続・虚妄の古田7世紀史

2021年7月18日より2021年8月13日までのツイートを「続・虚妄の古田7世紀史」として追加公開。従前のごとく粗製乱造であるからして、当然のごとくタイプミス、誤変換も多発。いつものように、それはそのままに記念として放置。

藤間生大『倭の五王』を再読していますが、#原田実 氏が『#幻想の多元的古代』巻頭「「多元」と「王朝」」の中で指摘した、藤間生大氏の「多元的な国家」がp138に出てきます。もう一つ原田氏の指摘している『ゼミナール 日本古代史の謎』p146での藤間氏の「多元国家の状態」も古田氏の「多元」に先行。
2021年7月18日 22時21分

p138ではなく、p139。訂正します(^^;)
2021年7月18日 22時30分

『#倭の五王』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

もちろん薮の中にも美しい花は咲く。梁武帝天監元年の倭王武任官が即位2日後との指摘や、古田氏に先んじで「多元」という語を用いている点などである。巻末「五世紀史研究のすすめ」に当時の香りが。
#藤間生大
2021年7月19日 11時2分

#原田実 氏の『幻想の多元的古代』p15に、古田氏による王朝の定義が引かれています。

王朝というからには、自主独立性をもっていなければならない。他の権力からの支配を受けたり、他の政権に服属している従属勢力、つまり〔地方政権〕に対して、これを王朝と呼ぶことは出来ない。
2021年7月19日 14時53分

続けて古田氏は中国の天子からの〔倭王授号〕問題とは異なるとして、それを省き、考古学的な出土物を王朝の徴証として取り上げ、原田氏もそれに沿って古田氏の王朝論を批判を展開します。

私は少しひねって「自主独立性」を突いてみたいと考えます。
2021年7月19日 14時58分

古田氏の九州王朝説によれば、当然7世紀においても筑紫において九州王朝が存続していたはずですが、7世紀を通して『日本書紀』上、30件ほども出現する筑紫大宰などの官職がヤマトから任じられたものでないことを証明せねばならないはずです。
2021年7月19日 15時2分

そうでなければ、九州王朝が「他の権力からの支配を受けたり、他の政権に服属している従属勢力、つまり〔地方政権〕」であることを認めざるを得ないことになり、古田氏自身の掲げた定義が九州王朝説を否定することになります。
2021年7月19日 15時4分

いや、筑紫大宰が記録上出現する以前の段階、つまり磐井の乱後のヤマトによる筑紫制圧という『書紀』の明確な記述を否定し去らなければ、6世紀前半以降の九州王朝の存在も、それを裏づける根拠に乏しいと言わざるを得ません。
2021年7月19日 15時7分

もちろん、筑紫大宰ヤマト任官を否定しようとするなら、古田氏が他者に対した如く〝必要にして十分な偽作の論証〟が厳しく求められます。
hyena_no_papa @hyena_no
まあ、驚きますね。古田氏が『日本書紀』を好きなように切り刻み、取捨選択我田引水するにあたって〝必要にして十分な偽作の論証〟をやったのでしょうか?

身勝手な憶測で自分に都合のいいように解釈しているだけで、そこには、必要にして十分な「論証」など何も無いと思いますよ。
午後1:41 · 2021年6月14日
2021年7月19日 15時36分

藤間生大『倭の五王』からもう一点。p129。劉宋武帝即位が永初元年(420)6月丁卯。高句麗王高連(長寿王)を征東大将軍へ、百済王扶餘映(腆支王)を鎮東大将軍へ進号したのが7月甲辰。この間21日。「両国の使者がきてはじめておこなわれたものではなく」と。

倭王讃遣使は翌永初二年(421)。
2021年7月20日 10時36分

倭の五王に関して、古田氏の「衙頭の論証」を読んでいますが難儀しています。「衙」の一文字を以て磐井が南朝梁の大将軍だった(自称?)と。『梁書』では倭王の所居が祁馬臺国にあり、水行陸行二ヶ月と書いてあるんですよね。畿内ヤマトとしか考えられませんが、、、

「大宰」も自称?ワカラン。
2021年7月21日 11時52分

「江戸しぐさ」と「親学」――オカルト化する日本の教育 @d3_editorsより

「根拠のない「偽史」や「ニセ科学」を、安易に教育に採用してはならないのです」は仰るとおりですね。昔「2001年宇宙の旅」のモノリスを「サムシング・グレート」的に理解したものですが、、、
2021年7月21日 13時50分

森貞次郎『岩戸山古墳』p29

中国では、魏の曹操が、建安一〇(二〇五)年に石製祠堂・石人・石獣・石柱・石碑を禁断した

との岡崎敬氏の所見を引用しています。一方で、中国南朝には石造文化があったとも。悩ましいことです。
2021年7月21日 14時10分

「衙頭の論証」は『市民の古代 第四集』古田武彦講演録「九州王朝の風土記」と、それを簡約した『歴史と旅』83年7月号「特集・古代十五王朝の謎」寄稿の「九州王朝」の二つかと思います。

古田氏は自身の考察を「論証」と仰ってますが、想像を並べただけのようにしか思えません。
2021年7月21日 17時16分

先に「衙」の一文字を以て磐井が南朝梁の大将軍だった(自称?)と書きましたが、途中経過を簡単に説明すれば、「衙」は『釈日本紀』所引『筑後国風土記』に見える磐井の墓、岩戸山古墳の「衙頭」と呼ばれる区画の「衙」なんですね。
2021年7月21日 18時16分

