虚妄の古田7世紀史

磐井の乱以後の筑紫には「九州王朝」の影も形も見出すことが出来ない

古田武彦『壬申大乱』を読み、その荒唐無稽さに驚愕したついでに、手元の本の中で古田氏が大宰府についてとりあげているものがないかと思い、一二冊開いてみた。その中からツッコミどころを拾い上げ、ツイート連発。2021/5/31より6/8までの間の約400本弱をとりあえずひとまとめにして1頁を作成、公開することとした。

平均すると1日に40本近くツイートしていることになる。粗製乱造であるからして、当然のごとくタイプミス、誤変換も多発。いつものように、それはそのままに記念として放置。

2021年6月9日 10時26分から2021年6月30日 23時28分までのツイートを追加し、2021/7/8公開。タイプミス、誤変換は上述のごとく。また、粗製乱造にて的を外しているものも少なくなかろうが、そのまま放置するは従前のごとく。
古田氏が大宰府に触れたものはないか?と探したら、s54.6.10刊『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』p318からの「第三章 九州王朝の都城 太宰府の謎」で何やら書いていました。相変わらずの我田引水。いくつかピックアップしてみます。
2021年5月31日 22時55分

p318
新たな問がある。〝その九州王朝の本拠はどこなのか。考古学的にそれを立証できるのか〟だ。
この問いに対して、私の答は簡単明瞭だ。〝それは太宰府である〟。

ここで「太宰府」としていますが、p339で解説が。『宋書』に太宰が頻出し、太宰府の呼称も出現する。
2021年5月31日 22時57分

別に『宋書』で倭王が太宰に任じられたという記事があると言っているわけではありません。『宋書』の中に、太宰、太宰府が見える、ということなのです。またまた200年前の〝古証文にもならない〟根拠を持ち出します。
2021年5月31日 22時59分

p319
A 推古17年(609)筑紫大宰奏上記事。
B 天智3年(664)水城等築造記事。
C 天智10年(671)対馬国司、使を筑紫大宰府に遣わして筑紫君薩野馬らの帰還を伝える。
〈記事は要約〉
と3例あげます。7世紀中の大宰記事は30例近くになりますが、、、
2021年5月31日 23時1分

そして言うことがビックリ!
右の記事の他にも、一切〝近畿天皇家が太宰府を造営せしめた〟との記事はない。ないままにいきなり推古十七年の「筑紫の大宰」の記事が出てくるのだ。
はい?じゃ、九州王朝さんが「太宰府を造営せしめたとの記事」はあるんですか?
2021年5月31日 23時3分

すなわち〝この「筑紫の大宰」は、天皇家の任命によるものではない〟。そういった体裁を、『書紀』自身がとっているのである。
はいっ?大化5年(649)、蘇我日向を筑紫大宰帥に任じたのは誰ですか?
2021年5月31日 23時5分

続いて、阿倍比羅夫、栗隈王、蘇我赤兄臣を任じたのは誰ですか?九州王朝さんの記録には大宰を任じたとあるんですか?

※この辺りからだんだん馬鹿らしくなってきます。
2021年5月31日 23時8分

p322では太宰府を勝手に「都城」「国都」と決め、その上で言うことが、「天智は、近江と筑紫と二箇所に「国都」を作ったことになるのだ。」と。

そんなものを、なぜ二つも作る必要があるのだろう。

それを疑問に思うなら、自身の最初の設定である〝太宰府=国都〟への疑問を持つべし。
2021年5月31日 23時10分

p326
ところが最近、太宰府そばの窯跡「神前(かむまい)遺跡」から、六世紀後葉、すなわち「天智以前」に当たる、〝日本列島最古級の瓦〟が出土(第63図)し、この立場(藤井功・亀井明徳『西都大宰府』)に対して困難な問題を提出している。
2021年5月31日 23時11分

「六世紀後葉」?それがどうかしましたか?古田氏は言いました。磐井の乱(527-528)で「磐井王朝の滅亡」『失われた九州王朝』p340)と。

葛子は糟屋の屯倉を献上し、父の罪に連座することを免れたんです。
2021年5月31日 23時13分

安閑2年(535)には筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豐國滕碕(みさき)屯倉・桑原屯倉・肝等(かと)屯倉・大拔(おおぬき)屯倉・我鹿(あか)屯倉・火國春日部屯倉が置かれます。筑紫・火・豊、つまり磐井が拠った国です。そこに屯倉を置いたのは誰ですか?
2021年5月31日 23時16分

宣化元年(536)には、那津之口に官家を修造し、筑紫肥豐の穀物などを運び込ませます。誰がですか?

翌年(537)には大伴金村大連の子・磐と狹手彥を任那救援のため筑紫に遣わし、磐は筑紫に留まり筑紫の国政を執ったとあります。
2021年5月31日 23時21分

つまり、磐井の乱後、筑紫はヤマトの制圧下に入ったと見て間違いないでしょう。

推古17年(609)には筑紫大宰が『書紀』に初出します。「筑紫大宰奏上言」です。筑紫大宰は誰に「奏上」したんでしょうか?
2021年5月31日 23時25分

安閑・宣化以降、『書紀』には三韓と任那関係記事が多出します。その中で筑紫はヤマトの人たちの通過地点として記述されます。一度『書紀』をお読みになってほしいものです。
2021年5月31日 23時28分

p337
〝天智天皇が大宰府を作り、水城を作った〟。この『書紀』風の(あるいは超'『書紀』の)手作りの神酒に酔い痴れない限り、わたしは明らかに見る。

はい?大宰府築造記事は確かにありませんが、天智4年の記事には!
2021年5月31日 23時29分

天智4年(665)8月 遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。

大野城、椽城を造らせたと明記。誰が!も。九州王朝の都城を守るためにヤマトから憶禮福留・四比福夫が遣わされて汗かいた?

影も形もない九州王朝の天子が命じたとでも?
2021年5月31日 23時32分

天智3年(664)是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。

水城も造ってます。

この『書紀』風の(あるいは超'『書紀』の)手作りの神酒に酔い痴れない限り

って何スカ?「酔い痴れ」ているのは古田さん、あなた自身でしょ?
2021年5月31日 23時34分

p318から20ページ余に亘って、延々と〝太宰府=九州王朝の都城〟説を展開しますが、九州王朝の実体が一切登場しません。

その典型が裴世清の来訪です。ヤマトには『書紀』にも「丈六光背銘」にも記録がある。九州王朝には記録があるのか?ありません。
2021年5月31日 23時38分

古田氏は藤井功・亀井明徳『西都大宰府』を否定的に取り上げていますが、古田氏は、
第一期 掘立柱建物
に何かを見出そうとしたようです。『西都大宰府』p92-93には、須恵器の年代から第Ⅰ期整地を7世紀後半としています。斉明~天智朝ということになります。
2021年5月31日 23時48分

古田氏が「九州王朝の本拠」として太宰府を想定しましたが、文献的にも考古学的にも、その裏付けを得ることは絶望的といえるでしょう。

そもそも『日本書紀』の大量の記述を、どうやって否定するのか?畿内周辺のみで完結しているならともかく、筑紫や半島とも密接に絡んでいるのですから、、、
2021年5月31日 23時51分

「7世紀の筑紫大宰関係略年表」

再掲しておきます。
2021年6月1日 9時53分

同書の「九州王朝の都城」の節を読んでいて、p325に森貞次郎氏の『北部九州の古代文化』が出てきます。古代史を始めた頃から愛用し、随分と参考になりましたが、この本を引く人はあまり見かけません。それで〝ほう〟と思ったのですね。
2021年6月1日 10時7分

古田氏は「第一層の性格は、〝説明がつかない〟という」として(森貞次郎『北部九州の古代文化』参照)とします。発掘に携わった児玉真一さんの言だというんです。その件で「参照」と。森書には第Ⅰ期の掘立柱の話も出てきますが、児玉さんの話はどこに?今の所、見当たりません。
2021年6月1日 10時25分

ただ、古田氏がp325で示した
第一期 掘立柱建物
第二期 下層礎石建物
第三期 上層礎石建物
という箇条書きは、森書p273の箇条書きと完全に一致いています。発掘の結果、第一期~第三期の区分がある!ことを「参照」と言ったのか?
2021年6月1日 10時28分

森書ではもちろん、九州王朝などという概念は出てきません。古田氏の『失われた九州王朝』の3年後の刊行ですが、、、
2021年6月1日 10時32分

古田氏が言っていることは、九州王朝説があったとすればこういう説明ができる!という印象操作的なもので、九州王朝実在の証明には何らなっていません。達率憶禮福留・達率四比福夫に命じて大野城と椽城を築いたし、水城も造ったと明記してある。もちろん筑紫大宰はヤマトから任命され赴任している。
2021年6月1日 10時40分

古田氏がなすべきことは、印象操作ではなく、これらのヤマト築造説を否定すること、筑紫大宰ヤマト任命を否定すること、もちろん根拠を以て!のはずです。

否定どころか、p319で列挙した筑紫大宰関係記事を3件を虚構として退ける気配は見えません。
2021年6月1日 10時44分

どころか〝体裁〟という曖昧で感覚的な言葉を用いて、記事から別の意味合いを引き出そうとさえしているように見えます。

p320
『書紀』を権威とせず、まして『書紀』にもない内容を「菊の論理」で補うつもりはない。

大見得を切ってみせたんです。
2021年6月1日 10時48分

しかし、古田氏は『書紀』にもない内容を「菊の論理」ではなく「九州王朝の論理」で補ったのではありませんか?

