年次 | 華暦 | 和暦 | 摘要 | 記載事項 |
581 | 開皇元年 | 隋が北周より禅代 | ||
583 | 開皇三年 | 隋が長安大興城に遷都 | ||
589 | 開皇九年 | 隋が陳を平定して中国統一 | ||
600 | 開皇二十年 | 推古8年 | 倭王多利思比孤が遣使し闕に詣る | |
604 | 仁寿四年 | 太子楊広(煬帝)、父文帝を殺して即位 | ||
607 | 大業三年 | 推古15年 | 小野妹子遣隋 | |
608 | 大業四年 | 推古16年 | 妹子帰朝、裴世清訪倭、裴世清帰国、妹子再訪。 | 【學生倭漢直福因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷八人也】(「推古紀」) |
609 | 大業五年 | 推古17年 | 妹子大唐より帰朝 | |
614 | 大業十年 | 推古22年 | 犬上君御田鍬、矢田部造を大唐に遣わす | |
615 | 大業十一年 | 推古23年 | 犬上君御田鍬、矢田部造が大唐より帰朝 | |
618 | 武徳元年 | 煬帝が殺され隋滅亡。李淵(高祖)即位し唐成立 | ||
626 | 推古31年 | 大唐の学問者僧恵済、恵光、また医恵日、福因等並びに智洗爾等に従いて来れり | ||
630 | 貞観四年 | 舒明2年 | 大仁犬上三田耜と大仁薬師恵日を大唐に遣わす | |
631 | 貞観五年 | 舒明3年 | 倭国遣使し方物を献ず | |
632 | 貞観六年 | 舒明4年 | 大仁犬上三田耜帰朝、高表仁訪倭 | |
633 | 貞観七年 | 舒明5年 | 高表仁帰国 | |
636 | 貞観十年 | 『隋書』成立 | 【都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也】(『隋書』) | |
636 | 貞観十年 | 『梁書』成立 | 【至祁馬臺国】(『梁書』) | |
639 | 貞観十三年 | 舒明11年 | 大唐の学問僧恵隠、恵雲、新羅の送使に従って入京 | |
640 | 貞観十四年 | 舒明12年 | 大唐の学問僧清安、学生高向漢人玄理、新羅を経て帰朝 | |
646 | 貞観二十年 | 『晋書』成立 | ||
648 | 貞観二十二年 | 大化4年 | 新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず | |
654 | 永徽五年 | 李賢生誕 | ||
659 | 顕慶四年 | 『北史』成立 | 【至邪馬臺国】【居於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也】 | |
659 | 顕慶四年 | 『南史』成立 | ||
660 | 顕慶五年 | 『翰苑』成立 | 【鎮馬臺以建都】(本文) 【其大倭王治邦臺】(所引『後漢書』) 【南至邪馬嘉国】(所引『廣志』) |
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676 | 儀鳳元年 | 李賢等『後漢書』の注釈を完成 | 【其大倭王居邪馬臺国〔李賢注〕案今名邪摩惟音之訛也】(南宋紹興本影印百衲本)。他の版本は概ね「邪摩推」 | |
684 | 文明元年 | 李賢薨去 | ||
801 | 貞元十七年 | 『通典』成立 | 【其王理邪馬臺国 或云邪摩堆】 |
注1)『隋書』俀国伝の「俀」と、同多利思北孤の「北」は、それぞれ「倭」「比」の誤であることは明白にして是正。
注2)現行百衲本『後漢書』李賢注の「邪摩惟」は、隋及び唐初期における倭都の名「邪摩堆」「邪靡堆」の誤であることは明白。
注3)2023/9/15 大業十年、同十一年の遣使者名を「犬上君三田耜」としていたが、正しくは「犬上君御田鍬」なので訂正した。