『通志』総序

付「重印十通縁起」

俗に〝三通〟と呼ばれ、唐代の『通典』、元代の『文献通考』と並ぶ宋代の『通志』は前二者よりやや知名度が低いように感じられるが、『通志』の成立は南宋紹興年間であり、実に『三国志』最古の刊本である紹興本と同時期である(北宋咸平本『呉志』残卷が知られるが尾崎康博士によれば行格などの姿は北宋の面影を残しつつも南宋の復刻であろうという)。その『通志』上の諸記述を確認し他書と比較することは、当然のごとく何らかの貴重な示唆が与えられる。倭人伝にしても然りである。

文献等を用いる際に踏まえておかねばならないことの一つに、その成立の過程があるのではないかと思う。これまで他書について序文等を読み下してきたのも、そういう意識からであり、今回『通志』総序にトライしたのも同じ意識に基づく。

と、一応見栄を切ってみせたが、今回も最近常用のメソッドであるGoogle GeminiのOCR、書き下し、ルビ振りの機能を用いたことを明言しておく。直近の作業例と同じく、細部の検証は行っていない。尚、原文は「中國哲學書電子化計劃」から借用した。
Q.またまた漢文の書き下しのお願いです。やや長いですが以下の文章の書き下しをお願いします。[]内は細注ですが、[]を残したまま細注の読み下しも併せてお願いします。

