宋天聖二年隋書刊本原跋

『隋書』刊本末尾に付せられている「宋天聖二年隋書刊本原跋」には、『隋書』編纂過程の諸事情が略記されているようなので釋読を試みた。相変わらず人名、官名、書名など繁多な語彙が目の前に立ちふさがる。辞書を引き、ネット検索に頼りながら取り敢えずの訳出を終えたので、毎度のごとく恥を恐れず公開する次第である。

テキストは 「漢籍電子文献」(底本:宋刻遞修本)と百衲本、清乾隆武英殿版を参照し、異同については適宜判断し取捨した。〈〉内は百衲本(=元大德刊本)、[]内は清乾隆武英殿版、〚〛内は細注である。

〈原文〉
隋書自開皇、仁壽時,王劭爲[纂]書八十卷,以類相從,定爲篇目[次]。至於編年紀傳,並闕其體[序]。唐武德五年,起居舍人令狐德棻奏請修[脩]五代史。〚五代謂梁、陳、齊、周、隋也〛。十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修〈脩〉[脩]隋史,緜[綿]歷數載,不就而罷。貞〈正〉[正]觀三〈二〉年,續詔秘書監魏徵修〈脩〉[脩]隋史,左僕射房喬總(揔〉監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬[恭]宗撰隋史。徵總〈揔〉知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。十五年,又詔左僕射于志寧、太史令李淳風、著作郎韋安仁、符璽郎李延壽同修〈脩〉[脩]五代史志。凡勒成十志三十卷。顯慶元年五月己卯,太尉長孫無忌等詣朝堂〈左〉上進,詔藏秘閣。後又編第入隋書,其實別行,亦呼爲五代史志。〚案魏徵本傳,貞[正]觀七年爲侍中,十年,五代史成,加光祿大夫,進封鄭國公。俄請遜位,拜特進。今諸本並云特進。又經籍志四卷,獨云侍中、鄭國公魏徵撰。无[無]忌傳又云,永徽三年,始受詔監修〈脩〉[脩],疑當時先已刊修〈脩〉[脩],无[無]忌因成書而進。今紀傳題以徵,志以无[無]忌,從眾本所載也。紀傳亦有題太子少師許敬〈恭〉[恭]宗撰。案[按]敬[恭]宗傳,貞〈正〉[正]觀八年,除著作郎,修〈脩〉[脩]國史,遷中書舍人。十年,左授洪州司馬。龍朔三年,始拜太子少師。與今錄年月官位不同,疑後人所益。房喬、志寧初並受詔。又李延壽傳云,被詔與著作佐郎敬〈恭〉[恭]播同修〈脩〉[脩]五代史志。按延壽貞〈正〉[正]觀三年與顏師古同被勑修〈脩〉[脩]隋史,其年以內憂去職。今諸本並不載喬等名位。天文、律曆、五行三志,皆淳風獨作。五行志序,諸本云褚遂良作。案本傳未嘗受詔撰述,疑祗[秪]爲一序,今故略其名氏。〛

天聖二年五月十一日上。御藥供奉藍元用奉傳聖旨,齎禁中隋書一部,付崇文院。至六月五日,勑差官校勘,〚時命臣綬、臣燁提點,右〈左〉[左]正言、直史館張觀等校勘。觀尋爲度支判官,續命黃鑑〈爁〉[爁]代之。〛仍內出版式雕造。

〈テキストの異同〉
漢籍電子文献 底本:宋刻遞修本⇔百衲本⇔清乾隆武英殿版
①爲⇔爲⇔纂
②目⇔目⇔次
③體⇔體⇔序
④修⇔脩⇔脩
⑤貞⇔正⇔正
⑥三⇔二⇔三
⑦敬⇔敬⇔恭
⑧總⇔揔⇔總
⑨无⇔无⇔無
⑩案⇔案⇔按
⑪右⇔左⇔左
⑫鑑⇔爁⇔爁
⑬上⇔左⇔上
張元濟『百衲本隋書校勘記』中、宋天聖二年隋書刊本原跋に係る校異は①②③⑥⑨⑬の6箇所のみ採り上げているが、いずれも備註を記さない。
⑥の【貞觀三〈二〉年,續詔秘書監魏徵修隋史】については『新唐書』太宗紀貞観三年に【尚書右丞魏徵為祕書監,參預朝政。】とあり、二年には未だ「秘書監」とはなっていないことから、この二年は三年の誤と見るべきか。尚、『旧唐書』では秘書監が守秘書監とあり、「守」については『漢和中辞典』に【守】③位階の低い官吏が上位の官職を代行すること。↔行「守中書令」とあるのでその意か。

〈拙訳〉
宋天聖二年隋書刊本原跋
『隋書』は開皇(581-600)より、仁壽(601-604)時に,王劭*が書八十卷を爲[纂*]し,類を以て相ひ從へ,定めて篇目[次]を爲す。編年紀傳に至りて,並びに其の體[序]を闕く。唐の武德五年(622),起居舍人*の令狐德棻*は『五代史』を修するを奏請*す。〚五代は梁、陳、齊、周、隋を謂ふ也〛。十二月,中書令*の封德彝*、舍人*の顏師古*に『隋史』の修を詔するも,數載を綿歷*し,就*(つ)かずして罷*(や)む。貞觀三〈二〉年(629,628),續けて秘書監*魏徵*に『隋史』を修むるを詔し,左僕射*の房喬*は總監*す。(魏)徵は又中書省*に秘書內省*を置くを奏し,前の中書侍郎*の顏師古*、給事中*の孔穎達*、著作郎*の許敬宗*をして『隋史』を撰せしむ。(魏)徵は其の務を總知*し,損益*する所多く,務めに簡正*存り。序、論は皆(魏)徵の作(な)す所。凡(すべ)て帝紀五,列傳五十を成す。十年(636)正月壬子,(魏)徵等は闕に詣(いた)りて之を上(たてまつ)る。十五年(641),又左僕射于志寧*、太史令*李淳風*、著作郎韋安仁*、符璽郎*李延壽*らに詔して同じく『五代史志』を修せしむ。