Q.以下に引用するのは『通典』邊防一の序文です。[]内は細注です。書き下しをお願いします。
覆載之內,日月所臨,華夏居土中,生物受氣正。[李淳風云,談天者八家,其七家,甘氏、石氏、渾天之類。以度數推之,則華夏居天地之中也。又歷代史,倭國一名日本,在中國直東;扶桑國復在倭國之東,約去中國三萬里,蓋近於日出處。貞觀中,骨利幹國獻馬,使云,其國在京師西北二萬餘里,夜短晝長,從天色暝時煮羊胛,纔熟而東方已曙,蓋近於日入處。今崖州直南水行便風十餘日到赤土國,其國到五月,亭午物影卻在南,一日三食,飯皆旋炊,不然,逡巡過時,即便臭敗。熱氣特甚,蓋去日較近。其地漸遠轉寒,蓋去日稍遠。則洛陽告成縣土圭居覆載之中明矣。唯釋氏一家論天地日月,怪誕不可知也。]其人性和而才惠,其地產厚而類繁,所以誕生聖賢,繼施法教,隨時拯弊,因物利用。三五以降,代有其人。君臣長幼之序立,五常十倫之教備,孝慈生焉,恩愛篤焉。主威張而下安,權不分而法一。生人大賚,實在於斯。[三代以前,天下列國更相征伐,未嘗暫寧。陪臣制諸侯,諸侯陵天子,人斃鋒鏑,月耗歲殲。自秦氏罷侯置守,兩漢及有隋、大唐,戶口皆多於周室之前矣。夫天生烝人,而樹君司牧,語治道者,固當以既庶而安為本也。]昔賢有言曰:失道而後德,失德而後仁,失仁而後義,失義而後禮,誠謂削厚為薄,散醇為醨。又曰:古者人至老死不相往來,不交不爭,自求自足。蓋嫉時澆巧,美往昔敦淳,務以激勵勉其慕向也。然人之常情,非今是古,其朴質事少,信固可美;而鄙風弊俗,或亦有之。緬惟古之中華,多類今之夷狄。有居處巢穴焉,[上古中華亦穴居野處,後代聖人易之以宮室。今室韋國及黔中羈縻東諸夷及附國,皆巢居穴處。諸夷狄處巢穴者非少,略舉一二。]有葬無封樹焉,[上古中華之葬,衣之以薪,葬之中野,不封不樹,後代聖王易之以棺槨。今靺鞨國父母死,棄之中野以哺貂;流求國死無棺槨,草裹尸以親土而葬,上不起墳。諸夷狄之殯葬,或以火焚,或棄水中。潭、衡州人曰,蜑取死者骨,小函子盛置山巖石閒。大抵習俗既殊,其法各異,不可遍舉矣。]有手團食焉,[殷周之時,中華人尚以手團食,故禮記云「共飯不澤手」,蓋弊俗漸改仍未盡耳。今五嶺以南,人庶皆手團食。有祭立尸焉,三代以前,中華人祭必立尸,自秦漢則廢。按後魏文成帝拓跋濬時,高允獻書云:祭尸久廢,今風俗父母亡歿,取其狀貌類者以為尸而祭焉,宴好如夫妻,事之如父母,敗損風化,黷亂情禮。又周隋蠻夷傳,巴梁間風俗,每春秋祭祀,鄉里有美鬢面人,迭迎為尸以祭之。今郴、道州人,每祭祀,迎同姓丈夫婦人伴神以享,亦為尸之遺法。]聊陳一二,不能遍舉。[夏商以前,臣不諱君名,子不諱父名,自有周方諱耳。今夷狄則皆無諱。如此之類甚眾,不可殫論。]其地偏,其氣梗,不生聖哲,莫革舊風,誥訓之所不可,禮義之所不及,外而不內,疏而不戚,來則禦之,去則備之,前代達識之士亦已言之詳矣。歷代觀兵黷武,討伐戎夷,爰自嬴秦,禍患代有。始皇恃百勝之兵威,既平六國,終以事胡為弊。