古田氏は、

五、六世紀の中国の文献によると、「将軍ないしは大将軍の本営」を指している。つまり、磐井は自分の本営を「衙」と称している。ということは、磐井が自分を中国風の将軍ないしは大将軍だと考え、かつ自負していたことをしめす。

と断じます。「衙」一文字で、です。
2021年7月21日 18時18分

そして、

それでは中国の「将軍」ないしは「大将軍」となった痕跡が、日本列島の王者にあるかというと、ある。磐井だ。磐井は筑紫の君である。この筑紫の君こそが倭の五王を名乗った大将軍であった、というこれは明確な一証拠である。

と。『歴史と旅』から引いています。
2021年7月21日 18時19分

『筑後国風土記』には「衙頭」に「衙頭政所也」との細注が付いています。『広辞苑』によれば「政治・庶務をつかさどる所」。おおよそそんな意味でしょう。石造物からして猪盗人の裁判の如くです。

それが古田氏の手にかかると「倭の五王を名乗った大将軍」というのですから、まずここで難儀します。
2021年7月21日 18時27分

「衙頭」は古田氏によれば「衙のほとり」の意だとか。『市民の古代』p17では、

〝政治の中心である「衙」のほとり〟という意味です。近くに「衙」があるという事です。それは「府」と呼ばれた、あの太宰府でしょうね。

『壬申大乱』では吉野ケ里から雄淵の滝までの約20Kmに驚きましたが、、、
2021年7月21日 18時32分

岩戸山古墳から太宰府まで約40Kmです。これが〝ほとり〟。約40Kmと言えば、京都市から奈良市までの距離に近い。こういう解釈を〝飲み込め〟と言われても、そりゃムリというものです。

『筑後国風土記』には磐井の墓について【縣南二里】と明記してあります。つまり「衙」とは郡衙のようなものか。
2021年7月21日 18時43分

九州王朝説というのは、根拠とする国内史料が乏しいので、何でも強引に解釈して援用しようというのでしょう。

磐井が南朝の大将軍と解釈されるんですが、古田氏が『市民の古代』でも引く『梁書』では梁の天監元年武は「征東将軍」に進号されます。
2021年7月21日 18時49分

この征東将軍は「征東大将軍」の誤であろうという説もありますが、原文に忠実なる古田氏であれば、天監元年、つまり磐井が受号したのは「征東将軍」であることを認めねばなりません。まあ、これくらいはかすり傷でしょうが、、、
2021年7月21日 18時51分

この先が一段と難儀します。『歴旅』p105

これと関連すると思われるものに「大宰府」という言葉がある。これは『宋書』の中(武三王伝など)にでてくる。大将軍よりさらに上の位、天子の下の最も重要な位を「大宰」という。その「大宰」が自分の政治的な中心「府」を呼ぶ場合、「大宰府」といった。
2021年7月21日 18時53分

武は開府儀同三司という言葉を使い、「府」を自分で開いたから、これを承認して欲しい、といっている。従って武は、自分の本拠を「何々府」といっていたはずだ。おそらく安東大将軍のさいは「安東府」と称していたに違いない。この安東府がさらに「出世」すると「大宰府」になる。「自称」であろう。
2021年7月21日 18時54分

「出世」って何でしょう?将軍号は乱発しますし、蛮夷の王が自称することもありそうですが、「太宰」は一人です。

磐井が「出世」して「太宰」つまり、南朝の「天子の下の最も重要な位」を自称した?

南朝の都は代々建康。天子はそこにいます。しかるに太宰は倭国の筑紫にいて「太宰」を自称した?
2021年7月21日 19時1分

参考までに。古田氏の言う『宋書』の「ダザイ」は「太宰」であって「大宰」ではありません。同様の文脈中で『歴史と旅』では「大宰府」と書き、『市民の古代』では「太宰府」と書いています。
2021年7月21日 19時5分

細かくなりますが、「」無しの太宰府も近傍で使われていますが、「倭の五王の本拠は、やはり太宰府であろう」という文ですから、現在の地名としての太宰府のことでしょう。

更に続きます。
2021年7月21日 19時8分

さらに「衙頭の論証」がここに加わると、間違いなく磐井は中国の「何々将軍」を名乗り、自分の本営を「衙」と称していたことが裏づけされる。

全ては「衙」が「将軍ないしは大将軍の本営」を指しているという独善的解釈に始まり、磐井がいつの間にか中国の「何々将軍」を名乗ったことになり、
2021年7月21日 19時10分

そして、

自分の本営を「衙」と称していたことが裏づけされる。

と。何ですか?こりゃ、、、

衙⇨将軍⇨衙と称していたことが裏付けされる!理解不能!
2021年7月21日 19時12分

マジックショーで、ステッキから花束が飛び出すマジックを見ているようです。

「衙」を「将軍ないしは大将軍の本営」を指しているという独善的解釈に始まり、これだけの解釈を繁らせることができるのは才能と言えば才能なんでしょう。
2021年7月21日 19時16分

締めが、どこかで聞いたようなフレーズ。

今後、近畿の天皇が倭の五王であるという旧来の主張の論者は、この「衙頭の論証」への的確な反証を行なった上で、ということにお願いしたいと思う。

デジャヴュ:その人々(たとえば赤松氏)に対してこそ〝必要にして十分な偽作の論証〟が厳しく求められる。
2021年7月21日 19時19分

『筑後国風土記』の「衙頭」には「政所也」という細注が施されているわけです。古田氏がもしこの細注の解釈を誤りというのなら、それこそ〝必要にして十分な論証〟が厳しく求められるのではないかと思うのですが、、、

政所で行われた猪盗人の裁判が、中国南朝の大将軍となり、果ては太宰にまで!
2021年7月21日 19時22分

『市民の古代 第四集』p17から引きます。

という事で筑紫の君は自らを中国式の大将軍と自称し、或いは与えられていたかもしれませんが、そういう存在である、ということになるわけです。そうすると「大将軍」を称した倭の五王というのは当然、「筑紫の君」であるという事になってくるわけです。

は?
2021年7月21日 22時37分

あなたは犯人です!ですから、犯人はあなたという事になってくるわけです!