凡そ十志三十卷を勒成*す。顯慶元年(656)五月己卯(16),太尉*長孫無忌*等は朝堂*に詣り上進し,詔して秘閣*に藏せしむ。後に又編第*して『隋書』に入れ,其の實は別に行ひ,亦呼びて『五代史志』と爲す。〚魏徵本傳を案ずるに,貞觀七年(633)侍中と爲し,十年(636),『五代史』成りて,光祿大夫*を加へ,進みて鄭國公*に封ず。俄かに遜位*を請ひ,特進*を拜す。今諸本は並びに特進と云ふ。又經籍志四卷は,獨り侍中、鄭國公魏徵撰と云ふ。(長孫)無忌傳は又云ふ,永徽三年(652),始めて詔を受けて監修するも,疑ふらくは當時先に刊修を已(終)へ,(長孫)無忌は成書*に因りて進ず。今紀傳の題は(魏)徵を以てし,志は(長孫)無忌を以てするは,眾本從ひて載する所也。紀傳は亦太子少師*許敬宗撰の題有り。案ずるに(許)敬宗傳に,貞觀八年(634),著作郎に除し,國史を修し,中書舍人に遷る。十年(636),洪州司馬に左授*さる。龍朔三年(663),始めて太子少師を拜す。今と錄せし年月官位の不同にして,疑ふらくは後人の益す所か。房喬、(于)志寧は初め並びに詔を受く。又李延壽傳の云ふに,詔されて著作佐郎*敬播と同じく『五代史志』を修す。按ずるに(李)延壽は貞觀三年(629)顏師古と同じく『隋史』の修を勑せられ,其の年內憂*を以て職を去る。今諸本は並びに(房)喬等の名位*を載せず。天文、律曆、五行の三志は,皆(李)淳風の獨作なり。五行志序を,諸本は褚遂良*の作と云ふ。案ずるに本傳は未だ嘗て詔を受けずして撰述し,疑ふらくは祗[秪](ただ)一序を爲し,今故に其の名氏を略す。〛

天聖二年(1024)五月十一日上(たてまつ)る。御藥供奉*の藍元用*は聖旨*を奉傳して,禁中*に『隋書』一部を齎(もたら)し,崇文院*に付す。六月五日に至りて,官を差(つか)はして校勘するを勑し,〚時に臣綬、臣燁提點*に命じ,右〈左〉正言*、直史館*張觀*等は校勘す。(張)觀は尋(つ)いで度支判官*と爲し,續けて黃鑑*に命じて之に代る。〛仍(よっ)て版式*を內出*して雕造*す。

〈字釈〉
王劭:字君懋,生卒年不詳。隋代歷史學家。父王松年,北齊任御史中丞。王劭被魏收聘為參開府軍事,北齊官至中書舍人,北周時,仍為中書舍人。入隋授著作佐郎,在家編《齊書》。內史侍郎李之操告發王劭私撰國史。隋文帝派人沒收其著作,覽後大為高興。任員外散騎侍郎,負責撰修起居注。撰成《皇隋靈感志》30卷,另著有《隋書》80卷、《齊志》20卷、《齊書》紀傳100卷、《平賊記》3卷、《讀書記》30卷。王劭好採集迂誕不經的故事及傳聞軼事,故《隋書》對他評價不高:“好詭怪之說,尚委巷之談,文詞鄙穢,體統繁雜;直愧南、董,才無遷、固,徒煩翰墨,不足觀採”。by 維基百科。
纂:あつめる。あつまる。(書物などを)編纂する。
起居舍人:是中國古代官制,隋煬帝始置,隸属内史省。唐初廢舍人,改為起居郎。顯慶三年(658年),另置起居舍人,隸属中書省。龍朔二年(662年)改起居舍人爲右史,記載皇帝言行與国家大事,並送史館記錄存留。宋朝沿置。by維基百科。
令狐德棻:れいこ とくふん(583年 - 666年)は唐の歴史家。二十四史のひとつ『周書』の主編者として知られる。本貫は敦煌郡效穀県。一族は早くに宜州華原県に移り住んでいたので、華原の人とも言う。by Wikipedia。
奏請: 天子に申し上げて裁決を請う。そうしょう。
中書令:ちゅうしょれい。中国の前漢から明代にかけて存在した官職名。漢代の中書令は内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長であり宦官が就任し、宦官となった司馬遷も就任した。宣帝以降、側近として重用され、中書令の弘恭や石顕が権力を握った。しかし成帝の時に廃止された。その後、魏の文帝の時代に復活し、宦官ではない皇帝の側近が就任した(孫資・李豊など)。さらに、中書令の役所である中書省が創設された。当初、中書省の長官は中書監といわれ、中書令はその次官であった。西晋期の官吏目録に中書監に荀勗、中書令に和嶠という記録がある。隋と唐初には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は参議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった。北宋になると名誉職となっていたが、元代には名前だけを流用されて行政の最高職になった。その後、皇帝独裁を目指す明の洪武帝によって廃止された。中書令の中は禁中の中であり、日本の律令制においての中務省の長である中務卿の官名にも使われた。 by Wikipedia。
