『通典』邊防一序文 及び同 東夷 序略

『通典』巻第一百八十五は邊防一であり朝鮮半島諸国と倭についての記述がある。邊防一と東夷それぞれに序と序略が付せられており、邊防門は倭と周辺国にかかる貴重な記述を含むと見られる。よってその両文をGoogle Geminiの機能により読み下して拙サイトに公開する。尚、Geminiによる書き下しでふりがなを()内に示していたが、同じくGeminiの機能を用いてルビ化した。
Q.以下に引用するのは『通典』邊防一の序文です。[]内は細注です。書き下しをお願いします。

覆載之內,日月所臨,華夏居土中,生物受氣正。[李淳風云,談天者八家,其七家,甘氏、石氏、渾天之類。以度數推之,則華夏居天地之中也。又歷代史,倭國一名日本,在中國直東;扶桑國復在倭國之東,約去中國三萬里,蓋近於日出處。貞觀中,骨利幹國獻馬,使云,其國在京師西北二萬餘里,夜短晝長,從天色暝時煮羊胛,纔熟而東方已曙,蓋近於日入處。今崖州直南水行便風十餘日到赤土國,其國到五月,亭午物影卻在南,一日三食,飯皆旋炊,不然,逡巡過時,即便臭敗。熱氣特甚,蓋去日較近。其地漸遠轉寒,蓋去日稍遠。則洛陽告成縣土圭居覆載之中明矣。唯釋氏一家論天地日月,怪誕不可知也。]其人性和而才惠,其地產厚而類繁,所以誕生聖賢,繼施法教,隨時拯弊,因物利用。三五以降,代有其人。君臣長幼之序立,五常十倫之教備,孝慈生焉,恩愛篤焉。主威張而下安,權不分而法一。生人大賚,實在於斯。[三代以前,天下列國更相征伐,未嘗暫寧。陪臣制諸侯,諸侯陵天子,人斃鋒鏑,月耗歲殲。自秦氏罷侯置守,兩漢及有隋、大唐,戶口皆多於周室之前矣。夫天生烝人,而樹君司牧,語治道者,固當以既庶而安為本也。]昔賢有言曰:失道而後德,失德而後仁,失仁而後義,失義而後禮,誠謂削厚為薄,散醇為醨。又曰:古者人至老死不相往來,不交不爭,自求自足。蓋嫉時澆巧,美往昔敦淳,務以激勵勉其慕向也。然人之常情,非今是古,其朴質事少,信固可美;而鄙風弊俗,或亦有之。緬惟古之中華,多類今之夷狄。有居處巢穴焉,[上古中華亦穴居野處,後代聖人易之以宮室。今室韋國及黔中羈縻東諸夷及附國,皆巢居穴處。諸夷狄處巢穴者非少,略舉一二。]有葬無封樹焉,[上古中華之葬,衣之以薪,葬之中野,不封不樹,後代聖王易之以棺槨。今靺鞨國父母死,棄之中野以哺貂;流求國死無棺槨,草裹尸以親土而葬,上不起墳。諸夷狄之殯葬,或以火焚,或棄水中。潭、衡州人曰,蜑取死者骨,小函子盛置山巖石閒。大抵習俗既殊,其法各異,不可遍舉矣。]有手團食焉,[殷周之時,中華人尚以手團食,故禮記云「共飯不澤手」,蓋弊俗漸改仍未盡耳。今五嶺以南,人庶皆手團食。有祭立尸焉,三代以前,中華人祭必立尸,自秦漢則廢。按後魏文成帝拓跋濬時,高允獻書云:祭尸久廢,今風俗父母亡歿,取其狀貌類者以為尸而祭焉,宴好如夫妻,事之如父母,敗損風化,黷亂情禮。又周隋蠻夷傳,巴梁間風俗,每春秋祭祀,鄉里有美鬢面人,迭迎為尸以祭之。今郴、道州人,每祭祀,迎同姓丈夫婦人伴神以享,亦為尸之遺法。]聊陳一二,不能遍舉。[夏商以前,臣不諱君名,子不諱父名,自有周方諱耳。今夷狄則皆無諱。如此之類甚眾,不可殫論。]其地偏,其氣梗,不生聖哲,莫革舊風,誥訓之所不可,禮義之所不及,外而不內,疏而不戚,來則禦之,去則備之,前代達識之士亦已言之詳矣。歷代觀兵黷武,討伐戎夷,爰自嬴秦,禍患代有。始皇恃百勝之兵威,既平六國,終以事胡為弊。漢武資文景之積蓄,務恢封略,天下危若綴旒。王莽獲元始之全實,志滅匈奴,海內遂至潰叛。隋煬帝承開皇之殷盛,三駕遼左,萬姓怨苦而亡。夫持盈固難,知足非易,唯後漢光武,深達理源。建武三十年人康俗阜,臧宮、馬武請殄匈奴,帝報曰:「捨近而圖遠,勞而無功;捨遠而謀近,逸而有終。務廣地者荒,務廣德者強。有其有者安。貪人有者殘。」自是諸將莫敢復言兵事。於戲!持盈知足,豈特治身之本,亦乃治國之要道歟![宋文元嘉中,比西漢文景,分命諸將,經略河南,致拓跋瓜步之師,因而國蹙身弒。陳宣令主,江湖乂安,呂梁二十萬卒,悉為周師所虜,由是力殫財竭,旋為隋氏削平。是皆昧持盈,不能知足故也。]我國家開元、天寶之際,宇內謐如,邊將邀寵,競圖勳伐。西陲青海之戍,東北天門之師,磧西怛邏之戰,雲南渡瀘之役,沒於異域數十萬人。[天寶中哥舒翰剋吐蕃青海,青海中有島,置二萬人戍之。旋為吐蕃所攻,翰不能救而全沒。安祿山討奚、契丹於天門嶺,十萬眾盡沒。高仙芝伐石國,於怛邏斯川七萬眾盡沒。楊國忠討蠻閤羅鳳,十餘萬眾全沒。]向無幽寇內侮,天下四征未息,離潰之勢豈可量耶!前事之元龜,足為殷鑒者矣。
A.杜佑『通典』辺防一(巻一百八十四)の序文、書き下し文を作成いたしました。
非常に博識な注釈を含んでおり、当時の世界観や歴史認識が伺える名文です。