なんじゃらほいっ(~_~;)
2021年7月21日 22時38分

だから磐井は、倭王武がものすごく長生きしたとすれば、倭王武=磐井である可能性も絶無ではございませんでしょう。倭王武は六世紀の始め、五〇二年くらいですかな、そこで称号を貰っているのが梁書に出てまいります。磐井が出てくるのは五三〇年前後のところですからね。〈続く〉
2021年7月21日 22時40分

ですからものすごく長生きすれば武でないこともないでしょうが、まあ普通に考えれば、武の次か、その次ぐらいの代にあたるのが磐井だと思われるわけです。それが要するに中国の「大将軍」を称していたという事でございます。〈続く〉
2021年7月21日 22時41分

以上の論証によりまして倭の五王が従来の「定説」、現在も教科書を支配している「定説」の、近畿天皇家ではない、筑紫の君であるという事が証明できたと、私は考えるわけでございます。〈引用一旦終わり〉

はい?どこが「論証」?どこが「証明」?
2021年7月21日 22時43分

『筑後国風土記』の「衙」の一字から飛躍した空想を繁らせただけのことではありませんか?

「衙」の解釈以外に、磐井が南朝から将軍号を受号していたという根拠は何ですか?全く示されていませんよね?『宋書』に太宰、太宰府が出てくる。それが何の根拠になるんでしょうか?"
2021年7月21日 22時46分

そんな空想を羽ばたかせる前に、実証をモットーとする古田氏ならば、夷蛮の王が太宰に任じられたり、自称したりしたという事例を挙げねばならないでしょ?

それが出来なければ、古田氏の「論証」とか「証明」とか言うものは無根拠の空想と断じざるを得ません。
2021年7月21日 22時50分

『歴史と旅』と似たような文で、この文脈を終えています。

だからこの点も、いやそうじゃない、依然として近畿天皇家だ、とおっしゃる学者、研究者があれば、今の私の論証はどこがどう間違っている、という風にハッキリ言っていただければいい、という事になります。
2021年7月21日 22時51分

以前のツイートのバージョン:
A「私は論証、証明した!
B「それは根拠に乏しい空想にすぎない!
A「空想にすぎないというのなら必要にして十分な反論をしていただきたい

古人の記した【衙頭政所也】が不当な解釈だというのなら、古田氏こそ、必要にして十分な反論をしていただきたい!
2021年7月21日 22時55分

どうして古田氏の論述は、かほどに繁りに繁るのか?ひとえに国内史料の欠乏に基づくものと見ていいでしょう。『筑後国風土記』にしても奈良時代書紀、和銅六年大和朝廷によって撰進が定められたとされますから、ヤマトの記録。古田氏はその頃に禁書が行われたと言ってませんでしたっけ?
2021年7月21日 23時10分

禁書令が出されるくらいの時代に撰進された『風土記』に、筑紫の君が南朝の大将軍になった!などということを窺わせる記述があろうはずもないでしょうに、、、

それとも自分は「衙」の一字から〝真実〟を見抜いたのだ!とでも思ってたのか?「政所也」という古人の付注を却けて。
2021年7月21日 23時14分

書紀⇨初期です。訂正します。
2021年7月21日 23時16分

武と雄略の在位期間が一致しないことを、ここでも(歴史と旅、市民の古代)でも述べていますが、「一致しない」というのは、『記紀』の没年干支を信じているからですよね?あれだけ偽書呼ばわりしてきたのに?

『記紀』間でも没年干支は大幅に違います。踏み板の朽ちた吊橋を渡っているようなもの。
2021年7月21日 23時29分

『歴史と旅』「衙頭の論証」の次項目は「磐井の反乱と九州年号」。その中に以下のような記述が!

この時期、磐井軍の精鋭は高句麗、新羅側の圧力に抗して戦っていた(任那日本府)。

この件は先日も取り上げた記憶がありますが、史料的根拠など無いでしょうに。と言いつつ、続きを読んでしまう(- -;)
2021年7月22日 10時16分

ありゃ、、、

第五番目は「磐井の反乱」である。

と書き出すので勇んで呼んだら1頁ほどしか無かった!しかし、『書紀』から【長門以東朕制之、筑紫以西汝制之】は引くのに、その後の大伴金村父子の事績については無視!「磐井軍の精鋭」なんたらは『書紀』を〝読まない人〟にしか通用しません。
2021年7月22日 10時32分

