新旧『唐書』李賢伝


〈序〉

先日の「獄中與諸甥姪書」、所謂范曄『後漢書』自序の釋読で散々な目にあって懲りたはずなのに、またぞろ釋読を試みた。先のトライが四苦八苦、七転八倒と喩えるならば、今回は二苦四苦、三転四倒くらいかも。手元の漢和辞典とネット検索に頼ることで、常ながら拙いとは言え、形としては一応の訳出出来と言っていいのだろう。またぞろ一つ記念碑が建った。後日、自分で再読して、〝下手な訳!〟と失笑できるくらいになってみたいものだが、、、

尚、『舊唐書』の釋読でエネルギーの大半を費やした結果、『新唐書』に当てる余力に乏しかったのだが、どういうわけか『新唐書』のほうは、文章が平明で、まるで新聞記事のような雰囲気だった。下手な挑戦者にとって有り難いことこの上ない。

『舊唐書』李賢伝

列傳第三十六 高宗諸子 章懷太子賢 子邠王守禮

〈原文〉

章懷太子賢,字明允,高宗第六子也。永徽六年,封潞王。顯慶元年,遷授岐州刺史。其年,加雍州牧、幽州都督。時始出閤,容止端雅,深為高宗所嗟賞。高宗嘗謂司空李勣曰:「此兒已讀得尚書、禮記、論語,誦古詩賦復十餘篇,暫經領覽,遂即不忘。我曾遣讀論語,至『賢賢易色』,遂再三覆誦。我問何為如此,乃言性愛此言,方知夙成聰敏,出自天性。」龍朔元年,徙封沛王,加揚州都督,兼左武衛大將軍,雍州牧如故。二年,加揚州大都督。麟德二年,加右衛大將軍。咸亨三年,改名德,徙封雍王,授涼州大都督,雍州牧、右衛大將軍如故,食實封一千戶。上元元年,又依舊名賢。
上元二年,孝敬皇帝薨。其年六月,立為皇太子,大赦天下,尋令監國。賢處事明審,為時論所稱。儀鳳元年,手敕褒之曰:「皇太子賢自頃監國,留心政要。撫字之道,既盡於哀矜;刑網所施,務存於審察。加以聽覽餘暇,專精墳典。往聖遺編,咸窺壼奧;先王策府,備討菁華。好善載彰,作貞斯在,家國之寄,深副所懷。可賜物五百段。」賢又招集當時學者太子左庶子張大安、洗馬劉訥言、洛州司戶格希元、學士許叔牙成玄一史藏諸周寶寧等,注范曄後漢書,表上之,賜物三萬段,仍以其書付祕閣。
時正議大夫明崇儼以符劾之術為則天所任使,密稱「英王狀類太宗」。又宮人潛議云,「賢是后姊韓國夫人所生」,賢亦自疑懼。則天又嘗為賢撰少陽政範及孝子傳以賜之,仍數作書以責讓賢,賢逾不自安。調露二年,崇儼為盜所殺,則天疑賢所為。俄使人發其陰謀事,詔令中書侍郎薛元超、黃門侍郎裴炎、御史大夫高智周與法官推鞫之,於東宮馬坊搜得皁甲數百領,乃廢賢為庶人,幽于別所。永淳二年,遷於巴州。文明元年,則天臨朝,令左金吾將軍丘神勣往巴州檢校賢宅,以備外虞。神勣遂閉於別室,逼令自殺,年三十二。則天舉哀於顯福門,貶神勣為疊州刺史,追封賢為雍王。神龍初,追贈司徒,仍遣使迎其喪柩,陪葬於乾陵。睿宗踐祚,又追贈皇太子,諡曰章懷。有三子:光順、守禮、守義。
光順,天授中封安樂郡王,尋被誅。
守義,文明年封犍為郡王。垂拱四年,徙封永安郡王,病卒。
守禮本名光仁,垂拱初改名守禮,授太子洗馬,封嗣雍王。時中宗遷於房陵,睿宗雖居帝位,絕人朝謁,諸武贊成革命之計,深嫉宗枝。守禮以父得罪,與睿宗諸子同處於宮中,凡十餘年不出庭院。至聖曆元年,睿宗自皇嗣封為相王,許出外邸,睿宗諸子五人皆封郡王,與守禮始居於外。
神龍元年,中宗纂位,授守禮光祿卿同正員。神龍中,遺詔進封邠王,賜實封五百戶。景雲二年,帶光祿卿,兼幽州刺史,轉左金吾衛大將軍,遙領單于大都護。先天二年,遷司空。開元初,歷虢、隴、襄、晉、滑六州刺史,非奏事及大事,並上佐知州。時寧、申、岐、薛、邠同為刺史,皆擇首僚以持綱紀。源乾曜、袁嘉祚、潘好禮皆為邠府長史兼州佐,守禮唯弋獵、伎樂、飲謔而已。九年已後,諸王並徵還京師。
守禮以外枝為王,才識猥下,尤不逮岐、薛。多寵嬖,不修風教,男女六十餘人,男無中才,女負貞稱,守禮居之自若,高歌擊鼓。常帶數千貫錢債,或有諫之者曰:「王年漸高,家累甚眾,須有愛惜。」守禮曰:「豈有天子兄沒人葬?」諸王因內讌言之,以為歡笑。雖積陰累日,守禮白於諸王曰:「欲晴。」果晴。愆陽涉旬,守禮曰:「即雨。」果連澍。岐王等奏之,云:「邠哥有術。」守禮曰:「臣無術也。則天時以 章懷 遷謫,臣幽閉宮中十餘年,每歲被敕杖數頓,見瘢痕甚厚。欲雨臣脊上即沉悶,欲晴即輕健,臣以此知之,非有術也。」涕泗霑襟,
玄宗亦憫然。二十九年薨,年七十餘,贈太尉。
子承宏,開元初封廣武郡王,歷祕書員外監,又為宗正卿同正員。廣德元年,吐蕃凌犯上都,乘輿幸陝。蕃、渾之眾入城,吐蕃宰相馬重英立承宏為帝,以于可封、霍瓌等為宰相,補署百餘人。旬餘日,賊退,郭子儀率眾入城,送承宏於行在,上不之責,止於虢州。尋死。
承寧,天寶初,授率更令同正員、嗣邠王。
承寀,至德二載封為燉煌郡王,加開府儀同三司。與僕固懷恩使迴紇和親,因納其女為妃,冊為毗伽公主。迴紇著勳,承寀甚遇恩寵。乾元元年六月卒,贈司空。
唐法,嗣郡王但加四品階,親王子例著緋。開元中,張九齡為中書令,奏請寧、薛王男並賜紫,邠王三男衣紫,餘二十人衣緋,官亦不越六局郎,王府掾屬仍員外置。十五載,扈從至巴蜀,依例著紫。