例えばp319のA~Cの3例の中で、「防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く」が誰によるものか?示そうとしていません。
2021年6月1日 10時53分

『書紀』に書いてあるのだから、ヤマトによるものだ!と考えるのがフツーでしょうが、古田氏は恐らく首肯しないんでしょう。では誰が?古田氏の立場からすれば、九州王朝によるということになるんでしょう。

もしそうなら、「九州王朝の論理」で補うことになります。
2021年6月1日 10時56分

前述の3例には「任」の事例が1個も挙げられていません。7世紀の『書紀』筑紫大宰関係記事は30例近くあり、その中には、はっきりと「任」と書かれてある例もあります。誰が「任」じたと古田氏は思ってるんでしょうか?
2021年6月1日 11時0分

p327
つまり〝虚実並び存する〟のが『書紀』のありのままの姿ではないだろうか。まして『書紀』は「天智の太宰府造営」など一切記していないのである。

古田氏の言ってることは、世の不思議現象は宇宙人の仕業だ!というスタイルに近いと言えそう。九州王朝の史書には「太宰府造営」が記してある?
2021年6月1日 11時7分

p336
〝〈前略〉神籠石という名の「山城」遺構群に囲まれた中心領域、そこにその統一権力者はいる〟―これが自明の帰結ではあるまいか。

何を仰る!大宰府を至近で囲んでいるのは大野城、椽城そして水城。これらはいずれも『書紀』に築造の記録がありますよね。それとも九州王朝が築造したとでも?
2021年6月1日 11時13分

天智9年(670)2月 又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。

具体名は挙げてませんが、筑紫にあと2つ、城を築いています。
2021年6月1日 11時16分

p337を再掲
〝天智天皇が大宰府を作り、水城を作った〟。この『書紀』風の(あるいは超'『書紀』の)手作りの神酒に酔い痴れない限り、わたしは明らかに見る。九州王朝が営々と作り上げた、東アジア独特の「山城に囲まれた都城」のもっとも壮大な全形を。
2021年6月1日 11時19分

再度言います。古田氏は自身の築き上げた九州王朝説に「酔い痴れ」てるんです。609年以降、記録上筑紫大宰が多出します。誰が任命したんでしょうか?
2021年6月1日 11時25分

天武8年(679)3月 吉備大宰石川王、病之薨於吉備

p319
それどころか、〝筑紫に大宰という役職を置いた。それは何年だ〟といった形跡すらないのだ。

吉備に大宰という役職を置いた。それは何年だといった形跡すらない。もちろん、石川王を吉備大宰に任じたという記録も無。

じゃ、吉備大宰って何?
2021年6月1日 11時44分

1.吉備王朝があってそこの天子が任じた
2.九州王朝が吉備まで勢力下に置いており、九州王朝が任じた
3.全くの虚構

はい、三択です!
2021年6月1日 11時46分

ああ、そうでした!その部分はうっすらと思い出しました。よくこじつけるもんですね(^^;)
2021年6月1日 11時46分

『ここに古代王朝ありき』で古田氏が大宰府について言及していましたので、久しぶりに読んで問題点を指摘してみました。

ところで、『隋書』俀国伝によれば【都於邪靡堆】なんで、太宰府は「邪靡堆」と称されてたんですよね?古田氏の立場では、、、地名付会は得意ですから、何か言ってそうな、、、
2021年6月1日 11時56分

確か『古代に真実を求めて』の中でなにか仰ってたような記憶が、、、調べてみましょう。
2021年6月1日 11時56分

一致したら大変ですね!
2021年6月1日 11時57分

@belzedaro >鍋塚
座布団奉呈!えーと、何枚に値しますかねぇ~
2021年6月1日 12時42分

面白いブログに遭遇。
「ハナサンピン」
https://35546864.at.webry.info/201602/article_1.html
https://35546864.at.webry.info/upload/detail/017/182/90/N000/000/001/135949718208213206164.jpg.html
古田説の立場ですが、熱意は伝わってきます(^^;)
2021年6月1日 12時50分

『古代に真実を求めて』の中で述べていたのは、「臺」が低湿地だ
2021年6月1日 13時4分

あれ?投稿されちゃった(-_-;)
『古代に真実を求めて』の中で述べていたのは、「臺」が低湿地だということでしたね。記憶違いです。13集のp33から。

この集の「二 古事記の撰録に於ける「削為定実」の問題」中の、南朝・北朝は未だに理解できません。折を見て再読してみましょう。
2021年6月1日 13時9分

南朝系列では「邪馬壹国」「邪馬臺国」はキチンと区別され使われて読まれていた?

古事記の撰録に於ける 「削偽定実」の問題
2021年6月1日 13時22分

『失われた九州王朝』p295
しかし、先に「多利思北孤」の例でのべたように、『隋書』は原音の全体をそのまま記し、みだりに名の一部を切り取って中国風に記すようなことはしていない。

小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高

オノノオミイモコ⇨蘇因高です。「唐國號」ですから保証付き!
2021年6月1日 15時34分

古田氏のこういう場当たり主義は、しばしば見かけます。いかにももっともらしく語るので、読者は〝なるほど!〟と思うんでしょう。

同頁では蘇因高を引いていますが、(推古十六年)唐国と引き、「小野臣妹子」というフルネームでは引いていません。
2021年6月1日 15時39分

p311
邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂、邪馬臺なる者也。
右で「魏志の所謂」と言っているが、これは『後漢書』によって「訂正」して書いているのだ。(この点、前著『「邪馬台国」はなかった』九〇~九二ページ参照)

とあります。「前著」を開いてみましょう。
2021年6月1日 15時56分

以前にも取り上げましたが『北史』で「邪靡堆」としている表ですね。『隋書』俀国伝
1.魏時譯通中國三十餘國
2.則魏志所謂邪馬臺者也
3.自魏至于齊梁代與中國相通
1は明らかに『魏志』からの文です。『後漢書』は【使驛通於漢者三十許國】ですから。2においては論を俟ちません。
2021年6月1日 16時6分

古田氏が幾つかつまみだしただけの簡略な表で「『後漢書』によって「訂正」して書いているのだ」などというのは自分の主張が正しいと言わんがための無理筋です。考えてもみましょう。魏徴が目の前にある「邪馬壹」を「邪馬臺」と改める理由は何でしょうか?
2021年6月1日 16時11分

それほど『後漢書』の記述に目の前の『魏志』の文を改めさせる〝能力〟があるのなら、書写の過程でとっくに『魏志』自体が「邪馬臺」と書き改められていたでしょう。
2021年6月1日 16時16分

陳壽から900年、それぞれの書写者は人も違い、時代も違い、王朝も違い、組織や場所も違うと言うのに、皆等しく「壹」と見て「臺」と写したことになる。そんなことは甚だ考えにくいことである。

拙ブログ「皆が陥ってきた錯覚」
2021年6月1日 16時19分

古田氏は『失われた九州王朝』p311で
〈隋書〉
邪靡堆=山・堆(堆〈大倭〉の中心たる「山」の都)
と書いています。

これ、太宰府に当てはまるんでしょうか?「堆」が「都」の意?その実例を!
2021年6月1日 16時28分

「裴清の道行き文」【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國】。竹斯国は単なる通過国。『隋書』には【都於邪靡堆】と明記してあります。【既至彼都】は盛大な來迎、郊勞の後に記されています。竹斯国の部分に記されているわけではありません。
2021年6月1日 16時35分

『ここに古代王朝ありき』で、頁をめくる内に目に飛び込んできた一節。

これに対し、わたしの立場(九州王朝論)からすれば、ことは明瞭だ。
三角縁神獣鏡は、はじめ(古墳時代初頭)、筑前中域を中心とする九州北部で造られた。

前後の文脈要確認ながら、驚く!
2021年6月1日 16時49分

前頁では椿井大塚山古墳にも言及していますが、分有関係に触れている?

既に原田氏から指摘がある通り、同書冒頭p2での公理、
「一定の文化特徴を〈以下略〉」に立てば自己破産必至!
2021年6月1日 16時51分

#原田実 氏の『#幻想の多元的古代』p298
同様に古田氏の著書・論文を読み、どこが誤っているかを確かめ、考えていくことは、私たちの歴史理解を深める上で大いに役立つはずである。
2021年6月1日 17時12分

同p299
問題提起の書として、また反面教師として、古田氏の著書・論文に、今後とも読みつがれていくだけの価値があることは間違いないのである。

ミネルヴァさんには頑張って貰う必要が!
2021年6月1日 17時13分

『壬申大乱』を読み、呆れた流れで、古田氏の太宰府観を『ここに古代王朝ありき』から引きつつ私見を述べてきました。

安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』p221に、
1 九州王朝は「透明魚(トランスパレント・フィッシュ)」
との見出しを掲げていますが、まさしくその通りなのです。
2021年6月1日 18時27分

7世紀史を調べようとすると、少量の漢籍史料と大量の『日本書紀』の記述が爼の上に乗ります。『日本書紀』を爼の上でいくら刻んでみても、九州王朝など影も形もないのです。あるとすれば古田氏による我田引水の解釈のみ。
2021年6月1日 18時32分

安本氏はこうも言います。

古田武彦説の最大の問題点は、九州王朝のことを記した確実な文献が、なにもないことである。(同書p217)

「なにもない」どころか、古田氏が都と想定する大宰府防衛のためにヤマトが大野城、椽城、水城を造り、筑紫大宰をヤマトが任命派遣したなど明記してあります。
2021年6月1日 18時35分

ヤマト側にも記録がないのであれば、〝さて、どっちだろ?〟との議論も生まれるでしょうが、九州王朝側に皆無で『日本書紀』に詳述してあるのですから、ハナから議論の俎上にすら乗らないテーマなのです。
2021年6月1日 18時39分

『失われた九州王朝』p327から。
そのあと、近畿大和の小国であった天皇家は、「倭国」を併合した。そして、「日本」の名を継承したのである。

『唐會要』によれば顕慶(659)、咸亨(670)の際にも「倭国」は遣使しています。すると「併合」したのは670以降ということになります。
2021年6月1日 18時48分

俀国の都である太宰府防衛のため、「近畿大和の小国であった天皇家」が太宰府至近の大野城と椽城と水城を造ったことになりますね。

こういうストーリーを受け入れろ!と言われて首肯する人っているんでしょうか?
2021年6月1日 18時53分

月曜夜8時からの「水戸黄門」が史実と違う!なんて昔はTVでもやってました。鈴木健二さんの歴史番組で「水戸黄門漫遊せず」という回も(^^;)
https://twitter.com/bunkajin_kobe/status/1399662001698136064
2021年6月1日 19時2分

1冊読んでパッと染まる人もいたりして、、、(-_-;)
https://twitter.com/istvan0817/status/1399657745377161226?s=20
2021年6月1日 19時3分

同じ情報を脳が受け止めるにしても、本で読んだ場合と、ネットから流れてきて見た場合との違いについて、多分学者は研究してるんでしょうね。きっと違うと思います!
https://twitter.com/istvan0817/status/1399668948505751552?s=20
2021年6月1日 19時11分

連続ツイートしていますが、このシリーズに名前をつけるとすれば「虚妄の古田7世紀史」がいいかも。

その前段階、磐井の乱(通説527-528、古田氏は531)から『隋書』の多利思北孤まで約70年ほど。この間の九州王朝史は如何に?何しろ、滅亡から奇跡の復活遂げているはずだから!
2021年6月1日 19時23分