漢武資文景之積蓄,務恢封略,天下危若綴旒。王莽獲元始之全實,志滅匈奴,海內遂至潰叛。隋煬帝承開皇之殷盛,三駕遼左,萬姓怨苦而亡。夫持盈固難,知足非易,唯後漢光武,深達理源。建武三十年人康俗阜,臧宮、馬武請殄匈奴,帝報曰:「捨近而圖遠,勞而無功;捨遠而謀近,逸而有終。務廣地者荒,務廣德者強。有其有者安。貪人有者殘。」自是諸將莫敢復言兵事。於戲!持盈知足,豈特治身之本,亦乃治國之要道歟![宋文元嘉中,比西漢文景,分命諸將,經略河南,致拓跋瓜步之師,因而國蹙身弒。陳宣令主,江湖乂安,呂梁二十萬卒,悉為周師所虜,由是力殫財竭,旋為隋氏削平。是皆昧持盈,不能知足故也。]我國家開元、天寶之際,宇內謐如,邊將邀寵,競圖勳伐。西陲青海之戍,東北天門之師,磧西怛邏之戰,雲南渡瀘之役,沒於異域數十萬人。[天寶中哥舒翰剋吐蕃青海,青海中有島,置二萬人戍之。旋為吐蕃所攻,翰不能救而全沒。安祿山討奚、契丹於天門嶺,十萬眾盡沒。高仙芝伐石國,於怛邏斯川七萬眾盡沒。楊國忠討蠻閤羅鳳,十餘萬眾全沒。]向無幽寇內侮,天下四征未息,離潰之勢豈可量耶!前事之元龜,足為殷鑒者矣。
A.杜佑『通典』辺防一(巻一百八十四)の序文、書き下し文を作成いたしました。
非常に博識な注釈を含んでおり、当時の世界観や歴史認識が伺える名文です。
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## 『通典』辺防一 序文 書き下し
覆載の内、日月の臨む所、華夏は土中に居り、生物は気の正しきを受く。
この文章は、中国を世界の中心とする自尊心を持ちつつも、古の聖人がいかに「野蛮な」風習を改めて文明を築いたかを説き、同時に、むやみな領土拡張がいかに国家を疲弊させるかを説く、杜佑の現実的な政治思想がよく表れています。
[李淳風云はく、天を談ずる者八家、其の七家は、甘氏・石氏・渾天の類なり。度数を以て之を推せば、則ち華夏は天地の中に居るなり。又た歴代の史に、倭国一名は日本、中国の直東に在り。扶桑国は復た倭国の東に在り、中国を去ること約三万里、蓋し日出づる処に近し。
貞観中、骨利干国馬を献ず、使云はく、其の国は京師の西北二万余里に在り、夜短く昼長く、天色の暝き時より羊の胛を煮れば、纔かに熟して東方已に曙く、蓋し日の入る処に近し。
今、崖州の直南、水行して便風十余日にて赤土国に到る、其の国は五月に到れば、亭午に物の影却って南に在り。一日三食、飯は皆旋りて炊く、然らずんば、逡巡して時を過ぐれば、即便臭敗す。熱気特に甚だしきは、蓋し日を去ること較近く、其の地漸く遠ざかれば転た寒きは、蓋し日を去ること稍遠ければなり。則ち洛陽告成県の土圭の覆載の中に居ること明らかなり。唯だ釈氏一家のみ天地日月を論ずるに、怪誕にして知るべからざるなり。]