封德彝:568年-627年7月18日。名倫,字德彝,以字行,隋朝重要大臣,唐朝初年宰相、密國公,觀州蓨縣(今河北景縣)人。北齊太子太保封隆之的孫子,封子繡之子,在隋朝作楊素的幕僚。其舅盧思道常說:“此子智識過人,必能致位卿相。”最初在隋朝任內史舍人,為楊素所器重,常跟他議論天下事。有一天,楊素摸著他的床說:“封郎終居此坐。”便將堂兄弟的女兒嫁他,成為楊素的侄女婿。大修仁壽宮就是封德彝的謀劃。隋煬帝時,官拜內史舍人,為虞世基所倚重,對於隋末朝政昏亂負有一定責任。宇文化及發動政變後,他又投靠宇文化及,官拜內史令。宇文化及兵敗後,封德彝與宇文士及歸附唐朝,唐高祖拜封德彝內史舍人、內史侍郎。封德彝從秦王李世民東征王世充。武德八年(625年),封德彝被封為密國公,任中書令。封德彝在太子李建成、秦王李世民之間腳踏兩隻船,李世民並不知道。李世民即位後,拜他為尚書右僕射。封德彝的政策和魏徵常常相左,唐太宗也多次批評封德彝。唐太宗令德彝舉賢,可是一直沒下文,便詢問封德彝,對曰:“非不盡心,但於今未有奇才耳。”唐太宗批評說:「君子用人如器,各取所長,古之致治者豈借才於異代哉!正患己不能知,安可誣一世之人。」貞觀元年(627年),封德彝病故,唐太宗贈他為司空,諡號明。唐太宗後來知道封德彝在自己和李建成之間陰持兩端,改諡號為繆。其子封言道,尚高祖女淮南公主,官至宋州刺史。封言道長妹即封德彝女嫁雍州新豐縣令、朝議郎、上柱國司空儉。 by 維基百科。
舍人:是中國古代官職。貴族家裡左右親信或門客,後來成為官職,前冠以頭銜,名稱及職權不同。舍人之名最早見於《週禮·地官》,是國君的親近屬官。秦漢置太子舍人,魏晉有中書舍人,隋設內史舍人,唐初也有內史舍人,後改中書舍人。 《唐書‧職官志》列有中書舍人、太子中舍人、太子舍人、起居舍人、通事舍人、太子通事舍人。宋、元時稱顯貴人家的子弟為「舍人」。明代稱應襲衛所職位的武官子弟為「舍人」或中書舍人。宋朝以後,以「舍人」及「舍」稱官宦、世族、士紳、地主之家的子弟,類似員外,臺灣、中國大陸福建閩南以及廣東潮汕一帶。則冠以「阿」字為首,故稱「阿舍」。by 維基百科。
顏師古:『顔氏家訓』の著者である顔之推の嫡孫である。顔氏は琅邪郡臨沂県をそもそもの本貫とするが、顔之推の九世の祖の顔含の時に江南に渡り、東晋の首都建康で暮らした。顔之推のとき、西魏の軍に連れ去られて長安に拉致されたが、脱出して北斉の首都鄴に移った。その後、北斉が北周に征服されると再び長安に移り、その北周が滅ぼされて隋が開基した開皇元年(581年)、顔師古は生まれた。顔師古は、隋の文帝の仁寿年間(601年 - 604年)に、安養県の県尉となって以来、たえず官僚に身を置いた。唐が建国されると武徳元年(618年)、中書舎人などを歴任し、彼のものした詔勅文は当代随一と賞された。太宗の下では、中書侍郎に就任し、琅邪県男に封ぜられた。貞観4年(630年)、太宗の命により、五経の考定を行い、3年後に定本を上呈した。貞観7年(633年)、天下に頒布された。その後は、国家の渡渉を管理する秘書省の次官である秘書少監の任に就き、諸本を校勘した。貞観11年(637年)、魏徴や房玄齢等と共に五礼の撰定に与かり、『大唐儀礼』100巻を撰した。貞観12年(638年)、太宗は孔穎達らの学者たちに命じて、五経の解釈の統一と、その注釈の作成を命じた。これは貞観16年(642年)に完成し、『五経正義』と名づけられた。180巻。また、皇太子の李承乾の命によって『漢書』100巻の注釈を作成し、貞観15年(641年)に完成させた。最後は、秘書監・弘文館学士のままこの世を去った。 by Wikipedia。
綿歷:長く経過する。
就:官職につく。従事する。とりかかる。しあがる。成す。しとげる。
罷:事を中止する。職をやめる。免職する。
秘書監:① 中国の官名の一つ。秘書省の長官。図書を管理する職。〔後漢書注‐桓帝紀〕② 図書頭(ずしょのかみ)の唐名。〔職原鈔(1340)〕by 精選版 日本国語大辞典。
魏徵:580年-643年1月17日。字玄成,相州內黃縣(今河南省安陽市內黃縣)人,祖籍鉅鹿郡下曲陽縣(今河北省晉州市),隋唐政治家,思想家,文學家和史學家,曾任諫議大夫、左光祿大夫,封鄭國公,諡文貞,以直諫敢言著稱,是中國史上最負盛名的諫臣,輔佐唐太宗創建「貞觀之治」的大業,被後人稱為「一代名相」。著有《隋書》序論,《梁書》、《陳書》、《齊書》的總論等。其言論多見《貞觀政要》。其中《諫太宗十思疏》為最著名並流傳下來的諫文表。 by 維基百科。
左僕射: 左大臣(さだいじん)の唐名。さぼくしゃ。〔職原鈔(1340)〕by 精選版 日本国語大辞典。
房喬:房玄齢。ぼう げんれい。宣政元年(578年)-貞観22年7月24日(648年8月18日)。中国の唐の政治家・歴史家。名は喬。玄齢は字であり、字をもって通称される。斉州臨済県の人。本貫は東清河郡繹幕県。杜如晦と共に太宗李世民の謀臣として玄武門の変において李世民の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。 by Wikipedia。
總(揔)監:事務や人員全体をまとめ監督する。また、その職。統監。