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## 『通典』辺防一 序文 書き下し

覆載ふうさいの内、日月ののぞむ所、華夏かかは土中にり、生物は気の正しきを受く。

李淳風りじゅんぷうはく、天を談ずる者八家、其の七家は、甘氏かんし石氏せきし渾天こんてんの類なり。度数どすうを以てこれせば、則ち華夏かかは天地の中に居るなり。又た歴代の史に、倭国わこく一名は日本、中国の直東ちょくとうに在り。扶桑国ふそうこくた倭国の東に在り、中国を去ること約三万里、けだし日出づるところに近し。
貞観中じょうがんちゅう骨利干国こつりかんこく馬を献ず、使云はく、其の国は京師けいしの西北二万余里に在り、夜短く昼長く、天色のくらき時より羊のかたを煮れば、わずかに熟して東方すでく、蓋し日の入る処に近し。
今、崖州がいしゅうの直南、水行すいこうして便風べんぷう十余日にて赤土国せきとこくに到る、其の国は五月に到れば、亭午ていごに物の影かえって南に在り。一日三食、めしみなめぐりてく、しからずんば、逡巡しゅんじゅんして時を過ぐれば、即便すなわち臭敗しゅうはいす。熱気とくはなはだしきは、蓋し日を去ることやや近く、其の地ようやく遠ざかればうたた寒きは、蓋し日を去ることやや遠ければなり。則ち洛陽告成県こくせいけん土圭とけいの覆載の中に居ること明らかなり。釈氏しゃくし一家のみ天地日月を論ずるに、怪誕かいたんにして知るべからざるなり。]

其の人性は和にしてさいけい、其の地産ちさんは厚くして類はしはんなり。聖賢せいけんを誕生し、いで法教ほうきょうを施し、時にしたがってへいすくひ、ものって用を利す所以ゆえんなり。三五さんご以降、に其の人有り。君臣長幼のじょ立ち、五常十倫のおしえ備はり、孝慈こうじここに生じ、恩愛焉にあつし。主威しゅい張りてしも安んじ、権分かれずして法一いつなり。生人の大賚たいらい、実にここに在り。

三代さんだい以前、天下の列国こもごい征伐し、いまかつしばらくもやすんぜず。陪臣ばいしんは諸侯を制し、諸侯は天子をしのぎ、人は鋒鏑ほうてきたおれ、つきとしほろぶ。秦氏しんしの侯をめて守を置きてより、両漢及び隋・大唐だいとうに及ぶまで、戸口はみな周室の前よりも多し。れ天の蒸人じょうじんして、君をてて司牧しぼくせしむるは、治道を語る者、まよまさすでおおくして安きを以てもとと為すべきなり。]

