■「猪垣裁判」過程での偽書論争■
《1992(平成4)年》
1月16日〜3月12日 岩手県水沢市公民館で、高齢者大学「臥牛館」開催。その中に、和田の講座「古代みちのくの歴史を学ぶ」がある。 その講演用資料が「知られざる聖域 日本国は丑寅(東北)に誕生した」で、俗に「丑寅原稿」と呼ばれる。原稿用紙129枚を4日間で走り書きしたと自身の発言。青森県古文書会による筆跡鑑定の「和田喜八郎自筆原稿」はこの原稿のことである。 『サンデー毎日』93年4月18日号
10月21日 別府市在住の野村孝彦が写真盗用(著作権侵害)で和田と八幡書店社長・武田洋一を告訴。
《1993(平成5)年》
1月6日 高知県紙業試験場・大川昭典による紙質鑑定 野村孝彦様 「安東船商道之事」の用紙について
用紙...萱簀で漉かれた手漉きの紙と思われる。
紙の繊維..楮、木材パルプ(針葉樹.広葉樹)から出来ている。極微量の三椏、稲科の繊維も観察できる。C染色液で染色すると針葉樹パルプは薄い黄色を呈する繊維(未晒パルプ)と薄い紫色を呈する繊維(晒パルプ)がある。
広葉樹が制しようパルプ材として使われだしたのは昭和16年頃から。広葉樹は処理が困難だったため100%の印刷用紙が出来るようになったのは昭和27年4月以降のこと(資料別添)。
用紙にブラックライト(紫外線)を当てると、紙の中に僅かではあるが蛍光を発する繊維も混じっている。(蛍光増白剤は戦後スイス、アメリカから輸入して布や紙に使用され始めた)
これらの事からこの用紙は楮に洋紙古紙などを配合して手漉きで作られたものと思われます。また、広葉樹パルプが検出されることや蛍光増白剤で染色される繊維が混じっていることから戦後に作られた紙と思われる。
虫喰い穴..安永年間の古文書の虫喰い穴は繊維がほとんど毛羽だっていないのに比べ、この用紙の穴は毛羽立ち穴の周りが茶色になり明らかに人為的に作られたものと思われる。(写真)
5.1.6 高知県紙業試験場 大川昭典
51号グラビア
2月頃 安本より古田へ興信所記録送付 野村孝彦の依頼で、株式会社損害保険リサーチ青森が和田の身辺について身上調査をしたもの。古田「和田家の“親族”中、喜八郎氏に反感をもっているらしい人々から、赤裸々というより、悪口雑言といった内容のつめこまれたものです。もちろん、全編“プライバシーの侵害”そのもの、という“代物”で、とてもここに“公開”できるようなものではありません」 第1集149頁
3月22日 青森県古文書会鈴木会長、佐々木副会長による筆跡鑑定結果発表記者会見。 「和田喜八郎自筆原稿」、「安東船商道之事」、「高楯城」関係文書、「大泉寺」所蔵文書、「東日流六郡誌絵巻」抜粋、八幡書店「東日流外三郡誌」抜粋、北方新社「東日流外三郡誌」抜粋のいずれの筆跡も和田喜八郎のものである。 51号
3月23日〜24日 『毎日新聞』『讀賣新聞』『朝日新聞』各青森版で真贋論争を報道。『讀賣』には和田のコメント掲載。 「野村さんとは一度の面識もなく、写真がどこから紛れ込んだかわからない。筆跡については、私はもともと先祖の字にならってふだん字を書いてきたので似ているのは当たり前。紙質についても、以前にこちらで頼んで鑑定した確かな結果が出ている。大体、膨大な文書を私に書けるはずがない」(讀賣掲載、和田コメント全文)。
4月18日 『サンデー毎日』安本「“反皇国史観の異端の史書”『東日流外三郡』はデッチ上げだ」 1.一連の「古文書」に共通の誤字と筆順の誤り。
2.高知県紙業試験場・大川昭典による紙質鑑定の結果、安東太郎宗季の「安東船商道之事」は広葉樹パルプや蛍光増白剤が用いられていることから、戦後の紙であるとの判断。また「安東船商道之事」も他と共通の誤字特徴、筆跡特徴を持つ。
3.年齢三歳で「再筆」「再書」。「東日流外三郡誌」によれば明治十年に和田長三郎末吉の子息で喜八郎の祖父・長作が「東日流外三郡誌」の一部を「再筆」「再書」したことになっているが、和田家の戸籍によると、長作は明治七年(1874)年生まれで、三歳で「再筆」「再書」したことになる。あり得ない話である。祖先の生年・没年が合わないばかりか、名前・兄弟関係まで誤っている。和田長三郎吉次壱岐守や和田りくなど「東日流外三郡誌」の成立に関わったとされる人物は、喜八郎の創作になるとみられる。
4.「東日流外三郡誌」を見れば、ほとんど毎ページといってよいほど、文語文法の誤りがある。係り結びは、ほとんどデタラメといってよく、半数以上を誤っている。
5.1964(昭和39)年に、『金光上人』という本が出ている。この本に、金光上人に関する一連の「古文書」の写真が載っている。この「古文書」の提供者も、喜八郎である。その「古文書」にも、一連の「和田家文書」と共通の誤字が認められる。
178頁〜
5月2日 『陸奥新報』藤本「和田家で福沢諭吉の書簡発見」 「この文書(福沢書簡)について、古田教授が福沢諭吉記念館で鑑定してもらったところ、紙質は明治のものに間違いはなく、筆跡は福沢諭吉の直筆ではないが、善意の書写であろうとの返答が来ている」。(*6) 『サンデー毎日』6月20日号
5月5日 『季刊邪馬台国』51号刊行。偽書説による『東日流外三郡誌』糾弾開始。
5月10日 青森市の五戸弁護士を通じて、和田が報道陣に「古文書」公開。 『武州雑記帳一 長三郎記』など十巻。五戸弁護士「いまのところ、公的機関では鑑定する意志はない」 58号185頁〜
5月20日 『サンデー毎日』古田「“偽書”説に大反論 『東日流外三郡誌』の冤罪をそそぐ」 1.基本を欠いた砂上の楼閣。高知県紙業試験場・大川昭典による戦後の紙との鑑定が出た「安東船商道之事」は、和田に問い合わせたところ、昭和62年開催された「安倍安東秘宝展」の“解説用”に模写されたも(展示場では「模写」と明記)で、同ホテルの寺田義雄社長が展示終了後に「飾り物」に使っていた。
2.電子顕微鏡が映し出す“真実”。大川鑑定が出た後、二片の紙葉(秋田孝季「伊達家関連文書」、和田末吉「北鑑、第七巻」大正七年)を同場に送り、岡崎孝夫試験場長の押印で「(1)伊達家関連文書、こうぞ (2)北鑑(第七巻)、こうぞ 紙試第36号、平成5年5月10日」との鑑定書来る。別紙大川による顕微鏡写真と解説があり、戦後のパルプや蛍光増白剤の痕跡など、みじんもない。
3.冷静な「人間の目」で見る。安本は「展示会用の模写」を鑑定に使った。基礎をなす主要史料が間違っていた上、「筆跡検査」にも、方法上、問題がありすぎるようである。AとB、二つの史料を比べるとき、“変わった字”の書体で比べるのは、危ない。なぜなら、AとBが師弟(たとえば、覚如と門弟)の場合、BはAの「筆癖」を模倣するからである。喜八郎や他の人の場合も、「和田家文書」が「筆字の先範」だったようであるから、同じ種の問題がある。
4.自制を欠く非難はつつしむべき。私は冒頭に「論争」ではなく、「事実の報告」と書いた。なぜか。現在のわたしの関心は、右のような「あまりにも自明」な問題より、他の一点に向けられている。それは「寛政の和田家文書」の調査だ。「明治の和田末吉の写し」の書写原本である。まわたしはこの五年来、和田の所有している原本の研究調査という一点にしぼってきた。それが緒につきはじめているのである。実現したら、すべての「論争」は、無意味となろう。和田家文書の関係者とその一族が健在の今、あまりにも「自制」を欠いた非難や中傷は、つつしむべきであろう。なぜなら、好太王碑の時も、無実の酒匂家の一族(子供)が「いじめ」に逢うといういたましい事件があったからである。