『歴史と旅』p106
一方、麁鹿火の軍は久留米あたりで戦ったにすぎぬ。磐井側にはまだ〝無傷の肥後〟があった。

なるほど!それで「肥後の翁」の登場となるわけなんですね?
2021年7月22日 10時37分

天皇家(近畿分王朝)にしてみれば、磐井側の南北の精鋭からの総反撃を考え、素早く和睦した。

「磐井側の南北の精鋭」など、どこにもその影は見えません。幻です。無根拠の空想にすぎません。
2021年7月22日 10時40分

私はそのように理解している。

こういう現象を「理解」とは言わないと思いますよ。根拠がないのですから〝夢想〟と言ったほうが正しいでしょう。
2021年7月22日 10時41分

言いかえれば「磐井は死んでも、その国は滅びてはいない」のである。

1973/8/8刊『失われた九州王朝』p340で、古田氏は「磐井王朝の滅亡」と言いました。『歴史と旅』は1983/7月号。10年にして「磐井王朝の滅亡」は撤回したと「理解」していいんでしょうね。
2021年7月22日 10時46分

p106から続けます。

このことは反面、近畿分王朝が母屋(九州王朝)を討ったという、いわば「反逆の罪」という一つの問題を抱えることになったもの、と思われる(『日本書紀』作成の一因)。

何の根拠もない空想物語です。
2021年7月22日 10時52分

そんな空想に「的確な反証」やら「どこがどう間違っている、という風にハッキリ言」う専門家など、おらんでしょう。
2021年7月21日 23時0分

ヤマト王権の成立時期(記憶に基づいてなんとなく。九州王朝説は除く)
57:倭奴をヤマトと読む。
107:倭国王帥升がヤマト王権の始祖。
180頃:卑弥呼共立時にヤマトに王権誕生。
247-266:卑弥呼死後、臺與がヤマトに東遷。
280頃:邪馬台国東遷しヤマト王権に。
2021年7月22日 15時12分

『歴史と旅』p107では「第六番目に九州年号の問題」。約1頁を費やしています。しかし、いつも思うんですが、古田氏等が取り上げる九州年号の記事中に、九州王朝の人名が出てこないんですよね?磐井とか多利思北孤とか。逆に、ヤマトの天皇や聖徳太子、蘇我馬子まで出てくる。ドユコト?
2021年7月22日 15時20分

それどころか、『如是院年代記』光充3年(607)には小野妹子入隋記事まであるとか。

古田氏はどこかでこれらの件について解説しておられるのかしらん、、、
2021年7月22日 15時40分

あと、若井敏明氏の『謎の九州王権』では、倭の五王(5c)以降がヤマト王権としますが、成立時期に触れていたかは記憶がありません。九州王朝説ではヤマト王権の成立時期が、どうもはっきりしないんですね。神武東征(東遷?)はあった!説のようなので、その辺りかと思うんですが。
2021年7月22日 15時47分

『歴史と旅』p108「多利思北孤の問題と白村江の戦」。ここでも九州年号について持ち込んでいますが、下記ツイートのご案内で済ませましょう。
https://twitter.com/hyena_no/status/1406126146308100096?s=20
2021年7月22日 16時15分

九州年号とやらには磐井や多利思北孤が出てこない。代わりにヤマトの天皇や聖徳太子や蘇我馬子や、果ては小野妹子まで出てくる。

ホントに九州王朝の天子が定めた元号なんですか?
2021年7月22日 16時6分

第八が白村江。

『日本書紀』では当然、これは近畿天皇家の主導する戦として描かれている。ところが『旧唐書』、つまり中国側の史書では近畿天皇家(「日本国」)の戦ではない、「倭国」との戦いであったという。

として、『旧唐書』百済伝を引きます。
2021年7月22日 16時24分

おかしいですね。同倭国伝には白村江など一言も書いてありません!不思議ですよね。古田氏はp109にかけて、白村江で戦って敗れたのは倭国だ!と力説しますが、『旧唐書』倭国伝には白村江の戦が一切書かれていない件について一言も触れません。
2021年7月22日 16時28分

以下のように述べます。

ところが、白村江で戦って敗れたのが、「倭国」、すなわち九州王朝とすれば、全く矛盾しない。九州王朝は白村江の戦で滅亡が決定づけられ、形式的にも七世紀末には消滅した。

百済が滅亡したことは『旧唐書』に詳述されます。倭国が白村江で戦った記述など皆無!
2021年7月22日 16時31分

古田氏が信拠する『旧唐書』倭国伝における白村江不記載について、古田氏は問題提起すらしていないんじゃないでしょうか?

p109上段で『日本書紀』は天皇家以外の王朝を一切認めず、仮に存在しても記録しない、そういう姿勢で編まれている史書である。

不思議なことを仰る。
2021年7月22日 16時36分

「仮に存在しても記録しない」ということが古田氏はどうして断言できるんでしょうか?九州王朝の実在は既に証明済みだ!という立場に立つからこその表現ですよね。でも、そんな実在、証明されておりません。古田氏が声高に主張しているだけ。なので、「そういう姿勢」も無意味。
2021年7月22日 16時38分

んで、『日本書紀』の「姿勢」をとやかく言ってますが、『旧唐書』倭国伝に、白村江が一切書かれていないことについては無言!