6世紀前半には磐井の乱によって「一王朝の全面的敗北」「磐井王朝の滅亡」(第2書P340)とあるように九州王朝は壊滅。しかし『隋書』によれば開皇20年、多利思北孤が遣使。
2021年6月1日 19時29分

古田氏によれば、
すなわち、俀王は、近畿大和を中心の拠点とする天皇家の領域を、内にふくんで(6字傍点)「日出づる処の天子」と、誇りやかに宣言しているのである。(p311)
2021年6月1日 19時31分

不思議ですよね~ いつの間に復興したのか知らん、、、

安閑宣化朝は屯倉・官家を造られ、かつて磐井が拠った筑紫肥豊の穀物等を集積され、官家が置かれた翌年には大伴金村の子・磐がその執政として筑紫に留まります。ヤマトの制圧下に入っています。
2021年6月1日 19時34分

6世紀中盤から後半は三韓と任那関係の記事が氾濫しています。欽明17年(556)1月には、阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣わし、筑紫国舟師(水軍)を率い、百濟王子惠を国へ護送しています。これも九州王朝の天子の命なんでしょうか?
2021年6月1日 19時39分

大河「ドラマ」なんですけどね~ 長年大河ドラマを楽しみつつ、名場面の様々に違った描き方を見てくると、「ドラマ」なんだぁ~ と納得できるようになります。
2021年6月1日 19時44分

半島の混乱の影響なんでしょう、6世紀は大量の所謂帰化(投化)人が筑紫にやってきますが、おおよそ彼らは近江とか東国に住まわされます。

これらの九州王朝説的解釈はどうなるんでしょうか、、、
2021年6月1日 19時48分

原田実氏曰く「
実に九州王朝説成立のための前提を否定するもの」
2021年6月1日 20時13分

古田氏は『日本書紀』を信じている?信じていない?
2021年6月1日 20時15分

他にも「古田7世紀史」に関する文がないかと探してみると、短いけれども『失われた日本』第六章に「神籠石の証明」が。この本は1998年刊で『壬申大乱』の3年前。p144に「「神籠石」の分布」という図が掲げてあり、「森貞次郎「北部九州の古代文化」等によって作図」とキャプション。
2021年6月1日 22時51分

それで『北部九州の古代文化』を開いてみると、古田氏が山高にしたらしき図がp82に。古田氏の図との相違点は、森書が朝鮮式山城も描き込んであること。具体的には水城、大野城、基肄城、鞠智城、金田城。森書は九州のみですが、古田氏は山口県石城山神籠石を含めています。
2021年6月1日 22時55分

そして
第二、この「一大山城群」は、はりねずみ(5字傍点)のように「太宰府の地」を〝四囲〟から守る形となっている。

はい?達率憶禮福留・達率四比福夫に命じて大野城と椽城を築いたし、水城も造ったと明記してある。もちろん筑紫大宰はヤマトから任命され赴任しているでしょ?
2021年6月1日 23時0分

今、気が付きました。森書では対馬が描かれ、当然金田城もポイントしてあります。しかし、古田書では壱岐は書かれてありますが、対馬が描かれてありません!もちろん、大野城、椽城、水城もマークされていません。

2021年6月1日 23時5分

大野城、椽城、水城、それに名称不明ながら筑紫にあと2つ、長門にもヤマトは城を築いています。大宰府を至近で守っているのは、これらヤマトが築いた防衛施設でしょ?地図にプロットすることを避け、読者を自説へ誘引しようとする魂胆が見えます。この図〝失われた対馬〟ってネーミングしましょうか?
2021年6月1日 23時11分

p145で言います。
さらに一点、それは日本書紀において、この「六~七世紀の間」の記述の中(継体天皇から持統天皇まで)に、一言として、これらの「神籠石」式山城についての言及がないことである。

たはは!の極み。
2021年6月1日 23時14分

更に同頁、
ところが、日本書紀は、これらの建造時期の「直後」といっていい、八世紀初頭(七二〇)において編述されたにもかかわらず、これらの「神籠石」式一大山城群に関しては、一言の言及もない。

これまた、たはは!の極み。
2021年6月1日 23時17分

「一言の言及もない」のは古田氏の方。大野城、椽城、水城、それに名称不明ながら筑紫にあと2つ、長門にもヤマトは城を築いている。『日本書紀』に明記してある。なぜこの件について「一言の言及もない」のか?
2021年6月1日 23時18分

#原田実 氏の『幻想の多元的古代』「古田武彦氏に学ぶ強弁の研究」中に「言行不一致は堂々と」があります。実によく見抜いています。私は『失われた日本』「神籠石の証明」というたった4頁の中に、原田氏の指摘をまざまざと見ました。
2021年6月1日 23時23分

p144の図から、大野城、椽城、水城、それに名称不明ながら筑紫にあと2つ、そして長門の城を描き込まず、ヤマトが造った金田城のある対馬を地図上から消す!

消しておいて、日本書紀には「一言の言及もない」と。言及していないもののみを描いて「一言の言及もない」などと嘯く。
2021年6月1日 23時27分

そして「客観的」だの「率直な帰結」だのと宣う。常々、論理だ、論証だ、真実だと高らかに謳う古田氏のこのやり方は、その口先とは真逆である。

大宰府が畿内ヤマトにとって落とすべからざる枢要の地であるからこそ、至近に大野城、椽城、水城等を築き、護った。そして筑紫大宰を任じ派遣した。
2021年6月1日 23時32分

数十年来、九州各地の主な古墳群を巡ってきましたが、各地に古墳群が営まれています。九州北半で最有力なのは岩戸山古墳のある人形原古墳群。あと脊振山南麓や耳納連山北麓も有力な古墳群です。それらの古墳築造が、いちいち『日本書紀』に書かれてあるのか?天皇陵ですらほとんど書かれていない。
2021年6月1日 23時37分

長い期間に亘って古墳群が築かれたということは、在地の王権があったということでしょう。『日本書紀』に記載のない神籠石は在地の王権が造ったとみて何ら問題ないでしょう。例えば高良山神籠石、女山神籠石こそ、磐井の本貫である八女付近を南北から防衛する山城とも考えられます。
2021年6月1日 23時41分

八女人形原古墳群の時代的推移を見れば、西端の石人山古墳を恐らくは始祖として時代とともに東へ移動してゆき、山麓には巨大横穴式石室墳である童男山古墳が築造されます。ここが筑紫君の本拠地です。二つの神籠石は筑紫君や或は的(いくは)君ら在地王権が築造したものと考えるのが至当でしょう。
2021年6月1日 23時50分

何も九州王朝など想定しなくとも、盛んに古墳を築造し続けた在地王権が6~7世紀の半島情勢に対応して自前の山城を造った!そう考えて何も問題はないでしょう。
2021年6月1日 23時52分

同様の想像を巡らせれば、鹿毛馬神籠石は王塚古墳など装飾古墳郡を残した筑豊の王権、御所ヶ谷神籠石は御所山古墳や石塚山古墳など有力な畿内型古墳を築いた豊前の王権、帯隈山やおつぼ山は船塚、銚子塚、伊勢塚など築いた王権、雷山は二丈銚子塚や糸島の王権。無理なく説明が付きます。
2021年6月1日 23時55分

『失われた日本』末尾のp146に、「薩長史学」という言葉が出てきます。曰く、
ただひたすら「太宰府の地」中心の、一大山城群を、莫大なる労働力とはかり知れぬ経済力を投入して作りつづけたとは。

はい?大宰府至近に水城、大野城、基肄城を築かせたのは誰ですか?
2021年6月2日 10時9分

達率憶禮福留・達率四比福夫を遣わして造らせたと『書紀』に明記してあるでしょ?なぜそのことに「一言の言及もない」(p145)のでしょうか?
2021年6月2日 10時14分

p143の冒頭、「九州王朝の存在に対する、無二の物証がある」と。

それを言うなら水城、大野城、基肄城という大宰府至近の防衛施設をヤマトが造ったことこそ、大宰府がヤマトにとって防衛すべき枢要の地であった「無二の物証」と言えます。
2021年6月2日 10時19分

『日本書紀』を開いてみようとしない人は、古田氏の言ってることを〝なるほど〟と頷いてしまうのかも知れません。しかし、自分で『書紀』を開いて読んだ人は、その中に九州王朝が影も形も見えないことに戸惑うことでしょう。それだけではありません。水城、大野城、基肄城をヤマトが造ったと!
2021年6月2日 10時22分

ちょっと脇道に逸れます。古賀達也氏の「前畑土塁と水城の編年研究概況」はネットで公開されていますが、私が以前古賀氏に対して持っていたイメージからはやや外れているように思えました。2017年の稿ですが、古田氏ご存命ならば注意を受けたのでは?と想像したり、、、
2021年6月2日 10時30分

「おわりに」の、
そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。
は正直言って驚きです。氏の発掘調査の捉え方は、昔掲示板で専門の方から示された考え方に近いように見えます。
2021年6月2日 10時33分

古田氏に戻ります。p146
明治維新以降の、わが国の「薩長史学」の悪弊はここに極まる。そういって過言だろうか。この悪弊を一気に払い捨てざる限り、わが国に理性的な独創力の噴出はありえない。決してありえないのである。わたしはそう思う。

アジテーションですね。研究者の物言いとは思えません。
2021年6月2日 10時37分

数は少なくとも〝そうだ、そうだ!〟と同調する支持者が周りを取り囲んでくれればよかったんでしょう。いずれ新たな同調者も生まれる。

去っていく人もいれば、吸い込まれていく人もいる。
2021年6月2日 10時39分

繰り返します。水城、大野城、基肄城という大宰府至近の防衛施設をヤマトが造ったことこそ、大宰府がヤマトにとって防衛すべき枢要の地であった「無二の物証」と言えます。

古田氏は『書紀』のその記述を取り上げない。不拠記載、拠不記載。これが虚妄の古田7世紀史の根幹です!
2021年6月2日 10時48分

ちょっと横道。
『古代に真実を求めて 13集』p115-116 会場からの質問に答えて
それと「秦王国」問題については、ある時期取り組んだことがございます。わたしとしては結論が出ました。これも大きな見逃しがあった。〈続く〉
2021年6月2日 10時58分