〈読み下し〉

章懷太子賢,字(あざな)は明允,高宗の第六子也。

永徽六年(655),潞王に封ぜらる。

顯慶元年(656),遷(うつ)りて岐州刺史を授く。其の年,雍州牧、幽州都督を加ふ。

時に始め閤(こう)*に出ずるや,容止(ようし)*は端雅(たんが)*にして,深く高宗の嗟賞(さしょう)*する所と為す。高宗は嘗(かつ)て司空の李勣に謂ひて曰く:「此の兒は已(すで)に『尚書』、『禮記』、『論語』を讀みて得(さと)り,古詩賦復(また)十餘篇を誦(よ)み,暫(しば)しの領覽(りょうらん)*を經て,遂(つひ)に即はち忘れず。我(われ)曾(かつ)て『論語』の『賢賢易色』に至るを讀ま遣(し)むるや,遂に再三覆誦(ふくしょう)*す。我は何為(なんすれ)ぞ此(か)くの如きを問はば,乃(すなは)ち性*此(かく)の言を愛(め)づと言ふは,方(まさ)に夙成(しゅくせい)*聰敏(そうびん)*の,天性自(よ)り出ずるを知る」。

龍朔元年(661),徙(うつ)りて沛王に封ぜられ,揚州都督を加へ,左武衛大將軍を兼ね,雍州の牧は故(もと)の如し。

二年(662),揚州大都督を加ふ。

麟德二年(665),右衛大將軍を加ふ。

咸亨三年(672),名を德と改め,徙(うつ)りて雍王に封ぜられ,涼州大都督を授け,雍州牧、右衛大將軍は故(もと)の如く,食は一千戶に實封(じっぷう)*す。

上元元年(674),又舊に依りて賢と名づく。

上元二年(675),孝敬皇帝薨(みまか)る。其の年六月,皇太子に立て,天下に大赦して,尋(やが)て監國(かんこく)*を令(命)ず。(李)賢は事を處するに明審(めいしん)*にして,時論(じろん)*を稱へる所と為す。