6月13日号
5月23日 『陸奥新報』藤本2日付記事の訂正記事 「本紙三十回目(五月二日号)で福沢諭吉からの文書を福沢諭吉記念館で鑑定してもらったと記したが、古田教授の指摘で、これは私の聞き違いで、紙質は紙質鑑定の専門家、筆跡は筆跡鑑定の専門家による鑑定の結果によるものと訂正します」。(編集部注:念のため藤本に確かめたところ、藤本によれば古田は確かに訂正文の内容のようなことを述べたという。
5月29日 西川俊作「福沢書簡の写本といわれるものに関する疑問点」 (1)学文之進メ→学問のすゝめ、または学問ノスゝメ
明治の文章で「学問」を「学文」と書いた例がないではない。しかし「すゝめ」はこの場合、合本『学問のすゝめ』の序文に「学問之勧序」とあるように、「勧」めるの意味で、それをまえに「進」めると書くのは明らかに誤り。著者が自著のタイトルを二度までも書きまちがえるものだろうか。
(2)初篇の執筆は明治四年十二月で、刊行は明治五年二月(活版)。礼状を三年四ヶ月もたってから出すなど、筆マメの福沢諭吉には考えられないこと。(なお『学問のすゝめ』はシリーズの形で明治八年三月現在十四編まで出ていた。また合本は明治十三年の刊行)
(3)「大阪にて飛脚す」は事実に合わない・・まず「大阪にて」とあるが、明治八年六月五日に福沢はここ東京三田の演説館で遠絶演説をしたというアリバイ(三田演説会日記)あり。つぎに「飛脚す」とあるが、すでに(明治五年七月)郵便の全国ネットワークができており、この原本がもし存在したとしたら、郵送されたはずであろう。(*3)
(4)あとづけ・・結語なく、宛名/年月日/署名・花押→結語/年月日/署名/宛名
通例、私信に花押(書き判)を書くことはない。現に福沢書簡(二千通を超える)中にひとつもその例がない。また、ほかに福沢諭吉の花押なるものは見あたらない。ふつう写本をつくるとき花押は「花押」と書くものなのに、わざわざ似せて、いいかえると偽の花押を書いている。幽霊が正体を見せたもののようだ。(さらに宛名の肩に「・・・士族」と書き添えてあるが、これは問題の一文の意味するところと矛盾している。福沢自らは士籍を離れ、平民諭吉と称した。)〔編集部注:西川はNHKのインタビューで「私の知るかぎり、相手の身分を記した手紙は一通もない」と明言している(職種・官位はある)〕
(5)このほか、敬語の誤用や文意不明箇所、また「せきとく文(そうろう文)」の常識にはずれているところなど多々。それらは、たんなる写し誤りという以上のものだ。よって、この文書は「書き写されたもの」ではなくて、「つくられたもの」と私は判断する。
52号26〜27頁
6月1日 NHK『ナイトジャーナル』「津軽の古文書真贋論争」(安本・古田・和田生出演) 和田「展覧会に出したのは、あの、拡大機って、今では誰も使ってないだけど、あの、小ちゃいのから大きくするんですよ。字もまるっきり同じでゆくんですよ。まあ全部が全部同じにゆくちゅうわけじゃございませんですけど」(hy注:展覧会は「安倍・安東・秋田氏秘宝展」。のちに古田によると先行する別の未成立展覧会のことであるという。「出したの」は「安東船商道之事」。拡大機はパンタグラフのこと) 52号355頁
6月3日(pm9頃) 桐原、古田へ電話 6月1日の「ナイトジャーナル」の件で1時間ほど話す。 58号222頁
6月13日 『サンデー毎日』古田5月20日日付記事掲載
6月14日 古田、桐原と広島グランドホテルで会い、桐原宅へ赴く。 第1集148頁
6月16日 古田より桐原へ100万円送金。広島総合銀行桐原口座へ。 第1集148頁、古田「貴方は何処へ行くのか−桐原氏へ」によると、名目は「紙の検査」であり、山陰(鳥取県)の紙の産地の現地へ行き、和紙生産の歴史を探り、その報告をする。予算50万に念のため50万円を加える。 55号グラビア
6月20日 『サンデー毎日』安本「いよいよ白熱“偽書”論争 『東日流外三郡誌』そのものの紙質鑑定を」 ・つくられた「福沢諭吉書簡」。古田武彦が、慶應義塾大学福沢研究センター所長の、西川俊作商学部教授ののもとに、福沢諭吉書簡を持ってきたが、西川によると、写真を撮ることも書き写すこともできなかったという。
・古文書の鑑定にはトリックが。本誌6月13日号で、古田が高知県紙業試験場での「伊達家関連文書」「北鑑 第七巻」の鑑定を得、楮であり、戦後のパルプや蛍光増白剤の痕跡などないとの結果を書いていることについて、それは5ミリ前後四方の紙片を袋に入れ、それに「北鑑」「伊達家関連文書」し名前を付けて鑑定を求めているのであって、古文書そのものを鑑定したわけではない。大川の鑑定では「当場では、紙の年代を判断するのは不可能なので行なっていない」と明記。
・「ナイトジャーナル」で古田が、昭和薬科大学・中村教授の電子顕微鏡写真を挙げ『荒木武芸帳』が江戸初期の紙であると中村が判断したとの発言を取り上げ、それが「江戸初期」ではなく「江戸初期から現代を含む」という中村の「ナイトジャーナル」でのVTR発言を紹介。この『荒木武芸帳』は安永乙未(1775)年の秋田孝季筆跡とするが、「和田家文書」によれば、秋田孝季は1770年の生まれで、『荒木武芸帳』を書いたときは5歳ということになる。
6月20日 古田、故・木村實宅訪問。たみ未亡人、息女小杉寛子応対。 木村實筆跡写真撮影。古田「(木村宅の文書を)人に見せないのが正解です。木村實さんの名誉は守りたい。世の中にはいろいろな人がいる。ほとぼりがさめるまで見せないのが正解です。電話には気をつけてください。どっちが偽物か本物かの電話は気を付けて下さい。木村先生の名誉回復をピシッとしてお伺いいたします」(小杉寛子の録音テープより)。この時、古田は最後に名刺を出している。小杉寛子は古田を安本と勘違いしていた。だから亡父のものを見せた。 52号101頁。同102頁。
6月20日 古田より桐原へ書籍小包 「仰せのもの、お送りいたします。よろしくよろしくお願いします」 55号グラビア
6月23〜24日 『サンデー毎日』「『東日流外三郡誌』“偽書”論争」(安本・古田直接闘論8時間) パンタグラフについて、安本・司会の福永編集長と古田とで応酬。
また、例の「10月発言」。
古田「より重要なのは私が取り組んできたいわゆる寛政年間の原本を出すという作業なんです。私が思いますのは、十月以降なら大丈夫だと思います。寛政のものを出せば二つの論難がストップするんです。つまり、和田喜八郎さんの創作、和田末吉氏の創作だという論難もストップするんです。それが十月現在になお出てこないということになったら、やっぱり事実はなかったなと思ってもらっていいんです。で、事実が出てきたら安本さんが間違っていたということになるわけですよ」。安本「そんなこと、間違ったことにならないですよ」。古田「(その時)記者会見をします。ということです。私の一番の事実はそれです」。安本「十月に出てきたからといって、安本の言っているのは間違っているということにはならないですよ。僕の立場から言ったら、十月まで一生懸命つくっていることになるんだから」。古田「最後にやはり言いたいのは、私の本日もってきた事実は(和田家文書の)「伊達家関連文書」「北鑑、第七巻」。私の学者生命、教授生命とをかけて提起しましたが、(紙質鑑定で)その結果がどうなるか。最初に言い、最後にもこれを提起したいと思っています」。