それは『隋書』全体、とくに帝記を見ていますと、「○○秦王」がさかんに出てくる。これは何かと言いますと隋の天子の弟としての「秦王」です。『隋書』俀国伝だけを見ていると分かりませんが、『隋書』全体では「秦王」とは天子の弟をいう。

調べました。間違いでした。
2021年6月2日 11時1分

『隋書』文帝紀開皇元年(581)二月
【周氏諸王,盡降為公。辛未,以皇弟同安郡公爽為雍州牧。乙亥,封皇弟邵國公慧為滕王,同安公爽為衞王;皇子雁門公廣為晉王,俊為秦王,秀為越王,諒為漢王。】

ご覧のとおりです。皇弟や皇子を各地の王に封じたという話です。
2021年6月2日 11時5分

魏の武帝曹操も無くなる数年前に〝魏王〟に封じられてますよね。曹操の墓(高陵)からは「魏武王常所用挌虎大戟」と記された石牌が出ています。古田氏のこの発言は2005/7/30京都市商工会議所大ホールですので、曹操高陵発見の数年前のこと。
2021年6月2日 11時19分

2005年といえば、まだまだネット環境も十分発達していなかった時期。ただ、掲示板上で自分的に「漢籍電子文献」初出を調べてみたら、2004/9/11 23:18のrunsunnoleさん宛のレスでした。古田氏もネットを自在に使えていれば、より良い回答が出来たのかも知れません。
2021年6月2日 11時24分

その時のレス。
他トピで遊んでいたら、いきなりこちらへ話を振られて、どぎまぎしております、はい!
【西域之天竺,教胡。浮屠屬弟子別號,合有二十九,不能詳載,故略之如此。】
ですね。「台湾中央研究院漢籍電子文献」からコピーし、中華書局で修正しました。
〈続く〉
2021年6月2日 11時26分

すみませんが、あまり難しい話に引き込まないように宜しくお願いします。

タイトルは「浮屠屬弟子」でした。何の話だったかは完全に忘却の彼方に、、、
2021年6月2日 11時27分

前掲文の拙訳を。
周氏の諸王は盡く降(くだ)して公と為す。辛未,皇弟である同安郡公・爽を以て雍州牧と為す。乙亥,皇弟である邵國公・慧を封じて滕王と為し,同安公・爽を衞王と為す;皇子である雁門公・廣は晉王と為し,俊を秦王と為し,秀を越王と為し,諒を漢王と為す。

ご叱正賜らば幸甚の極。
2021年6月2日 11時35分

勿論、『隋書』のみならず、新旧『唐書』『宋史』『元史』『明史』にも「秦王」は多出します。『新唐書』には唐の太祖・李世民について【封世民為秦王】と記しています。

古田氏の「隋の天子の弟としての「秦王」です」などというのは完全な間違いの部類に含めていいでしょう。
2021年6月2日 11時43分

ついでに言うと、「秦王」に封じられた李世民は高祖・李淵の次男ですね。
2021年6月2日 11時45分

「神籠石の証明」を読んで、いろいろと驚かされましたが、その一に以下の文があります。p145
ところが一方、注目すべきは〝東方への警戒〟である。山口県の石城(いわき)山神籠石(熊毛郡大和町)がその最東端に当る。〈続く〉
2021年6月2日 14時29分

すなわち、先にのべた「継体と磐井との決裂」以後、かつての「分派」であった、近畿分流王朝(天皇家)側に対する「警戒」の姿勢も、十分にうかがえるのである。

この「継体と磐井との決裂」って何でしょう?「先にのべた」とあるので、この本の前の方で何か言ってるのかも知れませんが、
2021年6月2日 14時32分

第2書p318からは「磐井の「叛乱と滅亡」」という項を立てて延々と述べてますよね。
p338 磐井の滅亡、磐井の一族の多くは〝連座して斬られた〟ことを意味しよう。
p340 一王朝の全面的敗北、磐井王朝の滅亡、社謖の存亡
p344 磐井をたおしたのち
p345 これは実に磐井の滅亡、磐井の滅亡
2021年6月2日 14時39分

p351
『百済本記』は、「日本天皇及・・・・・・」という支配者層の潰滅を記録した。

「継体と磐井との決裂」って何でしょう?四半世紀経って所論を変更したのでしょうか?
2021年6月2日 14時41分

【決裂】切れ裂けること。特に、会談・交渉で双方の意見が対立し、物別れになること。

継体と磐井は「物別れにな」になったんですか?違うでしょ?磐井は死に、「磐井王朝」は「滅亡」した。
2021年6月2日 14時44分

勘ぐれば以下の通りかも。
「磐井王朝の滅亡」としてしまえば、早ければ6世紀中からとも見られている神籠石を築造する勢力が欠如してしまう。同頁から引きます。
2021年6月2日 14時47分

従ってこれら「神籠石」という名の山城群の構築にさいしては、おびただしい労働力の提供と経済力の支出を、築造者側が強いられたであろうこと、一点の疑いもない。

しかし、「磐井王朝の滅亡」としてしまえば、その「労働力」「経済力」についての説明が必要となる。
2021年6月2日 14時49分

だから、「滅亡」は取りやめて「決裂」とした。こうすることで、九州王朝の存続を言えるようになり、その九州王朝が「おびただしい労働力の提供と経済力の支出」をして、『日本書紀』に記されない神籠石群を築造させたのだ!という所見に結びつけることができる!
2021年6月2日 14時51分

『失われた日本』を読む人で、それから四半世紀前に出された『失われた九州王朝』にまで目の届いていない人は、この「決裂」について何の違和感も感じないでしょう。
2021年6月2日 14時54分

p144末尾に(「任那日本府」の滅亡は「五六二年」であった、と日本書紀は伝えている)と書いています。

え?と思いますよね。すんなりと『書紀』の記述を受け止めている!どうして?大野城、椽城、水城はヤマトが築造したんですよね?大宰府の至近に!
2021年6月2日 14時58分

まだ見落としがありました。p144中程、昨日引いた「はりねずみ」に続く文。
中でも、対馬(長崎県)の金田城が朝鮮海峡の真ん中におかれていることからも判明するように、「北」すなわち朝鮮半島側からの来襲と襲撃にそなえていることが明白だ。

はああああ?
2021年6月2日 15時2分

天智6年(667)11月 是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。

高安城、屋嶋城がどこにあるか言うまでもないでしょう。「倭國」の「倭」は〝ヤマト〟を表しているのは『書紀』の常例です。なんで天智朝にヤマトが金田城を造ったことに「一言の言及もない」(p145)んでしょうか?
2021年6月2日 15時6分

まさに「不拠記載、拠不記載」の極みです。
2021年6月2日 15時9分

それから「近畿分流王朝(天皇家)側に対する「警戒」の姿勢」です。天皇家を「警戒」していた九州王朝のその都の至近距離にヤマトが大野城、椽城、水城を築いた。ええ―っ(@_@;)

これって、どういう歴史観になるのやら~(-_-;)
2021年6月2日 15時21分

原田さん、ご教示ありがとうございますm(_ _)m
>九州王朝の権力は肥後が掌握した
歴史作家の方が向いてたかも知れませんね、古田氏は・・・。
2021年6月2日 15時22分

早速拝読します。
2021年6月2日 15時23分

古賀氏ももがいているように見えました。この稿は古田氏が亡くなる年(2015/10)の5月なんで、古田氏からの〝圧〟があったんでしょうか、、、

「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由

なんてのはどこに持っていっても通用しないでしょう。
2021年6月2日 15時33分

『三国史記』に見える于道朱君は熊本の宇土の君だ!ってのも昔あったような、、、どなたでしたっけ、、、

古田氏もどこかで言及されてるんでしょうね~ 博覧強記ですから、、、
2021年6月2日 15時47分

あ、これ持ってます!この頃はまだお財布も豊かでしたから(^^) 読了メモもマーカーもありませんので、多分未読かと(・_・;)
2021年6月2日 16時1分

じゃ、読むのやめときましょう(-.-) ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月2日 16時6分

しかし、たった4ページの「神籠石の証明」で、これだけツイートできるということは、コスパ最高ですね!

この『失われた日本』は2008/5/31に購入しています。この頃は一段とお財布がやつれ果てていましたので、かなりの英断を以て買い求めたんだと思います。結果、印税が古田氏の懐に、、、
2021年6月2日 16時15分

トンカラリンは古代史に関心を持ち始めた最初の頃、行きました。松本清張がしきりに喋ってましたから。あの隧道自体より、流れ落ちた底にあった横穴墓とか縄文遺跡に関心が。それとすぐ近くの江田船山古墳。石人などが粗末な木小屋に置かれてましたっけ、、、もう随分、訪れてませんが。
2021年6月2日 16時28分

鞠智、山鹿、玉名界隈で一番特筆すべき遺構は、石崖横穴墓ですね。長岩横穴群など圧巻でした。近くの台地上には、陪塚を伴った全長100m余の岩原二子塚古墳が優美な姿を横たえていて、、、畿内型の前方後円墳と横穴群との対照が印象的でした。
2021年6月2日 16時31分

6~7世紀の大宰府を首都とする九州王朝説に立つ方は、かなりいらっしゃると思いますが、彼らは『日本書紀』のことをどのように扱っているのか?どう捉えているのか?甚だ疑問に思うところです。
1.完全無視
2.完全否定
3.取捨選択
あたりでしょうか?
2021年6月2日 18時2分

忘れない内に。『古代に真実を求めて 13集』p32「二 古事記の撰録に於ける「削偽定実」の問題」の南朝・北朝の話。

冨谷至氏が『漢籍はおもしろい』の中で、『隋書』の「則魏志所謂邪馬臺者也」を引き、古田氏の「壹」を批判していることについて、古田氏は次のように述べます。
2021年6月2日 18時41分

ところが、これらは駄目なのです。反論をよせられただけでもありがたいですが。『隋書』『太平御覧』などは、これらは中国北朝の本です。これらに対して中国の南朝の本はどうか。『三国志』は「邪馬壹国」です。
2021年6月2日 18時44分

『三国志』が「中国の南朝の本」と言ってるわけですよね・どこからそういう発想が出てくるのか?陳壽は元康七年、洛陽で亡くなってるんですよね。洛陽を都とする王朝は北朝だと思うんですが、、、南朝の都は建業(建康)。
2021年6月2日 18時51分