中書省:ちゅうしょしょう。中国で三国時代の魏から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。by Wikipedia。
秘書內省:官署名。隋始置,為秘書內外三閣之一,兼具收藏、校理和著述職能。唐貞觀三年(629)於中書省置,以修前代史,十年史成即罷。by 中文百科。
中書侍郎:侍郎(じろう)とは、中国の官僚制度の名称の一つ。漢代に創建され、その職務内容は変化しながらも20世紀初頭まで用いられた。漢代の郎官の一種であり、元々は宮廷の近侍であった。後漢以降、尚書の属官となり、始めは郎中に任じられ、満一年後に尚書郎になり、満三年して侍郎となる。以後、尚書台の権利が大きくなるにつれて、侍郎も重要となってきた。隋・唐のとき、首都に、戸礼刑工吏兵の六部が設けられ、国家の政務を司った。その中で、各部に一名の侍郎が置かれ、尚書が主管する事務や実際の執行の補佐をした。現在の内閣の次官に相当する。中書省の副官を中書侍郎、門下省の副官を門下侍郎(黄門侍郎)と呼んだ。宋朝・元朝・明朝・清朝のときも同じである。1368年、明朝を開いた朱元璋は、六部の侍郎を正三品にあげた。以後、清朝も以前の制度を踏襲し、左右侍郎を設け、満洲人・漢人一人ずつ就任させた。また、六部の各部の間に等しく侍郎(ashan i amban)を四人おいた。位は従二品である。 by Wikipedia。
顏師古:がん しこ。581年-645年。中国・唐の学者。諱は籀、師古は字である。祖父は顔之推。父は顔思魯。本貫は琅邪郡臨沂県。顔師古は、『顔氏家訓』の著者である顔之推の嫡孫である。顔氏は琅邪郡臨沂県をそもそもの本貫とするが、顔之推の九世の祖の顔含の時に江南に渡り、東晋の首都建康で暮らした。顔之推のとき、西魏の軍に連れ去られて長安に拉致されたが、脱出して北斉の首都鄴に移った。その後、北斉が北周に征服されると再び長安に移り、その北周が滅ぼされて隋が開基した開皇元年(581年)、顔師古は生まれた。顔師古は、隋の文帝の仁寿年間(601年 - 604年)に、安養県の県尉となって以来、たえず官僚に身を置いた。唐が建国されると武徳元年(618年)、中書舎人などを歴任し、彼のものした詔勅文は当代随一と賞された。太宗の下では、中書侍郎に就任し、琅邪県男に封ぜられた。貞観4年(630年)、太宗の命により、五経の考定を行い、3年後に定本を上呈した。貞観7年(633年)、天下に頒布された。その後は、国家の渡渉を管理する秘書省の次官である秘書少監の任に就き、諸本を校勘した。貞観11年(637年)、魏徴や房玄齢等と共に五礼の撰定に与かり、『大唐儀礼』100巻を撰した。貞観12年(638年)、太宗は孔穎達らの学者たちに命じて、五経の解釈の統一と、その注釈の作成を命じた。これは貞観16年(642年)に完成し、『五経正義』と名づけられた。180巻。また、皇太子の李承乾の命によって『漢書』100巻の注釈を作成し、貞観15年(641年)に完成させた。最後は、秘書監・弘文館学士のままこの世を去った。 by Wikipedia。
給事中:きゅうじちゅう)は、中国の官職名。前漢においては、大夫、博士、議郎などに他の官職に加えて任官される加官であった。顧問応対を職とし、位は中常侍に次いだ。後漢では廃止されたが、魏になって再び置かれ、晋以降においても存続した。『旧唐書』職官志によれば門下省に属する正五品の清官で定員4名であった。 by Wikipedia。
孔穎達:く えいたつ。建徳3年(574年)-貞観22年9月18日(648年10月10日)。中国初唐の儒学者。字は沖遠、諡は憲。冀州衡水県(現在の河北省衡水市桃城区)の出身。孔子の32世の孫と称している。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。名前の日本語読みに関しては、漢音では「こうえいたつ」であるが、平安時代以来の慣行で呉音の「くえいたつ」「くようだつ」などと読み習わされる。 by Wikipedia。
著作郎:中國古代官名。三國魏明帝於太和中始置著作郎一職官,屬中書省,負責撰述國史。下設有著作佐郎、校書郎、正字等。晉朝改屬秘書省,改名稱叫大著作郎。南朝後期爲貴族子弟初任之官職。魏晋及南北朝多以著作郎兼修《起居注》,北魏始置“起居令史”專修《起居注》。唐代亦設有著作郎,仍屬秘書省,高宗龙朔年间秘书省改稱司文局,不久著作郎又改称司文郎中,咸亨元年(670年)十二月,皆復舊稱。著作郎在唐朝主要工作是創作碑誌、祝文、祭文,當時善撰文者被稱為“大手笔”。其中张说和苏颋在當时更称“燕许大手笔”。北宋元豐三年,因元丰改制,改為寄禄官,徒有頭衔而无职事,時人稱大著。明朝以後废除。 by 維基百科。
許敬宗:きょ けいそう。開皇12年(592年)-咸亨3年8月24日(672年9月20日)は、中国の唐の政治家、文学者、歴史家。字は延族。高陽郡新城県(現在の河北省保定市徐水区の西南)の出身。『高祖実録』、『文館詞林』、『西域図志』などの編纂に参与した。 by Wikipedia。
