そこが分かれ道

by hyena_no_papa on「九州王朝について」


所謂「九州王朝説」の根拠の一つとして、裴世清(裴清)訪倭(イ妥)にかかる『隋書』「イ妥國傳」と『日本書紀』「推古紀」の記事が、年次と裴世清の名前を除いて、“一致しない”というものがある。この“一致しない”という問題提起を以て、「九州王朝」の存在した根拠と為しうるのかどうか?それについての疑問を2003年6月から7月にかけて、Yahoo!掲示板「九州王朝説について」上で要約述べたものが以下の短期投稿シリーズである。

そこが分かれ道 2003/ 6/22 9:46 No.1950 for cyber_ek

>なんかウソっぽいなーと感じていましたよ

そこが分かれ道でしたね。その「ウソっぽいなー」という「感じ」の理由・正体をよくお考えになってみれば良かったのではないかと思います。

私は第一書「『邪馬台国』はなかった」を読んだとき、同じ感じを持ちました。初めはなぜだかわからなかったのです。ですから、何度でも読み返しました。そのうち、「古田説」の「ぼろ」が見えてきたのです。一つ見つかると連鎖的に次から次へと・・・。

こうして友人から借りたこの本は、無惨にも「書き込みだらけ」となりました。続く第二書も、これまた「書き込みだらけ」・・・。

その「ぼろ」の始まりは「臺と壹」の「誤記論」ですね。「九州王朝」でも古田氏の基本的な言説に誤謬があります。それが「隋書」と「書紀」の記述対象は、同一の王朝のことを表しているのではない、というものですね。記述内容の「不一致」は、もちろん誰しも認めるところです。それを「九州王朝説」の根拠の一つに挙げることが、間違いなのです。それはなぜでしょうか? 本日は、お出かけしますので、また夜にでも・・・。

そこが分かれ道(2) 2003/ 6/22 23:06 No.1952 for myself

>「隋書」と「書紀」の記述対象は、同一の王朝のことを表しているのではない >それを「九州王朝説」の根拠の一つに挙げることが、間違い

これについてご説明しましょう。「書紀」「隋書」の両者の記述内容が同一王朝のことを記したものではない・・・とする考えには、「無意識の前提」が挟まっているのです。それは何かというと、この両者ともに歴史的事実を写したものである、という前提です。つまり、「書紀」は畿内の王朝のことを記したものであり、「隋書」は「九州王朝」のことを記したものである、ということです。

この両書の記述内容にくい違いがあることは誰しも認めるところです。ところが、記録上の食い違いをもって、それぞれの記述対象が別々の者であると言うには、それぞれの記録が、記述対象を「写している」ことを認めなくてはなりません。「書紀」は「畿内の王朝」のことを、「隋書」は「九州王朝の」のことを。そして、その上で「記録上の食い違い」が、その記録対象そのものの「食い違い」であることを主張出来ることになります。

「九州王朝説」の皆さんが、「隋書」を以て「九州王朝」の存在した証左としようとするならば、「書紀」が「畿内の王朝」の歴史的事実を写したものであることを認めなくては生りません。そうでなければ、「食い違い」を「九州王朝」があったことの根拠として主張することは出来ないはずです。

「記録上の食い違い」は、別に、それぞれの記録対象が「別個のもの」であったことを証明するものではありませんから・・・。

そこが分かれ道(3) 2003/ 6/22 23:18 No.1953 for myself

ところが、そのように考えると、どのようなことが生じるかというと、非常に困ったことになるのです。それは、「推古十六年」あたりの「裴清の畿内訪問記事」のことを認知しなくてはならなくなるのです。おわかりでしょうか?

いや〜それは捏造だ!改竄だ!と唱えるでしょう。「九州王朝」の記録などないし、「書紀」にある「裴清」の記事を認知すれば、「裴清」の訪問地が「畿内」であり、「九州である」根拠は極めて薄弱となりますから。

よって、捏造・改竄・・・などと唱えることになります。そうすると、どうなるか?始めに戻ります。「書紀」と「隋書」の食い違いを以て「九州王朝説」の根拠の一つにしようとしていたのが、出来なくなるのです。なぜか?「書紀」は「畿内の王朝」の事実を写したものであり、それが「隋書」の記述と食い違うから、「隋書」の「倭国」とは「畿内ではない=九州である」と唱えているわけですよね。

その「書紀」が、捏造・改竄を受けたものだとしたら、「隋書」と比較すべき「畿内」の歴史的事実は「空白」になります。その「空白」と「隋書」の記事とを比較しても、食い違いを見いだすことは出来ません。片方が「空白」ならば、食い違いなど見いだしようがないからです。

すなわち、「書紀」「隋書」の記事の内容の食い違いを以て、九州王朝説の根拠としようとするのは論理的に不可と言わざるを得ません。

そこが分かれ道(4) 2003/ 6/22 23:30 No.1954 for myself

「い〜や、おまえの言うことはどこかおかしい!現に『隋書』と『書紀』は食い違っているじゃないか!『書紀』は『畿内の記録』で、『隋書』は『九州王朝の記録だ』と繰り返し唱えることになるでしょう。

そうするとどうなるでしょうか?「推古十六年」の記事を認知しなくてはなりませんね。

・・・そんなバカな!と仰るかも知れません。

これは、ベルが鳴る原理と同じですね。電気を通すと電磁石が働いてハンマーがシンバルを叩いて音が出る。ところが、ハンマーが振れると通電の接点が切れて電磁石が働かなくなり、ばねの力でハンマーは元に戻る。元に戻ると通電して電磁石が働き、またまたハンマーがシンバルを打つ・・・。この繰り返しです。

