三國志呉書陸抗六子傳


〈原文〉

秋遂卒,子晏嗣。晏及弟景、玄、機、雲、分領抗兵。晏為裨將軍、夷道監。天紀四年,晉軍伐呉,龍驤將軍王濬順流東下,所至輒克,終如抗慮。景字士仁,以尚公主拜騎都尉,封[田比]陵侯,既領抗兵,拜偏將軍、中夏督,澡身好學,著書數十篇也。[一]文士傳曰:陸景母張承女,諸葛恪外生。恪誅,景母坐見黜。景少為祖母所育養,及祖母亡,景為之心喪三年。二月壬戌,晏為王濬別軍所殺。癸亥,景亦遇害,時年三十一。景妻,孫晧適妹,與景倶張承外孫也。[二]景弟機,字士衡,雲字士龍。機雲別傳曰:晉太康末,倶入洛,造司空張華,華一見而奇之,曰:「伐呉之役,利在獲二儁。」遂為之延譽,薦之諸公。太傅楊駿辟機為祭酒,轉太子洗馬、尚書著作郎。雲為呉王郎中令,出宰浚儀,甚有惠政,吏民懷之,生為立祠。後並歴顯位。機天才綺練,文藻之美,獨冠於時。雲亦善屬文,清新不及機,而口辯持論過之。于時朝廷多故,機、雲並自結於成都王穎。穎用機為平原相,雲清河内史。尋轉雲右司馬,甚見委仗。無幾而與長沙王搆隙,遂舉兵攻洛,以機行後將軍,督王粹、牽秀等諸軍二十萬,士龍著南征賦以美其事。機呉人,羇旅單宦,頓居羣士之右,多不厭服。機屡戰失利,死散過半。初,宦人孟玖,穎所嬖幸,乘寵豫權,雲數言其短,穎不能納,玖又從而毀之。是役也,玖弟超亦領衆配機,不奉軍令。機繩之以法,超宣言曰陸機將反。及牽秀等譖機於穎,以為持兩端,玖又搆之於内,穎信之,遣收機,并收雲及弟耽,並伏法。機兄弟既江南之秀,亦著名諸夏,並以無罪夷滅,天下痛惜之。機文章為世所重,雲所著亦傳於世。初,抗之克歩闡也,誅及嬰孩,識道者尤之曰:「後世必受其殃!」及機之誅,三族無遺,孫惠與朱誕書曰:「馬援擇君,凡人所聞,不意三陸相攜暴朝,殺身傷名,可為悼歎。」事亦並在晉書。
※「漢籍電子文献」による