總知:すべてをつかさどるの意か。
損益:①減るとふえると。減らすとふやすと。増減。加減。②損害と利益。
簡正:猶嚴正 by 文学網漢語詞典。
于志寧:うしねい。開皇8年(588年)-麟徳2年11月22日(666年1月3日)は、中国の唐の政治家。字は仲謐。本貫は雍州高陵県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。 by Wikipedia。
太史令:たいしれい。中国歴代に設置された役職の一つである太史寮の長官。秦代以来、置かれるようになった。太史は三代以来の官名であり、政務を総括する三公(前漢では丞相、太尉、御史大夫)の下にあって行政を分掌する九卿の一つである太常(宗廟、礼儀を司る)の属官であり、天文・暦法や祭祀と国家の文書の起草や典籍・歴史を司った。秩禄六百石。漢代には、司馬遷が自著の『史記』中において「太史公曰」という文言を多用したため、後代、太史という用語によって、司馬遷および『史記』を表すようになった。六朝以後は、史官としての職責を担うことはなくなり、ただ天文・暦法のみを職掌とした。明・清代になると、史書の編纂を職掌とした翰林院が太史と別称されるようになった。 by Wikipedia。
李淳風:602‐670。中国,唐初の天文学・数学者。岐州雍県(陝西省鳳翔)の人。太史令を歴任。633年(貞観7),黄道環,赤道環,白道環よりなる三辰儀を備えた渾天儀を新たに作った。《晋書》と《隋書》の天文志と律暦志を編み,また《算経十書》の注釈を行った。高宗のとき,日本では儀鳳暦として知られる麟徳暦を編んだ。彗星の尾は常に太陽と反対側にくる事実を発見し,天文気象現象の記録を整理したが,また《乙巳占》を著した。by 世界大百科事典 第2版。
韋安仁:?-?。一作安化,京兆郡杜陵縣(今陝西省西安市)人,出自京兆韋氏東眷,南陳宣城郡太守、清源縣侯韋翽之孫,唐朝官員。 唐太宗李世民認為南梁、南陳、北齊、北周、隋朝五朝沒有史書,命令學士分別修撰,貞觀十八年(644年)修訂完成,稱為《五代紀傳》,其中的十篇志分為三十卷,沒有內容。唐太宗詔令左僕射于志寧、太史令李淳風、著作郎韋安仁、符璽郎李延壽一起撰寫十篇志,之前的撰寫者只有令狐德棻再度參與。唐太宗去世後,史書才完成,其中篇目雖然編入《隋書》實際卻另外刊行,俗稱《五代史志》。顯慶元年五月己卯(656年6月13日),太尉長孫無忌等人拜謁詣朝堂,將《五代史志》呈送給唐高宗李治,唐高祖詔令將書籍收藏於秘閣。by 維基百科。
符璽郎:官名。漢代有尚符璽郎,為符節令屬官,掌管璽印符節。三國魏稱符璽郎(符璽郎中),七品,西晉省。北魏、北齊置。隋初罷,大業三年(公元607年)改符璽監為符璽郎,員二人,從六品,為門下省符璽局長官。唐初因之,後改符節郎、符寶郎。元末朱元璋亦置,掌管璽印符牌。後改為尚寶司卿。by 百度百科。
李延壽:り えんじゅ、生没年不詳。唐の歴史家。字は遐齢。本貫は隴西郡狄道県(現在の甘粛省定西市臨洮県)。代々相州に住んだ。高祖父は李虔。曾祖父は李曉。祖父は李仲挙。父は李大師。叔父は李行師。李延寿の父の李大師は、隋末に竇建徳に仕えて礼部侍郎となり、竇建徳の滅亡後に会州に流されたが、後に赦された。李大師は編年体の南北朝通史の執筆を構想して、編纂を開始していたが、志半ばで628年に死去した。李延寿は父の未成の南北朝通史を引き継ぎ、16年かけて『南史』80巻、『北史』100巻を完成させた。659年に正史として公認された。李延寿は、唐の太宗に仕えて、太子典膳丞・崇文館学士を務めた。『隋書』や『晋書』の編纂に参与して、御史台主簿となり、直国史を兼職した。最後は符璽郎に任ぜられ、修国史を兼任して、まもなく死去した。他に『太宗政典』30巻があった。 by Wikipedia。
勒成:木に刻する。by 普及版 字通。
太尉:古代中国における官職名で、今風に言えば、軍事担当宰相であり、防衛大臣、国防長官、国防大臣などに相当する。主に文官が任命された。秦及び前漢では三公の一つとして重要な役職であったが、『史記』や『漢書』を見る限りでは、丞相や御史大夫と違い、常設されなかったようである。他の三公同様、自らの府を開いて(開府)属官を任命することが許されていた。前漢の武帝の建元2年(紀元前139年)に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は大司馬を冠した将軍が太尉に相当したようである。また、『漢書』黄覇伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。後漢の光武帝の建武27年(51年)、大司馬が太尉と改称され、太尉は再び三公の一つとなった。三国時代の魏もこれを継承し、賈詡・鍾繇らが就任した。 by Wikipedia。