儀鳳元年(676),手敕(しゅちょく)*は之を褒めて曰く:「皇太子(李)賢は自頃(じけい)*監國し,心を政要(せいよう)*に留む。撫字(ぶじ)*の道は,既に哀矜(あいきょう)*に盡(尽)く;刑網(けいもう)*の施す所,務めて審察(しんさつ)*に存す。加以(しかのみならず)聽覽(ちょうらん)*の餘暇は,墳典(ふんてん)*に專精(せんせい)*す。往聖(おうせい)*遺編(いへん)*,咸(みな)壼奧(こんおう)*を窺ふ;先王(せんおう)*の策府(さくふ)*は,備(ことごと)く菁華(せいか)*を討(きは)む。善を好み彰を載(おこな)ひ,貞*を作(な)すこと斯(か)く在り,家國(かこく)*の寄*,深く所懷(しょかい)*に副(そ)ふ。五百段を賜物す可し」と。(李)賢は又當時の學者たる太子左庶子の張大安、洗馬の劉訥言、洛州司戶の格希元、學士の許叔牙、成玄一、史藏諸、周寶寧等を招集し,范曄『後漢書』に注して,之を表上し,三萬段を賜物され,仍(すな)はち以て其の書を祕閣(ひかく)*に付す。

時に正議大夫の明崇儼は符劾(ふがい)*の術を以て(武)則天任ずる所の使と為し,密かに「英王狀類太宗」と稱す。又宮人(きゅうじん)*の潛(ひそ)かに議(そし)りて云ふに,「(李)賢は是(これ)后姊(こうし)*韓國夫人*の所生*なり」と,(李)賢は亦(また)自(みずか)ら疑懼(ぎく)*す。則天は又嘗(かつ)て為(李)賢撰『少陽政範』及び『孝子傳』以賜之,仍(よ)りて數(しばしば)書を作(な)し(李)賢を責讓(せきじょう)*するを以て,(李)賢は逾(いよいよ)自(みずか)ら安(やすん)ぜず。

調露二年(680),(明)崇儼は盜の殺す所と為し,則天は(李)賢の所為を疑ふ。俄(にわか)に人をして其の陰謀事を發(あば)か使め,詔(みことのり)して中書侍郎の薛元超、黃門侍郎の裴炎、御史大夫の高智周と法官に之を推鞫(すいきく)*せ令(し)め,東宮馬坊に於て皁甲(そうこう)*數百領を搜得し,乃(すなは)ち(李)賢を廢して庶人*と為して,別所に幽*す。

永淳二年(683),巴州に遷(うつ)す。

文明元年(684),則天の朝に臨むや,左金吾將軍の丘神勣*を巴州に往かせ(李)賢宅を檢校*し,以て外虞(がいりょ)*に備へ令む。(丘)神勣は遂に別室に閉(とざ)し,逼(せま)りて自殺せ令む,年三十二。(武)則天は顯福門に舉哀(きょあい)*し,(丘)神勣を貶(お)として疊州刺史と為し,(李)賢を追封して雍王と為す。

神龍(705-707)初,司徒を追贈し,仍(よ)りて遣使して其の喪柩を迎へ,乾陵(けんりょう)*に陪葬す。睿宗(えいそう)*の踐祚するや,又皇太子を追贈し,諡(おくりな)して章懷と曰ふ。光順、守禮、守義の三子有り。