昔賢せきけんげんいわく、「道を失ひて後に徳、徳を失ひて後に仁、仁を失ひて後に義、義を失ひて後に礼」と。まことに厚きを削りてはくし、じゅんを散じてと為すとふ。又た曰く、「いにしえは人老死ろうしに至るまでい往来せず、交はらず争はず、自ら求め自ら足る」と。蓋し時の澆巧ぎょうこうにくみ、往昔おうせき敦淳とんじゅんめ、つとめて以て其の慕向ぼこう激励勉励べんれいするなり。しかるに人の常情じょうじょう、今をそしいにしえとす。其の朴質ぼくしつにして事少なく、まこともとよりむべし。しかれども鄙風ひふう弊俗へいぞくあるいこれ有り。

はるかにおもふにいにしえの中華は、多くいま夷狄いてきるいす。居処きょしょ巣穴そうけつなる有り、

[上古の中華も穴居けっきょ野処やしょせしを、後代の聖人、之をふるに宮室を以てせり。今、室韋国しついこく及び黔中けんちゅう羈縻きびとう諸夷しょい及び附国ふこくは、みな巣居そうきょ穴処けっしょす。諸夷狄の巣穴に処する者は少なくに非ず、略(ほぼ)一二を挙げん。]

ほうむるに封樹ほうじゅ無き有り、

[上古の中華の葬は、これするにたきぎを以てし、之を中野ちゅうやに葬り、ほうぜずえず、後代の聖王、之を易ふるに棺槨かんかくを以てせり。今、靺鞨国まつかつこくは父母死すれば、之を中野にてて以ててんくらはす。流求国りゅうきゅうこくは死するに棺槨無く、草を以てしかばねつつみ、土に親しみて葬り、上に墳を起てず。諸夷狄の殯葬ひんそうは、或いは火を以て焚き、或いは水中に棄つ。潭州たんしゅう衡州こうしゅうの人は曰く、たんは死者の骨を取り、小函子しょうかんしりて山巌さんがん石間せっかんに置くと。大抵たいてい習俗しゅうぞく既に殊ことなれば、其の法おのおの異なり、あまねく挙げるべからず。]

手団食しゅだんしょくする有り、

いんしゅうの時、中華の人はほ手を以て団食す。ゆえ礼記らいきに「飯を共にするに手をうるおさず」と云ふは、蓋し弊俗へいぞくようやく改まれどもほ未だ尽きざればなり。今、五嶺ごれい以南、人庶じんしょみな手団食す。祭につる有り。三代以前、中華の人は祭るに必ず尸を立つ、秦漢よりすなはち廃せり。あんずるに後魏こうぎ文成帝ぶんせいてい拓跋濬たくばつしゅんの時、高允こういん書を献じて云はく、祭尸さいし久しく廃れたり、今の風俗、父母亡歿ぼうぼつすれば、其の状貌じょうぼうるいする者を取りて以て尸と為して祭り、宴好えんこう夫妻の如く、これつかふること父母の如し、風化fふうか敗損はいそんし、情礼せいれい黷乱とくらんすと。又た周隋の蛮夷伝に、巴梁はりょうの間の風俗、春秋しゅんじゅう祭祀さいしごとに、郷里に鬢面びんめんの人有れば、たがひむかえて尸と為して以て之を祭ると。今、郴州ちんしゅう道州どうしゅうの人、祭祀ごとに、同姓の丈夫じょうふ婦人を迎えて神にともなわしめて以てく、た尸の遺法と為す。]

いささか一二をぶるも、あまねく挙げることあたはず。

[夏商以前、しんくんの名をまず、は父の名を諱まず、周よりはじめてまさに諱む。今、夷狄は則ちみな諱むこと無し。かくの如きの類、はなはおおく、くして論ずべからず。]

其の地はへんにして、其の気はこうなり。聖哲せいてつを生ぜず、旧風きゅうふうあらためるし。誥訓こうくん不可ふかなる所、礼義れいぎの及ばざる所、外にして内とせず、にしてせきとせず。きたれば則ち之を防ぎ、去れば則ち之を備ふ。前代の達識たっしきの士もすでに之を言ふことつまびらかなり。