其の人性は和にして才は恵、其の地産は厚くして類は繁なり。聖賢を誕生し、継いで法教を施し、時に随って弊を拯ひ、物に因って用を利す所以なり。三五以降、代に其の人有り。君臣長幼の序立ち、五常十倫の教備はり、孝慈焉に生じ、恩愛焉に篤し。主威張りて下安んじ、権分かれずして法一なり。生人の大賚、実に斯に在り。
[三代以前、天下の列国更も相い征伐し、未だ嘗て暫くも寧んぜず。陪臣は諸侯を制し、諸侯は天子を陵ぎ、人は鋒鏑に斃れ、月に耗り歳に殲ぶ。秦氏の侯を罷めて守を置きてより、両漢及び隋・大唐に及ぶまで、戸口は皆周室の前よりも多し。夫れ天の蒸人を生して、君を樹てて司牧せしむるは、治道を語る者、固り当に既に庶くして安きを以て本と為すべきなり。]
昔賢の言に曰く、「道を失ひて後に徳、徳を失ひて後に仁、仁を失ひて後に義、義を失ひて後に礼」と。誠に厚きを削りて薄と為し、醇を散じて醨と為すと謂ふ。又た曰く、「古は人老死に至るまで相い往来せず、交はらず争はず、自ら求め自ら足る」と。蓋し時の澆巧を嫉み、往昔の敦淳を美め、務めて以て其の慕向を激励勉励するなり。然るに人の常情、今を非り古を是とす。其の朴質にして事少なく、信に固より美むべし。而れども鄙風弊俗、或は亦た之有り。
緬かに惟ふに古の中華は、多く今の夷狄に類す。居処の巣穴なる有り、
[上古の中華も亦た穴居野処せしを、後代の聖人、之を易ふるに宮室を以てせり。今、室韋国及び黔中の羈縻東諸夷及び附国は、皆巣居穴処す。諸夷狄の巣穴に処する者は少なくに非ず、略(ほぼ)一二を挙げん。]
葬るに封樹無き有り、
[上古の中華の葬は、之に衣するに薪を以てし、之を中野に葬り、封ぜず樹えず、後代の聖王、之を易ふるに棺槨を以てせり。今、靺鞨国は父母死すれば、之を中野に棄てて以て貂に哺はす。流求国は死するに棺槨無く、草を以て尸を裹み、土に親しみて葬り、上に墳を起てず。諸夷狄の殯葬は、或いは火を以て焚き、或いは水中に棄つ。潭州・衡州の人は曰く、蜑は死者の骨を取り、小函子に盛りて山巌石間に置くと。大抵習俗既に殊なれば、其の法各異なり、遍く挙げるべからず。]
手団食する有り、
[殷周の時、中華の人は尚ほ手を以て団食す。故に礼記に「飯を共にするに手を澤さず」と云ふは、蓋し弊俗漸く改まれども仍ほ未だ尽きざればなり。今、五嶺以南、人庶は皆手団食す。祭に尸を立つる有り。三代以前、中華の人は祭るに必ず尸を立つ、秦漢より則ち廃せり。按ずるに後魏の文成帝拓跋濬の時、高允書を献じて云はく、祭尸久しく廃れたり、今の風俗、父母亡歿すれば、其の状貌の類する者を取りて以て尸と為して祭り、宴好夫妻の如く、之に事ふること父母の如し、風化を敗損し、情礼を黷乱すと。又た周隋の蛮夷伝に、巴梁の間の風俗、春秋の祭祀ごとに、郷里に美き鬢面の人有れば、迭に迎えて尸と為して以て之を祭ると。今、郴州・道州の人、祭祀ごとに、同姓の丈夫婦人を迎えて神に伴わしめて以て享く、亦た尸の遺法と為す。]
聊か一二を陳ぶるも、遍く挙げること能はず。
[夏商以前、臣は君の名を諱まず、子は父の名を諱まず、周より自めて方に諱む。今、夷狄は則ち皆諱むこと無し。此の如きの類、甚だ衆く、殫くして論ずべからず。]
