である。村の公費支出が事実ならば、記録が残されているはずであ る。議会の承認がなければそのような支出を村長個人で決められるものでもない。『季刊邪馬台国』の虚偽記事は学問とは無縁、全くの無責任編集と言わざるを 得ないのである。
12 白川 「古田史学会報」に掲載された「白川証言」について、当の白川氏自身が後にニュアンスの違う話をしている。次行参照。
昭和46年の秋頃 当時から『東日流外三郡誌』が和田喜八郎氏の筆跡でないかという人がいたし、本当のものかどうか分からないけれども、ともかく刊行して、その真偽については学者先生に判断してもらおうと思い、村起こしの意味からも刊行に踏みきったんです。そう、市浦村史をつくるために和田喜八郎さんから出てくる資料のコピーのために数百万円は支払ったと思います。
『古田史学会報』には文書で回答したんですけれど、(掲載されたものは)ニュアンス的に違っていて、何か都合よくまとめられたという感じです。だけども、私は歴史家でもなんでもないので、あんまりこだわってはおりません。和田喜八郎氏が、いろいろいといい加減な古物を売っているということは、まあ本当でしょう。どこからか仕入れたものを売っているとも聞きました。彼にはそんなこと言うと怒るから言わんだけです。
17 白川 115頁
昭和48年12月25日 『車力村史』刊行 7 東日流外三郡誌」の一部が引用され、これが市浦村史資料編の刊行を急がせた理由と言われる。
昭和48年
(1973)
和田喜八郎、市浦村日枝神社に「宝剣額」初見。同道者青山兼四郎・市浦村教育委員会の方々。 47
昭和五十年四月 市浦刊『東日流外三郡誌』は上巻が昭和五十年四月に発行され 5 藤本
昭和50年〜52年
(1975-1977)
藤本光幸預かりの「東日流外三郡誌」200巻程の中から約100巻を市浦村に貸し出す。 47 『市浦村史資料編』上中下巻、年表(1975年10月〜1977年)
昭和五十一年十月 “あすなろの家”建設完成、建設関係決算報告書が出され 3 藤本
昭和五十三年 “高楯城史蹟保護会”が社団法人として五月二日付で県教育委員会から認可を受け、同月十三日には“社団法人高楯城史蹟保護会”として法務局に於て設立登記を終了しました。 3 藤本
昭和55年9月 荒覇吐神社社殿建立 31 和田
昭和55年
(1980)
石塔山神社社殿建立。秋田一季来訪、石塔山に参拝。(9月)
・和田喜八郎、このころからテレビ出演・講演・本の執筆等等話題の人となる。
 テレビ出演:謎のあらはばき王国(NHK教育)
 ぐるっと海道3万キロ(NHK総合)
 みちのく黄金街道(キネマ東京)
47 『高楯城史研究発表』
『東日流蝦夷王国』
和田喜八郎 (津軽書房)
昭和56年
(1981)
藤本光幸、大腸閉塞のため入院手術を受ける。 47
昭和56年5月28日 和田元市死去 48
昭和58年仲春 私は、津軽書房(本社・青森県弘前市)代表の高橋彰一氏から、一綴りの原稿を渡された。これが、「東日流誌」群、または、「和田家文書」との間接的な出会いであり、遭遇であった。 14 山上
昭和58年6月24日 和田喜八郎『東日流蝦夷王国』津軽書房より刊行。 14 山上
昭和58年〜61年
(1983-1986)
藤本光幸、久保宇芽子の来訪を受ける(安倍晋太郎夫人の依頼により「安倍家系譜」を作成。宗任以前を確認のため)。藤本光幸、和田喜八郎を紹介。和田喜八郎、久保宇芽子著「安倍家系譜」を五所川原市立図書館に寄贈。(1986年) 47 『東日流外三郡誌』小舘衷三・藤本光幸編1〜6巻(1983年12月)
補巻(1986年12月 北方新社)
『東日流六郡誌絵巻全』山上笙介編(1987年7月 津軽書房)
昭和58年12月〜昭和61年同上 小館衷三、藤本光幸編『東日流外三郡誌』北方新社より刊行。全七巻 15

32
同上 しかも、和田喜八郎氏自身、北方新社版『外三郡誌』六巻に付された「『東日流外三郡誌』の史料について」では、「開米智鎧氏の編集で刊行された『金光上人』の資料も、『東日流外三郡誌』の上人関係のものを使用したのです」(4ページ)と断言している。 35 藤野 洞窟など土中から金光上人関係の史料が出現したという昭和24年の発見譚と相容れない記述である。
昭和59年3月29日 木村實氏、死去 28