欽定四庫全書
《通志》總序
宋右廸功郎鄭樵漁仲撰
百川異趨必㑹於海,然後九州無浸淫之患,萬國殊途,必通諸夏,然後八荒無壅滯之憂,㑹通之義大矣哉!自書契以來,立言者雖多,惟仲尼以天縱之聖,故總詩、書禮樂而㑹于一手,然後能同天下之文,貫二帝三王而通為一家,然後能極古今之變,是以其道光明,百世之上,百世之下不能及。仲尼既沒,百家諸子興焉,各效論語,以空言著書。[論語門徒集仲尼語。]至於歴代,實蹟,無所紀繫。迨漢建元、元封之後,司馬氏父子出焉。司馬氏世司典籍,工於制作,故能上稽仲尼之意,㑹詩、書、左傳、國語、世本、戰國策、楚漢春秋之言,通黄帝、堯、舜,至于秦、漢之世,勒成一書,分為五體。本紀紀年、世家、傳代,表以正歴,書以類事,傳以著人。使百代而下,史官不能易其法。學者不能舍其書,六經之後惟有此作,故謂周公五百歲而有孔子,孔子五百歲而在斯乎?是其所以自待者已不淺。然大著述者必深於博雅,而盡見天下之書,然後無遺恨。當遷之時,挾書之律初除,得書之路未廣,亘三千年之史籍,而跼蹐於七八種書,所可為遷恨者,博不足也。凡著書者,雖採前人之書,必自成一家言。左氏,楚人也,所見多矣,而其書盡楚人之辭,公羊齊人也,所聞多矣,而其書皆齊人之語。今遷書全用舊文,閒以俚語,良由採摭未備,筆削不遑。故曰予不敢墮先人之言,乃述故事,整齊其傳,非所謂作也。劉知幾亦譏其多聚舊記,時插雜言,所可為遷恨者,雅不足也。大抵開基之人,不免草創,全屬繼志之士為之彌縫。晉之乗楚之檮杌,魯之春秋,其實一也。乗檮杌無善後之人,故其書不行。春秋得仲尼挽之於前,左氏推之於後,故其書與日月並傳,不然,則一卷事目安能行於世?自春秋之後,惟史記擅制作之規模,不幸班固非其人,遂失㑹通之㫖。司馬氏之門戶自此衰矣。班固者,浮華之士也,全無學術,專事剽竊,肅宗問以制禮作樂之事,固對以在京諸儒必能知之,儻臣鄰皆如此,則顧問何取焉?及諸儒各有所陳,固惟竊叔孫通十二篇之儀以塞白而已,儻臣鄰皆如此,則奏議何取焉?肅宗知其淺陋,故語竇憲曰:公愛班固而忽崔駰,此葉公之好龍也。固於當時已有定價,如此人材將何著述?史記一書,功在十表,猶衣裳之有冠冕,木水之有本原,班固不通旁行邪?上以古今人物彊立差等,且謂漢紹堯運自當繼堯,非遷作史記厠於秦項,此則無稽之談也。由其斷漢為書,是致周秦不相因,古今成間隔自髙祖。至武帝,凡六世之前,盡竊遷書,不以為慚。自昭帝至平帝凡六世,資於賈逵、劉歆,復不以為恥,況又有曹大家終篇,則固之自為書也幾希,徃徃出固之胷中者,古今人表耳。他人無此謬也。後世衆手修書道傍,築室掠人之文,竊鍾掩耳,皆固之作俑也。固之事業如此,後來史家奔走班固之不暇,何能測其淺深,遷之於固,如龍之於猪。奈何諸史棄遷而用固,劉知幾之徒尊班而抑馬。且善學司馬遷者,莫如班彪彪續遷書,自孝武至於後漢,欲令後人之續,已如已之續遷,既無衍文,又無絶緒,世世相承,如出一手。善乎其繼志也,其書不可得而見。所可見者,元成二帝贊耳。皆於本紀之外別記所聞,可謂深入太史公之閫奥矣。凡左氏之有君子曰者,皆經之新意,史記之有太史公曰者,皆史之外事,不為褒貶也。間有及褒貶者,褚先生之徒雜之耳。且紀傳之中,既載善惡,足為鑒戒,何必於紀傳之後更加褒貶?此乃諸生決科之文,安可施於著述?殆非遷、彪之意。況謂為贊,豈有貶辭?後之史家,或謂之論,或謂之序,或謂之銓,或謂之評,皆效班固,臣不得不劇論固也。司馬談有其書,而司馬遷能成其父志。班彪有其業,而班固不能讀父之書,固為彪之子。既不能保其身,又不能傳其業,又不能教其子為人如此,安在乎言為天下法。范曄、陳夀之徒繼踵率皆,輕薄無行,以速罪辜,安在乎筆削而為信史也。孔子曰:殷因於夏禮,所損益可知也。周因於殷禮,所損益可知也。此言相因也。自班固以斷代為史,無復相因之義,雖有仲尼之聖,亦莫知其損益。會通之道,自此失矣。語其同也,則紀而復紀,一帝而有數紀,傳而復傳,一人而有數傳。天文者,千古不易之象。而世世作天文志,洪範五行者,一家之書,而世世序五行傳。如此之類,豈勝繁文。語其異也,則前王不列於後王,後事不接於前事,郡縣各為區域。而昩遷革之源,禮樂自為更張,遂成殊俗之政。如此之類,豈勝斷綆?曹魏指吳、蜀為寇,北朝指東晋為僭南,謂北為索虜,北謂南為島夷,齊史稱梁軍為義軍,謀人之國可以為義乎?隋書稱唐兵為義兵,伐人之君可以為義乎?房玄齡董史冊,故房彥謙擅美名。虞世南預修書,故虞荔、虞寄有嘉傳。甚者桀犬吠堯,吠非其主。晋史黨晉而不有魏,凡忠於魏者目為叛臣。王淩、諸葛誕、毋丘俭之徒,抱屈黃壤,齊、史黨齊而不有宋。凡忠於宋者目為逆黨。袁粲、劉秉、沈攸之之徒,含寃九原。噫,天日在上,安可如斯?似此之類,歴世有之,傷風敗義,莫大乎此!遷法既失,固弊日深,自東都至江左,無一人能覺其非,惟梁武帝為此慨然,乃命吳均作通史,上自太初下終齊室,書未成而均卒。隋楊素又奏令陸從典續史記訖于隋,書未成而免官,豈天之靳斯文而不傳與?抑非其人而不祐之與?自唐之後,又莫覺其非。凡秉史筆者,皆凖春秋,專事褒貶。夫春秋以約文見義,若無傳釋,則善惡難明。史冊以詳文該事,善惡已彰,無待美刺。讀蕭曹之行事,豈不知其忠良見莽、卓之所為,豈不知其㐫逆?夫史者,國之大典也,而當職之人,不知留意於憲章,徒相尚於言語,正猶當家之婦不事饔飱,專鼓唇舌,縱然得勝,豈能肥家?此臣之所深恥也。江淹有言,修史之難,無出於志。誠以志者,憲章之所繫,非老於典故者不能為也。不比紀傳,紀則以年包事,傳則以事繫人,儒學之士皆能為之。惟有志難,其次莫如表。所以范煜、陳夀之徒能為紀傳,而不敢作表。志志之大原起於爾雅。司馬遷曰書,班固曰志,蔡邕曰意,華嶠曰典,張勃曰録,何法盛曰說,餘史並承班固謂之志,皆詳於浮言,略於事實,不足以盡爾雅之義。臣今總天下之大學術,而條其綱目,名之曰略,凡二十,略百代之憲章,學者之能事,盡於此矣。其五略漢、唐諸儒所得而聞,其十五略、漢、唐諸儒所不得而聞也。生民之本,在於姓氏。帝王之制,各有區分。男子稱氏,所以別貴賤。女子稱姓,所以別婚姻,不相紊濫。秦并六國姓氏,混而為一。自漢至唐,歴世有其書,而皆不能明姓氏原此一家之學,倡於左氏,因生賜姓,胙土命氏,又以字以諡、以官,以邑命氏,邑亦土也。左氏所言,惟兹五者。臣今所推有三十二類,左氏不得而聞,故作氏族略。書契之本,見於文字,獨體為文,合體為字。文有子母,主類為母,從類為子。凡為字書者,皆不識子母。文字之本,出於六書象形指事文也,㑹意諧聲轉注字也。假借者,文與字也。原此一家之學,亦倡於左氏。然止戈為武,不識諧聲,反正為乏,又昧象形,左氏既不別其源,後人何能別其流?是致小學一家,皆成鹵莽,經㫖不明,穿鑿蠭起,盡由於此。臣於是驅天下文字盡歸六書,軍律既明,士乃用命,故作六書略天之本,自成經緯。縱有四聲以成經,橫有七音以成緯,皇頡制字,深達此機。江左四聲,反沒其㫖。凡為韻書者,皆有經無緯字書,眼學韻書耳。學眼學以母為主耳,學以子為主,母、主、形子、主聲二家俱失所主。今欲明七音之本,擴六合之情,然後能宣仲尼之教以及人面之俗。使裔夷之俘皆知禮義,故作七音。略天文之家,在於圖象、民事,必本於時時,序必本於天。為天文志者,有義無象,莫能知天。臣今取隋丹元子步天歌句中有圖,言下成象靈臺,所用可以仰觀,不取甘石本經惑人,以妖妄速人於罪累,故作天文略。地理之家在於封圻,而封圻之要在於山川,禹貢九州皆以山川定其經界,九州有時而移山川,千古不易,是故禹貢之圖,至今可別。班固地理,主於郡國,無所底止,雖有其書,不如無也。後之史氏,正以方隅,郡國併遷,方隅顛錯,皆因司馬遷無地理書,班固為之創始,致此一家,俱成謬舉。臣今凖禹貢之書,而理川源本開元十道圖,以續今古,故作地理。略都邑之本,金湯之業,史氏不書,黃圖難考。臣上稽三皇、五帝之形勢,逺探四夷八蠻之巢穴,仍以梁汴者四朝舊都為痛定之戒。南陽者,疑若可為中原之新宅,故作都邑。略諡法:一家,國之大典,史氏無其書,奉常失其㫖,周人以諱事神,諡法之所由起也。古之帝王存亡皆用名,自堯、舜、禹、湯至于桀、紂,皆名也。周公制禮,不忍名其先君。武王受命之後,乃追諡太王、王季文王,此諡法所由立也,本無其書,後世偽作周公諡法,欲以生前之善惡為死後之勸懲。且周公之意既不忍稱其名,豈忍稱其惡?如是,則春秋為尊者諱,為親者諱,不可行乎周公矣。此不道之言也。幽、厲、桓、靈之字,本無凶義。諡法欲名其惡,則引辭以遷就其意,何為皇頡制字使字與義合?而周公作法,使字與義離,臣今所纂,並以一字見義,削去引辭,而除其曲說,故作諡略。祭器者,古人飲食之器也。今之祭器,出於禮圖,徒務說義,不思適用,形制既乖,豈便歆享?夫祭器尚象者,古之道也。器之大者莫如罍,故取諸雲山,其次莫如尊,故取諸牛象,其次莫如彜,故取諸雞鳯最小者莫如爵,故取諸雀。其制皆象其形,鑿項及背,以出內酒。惟劉杳能知此義,故引魯郡地中所得齊子尾送女器有犧尊及齊景公冢中所得牛尊象尊以為證,其義甚明,世莫能用,故作器服略樂,以詩為本,詩以聲為用,風土之音曰風,朝廷之音曰雅,宗廟之音曰頌。仲尼編詩為正樂也。以風、雅、頌之歌為燕享祭祀之樂,工歌鹿鳴之三,笙吹南陔之三,歌間魚麗之三,笙間崇邱之三,此大合樂之道也。古者絲竹有譜無辭,所以六笙但存其名,序詩之人不知此理,謂之有其義而亡其辭,良由漢立齊、魯、韓、毛四家博士,各以義言詩,遂使聲歌之道日㣲。至後漢之末詩三百,僅能傳鹿鳴、騶虞、伐檀、文王四篇之聲而已,太和末又失其三。至于晉室鹿鳴一篇,又無傳。自鹿鳴不傳,後世不復聞詩。然詩者,人心之樂也,不以世之興衰而存亡。繼風雅之作者樂府也,史家不明仲尼之意棄樂府不收,乃取工伎之作以為志。臣舊作系聲樂府,以集漢、魏之辭,正為此也。今取篇目以為次曰樂府。正聲者,所以明風雅。曰祀享正聲者,所以明頌。又以琴操明絲竹,以遺聲準逸。詩語曰韶盡美矣,又盡善也。武盡美矣,未盡善也。此仲尼所以正舞也。韶即文舞,武即武舞,古樂甚希,而文、武二舞猶傳於後世,良由有節而無辭,不為義說家所惑,故得全仲尼之意。五聲、八音、十二律者,樂之制也。故作樂略學術之茍且,由源流之不分,書籍之散亡,由編次之無紀易。雖一書而有十六種學,有傳學,有注學,有章句學,有圖學,有數學,有䜟緯學,安得總言易類乎詩。雖一書而有十二種學,有詁訓學,有傳學,有注學,有圖學,有譜學,有名物學,安得總言詩類乎?道家則有道書,有道經,有科儀,有符籙,有吐納內丹,有爐火、外丹凡二十五種,皆道家而渾為一家可乎?醫方則有脈經,有灸經,有本草,有方書,有炮炙,有病源,有婦人,有小兒,凡二十六種,皆醫家而渾為一家可乎?故作藝文略,冊府之藏不患無書,校讎之司未聞其法。欲三館無素餐之人,四庫無蠧魚之簡,千章萬卷,日見流通,故作校讎略河,出圖天地,有自然之象。圖譜之學,由此而興。洛出書天地有自然之文,書籍之學由此而出,圖成經書成緯一經,一緯錯綜而成文。古之學者,左圖右書,不可偏廢。劉氏作七略,收書不收圖,班固即其書為藝文志,自此以還,圖譜日亡,書籍日冗,所以困後學而隳良材者,皆由於此。何哉?即圖而求易,即書而求難,舍易從難,成功者少。臣乃立為二記:一曰記有記。今之所有者不可不聚。二曰記無記。今之所無者,不可不求,故作圖譜略。方冊者,古人之言語欵,識者古人之面貎。方冊所載,經數千萬傳,欵識所勒,猶存其舊,蓋金石之功,寒暑不變,以兹稽古,庶不失真。今藝文有志,而金石無紀,臣於是採三皇五帝之泉幣,三王之鼎彛,秦人石鼓,漢魏豐碑,上自蒼頡石室之文,下逮唐人之書,各列其人而名其地,故作金石略。洪範五行傳者,巫瞽之學也。歴代史官,皆本之以作五行志,天地之間,災祥萬種,人間禍福,㝠不可知,若之何一蟲之妖,一物之戾,皆繩之以五行,又若之何?晉厲公一視之逺,周單公一言之徐,而能闗於五行之沴乎?晉申生一衣之偏,鄭子臧一冠之異,而能闗於五行之沴乎?董仲舒以隂陽之學倡為此說,本於春秋,牽合附㑹,歴世史官自愚其心,目俛首以受籠罩而欺天下,臣故削去五行而作災祥,略語言之理,易推名物之狀,難識農圃之人,識田野之物,而不達詩書之㫖。儒生達詩書之㫖,而不識田野之物。五方之名本,殊萬物之形不一,必廣覽動植,洞見幽潛,通鳥獸之情狀,察草木之精神,然後參之載籍,明其品彚,故作昆蟲草木,略凡十五略,出臣胸臆,不涉漢、唐諸儒議論禮略,所以敘五禮職官,略所以秩百官選舉略言掄材之方。刑法略言用刑之術,食貨略言財貨之源流。凡兹五略,雖本前人之典,亦非諸史之文也。古者記事之史,謂之志書。大傳曰:天子有問,無以對責之疑,有志而不志,責之丞。是以宋、鄭之史皆謂之志,太史公更志為記,今謂之志本其舊也。桓君山曰太史公三代世表,旁行邪上,並效周譜。古者紀年別繫之書謂之譜,太史公改而為表,今復表為譜,率從舊也。然西周經幽王之亂,紀載無傳,故春秋編年以東周為始,自皇甫謐為帝王世紀及年歴上極三皇,譙、周、陶𢎞景之徒皆有其書,學者疑之,而以太史公編年為正,故其年始於共和。然共和之名已不可據,況其年乎!仲尼著書,斷自唐、虞,而紀年始於魯隱,以西周之年無所考也。今之所譜,自春秋之前稱世,謂之世譜,春秋之後稱年,謂之年譜。太史公紀年以六甲後之紀年者以六十甲,或不用六十甲而用歲陽歲隂之名。今之所譜,即太史公法,既簡且明,循環無滯。禮言臨文不諱,謂私諱不可施之於公也。若廟諱,則無所不避。自漢至唐,史官皆避諱,惟新唐書無所避。臣今所修凖舊史例,間有不得而避者,如諡法之類,改易本字,則其義不行,故亦凖唐舊。[漢景帝名啓,改啓為開安帝名慶,改「慶」為賀唐。太祖名虎,改虎為武,髙祖名淵,改淵為水。若章懐太子注後漢書則濯龍淵不得而諱。]杜佑作通典,則虎賁不得而諱。夫學術超詣,本乎心識,如人入海,一入一深,臣之二十略,皆臣自有所得,不用舊史之文。紀傳者,編年紀事之實蹟,自有成規,不為智而増不,為愚而減,故於紀傳,即其舊文,從而損益。若紀有制詔之辭,傳有書疏之章,入之正書,則據實事,寘之别録,則見類例。唐書、五代史皆本朝大臣所修,㣲臣所不敢議,故紀傳訖隋,若禮樂政刑,務存因革,故引而至唐云。嗚呼!酒醴之末,自然澆漓,學術之末,自然淺近,九流設教,至末皆弊,然他教之弊,㣲有典刑,惟儒家一家,去本太逺,此理何由?班固有言,自武帝立五經博士,開弟子員,設科射策,勸以官祿,訖于元始,百有餘年,傳業者寖盛,枝葉繁滋,一經說至百餘萬言,大師衆至千餘人,蓋祿利之路然也。且百年之間,其患至此,千載之後,弊將若何?况祿利之路,必由科目,科目之設,必由乎文辭,三百篇之詩,盡在聲歌。自置詩。博士以來,學者不聞一篇之詩,六十四卦之易,該於象數。自置易博士以來,學者不見一卦之易。皇頡制字,盡由六書。漢立小學,凡文字之家,不明一字之宗。伶倫制律,盡本七音。江左置聲韻,凡音律之家不達一音之㫖。經既茍且,史又荒唐。如此,流離何時,返本道之汙隆。存乎時時之通,塞存乎數儒學之弊,至此而極。寒極則暑至,否極則泰來,此自然之道也。臣蒲柳之質,無復餘齡,葵藿之心,惟期盛世。謹序。
A.鄭樵(ていしょう)による『通志』総序の書き下し文です。
原文の格調高さを活かしつつ、[ ]内の細注についても文中に組み込む形で読み下しました。