長孫無忌:ちょうそん むき。生年不詳-659年。中国の初唐を代表する政治家。唐の太宗の長孫皇后の兄であり、唐朝の外戚に当たる。字は輔機。本貫は河南郡洛陽県。唐の凌煙閣二十四功臣の第一位に挙げられた。隋の右驍衛将軍長孫晟(長孫熾の弟)の子として生まれた。長孫氏は、献帝(拓跋鄰)のときに、その兄を拔拔氏とし、後に漢化して長孫氏に改めたという。北魏の道武帝により宗室の長とされ、関隴集団中においても、貴顕中の貴顕とされる門地であった。大業5年(609年)の父の死後は、異母兄の長孫安業と折り合いが悪く、母方の伯父の高士廉を頼った。長孫無忌は学問を好み、文章や史書に通暁した。大業13年(617年)、唐の高祖李淵が太原で起兵して長安を奪うと、長春宮で謁見を受けて、渭北道行軍典籤に任じられた。李世民の征戦に従軍し、比部郎中に累進し、上党県公に封ぜられた。武徳9年(626年)の玄武門の変のとき、房玄齢・杜如晦らとともに襲撃の計画を定めた。李世民が皇太子となると、その功績により、太子左庶子に昇進した。太宗の即位後、左武候大将軍となった。貞観元年(627年)、吏部尚書に転じ、功績第一として斉国公に進封された。唐の元勲・外戚として礼遇を受け、内廷に自由に出入りできた。同年のうちに尚書右僕射となった。ときに唐は突厥の頡利可汗と盟約を結んでいたが、突厥の内紛にともない、突厥を攻めるように勧める臣下が多くなった。太宗は蕭瑀と長孫無忌に突厥に対する政策を訊ねた。蕭瑀は「攻撃するのがよろしい」と答えたのに対して、長孫無忌は「来るのを待てばよろしい(盟約をこちらから破る必要はない)」と答えた。太宗は長孫無忌の答えに「善し」としながら、実際には兵を出して突厥を攻め取った。長孫無忌の権寵が重すぎることから、これを抑制するよう進言する者もいたが、太宗は長孫無忌を信任して重用しつづけた。長孫無忌は諸臣の嫉視をおそれて、みずから長孫皇后を通じて太宗に働きかけ、僕射の地位を退き、開府儀同三司となった。貞観7年(633年)、司空・知門下尚書事に任命されたが、これを断った。高士廉は外戚が三公の地位にあることはよくないと進言したが、なおも太宗は長孫無忌を司空とすることにこだわった。長孫無忌がさらに固辞したので、太宗は許し、威鳳賦を作って賜り、功績を讃えた。趙州刺史となり、趙国公に改封された。のちに司徒に進んだ。貞観17年(643年)、功臣として凌煙閣に列せられた。位は二十四人の中で筆頭である。同年、太宗の長男で皇太子の李承乾が廃嫡されると、第九子(長孫皇后の子としては第三子)の晋王李治を皇太子とすることに成功した。李治を後継ぎに推したのは、第四子(長孫皇后の子としては第二子)の魏王李泰よりも李治のほうが長孫無忌にとって御し易いという目論見からであったとされる。長孫無忌は太子太師・同中書門下三品となった。同中書門下三品の地位はこのときに始まる。太宗によって高句麗遠征(唐の高句麗出兵)がおこなわれると、侍中を兼ねた。帰還すると、太子太師を退き、揚州都督を遙領した。貞観23年(649年)、太宗の臨終にあたって、李治の後見と輔政を託された。高宗が即位すると、太尉に進み、中書令を検校し、門下省と尚書省を領知した。三人の子はみな朝散大夫となった。ときに昭儀の武照(武則天)が高宗の男子を産んだため、これを皇后に立てる議論が起こったが、長孫無忌は武照立后に反対し、数度にわたって高宗に諫言した。しかし、高宗に聴きいれられなかった。永徽6年(655年)に武照が皇后として立つと、顕慶2年(657年)には褚遂良・来済らが謀反を誣告されて左遷され、長孫無忌は宮廷で孤立するようになった。顕慶4年(659年)、許敬宗が李奉節らに指示して朋党事件をでっちあげ、その黒幕を長孫無忌ということにして高宗に訴えた。高宗は許敬宗の弁舌に説得されてしまい、長孫無忌の官爵を削って黔州(貴州省)に流した。許敬宗や李義府がさらにかれの謀反を訴えたため、長孫無忌は配所で首を吊って自殺した。咸亨5年(674年)になって、官爵をもどされ、孫の長孫元翼が爵位を継いだ。長孫無忌は、唐律疏義や隋書の編纂者としても知られた。by Wikipedia。
朝堂:ちょうどう。大極殿、朝集殿とともに朝堂院を構成する殿舎、または殿舎の建ち並ぶ一郭のこと。 by Wikipedia。
秘閣:①大切な文書などを秘蔵しておく庫。②天子の書物を所蔵する書庫。秘館。秘府。by 広辞苑無料検索。
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光祿大夫:中國、朝鮮半島、越南、琉球古代職官名。為君主近臣,依君主詔命行事。 漢代初期分為中大夫、太中大夫、諫大夫。漢武帝時改中大夫為光祿大夫,秩比二千石,為掌議論之官,大夫中以光祿大夫最顯要,西漢後期,九卿等高官多由光祿大夫陞遷上來。晉代始於光祿大夫外加置左光祿大夫及右光祿大夫。隋煬帝以九大夫和「八尉」十七階構成本階,九大夫即:光祿大夫,從一品;左光祿大夫,正二品;右光祿大夫,從二品;金紫光祿大夫,正三品;銀青光祿大夫,從三品;正議大夫,正四品;通議大夫,從四品;朝請大夫,正五品;朝散大夫。唐代、宋代以後成階官之名,為從二品官員。元代又升為從一品,明代以特進光祿大夫爲文職散官最高官階。清代順治年間文職正從一品均稱光祿大夫,在光祿大夫前加「特進」二字,為正一品官,是文臣最高階官。 by 維基百科。