昭和60年12月 和田喜八郎、津軽書房・高橋代表に『東日流六郡誌絵巻』原稿を持ち込む。 14 山上
昭和六十年十二月一日 『東日流六郡誌絵巻 全』巻末 和田喜八郎「『東日流六郡誌大要』について」 31 和田
昭和61年4月10日 『東日流六郡誌絵巻 全』津軽書房より刊行。 14 山上
昭和62年7月1日 和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』刊行/東日流中山古代中世遺跡振興会発行
昭和62年7月1日〜8月31日 「安倍・安東・秋田氏秘宝展」五所川原市立図書館 27
昭和62年7月20日 『總輯 東日流六郡誌』津軽書房より刊行。 14 山上
昭和62年
(1987)
和田喜八郎、「安倍・安東・秋田氏秘宝展」開催。(7月1〜8月31)
秋田一季、安倍晋太郎夫妻来訪。石塔山へ参拝。(7月30日)
47 『知られざる東日流日下王国』和田喜八郎(1987年7月 東日流中山古代中世遺跡振興会)
『總輯東日流六郡誌全』山上笙介編(1987年7月 津軽書房)
昭和63年
(1988)
古田武彦、石塔山を実地調査。 47
昭和64年1月〜平成2年9月 八幡書店刊『東日流外三郡誌』全六巻刊行
平成元年5月12日 和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』増補版刊行/八幡書店発行
平成元年
(1989)
和田喜八郎、衣川シンポジウムに出席。(9月) 47 『東日流外三郡誌』全6巻 東日流中山史跡保存会編(1989年 八幡書店)
『五所川原市と東北古代中世史抄』中山史跡保存会・和田喜八郎(1989年10月)
『東日流六郡語部録』和田喜八郎編・訳(八幡書店)
平成元年11月 『東日流六郡語部録=諸翁聞取帳』八幡書店より刊行 14 山上
平成2年
(1990)
和田喜八郎、シンポジウム報告書を作成。(3月)
和田家天井裏にあった最後の一箱を公開。藤本光幸、資料集刊行のため、一部を和田喜八郎より借り受ける。(4月)
この冬喜八郎、スノーモービルで右腕骨折。
47 『東日流六郡誌大要』東日流中山史跡保存会編(1990年1月 八幡書店)
平成2年6月19日
(1990)
古田武彦『真実の東北王朝』刊行 駸々堂出版
平成2年8月4日〜12日 去る1990年8月4日〜12日の青森県調査行において、私たち昭和薬科大学文化史研究室は多くの学問上の収穫を得ることが出来た。 36 原田
平成3年3月25日 その調査結果は翌平成三年三月二十五日刊の『昭和薬科大学紀要』第二五号に、報告書「秋田家文書における新発見」(古田・原田共著)として掲載された。また、同号には拙論「北辰のロマン派」も掲載されている。さらに、その後も和田氏からは所蔵していた未公開史料が大学あてに幾度にもわたって郵送されてきた。私たちはそれをコピーにとるばかりではなく、同大学の中村卓造教授の協力を得て、顕微鏡写真や電子顕微鏡写真をとり、さらには返送時の受取確認という形で和田氏の筆跡サンプルをも入手したのである。 37 原田
平成3年6月8日 私は日本科学史学会総会(会場・筑波大学)にて、研究発表を行った。表題は「徳川時代の日本に伝来したビュフォンの宇宙論」、内容は和田家史料群に基づきフランスの博物学者ジュルジュ=ビュフォン(和田家史料群における「紅毛人ルイス」)の宇宙起源論が寛政三年ごろ、すでに日本に紹介されていたとするものである。この発表の結果は惨憺たるものであった。他の出席者より、和田家史料群の宇宙論がビュフォンやエラズマス=ダーウィンの時代のものとは思えないほど現代的であり、現代人の偽作としか思えないという指摘があったのである。その発表はたまたま出席しておられた谷本茂氏の助力を得て、ようやく収拾した。しかし、今となっては谷本氏に対するのと同様に、そのさい、和田家史料群への疑惑を表明された出席者の方にも感謝しなくてはならない。 38 原田
平成3年6月18日 古田武彦『九州王朝の歴史学』刊行 駸々堂出版
これを逐一検査する中で、従来の世評に反し、その中に「偽書のおもかげ」の片鱗も見出せぬことに驚いた。もちろん、孝季自身の歴史観の中には、近世の学者としてまぬかるるをえなかった、幾多の誤解は存するものの、その書写・成文の中には、一つとして「みずから、それを史実に非ずと知りつつ、他に真実と信ぜしめとする」ような箇所、その一片さえも発見しえなかったのである。