〈読み下し〉

秋、遂ニ(陸抗)ハ卒シ、子(陸)晏ノ嗣グ。(陸)晏及ビ弟(陸)景、(陸)玄、(陸)機、(陸)雲ハ、分レテ(陸)抗ノ兵ヲ領(おさ)ム。(陸)晏ハ裨將軍・夷道監ト為ス。天紀四年(280)、晉軍ハ呉ヲ伐チ、龍驤將軍ノ王濬ハ流ニ順ヒテ東下シ、至ル所輒(すな)ハチ克(=勝)チ、終(つ)ヒニ(陸)抗ノ慮(おもんぱか)ル如クナリ。 (陸)景ハ字ヲ士仁、公主(=天子の娘)ヲ尚(めと)ルヲ以テ騎都尉ヲ拜シ、[田比]陵侯ニ封ゼラレ、既ニ(陸)抗ノ兵ヲ領(おさ)メテ、偏將軍・中夏督ヲ拜ス。身ヲ澡(=清)メ學ヲ好ミ、書ヲ著スコト數十篇也。「文士傳」曰ク、陸景ノ母ハ張承ノ女(=娘)ニシテ、諸葛恪ノ外生(姪)ナリ。(諸葛)恪ノ誅サレルヤ、(陸)景ノ母ハ坐シテ黜(逐)ワ見(る)。(陸)景ハ少(=幼)クシテ祖母ノ育養スル所ト為ス。祖母ノ亡(=死)スルニ及ビ、(陸)景ハ之ノ為ニ心喪(規定によらず喪に服)スルコト三年。二月壬戌、(陸)晏ハ王濬ノ別軍ノ殺ス所ト為ル。癸亥、(陸)景モ亦(ま)タ害ニ遇フ、時ニ年三十一。(陸)景ノ妻ハ孫晧ノ適妹ニシテ、(陸)景與(と)倶(とも)ニ張承ノ外孫也。(陸)景ノ弟(陸)機ハ、字ヲ士衡、(陸)雲ノ字ハ士龍。「機雲別傳」曰ク、晉ノ太康末、倶(とも)ニ入洛シ、司空張華ニ造(=至)リ、(張)華ノ一見スルヤ而シテ之ヲ奇(優れている)トシテ曰ク、「伐呉之役、利ハ二儁(優れた人物)ヲ獲ルニ在リ」ト。遂(すす)メテ之ノ為ニ延譽(良い評判を広める)シ、諸公ニ之ヲ薦ム。太傅ノ楊駿ハ(陸)機ヲ辟(=召)シテ祭酒ト為シ、太子洗馬・尚書著作郎ニ轉ズ。(陸)雲ハ呉王ノ郎中令ト為シ、出デテ浚儀ヲ宰(おさ)ム。甚シク惠政(=仁政)有リテ、吏民ハ之ニ懷キ、生キテ祠ヲ立ツルヲ為ス。後ニ並ビテ顯位(=高位)ヲ歴ス。(陸)機ノ天才ハ綺(あやぎぬ)練(ねりぎぬ)ニシテ、文藻(=文章)之美ナルコト、時ニ於テ獨リ冠タリ。(陸)雲モ亦善ク屬文(文章を作る)シ、清新ナルコト(陸)機ニ及バ不ルモ、而シテ口辯論ヲ持スルハ之ニ過グ。時于(に)朝廷ハ多故(多事多難)ニシテ、(陸)機、(陸)雲ハ並ビニ自ラ成都王ノ(司馬)穎於(ト)結ブ。(司馬)穎ハ(陸)機ヲ用ヒテ平原ノ相、(陸)雲ヲ清河ノ内史ト為ス。尋(つ)ヒデ(陸)雲ヲ右司馬ニ轉ジテ、甚ダシク委仗ニ見ユ。幾(いくばく)モ無ク而シテ長沙王與(と)隙(=争い)ヲ搆(かま)ヘ、遂ヒニ兵ヲ舉ゲテ洛ヲ攻ムルニ、(陸)機ヲ以テ後將軍ヲ行セシメ、王粹・牽秀等諸軍二十萬ヲ督(ひき)イル。士龍(=陸雲)ハ「南征賦」ヲ著ハシテ以テ其ノ事ヲ美(ほ)ム。(陸)機ハ呉人ニシテ、羇旅單宦(他国より来て独り官位に付くこと)、頓(にわか)ニ羣士之右ニ居スルモ、多クハ厭服(ひれ伏し従う)セ不。(陸)機ハ屡(しばしば)戰フモ利ヲ失ヒ、死散スルモノ過半ナリ。初メ、宦人(=宦官)ノ孟玖ハ、(司馬)穎ノ嬖幸(君主の寵愛)スル所、寵ニ乘ジテ權ニ豫(あずか)ル。(陸)雲ハ數(たびたび)其ノ短(=欠点)ヲ言フモ、(司馬)穎ハ納(い=聞き入れる)レル能ハ不。(孟)玖ハ又而ルニ從リテ之ヲ毀(おとし)ム。是ノ役也、(孟)玖ノ弟(孟)超モ亦衆ヲ領(ひき)ヒテ(陸)機ニ配スルモ、軍令ニ奉(したが)ハ不。(陸)機ハ之ヲ繩(ただ)スニ法ヲ以テスモ、(孟)超ハ宣言シテ曰ク「陸機ハ將(まさ)ニ反カムトス」ト。牽秀等モ(陸)機ヲ(司馬)穎於(に)譖スルニ及ビ、以テ持兩端(二股を掛ける)ト為ス。(孟)玖ハ又内(=宮中)於(に)之ヲ搆ヘ、(司馬)穎ハ之ヲ信ズ。遣(や)リテ(陸)機ヲ收(=捕)ヘ、并セテ(陸)雲及ビ弟ノ(陸)耽ヲ收ヘテ、並ビニ法ニ伏ス。(陸)機ノ兄弟ハ既ニ江南之秀ニシテ、亦諸夏ニモ著名ナルモ、並ビニ無罪ヲ以テ夷滅(一族が滅ぶ)スルハ、天下之ヲ痛惜ス。(陸)機ノ文章ハ世ノ重ンズル所ト為シ、(陸)雲ノ著ハス所モ亦世於(に)傳ハル。初メ、(陸)抗之歩闡ニ克ツ也、誅スルコト嬰孩(乳呑み児)ニ及ブ。識道ノ者ハ之ヲ尤(とが)メテ曰ク、「後世必ズヤ其ノ殃(=禍)ヲ受ケムヤ!」ト。(陸)機之誅サルルニ及ビ、三族(一族)ニ遺(跡継ぎ)無シ。孫惠ノ朱誕ニ與ヘシ書ニ曰ク、「馬援ノ君ヲ擇(えら)ブハ、凡ソ人ノ聞ク所ニシテ、三陸(陸機、陸雲、陸耽)ノ暴朝ニ相ヒ攜(たずさ)ヘ、身ヲ殺シ名ヲ傷ツクルハ意(思)ハ不。悼歎ト為ス可シ」。事亦並ビニ晉書ニ在リ。