光順は天授中(690-692)安樂郡王に封ぜられ,尋(やが)て誅せらる。

守義は,文明年(684)犍為郡王に封ぜらる。垂拱四年(688),徙(うつ)りて永安郡王に封ぜらるも,病卒す。

守禮は本の名は光仁,垂拱(685-688)の初守禮と改名し,太子洗馬を授かり,嗣雍王に封ぜらる。時に中宗は房陵に遷(うつ)り,睿宗の帝位に居(とどま)ると雖(いえど)も,人の朝謁は絕へ,諸武(しょぶ)*の革命の計に贊成するや,深く宗枝(そうし)*を嫉(にく)む。守禮は父の罪を得るを以て,睿宗の諸子と宮中に於て處を同じくするも,凡(およ)そ十餘年庭院(ていいん)*に出ず。聖曆元年(698)に至り,睿宗は自ら皇嗣を封じて相王と為し,外邸(がいてい)*に出るを許し,睿宗の諸子五人は皆郡王に封ぜられ,守禮に始めて外に居するを與ふ。神龍元年(705),中宗は纂位(さんい)*し,守禮に光祿卿と同じく正員を授く。神龍中(705-707),遺詔して進めて邠王に封じ,實封五百戶を賜ふ。景雲二年(711),光祿卿を帶び,幽州刺史を兼ね,左金吾衛大將軍に轉じ,單于大都護を遙領(ようりょう)*す。先天二年(713),司空に遷(うつ)る。開元(713-741)の初,虢、隴、襄、晉、滑六州の刺史,非奏事及大事,並びに上佐知州を歷(ふ)。時に寧、申、岐、薛、邠は同じく刺史と為し,皆綱紀を持するを以て首僚(しゅりょう)*を擇(えら)ぶ。源乾曜、袁嘉祚、潘好禮は皆邠府長史兼州佐と為し,守禮は唯(ただ)弋獵(よくりょう)*し、伎樂(ぎがく)*し、飲謔する而已(のみ)。九年(721)已後(以後),諸王は並びに京師へ徵還(ちょうかん)*す。

守禮は外枝を以て王と為すも,才識(さいしき)*は猥下(わいか)*にして,岐、薛へ逮(いた)らざるを尤(とが)む。寵嬖(ちょうへい)*多く,風教(ふうきょう)*を修めざること,男女六十餘人,男に中才(ちゅうさい)*無く,女は貞稱(ていしょう)*に負(そむ)き,守禮は居之(して)自若(じじゃく)*,高歌(こうか)*擊鼓(げきこ)*す。常に數千貫の錢債(せんさい)*を帶び,或ひは之を諫むる者有りて曰く:「王は年漸(ようや)く高く,家累(かるい)*甚(はなは)だ眾(おほ)く,須(すべか)らく愛惜(あいせき)*有るべし」。守禮曰く:「豈(あに)天子の兄に沒人葬有りや?」諸王は因(よ)りて內(うちうち)之を讌言(えんげん)*し,以て歡笑(かんしょう)*を為す。積陰(せきいん)*日を累(かさ)ぬと雖(いへど)も,守禮は諸王に白(まう)して曰く:「晴れを欲す。」果たして晴る。愆陽(けんよう)*旬に涉(わた)るや,守禮曰く:「即ち雨」。果たして連澍(れんしゅ)*す。岐王等之を奏して,云ふ:「邠哥術有り」。守禮曰く:「臣術無き也。則天の時章懷(=李賢)の遷謫(せんたく)*を以て,臣は宮中に幽閉さること十餘年,每歲敕杖(ちょくじょう)*數頓(すうとん)*被(さ)れ,瘢痕(はんこん)*の甚だ厚きを見る。雨を欲すれば臣の脊上(せきじょう)*即ち沉悶(ちんもん)*,晴を欲すれば即ち輕健(けいけん)*,臣此を以て之を知り,術を有するに非ざる也。」涕泗(ていし)*は襟(えり)を霑(ぬら)し,玄宗亦憫然(びんぜん)*たり。二十九年(741)薨ず,年七十餘,太尉を贈らる。

子承宏は,開元(713-741)初廣武郡王に封ぜられ,祕書員外監を歷,又宗正卿と同じく正員と為す。廣德元年(763),吐蕃の上都を凌犯(りょうはん)*するや,乘輿(じょうよ)*は陝(せん)*に幸(みゆき)す。蕃、渾(ばん、こん)*の眾は入城し,吐蕃宰相の馬重英は承宏を立てて帝と為し,于可封、霍瓌等を以て宰相と為し,百餘人を補署(ほしょ)*す。旬餘日*にして,賊は退き,郭子儀*は眾を率ひて入城し,承宏を行在(あんざい)*へ送り,上(かみ)は責むるに之(いた)らずして,虢州に止(とど)む。尋死(じんし)*す。

承寧は,天寶(742-756)初,率更令(こうちょくれい)*と同正員を授かり、邠王を嗣ぐ。

承寀は,至德二載(757)封じて燉煌郡王と為し,開府儀同三司を加ふ。僕固懷恩(はくこかいおん)*と迴紇(ういぐる)に使して和親し,因(よ)りて其の女(むすめ)を納め妃と為し,冊して毗伽公主と為す。迴紇は勳(いさお)著しく,承寀は甚だ恩寵(おんちょう)*に遇す。乾元元年(758)六月卒し,司空を贈らる。唐法に,郡王を嗣ぐは但(ただ)に四品階を加ふるも,親王子の例(さだめ)により著緋す。開元中(713-741),張九齡の中書令と為すや,奏請して寧、薛王男は並びに紫を賜はり,邠王三男は衣紫,餘の二十人は衣緋,官は亦(また)六局の郎を越へず,王府(おうふ)*掾屬(えんぞく)*は仍(なお)員外の置とす。十五載(727),扈從(こしょう)*して巴蜀に至り,例に依り著紫す。