52号378頁
6月24日 梓書院編集部・白石洋子に桐原正司から電話。 白石のメモ「六月二十四日。桐原氏より、再度、電話がある。安本先生に。見てもらいたい物件が、手許にとどいている」 55号16頁
7月2日 桐原から安本に電話あり 安本は、このころから古田から桐原へ対して行なわれている驚愕すべき依頼の内容を知るようになる。 55号16頁
7月5日 古田より桐原へ100万円送金。広島総合銀行桐原口座へ。 第1集150頁、古田「貴方は何処へ行くのか−桐原氏へ」によると、名目は桐原息女の米国へのスポーツ留学費用。古田亡父の処世訓により貸与ではなく返却を期待せず「送った」という。 55号グラビア
7月7日 古田より安本へハガキ。 「梅雨の中、お変わりありませんか。先日は長時間ご苦労様でした。本日、(一)中村卓造氏「紙質判定」 (二)安東船商道之事(コピー) 有難く拝受いたしました。一九九三、七月七日 古田武彦」 55号グラピア
7月10日(日) 古田より桐原へ、秋田県横手市(株)秋田りんご村のアップルジュース贈られる。 56号グラビア
7月29日 喜八郎の母、死去 53号133頁
8月12日 『別冊歴史読本』特別増刊『「古史古伝」論争 ・原田実「「古史古伝」研究の現状と展望 新しい分析視角「極小史」の提唱」
・古田・鎌田武志、緊急対談「『東日流外三郡誌』真偽論争より中身の論争を!安本さん、模写をいくら調べても検査自体が無意味です」
・飛鷹泰三「パソコン通信ネットの『東日流外三郡誌』論争」
・斉藤光政(東奥日報社会部記者)「青森県における『東日流外三郡誌』問題」
・安本美典「『東日流外三郡誌』は現代人製作の偽書である」
・佐々木孝二「口碑文学としての『東日流外三郡誌』津軽の歴史を伝えた神霊の語部」
・松田弘洲「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」
・藤本光幸「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」(*9)
・藤本光幸「日乃本国と称した亡命王朝−東日流王国」
18頁〜
36頁〜

58頁〜
80頁〜
134頁〜
172頁〜
236頁〜
244頁〜
318頁〜
10月5日 『季刊邪馬台国』「福沢諭吉書簡の捏造」 『サンデー毎日』6月20日号の内容を補充。この書簡の宛先は、津軽飯積(詰)邑士族和田末吉となっているが、書簡の出された当時、末吉は飯詰村には住んでいなかった。北隣の下岩崎村であり、明治22年、両村が合併して、飯詰村の中の下岩崎村となる。 52号25頁〜
10月後半〜11月前半 安本より古田へ電話。 「あまり妙なことは、なさらないほうがよいですよ」 55号16頁
11月28日 小野元吉「陳述書」 一、私は大正六年生で、飯詰高等小学校卒業後すぐに大工となりました。
二、現在の和田喜八郎氏の住宅建設には私も携わりました。古い家を取り壊し、さら地にしての新築でした。はっきりした時期は忘れたが、戦前であり、私の若い頃だった。季節は夏で、和田家の仮住まい場所は同じ敷地内に建てた小屋でした。発注者は和田元市です。
三、東日流外三郡誌が天井に隠され、ある日突然落ちてきたと言われておりますがね当時天井はありませんでした。壁などに古文書を埋めたということもありません。
四、和田喜八郎氏は飯詰公民館が東日流外三郡誌を紛失したと言ってますが、それは嘘です。飯詰公民館が古くなったため解体したのは私で、解体時公民館にあった書類はまとめて玄関に出しておきました。そこへ和田喜八郎氏がやって来て「書き物を預けていた」と言い出しました。まだ書類等は何一つ捨てていなかったので和田喜八郎氏に調べさせましたが、古い書き物等は何もなく調べた和田喜八郎氏に「なければこの書類は捨てる」と言うと和田喜八郎氏も納得していました。今から考えると古い価値ある書き物などがあれば持って帰ろうとしたのではないかと思います。
五、石ノ塔に石塔山大山祇神社を建てたのは私です。神社を建てた場所には昔から山の神を祭る小さなお堂があり。他にはなにもない場所でした。
六、和田家に伝わる古文書、刀、鎧等があるとは聞いた事がありません。
平成五年十一月二十八日 住所 五所川原市*******(同誌には明記) 氏名 小野元吉 〔印〕
53号132頁
11月29日 高知県紙業試験場・大川昭典による、古田「顕微鏡写真」に対する所見 野村孝彦様 お送りしてくださった「九州王朝の歴史学428頁」の写真を見せていただきました。この写真は、プレパラート上の繊維に水を落とし、その上からもう一枚のプレパラートを載せて写したものです。両面に空気の気泡が数カ所見られます。写真はやや見にくいですが、幅の広い繊維は、針葉樹の繊維(化学パルプ)で広葉樹の繊維と思われるものも観察されます。楮と思われる繊維もありますが正確には解りません。写真で見るかぎり、ほとんどは木材パルプで針葉樹のものが大半です。その針葉樹のパルプがわが国で工業化されたのは明治20年代ですが、ひれき機械漉きの用紙の原料としてで、実際の手漉きの和紙に使われだしたのは、明治の後期だと思われます。紙がいつ作られたかの判断は難しいですが、この写真の繊維組成からみて、こりように針葉樹のパルプの比率が他印をしめているものは時期的にずっとあとの可能性が高いと思われます。特に戦後の書道用の和紙に見られる傾向と言えます。広葉樹の繊維と思われるものが広葉樹であるとすると、戦後作られた紙ということになります。 平成5年11月29日 大川 昭典 53号グラビア
《1994(平成6)年》
1月1日 『歴史Eye』94年1月号。古田「『東日流外三郡誌』の信憑性を探る」 ・筆跡鑑定で明らかにされた和田家「明治写本」の正統性。この「明治写本」は、ほとんどすべて同一人(末吉)の筆跡であり、現当主、喜八郎の筆跡とは全く異なっている(写真A,B,C,D参照)。別人である。この点、正確に明記する。平成五年四月、『東日流外三郡誌』は喜八郎の筆跡によるものである、との「偽作説」が強調された。この種の説は従来も存在したが、「筆跡対照表」などと一緒に主張されたため、これに同調する人々が現れたようである。けれども、わたしがこの対照表のもとになった資料「安東船商道之事」(サンルートのロビーに掲示されていたもの)を検したところ、これは全く、右の「明治写本」つまり「末吉自筆」のものとは別筆だった。喜八郎によると「安東展」のため、地元の書家、木村実(ママ)に依頼して「精写」(「明治写本」に似せつつ、整美に写す)してもらったものである、という。当の「安東展」は未成立に終わったけれども、年経て実行された「安倍・安東秋田氏秘宝展」で、これが活用され、「精写」の旨をことわった上で掲示されたものである。これを右の秘宝展のスポンサーであった寺田義雄が展示終了後、自分の経営するサンルートホテルに掲示されたのであった。右のような経緯を、疑うべくもなく裏付けるもの、それは「木村実(ママ)の自筆」と当「安東船商道之事」の筆跡の比較である(写真E,F)。明らかに同一人の筆跡である。従って、江湖に喧伝された「喜八郎偽作説」は、依拠資料という、一番肝心のところ、問題の急所においてまちがっていたこと、「根本の誤謬」をもっていたこと、この一点は、いくら強調しても、強調しすぎることはない。