どして?劉仁軌伝や百済伝には書かれてあるのに、どうして倭国伝には書かれてないの?
2021年7月22日 16時44分

九州王朝説の貴重な根拠となる『旧唐書』。その倭国伝には残念ながら、白村江の戦は全く書かれてありません。なのに、古田氏は白村江で戦った倭国は九州王朝だ!と力説します。

ならば『旧唐書』にイチャモンつけましょうよ!なんで書かないのだ!って、、、
2021年7月22日 16時51分

因みに、『旧唐書』劉仁軌伝では白江で遭遇したのは【倭兵】ですが、百済伝では【扶餘豐之眾】。ただし、【倭眾並降】ともありますので、倭兵が参戦していたことは確かでしょう。
2021年7月22日 17時2分

p109上段。

ところが中国の史書となると、禅譲とか革命という王朝交替の論理ができているので、日本側のような〝姑息〟な手法の必要がない。『日本書紀』の場合は、九州王朝を抹消し、琉球国も蝦夷国も、その独立性を一切無視している。

「九州王朝を抹消し」って、最初から無いものは「抹消」不可!
2021年7月22日 17時6分

しきりに『日本書紀』に根拠のない難癖を付けていますが、『旧唐書』倭国伝に白村江の戦が一切書かれていないことには沈黙。
2021年7月22日 17時7分

しかし、中国側の史書では、全く相手国を書き替える必要がない。従って「倭国」、すなわち九州王朝が相手の交戦国だったと、はっきり書く。

あのう、倭国伝には一切書かれてありませんが、、、「九州王朝が相手の交戦国だった」なんてことは、、、
2021年7月22日 17時9分

その天皇家だけは、滅びるどころか、七世紀後半から八世紀にかけて、ますます隆盛する。これは『日本書紀』をもとにして考えたのでは、絶対に解けない不可解な謎だ。

何を大仰な!古田氏は『旧唐書』百済伝を読んだ上で、こんなことを言うのか?
2021年7月22日 17時18分

百済再興の頭だった百済王扶餘豊は逃亡、他の王族も降伏して百済は滅亡したんです。

倭国、つまり畿内ヤマト王族の枢要な誰かが逃亡したり、降伏したりしましたか?してないでしょ?派遣軍が敗北しただけ。「不可解な謎」などどこにもありません。
2021年7月22日 17時21分

天智2年(663)9月、【是時、國人相謂之曰 州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日】という記事があります。

州柔城陥落が百済という国家滅亡の象徴だったのでしょう。「百濟之名絶于今日」です。
2021年7月22日 17時26分

古田氏は高句麗滅亡にも言及しますが、総章元年11月、李勣率いる唐軍が平壌城を落し宝蔵王が捕虜となります。こうやって百済、高句麗両国は滅んだのです。

古田氏の信拠する『旧唐書』に倭国=九州王朝の都城が陥落したりその王が降伏したり捕虜になったと書いてありますか?ないですよね?
2021年7月22日 18時18分

皮肉なことに、あれだけ腐していた『日本書紀』に書かれてある薩夜麻の帰国を、九州王朝の王だと。

白村江で敗れた中心権力者(倭王)は「筑紫君薩夜麻」たちだったからです。(『法隆寺論争』p41)

そんなことは『旧唐書』にも『日本書紀』にも書かれてはありません。根拠に乏しい空想です。
2021年7月22日 18時23分

つくづく安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』に書かれる「九州王朝は蜃気楼(かいやぐら)にすぎない」という言葉が重く響いてきます。

古田氏の壮大なストーリーには、実際の史料的根拠が乏しいのです。乏しいゆえにものすごい空想と熱意で九州王朝説を創り上げたのです。
2021年7月22日 18時27分

最初にも書いたように「王朝の定義」を古代史学の中で、今回のこの企画を一つの出発点として、学者も古代史マニアも古代史ファンも、みんなで討論し合ってゆくことが望ましい。〈続く〉
2021年7月22日 18時34分

『歴史と旅』寄稿の末尾。

最後に、私は筑紫の「地方政権」を美化し、誇大に扱うために「王朝」という名前を冠したのでは決してない。九州王朝こそ七世紀末まで、大義名分の中心だったからである。〈続く〉
2021年7月22日 18時34分

この企画がそのための一つの契機になってくれれば、日本古代史学にも、今までとは格段に違った深みと広がりが加わってくるのではなかろうか。(了)

はい、古田氏の掲げた「王朝の定義」を振り返ってみましょう。
2021年7月22日 18時35分

p102
王朝というからには、自主独立性をもっていなければならない。他の権力からの支配を受けたり、他の政権に服属している従属勢力、つまり〔地方政権〕に対して、これを王朝と呼ぶことは出来ない。

筑紫太宰はヤマトから派遣されました。よって7cの九州王朝は「王朝」の名を冠するに値しません。
2021年7月22日 18時37分

その前世紀、磐井の乱後の官家、屯倉記事。それに大伴の磐の筑紫執政等々、筑紫はヤマトの制圧下に入っています。

何も史料的根拠のないところに九州王朝なるものを唱えようとしても、畢竟無理筋であることは明明白白なのです。
2021年7月22日 18時42分

倭の五王から磐井にかけての話にツッコミを入れるつもりだったのですが、いつの間にか7世紀に乱入してしまいました(・_・;)

九州王朝説は大まかに4つのステージに分かれます。
1.漢委奴国王
2.邪馬台国
3.倭の五王
4.隋唐代
2021年7月22日 18時54分

1.漢委奴国王についてはほぼ異論はないでしょう。
2.邪馬台国は所説あり。
1,2は九州を舞台としているとの主張は別段ムリではありません。問題は3,4です。3は『記紀』の没年干支を信じている点で立論に難があり、4は論外。
2021年7月22日 19時3分