さて、私の言っていることは正しいのでしょうか?「ハイエナの言うことだから、ごまかしに決まってる、騙されるんじゃないぞ!」って陰口が聞こえてきそうですが・・・。

そこが分かれ道(5) 2003/ 6/22 23:35 No.1955 for myself

ついでですが、古田氏の「臺と壹」の論理も同様な誤謬で成り立っています。

この誤謬が理解出来れば、今後「原文通り壹と読むべきだ」という古田氏の主張が空々しく聞こえることになるでしょう。

そこが分かれ道(6) 2003/ 6/23 22:06 No.1959 for myself

さて、「臺と壹」については、当然「邪馬台国トピ」でのテーマになりますので、ここでは省くことにして、古田説についてもう少し言及してみたいと思います。

かの「裴清の道行き文」の解釈の中で、古田氏は「竹斯国」を特別な国だと主張される。「失われた九州王朝」300頁にある「百済」から「海岸」までの道順の中程「竹斯国」を四角で囲んで、いかにも「竹斯国」が倭の中心であるかのように表示し、次のように述べる。

すなわち、イ妥王の都は「竹斯国」に位置している。それが右の道行き記事によって導かれる率直な結論である。

あれれ、「隋書」では「イ妥国の都」を「邪靡堆」と書いてあったんじゃなかったかなぁ?「竹斯国」の所に「イ妥王之所都」とでも書いてあるのかな?い〜え、書いてありません。「裴清の道行き文」の中に出てくる「都」は、【既至彼都】です。そして、それは「又経十余国達於海岸」の後に出てくるのです。

「Strom_dorf」氏がHP中で指摘されたように、この「道行き文」中の「動詞」は「裴清」を主語と見て良い、考えられます。すなわち、「十余国を経て海岸に達した」のも他ならぬ「裴清」なのです。

そこが分かれ道(7) 2003/ 6/23 22:19 No.1960 for myself

順序が逆になりましたが、先に「ベルの鳴る原理」でご説明したとおり、「書紀」と「隋書」の食い違いを以て「九州王朝説あった」の根拠にすることは出来ません。

が、「書紀」を無視して「隋書」の記事のみで「九州王朝説」を裏付けようとする試みをすることは出来ます。例えば「阿蘇山」を挙げるとか・・・。しかし、それは相当に苦しいでしょう。「裴清」が「阿蘇山を見た」と言うことを「隋書」から読みとるのは困難だと思われるからです。それでもなんとかこじつけようとしても、すでに「裴清」の目的地が「畿内」であることは、この前の書き込みでご理解いただけるとおり、疑いのないものです。

逆に、「竹斯国」あたりを「イ妥王の都」とする根拠を「隋書」に見いだすことは、これまた困難であることは、容易に想像出来ることです。

そこが分かれ道(8) 2003/ 6/23 22:37 No.1961 for myself

古田氏は「推古紀の対大唐外交記事を十年以上(恐らく十二年)くり下げて解すべし」と述べられる(「古代は輝いていた3」225頁=「cyber_ek」さんはここからの借用?)。

そして、古田氏は同じ頁でつづいて、「唐初における推古朝の対唐外交が『旧唐書』などに記載されていないのはなぜか・・・」と書かれる。当然寄せられるべき疑問である。そしてその答えが、

しかし、それらは(夷蛮内部の「別国の王」「分流の王」たちが競って中国の天子に遣使したこと=hyena注)いちいち史書内に記録されるとは限らない。むしろ記録されない方が通例なのである。

翻って、「失われた九州王朝」を見てみよう。300頁〜、

この「倭国使節(「隋書」帝記中、大業4年、6年の記事=hyena注)が「イ妥国」とは異なった、天皇家側の使者であったことをしめすものである。

矛盾してますよねぇ。自分の都合に合わせて、「別国の王」「分流の王」の遣使が「記録されない」と言ったり「記録された」と言ったり・・・。

これが、古田氏の「なんかおかしいなぁ〜」の正体なのです。

そこが分かれ道(9) 2003/ 6/23 22:42 No.1962 for myself

それでは、「帝記中」に「イ妥国遣使」の記事があるのでしょうか?

古田氏に言わせれば、

>それらは(夷蛮内部の「別国の王」「分流の王」たちが競って中国の天子に遣使したこと=hyena注)いちいち史書内に記録されるとは限らない。むしろ記録されない方が通例なのである。

と言うことなので、「イ妥国」の正当な遣使記事は当然「帝記中」に記されているはずですよね。で、記録されているのでしょうか?

そこが分かれ道(10) 2003/ 7/10 23:58 No.2006 for sekai_s2

「隋書」の初めの部分、

「夷人不知里数但計以日其国東西五月行南北三月行各至於海」

この文面からすると、「倭国」は「東西に長い島」と読める。「九州島」は「南北に長い島」ですから、当てはまりません。

かといって、「畿内を中心とした倭国」というものを想定しても「東西南北」は、それらしくなりますが、「各至於海」は現実とややそぐわなくなります。

さて、古田氏はこの点についてなんといっているか?「古田説」信者の皆さんなら、すぐに挙げることが出来るでしょう。どなたか、お手数ですが、ご紹介ください。それまで待ちますから・・・。