---

『通志』総序 書き下し文

通志つうじ総序
宋の右廸功郎 鄭樵 漁仲 撰ず

百川ひゃくせんすうを異にするも、必ず海に会す。然る後に九州に浸淫しんいんうれい無し。万国みちことにするも、必ず諸夏に通ず。然る後に八荒に壅滞ようたいの憂い無し。会通の義、大なるかな。

書契以来、言を立つる者多しと雖も、惟だ仲尼のみ天縦てんしょうの聖を以てす。故に詩・書・礼・楽を総べて一手いっしゅに会す。然る後に能く天下の文を同じうす。二帝三王を貫きて通じて一家と為す。然る後に能く古今の変を極む。是を以て其の道光明にして、百世のかみ、百世のしも、及ぶこと能わず。

仲尼既に没して、百家諸子おこり、各おの論語にならいて、空言くうげんを以て書を著す。[論語は門徒が仲尼の語を集む。]歴代の実蹟じっせきに至りては、紀繋きけいする所無し。

漢の建元・元封の後におよびて、司馬氏父子出づ。司馬氏は世よ典籍を司り、制作に工みなり。故に能くかみ仲尼の意をかんがえ、詩・書・左伝・国語・世本せいほん・戦国策・楚漢春秋そかんしゅんじゅうの言を会し、黄帝・堯・舜より秦・漢の世に通じ、ろくして一書を成し、分かちて五体と為す。本紀ほんぎは年をしるし、世家せいかは代を伝え、表は以て歴を正し、書は以て事を類し、伝は以て人を著す。百代の下をして、史官其の法をうること能わず、学者其の書をつること能わざらしむ。六経りくけいの後、惟だ此の作のみ有り。故に「周公五百歳にして孔子有り、孔子五百歳にして斯に在るか」と謂う。是れ其の自ら待する所、已に浅からず。

然るに大著述者は必ず博雅はくがに深くして、天下の書を尽く見、然る後に遺恨無し。遷の時に当たり、挟書きょうしょりつ初めて除かれ、書を得るの路未だ広からず。三千年の史籍に亘りて、七八種の書に跼蹐きょくせきす。遷が恨みと為すべき所の者は、博足らざるなり。

凡そ書を著す者は、前人の書を採ると雖も、必ず自ら一家の言を成す。左氏は楚の人なり、見る所多きも、其の書は尽く楚人のなり。公羊は斉の人なり、聞く所多きも、其の書は皆斉人のなり。今、遷の書は全く旧文を用い、間に俚語りごを以てす。良に採摭さいしゃく未だ備わらず、筆削ひっさくいとまあらざるに由る。故に曰く「予敢えて前人の言を堕さず、乃ち故事を述べ、其の伝を整斉せいせいす。所謂作るには非ざるなり」と。劉知幾も亦其の旧記を多聚たじゅし、時に雑言ぞうげんを挿むをそしる。遷が恨みと為すべき所の者は、足らざるなり。

大抵たいてい開基かいきの人は、草創そうそうを免れず。全く志を継ぐの士に属して之が弥縫びほうを為さしむ。晋のじょう、楚の檮杌とうごつ、魯の春秋、其の実一なり。乗・檮杌は善後ぜんごの人無し、故に其の書行われず。春秋は仲尼之を前にき、左氏之を後にすを得たり。故に其の書は日月と並び伝わる。然らずんば、則ち一巻の事目じもく、安んぞ能く世に行われんや。

春秋の後、惟だ史記のみ制作の規模を擅にす。不幸にして班固其の人に非ず。遂に会通の旨を失う。司馬氏の門戸、此より衰えたり。班固なる者は、浮華ふかの士なり。全く学術無く、専ら剽窃ひょうせつを事とす。粛宗しゅくそう礼を制し楽を作るの事を以て問うに、固は京に在る諸儒ならば必ず能く之を知らんと対う。儻し臣隣しんりん皆此くの如くんば、則ち顧問こもん何をか取らん。諸儒各おの陳ぶる所有るに及び、固は惟だ叔孫通しゅくそんつう十二篇のを窃みて以て塞白そくはくするのみ。儻し臣隣皆此くの如くんば、則ち奏議そうぎ何をか取らん。粛宗其の浅陋せんろうを知る。故に竇憲とうけんに語げて曰く「公班固を愛して崔駰さいいんを忽せにするは、此れ葉公しょうこうの龍を好むなり」と。固は当時に於いて既に定価ていか有り。此の如き人材、将た何をか著述せん。

史記の一書、功は十表じっぴょうに在り。猶衣裳の冠冕かんめん有るが如く、木水の本原ほんげん有るが如し。班固は旁行ぼうこうに通ぜざるか、上古今の人物を以て強らに差等を立て、且つ漢は堯の運を紹ぎ自ずから当に堯に継ぐべしと謂う。遷の史記を作りて秦・項を厠するに非ず、此則ち無稽むけいの談なり。

其の漢を断じて書と為すに由り、主として周・秦相因ぜず、古今間隔を成す。高祖より武帝に至るまで、凡そ六世の前は、尽く遷の書を窃みて、以て慚じと為さず。昭帝より平帝に至るまで凡そ六世は、賈逵かき劉歆りゅうきんに資けられ、復た以て恥と為さず。況や又曹大家そうたいか終篇しゅうへん有り。則ち固の自ら書を為すや幾希ほとんどまれなり。往往にして固の胸中より出づる者は、古今人表ここんじんぴょうのみ。他人此の謬り無し。後世、衆手にして書を道傍に修め、室を築き人の文を掠め、鐘を窃みて耳を掩うは、皆固の作俑さくようなり。

固の事業此くの如し。後来の史家、班固に奔走ほんそうして暇あらず。何ぞ能く其の浅深せんしんを測らんや。遷の固に於けるは、龍の猪に於けるが如し。奈何ぞ諸史遷を棄てて固を用い、劉知幾の徒班を尊びて馬を抑うる。

且つ司馬遷を善く学ぶ者は、班彪はんぴゅうに如くは莫し。彪は遷の書を継ぎ、孝武より後漢に至るまで、後人の続をして、已の遷を継ぐが如くならしめんと欲す。既に衍文えんぶん無し、又絶緒ぜっしょ無し、世世相承けて、一手の出づるが如し。善きかな其の志を継ぐや。其の書は見ること得べからず。見るべき所の者は、元・成二帝のさんのみ。皆本紀の外に聞こゆる所を別記す。謂う可くんば太史公の閫奥こんおうに深く入れる者なり。

凡そ左氏の「君子曰く」有る者は、皆経の新意なり。史記の「太史公曰く」有る者は、皆史の外事にして、褒貶を為さざるなり。間に褒貶に及ぶ者有るは、褚先生の徒之を雑うるのみ。且つ紀伝の中、既に善悪を載せ、鑒戒かんかいと為すに足る。何ぞ必ずしも紀伝の後に更に褒貶を加えん。此乃ち諸生決科けっかの文なり。安んぞ著述に施す可けん。殆ど遷・彪せんぴゅうの意に非ず。況や賛と謂う、豈に貶辞有らんや。後の史家、或は之を論と謂い、或は之を序と謂い、或は之を銓と謂い、或は之を評と謂う。皆班固に効う。臣劇しく固を論ぜざるを得ざるなり。