〈現代語意訳〉

この秋(鳳皇三年=274)、遂に陸抗は没し、子の陸晏が跡を嗣いだ。陸晏と、その弟の陸景、陸玄、陸機、陸雲は、それぞれに陸抗の兵を分けて領(おさ)めた。陸晏は裨將軍・夷道監となった。天紀四年(280)、晉軍は呉を征伐し、龍驤將軍の王濬は流に順って東下して、至る所で勝利し、ついに陸抗の危惧した通りになったのである。 陸景は字を士仁といい、公主(=天子の娘)を尚(めと)ったことにより騎都尉に任じられて、[田比]陵侯に封ぜられた。やがて陸抗の兵を領(おさ)めるようになり、偏將軍・中夏督に任じられた。清廉な人格で學を好み、數十篇の書を著した。「文士傳」に言う、陸景の母は張承の娘であり、諸葛恪の姪にあたる。諸葛恪が誅されると、陸景の母も連座して逐われた。陸景は幼くして祖母に育養された。祖母が亡くなると、陸景はそのために三年喪に服したのである。二月壬戌、陸晏は王濬の別動部隊によって殺害された。癸亥、陸景もまた殺害された。時に年は三十一であった。陸景の妻は孫晧の適妹であり、陸景と倶に張承の外孫である。陸景の弟・陸機は字を士衡といい、陸雲の字は士龍という。「機雲別傳」に言う。晉の太康年間の末、陸機・陸雲は倶(とも)に入洛して、司空張華を訪れると、張華は一見して二人を優れているとして言うには、「呉征伐の戦いで得た利益は優れた人物を獲たことである」と。二人の為に良い評判を広め、諸公に推薦した。太傅の楊駿は陸機を召しかかえて祭酒と為し、太子洗馬・尚書著作郎に轉じた。陸雲は呉王の郎中令となり、のち浚儀を宰(おさ)めた。非常に仁政を敷いたため、吏民は彼に心を寄せ、生しているうちに祠を立てて祀られた。その後、二人とも高位を歴任した。陸機の天才は綺(あやぎぬ)や練(ねりぎぬ)にようで、文章の美しいこと、当時第一人者であった。陸雲もまた文章を作ることに優れ、清新さでは陸機に及ばないとは言っても、議論をすると陸機以上であった。時に朝廷は多事多難であり、陸機・陸雲はともに自分から成都王の司馬穎と結んだ。司馬穎は陸機を平原の相とし、陸雲を清河の内史とした。ついで陸雲は右司馬に轉じ、信任は篤かった。程なくして長沙王との間に諍いが起き、遂いに兵を舉げて洛陽を攻めたが、陸機は後將軍とされ、王粹・牽秀等諸軍二十萬を督(ひき)いた。陸雲は「南征賦」を著わしてその事を讃えた。陸機は呉人であり、羇旅單宦(他国より来て独り官位に付くこと)して、急に羣士の上に立つようになったため、多くの人々は服わなかった。陸機は屡(しばしば)戰ったが損失を被り、死んだり散げたりする者が過半にもなった。もともと、宦官の孟玖は、司馬穎の寵愛を受けていたので、それに乘じて権力を振るっていた。陸雲はたびたび、彼の欠点を言上したが、司馬穎は聞き入れることがなかった。孟玖も又、それによって陸機を毀(おとし)めた。是の戦役では、孟玖の弟である孟超もまた軍を率いて陸機の配下についたが、軍令に奉(したが)わなかった。陸機は法によって之を正そうとしたが、孟超は「陸機は將(まさ)に謀反を企てている」と言い立てた。牽秀等も陸機のことを「二股を掛けている」と司馬穎に譖言するに及んだ。孟玖は又、宮中で事を構えたので、司馬穎は之を信じた。人を遣(や)って陸機を捕え、并せて陸雲及び弟の陸耽まで捕えて、いずれも法に処した(処刑した?)。陸機の兄弟は既に江南の逸材で、また中原にも名を馳せていたのだが、すべて無実の罪で一族が滅んでしまったことに、天下は痛惜した。陸機の文章は世間にも重んじられ、陸雲の著書も亦世に広く傳わっていた。以前、陸抗が歩闡を撃ち破ったとき、乳呑み児まで誅殺した。道理に通じた者たちはこれを非難して、「後世必ずやその禍が降りかかるだろう」と言った。陸機が誅殺されるに及んで、一族に跡継ぎが無くなった。孫惠が朱誕に與えた手紙に言う、「馬援が君主を選んだということは、凡そ人の知るところであって、三陸(陸機、陸雲、陸耽)が暴虐な朝廷に仕え、その身は殺され、名誉も傷つけられるとは思わなかった。悼歎する他ありません」と。この事は皆「晉書」に記されている。


※「陸抗六子傳」という伝目はもちろん無い。「陸抗傳」の末尾で陸抗の死後、6人の子供達について本文及び注で触れているのを総称して便宜上「陸抗六子傳」と名付けた。