〈注釈〉

閤:御殿、宮殿、役所。
容止:身のこなし。起居と動作。
端雅:正しくて上品なこと。
嗟賞:感嘆する。
領覽:領会(=了解)、明白。by漢典
覆誦:繰り返し読みあげる。
性:生まれつきの心の働き。天から与えられた本質。。
夙成:早くから完成する。
聰敏:賢くてさとい。聡明。
實封:諸侯實際可以占有的土地。by漢語網
明審:明察精細;精明仔細。
監國:国の政治を監督すること。天子が都を離れたときの皇太子の任務。皇太子をいう。諸侯の国を監視すること。
時論:その時代の一般的な世論。時事に関する議論。
手敕:天子の自筆の詔書。
自頃:近来by漢語網
政要:政治上、大切なところ。政治の眼目。=政枢
撫字:なで慈しむ。字は、養育する。
哀矜:あわれむ。ふびんに思う。
刑網:刑罰のあみ。法網。
審察:よく考える。くわしく調べる。細かく明らか。
聽覽:天子が意見を聞き、文書を見る。
墳典:三墳五典(=三皇五帝の書)の略。昔の書物。古典。
專精:精神を一つのことに集中すること。by Weblio辞書
往聖:昔の聖人。先聖。
遺編:前人が書き残した著述。遺著。
壼奧:宮中の奥。物事の奥底。
先王:昔のすぐれた天子。堯・舜・禹・湯・文・武の諸天子。前代の王。
策府:天子の文書をしまう所。=冊府。
菁華:事物の純粋なものをいう。精華。
貞:正しいこと。
家國:国家。
寄:たのみ。よりどころ。
所懷:心に思うところ。考え。
祕閣:天子の書物を秘蔵する書庫。=秘府。
符劾:克制鬼神的符咒by漢語網。符咒:護符と呪文by白水社 中国語辞典
宮人:宮中に仕える人。多く女官をいう。by三省堂 大辞林 第三版
后姊:武皇后の姉。
韓國夫人:武順(623年~665年),字明則,并州文水(今山西省文水縣)人。唐朝女性歷史人物,應國公武士彟之女、武則天同母姐姐,母為榮國夫人楊氏。早年嫁給豫州參軍賀蘭安石,育有兒子賀蘭敏之,女兒魏國夫人賀蘭氏。經常出入宮禁,陪伴妹妹武則天,得到唐高宗李治尊寵,受封韓國夫人。唐高宗麟德二年,去世,時年四十三歲,追贈鄭國夫人。武則天稱帝后,追贈長公主,陪葬於順陵。by百度百科。姐姐は姉。
所生:生んだ子。
疑懼:うたがいおそれる。
責讓:せめとがめる。
推鞫:罪人を取り調べること。by Weblio辞書
皁甲:黒い鎧の意か。
庶人:無位無官の人。庶民。
幽:とじこめる。幽閉。
丘神勣:丘行恭之子。官至左金吾將軍。光宅二年(684年)前往巴州(今四川省巴中市巴州區)監視太子李賢。二月二十七日己卯(3月18日),丘神勣逼李賢自殺,貶為疊州刺史(今甘肅省迭部縣)。不久又回洛陽擔任左金吾將軍。垂拱四年(688年)七月,殘酷鎮壓李沖在博州(今山東聊城東北)叛亂,時李沖已死,無叛可平,“官吏素服出迎,神勣揮刃盡殺之,凡破千餘家”。李沖之父豫州刺史越王李貞亦起兵豫州(今河南汝南)呼應。武后分遣丘神勣、魏崇裕擊之。天授年間,有人告發周興與丘神勣等陰謀造反。天授二年(691年)正月乙未,武則天下令,殺掉丘神勣,五城兵馬使武三思監斬,斬於太乙門前的菜市口。from舊唐書·丘神勣傳