続いて、例の〝臺=特殊貴字〟の話。この講演は2009/6/20大阪市東淀川人権文化センターですから、安本氏らから「京観」の例を指摘されたずっと後。どこかで反論済みなのか?それとも無視か?
2021年6月2日 18時56分

その後p34また、
このように南朝系列では「邪馬壹国」「邪馬臺国」はキチンと区別されて使われて読まれていた。

この部分の意味が分からない。南朝も北朝もないんです。「邪馬壹」は『三国志』にしか出てきません。薮田嘉一郎氏が言われた通り「天下の弧証」なんです、「邪馬壹」は。

2021年6月2日 19時3分

藪田氏の出典:『歴史と人物 昭和50年9月号』p43~

古田氏は藪田氏への反論を書いていますが、この「天下の弧証」の意味を歪めて受け止め、それに対する反論を行っているのです。
2021年6月2日 19時6分

南朝・北朝の話に戻ります。『失われた日本』p153で、南北朝時代、卑弥呼以来の「倭国」は「南朝」を宗主国とした、と。南朝最後の陳は北朝系の隋に滅ぼされた。「倭国」はその隋朝と国交を求めた。

ところが「倭国」の宗主国の「北朝」はすでにない。
2021年6月2日 19時11分

「倭国」が正当の天子と信じてきた、当の天子は消え去ったのである。それに代って「倭国の王者」としての多利思北孤は「日出処の天子」を称したのであった。すなわち、「亡びた、南朝の天子の後継者」を自称したのである。
2021年6月2日 19時13分

ところが「倭国」の宗主国の「北朝」はすでにない。

の「北朝」は「南朝」の間違いですよね?「亡びた、南朝の天子の後継者」と言ってるわけですから。

それとも古田氏にあっては、なにか深~い意味があるのかしらん、、、
2021年6月2日 19時15分

第3書『盗まれた神話』p3で、古田氏は以下のように述べます。

〝原文の一字一句もみだりに改変せず、『三国志』全体の表記のルールに従って倭人伝を読む〟

『失われた日本』のこの「北朝」も「原文の一字一句もみだりに改変せず」読んだら、どんな文意になるんでしょうか?
2021年6月2日 19時20分

p154以降、第2書と対して変わらない内容で話が進みます。ただ、ここでも「薩長史学」が。すごいレッテル貼りです。次ページでは筑紫都督府を取り上げます。倭の五王の冠号に都督が含まれていることを強調。2世紀前の古証文。
2021年6月2日 19時26分

筑紫都督府が出てくるのは天智6年(667)11月。【送大山下境部連石積等於筑紫都督府】。境部連石積はヤマト側の人。この前後で多出する筑紫大宰、筑紫率をどのように理解するんでしょうか?古田氏は、、、しかも彼らはヤマトから任命され派遣された。どこに九州王朝の姿があるんでしょう?皆無です。
2021年6月2日 19時31分

>南朝宋の裴松之が注を付けた事から
なるほど、一案ですね。『北史』『南史』は対象を南北朝に置いてるんですが、倭(国)はどちらにも出てきますね。というか『梁書』倭伝は分割されて南北どちらにも記載されています。三韓諸国も双方に取り上げてありますので、どっち系の本という捉え方が?かも。
2021年6月2日 22時16分

『失われた日本』p177からは「第九章 不動のO・Nライン 旧唐書と新唐書」というタイトルで10頁程。面白そうなんで読んでみましょう。
p189によれば、「O・N」とは「オールド倭国とニュー日本国」の略だそうで、、、(-.-)
2021年6月2日 22時23分

とにかく古田氏は自身の基本命題に沿った解釈を貫徹しようとしますから、客観的事実より、自分に利する思いつきでものを言ってしまうようですね。

すべての資料は我が真実の方を向いている!みたいな、、、
2021年6月2日 22時50分

ん?p186に「多利思比(あるいは北)孤」と!心境の変化でしょうか?ずっと「多利思北孤」で通してきたはずですが、、、『新唐書』の「目多利思比孤」を取り扱う手前、そんな表現にしたのかも、、、

しかし「目」が「代理」とは笑いますね。
2021年6月2日 22時55分

『唐類函所引通典』日多利思比狐
『宋史』自多利思比狐
の「日」「自」はどういう意味でしょうかねぇ、、、
2021年6月2日 22時56分

冒頭p179
近畿天皇家の淵源は、悠遠なるいにしえなどではない。八世紀のはじめの『七〇一年』以降である。それ以前は、『倭国』すなわち九州王朝の一分派、いわば〝一の家来〟であった。

妄想の押し売りはご遠慮下さい!7世紀、大業、貞観、顕慶、咸亨の遣使は『書紀』と合致します。九州王朝は?
2021年6月2日 23時11分

白雉5年(654)2月 高向史玄理らの遣使は「或本云、夏五月遣」として途中「留連數月」し、【遂到于京奉覲天子】とあります。この時の遣使については『唐會要』倭国伝に永徽5年(654)12月のこととして記載されています。

この時の遣使について、九州王朝の記録には残ってますでしょうか?
2021年6月2日 23時20分

〝一の家来〟だから大野城、椽城、水城を、「警戒」の姿勢を持ちつつ、近畿天皇家に首都太宰府の至近に造らせた?

言ってることが無理筋だってフツーの人なら分かります。
2021年6月2日 23時25分

同頁、
世界史全体の視点からは、別段不思議とも言えぬ命題ではあるけれど、〈以下略〉

はあ?今度は「世界史」?いつから古田氏は世界史も掌中に収めたんですか?
2021年6月2日 23時27分

p180
先ず、旧唐書についてのべよう。
そこには「倭国伝」と「日本国伝」の両伝が併置(へいち)されている。両国は別国である。

この10頁ほどの文中に、やはり『通典』は出てきません。余程『通典』を毛嫌いしているのか?『通典』を知らないはずはありません。
2021年6月2日 23時34分

まずは『邪馬臺国の常識』「邪馬壹国の史料批判」の中で、次に『続・邪馬台国のすべて』「邪馬台国論争は終わった」の中で、それぞれ『通典』から引例しています。

ところが後者で失態を演じます。
2021年6月2日 23時36分

p69
会場からの質問:『隋書』に〝『魏志』のいわゆる邪馬臺〟とあるんですが、これはどうお考えでしょうか。

これに対し古田氏は、
一言にしていえば、唐宋代においては、古代史書を〝手直し〟して、それを〝『魏志』に曰く〟といった形で載せるという習慣が一般に行われていたのです。〈続く〉
2021年6月2日 23時40分

一例をあげますと、南史で発見したんですが『三国志』倭人伝を引きながら〈以下略〉
『通典』では後漢書倭伝の〈以下略〉

古田氏は〝『魏志』に曰く〟の例として『南史』『通典』を引き合いに出しました。ところが、、、
2021年6月2日 23時42分

先ず、古田氏が「南史」と言ったのは『北史』の誤。肝心なのは、『南史』『通典』ともに『魏志』に曰く〟として引いていないということ。

会場からの質問は、引書名を明記している場合についての所見についてだったのに、古田氏の回答は、引書名の〝無い〟事例だったのです。
2021年6月2日 23時45分

引書名がない場合は引用者の一存で字句等に改変を加えることもあるでしょうが、『隋書』の場合は「魏志所謂」と明記してあります。訳知りの質問者なら直ぐに古田氏の〝質〟を見抜いて失望したのではないかと推察します。
2021年6月2日 23時48分

『邪馬臺国の常識』「邪馬壹国の史料批判」の中で引いた『通典』の話も、噴飯もの。是非、お読みいただきたいところです。

川村明氏が既に指摘されているように、どうやら古田氏にとって『通典』は鬼門だったようです。
2021年6月2日 23時50分

その『通典』には何と書いてあるか?【倭一名日本】。

古田氏の方法 ご都合主義の典型
古田氏の言を借りれば、『通典』こそ「中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた。その報告にもとづく第一史料」ではないのか。
2021年6月2日 23時52分

昨日、
古田氏が「南史」と言ったのは『北史』の誤
と言ったことについて、もう少し解説。『続・邪馬台国のすべて』p69

『三国志』倭人伝を引きながら、「韓国を歴(ふ)るに」を「朝鮮国を歴るに」と直し、

※s52.1.4 NHKスタジオ102で発表
2021年6月3日 8時52分

これは『三国志』倭人伝から引いているんではないんですよね。『梁書』倭伝からです。文の対校をやってみればすぐ分かります。そう言えば古田氏は『梁書』もほどんど用いませんでしたね。というか、用いているケースが俄には思い出せません。『梁書』はもちろん「祁馬臺」ですからね。
2021年6月3日 8時55分

『梁書』倭伝に深入りすれば話の脱線が長くなるので、戻ります。

『梁書』は当然、南朝の歴史書ですから、『南史』に載せてもいいようなもんですが、どういうわけかこの部分は『北史』に乗せています。【其官有伊支馬次曰弥馬獲支次曰奴往鞮】の部分は『南史』に引いてあります。
2021年6月3日 9時1分

古田氏が言及した「韓国を歴(ふ)るに」を「朝鮮国を歴るに」と直し、という部分は『梁書』から(参照の形で)引いて、とすれば概ね妥当だったかも。ただ、会場からの質問者の〝『魏志』のいわゆる邪馬臺〟への回答となっていない点については変わりません。
2021年6月3日 9時5分

『失われた日本』の話に戻ります。定番の『旧唐書』によって第2書以来の持論を繰り返しています。p181に、白村江について所見を述べていますので引いてみます。
2021年6月3日 9時11分

日本国側、すなわち近畿天皇家は白村江の戦において、「前途」を予見し中立的立場をとったように見える。近畿天皇家の中心人物(斉明天皇、中大兄皇子(天智)・大海(あま)人皇子(天武)・広野姫皇后(持統)・中臣〈藤原〉鎌足等)中、誰一人として戦死したり国で永き捕囚の身に陥った人々を見ないのである。
2021年6月3日 9時29分

※文字数節約のため記号等を節略

「中立的立場をとったように見える」って何を言ってんの!?でしかありません。マジ『日本書紀』読んでないんでしょうか?それとも読者は読まないだろうと踏んでいるのか?
2021年6月3日 9時40分

「近畿天皇家の中心人物」が前線へ出向くことなどあり得ない。秀吉の朝鮮出兵の際も秀吉は名護屋城にいて渡海したのは加藤清正ら有力武将たち。斉明天皇は百濟滅亡(660)の翌年、斉明7年(661)5月、朝倉橘廣庭宮に遷居していますよね。7月崩御。皇太子はより港に近い長津宮に遷居。
2021年6月3日 10時19分