鄭國公:鄭國公,中國古代一等公爵。歷朝封鄭國公者31人,其中出名者有李神通、李光弼、王世充、魏徵、富弼、完顏雍等。by 維基百科。
遜位:帝位や官位を譲る。譲位。
特進:とくしん。古代の中国で功臣に与えられた称号の一つ。唐では正二品の文官に対する散官とされた。 by Wikipedia。
成書:書物としてできあがっているもの。by 精選版 日本国語大辞典。
太子少師:中國封建時期官職。太子少師,是中國古代官名。太子少師與太子少傅、太子少保,簡稱“三少”,原是天子或太子左右最親近的人。“師”是傳授其知識的,“傅”是監督其行動的,“保”是照管其身體的,即分別是負責君主智育、德育、體育的人。隋唐以後,太子的師傅均以別的官銜任命,“三師”、“三少”公為加官贈官的官銜,沒有職事。宋代“三師”是宰相、親王的加官官銜。“三師”是正一品,“三少”是從一品。明、清兩代,“三師”為從一品,“三少”是正二品。by 百度百科。
許敬(恭)[恭]宗:きょ けいそう。開皇12年(592年)-咸亨3年8月24日(672年9月20日)。中国の唐の政治家、文学者、歴史家。字は延族。高陽郡新城県(現在の河北省保定市徐水区の西南)の出身。『高祖実録』、『文館詞林』、『西域図志』などの編纂に参与した。 陳の許亨の孫、隋の礼部侍郎を勤めた許善心の子。彼は若くして文章に優れた。隋の大業年間に秀才に挙げられ、淮陽郡司法書佐に任ぜられ、また通事舎人をつとめた。父が宇文化及のために惨殺されると、逃れて李密の下で元帥府記室となった。唐の武徳初年に、唐に帰順して漣州別駕に任ぜられた。秦王李世民(太宗)に召されて、文学館学士となり、秦王府十八学士のひとりに数えられた。貞観年間に、著作郎をはじめ、中書舎人、給事中、黄門侍郎、太子右庶子などを歴任した。李治(高宗)の代になると、中書令に昇進した。やがて李義府と共に、武則天(武氏)を擁立して、権力を振るい、政敵である同姓の許圉師を罪に陥れたりした。さらに亡き太宗の腹心であった長孫無忌と褚遂良を流罪にして死を賜るように高宗に積極的に進言したのも、武則天の意向を受けた許敬宗だったようである。咸亨3年(672年)8月、81年の生涯を閉じて、「恭」と諡された。 by Wikipedia。
左授:降官;貶職。官位等級を下げる。
著作佐郎:中國古代官名。三國魏太和年間,始置佐著作郎,協助著作郎修撰國史及《起居注》。東晉改為著作佐郎。六品。掌蒐集史料,提供著作郎撰史。by 維基百科。
敬播:?~663年。蒲州河東(今山西永濟市蒲州鎮)人,唐朝初年曆史學家。貞觀元年(627),考中狀元。歷任校書郎、著作郎、諫議大夫、給事中,兼修國史,有良史之才。參與修撰《隋書》《漢書》《晉書》《高祖實錄》《太宗實錄》《西域圖》。坐事貶官,出為越州長史。龍朔三年,卒於安州,著有《隋略》二十卷。by 百度百科。
內憂:心のうれい。母の喪。
名位:名声と官位。官名と官位。
褚遂良:ちょ すいりょう。596年 - 658年。唐代の政治家・書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。 by Wikipedia。
御藥供奉:供奉は天子・貴人のそばで用をつとめる。官名。唐代、一芸一能によって宮中に仕えた者。
藍元用:?-1077年。北宋宦官。藍元震與長兄藍元用同為宦官藍繼宗養子。以其兄藍元用的官蔭補入內黃門,轉高班,侍奉太后劉氏。明道元年(1032年)八月二十三年,宮中夜裡起火,小黃門王守規及時發現,太后擁宋仁宗登西華門,元震則傳喚宿衛護駕,事後因功官遷高品。為太祖、太宗、真宗三陵都監,修訂防守法,爾後諸陵仿照他的規式。慶曆四年春天,藍元震上書劾論朝中朋黨,並將矛頭指向范仲淹和歐陽修等人。最後范仲淹於是年六月自請外放。曾任群牧都監,又監三館秘閣。熙寧初,任入內押班,遷皇城使。熙寧三年(1070年),宋神宗派遣中使張若水與藍元震訪查開封府貸放青苗情形,二人回報:“民情深願,無抑配者。”熙寧十年(1077年)二月二十七年,仙韶院發生火災,他與蘇利涉及時救護,大火順利撲滅。同年三月初四日,卒於入內副都知任上。卒贈鎮海軍留後。司馬光撰《涑水記聞》一書多引用藍元震之言。by 維基百科。
聖旨:天子の考え。天子の心。天子の命令。
禁中:也作“禁內”。封建帝王所居的宮苑。因不許人隨便進出,故稱。by 漢典。
崇文院:官署名。中國宋代貯藏圖書的官署。唐太宗貞觀中設崇文館,為太子學館,置學士等官,掌管東宮經籍圖書,以教授諸生。北宋建立後,沿襲唐代舊制,以汴京(今開封市)之昭文館、史館、集賢院為三館,稱為四館。太平興國三年(978),建三館書院,遷貯三館書籍,賜名崇文院。端拱元年(988),就崇文院中堂建秘閣,仍與三館總稱崇文院。元豐改制後仍歸秘書省。by 百度百科。