檢校:調べ考える。調べ尋ねる。検討。
外虞:謂對外患的防備。外患。by百度百科
舉哀:指高聲號哭以哀悼。by漢語網
乾陵:武則天の陵墓
睿宗:唐朝の第5代・第8代皇帝。高宗の第8子で、中宗の弟に当たる。重祚は710–712。by Wiki
諸武:諸々の軍人という意か。
宗枝:分家。
庭院:にわ。門内の空地の総称。
外邸:在京的诸王住宅。后妃之家。by百度百科
纂位:王位を継承する。
遙領:はるか遠くから仕事をとりしまる。自分は中央にいて地方の政治を他人にやらせること。by学研漢和大字典
首僚:指官府僚佐中地位最高者。常指長史,如分置左、右,則以左長史居首。by詞典網
弋獵:狩りをする。また、狩り。弋は鳥に、猟は獣についていう。
伎樂:俳優の演奏する舞楽。
飲謔:飲酒戲謔。酒を飲んで戯れること。
徵還:呼び戻す。召し返す。召還。
才識:才知と識見。
猥下:鄙陋。卑しくて下品。学識などが浅薄なこと。
寵嬖:お気に入りの家来。
風教:人民をそれとなく善に導く教え。風化。社会のしきたり。風習。教育。
中才:中くらいの才能。またその人。中材。
貞稱:貞德的稱譽by漢典
自若:重大事に当たっても、落ち着いていて、心や態度に少しの乱れもないさま。by goo辞書
高歌:高らかに歌う。
擊鼓:鼓を打つ。
錢債:借金の意か。
家累:一家の系累。
愛惜:深く愛する。
讌言:宴飲談說。by漢典
歡笑:喜んで笑う。
積陰:積もる陰気。
愆陽:陽氣過盛。指冬天過度酷熱乾旱,是天候失常的現象。by教育百科
連澍:連續降雨。
遷謫:罪によって遠方へ移す。
敕杖:皇帝親自下令,對官員用杖責打,稱“敕杖”。by詞典網。
數頓:數は責める、頓はぬかづくの意か。
瘢痕:傷あと。はれものや傷などのなおったあと。
脊上:語義不明。脊椎のことか。
沉悶:因天氣、環境氣氛不爽朗、不舒暢而煩悶by文学網漢語詞典
輕健:輕捷強健。by文学網漢語詞典
涕泗:涙。泗は鼻から出る涙。
憫然:悲しく哀れなさま。
凌犯:しのぎおかす。
乘輿:天子の乗り物。天子を間接的にいう敬称。
陝:地名
蕃、渾:吐谷渾與吐蕃。泛指我國西北部的少數民族。by漢典。泛は広。
補署:補任官職by漢典
旬餘日:十余日。
郭子儀:唐中期の武将。
行在:天子の行幸中の仮の御殿。行在所。
尋死:自殺。
率更令:是官職名。率更令,一人。主宮殿門戶及賞罰事,職如光祿勳、衛尉。漢東京掌庶子、舍人,晉世則不也。自漢至晉,家令在率更下;宋則居上。by百度百科
僕固懷恩:人名。唐鐵勒部人,善戰鬥。曾隨郭子儀討伐安祿山之亂,敗薛忠義於背度山,累官尚書古僕射,兼中書令、河北副元帥。後叛變,引回紇、吐番入侵,死於靈武。by萌典
恩寵:恵み。いつくしむ。恩遇と寵愛。
王府:王族所居住的府第。by萌典
掾屬:佐治的官吏by百度百科
扈從:天子の乗り物の供をする。また、従者。=供奉。