白村江の直前、天智2年(663)3月には
遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅。
と『書紀』にあります。彼らは九州王朝の武将たちだったんでしょうか?違うでしょ?ヤマトの武将たち。
2021年6月3日 10時22分

同年8月条には「今聞、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘」とも。「救將」とは救援軍の将という意味でしょう。廬原君臣とは「駿河国の廬原国造の国造一族」とWikiに出ています。九州王朝の将軍などでは無さそうです。
2021年6月3日 10時25分

古田氏が「近畿天皇家の中心人物」などと言うのは、恐らく筑紫君薩野馬(薩夜馬)が九州王朝の天子などと〝決め込んでいる〟からでしょう。天智10年(671)11月、唐から対馬へ来る。対馬国司に郭務悰等の到ることを告げます。この時の筑紫大宰は同年6月任じられた栗隈王。
2021年6月3日 10時33分

筑紫の朝倉にいたとされる斉明天皇の死を奇貨(思いがけぬ好機)として、中大兄皇子たちは、その「喪」に服する、との名分によって兵を引き上げた旨、風土記に伝えられている(備中国風土記、邇磨(にま)郷)

同風土記邇磨郷開きましたが、「兵を引き上げた」とは書いてないですね。
2021年6月3日 10時40分

朝日新聞社『日本古典全書 風土記 下』p302ですが、「終(つひ)に此の軍を遣(や)らざりき」で「引き上げた」ではありません。異文でもあれば別ですが、、、

皇太子(天智)は660には「初造漏剋」とありますから飛鳥にいたんでしょう。翌年斉明崩御後長津宮に遷居しますから、この間のことか。
2021年6月3日 10時54分

細かいことですが、古田氏が「百済は即時に滅亡(六六三)」と書きますが、百済滅亡は660。古田氏が九州王朝の史書かと言う「日本世記」斉明6年(660)7月「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之」とありますし、古田氏の好きな『旧唐書』にも義慈王らが長安に連れ去られ、義慈王は数日で卒。
2021年6月3日 11時4分

それから663までの間は百済復興運動。豐璋を百濟王に立てて再興を目指しますが、佐平福信らとの確執と白村江の敗戦もあり、豐璋は高麗へ船で逃げ去ります。なんてことが、『日本書紀』にはるる書かれてあります。
2021年6月3日 11時13分

古田氏の好きな『旧唐書』から。
劉仁軌伝顕慶5年(660) 【時蘇定方 既平百濟,留郎將劉仁願於百濟府城鎮守】
2021年6月3日 11時20分

『失われた日本』p182
そのような「唐王朝と戦わなかった」近畿天皇家

『日本書紀』の記述に反します。平気でこんなこと言うのは、自説の正当化のためなら何を言っても許される!という信念があるんでしょうね。
2021年6月3日 11時29分

あれ?古田氏が九州王朝の史書かと言う「日本世記」ってのは「日本旧記」だったっけ?要確認に付き保留(・_・;)
2021年6月3日 11時47分

『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』p81に、『日本旧記』『日本世記』を取り上げて、
〝これら二書が上進(2字傍点)された公権力、それは近畿天皇家ではなかったのではないか〟と。

やっぱり九州王朝の史書と見ているよう。この本もネタ満載のようで、巣籠り中の楽しみとしてチェック!
2021年6月3日 11時59分

同頁に引かれているように、道顯は高麗の僧。そのうえで古田氏は、
公権力が編成せしめたもの、であるのがもっとも普通のケースであり、もしそうでなくとも完成後には、公権力に上進(2字傍点)されたもの、そう考えるのが筋だ。

聞いたような理路ですね。自分で「筋」を設定して、そうでないから云々。
2021年6月3日 14時25分

道顯の『日本世記』には福信について言及していますが、福信といえば豐璋が出てくるわけで、豐璋は百済からの人質として孝徳朝には来ていたわけですから、九州王朝の話ではありえないでしょう。
2021年6月3日 14時39分

またまた話を『失われた日本』へ戻します。p182には「則天武后の証言」とやらを繰り出します。次頁には「阿倍仲麻呂の証言」。読んでも、だから何?としか言いようがありません。高宗(在位649-683)が病弱だったから則天武后が実験を握っていた云々。
2021年6月3日 14時45分

高宗の在位期間中の顕慶、咸亨の遣使は『書紀』に該当する記事が見えます。

九州王朝さんにはそんな記録は存在しないでしょう。特に顕慶の際は日付入りの伊吉連博德書が引用されており、天子に謁見しているわけです。詳細は斉明5年(659) 7月条を。

古田氏のことだから「伊吉連」は九州王朝!かも。
2021年6月3日 14時55分

p183
とすれば、旧唐書の右の「倭国と日本国との関係」の史実に関し、唐朝の記録官がその記述を行うさい、上級官僚たる彼、この「元日本国大使」に確認を求めなかったことなど、およそ考え難い。(hy注:彼は阿部仲麻呂)

そんなごちゃごちゃ言ったって実際に『書紀』と「唐會要』との記録は合致。
2021年6月3日 15時1分

同頁
しかし、この百三十年間、否、この千三百年間、わが国の人々は知識人も民衆も、共に、「暴虎馮河の迷路」のさ中にただよってきた。遺憾ながら、わたしの理性とわたしの「目」にはそのように見えている。他の理路を見出すことが全くできないのである。

〝邪馬壹高校に入る〟かも(+_+;)
2021年6月3日 15時23分

p184、「次は、新唐書の番だ。」待ってました(^^)v

またぞろ能書きに1頁を割く。紹煕本、紹興本の際も、能書き頻りでしたよね。次頁の次の文がよく分からない。
2021年6月3日 15時32分

新唐書では旧唐書と異なり、日本伝一つしかない。これは、右のような本書の成立の経緯から見れば当然だ。なぜなら、唐の後半期、すでに「倭国」は滅亡し、存在していないからである。

『旧唐書』は唐滅亡後の945成立。「すでに「倭国」は滅亡し、存在していない」のは両者同じ。別の文意でも?
2021年6月3日 15時35分

『新唐書』百済伝から2条引いています。
(一)(百済)、高麗・倭(傍点)と連和す。
(二)(百済の偽王子)残衆及び倭人(2字傍点)を率いて命を請う(降伏)。

原文は
(一)【福信顓國,謀殺豐,豐率親信斬福信,與高麗、 倭連和。】
(二)【偽王子扶餘忠勝、忠志率殘眾及 倭 人請命,諸城皆復。】
2021年6月3日 16時4分

「謀殺豐」「斬福信」「與高麗、 倭連和」は天智元年(662)3月~6月の記事に相応していると言っていいでしょう。天智3年(664)3月には「以百濟王善光王等、居于難波。」とありますから、亡命したということですね。善光王は豐璋の弟になります。
2021年6月3日 16時17分

古田氏が挙げた「倭」の2例は、ヤマトの話として理解して問題はありません。それより、『新唐書』日本伝には『旧唐書』に無かった咸亨の遣使が書かれてあります。『唐會要』によれば、もちろん倭からの遣使。つまり九州王朝からということになるはずなんですが、、、
2021年6月3日 16時22分

それより難解なのは、p187の、
第二、この「阿毎」家の三十二代に至って分流が生じ、東の「大和州」に移ってその地に割拠した。これが近畿天皇家の萌芽である。初代は神武天皇。もちろん、この名称は後世(九~十世紀)の命名である。

『新唐書』から引きます。
2021年6月3日 16時27分

【王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」為號,居筑紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」為號,徙治大和州。】

「分流が生じ」ってのは、どの部分からの理解なんでしょうか?神武が立ち、大和州に徙(うつ)って治めた。神武東征、そのまんまじゃないですか!
2021年6月3日 16時29分

神武以後、歴代の分流の豪族の名前を記している。

え?「豪族」?まぼろしの九州王朝から見て「豪族」なのかな?【更以天皇為號】だから、ちゃんと「天皇」と呼ぶべきでしょ?
2021年6月3日 16時37分

同頁。
この分流豪族は「六〇〇年」頃、はじめて(4字傍点)中国(隋王朝)と接触した。〝外交〟交渉をもったのである。

はて?600年は開皇20年。九州王朝の多利思北孤の遣使年次だけど?と戸惑ったら、続けて例の「目多利思比孤」が登場!
2021年6月3日 16時42分

連続ツイート「虚妄の古田7世紀史」という外題で芝居小屋に懸けて木戸銭頂戴というわけにはいかないかぁ、、、(・_・;)

道楽じゃないと、こんなことやってられない!
2021年6月3日 16時44分

そのさい、本家の「倭国(九州王朝)」の王者(「天子」を自称した)は「多利思比(あるいは北)孤」であった。その「多利思比孤の代理(『目多利思比孤』)」を称して、中国と国交を求めてきた、という。(「目」は「目代」、代理)。

相手にする歴史学者はいないでしょう。
2021年6月3日 16時50分

他の文献に見える「自多利思比狐」「日多利思比狐」はどういう意味かしらん、、、

道楽とはいえアホくささに耐えるのはある意味修行かも。
2021年6月3日 16時55分

第2書p278からの「『隋書』俀国伝の示すもの」で、古田氏は開皇20年の遣使について「俀王は明らかに男帝だ。妻を持ち、後宮の女を六、七百人もかかえているのだから。」と。

この件と珍案「目多利思比孤」の代理とを兼ねると、遣使の主体は九州王朝で、代理として畿内から目多利思比孤が派遣された?
2021年6月3日 17時1分

ほんとに学者研究者は相手にしないと思う。恐らく古田氏のこんな主張読んで一言、、、〝アホクサ〟
2021年6月3日 17時3分

既に川村明氏が仰ってたと記憶していますが、『通典』から引きます。

【開皇二十年倭王姓阿毎名目多利思比狐其国号阿輩雞彌遣使詣闕】

ここにも「目多利思比孤」が。しかし代理ではありません。倭王です。やはり古田氏にとって『通典』は鬼門のようで、、、
2021年6月3日 17時6分

古田氏の言を借りれば、『通典』こそ「中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた。その報告にもとづく第一史料」ではないのか。しかも、『旧唐書』より1世紀半早く、『新唐書』より2世紀早い。

古いほうが間違っている!とでもしなければ破綻必至!
2021年6月3日 17時11分

でも、そんなこと言うと、古田氏にとっての〝1丁目1番地〟である「邪馬壹国」論が成り立たなくなる。

さあ、どうしましょう。『通典』など知らない!とする他には、、、
2021年6月3日 17時14分

『新唐書』日本伝に開皇20年、はじめて国交を結んだとある。しかし開皇20年は九州王朝多利思北孤の遣使であるはず。双方を成り立たせるには、そうだ!「目」多利思比孤は多利思比孤の代理ということにしよう!