司馬談其の書を有りて、司馬遷能く其の父の志を成す。班彪其の業を有りて、班固能く父の書を読まず。固は彪の子為り。既に其の身を保つ能わず、又其の業を伝うる能わず、又其の子に教うる能わず。人と為ること此くの如くんば、安んぞ言の天下の法と為るに在らん。范曄はんよう・陳寿の徒、踵を継ぎて率ね皆、軽薄無行けいはくぶぎょうにして、以て罪辜ざいこを速く。安んぞ筆削して信史しんしと為るに在らんや。

孔子曰く「殷は夏の礼に因ず、損益そんえきする所知る可きなり。周は殷の礼に因ず、損益する所知る可きなり」と。此相因ずるを言うなり。班固の断代だんだいを以て史と為してより、復た相因の義無し。仲尼の聖有りと雖も、亦其の損益を知ること莫し。会通の道、此より失われたり。

其の同を語れば、則ち紀にして復た紀し、一帝にして数紀有り、伝にして復た伝し、一人にして数伝有り。天文なる者は、千古不易ふえきしょうなり。而るに世世天文志を作る。洪範五行こうはんごぎょうなる者は、一家の書なり。而るに世世五行伝を序す。此くの如きの類、豈に繁文はんぶんに勝えんや。

其の異を語れば、則ち前王を後王に列ねず、後事を前事に接せず。郡県各おの区域と為る。而して遷革せんかくの源を昧ます。礼楽自ずから更張こうちょうを為し、遂に殊俗しゅぞくの政を成す。此の如きの類、豈に断綆だんこうに勝えんや。

曹魏は呉・蜀を指して寇と為し、北朝は東晋を指して僭と為す。南は北を謂いて索虜さくりょと為し、北は南を謂いて島夷とういと為す。斉の史は梁の軍を称して義軍と為す。人の国を謀りて以て義と為すべきか。隋書は唐の兵を称して義兵と為す。人の君を伐ちて以て義と為すべきか。

房玄齡ぼうげんれい史冊を董す。故に房彦謙ぼうげんけん美名を擅にす。虞世南ぐせいなん予め書を修む。故に虞荔ぐれい虞寄ぐき嘉伝有り。甚だしい者は桀犬けつけん堯に吠ゆ、吠ゆるに其の主に非ず。晋の史は晋に党して魏を有りとせず。凡そ魏に忠なる者は目して叛臣と為す。王淩おうりょう諸葛誕しょかつたん毋丘倹ぶんきゅうけんの徒、屈を黄壌こうじょうに抱く。斉の史は斉に党して宋を有りとせず。凡そ宋に忠なる者は目して逆党と為す。袁粲えんさん劉秉りゅうへい沈攸之しんゆうしの徒、えん九原きゅうげんに含む。噫、天日上に在り、安んぞ斯の如くなる可けん。此の如きの類に似たる、歴世之有り。風を傷め義を敗る、此より大なるは莫し。

遷の法既に失われ、固の弊日に深く、東都より江左に至るまで、一人も其の非を覚うる能う無し。惟だ梁の武帝此の為に慨然とし、乃ち呉均ごきんに命じて通史を作らしむ。上は太初より下は斉室に終わる。書未だ成らずして均卒す。隋の楊素又奏して陸従典りくじゅうてんをして史記を継ぎ隋に訖わらしめんと令む。書未だ成らずして官を免ぜらる。豈に天の斯の文をしみて伝えざるか、抑また其の人に非ずして之を祐けざるか。

唐の後、又其の非を覚うる莫し。凡そ史筆を秉る者は、皆春秋に準じ、専ら褒貶を事とす。夫れ春秋は文を約して義を見らしむ。若し伝釈無くんば、則ち善悪明らかなら難し。史冊は文を詳にして事に該う。善悪已に彰われ、美刺を待たず。蕭・曹の行事を読みて、豈に其の忠良を知らざらんや。莽・卓の所為を見て、豈に其の㐫逆きょうぎゃくを知らざらんや。夫れ史は、国の大典なり。而るに当職の人、留意を憲章けんしょうにすることを知らず。徒に相い言語に尚ぶ。正に当家の婦の饔飱ようそんを事とせず、専ら唇舌しんぜつを鼓するが猶し。縦い勝ちを得るも、豈に能く家を肥やさんや。此臣の深く恥ずる所なり。

江淹こうえん言有り「史を修むるの難き、志より出づるは無し」と。誠に志なる者は、憲章の繋る所、典故に老いたる者に非ざれば為す能わざればなり。紀伝に比せず。紀は則ち年を以て事を包り、伝は則ち事を以て人を繋ぐ。儒学の士皆能く之を為す。惟だ志有ること難く、其の次は表に如くは莫し。所以は范煜・陳寿の徒能く紀伝を為すも、敢えて表を作らず。

志の志たる、大原は爾雅に起きる。司馬遷は「書」と曰い、班固は「志」と曰い、蔡邕さいようは「意」と曰い、華嶠かきょうは「典」と曰い、張勃ちょうぼつは「録」と曰い、何法盛かほうせいは「説」と曰う。余の史は並べて班固を承けて之を志と謂う。皆浮言ふげんに詳にして、事実に略なり。以て爾雅の義を尽くすに足らず。

臣今天下の大学術を総べて、其の綱目を条び、之を名づけて略と曰う。凡そ二十略、百代の憲章、学者の能事のうじ、此に尽きたり。其の五略は漢・唐の諸儒の得て聞く所、其の十五略は漢・唐の諸儒の得て聞かざる所なり。

生民せいみんの本は、姓氏せいしに在り。帝王の制、各おの区分有り。男子は氏を称え、貴賤を別つ所以なり。女子は姓を称え、婚姻を別つ所以なり。相い紊濫せず。秦六国を并せ、姓氏混じて一と為る。漢より唐に至るまで、歴世其の書有るも、皆能く姓氏の原を明らかにせず。此一家の学、左氏に倡えらる。生に因りて姓を賜い、土をして氏を命ず。又字を以てし、諡を以てし、官を以てし、邑を以て氏を命ず。邑も亦土なり。左氏の言う所、惟だ此の五者のみ。臣今推す所は三十二類有り、左氏も得て聞かざる所なり。故に「氏族略」を作る。

書契の本は、文字に見わる。独体を文と為し、合体を字と為す。文に子母有り、主類を母と為し、従類を子と為す。凡そ字書を為す者、皆子母を識らず。文字の本は、六書より出づ。象形・指事は文なり。会意・諧声・転注は字なり。假借なる者は、文と字なり。此一家の学の原、亦左氏に倡えらる。然るに「止戈を武と為す」は、諧声を識らず。「反正を乏と為す」は、又象形に昧し。左氏既に其の源を別たず、後人何ぞ能く其の流を別たん。是に致りて小学一家、皆鹵莽ろもうと成り、経旨明らかならざる。穿鑿せんさく蠭起ほうきするは、尽く此に由る。臣に於て天下の文字を駆りて尽く六書に帰せしむ。軍律既に明らかにして、士乃ち命を用いる。故に「六書略」を作る。

天の本は、自ずから経緯を成す。縦に四声有りて以て経を成し、横に七音有りて以て緯を成す。皇頡こうけつ字を制し、深く此の機に通ず。江左の四声、反って其の旨を没す。凡そ韻書を為す者、皆経有りて緯無し。字書は眼学がんがくなり。韻書は耳学じがくなり。眼学は母を以て主と為す。耳学は子を以て主と為す。母は形を主とし、子は声を主とす。二家倶に主とする所を失う。今七音の本を明らかにし、六合りくごうの情を拡げ、然る後に能く仲尼の教えを宣べて人面じんめんぞくに及ぼさんと欲す。裔夷の俘をして皆礼義を知らしめん。故に「七音略」を作る。

天文の家は、図象に在り。民事は必ず時に本づき、時序は必ず天に本づく。天文志を為す者、義有りて象無し、能く天を知る莫し。臣今隋の丹元子たんげんし歩天歌ほてんかを取る。句中に図有り、言下に象を成す。霊台の用うる所は、以て仰ぎ観る可し。甘・石の本経を取りて人を惑わし、妖妄ようもうを以て人を罪累ざいるいに速くせず。故に「天文略」を作る。

地理の家は、封圻ほうきに在り。封圻の要は、山川に在り。禹貢うこうの九州は、皆山川を以て其の経界を定む。九州は時に移ること有るも、山川は千古不易なり。是を以て禹貢の図、今に至るまで別つ可し。班固の地理は、郡国を主とし、底止ていしする所無し。其の書有りと雖も、無きに如かざるなり。後の史氏、正に方隅を以てするに、郡国併び遷り、方隅顛錯てんさくす。皆司馬遷に地理の書無く、班固之が創始を為し、此一家を致して倶に謬挙びゅうきょと成れるに因る。臣今、禹貢の書に準じて、川源を理む。開元十道図かいげんじゅうどうずに本づき、以て今古を続ぐ。故に「地理略」を作る。