其の地は偏にして、其の気は梗なり。聖哲を生ぜず、旧風を革める莫し。誥訓の不可なる所、礼義の及ばざる所、外にして内とせず、疎にして戚とせず。来れば則ち之を防ぎ、去れば則ち之を備ふ。前代の達識の士も亦た已に之を言ふこと詳かなり。
歴代兵を観し武を黷し、戎夷を討伐する、爰に嬴秦より、禍患代に有り。始皇は百勝の兵威を恃み、既に六国を平らぐといへども、終に胡に事ふるを以て弊と為す。漢武は文景の積蓄に資し、封略を恢ぐるを務むるも、天下の危うきこと綴旒の若し。王莽は元始の全実を獲て、匈奴を滅ぼさんと志すも、海内遂に潰叛に至る。隋の煬帝は開皇の殷盛を承け、三たび遼左に駕し、万姓怨苦して亡ぶ。
夫れ盈てるを持するは固に難く、足るを知るは易きに非ず。唯だ後漢の光武のみ、深く理源に達せり。建武三十年、人康んじ俗阜かなり。臧宮・馬武、匈奴を殄さんことを請ふ。帝報じて曰く、「近きを捨てて遠きを図るは、労して功無し。遠きを捨てて近きを謀るは、逸にして終有り。地を広むるを務むる者は荒れ、徳を広むるを務むる者は強し。其の有る所を有する者は安んじ、人の有る所を貪る者は残はる」と。自より諸将敢へて復た兵事を言ふこと無し。
於戯!盈てるを持し足るを知るは、豈に特り身を治むるの本ならんや、亦た乃ち国を治むるの要道ならんか!
[宋の文帝元嘉の中、西漢の文景に比し、諸将に分命して河南を経略せしめ、拓跋瓜歩の師を致し、因りて国蹙まり身弒せらる。陳の宣帝は令主にして、江湖乂まり安んぜしも、呂梁の二十万の卒、悉く周師の虜と為る。是れに由りて力殫き財竭き、旋ち隋氏の削平する所と為る。是れ皆盈てるを持するに昧く、足るを知ること能はざる故なり。]
我が国家開元・天宝の際、宇内謐かなるが如きに、辺将寵を邀め、競ひて勲伐を図る。西陲青海の戍、東北天門の師、磧西怛邏の戦、雲南渡瀘の役、異域に没する者数十万人。
[天宝中、哥舒翰吐蕃の青海を剋つ。青海の中に島有り、二万人を置きて之を戍らしむ。旋ち吐蕃の攻むる所と為り、翰救すること能はずして全く没す。安禄山奚・契丹を天門嶺に討ち、十万衆尽く没す。高仙芝石国を伐ち、怛邏斯川に於て七万衆尽く没す。楊国忠蛮の閤羅鳳を討ち、十余万衆全く没す。]
向に幽寇の内侮無くんば、天下の四征未だ息まず、離潰の勢豈に量るべけんや!前事の元亀、足りて殷鑑と為すべき者なり。
ご不明な点や、特定の箇所の詳しい解釈が必要であれば、お知らせください。
Q.ありがとうございました。
A.こちらこそ、お役に立てて光栄です。
『通典』のこの序文は、単なる地理的・民族的な記録にとどまらず、当時の世界観や、過度な外征が国を滅ぼすという痛烈な政治批判(特に天宝年間の玄宗への批判)が込められており、読み応えがありますね。
また何か漢文の読み下しや、歴史・古典に関する疑問がございましたら、いつでもお気軽にお声がけください。
次にお手伝いできることはありますか?