そういう解決策を思いついたんですよね。
2021年6月3日 17時17分

しかしせっかくの解決策も『通典』一つであっけなくボツ!

しかし、話はまだまだ続きます。p188
以上で明白なように、新唐書の日本伝の目的は、旧唐書の倭国伝・日本国伝の歴史認識を否定するものではない。逆だ。肯定し、補強するものである。

イミフ。
2021年6月3日 17時53分

更にイミフ。
疑いようもなく、西日本に「旧倭国」と「新日本国」の両国が〝時代別〟に相ついで存在したことを述べているのである。そして前者(倭国)が本家であり、後者(日本国)は本来、その分家であったことがのべられている。
2021年6月3日 18時1分

そのうえ、「七〇一年」に、分家が本家を「併呑」
したことがのべられている。

『旧唐書』倭国伝の冒頭は【倭国者古倭奴国也】。『新唐書』日本国伝は【日本古倭奴也】。ほぼ同意。古田氏の言うように『新唐書』の目的が『旧唐書』の歴史認識を肯定補強するものとしたら、倭国と日本国は同じもの。
2021年6月3日 18時8分

【日本舊小國併倭國之地】と【日本乃小國爲倭所并】とは主客逆だと思うんですが、、、前者は倭国の地を併せた、後者は倭の併すところとなった。どっちがどっちを併呑したのか?多分、第2書でも取り上げてるだろうから読み返し。
2021年6月3日 18時12分

そもそも『新唐書』日本伝には、神武以来の皇統が記され、その神武が大和州に移ったというのですから、ここで言われる「日本」とは大和州のことなんですよね?初めの方には、東西五月行南北三月行とか官位十二階とか『隋書』から採ったとしか思えない記述が。
2021年6月3日 18時18分

これらの記述にできるだけ整合性を求めるとすれば、『隋書』に書かれてある俀国も大和州のことと考えるのが一等だと思いますが、、、裴世清や高表仁もヤマトに来訪しているわけだし、、、
2021年6月3日 18時20分

p188-189では「評制」について騒いでいますが、なんだろ?
あたかも、七世紀中葉(六四五)から「郡制」であるかのように〝うそ〟をついた。虚言をもって歴史をおおい、あたかも自家が〝永遠のいにしえから〟中心の王者であったかのように、国民をあざむこうとした。
2021年6月3日 18時25分

そしてそれは実に千三百年間、成功を収めてきたのである。

これは何のアジテーションなんでしょうか?学者研究者は〝引く〟どころか逃げ出すでしょう。触らぬナントカに祟りなしって、、、
2021年6月3日 18時26分

早く評制は成立していたのに『書紀』が七世紀中葉から隠していたって?

そんなもん、日本だの天皇だの、全然無かった時代から『書紀』では用いられてるんですから、騒ぐ理由が分からない。騒いで目立とうとしてたんでしょうか?
2021年6月3日 18時29分

「超歴史主義ともいうべき信仰が各問に優越した」と。

それを言うなら古田氏自身のことでしょ?古田史学というのは〝虚歴史主義〟で寸言を以て言えば「不拠記載、拠不記載」の極みなのです。

九州のどこに、九州王朝天子の足跡が残されていますか?
2021年6月3日 18時34分

特に隋唐代、中国と通好した九州王朝の確固たる痕跡はどこにありますか?

太宰府ですか?ヤマトから人が来て築造された大野城、椽城、水城に囲まれ、ヤマトから筑紫大宰が任命派遣された太宰府が首都ですか?
2021年6月3日 18時36分

せっかく『新唐書』記載の皇統について言及したのでついでに、、、その皇統の最後は古田氏がp188で書いているように光孝天皇(在位884-887)。この時は既に遣唐使が廃止された後。するとこの皇統を伝えたのは誰か?『宋史』日本伝に詳しく書かれてあります。
2021年6月3日 18時46分

【雍熙元年,日本國僧奝然 與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,并本國職員今、王年代紀各一卷。 】
北宋第二代太宗の雍熙元年(984)、日本国の僧・奝然が「王年代紀」をもたらします。ただし、「王年代紀」には『新唐書』の皇統よりも後の天皇まで含まれていますので、疑問も。
2021年6月3日 18時50分

時系列を抑えておきます。『旧唐書』成立は945。奝然入宋は984。『新唐書』は1060。『旧唐書』に皇統が見えず、『新唐書』に見える時系列的裏付けは得られると思います。内容の違いから、奝然より先に類似の皇統を伝えた人がいた可能性は当然あるでしょう。しかしそれは『旧唐書』には反映されず。
2021年6月3日 18時54分

『元史』にも奝然入宋は記されますが「王年代紀」の内容、つまり皇統は書かれてありません。

この件についてネット上で見かけましたのでご参考までに。
「王年代紀」に基づく新唐書日本伝と宋史日本国伝との比較.pdf
他にも参考サイトはありそうです。
2021年6月3日 19時0分

独自史料が無い『新唐書』の日本記事: 河内春人「『新唐書』日本伝の成立」
も興味深そう。
2021年6月3日 19時2分

p189 気分が高揚しているみたいです。
真理の光の中で、ある日突如崩壊する、その運命をまぬかれることはついに不可能なのである、あのベルリンの壁のごとく。

古田氏は「ベルリンの壁」が「ある日突如崩壊」したと思ってる?ヨーロッパピクニック計画、ポジュガイ、ネーメトも恐らく知らないのでは?
2021年6月3日 19時6分

『失われた日本』をパラパラめくっていたらp214に、シュリーマンの話が。「イーリアス」「オデュッセイア」はギリシャ人が書いたギリシャの歴史。

安本氏の言:シュリーマンと同じように信ずるとすれば、それは、むしろ、『古事記』『日本書紀』などの国内資料の記すところということになろう。
2021年6月3日 19時19分

『日本書紀』を偽書呼ばわりする人がシュリーマンを引き合いに出すのはご都合主義。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1679.html
2021年6月3日 19時21分

本日付の非常に興味深いブログ記事発見!
盟友も撤退し、聖徳太子虚構説は終わった:吉田一彦「文明としての仏教受容」

メモランダムとして、、、
2021年6月3日 22時25分

読み返してみると、急ぎ働き故、タイプミスに誤変換多出!心得のある方には適宜正しく読み替えていただくよう伏してお願い申し上げる次第にございます<(_ _)>
2021年6月3日 22時44分

日中少し触れた『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』p279から「第五部 白村江の戦と九州王朝の滅亡」が面白そうなので、久しぶりに再読。

そろそろ図書館も再開しそうなので、また借りてこなくちゃ!
2021年6月3日 22時50分

p284から「白江の戦」。『旧唐書』百済伝から顕慶5年(660)、龍朔2年(662、7月、扶余豊)、同年「白江之口に遇い四戦皆捷(か)つ」、麟徳2年の年次4個を列挙。次頁「顕慶五年という「白江の戦の二年前」と書いてます。

え?白村江は663年ですよね?『書紀』でも天智2年(663)8月条に記載が。
2021年6月3日 23時33分

こういう件を目にすると若干めまいが、、、そこで百済伝を見てみると、確かに龍朔2年条から年次を変えずに【白江之口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,賊眾大潰,扶餘豐脫身而走】と。龍朔2年は確かに662。しかし扶余豊が福信を殺したのが663年で、その後に白江の戦があるわけですから、当然663年のはず。
2021年6月3日 23時41分

よくよく見ると、百済伝伝中の当該箇所に【時福信既專其兵權】とあり、この「時」がひょっとしたら臭い?訳すと〝時に〟で、受け取り様では〝さて〟的に文節の区切りとして解釈するのかも。

古田氏は「けれども、問題の龍朔二年(六六二)七月の項には、「白江之戦」については、何一つ記載がない。」
2021年6月3日 23時51分

「記載が」があったら大変!古田氏は明らかに白村江の戦いを662年だと勘違いしてますよね。文脈から言えば誤読はあり得るかも知れませんが、白村江が663年というのは学校でも教わったはず。

p298からは「第二章 『日本書紀』の側から」が。なんか不安になってきた、、、
2021年6月3日 23時55分

昨夜のショックがまだ尾を引いていて、、、古田氏が白村江の戦い663年を662年と勘違いしている点、、、

それとも白村江の戦いは662年だと、どこかで既に氏なりの論証をしているんでしょうか?
2021年6月4日 10時48分

『古代は輝いていたⅢ』p285
けれども、問題の龍朔二年(六六二)七月の項には、「白江之戦」については、何一つ記載がない。
に続けて、
他にあらず、こと(2字傍点)は、本質的に、右の(イ)(ロ)の事件であり、顕慶五年という「白江の戦の二年前」に、既に、集結していたのである。
2021年6月4日 10時57分

原田さん、おはようございます。
>『旧唐書』には662年だと書いてあるから『日本書紀』で663年となっているのは年次をごまかしたものだと唱えておられました
え!?やっぱりそうですか!それは色んな意味で〝大問題〟かも(~_~;)
2021年6月4日 10時59分

原田さんからのご教示がありましたので、この件について『書紀』に拠らずに調べてみたいと思います。果たしてなにかの成果を得ることができるのかどうか?我ながらつくづく道楽者の性を痛感しております(ー_ー;)
2021年6月4日 11時11分

いろいろ調べてますが、ふと思ったのは、『日本書紀』編纂は720で白村江から半世紀余り。一方『舊唐書』は945成立で白村江から300年近く。

古田氏はこう仰ってます。
中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。中国の史書の多くは、当時の倭国との同時代史料だ。〈続く〉
2021年6月4日 13時6分

しかも、倭国の中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた。その報告にもとづく第一史料、それによったのが中国史書である。これに対し、日本の史書ははるか後代(八世紀)に成立した後代史書だ。だから、同時代史料を根本とし、それを基準尺として後代史料を見る。〈続く〉
2021年6月4日 13時7分