歴代兵をしめし武をけがし、戎夷じゅういを討伐する、ここ嬴秦えいしんより、禍患かかんに有り。始皇は百勝の兵威をたのみ、既に六国りくこくを平らぐといへども、ついつかふるを以て弊と為す。漢武は文景ぶんけい積蓄せきちくし、封略ほうりゃくひろぐるをつとむるも、天下の危うきこと綴旒ていリュウごとし。王莽おうもうは元始の全実ぜんじつて、匈奴きょうどを滅ぼさんと志すも、海内かいだい遂に潰叛かいはんに至る。隋の煬帝ようだい開皇かいこう殷盛いんせいけ、たび遼左りょうさし、万姓ばんせい怨苦えんくしてほろぶ。

てるをするはまことに難く、足るを知るはやすきに非ず。後漢ごかん光武光武のみ、深く理源りげんに達せり。建武三十年、人やすんじ俗ゆたかなり。臧宮ぞうきゅう馬武ばぶ、匈奴をつくさんことをふ。帝ほうじて曰く、「近きを捨てて遠きを図るは、労して功無し。遠きを捨てて近きを謀るは、いつにしておわり有り。地を広むるを務むる者は荒れ、徳を広むるを務むる者は強し。其の有る所を有する者は安んじ、人の有る所をむさぼる者はそこなはる」と。これより諸将へてた兵事を言ふこと無し。

於戯ああ!盈てるを持し足るを知るは、ひとり身を治むるのもとならんや、すなわち国を治むるの要道ようどうならんか!

[宋の文帝ぶんてい元嘉げんかうち、西漢の文景ぶんけいし、諸将に分命して河南を経略せしめ、拓跋たくばつ瓜歩かほの師を致し、りて国しじまり身しいせらる。陳の宣帝せんてい令主れいしゅにして、江湖こうこおさまり安んぜしも、呂梁りょりょうの二十万のそつことごとく周師のとりょと為る。れにりて力き財き、たちま隋氏ずいし削平さくへいする所と為る。みなてるを持するにくらく、足るを知ることあたはざる故なり。]

が国家開元かいげん天宝天宝の際、宇内うだいしずかなるがごときに、辺将へんしょうちょうもとめ、競ひて勲伐くんばつを図る。西陲せいすい青海せいかいじゅ、東北天門てんもんの師、磧西せきせい怛邏たらの戦、雲南渡瀘とろの役、異域に没する者数十万人。

[天宝中、哥舒翰かじょかん吐蕃の青海をつ。青海の中に島有り、二万人を置きて之をまもらしむ。たちまち吐蕃の攻むる所と為り、かんすることあたはずしてまったく没す。安禄山あんろくさんけい契丹きったん天門嶺てんもんれいに討ち、十万衆ことごとく没す。高仙芝こうせんし石国を伐ち、怛邏斯川たらすがせんて七万衆尽く没す。楊国忠ようごくちゅう蛮の閤羅鳳こうらほうを討ち、十余万衆全く没す。]

さき幽寇ゆうこう内侮ないぶ無くんば、天下の四征しせいいままず、離潰りかいいきおいはかるべけんや!前事ぜんじ元亀げんきりて殷鑑いんかんと為すべき者なり。

この文章は、中国を世界の中心とする自尊心を持ちつつも、古の聖人がいかに「野蛮な」風習を改めて文明を築いたかを説き、同時に、むやみな領土拡張がいかに国家を疲弊させるかを説く、杜佑の現実的な政治思想がよく表れています。

ご不明な点や、特定の箇所の詳しい解釈が必要であれば、お知らせください。
Q.ありがとうございました。
A.こちらこそ、お役に立てて光栄です。

『通典』のこの序文は、単なる地理的・民族的な記録にとどまらず、当時の世界観や、過度な外征が国を滅ぼすという痛烈な政治批判(特に天宝年間の玄宗への批判)が込められており、読み応えがありますね。