「九州王朝こそ七世紀末まで、大義名分の中心だったからである」と高らかに謳い上げていますが、古田氏自身の王朝の定義に照らせば、成立不可と言わざるを得ません。

況や、考古学的側面からの王朝論についても、既に #原田実 氏が『#幻想の多元的古代』の中で詳述されているとおりです。
2021年7月22日 19時12分

所説⇨諸説。訂正します(^^;)
2021年7月22日 19時20分

筑紫大宰ですね。訂正します。
2021年7月22日 19時20分

古田氏の、「「両京制」の成立」を読みました。掲示板時代から、この「両京制」という言葉は目にしたことがありましたが、仰ってる主旨はなんとなく。

しかし問題はそこには無く、文中「太宰府」はしばしば登場するのに「筑紫大宰」が全く出てこないこと。
2021年8月9日 18時48分

『書紀』からは天智3年条【是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防人與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
】を引き、記述そのものは信拠しているんですよね。その上で、

「白村江」以前の「九州王朝の資料」を、ここ「天智三年」へと、下げて〝はめこんで〟いたのである。

と。
2021年8月9日 18時52分

郭務悰が「唐の駐留軍」だという定番主張。「駐留軍」だというのは古田氏の解釈に過ぎませんので、自己の解釈を踏み台にして、またぞろ解釈を架上する。

7世紀初頭から継続的に筑紫大宰がヤマトより任じられていることは〝完無視〟なんですね。『書紀』では同世紀中に30回くらい登場します。
2021年8月9日 18時57分

古田氏自身の掲げた定義が九州王朝説を否定することになります。
https://twitter.com/hyena_no/status/1418143204470267906?s=20
2021年8月9日 19時3分

「「両京制」の成立」では盛んに「太宰府」という言葉を持ち出して、九州王朝の都だと印象操作しようとしますが、筑紫大宰に言及しないということは、自説の無理筋をうすうす気がついていたのではないかとさえ察せられます。
2021年8月9日 19時6分

「「両京制」の成立」は『古田史学会報』36 2000/2/14号掲載とのこと。あの『壬申大乱』の前年ですね。

「両京制」だの、筑紫を舞台とした壬申の乱だの、支持者の目を引くものを提供し続けなければならなかったのかも知れません。ファンは益々惹かれ、専門家は益々遠ざかる。一挙両得でしょう。
2021年8月9日 19時12分

再三申し上げていることですが、磐井の乱以降、筑紫はヤマトの制圧下に入ったのです。屯倉・官家の設置、大伴磐の筑紫執政などがその根拠です。

これらを記す『書紀』が誤りであるというのなら、古田氏は他者に求めた如く、誤りである〝必要十分な根拠〟を挙げねばなりません。
2021年8月9日 19時15分

ふと思ったのですが、倭の五王も九州王朝の王でしょうが、彼らの墳墓はどれになるんでしょうかね?磐井があれだけの古墳作ってるんですから、他も負けてないでしょう。そんなもの筑紫界隈にあったっけ?石人山は候補に挙げてもいいかも。他は(-_-)
2021年8月9日 19時48分

『「九州年号」の研究』水野孝夫氏「巻頭言 真実を求めよう」ⅳ

『三国志』テキストには斐松之がつけた注釈があり、

もろちん裴松之の誤。ネット検索しても「斐松之」で結構ヒットします。

2021年8月10日 10時5分

水野氏はかなりご高齢のようですから、原稿は手書きだったかも知れません。原稿には「裴松之」と書いてあったものをどなたか入力する際に「斐」と間違ってしまったのかも。

古田氏は第1書段階から、裴松之注については着目されていましたので、間違ってほしくない一文字ですね。
2021年8月10日 10時11分

と、一応水野氏を忖度する見立てをしましたが、次ページでは「大正新修大蔵経テキストデータベース」で「一瞬に検索できます」と書いてますので、PCスキルもあるのかも、、、

ということは水野氏が裴松之を「斐松之」と覚えてしまっていたという可能性も?
2021年8月10日 10時18分

本書巻末の冨川ケイ子氏「九州年号・九州王朝説―明治二十五年」という一稿を読み始めて驚く!

今泉定介「昔九州は独立国にて年号あり
飯田武郷「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非ず

#古田武彦 氏の『#失われた九州王朝』まんま!古田氏はこの先行説について如何様に言及しているのか?
2021年8月10日 13時15分

あれ~?第2書p381に「二つの使節団」という項目があり、p383で「日本国」使(小錦守君大石等)と書いてます。しかし古田氏は第3書p88で「とすると「日本旧記」という場合の「日本」も、当然、九州王朝のこととなるほかない」と言ってます。両書1年半の間に逆転したの?
hy注)守大石はヤマトの人。
2021年8月10日 19時3分

リツイートしておきます。〝コウモリ論法〟って名付けていいかも(-_-;)
hyena_no_papa @hyena_no
昼飯前に一つ追加すると、古田氏は『日本旧記』『日本世記』について九州王朝のものだ、と仰ってました(『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』p81)。また『盗まれた神話』p89では、 (日本旧記は)つまり六世紀中葉のころ、成立した本だということになろう。〈続く〉
午前11:42 · 2021年6月26日
2021年8月10日 19時7分

第2書p411
そして何よりも、「筑紫君磐井=日本天皇」という等式の正当性を明白にするものなのである。

え?p383で「日本国」使(小錦守君大石等)と。守大石はヤマトの人。同じ本の中で「日本」が九州王朝だったりヤマトだったりしてる!?どこかに解説でもあるのか?明日の仕事が出来た(・・;)
2021年8月10日 23時35分

おはようございます。
>これは、ご存じなかっただけですね
ありがとうございます。すると、この後(2004/12/9刊)、古田氏はこの件を認識されたんでしょうが、何らかのコメントでもあったんでしょうか?