Q.以下の文は『通典』邊防一 東夷 序略の白文です。この文の書き下しをお願いします。[]内は以前と同様に細注です。
東夷[白虎通云夷者蹲也言無禮儀或云夷者抵也言仁而好生萬物抵地而出故天性柔順易以道禦]有九種曰畎夷方夷于夷黃夷白夷赤夷玄夷風夷陽夷率皆土著[遲略反]喜飲酒[喜許利反]歌舞或冠弁衣錦器用俎豆所謂中國失禮求之四夷者也[凡蠻夷戎狄總名四夷者猶公侯伯子男皆號諸侯]昔堯命羲仲宅嵎夷曰暘谷蓋日之所出也夏后氏太康失德夷人始叛其後至后發即位賓於王門獻其樂舞桀為暴虐諸夷內侵商湯革命伐而定之至於仲丁藍夷作寇自是或服或叛三百餘年武乙衰弊東夷寖盛遂分遷淮岱漸居中土周初封商太師國於朝鮮[太師為周陳洪範其地今安東府之東悉為東夷所據]時管蔡畔周乃招誘淮夷作亂周公征定之其後徐夷僭號穆王命楚滅之[徐偃王也]至楚靈王會申亦來同盟後越遷瑯琊遂陵暴諸夏侵滅小國秦并天下其淮泗夷皆散為人戶其朝鮮歷千餘年至漢高帝時滅武帝元狩中開其地置樂浪等郡至後漢末為公孫康所有魏晉又得其地其三韓之地在海島之上朝鮮之東南百濟新羅魏晉以後分三韓地。新羅又在百濟之東南倭又在東南[倭烏和反]隔越大海夫餘在高麗之北挹婁之南其倭及夫餘自後漢百濟新羅自魏歷代並朝貢中國不絕而百濟大唐顯慶中蘇定方滅之高麗本朝鮮地漢武置縣屬樂浪郡時甚微弱後漢以後累代皆受中國封爵所都平壤城則故朝鮮國王險城也後魏周齊漸強盛隋文帝時寇盜遼西漢王諒帥兵討之至遼水遭癘疫而返煬帝三度親征初渡遼水敗績再行次遼水會楊玄感反奔退又往將達涿郡屬天下賊起及饑饉旋師貞觀中太宗又親征渡遼破之高宗總章初英國公李勣遂滅其國古之肅慎宜即魏時挹婁自周初貢楛矢石砮[楛音戶]至魏常道鄉公末東晉元帝初及石季龍時始皆獻之後魏以後曰勿吉國今則曰靺鞨焉大抵東夷書文並同華夏其閩越之地秦平天下以為郡及秦亂其帥又自稱王於故地武帝元封初揚僕滅其國遷其人於江淮虛其地自後雖人庶復集遂為郡縣矣。
A.『通典』辺防一 東夷の序略、書き下し文を作成いたしました。
適宜、句読点を補い、注釈部分は( )で示しています。
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## 『通典』辺防一 東夷 序略 書き下し
東夷(『白虎通』に云わく、夷とは蹲なり。礼儀無しと言う。或は云わく、夷とは抵なり。仁にして生を好み、万物地に抵りて出づと言う。故に天性柔順にして、道を以て禦し易し)に九種有り。曰く、畎夷・方夷・于夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷なり。率ね皆土著し(遅略の反)、酒を飲むを喜び(喜は許利の反)、歌舞す。或いは冠弁し衣錦し、器は俎豆を用ゆ。所謂「中国礼を失えば、これを四夷に求む」という者なり。(凡そ蛮・夷・戎・狄、総じて四夷と名づくるは、猶公・侯・伯・子・男を皆諸侯と号するがごとし。)
### 内容のポイント
昔、堯、羲仲に命じて嵎夷に宅らしむ。曰く暘谷、蓋し日の出づる所なり。夏后氏太康、徳を失い、夷人始めて叛す。其の後、后発即位するに至り、王門に賓し、其の楽舞を献ず。桀、暴虐を為し、諸夷内侵す。商湯、革命し、伐ちてこれを定む。仲丁に至り、藍夷寇をなす。是より或いは服し或いは叛すること三百余年。武乙衰弊し、東夷寖く盛んにして、遂に淮・岱に分遷し、漸く中土に居す。