また何か漢文の読み下しや、歴史・古典に関する疑問がございましたら、いつでもお気軽にお声がけください。

次にお手伝いできることはありますか?
Q.以下の文は『通典』邊防一 東夷 序略の白文です。この文の書き下しをお願いします。[]内は以前と同様に細注です。

東夷[白虎通云夷者蹲也言無禮儀或云夷者抵也言仁而好生萬物抵地而出故天性柔順易以道禦]有九種曰畎夷方夷于夷黃夷白夷赤夷玄夷風夷陽夷率皆土著[遲略反]喜飲酒[喜許利反]歌舞或冠弁衣錦器用俎豆所謂中國失禮求之四夷者也[凡蠻夷戎狄總名四夷者猶公侯伯子男皆號諸侯]昔堯命羲仲宅嵎夷曰暘谷蓋日之所出也夏后氏太康失德夷人始叛其後至后發即位賓於王門獻其樂舞桀為暴虐諸夷內侵商湯革命伐而定之至於仲丁藍夷作寇自是或服或叛三百餘年武乙衰弊東夷寖盛遂分遷淮岱漸居中土周初封商太師國於朝鮮[太師為周陳洪範其地今安東府之東悉為東夷所據]時管蔡畔周乃招誘淮夷作亂周公征定之其後徐夷僭號穆王命楚滅之[徐偃王也]至楚靈王會申亦來同盟後越遷瑯琊遂陵暴諸夏侵滅小國秦并天下其淮泗夷皆散為人戶其朝鮮歷千餘年至漢高帝時滅武帝元狩中開其地置樂浪等郡至後漢末為公孫康所有魏晉又得其地其三韓之地在海島之上朝鮮之東南百濟新羅魏晉以後分三韓地。新羅又在百濟之東南倭又在東南[倭烏和反]隔越大海夫餘在高麗之北挹婁之南其倭及夫餘自後漢百濟新羅自魏歷代並朝貢中國不絕而百濟大唐顯慶中蘇定方滅之高麗本朝鮮地漢武置縣屬樂浪郡時甚微弱後漢以後累代皆受中國封爵所都平壤城則故朝鮮國王險城也後魏周齊漸強盛隋文帝時寇盜遼西漢王諒帥兵討之至遼水遭癘疫而返煬帝三度親征初渡遼水敗績再行次遼水會楊玄感反奔退又往將達涿郡屬天下賊起及饑饉旋師貞觀中太宗又親征渡遼破之高宗總章初英國公李勣遂滅其國古之肅慎宜即魏時挹婁自周初貢楛矢石砮[楛音戶]至魏常道鄉公末東晉元帝初及石季龍時始皆獻之後魏以後曰勿吉國今則曰靺鞨焉大抵東夷書文並同華夏其閩越之地秦平天下以為郡及秦亂其帥又自稱王於故地武帝元封初揚僕滅其國遷其人於江淮虛其地自後雖人庶復集遂為郡縣矣。
A.『通典』辺防一 東夷の序略、書き下し文を作成いたしました。
適宜、句読点を補い、注釈部分は( )で示しています。

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## 『通典』辺防一 東夷 序略 書き下し

東夷(『白虎通』にわく、夷とはそんなり。礼儀無しと言う。あるいは云わく、夷とはていなり。仁にして生を好み、万物地にあたりてづと言う。故に天性柔順にして、道を以てぎょし易し)に九種有り。いわく、畎夷けんい・方夷・于夷うい・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷なり。おおむね皆土著ちちょし(遅略の反)、酒を飲むを喜び(喜は許利の反)、歌舞す。或いは冠弁かんべん衣錦いきんし、器は俎豆そとうを用ゆ。所謂いわゆる「中国礼を失えば、これを四夷に求む」という者なり。(およそ蛮・夷・戎・狄、総じて四夷と名づくるは、なお公・侯・伯・子・男を皆諸侯と号するがごとし。)

昔、ぎょう羲仲ぎちゅうに命じて嵎夷ぐういらしむ。曰く暘谷ようこくけだし日の出づる所なり。夏后氏かこうし太康たいこう、徳を失い、夷人始めてはんす。其の後、后発こうはつ即位するに至り、王門にひんし、其の楽舞を献ず。けつ、暴虐を為し、諸夷内侵す。商湯しょうとう、革命し、ちてこれを定む。仲丁ちゅうていに至り、藍夷らんいこうをなす。これより或いは服し或いは叛すること三百余年。武乙ぶいつ衰弊し、東夷ようやく盛んにして、遂にわいたいに分遷し、ようやく中土に居す。