30 古田
平成3年8月1日 市民古代史の会編『津軽が切りひらく古代』新泉社より刊行。
その偽作説は根強く、和田家史料群の史料的価値が学会一般に認知されるには、慎重な史料批判がくりかえされる必要があるだろう。しかし私たち昭和薬科大学文化史研究室(教授・古田武彦)を中心とする調査の結栗では、従来の偽作説の根拠にはことごとく反証が現れており、かえってその寛政〜文政期成立を裏付ける状況証拠が次々と集まりつつある」(「アラハバキの原像と大元神信卯」)
私もこの時点においては、和田家史料群に筆写時の加筆や後世の編集が加わっているにしても、基本的には真作説の立場にたっていたことは認めざるをえない。しかし、この時点における「従来の偽作説」でもっとも有力だったのは、実は松田弘洲氏による明治期偽作説(昭和六十二年『東日流外三郡誌の謎』、松田氏はその後、現代人偽作説に変更)であった。そして、実際に明治期の人には書きえないような記述が、この時期、和田家史料群から多数見つかっていたのである。
同年九月一日刊の『歴史と旅』九月号に掲載された「みちのくの独立王朝」で、古田氏は和田家史料群から新たに発見された真作説の傍証をいくつか紹介しているが、それはいずれも明治期の文章としては不自然な記述に関するものである。また、古田氏は和田家史料群にあった「ヒサリック」(シュリーマンがトロイの遺跡と見なして発掘したトルコのヒッサリクのこと)の地名について次のように述べている。
「この文書は、十分な『証明力』を持っている。文書の信憑性に対してだ。なぜなら、この文書は、『明治の紙』で、『明治の人(和田末吉)』の筆跡で再写されている。この点、多くの末吉再写文書を見、顕微鏡写真や電子顕微鏡写真を撮影(昭和薬科大学、中村卓造教授による)した、わたしにとって、すでに疑いがたい事実だ。(中略)ところが、シュリーマンがその『名声』を広くわが国の歴史界、.ないし読書界に周知されるのは、敗戦後である。(中略)およそ、『明治の紙』に『明治の人』が“偽作”できる道理はないのであった」(『津軽が切りひらく古代』「はじめに」)
しかし、この論証には重大な盲点があった。それはこの論証において、和田家史料群の筆跡が和田末吉のものであるという前提が置かれていることである。私も古田氏とともに和田家史料群の写本の多くを実見する機会に恵まれたが、その大部分の筆跡は明らかに同一人物のものであった。わずかに他の写本の書体と異なるものも見受けられたが、それとても、他の写本を書いたのと同一人物が書体を変えたといって通る程度の差異である。
したがって筆跡の問題は和田家史料群の真贋を考える場合にまず第一に考えなけれぱならない問題だったのである。紙質はこれに比べると二次的な問題にすぎない。明治期の紙を入手することは現在でも不可能ではないし、写本の中には古い反故紙や出納帳の裏に書かれたものまで含まれていたからである。
もしも、その写本の筆跡が明治の人・和田末吉のものでなければ、明治期の人が知りえないような知識や、明治期の文章としては不自然な個所の存在はかえって、和田家史料群が明治期よりもさらに後代の偽作であることの証拠となりうるであろう。私たちが、和田末吉の確かな筆跡を求めることを怠ったことは認めざるをえない(なお、近年では偽作説の論者より和田末吉文盲説も唱えられている)。
39 原田
平成3年9月1日 「古代ギリシャ祭文」の衝撃
真作説に立って研究を進めていた私たちにとってショッキングな報告がなされたのは、シンポジウム「邪馬台国」徹底論争の直後のことである。和田氏から昭和薬科大学宛に送られてきた未公開史料の一つ、「古代ギリシャ祭文」を古田氏が講演会などで紹介したところ、聴講者の間より、それが岩波文庫『ギリシャ・ローマ神話』(ブルフィンチ著・野上弥生子訳)の引き写しであるという指摘がなされたのである。
その聴講者の一人、水野孝夫氏は平成三年九月一日付『市民の古代ニュース』九七号にて、その問題を報告し、和田家史料群の信憑性に関する疑念を表明している。
41 原田/水野