周の初め、商の太師(箕子)を朝鮮に封ず。(太師、周の為に洪範を陳ぶ。其の地は今、安東府の東、悉く東夷の拠る所と為る。)時に管・蔡、周に叛し、乃ち淮夷を招誘して乱をなす。周公、これを征定す。其の後、徐夷号を僭し、穆王、楚に命じてこれを滅ぼさしむ。(徐の偃王なり。)楚の霊王に至り、申に会するに、亦た来たりて同盟す。後、越、瑯琊に遷り、遂に諸夏を陵暴し、小国を侵滅す。
秦、天下を并するに、其の淮泗の夷、皆散じて人戸と為る。其の朝鮮は千余年を歴て、漢の高帝の時に至り滅ぶ。武帝の元狩中に其の地を開き、楽浪等の郡を置く。後漢の末に至り、公孫康の有と為る。魏・晋、又た其の地を得たり。
其の三韓の地は海島の上に在り。朝鮮の東南、百済・新羅は魏・晋以後、三韓の地を分かつ。新羅は又た百済の東南に在り。倭は又た東南に在り(倭は烏和の反)、大海を隔越す。夫余は高麗の北、挹婁の南に在り。其の倭及び夫余は後漢より、百済・新羅は魏より、歴代並に中国に朝貢して絶えず。而して百済は大唐顕慶中、蘇定方これを滅ぼす。
高麗は本朝鮮の地、漢の武帝、県を置き楽浪郡に属す。時に甚だ微弱なり。後漢以後、累代皆中国の封爵を受く。所都の平壌城は、則ち故の朝鮮国王険城なり。後魏・周・斉、漸強盛なり。隋の文帝の時、遼西を寇盗す。漢王諒、兵を帥いてこれを討つ。遼水に至り、癘疫に遭いて返る。揚帝、三度親征す。初め遼水を渡りて敗績し、再び行きて遼水に次るに、会ま楊玄感反し、奔退す。又た往きて、将に啄郡に達せんとするに、天下の賊起り及び飢饉なるに属い、師を旋らす。貞観中、太宗、又た親征して遼を渡りこれを破る。高宗の総章の初め、英国公李勣、遂に其の国を滅ぼす。
古の粛慎は、宜しく即ち魏の時の挹婁なるべし。周の初めより楛矢石砮を貢ず(楛は音、戸)。魏の常道郷公の末、東晋の元帝の初め、及び石季龍の時に至り、始めて皆これを献ず。後魏以後、勿吉国と曰い、今は則ち靺鞨と曰う。大抵、東夷の書文は並に華夏と同じ。
其の閩越の地、秦、天下を平らげ、以て郡と為す。秦乱るるに及び、其の帥、又た自ら故地に王と称す。武帝の元封初、楊僕、其の国を滅ぼし、其の人を江・淮に遷し、其の地を虚しくす。自後、人庶復た集まると雖も、遂に郡県と為れり。
* **東夷の定義:** 「夷」を「仁にして生を好む」とポジティブに捉える説を紹介し、礼を失った中国が手本にすべき存在(「中国失礼、求之四夷」)として描いています。
* **歴史的変遷:** 夏・商・周から秦・漢、そして隋・唐にいたるまでの東夷諸族(朝鮮、高麗、百済、新羅、倭、夫余、靺鞨など)との通交や戦争の歴史を概括しています。
* **地理的関係:** 朝鮮半島から日本列島(倭)、さらに満州方面(夫余、靺鞨)や南方(閩越)まで、広範な「東」の勢力を網羅しています。
他に関連する箇所や、特定の用語の意味について深掘りしたい点があればお知らせください。
Q.ありがとうございます。今夜のお願いはここまでです。明日またお願いするかも知れませんので宜しくお願い致します。
A.こちらこそ、丁寧にご返信いただきありがとうございます。
『通典』のような膨大な史料の読み下しは、当時の国際情勢や地理的背景が見えてきて非常に興味深いですね。東夷伝の序文は、中華から見た周辺世界の変遷が凝縮されており、読み応えがあります。
今夜はこれにて。また明日以降、続きや別の箇所、あるいは特定の語句の解釈などが必要になりましたら、いつでもお気軽にお声がけください。
ゆっくりとお休みください。またお力添えできるのを楽しみにしております!