例えばクローズドな会誌会報とかで。
2021年8月11日 9時39分

ありがとうございます。
>「この手」の研究者
そうなんですね?古田氏以外の「この手」の研究者を知らないものですから、、、

古田氏のあの本とこの本とで言ってることが違う!というのはしばしば体験することで、、、第2書内で相反することを言ってる件について気がのらないんですが調べようと、、、
2021年8月11日 10時8分

第2書p327

そのあと、近畿大和の小国であった天皇家は、「倭国」を併合した。そして、「日本」の名を継承したのである。

と書いてあります。
2021年8月11日 10時31分

『新唐書』日本伝に【咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。】とあります。咸亨元年は670。古田氏が「二つの使節団」で取り上げる天智紀「伊吉連博徳書」の記事は斉明5年(659)で、咸亨の前、白村江の前。p327の記事と齟齬をきたしていると思いますが?
2021年8月11日 10時35分

『唐會要』倭國に咸亨元年(670)3月 【遣使賀平髙麗爾後繼來朝貢則天時自言其國近日所出故號日本國蓋惡其名不雅而改之】とあります。

高句麗平定は668年で、その折の遣使は倭国。国号改号はもっと後のことですから、斉明5年(659)にヤマトからの「日本国」使を想定するなど自説内で衝突が発生して!
2021年8月11日 10時42分

>誰か
ではなく、ご適任の方がおられるのでは?
2021年8月11日 10時44分

正解です!私は人をそそのかすのが密かな趣味(くさすのも)で、目に見える成果が上がったかどうかは知りませんが、ラッパを吹き続けることは大切なことだと思っています。

一歩前へ!そしてまた一歩!
2021年8月11日 10時59分

というか、古田氏が「二つの使節団」で

倭国と日本国の使者が、同時に唐朝へおもむき、各自分が日本列島の正統の王者だ、と主張する。―と、どのような状況が展開されるだろう?ズバリ、両使節団の不和、衝突だ。

と暗示めいた書き方をしていますが、これは史料上の重要事項から目をそらす術ですね。
2021年8月11日 11時6分

斉明5年(659)の遣使については『通典』蝦夷条に【大唐顯慶四年十月隨倭國使人入朝】と明記してあります。同時に斉明紀にも【蝦蛦男女二人示唐天子】と。蝦夷を伴って唐へ入朝したのは倭国すなわちヤマトに他なりません。

これが、今我々の目にする史料から導かれる単純明白な史実なのです。
2021年8月11日 11時13分

未だ拝読するに至っておりませんが『古代逸年号の謎―古写本『九州年号』の原像を求めて』という本を出されたとのこと。進むべき道は定まっているんじゃないですか?天命だと思って邁進してはいかがでしょう?
2021年8月11日 11時17分

え?私にですか?いずれ図書館に入るかも知れませんので、その幸運を待ちましょう。読んでも難しくて脳が下痢するかもしれませんし(-_-;)

特定給付金が再度支給されたら、購入リスト入りすることもありえたりして、、、
2021年8月11日 11時32分

そうでしたか!古田氏は批判対象となる先行説については文中で出典明示しますが、通常見かける巻末の参考文献リストについては初期3書では用意していません。やや不満を感じるところですね。 https://twitter.com/alsnova/status/1425285093661233152?s=20
2021年8月11日 11時43分

ふと思い出しました。YouTubeねずさんの動画で、似たようなことを仰ってました。この「二つの使節団」のことだったんですね。古田氏の記述を自身で調べずに、真に受けての発言だったわけ。

掲示板でtenchuukunさんから教わったこと:原典に当たるべし!
2021年8月11日 11時48分

『通典』など持ち出さずとも、7世紀初頭から筑紫大宰が任命派遣され続けているんですから、この件を〝必要十分な反証〟をもって否定しない限り、この時代の九州王朝の存在を主張することは出来ません。
hyena_no_papa @hyena_no
p102
王朝というからには、自主独立性をもっていなければならない。他の権力からの支配を受けたり、他の政権に服属している従属勢力、つまり〔地方政権〕に対して、これを王朝と呼ぶことは出来ない。

筑紫太宰はヤマトから派遣されました。よって7cの九州王朝は「王朝」の名を冠するに値しません。
午後6:37 · 2021年7月22日
2021年8月11日 11時54分

#古田武彦 氏の3大鬼門
1.通典
2.筑紫大宰
3.校勘

hy注)簡単にいうと、鬼門は物事をするのに避けたほうが良い方角を意味する。by Weblio国語辞典
2021年8月11日 15時11分

第2書p467

白村江の敗戦(六六三)後七年目に当る「筑紫君の捕囚」の末年(六七〇)、倭国から日本国への国号の改変(『三国史記』)がおこっている。

「筑紫君磐井=日本天皇」で九州王朝が日本。670に「国号の改変」があってヤマトが日本に。
2021年8月11日 18時54分

「伊吉連博徳書」は659。その時点ではまだ九州王朝が日本だったはず。p383で「日本国」使(小錦守君大石等)と。守大石はヤマトの人。同じ年に「日本」が九州王朝だったりヤマトだったりしてる!?