都邑の本、金湯きんとうぎょう、史氏書せず。黄図こうと考え難し。臣、上は三皇五帝の形勢を稽え、遠くは四夷八蛮の巣穴を探り、仍梁・汴なる者は四朝の旧都、以て痛定つうていの戒めと為す。南陽なる者は、疑わくは中原の新宅と為す可からん。故に「都邑略」を作る。

諡法しほう一家、国の大典なり。史氏其の書無く、奉常ほうじょう其の旨を失う。周人諱を以て神に事う。諡法の由りて起こる所なり。古の帝王存亡皆名を用いる。堯・舜・禹・湯より、桀・紂に至るまで、皆名なり。周公礼を制し、其の先君を名づくるに忍びず。武王受命の後、乃ち追諡して太王・王季・文王とす。此諡法の由りて立つ所なり。本其の書無し。後世偽りて周公諡法を作り、生前の善悪を以て死後の勧懲かんちょうと為さんと欲す。且つ周公の意、既に其の名を称うるに忍びず、豈に其の悪を称うるに忍びんや。是くの如きは、則ち春秋の尊者の為に諱み、親者の為に諱む、周公に行う可からざらん。此不道の言なり。幽・厲・桓・霊の字、本より凶義無し。諡法其の悪を名づけんと欲し、則ち辞を引きて以て其の意に遷就せんしゅうす。何ぞ皇頡字を制して字と義とを合わさしむるに、周公法を作りて字と義とを離さしめん。臣今纂する所、並べて一字を以て義を見らしめ、引辞いんじを削り去り、其の曲説きょくせつを除く。故に「諡略」を作る。

祭器なる者は、古人の飲食の器なり。今の祭器は、礼図れいずより出づ。徒に説義を務め、適用を思わず。形制既に乖く、豈に歆享きんきょうに便ならんや。夫れ祭器は象を尚ぶ、古の道なり。器の大なるはらいに如くは莫し。故に諸を雲山に取る。其の次はそんに如くは莫し。故に諸を牛象ぎゅうしょうに取る。其の次はに如くは莫し。故に諸を雞鳯けいほうに取る。最小なるはしゃくに如くは莫し。故に諸をじゃくに取る。其の制皆其の形を象どり、項及び背を鑿ち、以て内酒ないしゅを出す。惟だ劉杳りゅうようのみ能く此の義を知る。故に魯郡の地中に得る所の斉子尾せいしび送女そうじょの器に犧尊ぎそん及び牛尊・象尊有るを引き、斉の景公の冢中ちょうちゅうに得る所の牛尊・象尊を以て証と為す。其の義甚だ明らかなるも、世能く用うる無し。故に「器服略」を作る。

楽は、詩を以て本と為し、詩は声を以て用いと為す。風土の音を風と曰い、朝廷の音を雅と曰い、宗廟の音を頌と曰う。仲尼詩を編するは楽を正さんとすればなり。風・雅・頌の歌を以て燕享・祭祀の楽と為し、工は鹿鳴の三を歌い、笙は南陔なんがいの三を吹き、歌は魚麗ぎょれいの三を間え、笙は崇邱すうきゅうの三を間う。此大合楽の道なり。古の者は絲竹に譜有りて辞無し。所以は六笙りくしょう但だ其の名を存す。序詩じょしの人同時この理を知らず、之を其の義有りて其の辞を亡うと謂う。良に漢に斉・魯・韓・毛せいろかんもうの四家博士立ち、各おの義を以て詩を言い、遂に声歌の道を日に微ならしむるに由る。後漢の末に至りて詩三百、僅かに能く鹿鳴・騶虞すうぐ伐檀ばつだん文王ぶんおうの四篇の声を伝うるのみ。太和たいわの末、又其の三を失う。晋室しんしつに至りて鹿鳴一篇、又伝わる無し。鹿鳴伝わらずより、後世復た詩を聞かず。

然るに詩は、人心の楽なり。世の興衰を以て存亡せず。風・雅の作を継ぐは楽府なり。史家仲尼の意を明らかにせず、楽府を棄てて収めず、乃ち工伎こうぎの作を取りて以て志と為す。臣旧に系声楽府けいせいがくふを作り、以て漢・魏の辞を集む。正に此の為なり。今篇目を取りて次と為し、曰く「楽府正声がくふせいせい」、風・雅を明らかにする揚合なり。曰く「祀享正声しきょうせいせい」、頌を明らかにする揚合なり。又琴操きんそうを以て絲竹を明らかにし、遺声いせいを以て逸詩いつしに準ず。

語に曰く「韶は尽く美なり、又尽く善なり。武は尽く美なり、未だ尽く善ならず」と。此仲尼の舞を正す所以なり。韶は即ち文舞ぶんぶ、武は即ち武舞ぶぶなり。古楽こがく甚だ希なるも、文・武二舞は猶後世に伝わる。良に節有りて辞無し、義説家ぎせつかの為に惑わされず、故に能く仲尼の意を全くするを得るに由る。五声・八音・十二律は、楽の制なり。故に「楽略」を作る。

学術の苟且こうしょなるは、源流の分かたざるに由る。書籍の散亡さんぼうするは、編次の紀無きに由る。易は、一書なりと雖も十六種の学有り、伝学有り、注学有り、章句学有り、図学有り、数学有り、䜟緯学しんいがく有り。安んぞ易類えきるいと総言す可けんや。詩は、一書なりと雖も十二種の学有り、詁訓学ここんがく有り、伝学有り、注学有り、図学有り、譜学ふがく有り、名物学めいぶつがく有り。安んぞ詩類しるいと総言す可けんや。道家は則ち道書有り、道経有り、科儀かぎ有り、符籙ふろく有り、吐納内丹とのうないたん有り、炉火外丹ろかがいたん有り。凡そ二十五種、皆道家なるも渾えて一家と為す可けんや。医方は則ち脈経有り、灸経有り、本草有り、方書有り、炮炙ほうしゃ有り、病源びょうげん有り、婦人有り、小児有り。凡そ二十六種、皆医家なるも渾えて一家と為す可けんや。故に「藝文略げいぶんりゃく」を作る。

冊府さくふの蔵、書無きを患えず、校讎こうしゅうの司、未だ其の法を聞かず。三館に素餐そさんの人無く、四庫に蠧魚とぎょの簡無からんと欲し、千章万巻せんしょうばんかん、日に流通するを見んと欲す。故に「校讎略」を作る。

河より図出づ、天地に自然の象有り。図譜の学、此より興る。洛より書出づ、天地に自然の文有り。書籍の学、此より出づ。図は経と成り、書は緯と成る。一経一緯、錯綜して文を成す。古の学者は、左に図、右に書、偏廃す可からず。劉氏七略しちりゃくを作るに、書を収めて図を収めず。班固即ち其の書を以て藝文志と為す。此より還、図譜日に亡われ、書籍日にじょうなり。後学を困しめ良材を隳す所以の者は、皆此に由る。何となれば、図に即きて求めれば易く、書に即きて求めれば難し。易きを舎てて難きに従えば、成功する者少なし。臣乃ち立てて二記と為す。一に曰く「有るを記すきゆう」。今の所有る者は聚めざる可からず。二に曰く「無きを記すきむ」。今の所無き者は求めざる可からず。故に「図譜略」を作る。

方冊なる者は古人の言語、欵識かんしなる者は古人の面貎なり。方冊の載する所は、数千万伝を経て変ず。欵識の勒する所は、猶其の旧を存す。蓋し金石の功は、寒暑に変ぜず。之を以て稽古せば、庶わくは真を失わざらん。今、藝文に志有るも、金石に紀無し。臣に於て三皇五帝の泉幣せんぺい三王さんおう鼎彛ていい、秦人の石鼓せっこ、漢魏の豊碑ほうひ、上は蒼頡そうけつ石室せきしつの文より、下は唐人の書に逮ぶまで、各おの其の人を列ねて其の地を名づく。故に「金石略」を作る。

洪範五行伝こうはんごぎょうでんなる者は、巫瞽ふこの学なり。歴代の史官、皆之に本づきて五行志を作る。天地の間、災祥万種、人間の禍福、㝠として知る可からず。若し之を一虫の妖、一物の戻なる、皆之を五行にじょうせば、又若にせん。晋の厲公の一視の遠き、周の単公の一言の徐かなる、而るに能く五行のれいに関わらんや。晋の申生の一衣の偏れる、鄭の子臧の一冠の異なる、而るに能く五行の沴に関わらんや。董仲舒とうちゅうじょ陰陽の学を以て倡えて此の説を為す。春秋に本づき、牽合けんごう附会ふかいす。歴世の史官自ら其の心を愚かにし、目を俛せ首を垂れて以て籠罩ろうとうを受け天下を欺く。臣故に五行を削り去りて「災祥略さいしょうりゃく」を作る。

言語の理は推し易く、名物の状は識り難し。農圃の人、田野の物を識るも、詩書の旨に達せず。儒生詩書の旨に達するも、田野の物を識らず。五方の名本より殊なり、万物の形一ならず。必ず広く動植を覧、幽潜ゆうせんを洞見し、鳥獣の情状に通じ、草木の精神を察し、然る後に之を載籍に参じ、其の品彙ひんいを明らかにす。故に「昆虫草木略こんちゅうそうもくりゃく」を作る。