なお故木村実は、地元のすぐれた書家であり、その麗筆・揮毫にも、何一つ「偽筆」めいた点の認められないこと、木村家の名誉のためにも、特筆大書させていただきたい。
・学問的要望に応えて「寛政原本」の解放を。喜八郎はそれ(hy注:寛政原本)が自家の屋根裏の「閉じられた個所」(中二階のような部屋)(*7)にあるとこを示唆した。爾来七年、種々の経緯の後、その「解放」を決意し、その日を「八月二十日」と指定した。平成五年五月下旬のこと。ところが思いもかけぬ不幸が和田家を襲った。喜八郎の母の逝去。七月二十九日のこと。そのため「解放」は「四十九日」以降、親族の合議を経ることとなり、今日に至る。
・すべては「寛政原本の出現」という、そのときまでは、あえて慎重に、断言をさしひかえさせていただきたいと思う。
・ともあれ、今必要なこと、それは、次の一事である。いわく「是非の論断を急がず」(*8)と。これが学問の王道である。そして、「寛政原本出現の日」、そのきたる日を、心を輝かして待ちたい。
8頁〜
1月11日 小杉寛子「念書」 「『歴史Eye』一九九四年一月号に掲載された木村實の筆跡は、確かに、一九九三年六月二十日に、古田武彦氏にお見せしたものです。しかし、この筆跡、ならびに木村實の他の筆跡が、『安東船商道之事』に、一致または類似しているとは思いません。
 偽書論争のさなか、当方の好意によりお見せしたものを、十分な研究なく、このような形で公表されたことに対し、抗議します。誤った判断、または、思い込みにより、父、木村實の名がけがされることは、私達にとり、迷惑以外のなにものでもありません。
 学者は、公正な判断を下されるものという私達の思いを、踏みにじるものです。
 このような行為を慎まれるよう強く要望してやみません。一九九四年一月十一日。小杉寛子[印]
53号グラビア
2月21日 『東奥日報』「和田家文書の真偽論争 名誉侵害問題に発展」「偽書説への反証に亡父の名 勝手に使用 板柳の木村氏 和田家に抗議」 木村實子息・木村博昭も抗議のコメント。「名前が出ることで、父が偽書問題にかかわったかのように思われるのは心外、大いに怒っている。誰が見たって父の筆跡じゃないことは分かる。死んだ者の名を使って自分を正当化することは道義的にも許されない」「和田さんとは五所川原市の高楯城保存の関係で付き合いがあったが、亡くなるかなりまえに交際をやめた。だから『安東−』を模写したはずもないし、頼まれて筆を執ったことはない人だ」。和田「木村実さんは(和田家から)資料をたくさん持っていっては、写していた。『安東−』については分からない」。 53号グラビア
5月はじめ 谷野「『東日流外三郡誌』騒動記」 古田が東北大学時代の先輩である原田隆吉教授を通して「宝剣額」の調査を東北大学に依頼。大学で関係者が相談した結果、国立歴史民俗博物館に頼むのが最適であると考え、同館のB教授を紹介。「宝剣額」は市浦村教育委員会からB教授に送られたが、B教授は鉄剣の外観をみて鑑定は困難であると判断し、問題の奉納額を古田宛に返却。 55号50頁
6月9日 古田は東北大学時代の先輩であるA教授とともに、谷野教授を訪れ、「奉納額」の鑑定を依頼。 A(原田)教授から「歴史民俗博物館から調査を断られて古田氏が困っているので、一度筆者の目で実物を見ては貰えないか」との再度の電話があり、筆者は「刀剣の鑑定など無経験なので役には立たないと思うが、簡単な調査ならば出来ないことはない」と返事。この日、古田・斎藤記者両氏の来訪を受ける。 55号50頁
6月14日(火) 安本より古田へ電話。古田夫人にも警告 「広島の桐原正司をご存じでしょうか。古田さんと、桐原さんとのご関係は?」。古田「桐原正司氏に聞いて欲しい」。夫人にも事情を話し、警告している。
6月30日 「古田史学会報創刊号」(平成6年6月30日号) 宝剣額を「決定的一級史料」と断定。次行の谷野鑑定結果報告受け取りと同じ日に発売された同誌にそのように書くということは、予断を持ってそのように発表したことになる。
6月30日 古田、斎藤泰行記者とともに谷野教授を訪れ、鑑定結果の報告を受ける 55号54頁
7月2日午後8時44分 「宝剣額」記事配信 静岡の共同通信社より「和田家文書論争に終止符か?」「決定的一級史料の発見」というタイトルの記事配信される。
7月3日 共同通信社配信「宝剣額」全国5紙(「産経新聞」「神奈川新聞」「神戸新聞」「中国新聞」「岐阜新聞」)に掲載。 「偽作論争に終止符か 東日流外三郡誌」
東日流外三郡誌の著者とされる秋田孝季が、文書の寛政を祈願して奉納したと見られる宝剣額の鉄剣の裏側に額字と一致する寛政元年(1789年)の製造年月が彫り込んであることが、二日までに東北大学金属材料研究所の鑑定で解った。〈中略〉昭和二十二年、青森県五所川原市の民家から写本が見つかった。四十八年ごろに同県北津軽郡市浦村の神社で宝剣額が発見された。しかし、原本が未発見で、「孝季は架空の人物」などとして偽作説が持ち上がっていた。古田武彦・昭和薬科大学教授(歴史学)や「古田史学の会」事務局長古賀達也さん(三八)らが五月、市浦村教委に保管してあった宝剣額を調べたところ、木製の額(縦七十センチ、横三十三センチ)に矛状の鉄剣が金具で固定してあり、額には「寛政元年酉八月●(判読不明)日 東日流外三郡誌 筆起 為完結」と墨で書かれ、孝季ら二人の自筆とみられる署名があった。鉄剣の裏には「鍛冶里原大介」「寛政元戊酉八月自」と作者と日付が彫り込んであり、鑑定した谷野満・東北大学金属材料研究所教授は「剣は当時の製造とみて問題はなし。額に取り付ける際に彫ったとみられる」と説明している。「戊酉」とある干支について古田教授は「正確には己酉だが、前年の干支が戊酉のため、鍛冶職人が錯覚したのではないか」とし、「孝季が実在し、寛政年間に外三郡誌を書き始めていたことを証明するもの」と話している。
〃(am10) 谷野へ野村孝彦より電話あり、面談 奉納額鑑定について聞きたいことがあるというので、ホテルメトロポリタン仙台2階喫茶室。宝剣額の調査が『東日流外三郡誌』の真贋論争という、関係者にとっては非常に重要な問題に関わっていることが解った。 55号58頁
〃夜 安本より谷野へ電話 『中国新聞』の記事についての問い合わせ。「さて、偽書派の旗頭として恐らくは攻撃的な性格の持ち主に違いないと勝手に想像していたのとは全く逆に、電話の応対では、安本氏には押し付けがましい所が微塵もなく、事態を極めて公正に判断しようとしている誠意あふれる人物という印象を受けた」。 55号59頁