燁提點:未詳。
右正言:宋代官職名。中書省:又稱“右省”。其長官名為中書令,實際上也有名無職。副長官為中書侍郎。又另委派一名中書舍人任“判中書省事”,真正掌管本省職權。其屬官有右散騎常侍,中書舍人、右諫議大夫、起居舍人、右司諫、右正言等。門下和中書兩省的左、右散騎常侍,左、右諫議大夫,左、右司諫,左、右正言,通稱“兩省官”。by 百度百科。 
直史館:直史館,官名。宋朝初年置,為館職之一,任職一至二年,然後委以重任,並可超遷官階。by 百度百科。
張觀:?-?。字思正,北宋大臣,絳州絳縣(今山西省絳縣)人。張觀年少時誠實好學,聞名鄉里。考取服勤辭學科,選拔為第一,任命為將作監丞、通判解州。當時鹽池吏因為貪贓事情暴露,他沒有舉劾,於是降為監河中府稅。又任果州通判,改任秘書省秘書郎。宋仁宗即位,轉任太常丞,擢升為右正言、直史館,為三司度支判官,同修起居注,改任右司諫、知制誥、判登聞檢院,出知杭州。回朝判國子監,權發遣開封府事,進升為為翰林學士、知審官院,多次升遷官至左司郎中,以給事中權御史中丞。當時流星、地震、雷電發生在正月,宋仁宗下詔徵求直言。張觀上書:“承平日久,政法寬慢,用度漸漸奢侈,風俗漸漸淺薄,所以導致災異。”於是上書四事:一為知人,二為嚴禁,三為尚質,四為節用。河北大雨成災,又上奏七事:“疏導積水以擴大播種,緩催拖欠以減少禁錮,寬刑罰以清理積案,收回逃田以招募百姓歸复鄉,罷除工役以先解決當務之急,止配率以豐富百姓財富,通商旅以解決糧食困難。”再任知審官院,不久拜同知樞密院事。康定年間,對西夏作戰失利,由於宰執議論點鄉兵,久久不決,於是與王鬷、陳執中一起罷職,以資政殿學士、尚書禮部侍郎知相州。再任澶州。黃河在孫陳埽及浮梁發水,澶州人大為驚恐,有人請逃到北原來躲避水患。張觀說:“太守獨去,州民怎麼辦。”於是親自率卒徒增築大堤,堤防修完,水也退去。張觀轉任鄆州。舊法,京東流通安邑的鹽,而瀕海之地禁止私煮。張觀上書:“利之所在,百姓趨利,雖每天在街市處決,恐怕也不能禁止,請弛禁私煮便民。”於是每年免於黥字發配的人不可勝計。歷任知應天府、孟州、河南府,以吏部侍郎兼御史中丞。因為父親張居業年高多病,請調到輕便的州郡,於是以觀文殿學士知許州。一個多月後,拜左丞。為父丁憂,悲傷過度,父親去世十一個月後就病卒。贈吏部尚書,諡號文孝。張觀性情至孝,初為秘書郎,其父擔任州從事,於是他上書願把官職讓給父親。宋真宗嘉賞他,以張居業為京官。張觀顯貴後,張居業恩賜官至太府卿。張居業曾經路過洛陽,對當地山川風物非常讚歎,說:“我在這裡養老就滿足了。”張觀於是買田宅、營林園,來滿足父親的心意。早起為父親奉藥、膳,然後出去工作,未嚐一日停止。情趣喜好恬淡曠達,廉潔少欲,平生寫字必寫楷書,沒有一字行書草書,像他的為人。宋仁宗飛白書“清”字賜給張觀,來褒賞他的節操。但是治理政事不是他的所長,知開封府時,有犯夜禁的百姓,張觀詰問他:“有人見到嗎?”大家傳為笑話。by 維基百科。
度支判官:未詳。
黃鑑:黃鑑字唐卿,與亢同鄉里,少敏慧過人。舉進士,補桂陽監判官,為國子監直講。同郡楊億尤善其文詞,延置門下,由是知名。累遷太常博士,為國史院編修官。嘗詔館閣官後苑賞花,而鑑特預召。國史成,擢直集賢院。以母老,出通判蘇州,卒。『宋史』文苑四 黃鑑。
版式:指書刊的版面格式 by 漢典。
內出:未詳。
雕造:木、石などを彫って像などをこしらえること。by 精選版 日本国語大辞典。

〈備註〉
1)『旧唐書』経籍志に録される魏徴、応劭の『隋書』
正史類【隋書 八十五卷 魏徵等撰。】
雑史類【隋書 八十卷王劭撰。[校注:隋書 八十卷王劭撰 「劭」字各本原作「邵」,據隋志、新志及 隋書卷六九王劭傳改。] 】
2)遞修本:書版屢經修補後刷印的書本。書版因刷印次數過多或存放長久而漫漶、損壞,經修版、補刻可延長其使用壽命。如南宋紹興間所刻“眉山七史”,書版至明代仍修補刷印,舊稱“三朝本”。by 百度百科。
3)『史通』《內篇 卷五》【隋史,當開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定其篇目。至於編年、紀傳,並闕其體。煬帝世,唯有王胄等所修《大業起居注》。及江都之禍,仍多散逸。皇家貞觀初,敕中書侍郎顏師古、給事中孔穎達共撰成《隋書》五十五卷,與新撰《周書》並行於時。
上,謂梁、陳及齊、周、隋四節所云。仍使秘書監魏徵總知其務,凡有贊論,徵多預焉。始以貞觀三年創造,至十八年方就,原注:唯姚思廉貞觀二年起,功多於諸史一歲。合為一脫「為」字。《五代紀傳》,並目錄凡二百五十二卷。書成,下於史閣。唯有十志,斷為三十卷,尋擬續奏,未有其文。又詔左僕射於志寧、太史令李淳風、著作郎韋安仁、符璽郎李延壽同撰。其先撰史人,唯令狐德棻重預其事。太宗崩後,刊勒始成。其篇第雖編入《隋書》,其實別行,俗呼為《五代史志》。】
4)『玉海』巻四十三【天聖二年六月辛酉校南北史隋書四年十二月畢】