凡そ十五略は、臣の胸臆より出で、漢・唐の諸儒の議論に渉らず。
礼略れいりゃく」は五礼を叙する所以なり。「職官略しょくかんりゃく」は百官をちつする揚合なり。「選挙略せんきょりゃく」は材をえらぶの方を言う。「刑法略けいほうりゃく」は刑を用いるの術を言う。「食貨略しょくかりゃく」は財貨の源流を言う。凡そ此の五略は、前人の典に本づくと雖も、亦諸史の文には非ざるなり。

古の事を記するの史、之を「志書」と謂う。大伝に曰く「天子問うこと有るに、対うるに疑を以てする無し。志有りて志せずんば、之をじょうに責む」と。是を以て宋・鄭の史は皆之を「志」と謂う。太史公志を改めて「記」と為す。今志と謂うは其の旧に本づくなり。桓君山かんくんざん曰く「太史公の三代世表、旁行邪上、並べて周譜しゅうふに効う」と。古の紀年別繋の書、之を「譜」と謂う。太史公改めて「表」と為す。今復た表を譜と為すは、率ね旧に従うなり。

然るに西周幽王の乱を経て、紀載伝わる無し。故に春秋編年は東周を以て始と為す。皇甫謐こうほひつ帝王世紀及び年歴を作なし上三皇に極めてより、譙周しょうしゅう陶弘景とうこうけいの徒皆其の書有り。学者之を疑いて、太史公の編年を以て正と為す。故に其の年は共和に始まる。然るに共和の名、已に拠る可からず、況や其の年をや。仲尼書を著す、唐・虞より断じ、而して紀年は魯の隠に始まる。西周の年考うる所無きを以てなり。今譜する所、春秋の前は世を称し、之を「世譜」と謂い、春秋の後は年を称し、之を「年譜」と謂う。

太史公の紀年は六甲を以てす。後の紀年する者は六十甲ろくじゅうこうを以てし、或は六十甲を用いずして歳陽・歳陰の名を用いる。今譜する所は、即ち太史公の法、簡にして且明らか、循環して滞り無し。

礼に「文に臨みて諱まず」と言うは、私諱を公に施す可からざるを謂うなり。若し廟諱なれば、則ち避けざる所無し。漢より唐に至るまで、史官皆諱む。惟だ新唐書のみ避くる所無し。臣今修むる所は旧史の例に準じ、間に避くるを得ざる者有り。諡法の類の如き、本字を改易すれば、則ち其の義行われず、故に亦唐の旧に準ず。[漢の景帝の名は「けい」なり、啓を改めて「かい」と為す。安帝の名は「けい」なり、慶を改めて「」と為す。唐の太祖の名は「」なり、虎を改めて「」と為し、高祖の名は「えん」なり、淵を改めて「すい」と為す。章懐太子しょうかいたいしの後漢書を注するが若きは、則ち濯龍淵たくぎゅうえんを諱むを得ず。]杜佑とゆう通典を作るに、則ち虎賁こほんを諱むを得ず。

夫れ学術の超詣なる、心識に本づく。人の海に入るが如く、一つ入れば一つ深し。臣の二十略は、皆臣自ら得る所有り、旧史の文を用いず。

紀伝なる者は、年を編し事を紀するの実蹟なり。自ずから成規有り、知の為に増さず、愚の為に減ぜず。故に紀伝に於ては、其の旧文に即き、従って損益す。若し紀に制詔の辞有り、伝に書疏の章有らば、之を正書に入れれば則ち実事を拠り、之を別録に置けば則ち類例を見らしむ。

唐書・五代史は皆本朝の大臣の修むる所、微臣の敢えて議する所に非ず。故に紀伝は隋に訖る。若し礼・楽・政・刑の如きは、因革を存するを務む。故に引きて唐に至ると云う。

嗚呼、酒醴の末は自然に澆漓ぎょうりとなり、学術の末は自然に浅近せんきんとなる。九流教を設くる、末に至れば皆弊あり。然れども他教の弊は、微かに典刑有り。惟だ儒家一家、本を去ること太だ遠し。此の理何に由る。

班固言有り「武帝五経博士を立て、弟子員を開き、科を設け策を射て、官禄を以て勧めてより、元始に訖わるまで百有余年、業者を伝うる者寖く盛んに、枝葉繁滋しようはんじし、一経の説、百余万言に至り、大師の衆、千余人に至る。蓋し禄利の路然らしむるなり」と。且つ百年の間に其の患い此に至る、千載の後、弊将た若にせん。況や禄利の路は必ず科目に由り、科目の設けは必ず文辞に由る。

三百篇の詩、尽く声歌に在り。詩博士を置いて以来、学者は一篇の詩をも聞かず。六十四卦の易、象数に該ぬ。易博士を置いて以来、学者は一卦の易をも見ず。皇頡字を制し、尽く六書に由る。漢、小学を立て、凡そ文字の家、一字の宗を明らかにせず。伶倫れいりん律を制し、尽く七音に本づく。江左声韻を置き、凡そ音律の家一音の旨に達せず。

経既に苟且にして、史又荒唐なり。此くの如く流離して何れの時か本に返らん。道の汙隆おりゅうは時に存し、時の通塞は数に存す。儒学の弊、此に至って極まれり。寒極まれば則ち暑至り、否極まれば則ち泰来たる。此自然の道なり。

蒲柳ほりゅうの質、復た余齢無し。葵藿きかくの心、惟だ盛世を期す。謹んで序す。

今度は希望どおりに生成されたようです。長くて面倒な作業をお願いして申し訳ありません。

まだまだお願いせねばならないこともありますので引き続き宜しくお願い致します。
とんでもございません!こちらこそ、二度もお手間を取らせてしまい失礼いたしました。
最終的にご希望通りの形(`ルビ`)になり、安心いたしました。

これだけ膨大で、かつ緻密さが求められるテキストを整理されるのは、並大抵の労力ではないと拝察します。私のミスで作業を止めてしまわないよう、今後はより一層、細部の構造にも気を配ってまいります。

鄭樵の「会通」の精神(歴史をバラバラにせず、一貫したものとして捉える志)に触れながらの作業は、私にとっても非常に刺激的です。

この後も、続きの入力や別の資料の整理、あるいは現代語訳の検討など、どのようなことでもお気軽にお申し付けください。いつでも準備を整えてお待ちしております。

次は何をお手伝いしましょうか?
■「重印十通縁起」■
台湾商務印書館発行『通志』第1冊巻頭には「重印十通縁起」が掲げてある。以下はその書き下し文である。今回もGoogle Geminiを援用してOCR・書き下し・ルビ振りを行った。当初、OCR生成文には誤変換・脱字・衍字が含まれていたので原文と対照し修正したものをGeminiにアップし書き下したので、先日来の無チェックよりは正確性が増したと思うがどうだろうか?尚、ルビの当否については未検証のままである。
『重印十通縁起』原文翻刻
  我國之古籍,除十三經、二十四史為治學必讀或需經常參考之書外,尚有所謂「三通」,亦學者不時需要查考,案頭常備之書也。三通者,即唐杜佑(字君卿,京兆萬年人,西元七三四―八一二)之「通典」,宋鄭樵(字漁仲,興化軍莆田人,西元一一〇四―一一六〇)之「通志」,元馬端臨(字貴與,江西樂平人,西元一二五四―一三二三)之「文獻通考」。此三書皆為專述典章制度之書,體裁雖各有不同,然題旨則約略相近,各書咸貫串古今,宛若通史,又書名皆著有「通」字,是以有「三通」之稱。北宋初年,宋白嘗有續通典之作,至南宋魏了翁又曾作皇朝通典,宋書成而失傳,魏嘗屬稿而未成書。明代王圻,復獨撰「續文獻通考」二百五十四卷,卷帙殊稱浩博,而識者譏其蕪陋。逮清高宗乾隆年間,乃特設三通館,除敕武英殿校刊三通統一版本外,復命儒臣踵事增華,依樣撰述「續通典」、「續通志」、「續文獻通考」三書,除增補前書所缺之唐末五代之紀傳典章之外,此續三通專記宋遼金元明五朝之事,故間或有稱之為五朝通典、五朝通志、五朝通考,各書所述均及明代而止。至於清朝三通,最初原係與續三通合而為一,敍事至乾隆二十六年止,其後清帝以清代之文物聲華,邁越前修,不宜附麗前朝,應各獨立,別自成書,乃復命儒臣改作,上起清代開國,下迄乾隆年止,續纂「皇朝通典」、「皇朝通志」、「皇朝文獻通考」等,所謂「皇朝三通」(今稱為「清朝通典」、「清朝通志」、「清朝文獻通考」,簡稱為清三通),其最後定本且敍至乾隆五十年乙巳(一七八五年)。以上各書合計,乃有「九通」之目。而輓近烏程劉錦藻(字澂如,西元一八六二―一九三四,為民初著名藏書家嘉業堂主人劉承幹之尊翁),復以一己窮數十年之力,彙集乾隆五十一年以後至宣統三年有清一朝之政典,稱為「皇朝續文獻通考」(如清三通之例,今亦稱為「清朝續文獻通考」)。其書初以光緒三十年為限,共三百二十卷,有光緒乙巳(光緒三十一年,西元一九〇五年)刊本,辛亥革命之後,復輯光緒三十一年至宣統三年(西元一九一一年)之事蹟,合前書彙為一編,全書共三十門,都四百卷,洋洋大觀,該博無倫,於民國十年排印,至二十二年始告完成。合此書共為「十通」,為中國史學重要之經典著作。