7月4日(am8:30) 谷野、『共同通信社』静岡支局・斎藤記者へ電話。 「剣は当時の製造と見て問題ない・・・」の部分は筆者が古田に報告した内容とは異なる表現になっていることを抗議。約30分ほどの押し問答の末、ようやく斎藤記者もその文章が適切でないことは認め、いったんは受話器を置いた。しかししばらくしてから斎藤から電話があり「先ほどは筆者の主張を認めると言ったが、再考の結果あの文章はあれで良いと思う」と前言を撤回。 55号59−60頁
〃(午後) 谷野、古田と東京駅丸の内北口の「みかど」で面談 谷野「この文章(hy注:「剣は当時の製造と見て問題ない」という古田紙上発表)は鉄剣の製造された年代が寛政元年頃である可能性をほぼ断定的に容認した表現になっており、筆者の報告した事実、すなわち“この剣が製造された年代を特定することは出来ない”とは全く反対のことを示している。これでは筆者の調査結果が誤解されるだけでなく、『東日流外三郡誌』真書派にとって極めて都合の良い表現に歪曲されている」。
古田「この文章はこれで良いのである。自分は今日出掛けに弁護士である自分の妻にこの記事に目を通して貰い、“法律的には立派に通用する表現である”という意見を貰っているし、またこの表現が妥当であることを証明できる文例(判例?)はいくらでも集めることが出来る。さらに、この表現の妥当性については、仮に法廷で争っても絶対に勝てる」。
同上
7月15日 桐原念書 「念書 一 私は、一九九三年六月から同年七月にかけて、いわゆる「和田家文書」とみられる文書のレプリカ作成を、昭和薬科大学教授古田武彦氏から確かに依頼されました。
二 古田教授からは、私に対し、右レプリカ作成の対価として、私名義の銀行預金口座(広島総合銀行普通預金口座番号******(hy注:誌上には明記)への振込送金が左のとおりありました。
  一九九三年六月一六日 金一〇〇万円
  同     年七月五日 金一〇〇万円
三 なお、事実の詳細については、本日吉沢寛法律事務所において安本教授及び吉沢寛弁護士に対して申し述べ、テープ録音していただいたとおりです。右のとおり相違ありません。
 平成六年七月十五日 広島市西区*********(hy注:誌上には明記) 桐原 正司」
同グラビア
7月19日 「猪垣裁判」で和田側から「宝剣額」記事を証拠として提出 共同通信社配信の記事が、和田側から『東日流外三郡誌』が偽書でない証拠として提出された。 55号46ページ
7月20日 安本『産経新聞』夕刊に反論記事 「疑惑の宝剣」「『東日流外三郡誌』偽書騒動にみた“情報操作”」
「さっそく鑑定を行なったとされる谷野満教授に、問い合わせた。谷野教授の答は、意外にも次のようなものであった。「そんな鑑定結果はだしていない。化学分析、硬さの測定、金属組織を観察した結果、剣は、そのへんの菜切り包丁とかわりのないありふれた軟鉄である。寛政元年ごろのものと特定する証拠は、調査結果からはなにもでてこない。ただ、その当時の技術で作ることが可能であったかという質問に対しては、その可能性を完全には否定できない。要するに時代は特定できない。『当時の製造とみて問題ない』とそこだけを強調する表現になっているのは、誤りである。取材にきた共同通信社には、厳重に抗議した」。
55号グラビア
7月21日 共同通信社名古屋支社編集部長・松本好司より谷野へ電話 「前回の記事掲載の事情を調べた結果、共同通信社側に明らかに落ち度があったことが判明したので何らかの処置を講じたいと考えている。ついては、前回の鑑定騒動の真相を読者に報せるための原稿を書いて貰いたい」 55号64頁
8月2日(受理) 『まてりあ』第33巻11号、谷野「マスコミにご用心 東日流外三郡誌異聞」 6月9日、F氏が市浦村教育委員会保管の宝剣額を持って研究所に現れた。来所の目的はその鉄剣が寛政元年(1789年)ころのものであるかどうかを調べてほしいということである。今回の調査結果からはこの鉄剣の製作時期を特定することはできないということを報告した(ただし、二百年前にこのような鉄剣を作る技術が日本に存在したかどうかという質問に関しては、多分存在したであろうと回答)。すなわち回答の意味するところは、問題の鉄剣は二百年前に作られたものであるかも知れないし、現代の作品であるかも知れない。要するに“二百年前のものであると断定できる証拠は存在しない”ということである。ところが、七月三日、幾つかの地方新聞に次のようなセンセーショナルな記事が掲載された。「東北大学金属材料研究所の鑑定の結果は宝剣額が外三郡誌の実在を証明する一級史料であることを裏付けね偽書論争に終止符を打ちそうだ。〈中略〉鑑定したT東北大学金属材料研究所教授は“剣は当時の製造と見て問題ない”〈後略〉」。この記事は私の見解とは全く逆のことを意味する表現になっている。また仮に二百年前に問題の鉄剣を製造する技術があったとしても、その鉄剣が二百年前に作られたとを証明するものではないし、まして、宝剣額が『東日流外三郡誌』の実在を裏付ける一級史料であることとはおよそ無関係である。 55号65頁〜
8月4日  午後4時〜5時 松橋徳夫(日吉神社兼務宮司)の証言 市浦村洗磯崎神社・松橋家にて古田による聴き取り。ビデオ撮影、古賀達也。 第3集「平成・諸翁聞取帳」169頁〜。
8月上旬 2日『岐阜新聞』、7日『中国新聞』、9日『神戸新聞』に谷野満・東北大教授の古田氏への抗議文掲載。 「『東日流外三郡誌』報道に望む」〈全文〉
七月三日の日曜日、神奈川新聞など幾つかの地方新聞に『東日流外三郡誌』の真がん論争に決着を付けられそうな新しい一級史料として二本の鉄剣を飾った奉納額が発見されたという記事が掲載され、関係者の間に波紋が広がった。記事は共同通信が配信したもので、筆者に関係する所は、@二日までに東北大金属材料研究所の鑑定で分かった。(略)鑑定結果は、宝剣額が同書を証明する一級史料であることを裏付けるもので、論争に終止符を打ちそうだA鑑定した谷野満東北大教授は「剣は当時の製造とみて問題ない」と説明−の部分。筆者は『東日流外三郡誌』論争のことを事前には知らされておらず、報道後に初めて知った。記事のうち@、Aはどちらも事実を誤認している。筆者は論争の一方に肩入れするものではないが、ある訴訟で記事が証拠として提出されたことを聞くに及び筆を執った。Aについては、古田武彦昭和薬科大教授の依頼で筆者が鉄剣の化学組成や金属組織についてごく簡単な調査をしたのは事実であるが、古田氏に対しては「調査結果からは鉄剣が制作された時代は特定できない」と回答。ただし「二百年前の技術で可能だったか」との質問には「その可能性は完全には否定できない」と答えた。意味するところは「二百年前のものかもしれないし、現代のものかもしれない」ということだった。@についても、古田氏は既に平成六年六月三十日発行の『古田史学会報創刊号』の中で、鉄剣の調査結果とは無関係に奉納額を「決定的一級史料」と断定している。すなわち今回の鑑定によって一級史料であることが裏付けられたわけではなく、古田史が奉納額が本物であるとの先入観を抱いていたことは明白である。この表現は記事の価値を高めるため歪曲されたものと考えられる。本件のような論争の絡んだ問題の報道に当たっては、対立する立場の意見も採り入れて記事の公正さを確保するとともに、当事者に記事の妥当性を確かめる慎重さを要望したい」