周の初め、商の太師(箕子)を朝鮮に封ず。(太師、周の為に洪範をぶ。其の地は今、安東府の東、ことごとく東夷のる所と為る。)時に管・蔡、周に叛し、すなわち淮夷を招誘して乱をなす。周公、これを征定す。其の後、徐夷じょい号を僭し、穆王ぼくおう、楚に命じてこれを滅ぼさしむ。(徐の偃王えんおうなり。)楚の霊王に至り、しんに会するに、た来たりて同盟す。後、えつ瑯琊ろうやに遷り、遂に諸夏を陵暴りょうぼうし、小国を侵滅す。

秦、天下をあわするに、其の淮泗わいしの夷、皆散じて人戸と為る。其の朝鮮は千余年をて、漢の高帝の時に至り滅ぶ。武帝の元狩中に其の地を開き、楽浪等の郡を置く。後漢の末に至り、公孫康こうそんこうゆうと為る。魏・晋、た其の地を得たり。

其の三韓の地は海島の上に在り。朝鮮の東南、百済・新羅は魏・晋以後、三韓の地を分かつ。新羅は又た百済の東南に在り。倭は又た東南に在り(倭は烏和の反)、大海を隔越す。夫余ふよは高麗の北、挹婁ゆうろうの南に在り。其の倭及び夫余は後漢より、百済・新羅は魏より、歴代ともに中国に朝貢して絶えず。しかして百済は大唐顕慶中、蘇定方そていほうこれを滅ぼす。

高麗はもと朝鮮の地、漢の武帝、県を置き楽浪郡に属す。時にはなはだ微弱なり。後漢以後、累代皆中国の封爵を受く。所都の平壌城は、すなわもとの朝鮮国王険城おうけんじょうなり。後魏・周・斉、ようや強盛なり。隋の文帝の時、遼西を寇盗こうとうす。漢王りょう、兵をひきいてこれを討つ。遼水に至り、癘疫れいえきに遭いて返る。揚帝ようだい三度みたび親征す。初め遼水を渡りて敗績はいせきし、ふたたび行きて遼水にやどるに、たまたま楊玄感ようげんかん反し、奔退ほんたいす。又たきて、まさ啄郡たくぐんに達せんとするに、天下の賊起り及び飢饉なるにい、師をめぐらす。貞観中、太宗、又た親征して遼を渡りこれを破る。高宗の総章の初め、英国公李勣りせき、遂に其の国を滅ぼす。

いにしえ粛慎しゅくしんは、よろしくすなわち魏の時の挹婁ゆうろうなるべし。周の初めより楛矢こし石砮せきどを貢ず(楛は音、戸)。魏の常道郷公じょうどうきょうこうの末、東晋の元帝の初め、及び石季龍せききりゅうの時に至り、始めて皆これを献ず。後魏以後、勿吉国もつきつこくい、今は則ち靺鞨まつかつう。大抵たいてい、東夷の書文はとも華夏かかと同じ。

其の閩越びんえつの地、秦、天下を平らげ、以て郡と為す。秦乱るるに及び、其の帥、又た自ら故地に王と称す。武帝の元封初、楊僕ようぼく、其の国を滅ぼし、其の人を江・淮に遷し、其の地をむなしくす。自後、人庶じんしょた集まるといえども、遂に郡県と為れり。

### 内容のポイント

* **東夷の定義:** 「夷」を「仁にして生を好む」とポジティブに捉える説を紹介し、礼を失った中国が手本にすべき存在(「中国失礼、求之四夷」)として描いています。
* **歴史的変遷:** 夏・商・周から秦・漢、そして隋・唐にいたるまでの東夷諸族(朝鮮、高麗、百済、新羅、倭、夫余、靺鞨など)との通交や戦争の歴史を概括しています。
* **地理的関係:** 朝鮮半島から日本列島(倭)、さらに満州方面(夫余、靺鞨)や南方(閩越)まで、広範な「東」の勢力を網羅しています。

他に関連する箇所や、特定の用語の意味について深掘りしたい点があればお知らせください。
Q.ありがとうございます。今夜のお願いはここまでです。明日またお願いするかも知れませんので宜しくお願い致します。
A.こちらこそ、丁寧にご返信いただきありがとうございます。

『通典』のような膨大な史料の読み下しは、当時の国際情勢や地理的背景が見えてきて非常に興味深いですね。東夷伝の序文は、中華から見た周辺世界の変遷が凝縮されており、読み応えがあります。

今夜はこれにて。また明日以降、続きや別の箇所、あるいは特定の語句の解釈などが必要になりましたら、いつでもお気軽にお声がけください。
ゆっくりとお休みください。またお力添えできるのを楽しみにしております!