平成3年9月ごろから 古田氏は、こうした疑問を解明するためには、まず史料の全公開と、保管状況の確立が必要であるとして、同年九月ごろから、和田氏にいっそうの史料公開を望む一方で、史料の受け入れ先となりうる各団体への働きかけ強化した。 42 原田
平成4年(1992) 藤本光幸編『和田家史料T 奥州風土記・陸奥史風土記・丑寅日本記全・丑寅日本史総解・丑寅日本雑記全』北方新社より刊行
平成4年
(1992)
47 『和田家資料1』藤本光幸(1992年8月 北方新社)
平成4年8月8日 四柱神社御神体鎮座式
平成4年10月5日 和田家史料群の現在公開されている写本は明治期以降のものであり、その中には書写者による加筆や編集の痕跡もあるため、その記述のすべてを史実として鵜呑みにするわけにはいかないのである。書写時の加筆などは民間の叢書にありがちなことであり、それを以て偽書扱いにするのは早計であるが、史料操作上の困難が生じることは避けられない。 43 原田
平成4年10月21日 野村孝彦氏、写真盗用・論文剽窃の件で青森地裁に損害賠償請求の民事訴訟を起こす。被告は『東日流外三郡誌』の偽作者・和田喜八郎ならびに、その著書の版元となった八幡書店(同社は『東日流外三郡誌』のテキストも刊行している)である。 17 145頁
平成5年1月頃 古田氏は学内人事について生じたある問題について、研究者生命を賭けると言明していた。私同年二月二十二日付けでファックスと書留にて送った書簡において、研究者生命を賭けるのなら、魏晋朝短里説の正否や和田家史料群の真贋など、もっと重要な問題があるはずだという旨、上申したがそれに対する返事をいただくことはなかった。 44 原田
平成5年3月22日 青森古文書研究会による「和田喜八郎氏の書癖及び同氏が関わった文書等に対する意見書」 16 この間の詳細な過程は「「猪垣裁判」過程での偽書論争」参照
平成5年3月31日 原田実氏、昭和薬科大学辞職。 40 原田
平成5年6月1日 「NHKナイトジャーナル」
平成6年 藤本光幸編『和田家資料2 丑寅日本記 丑寅日本紀 日之本史探証』北方新社より刊行 33
平成6年
(1994)
『和田家資料2』藤本光幸(1994年7月 北方新社) (hy注:左文は引用元では「出版本」の項目にあるも、この表の編集上、この列に表記) 47
平成7年2月21日 青森地裁判決。
平成7年
(1995)
藤本光幸、心臓疾患のため入院。 (hy注:左文は引用元では「出版本」の項目にあるも、この表の編集上、この列に表記) 47
平成9年1月30日 仙台高裁判決。
平成9年12月28日 日本全国に渉って巡脚した一萬冊を超える古文書には更に海を超え「山靼」「オリエント」の古事にもふれて居ります。 11 和田
平成11年1月26日 1999年1月26日、テレビ東京の『開運!なんでも鑑 定団』に、「五所川原市の神主さん」(和田喜八郎のこと)に「古文書」を見せられ、そこに記された宝物の発掘費用ということで130万円を出資したという 人物が登場した。しかし実際には発掘は行われることなく、「神主さん」は代価として遮光器土偶を渡した。同番組では、その土偶が鑑定されたわけだが、結果は「お土産用に作られた模造品」、ついた値段は1万円だった。それも、その人物が騙されたことへの同情込みの金額である。 45 原田/原
平成11年 ・和田喜八郎入院(夏)
・和田喜八郎死去。(1999年9月28日)
・藤本光幸・竹田侑子、和田孝(喜八郎長男)・和田章子(喜八郎長女)より、「和田家文書」借り受けの承諾を得る。(12月)
47
平成11年9月28日 和田喜八郎氏、死去。西村俊一氏の「日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー」によると、「1999年9月28日に突然病死した」と言う。 8
平成11年11月 なお、和田喜八郎のことをはっきり「五流の詐欺師」と呼んだ人物がいる。誰あろう、藤本光幸氏の妹であり、ご自身、「和田家文書」の真作説論者である竹田侑子氏だ。