『新唐書』李賢伝

卷八十一 列傳第六 高宗諸子 章懷太子賢 邠王守禮 廣武王承宏 燉煌王承宷

〈原文〉

章懷太子賢字明允。容止端重,少為帝愛。甫數歲,讀書一覽輒不忘,至論語「賢賢易色」,一再誦之。帝問故,對曰:「性實愛此。」帝語李世勣,稱其夙敏。始王潞,歷幽州都督、雍州牧。徙王沛,累進揚州大都督、右衞大將軍。更名德。徙王雍,仍領雍州牧、涼州大都督,實封千戶。上元年,復名賢。
是時,皇太子薨,其六月,立賢為皇太子。俄詔監國,賢於處決尤明審,朝廷稱焉,帝手敕褒賜。賢又招集諸儒:左庶子張大安、洗馬劉訥言、洛州司戶參軍事格希玄、學士許叔牙成玄一史藏諸周寶寧等,共注范曄後漢書。書奏,帝優賜段物數萬。
時正諫大夫明崇儼以左道為武后所信,崇儼言英王類太宗,而相王貴,賢聞,惡之。宮人或傳賢乃后姊韓國夫人所生,賢益疑,而后撰少陽政範、孝子傳賜賢,數以書讓勒,愈不安。調露中,天子在東都,崇儼為盜所殺,后疑出賢謀,遣人發太子陰事,詔薛元超、裴炎、高智周雜治之,獲甲數百首於東宮。帝素愛賢,薄其罪,后曰:「賢懷逆,大義滅親,不可赦。」乃廢為庶人,焚甲天津橋,貶大安普州刺史,流訥言於振州,坐徙者十餘人。開耀元年,徙賢巴州。
武后得政,詔左金吾將軍丘神勣檢衞賢第,迫令自殺,年三十四。后舉哀顯福門,貶神勣疊州刺史,追復舊王。神龍初,贈司徒,遣使迎喪,陪葬乾陵。睿宗立,追贈皇太子及謚。三子:光順、守禮、守義。
光順為樂安王,徙義豐,被誅。守義為犍為王,徙封桂陽,薨。先天中,追封光順莒王,守義畢王。
守禮嗣王,始名光仁,授太子洗馬。武后革命,畏疾宗室,而守禮以父得罪,與睿宗諸子閉處宮中十餘年。睿宗封相王,許出外邸,於是守禮等始居外,改司議郎。中宗即位,復故封,拜光祿卿,實封戶五百。唐隆元年,進封邠王。睿宗立,兼檢校左金吾衞大將軍,出為幽州刺史,遙兼單于大都護,遷司空。開元初,累為州刺史。時寧、申、岐、薛王同為刺史,
皆擇僚首持綱紀。守禮惟弋獵酣樂,不領事,故源乾曜、袁嘉祚、潘好禮皆為邠府長史、州佐,督檢之。後還諸王京師,守禮以外支為王,不甚才而多寵嬖,子六十餘人,無可稱者。常負息錢數百萬。或勸少治居產,守禮曰:「豈天子兄無葬者邪?」諸王每白上以為歡。岐王嘗奏守禮知雨暘,帝問故,答曰:「臣無它,當天后時,太子被罪,臣幽宮中,歲被敕杖凡四三,累創痕膚,前雨則沈懣,霽則佳,以此知之。」因泣下,帝為惻然。薨,年七十,贈太尉。子承宏、承寧、承寀可記者。
承宏,爵廣武王,坐交非其人,貶房州別駕,還為宗正卿。廣德元年,吐蕃入京師,天子如陝,虜宰相馬重英立承宏為帝,以翰林學士于可封、霍瓌為宰相。賊退,詔放承宏于華州,死。
承寧封嗣邠王。
承寀,燉煌王,拜宗正卿,與僕固懷恩使回紇和親,即納其女為妃,封毗伽公主。薨,贈司空。
唐制:嗣郡王加四品階,親王子服緋。開元中,張九齡奏:「寧、薛及邠王三子為王者賜紫,餘皆服緋,官不越六局郎,王府掾屬仍員外置。」後從帝至蜀者皆服紫。

