『後漢書』光武帝紀の「倭奴国主」について

kensyou_jikenbo氏より以下のようなツイートがあった。それで若干の調べ物をしたのでツイートしたが、メモランダムとしてページを追加公開することとした。
「国主」からの古田武彦氏の論考を紹介しているブログがありました

「東夷倭奴國主 その1 その2」
https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12656518948.html
https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12657116009.html

→@hyena_no さん、古田氏論考は色々見られていると思いますが、この件はご承知でしたでしょうか?
午前0:49 · 2021年4月25日

kensyou_jikenboさん、おはようございます。ご無沙汰しております。
>この件は
「国主」は存じておりましたが、ご案内のサイトは未見のようです。ちょっと覗いてみますね。
午前10:12 · 2021年4月25日

まず事実の確認から。百衲本『後漢書』は南宋紹興本影印ですが、これは北宋景祐刊本の覆刻ですね。その景祐刊本より約1世紀早い淳化刊本を南宋代復刻したものが仁寿本二十六史に収められていますが、こちらは「国王」となっています。

午前10:34 · 2021年4月25日

次に張元済の『百衲本後漢書校勘記』を開くと(p16)、この件も取り上げてあり、宋本(紹興本)が「主」であり、殿本、汲古閣本、汪文盛本、北監本、大德本等が「王」であることを記していますが、修正していないということは判断を回避したのかも知れません。
午前10:42 · 2021年4月25日

東晋代の袁宏『後漢紀』では「倭奴國王遣使奉獻」となっていますが直前に范書には見えない「丁丑」という干支が挟まっています。こちらがオリジナルに近いのかも知れません。但し、手元にある『後漢紀』のは校点本ですので古い影印がどのようなものであるかは承知しておりません。
午前10:49 · 2021年4月25日

Yahoo!掲示板での拙稿です。
2003/3/25 0:10「倭奴国主」hyena_no_papa
なお、「百衲本後漢書」にみえる「倭奴国主」は「後漢書集解」「仁寿本」では「倭奴国王」となっています。

もちろん「王」が正でしょう。「主」の上の「点」は「ゴキブリの糞」かも知れません!
午前10:57 · 2021年4月25日

さて、ご案内のブログ氏ですが、古田氏の考え方〝まんま〟なので同じ轍を踏んでいると言えそうです。「校勘」という言葉を古田派の方はほとんど知らないのではないかと思えます。

「『隋書』の「多利思志北孤」も「多利思志比孤」に変えられている」などその典型です。(表記はママ)
午前11:02 · 2021年4月25日

このブログ記事が2021-02-16 22:12:55付けですが、この中で「他の古代史学者は、光武帝紀に記された「東夷倭奴国主」について誰一人指摘していないと思います。」と書いてますね。先にご案内した通り、Yahoo!掲示板上では2003年に私からの発言があります。
午前11:13 · 2021年4月25日

古田氏が「東夷を代表する委奴国王に、金印を与えた」と書いておられるということですが、そんな事は軽々には言えないと思います。倭奴国が遣使したのは光武帝の晩年、遼東太守祭彤の威声によって濊貊倭韓が万里朝貢したと『後漢書』東夷伝序文に書かれてあります。
午前11:23 · 2021年4月25日

このあたりのことについてはtenchuukun氏のご教示によるものです。またお奨めの本としては大庭脩氏の『親魏倭王』があります。特にp38から「光武帝の東方政策」という項目で詳述してありますので非常に参考になるかと思います。
午前11:26 · 2021年4月25日

kensyou_jikenbo氏がリツイートした(午後0:19 · 2021年4月25日)昨年の拙稿。
>北九州の奴国
建武中元二年の倭奴国については袁宏『後漢紀』に記載が。校点本ですが【二年春正月辛未,初起北郊,祀后土。丁丑,倭奴國王遣使奉獻】です。翌月、光武帝崩御です。范曄『後漢書』光武帝紀では【二年春正月辛未初立北郊祀后土東夷倭奴國主遣使奉獻】で微妙に違いが。勿論、袁宏が先です。
午後10:28 · 2020年3月30日

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