父幸一は、和田喜八郎を“万十千三つ”と評していた。す ぐにバレる嘘をその場の思いつきでペラペラいう。生前父は“喜八郎は嘘つきだが石塔山は本物だよ”ともいっていた。兄光幸が万十千三つとまるで節操のない 喜八郎を知りながら『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書にのめり込んでいったのは、和田喜八郎の書き得るものではないことを知っていたからであ る。“総四千八百十七冊”と記される和田家文書を書き得るほど、和田喜八郎は天才でも超人でもない。ましてや五流の詐欺師に書き得るものではない。・・・ 和田喜八郎は打てばいくらでも埃の出る不実の人である
46 原田/竹田
平成12年
(2000)
・和田とも子(喜八郎次女)入院手術。(春)
・和田孝入院。(夏)退院10月。
・藤本光幸検査入院。(10月)
47
平成13年
(2001)
・石塔山神社にて、藤本光幸・藤本長伸(光幸長男)。竹田侑子、和田孝・和田章子より文書借り受け。藤本光幸宅へ運ぶ(9月)
・藤本光幸入院。(10月下旬)
・古田武彦、和田家・石塔山神社調査と「和田家文書」確認のため来訪。藤本光幸入院中のため、竹田が同行。
47
平成14年
(2002)
和田孝入院、死去。(9月27日) 47
平成15年
(hy注:17年の誤。以下繰り下げ)
(2005)
・藤本光幸、「和田家資料3」北方新社へ入稿。(8月)
・「和田家資料3」1回目校正途中、藤本光幸死去。(10月21日)
・竹田侑子、兄光幸の仕事を受け継ぐ。
47
平成17年10月21日 藤本光幸氏、死去。享年75 34 古賀
平成18年
(2006)
・『和田家資料3』発刊。(2月)
・藤本光幸家座敷廊下奥書庫に収納されていた文書類の整理中に、一見して寛政原本か、と思える小冊子を見つける。同書庫内にあった文書等も含めて写真・コピーを古田武彦へ送る。(5月)
・八王子セミナーハウス滞在の古田のもとへ小冊子・天内家文書等を含む実物文書30点余を届ける。(11月10日)
・座敷廊下奥書庫に保管されていた文書類の中から、近世文書と考えられるもの数点を追加送達する。(11月25日)
47 『和田家資料3』藤本光幸編(2006年2月1日 北方新社)
平成19年
(2007)
・石塔山神社で借り受けた文書等の整理中に、要注意書としてチェックしておいた小冊子1冊のあることを思い出し、送る。(2月1日)
・雑誌『なかった』発刊。(6月)
・『和田家資料4』発刊。(7月)
47 『和田家資料4』藤本光幸編(2007年7月10日 北方新社)

※「東日流外三郡誌」そのものについては、「七百四十巻余」と記されている(安東一族之故事巡脚」)・・・古田武彦「東北の真実−和田家文書概観」『新・古代学』第1集38頁/1995年。
※「和田家文書」群の全体については、「総四千八百十七冊に多量なれば」(「北斗抄」二十七、記了巻)・・・同上。

【出典】
1 古田史学会報1995年2月26日 No.5「和田家文書との出会い(1)」 藤本
2 古田史学会報1995年4月26日 No.6 和田家文書との出会い(2) 藤本
3 古田史学会報1995年6月25日 No.7 和田家文書との出会い(3) 藤本
4 古田史学会報1995年8月15日 No.8 和田家文書との出会い(4) 『角田家秘帳』模写のいきさつ 藤本
5 古田史学会報 1995年10月30日 No.10 和田家文書との出会い(5) 山王坊発掘調査と『東日流外三郡誌』の一致 藤本
6 古田史学会報 1994年12月26日 No.4 『東日流外三郡誌』公刊のいきさつ 藤本
7 車力村役場刊『車力村史』
8 日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 日本国際教育学会 1999年11月7日 第10回大会報告 (於)京都・同志社大学 西村
9 古田史学会報 1995年6月25日 No.7 インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ 佐藤堅瑞
10 『歴史読本』昭和45年新春特大号「特集わが城わが町 歴史ニュース」 『季刊邪馬台国』52号31頁
11 古田史学会報 1997年12月28日 No.23 「高裁「偽作」裁判勝訴によせて 偽書論をキーワードにした者達に一言」 和田
12 古田史学会報 1995年4月26日 No.6 『東日流外三郡誌』公刊の真実 青森県・市浦村元村長 白川治三郎