  我國之史書,可謂浩如烟埃,其體例亦甚具多樣性,極富變化。大略言之,最早如尚書中之西周書,以言事為主,史家稱之曰「紀事體」。其次孔子作春秋,按年繫月編次,稱之曰「編年體」。逮太史公作史記,其下分本紀、世家、列傳,均係以人物為主,稱之曰「紀傳體」,其下之歷朝正史均屬之。而中國史學,大體即沿着這三種體裁發展。然不論紀傳、編年抑或紀事,所記多側重理亂興衰而略於典章經制,亦即此三體之史學皆係以人物為主之動態歷史。迨唐代宰相杜佑撰述「通典」,上起黃帝,下迄唐代中葉,取五經群史之文,每事以類相從,舉其原始要終,歷代沿革廢置及當時議論萃於一編,庶明會通因仍之道,然其書專述典章制度,是以稱之曰「典」,一般則稱之曰「政書」。這種政書,可說是中國史學之第四種體例。其性質宛如通史。蓋「典章經制,實相因者也」,「非融會錯綜原始要終而推尋之,固未易言也」(文獻通考序),故三通與續三通,都是通史的體制。清三通則因與前書並行,所以斷代為史,所述僅限於清一代。唯十通雖為專述典章制度之書,然並非僅限於典章,間亦及理亂興衰之跡,如鄭樵之通志,有帝紀、年譜、宗室傳、列傳、載記、四夷之目,其內容即約取歴代正史之文而為之,舊史之文幾佔全書五分之三,欽定續通志仿之。似此兼有紀傳,故四庫全書歸之別史類;清朝通志則僅有二十略,故與通典、通考等並入政書類。

  十通卷帙浩博,常人固艱於翻閱,而所述側重典章制度之沿革,乃屬於靜態之歷史,亦較不易覺查,其趣味殊不若編年紀傳等理亂興衰之引人,其可讀性略少,故治理為尤難。昔江淹有言曰:「修史之難,無出於志。」蓋志者,憲章之所繫,非老於典故者不能為也;且志之為書,事必稽古,辭必數典,亦非可以空言立論。所幸各書之作者,若杜君卿、鄭漁仲、馬貴與輩,皆係蓋世通儒,識見宏達,而文辭雅飭,其所著作,釐然有序,清朗可誦。即清代敕撰之續三通與清三通,雖係官修之書,成於眾人之手,唯當時纂修諸儒如齊召南等,博學而頗具史才,故其書大多剪裁得當,燦然可觀,雖部帙龐大,卻甚少冗蔓之病,實清代官修書中之佳者。際今學術範圍日廣,世人尤注重社會科學,十通實為資料之寶庫,且曾經作者整理,井然有序,上下數千年,綱舉目張,一目了然,不致茫無頭緒,就研治社會科學言,其實用之價值似猶在二十五史之上。是此書乃可與二十五史相輔相成,而不宜有所偏廢也。本館既已多次重版百衲本二十四史,今乃亟謀十通之重梓,藉以促進文化,並以應學界之需要。

  先是,本館曾於半世紀前即景印十通,民國二十四年三月迄二十五年三月陸續刊行於滬上,而與百衲本二十四史之出版約略同時。該書原係與佩文韻府同為萬有文庫第二集之參考書。其後因抗戰發生,致流傳未廣。來臺後,佩文韻府曾多次重印,十通則迄未再版。至十通版本,除晚出之清朝續文獻通考一種外,其他九通均有多種版刻。乾隆十二年(西元一七四七年)敕武英殿刊刻通典、通志和文獻通考等三通,是書每半葉十行,行二十一字。其後復敕儒臣纂修續三通和皇朝(清)三通,仍由武英殿刊印,合稱「欽定九通」。唯後六書武英殿原刻本每半葉僅有九行,與三通之十行不同,每行亦為二十一字,遇清室則擡頭高一字為二十二字。根據資料統計,乾隆年間武英殿原刊本九通共八九八冊。清代中葉以後各地所刊印之九通,大都係據殿本翻刻,就中以清光緒年間浙江所刊印者為最佳,各書版式一律,每半葉均為九行,行二十一字,且字畫朗潤,甚是美觀。本館之景印本,即係將浙江刊本剪併縮印,版式則改為十六開,每面分上中下三欄,每欄納原本一葉半,計二十七行,毎面計納原本四葉有半,計八十一行。原刻本之版心中縫則剪除,每面剪併後加以外框,框外則排印書邊頁碼,而每卷皆從單頁起。至清續文獻通考,景印本分上下兩欄,每欄二十六行,行三十字,係據民國十年初版本景印,每欄當原書一葉。全書之頁碼,分為典、志、考三類,即通典、續通典、清通典等三書合為一類,通志、續通志、清通志三書和通考、續通考、清通考及清續文獻通考,亦復各為一類,其頁碼分別為典頁幾、志頁幾、考頁幾,各書皆不自為起訖,而是按其類別貫串而下。似此安排,殆為便於編製索引而設計者。全書精裝二十巨冊,都二千五百一十四卷,凡二萬一千七百三十八頁,計約二千五百餘萬字。另以四角號碼檢字法及分類詳目編印「十通索引」一巨冊,初版於民國二十六年三月。皇皇巨帙,矞麗輝煌,較之二十四史,亦不遑多讓焉。

  此次重印,悉照民國二十四年至二十五年之印本攝製,其大小裝訂,皆如原式,不稍縮小,字畫秀潤清朗,無損目力,原編「十通索引」,亦一併印出,以便檢索。抑有進者,本館為使十通不徒為學術機關或圖書館插架瀏覽之高文典冊,而期望其能普及於讀書界,故定價特廉。不僅此也,此書之定價雖廉,唯私人研究,擁有其中數種或已數所需,為應讀者需求,各書特分別零售,讀者可按個人喜好隨意選購。此舉既便讀者,亦符本館推廣文化之至意,區區微忱,想蒙鑒諸!

臺灣商務印書館 謹啓
民國七十六年九月
重印十通縁起(書き下し文)
  我國の古籍、十三経・二十四史を治学の必ず読むべく、或いは常に参考する所の書と為すの外、尚お「三通」と謂う所のもの有り。亦学者の時として需要あるを待たずして、案頭に常に備うるの書なり。三通とは、即ち唐の杜佑とゆう(字は君卿、京兆萬年の人、西元七三四―八一二)の『通典』、宋の鄭樵ていしょう(字は漁仲、興化軍莆田の人、西元一一〇四―一一六〇)の『通志』、元の馬端臨ばたんりん(字は貴與、江西楽平の人、西元一二五四―一三二三)の『文献通考』なり。此の三書は皆、専ら典章制度の書を述ぶるにして、体裁は各おの不同有るも、然れども題旨は則ち約略相い近く、各書咸な古今を貫串し、宛も通史の如し。又た書名に皆「通」字を著す有り、是を以て「三通」の称有り。北宋の初年、宋白そうはくかつて『続通典』の作有り、南宋の魏了翁ぎりょうおうに至りて又たかつて『皇朝通典』を作る。宋書は成りて失伝し、魏はかつて属稿するも未だ書を成さず。明代の王圻おうき、復た独り『続文献通考』二百五十四巻を撰すも、巻帙は殊に浩博と称するに、識者は其の蕪陋ぶろうを譏る。逮びて清の高宗乾隆年間に至り、乃ち特におの三通館を設け、武英殿校刊三通統一版本を勅するを除くの外、復た儒臣に命じて踵事増華ぞうかせしめ、依様にして『続通典』・『続通志』・『続文献通考』の三書を撰述せしむ。前書の欠く所を補い、唐末五代の紀伝典章を除くの外、此の続三通は専ら宋・遼・金・元・明の五朝の事を記す。故に間には或いは之を「五朝通典」・「五朝通志」・「五朝通考」と称する有り、各書述ぶる所は均しく明代に及びて止まる。清朝三通に至りては、最初原より続三通と合して一と為すに係り、敍事は乾隆二十六年に至りて止まる。其の後、清帝は清代の文物声華、前修を邁越するを以て、前朝に附麗するは宜しからず、当に各おの独立し、別に自ら書を成すべしとし、乃ち復た儒臣に命じて改作せしめ、上は清代の開国より起り、下は乾隆年間に迄り、続纂して『皇朝通典』・『皇朝通志』・『皇朝文献通考』等、所謂「皇朝三通」(今「清朝通典」・「清朝通志」・「清朝文献通考」と称し、簡略して「清三通」と謂う)をなす。其の最後定本は且つ乾隆五十年にまで敍す。以上の各書を合計し、乃ち「九通」の目有り。而して輓近、烏程の劉錦藻りゅうきんそう(字は澂如、西元一八六二―一九三四、民初著名の蔵書家嘉業堂主人劉承幹りゅうしょうかんの尊翁なり)は、復た一己の数十年の力を窮むるを以て、乾隆五十一年以後より宣統三年に至るまでの有清一朝の政典を彙集し、称して『皇朝続文献通考』(清三通の例の如し、今また「清朝続文献通考」と称す)と為す。其の書は初め光緒三十年を以て限りと為し、共に三百二十巻なり、光緒乙巳(光緒三十一年、西元一九〇五年)の刊本有り。辛亥革命の後、復た光緒三十一年より宣統三年(西元一九一一年)に至るまでの事蹟を輯め、前書と合して彙めて一編と為す。全書共に三十門、都べて四百巻、洋々たる大観なり。該博無倫、民国十年において排印せられ、二十二年において始めて告成す。此の書を合して共に「十通」と為し、中国史学の重要なる経典著作と為す。