古田氏は無理筋を通すために文を繁らせ、読む人を煙に巻こうとしたものの、自分が煙に巻かれて!
2021年8月11日 18時58分

p381で

倭国と日本国の使者が、同時に唐朝へおもむき、各自分が日本列島の正統の王者だ、と主張する。―と、どのような状況が展開されるだろう?ズバリ、両使節団の不和、衝突だ。

と暗示めいた書き方をしています、と書きましたが、「―と」にそれがよく表れていますね。答を先に提示しておく。
2021年8月11日 19時12分

そして読者をその答へと誘導してゆく。しかし、残念ながら「伊吉連博徳書」には「倭国と日本国の使者が、同時に唐朝へおもむき」なんてことは全く書いてありません。古田氏が〝ひねり出した〟解釈にすぎません。

しかも、この時点では未だ日本国ではなかったヤマトの使を「日本国の使者」と。
2021年8月11日 19時15分

「伊吉連博徳書」には【日本國天皇平安以不】と天子が問うたことが記されています。これをヤマトの使者への言葉と受け取ったんですね。自身が670までは九州王朝が日本だったと言ったことを忘れて!
2021年8月11日 19時17分

くどいようですが、p378

唐朝で「倭国」と呼んでいるのは天皇家ではない。九州王朝だ。『旧唐書』では、本紀において、永徽五年(六五四)の貢献が最後だった。しかし、ここでは、麟徳三年(六六六、天智五年)正月まで、「倭国」が日本列島代表の王者として、その終末の影をとどめていたのである。
2021年8月11日 22時54分

それで、659には「倭国と日本国」の「二つの使節団」(p381)が来たんですよね。この時点(666以前)では未だ「倭国」が日本列島代表の王者だった。ヤマトは日本国ということでしょ?

すると、531(古田氏の解釈)に死んだ「筑紫君磐井=日本天皇」はどうなる?

完全に矛盾していると思いますが?
2021年8月11日 23時0分

つまり、斉明5年(659)に「倭国と日本国」の「二つの使節団」という想定をしたために、第2書内で両国の解釈が背反することになったわけです。

書いてない箇所から無理に自説に合うような解釈(二つの使節団)を創り上げようとして破綻したということ。
2021年8月11日 23時3分

p376では、

この麟徳二年は、天智四年(六六五)に当る。ところが、『日本書紀』天智紀には、これに対応する記事がない。

古田氏はこんな言い方、好きですよね。彼我の文献がいちいち対応しているわけではない。逆に尋ねましょう。九州王朝の文献には「これに対応する記事が」あるの?
2021年8月11日 23時6分

p379からの「表函」の話も、なんとか九州王朝があるように話を紡ぎ出そうとしてますが、「禁書」にするくらい九州王朝の文書を抹殺して書かれた『日本書紀』の中に、九州王朝の天子に表函を進(たてまつ)るなんて記事が、取り残されているのだ!と考える事典で自分の解釈に溺れていると言えそう。
2021年8月11日 23時15分

あれ?p379では、

右戎衛郎將上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰

と「・」を入れて、二人として解釈しているようですね。『すべての日本国民に捧ぐ』p68では以下のように一人として解釈。20年前のことは忘れた?
hyena_no_papa @hyena_no
p68 郭務悰の肩書について

「いや、第二回目のときには、長ったらしいぞ。
右戎衛(うじゅうえい)・郎將・上柱国・百済禰軍(ねぐん)・朝散大夫・柱国・郭務悰ってんだ」

え?「右戎衛・郎將・上柱国・百済禰軍・朝散大夫・柱国」が郭務悰の肩書?
午後5:13 · 2021年6月24日
2021年8月11日 23時22分

p383からの続守言の解釈は滑稽とでも言えそうです。

「上送」とは、〝天皇家に向けて送る〟際の、大義名分上の用語だ。

なんて。そして次頁、

九州王朝に「献」ぜられた唐俘は、続守言のような重要人物をふくみ、質的に優れていること。

「質的に優れている」「重要人物」を天皇家に「上送」?
2021年8月11日 23時36分

九州王朝に「献」ぜられた唐俘は「量的には多くても、著名人物をふくまないこと」だそうです。

なんじゃそりゃ(○_○) その他大勢を「献」ぜられた九州王朝が、列島を代表する?まさかぁ、、、優秀な人材は大企業が獲得するもの。

論を展開すればするほどボロが出てきて、、、
2021年8月11日 23時41分

#原田実 氏の『#幻想の多元的古代』「古田史学の未来」をまたまた読み返していますが、その中で第2書p560からの「仮説について」を引きます。

一つの仮説を立て、それが多くの現象(歴史学では史料事実や遺物の事実)をいかに過不足なく説明できるか―その検証こそ学問だからである。
2021年8月12日 22時28分

続いて同書「古田武彦氏に学ぶ強弁の研究」に進みましたが、p303-306の神武進発の地についての「強弁」は興味深いですね。『神武歌謡は生きかえった』は1992刊で第2書から19年後。昨日も20年前の自身の百済禰軍に関する記述を忘れてた件をツイートしました。いや、ホントに忘れてたんでしょうか?
2021年8月12日 23時30分

立派に育った新成人がおぎゃ~っと生まれた頃の昔の話など、覚えてたりほじくり出す人はいないだろう、、、なんてタカをくくってるんでしょうか?

いるんですよね、これが、、、原田さんとか私とか、、、
2021年8月12日 23時35分

...ですね。しかし精神的には大きな打撃とはならなかったのではないかと外野席からは見えました。和田家の不幸を理由に時間稼ぎしたようですし、、、

そうだとしたらその精神力の強靭さは驚嘆すべきものがあるのではないかと。
2021年8月13日 17時19分

#原田実 氏の『#幻想の多元的古代』を部分的に何度も繰り返し読んでいますが、思うに、この本を読んで原田氏の仰ることを理解するためには、古田氏の主な本をある程度読み込んでおく必要があるのかも。

古田氏の本でパッと染まった人は、この本読んでも何のことかわからないのでは?
2021年8月13日 22時18分