55号43−44頁
8月8日22時〜22時55分 日本TV「関口宏のびっくりトーク・ハトがでますよ!」に古田出演 「宝剣額」によって、『東日流外三郡誌』偽書説は成立しないと説明。
8月15日 立教大学・林英夫教授による安本への手紙と所見 終日の炎暑 御多祥の御事と存じます。さて同封のごときでよろしいでしょうか。暑さボケで一寸おくれて失礼しました。しかし、これは余りにも明らかな作り物、ニセ物つくりの苦心もみられない、なんともサギ師としての資格もない幼さです。取急ぎ用件のみにてお許し下さい。一九九四年八月十五日 林英夫 安本美典様
「青森県北津軽郡市浦村の神社所有(村教委保管)の「宝剣額」を実見。その額の記載文字について所見を述べておきたい。まず、右上部の「奉納御神前」のうち、「奉納」の文字に再生のためのなすった墨が入っているが、この文字と左記部分の「寛政元年酉八月□日」の十三文字(他一字欠)は、江戸時代中ごろ以降に広く流布した書法によって書かれ、江戸時代「寛政元年」の文字と判断してよいと思われる。しかし、その他の文字「日枝神社 土崎住 秋田孝季」などすべては、江戸時代、寛政の文字ではない。むしろ現代に限りなく近い時代に書かれた文字とみられる。特徴的な点を一つだけ記すと、前述十三文字以外の字はすべて筆の使い方に全く習熟していないことである。つまり筆でものを書く習慣を全く持たない人の文字であることは明らかである。また、このため筆に勢いがなく、ただなすっただけの文字となり、江戸時代に流布した青蓮院流の書法の影響を全く受けていない文字である。おそらく昭和四十年代すぎに書き入れられたものと推測される。以上の点から「寛政元年」の奉納額に昭和四十年代すぎに別人によって、さらに文字を書入れた「奉納額」と思われる。一九九四年八月十五日 林 英夫」
55号68頁
8月17日 二松学舎大学・寺山旦中教授による「宝剣額筆跡所見」発表 向って上部の「奉納御神前」と、向って左上部の「寛政元年八月□日」は、松煙墨によるか墨色が青味を呈し、線も澄んで力勁く。御家流の書風が窺われ、江戸時代の墨跡と思われる。しかし、それより下部の文字「日枝神社 土崎住 秋田孝季」等のすべての書は、油煙墨のためか茶褐色を呈し、線弱く造形的にも未熟であり、上部の書の品格なく、江戸期の書ではない。よって「寛政元年」の奉納額に、下部の書は現代人が書き入れたものと思われる。平成六年八月十七日 寺山旦中〔印〕 55号グラビア
同67−68頁
9月6日 皇學館大學・恵良宏教授による「陳述書」 陳述書
一、私は皇學館大學に教授として奉職し、古文書の筆跡などの研究をしております。
二、和田家文書関係の筆跡鑑定である平成五年三月二二日付鈴木政四郎氏・佐々木隆次氏作成の和田喜八郎氏の書癖及び同氏が関わった文書等に対する意見書、筆跡鑑定一覧(本誌、51号参照)、平成六年七月十五日付佐々木隆次氏作成の意見書、筆跡鑑定一覧2における判断は妥当と思われます。
三、八幡書店版、東日流外三郡誌の第一巻四八一頁、四八二頁、四八四頁乃至四八五頁、五三八頁乃至五三九頁に掲載されている絵図に書かれた文字の筆跡ならびに用語等を勘案すると時代は極めて新しく前項の鑑定通り、和田喜八郎氏のものと思われます。
四、いわゆる寛政奉納額と称されるものに書かれている「日枝神社、東日流外三郡誌、土崎住、秋田孝季、飯詰住、和田長三郎、筆記、為完結」の文字の筆跡は、当時の一般的書風である「御家流」を学んでいない点及び二項の資料から明らかに和田喜八郎氏のものと同一視されます。
右相違ありません。平成六年九月六日
住所 三重県**********(誌上では明記)
氏名 恵良 宏 〔印〕
55号69頁
9月29日 『アサヒ芸能』「TV有名教授」に吹き出した「偽造スキャンダル」 〔独占〕町おこし、村おこしにつけ込み・・・古代史 昭和薬科大「TV有名教授」に噴き出した「偽造スキャンダル!」 古文書 御神体 埴輪
さらには「東日流外三郡誌」の寛政年間の原本を近いうちに必ず世に出すとも断言している。そして、そんな古田教授のかかわり方が、新たな疑惑の出発点にもなっているのだ。陸奥文化史研究家の藤村明雄氏は、こう一刀両断する。「古田氏の一連の行動には、和田氏と組んで、偽書偽物を広めようと画策している意図がありありと読みとれます」。事実、それを裏付けるかのような証言も飛び出してきた。語るのは古美術商・山本和也氏(仮名)だ。彼は古田教授から、寛政年間の偽書の製作の依頼を受けたという。「レプリカを作ってくれというようなレベルではありません。本物と発表できるようなものを作ってくれといわれました」。そして、山本氏はひとつの“証拠”として山本氏自身が書いた念書と古田教授からの制作費振り込みを示す銀行口座のコピーを示す。これが事実なら、古田教授は一躍“贋作”の主役の座に躍り出ることになる。
55号8頁〜
10月6日 『東奥日報』「『東日流外三郡誌』真贋論争 新たな展開」。安本「既存の額を変造した」。古田「奉納額の署名が証拠」 古田「昔は資材の再利用が当たり前。だから、墨書きの下から前の字が浮かび上がることはよくあることで、なんの不思議もない。筆跡については、孝季らの文字と十分に比較してから判断してほしい。学問とは結論が出るまで時間のかかるもの。偽書説を主張する人たちは結論を急ぎ過ぎるのではないか。慎重な態度を望みたい」(*1) 55号グラビア
12月20日 『季刊邪馬台国』55号、「桐原事件」掲載。 「古田武彦昭和薬大教授に衝撃の疑惑!!二百万円支払って、古文書偽造を依頼」
ついに出た!本誌編集部が、はやくから事実をつかみながら、ある種のためらいがあって、これまで記事にしなかった事実が、男性むき娯楽週刊誌アサヒ芸能」で、スッパ抜かれている。一九九三年六月一日に、NHK「ナイトジャーナル」の放映が行なわれ、四月十八日、六月十三日、六月二十日、七月四日、七月十一日に、「サンデー毎日」の記事が掲載された。一九九三年の六月、七月は『東日流外三郡誌』をはじめとする「和田家文書」が、真贋論争の渦中にあった。まさにそのころ、古田武彦昭和薬科大学教授は、二百万円を支払い、偽書製作の依頼を行なっていたというのだ。作成依頼をうけた広島市在住の、桐原正司氏の証言が出現した。「アサヒ芸能」の報ずるところによれば、山本和也氏(桐原正司氏の仮名)は、古田武彦教授から、「寛政年間の偽書の製作」の依頼をうけたという。「レプリカを作ってくれというようなレベルではありません。本物と発表できるようなものを作ってくれといわれました。」という。
55号グラビア、6頁〜
12月20日 谷野「『東日流外三郡誌』騒動記」 古田武彦氏は、「宝剣額」が本物であると、頭から信じこんでおり、「宝剣額」に対する世間の評価をより高くするために、東北大学金属材料研究所の名前を利用したものと考えられる。
7月2日夜、『河北新報』『東奥日報』から立て続けに電話がかかる。どちらも共同通信社配信の原稿内容の確認である。