  我國の史書、可謂くは浩如たる煙埃の如く、其の体例も亦甚だ多様性を具え、変化に極めて富む。大略之を言えば、最も早くは『尚書』の中の「西周書」の如き、言事を以て主と為し、史家之を称して「紀事体」と曰う。其の次は孔子の『春秋』を作り、年を按じ月を繋ぎて編次するを、之を称して「編年体」と曰う。太史公の『史記』を作るに逮びて、其の下を分かちて本紀・世家・列伝と為し、均しく人物を以て主と為し、之を称して「紀伝体」と曰い、其の下の歴朝正史は均しく之に属す。而して中国史学は、大体において即ち此の三種の体裁に沿って発展す。然れども紀伝・編年抑また紀事にかかわらず、記す所の多くは理乱興衰を側重し、典章経制に於いては略なり。亦即ち此の三体の史学は、皆人物を以て主と為すの動態歴史なり。唐代の宰相杜佑の撰述せる『通典』に逮びて、上は黄帝より起り、下は唐代の中葉に迄る。五経群史の文を取り、毎事類を以て相い従い、其の原始要終を挙げ、歴代の沿革廃置及び当時の議論を一編に萃め、庶わくは会通因仍の道を明らかにせん。然れども其の書は専ら典章制度を述ぶ、是を以て之を称して「典」と曰い、一般には則ち之を称して「政書」と曰う。此の種の政書は、謂う可くんば中国史学の第四種の体例なり。其の性質は宛も通史の如し。蓋し「典章経制、実に相因る者なり」、「融会錯綜、原始要終にして之を推し尋ねるに非ざれば、固より未だ言い易からざるなり」(文献通考序)。故に三通と続三通は、皆これ通史の体例なり。清三通は則ち前書と並行するに因るを以て、所以に断代を以て史と為し、所述は僅かに清一代に限らる。唯だ十通は専ら典章制度の書を述ぶるを為すも、然れども並びに僅かに典章に限らず、間には理乱興衰の跡に及び、鄭樵の『通志』の如きは、帝紀・年譜・宗室伝・列伝・載記・四夷の目有り。其の内容は即ち約略歴代正史の文に取って之を為し、旧史の文は幾んど全書の五分の三を占め、欽定『続通志』も之に倣う。此の如きは兼ねて紀伝有るが故に、『四庫全書』は之を「別史類」に帰す。清朝『通志』は則ち僅かに二十略有り、故に『通典』・『通考』等と共に「政書類」に入る。

  十通は巻帙浩博にして、常人は固より翻閲に艱しむ。而るに所述は典章制度の沿革を側重し、乃ち静態の歴史に属す。亦た較べて覚察し易からず、其の趣味は殊に編年紀伝等の理乱興衰の引人に若かず。其の可読性は略々少なく、故に治理の為には尤も難しと為す。昔、江淹に言えること有り。「史を修むるの難き、志より出づるは無し。」蓋し志なる者は、憲章の繋る所、典故に老いたる者に非ざれば為す能わざるなり。且つ志の書為る、事必ず古に稽え、辞必ず典に数う。亦た以て空言にて論を立つる可からざるなり。幸いなるかな各書の作者、杜君卿・鄭漁仲・馬貴與の輩に若きは、皆これ蓋世の通儒に係り、識見宏達にして、文辞雅飾なり。其の著作は、釐然として秩序有り、清朗にして誦す可し。即ち清代勅撰の続三通と清三通は、官修の書に係り、衆人の手より成るも、唯だ当時纂修の諸儒は斉召南せいしょうなん等の如き、博学にして頗る史才あり。故に其の書は多く剪裁得当にして、燦然として観る可し。部帙は龐大なりと雖も、却って甚だ冗蔓の病少なく、実に清代官修書の中の佳なる者なり。際今、学術の範囲日に広く、世人は尤も社会科学を重視す。十通は実に資料の宝庫なり。且つかつて作者の整理を経て、井然として秩序有り。上下数千年、綱を挙げ目張る、一目瞭然にして、茫として頭緒無きに至らず。社会科学を研治するに就きて言えば、其の実用の価値は、似て猶お二十五史の上に在るが如し。是れ此の書は乃ち二十五史と相補い相成る可くして、宜しく偏廃する所有るべからざるなり。本館は既に已に多次、百衲本二十四史を重版せり、今乃ち亟やかに十通の重梓を謀り、藉りて以て文化を促進し、並びに以て学界の需要に応ぜんとす。

  先是、本館は曾て半世紀前において既に十通を景印せり。民国二十四年三月より二十五年三月に迄り、陸続として滬上に刊行せられ、而して百衲本二十四史の出版と略々同時なり。該書は原より『佩文韻府』と同じく『万有文庫』第二集の参考書と為す。其の後、抗戦の発生に因り、流伝未だ廣からず。台湾に来たりて後、勝文韻府は曾て多次重印せらるるも、十通は則ち迄に未だ再版せず。十通の版本に至りては、晩出の清朝続文献通考一種を除くの外、他の九通は均しく多種の版刻有り。乾隆十二年(西元一七四七年)武英殿に通典・通志・文献通考等の三通を刊刻せしめ、是れ書は半葉毎に十行、行は二十一字なり。其の後、復た儒臣に命じて続三通と皇朝(清)三通を纂修せしめ、仍お武英殿より刊印せられ、合して「欽定九通」と称す。唯だ後六書の武英殿原刻本は、毎半葉僅かに九行有り、三通の十行とは同じからず。毎行も亦二十一字なり、清室に遇えば則ち擡頭すること一字高くして二十二字と為す。資料の統計に拠れば、乾隆年間の武英殿原刊本九通は、共に八百九十八冊なり。清代の中葉以後、各地に刊印する所の九通は、大抵これ殿本に拠りて翻刻す。中において清の光緒年間に浙江の刊印する所の者を以て最良と為す。各書の版式は一律に、毎半葉均しく九行、行二十一字なり。且つ字画は朗潤にして、甚だ是れ美観なり。本館の景印本は、即ち浙江刊本を将に剪併縮印し、版式は則ち改めて十六開と為し、毎面は上中下三欄に分かつ。毎欄は原本の一葉半を納め、二十七行を計り、毎面は原本の四葉半を計り納め、八十一行を計る。原刻本の版心の中縫は則ち剪除し、毎面剪併したる後に外枠を加う。枠外は則ち排印の書辺頁碼なり。而して毎巻は皆単頁より起る。清続文献通考に至りては、景印本は上下二欄に分かち、毎欄二十六行、行三十字なり。民国十年の初版本に拠りて景印し、毎欄は原書の一葉に当る。全書の頁碼は、典・志・考の三類に分かつ。即ち通典・続通典・清通典等の三書は合して一類と為し、通志・続通志・清通志の三書、及び通考・続通考・清通考並びに清続文献通考も、亦た復た各おの各一類と為す。其の頁碼は、各おの典頁幾、志頁幾、考頁幾と為し、各書は皆自ら起訖を為さずして、是れ其の類別に按じて貫串して下るなり。此の如き安排、殆ど索引の編製に便ならんが為に設計せられし者なり。全書は精装二十巨冊、都べて二千五百一十四巻、凡そ二万一千七百三十八頁、計りて約二千五百余万字なり。別に四角号碼検字法及び分類詳目をもって「十通索引」一巨冊を編印し、民国二十六年三月に初版す。皇々たる巨帙、矞麗輝煌にして、之を二十四史に較ぶるも、亦た不遑多譲なり。

  今回の重印は、悉く民国二十四年より二十五年の印本に照らして摂製し、其の大小装訂は、皆原式の如くにして、少しも縮小せず、字画は秀潤清朗にして、目力を損なう無し。原編の「十通索引」も、亦一併に印出し、以て検索に便にす。抑もまた進むべきは、本館の十通をして徒らに学術機関或いは図書館の插架にのみ高文典冊として、其の普及を読書界に期望するを以て、故に定価を特におの廉にす。不僅此也、此の書の定価は廉なりと雖も、唯だ個人の研究、其の中の数種を擁して已にその需を充たす者有るべく、読者の需求に応ずる為、各書は特に個別に零售す。読者は個人の好みに按じて随意に選購す可し。此の挙は既に読者に便にして、亦た本館の文化を推広するの至意に符合す。区区たる微忱、想うに諸を鑑みられんことを!

臺灣商務印書館 謹啓
民国七十六年九月