〈読み下し〉

章懷太子賢は字を明允。容止端重にして,少(わか)くして帝の愛すところと為す。甫(はじ)め數歲,書を讀むに一覽して輒(すなは)ち忘れず,論語「賢賢易色」に至るを,一再之を誦す。帝故(ゆえ)を問ふに,對(こた)へて曰く:「性實此を愛す」。帝は李世勣に語りて,其の夙敏*を稱(たた)ふ。王を潞より始め,幽州都督、雍州牧を歷す。王を沛に徙り,揚州大都督、右衞大將軍に累進す。德と名を更む。王を雍に徙り,仍(なお)雍州牧、涼州大都督を領し,千戶に實封す。上元年,名を賢に復す。
是の時,皇太子薨じ,其の六月,賢を立てて皇太子と為す。俄に監國を詔するや,賢の處決は尤も明審にして,朝廷の稱ふや,帝は手敕して褒賜す。賢は又諸儒、左庶子張大安、洗馬劉訥言、洛州司戶參軍事格希玄、學士許叔牙、成玄一、史藏諸、周寶寧等を招集し,共に范曄『後漢書』に注す。書を奏し,帝は段物數萬を優賜*す。
時に正諫大夫の明崇儼は左道*を以て武后の信ずる所と為し,崇儼は英王たるは太宗に類すと言ひ,而して相王貴,賢聞くや,之を惡む。宮人或ひは賢乃ち后姊韓國夫人の所生と傳へ,賢は益疑ひ,而して后は『少陽政範』、『孝子傳』を撰し賢に賜ひ,數(しばしば)書を以て讓勒するに,愈安んぜず。調露中,天子は東都に在り,崇儼は盜の所殺と為し,后の疑は賢の謀に出で,人を遣はして太子の陰事を發き,詔して薛元超、裴炎、高智周は之を雜治*し,甲數百首を東宮に獲。帝は素より賢を愛し,其の罪を薄らがんとするも,后は曰く:「賢は逆を懷き,大義は親を滅ぼす,赦す可からず」。乃ち廢して庶人と為す,甲を天津橋に焚き,大安を普州刺史に貶し,訥言を振州に流し,坐して徙す者は十餘人。開耀元年,賢を巴州に徙す。
武后の政を得るや,左金吾將軍丘神勣に詔して賢の第を檢衞し,迫りて自殺せ令む,年三十四。后は顯福門に舉哀し,神勣を疊州刺史へ貶し,追って舊王に復す。神龍初,司徒を贈り,遣使して喪を迎へ,乾陵に陪葬す。睿宗の立つや,皇太子及び謚を追贈す。三子は光順、守禮、守義。
光順は樂安王と為し,義豐に徙るも,誅らせる。守義は犍為王と為し,徙りて桂陽に封ぜられ,薨ず。先天中,光順は莒王に追封し,守義は王に畢る。
守禮の王を嗣ぐや,名を光仁と始め,太子洗馬を授かる。武后の革命なるや,宗室の疾むを畏れ,而して守禮は父の得し罪を以て,睿宗の諸子と宮中に十餘年を閉處す。睿宗の相王に封ぜらるや,外邸に出づるを許され,是に於て守禮等は始めて外に居し,改めて議郎を司る。中宗の即位し,故の封に復し,光祿卿を拜し,戶五百を實封す。唐隆元年,進んで邠王に封ぜらる。睿宗の立つや,檢校左金吾衞大將軍を兼ね,出でて幽州刺史と為す,單于大都護を遙兼し,司空に遷る。開元の初,累ねて州刺史と為す。時に寧、申、岐、薛王と同じく刺史と為し,皆僚首を擇び綱紀を持す。守禮は惟だ弋獵酣樂し,領事せず,故に源乾曜、袁嘉祚、潘好禮を皆邠府長史、州佐と為し,之を督檢す。後に諸王は京師に還るも,守禮は外支を以て王と為し,才甚しからずして而るに寵嬖多く,子は六十餘人,稱ふ可きは無し。常に息錢數百萬を負ふ。或ひは勸め少なく居產を治すも,守禮曰く、「豈天子の兄に葬者無しや?」諸王每く白上して以て歡と為す。岐王は嘗て守禮の雨暘を知るを奏すや,帝は故を問ふに,答へて曰く、「臣它*無し,天后の時に當り,太子は罪を被り,臣は宮中に幽され,歲に敕杖被ること凡そ四三,創痕は膚に累ね,雨前は則ち沈懣,霽は則ち佳,此を以て之を知る」。因りて泣下し,帝は惻然を為す。薨ずるに,年七十,太尉を贈らる。子の承宏、承寧、承寀は記す可き者。
承宏,廣武王を爵すも,坐交*して其の人に非ざれぱ,房州別駕に貶し,還りて宗正卿と為す。廣德元年,吐蕃は京師に入り,天子は陝へ如(ゆ)き,虜の宰相馬重英は承宏を立てて帝と為し,翰林學士の于可封、霍瓌を以て宰相と為す。賊は退き,詔して承宏を華州に放ち,死す。
承寧を封じて邠王を嗣ぐ。
承寀は,燉煌王,宗正卿を拜し,僕固懷恩と回紇に使して和親し,即ち其の女を納めて妃と為し,毗伽公主に封ず。薨じて,司空を贈る。
唐制は郡王を嗣ぐに四品階を加ふ,親王子は緋を服す。開元中,張九齡は奏するに、「寧、薛及び邠王の三子を王者と為し紫を賜ひ,餘は皆緋を服し,官は六局郎を越へず,王府掾屬は仍(なお)員外の置とす」。後に帝に從ひ蜀に至る者皆紫を服す。

〈注〉

夙敏:早慧。年少時便聰明出眾。by文学網漢語詞典
優賜:厚賜。
左道:邪道。
雜治:會審。綜合治理。by漢典
它:他。
坐交:罪に問われるような交際をすることの意か。