共同通信社が配信した記事の内容が、筆者の報告結果を著しく歪めたものであることを説明した結果、この二社は記事掲載を取りやめた。しかし『中国新聞』『神戸新聞』『岐阜新聞』がほぼ原稿通りの、また『産経新聞(東京版)』『神奈川新聞』がその要約した記事を、翌3日掲載。
55号47頁〜
12月20日 佐々木隆次「市浦村日吉神社の完成奉納額」の偽り」−筆跡鑑定 ・明治15年(1882)の文字も、寛政元年(1789)の「宝剣額」の文字も、同じ筆跡という妙な現象がおきることになる。ともに、現代人和田喜八郎氏の筆跡なのである。
・具体的に書くならば、T群「奉納御神前」「寛政元年酉八月○日」(○はグラビア写真でわかるとおり節穴)とU群「日枝神社」「土崎住 秋田孝季」「飯詰住 和田長三郎」「東日流外三郡誌 筆記 為完結」はまったく別人の筆になる文字である。
・これまで、書物においてのみ偽文字、偽文書騒ぎをおこしているとばかり思っていたが、神聖であるべき神社奉納額にまで、何らかの作為で進出していたとは、どのような神経の持ち主なのだろうか。性懲りもなく次から次へと出てくる悪徳!不可解を通り越して、口はあいたままふさがることがない。
55号71頁〜
《1995(平成7)年》
1月17日 和田「和田家文献は断固として護る」 昭和22年夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった。家中みんなが飛び起き、煤の塵が立ち巻く中で此の箱に入っているものを手に取って見ると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。どの巻にも筆頭として注意の書付けがあり、「此の書は門外不出、他見無用と心得よ」と記述されていた。親父がまだ若かったし、私も終戦で通信研究所の役を解かれ、家業である農業と炭を焼く仕事に従事し、これは二年目の出来事である。(*4)
先ず野村という私の合った(ママ)こともない人物から写真の無断盗用と云うことで、莫大な金銭の要求を弁護士を通じて通達され、更には青森県地方裁判所から訴状が届けられてきた。私もこれには途惑ったが、私当ての手紙を一切整理していた成田浮城さんの手違いとわかった。成田さんは私のところに寄せられた二千通余の手紙などを自分の出版する原稿の参考にしていたが、公職についたので一応整理したという記事も添えられて返され、そのままに保管されていたが、寺田会長が五所川原市の図書館で私の家にある文物や私の神社に保管されている秘宝の一部を公開することになり、2ヶ月間展示されたとき、にわかに何か説明のある本も出版しようと言われ、私がノートに記入していたものや成田さんからの記事、板柳町の木村さんなどの再写などをどうやらミックスされ出版となった。この中に混入されたのが例の写真である。だが、著者は私になっていたので訴訟に及んだのであろうが、野村氏はこの訴訟書や、興信所の報告書などをコピーし各書に配布し、県下はもとより秋田、岩手など私が講演に巡った市町村を公私を問わず配布して、今なお走り回っている。(*5)
第1集21頁〜
2月21日 写真盗用訴訟で青森地裁の判決。 和田による野村写真盗用を認め、和田に20万円の支払い命ず。野村『日経新聞』掲載論文剽窃は認めず。 56号212頁
2月26日 古田「これは己の字ではない」−砂上の和田家文書「偽作」説 「丑寅原稿」欄外に和田が書き入れ。「これは娘の字 己の字ではない 平成七年二月二十六日 (和田) 和田喜八郎」。(*1)古田「この事実は、一切の「偽作」論争をふっ飛ばす」。 第1集16頁〜
7月5日 古田「鉄検査のルール違反−谷野満教授への切言」 谷野「このようなもの(鉄剣)は、江戸時代には、当然作ることが出来ましたよ。何しろ、正宗の銘刀がこれよりずっと前に作られているんですから。」
斎藤泰行共同通信記者「では、もう一回お聞きしますが、この鉄剣は、寛政元年に作られたものと考えても、問題はない、ということですね。」
谷野「そうです。」
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古田 新聞記者には、チェックや確認が必要だが、大学教授である自分にはその必要はない、と言われるのでしょうか。
古田「谷野さん、貴方は人間の守るべきすじが狂っていますよ。」そう申し上げる他はありません。
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以上のような、歴史学と史料化学との「併存」のあり方については、貴方がもし「依頼者」たるわたしに電話ででも何等かの「確認」を求め、「チェック」されれば、すぐ判明したことです。しかし、残念にも、それを怠って、そのまま「誤認」を公表されたようです。
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貴方がわたしへの「確認」を省略されたため生じた「誤認」や「不正確」は、この他にも多く、貴方の御文章を拝見して“目をおおいたくなる”思いでした。
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より重大な問題は、土地の古老の証言をもまた、この「主観的判断」に入れて斥け、「客観的証拠は何ら認められない」として一蹴している、この一点です。確かに、自然科学的研究において、いきなり「土地の古老の証言」など持ち出したら、“お笑い草”でしょう。しかし、文科系の学問となると、話は違います。現在七〇歳台の方が、“子供の頃(昭和初年)、日吉神社の拝殿でこの宝剣額を見た”と証言されていることの意義は、重大です。“この宝剣額は、昭和四〇年代に、和田喜八郎氏(現存)が偽装したものである”というたぐいの「宝剣額偽造説」を一掃すべき証言なのです。
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私は“文字の記入のない鉄製品”の年代鑑定をお願いしたわけではありません。そんなことは“無理”と思っていました。そうではなく、“文字の記入”それも“年代記入(寛政元年)”のある鉄製品の検査をお願いしたのです。
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しかしこれに反し、“この鉄製品は江戸時代の技術で可能”となったとすれば、俄然「文字(年代)」が本来の役割を回復する。すなわち、「寛政元年成立の宝剣額」であることが確認されるのです。
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なお、わたしを貴方の研究室へお連れいただいた原田さんは、同じ日本思想史科の出身、一緒に村岡典嗣先生のお話をうかがっていた、もっとも身近の先輩でした。わたしが学問の本筋を、当時のまま、いささかも“たがえて”いないこと、それを誇りを以て御霊の前に報告したいと思います。