13 古田史学会報 1996年10月15日 No.16 昭和四六年に『東日流外三郡誌』約二百冊を見た− − 戦後偽作説を否定する新証言 永田富智(松前町史編集委員)
14 『季刊邪馬台国』55号「『東日流誌』との遭遇と訣別」 山上笙介
15 『だまされるな東北人』258頁/本の森
16 梓書院『季刊邪馬台国』51号18頁〜
17 全貌社『日本史が危ない』 青森県・市浦村元村長 白川治三郎
18 「週刊民友」昭和27年8月14日「嘘か真か飯詰山の秘密 謎秘めて眠る?山伏の開祖 役ノ行者終えんの地? 青年に操られる国宝級遺跡」
19 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』208頁
20 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』288頁
21 佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』133頁
22 開米智鎧『金光上人』「序文」 浄土門主総本山知恩院門跡 岸信宏
23 開米智鎧『金光上人』「序文」 大本山増上寺・法主 椎尾弁匡
24 『週刊民友』昭和27年8月14日号
25 福士貞蔵『郷土史料異聞珍談』「はしがき」 福士貞蔵
26 福士貞蔵『郷土史料異聞珍談』「巻頭に小言をおくる」 中道等
27 『季刊邪馬台国』52号巻頭グラビア
28 『季刊邪馬台国』52号121頁 藤野七穂
29 東奥日報 昭和二十九年二月十四日「五年前、和田親子が発見」
30 古田武彦『九州王朝の歴史学』刊行 駸々堂出版 426頁 古田武彦
31 『東日流六郡誌絵巻 全』巻末 和田喜八郎「『東日流六郡誌大要』について」 和田喜八郎
32 安本美典『東日流外三郡誌「偽書」の証明」平成6年1月15日初版刊行 2頁〜 安本美典
33 『新・古代学』第1集 「東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説」 古賀達也
34 古賀事務局長の洛中洛外日記 第39話 2005/10/25 故・藤本光幸さんのこと 古賀達也
35 『季刊邪馬台国』52号123頁、藤野七穂「現伝“和田家文書”の史料的価値について」 藤野七穂
36 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』12頁/1995年5月25日/批評社刊 原田実
37 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』218頁 原田実
38 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』220頁 原田実
39 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』221〜2頁 原田実
40 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』227頁 原田実
41 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』225頁 原田実
42 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』225〜6頁 原田実
43 歴史マガジン文庫『北方の楽園みちのくの王国』掲載「日本のアトランティス[十三湊]」 原田実
44 原田実『幻想の津軽王国 『東日流外三郡誌 の迷宮』227頁 原田実
45 原田実「『東日流外三郡誌』近年の動向(2005年をふりかえって)」出典『季刊邪馬台国 93号2006年10月』 原田実
46 同上 出典『北奥文化』第20号 竹田侑子「和田家文書は和田喜八郎の書いた偽書ではない―九州安倍宗任伝説をめぐって―」 原田実/竹田郁子
47 「東日流[内・外]三郡誌 ついに出現、幻の寛政原本!」 古田武彦・竹田侑子
48 『日本史が危ない!』89頁 原正壽

■参考サイト:原田実「「秋田孝季」とは何者か?」中の「父親との葛藤?」1998年10月
■#45「出典『日本史が危ない!』冒頭」としていたが誤りに付き、2022/1/27『季刊邪馬台国』へ変更。