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第一は、「再利用(赤外線写真)」の件です。これは、先に申しました「フィロロギー」の立場からすれば、何も驚く問題ではありません。なぜなら、人間が自然物を利用して「加工」を加えるとき、一回用がすんだあと、「再加工」して「再利用」すること、これがナチュラルな姿です。
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このような人類史の実態に立つとき、「元、使用者名の出現」から直ちに「偽作説の裏付け」と考えるとすれば、学問精神を欠如した人々と言う他はありません。真に学問的な批判精神を失っているのです。
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第1集132頁〜
7月5日 古田「貴方は何処へゆくのか−桐原氏へ」 桐原のことを「恥ずべき陰謀の“片棒”かつぎの役」。
最初の100万は「紙の検査」であり、山陰(鳥取県)の紙の産地の現地へ行き、和紙生産の歴史を探り、その報告をする費用。「50万円以内」だったが、念のためさらに「50万円」加えた。
2度目の100万は、娘さんの渡米費用として返されることを期待せずに渡した。
「仰せのもの」とは、興信所費用と、和田関係の若干の基礎資料のこと。
桐原念書にある「作成対象」は「『和田家文書』とみられる文書のレプリカ作成」。偽作・贋作などとは一言も書いてない。「すでに存在する文書の『複製品』を作るように依頼された」。
第1集148頁〜
9月15日 谷野「ルール違反をしたのは誰か−古田武彦氏に答える−」 「新聞記事の一部に自分の発言とは全く反対の内容が含まれていることを放置することはできず、強く抗議したのである。記事の内容に問題があった点は配信元の共同通信社も認めたことでもあり、筆者としてはこの事件の裏で誰が情報操作を策動したのか別に追求する積もりもなかった。しかるに古田武彦氏は「新・古代学」の記事の中で、事実を歪曲したうえ、自己の非論理的な主張を“演歌調・浪花節調”の修辞で粉飾して筆者を誹謗している。これでは一年前の情報操作の張本人が自分であったことを自ら暴露したも同然である。このような虚仮威しの記事は筆者の専門分野における評価に何ら影響するものでもなく、筆者としては無視しても構わない代物ではあるが、聞くところによると古田氏はこれまでにもいろいろな人を相手にして同様の無茶苦茶な議論をふっかけ、相手に無視されると、それは自分が議論に勝った証拠であると吹聴するらしいので、あえて反論することにする」
「問題の新聞記事掲載の経緯や、それに対して筆者が反論した経緯に関する筆者の報告を聞かれた原田先生は猛暑のさなかにもかかわらず即刻筆者の研究室まで足を運ばれ、しみじみと“古田君は若い頃は親鸞の研究で立派な成果を挙げた優秀な学者でした。それがどうしてこのような行動を取るようになったのか自分には理解できません。いずれにしても大変ご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします”と深々と頭を下げられました。このような出来事をあなたはご存じではあるまい」
編集部注)青山兼四郎や松橋徳夫を「土地の古老」であるかのように記すが、市浦村篇『東日流外三郡誌』の編集に関わった人であり、第三者の客観的な発言とは言えない。
57号18頁〜
《1996(平成8)年》
2月25日 桐原「古田氏はどこへゆくのか」 古田と桐原の関係は既に安本が『季刊邪馬台国』54,55,56,57号で記述されているとおり。古田と桐原の間の金銭授受の経過は、安本が既に明白にしているとおりで、それがただ単に紙質の調査、検査の代金であったか、また安本に対する身辺調査費のみであったかは、古田自身がもっともよく承知のはずで、古田の『新・古代学 第1集』に記述されていることについては、「ご自分の都合の良い夢物語を、現実の世界にもって来てほしくない」。古田は桐原に「和田家一族戸籍控」を送った理由を明らかにしていない。
古田「出来るかぎり、古文書の作成用紙を集めてほしい。安政、文久−−明治ごろの古文書だったら、どんな物でもよい、一九九三年十月末ごろまでにぜひとも」
58号222頁
《1997(平成9)年》
1月30日 仙台高裁判決。 和田による野村写真盗用を認め、和田に地裁の倍額の40万円の支払い命ず。論文剽窃は認めず。
10月14日 最高裁にて上告棄却の判決 野村の上告を棄却。仙台高裁の判決確定。
注)掲示したものは、論文等を極めて要約したものである。敬称はごく一部を除いて全て略した。また、引用文は文意の変わらない範囲で変更。「●●号」は『季刊邪馬台国』の号数、「第●集」は『新・古代学』の集数。行の色分けは「クリーム色」が桐原事件、「薄緑」が宝剣額。「ピンク」が福沢書簡。

(*1)そう言いながら古田は3ヶ月前に「決定的一級史料」と断定している。

(*2)青森県古文書会の筆跡鑑定発表から約2年。和田は直後に「自分の字は先祖に似ている」旨の発言をし、『讀賣新聞』青森県版紙上で報道されている

(*3)東海道線が全線開通したのは明治23年(1889)7月1日で、新橋⇔神戸間を20時間8分かかった。当然、書簡に記される明治八年当時、東京にいた翌日、大阪にいることは出来ない。

(*4)昭和22年が「二年目」なら、帰省したのは21年ということになり、他の話と矛盾する。また和田喜八郎による「古田史学会報 1995年 9月25日 No.9 特別寄稿 偽作論者に反論する 長作爺さんの思い出」には、「昭和二十年十二月帰郷した」と自身書いており、これまた他の話と矛盾する。 なお、古文書落下事件のあったとされる昭和22頃に喜八郎宅に同居していた、いとこの「和田キヨエの証言」は、この「和田家文書」騒動の核心の部分に触れており、非常に興味深い。

(*5)これが和田喜八郎の述べるところの「猪垣裁判」開始の経緯である。和田の「成田云々・・・」は判決で信憑性がないと判断されている。

(*6)「福沢書簡」については、既に1986年、近畿大学教授・谷川健一が『白鳥伝説』のなかで『東日流外三郡誌』に触れ、「世人を惑わす妄誕を、おそらく戦後になって書きつづったものである」とし、「書簡」についても「元禄十年(1697)七月に秋田頼季が書いたとある文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのをみるとき唖然とするのである。」と書いている。

(*7)この「中二階のような部屋」こそ、2002年2月18日、齋藤隆一・原田実が喜八郎宅を探訪した折り、隠し扉から入って階段をのぼった六畳ほどの部屋のことか。「79号」111頁〜。

(*8)「是非の論断を急がず」と言いながら、同文の中で明らかに別筆である「安東船商道之事」「木村実真筆」を「明らかに同一人の筆跡である」と書いている。

(*9)247頁に「秋田孝季が奉納した山王日吉神社の扁額」のキャブション入りで「宝剣額」が掲載されている。本文中には「三春城主秋田信濃守倩季によって企図企図されたものであり、尋史のための日本全国巡脚は寛政元年(1789)四月一日から始められたことは、十三湊山王日吉神社の請願のため献額(現存)によっても証明されることである」と書いている。