これが史料操作の原則だ。断じてその逆ではない。
(『失われた九州王朝』p3)

白村江の戦いから半世紀余、直接参加した日本側の記録である『日本書紀』と、はるか後世に成立した『舊唐書』の記載のいずれかを尊重すべきかは、上述古田氏の言によれば明白です。
2021年6月4日 13時11分

「中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。」のはずですよね。

古田氏のことですから、あるいはこのような指摘も想定して、いずれかで所見を述べているかも知れません。
2021年6月4日 13時12分

『新唐書』高宗紀
龍朔三年(663)九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。
『日本書紀』
天智二年(663)九月丁巳百濟州柔城、始降於唐。是時、國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日
2021年6月4日 16時37分

『書紀』は白村江の戦を8月条に記していますが、「州柔城、始降於唐」を以て白村江の敗戦確定と見るならば、『新唐書』の「九月」条表記も許容の範囲内といえるでしょう。

『舊唐書』高宗紀にはこの一条が欠けています。八月の【癸卯,彗星見於左攝提】は『新唐書』に【癸卯,有彗星出于左攝提】と。
2021年6月4日 16時40分

古田氏なら、『新唐書』は『舊唐書』の後代史料だから不可!と言いそうですが、、、

しかし、古田氏の第2書での〝宣言〟に基づくならば、『書紀』は白村江のほぼ半世紀後。同時代史料と言っていいでしょう。

もう少し脇を固める史料がないか探してみましょう。
2021年6月4日 16時46分

『冊府元亀』巻三六六将帥部機略六
劉仁軌龍朔三年為帶方州刺史與熊津道行軍總管右威衛將軍孫仁師熊津都督劉仁願大破百濟餘眾及賊於白江

「龍朔三年」で663年。ただ、『冊府元亀』のこの文の出自が不明なので要調査!
2021年6月4日 17時22分

『舊唐書』945
『冊府元亀』1013
『新唐書』1060
仮に『冊府元亀』と『新唐書』に類似した記述があり、それが『舊唐書』とあまりよく合致しないとしたら、『冊府元亀』成文には何かしら別の『唐書』類が関わっている可能性も、、、
2021年6月4日 22時33分

とりあえずひとつ結果が。
『舊唐書』百濟伝>『新唐書』百濟伝(龍朔二年七月以降)
『舊唐書』劉仁軌伝≒『冊府元亀』将帥部機略六
ということは『新唐書』はダイジェスト、『冊府元亀』はほぼ『舊唐書』かその前身をソースにしている?

※これ以上は専門家のお仕事かと(ー_ー;)
2021年6月4日 23時2分

『冊府元亀』と『日本書紀』のコラボで、やはり龍朔三年、天智二年(663)で宜しい!ということではないかと。

元のレールに戻ることにしましょう。
2021年6月4日 23時4分

しかし、もっと単純な史料的根拠で663年が正!みたいな気がしますが、、、夢で正解に出会えるかも(^^;)
2021年6月4日 23時8分

ん?高句驪の滅亡を見てみればいいんだ。
『日本書紀』天智7年(668)10月【大唐大將軍英公、打滅高麗。】(英公は李勣)
『舊唐書』高麗伝 總章元年(668)【十一月,拔平壤城】
1月違いますけど同年。白村江から5年か6年かの時点ですから、ここで『書紀』の1年のズレを想定するのは無理筋でしょう。
2021年6月4日 23時32分

一難去ってまた一難!『古代は輝いていたⅢ』p285
そして〝叛徒を支援した、高句麗は新羅に、倭国は日本によって(9字傍点)、滅ぼされ、併呑され、消滅した〟(後述)。
またまた目眩が起きそう(@_@;) 高句麗は新羅に滅ぼされたんでしたっけ?新旧『唐書』新羅伝見ても、そんなことは一言も、、、
2021年6月4日 23時36分

(後述)と書いてありますので、またぞろ何かケッタイな珍案特許のご登場なのかな?頁をめくりたいような、めくりたくないような、、、
2021年6月4日 23時38分

(後述)は明日のお楽しみということで、『舊唐書』李勣伝を。
【總章元年〈中略〉勣又引兵圍平壤,遼東道副大總管劉仁軌、郝處俊、將軍薛仁貴並會於平壤,掎角圍之。經月餘,克其城,虜其王高藏及男建、男產,裂其諸城,並為州縣,振旅而旋。】
李勣伝には一切、「新羅」が出てきません。
2021年6月4日 23時46分

参考になります。ざっとした印象なんですが、『旧唐書』には「別種」表現がやや多いような気がします。ただし、こういう傾向は唐代から見られるらしく、古くは『魏志』高句麗伝にも見えますので、「五代十国期」に急に出てきたわけでも無さそうで、、、たった2文字ですがこだわると難しい(・_・;)
2021年6月5日 9時55分

p286「倭国の正体」
なおそのさい『宋書』『南斉書』『梁書』に書かれた゜倭の五王」については、慎重にカットしている。これは、北朝系の唐にとって「逆賊」であった南朝への貢献について、明記するのを避けたのだ。ただ、その事実そのものは認めている。「世〻中国と通ず」とあるのがそれだ。
2021年6月5日 10時12分

こういう表現を読むと、この人大丈夫だろうか?と不安になってきます。『旧唐書』は唐滅亡後の五代晋の時、書かれたもの。「唐にとって「逆賊」」は関係ないんじゃ?だって、唐代成立の『梁書』『南史』『通典』には、ちゃんと「倭の五王」は出てます。
2021年6月5日 10時20分

また、『隋書』にも「倭の五王」に直接触れてはいませんが、『旧唐書』の【世與中國通】より詳しく、【自魏至于齊梁代與中國相通】と南朝と通好したことが書かれてあります。

これは、北朝系の唐にとって「逆賊」であった南朝への貢献について、明記するのを避けたのだ。

というのは、外れ!
2021年6月5日 10時26分

古田氏の看板の一つは「九州王朝説」。「王朝」という言葉を使うからには、一般的な意味での王統の連続が担保されてしかるべきだと思うんですが、その辺りの裏付けは取れてるんでしょうかねぇ、、、同じ洛陽を都としていても(後)漢魏西晋は別王朝なんでしょうからね。それとも古田氏独自の定義が?
2021年6月5日 10時37分

p287にかけて思わせぶりな文が続きます。
中でも『隋書』に描かれたイ妥国と、『旧唐書』に描かれた倭国、この両国は同じ七世紀の国だ。

はれ?『隋書』帝紀の倭、倭国は畿内王朝だったはず。これも「七世紀の国」。どう折り合いをつけてるんでしょう?
2021年6月5日 10時48分

おはようございます!
そうだったんですね!そう定義してしまえば、王統云々で突っ込まれることもないというワケですよね。

ご教示、ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月5日 10時51分

ですよね。エジプトの第○王朝何ていうのは、「王家の血統に基づ」いてるわけでしょうから、、、まあ、通常の概念に縛られないというのも古田氏のウリの一つだったのかも、、、
2021年6月5日 10時52分

すでに、俀国は俀国伝の描く通り、阿蘇山下の王朝であると見なした。擦れば、すなわち白江の交戦国もまた、同一王朝、これが『旧唐書』の率直に告げる認識だったのである。

太宰府に立って「阿蘇山下」なんて感じる人・思う人など皆無でしょう。熊本あたりならまだしも、、、
2021年6月5日 10時59分

そもそも裴世清帰国の翌年、推古17年(609)4月には筑紫大宰が【百濟僧道欣・惠彌爲首一十人・俗七十五人、泊于肥後國葦北津】と奏上(天子に申し上げること)しているんですから、熊本一帯も筑紫大宰の管内。葦北は熊本のずっと南です。
2021年6月5日 11時5分

>縛られていないというより調べていないではなかったかと
核心の証言!
>古田先生の中の固定観念を我田引水でより強化する行程
トホホ、、、ですね。ずっと思ってました。古田氏の〝方法〟というのは、自分に都合のいいものをかき集めること。不明なものは自分に都合のいいように解釈すること。
2021年6月5日 11時8分

今からすぐに再読します!ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月5日 11時12分

p12に早速、
『旧唐書』は十世紀前半の成立、実際には『日本書紀』よりも後代の史料である。

初出は1998年8月多元的古代研究会・古事記の会『古事記通信』四〇号とのこと(p381あとがきにかえて)。前世紀中に既にお見通し済み!
2021年6月5日 11時24分

p27に『失われた九州王朝』から「豪族」を引用されていますが、第2書p561「「豪族」について」で古田氏の言うことが、どうもその後の「九州王朝説」の展開とそぐわないような気がしていたんですよね。はっきりとは言葉に出来ないんですが、、、前世紀にバッサリ済みだったようで、、、
2021年6月5日 11時53分

同頁。
不治の病いに冒されているのは、この架空の論者だろうか、それとも古田氏自身であろうか。

古田氏の〝論法〟の一つに、この「架空の論者」を仕立て上げる!という手法がありますね。その「架空の論者」を否定することによって、あたかも自説が肯定されるかのような印象操作をします。
2021年6月5日 13時35分

p30では、久保田穣氏の著書『古代史のディベート』にも指摘される白村江の戦いに近畿王朝の将軍や関東の雄たる上毛野氏が参加していることを指摘しています。

こういう記載事実には古田氏は言及しません。太宰府防衛施設は誰が造ったのか?明記してある史料さえ触れないようにします。
2021年6月5日 13時48分

原田さんや安本美典氏など前世紀からの古田説を巡る議論を読むにつけ、古田説〝そのもの〟が学問的研究対象たりうるんではないかと思います。

歴史上足跡を残した人物とその著作は十分に研究対象であり、学問の一角を占めていると思うのですが、古田氏もその列に加えて然りではないかと。
2021年6月5日 13時54分

しかし、原田さんの指摘(p24)されるように、前方後円墳と三角縁神獣鏡の分布だけで、古田氏の〝多元的〟王朝論など瞬時に蒸発してしまう。せめて方墳、前方後方墳の分布に基づく政治圏でも想定すれば違った道も有りえたかも、、、
2021年6月5日 14時0分

p288-289では、高表仁の来訪に言及。「奇妙な年代の誤差」というのは、『書紀』の記述を追えば全然「奇妙」ではない。

四年間にまたがった外交を、『旧唐書』は六三一にまとめて書いた、としよう。

何を勿体つけてるのか?先方にとって記録すべきは【倭国遣使献方物】。
2021年6月5日 15時1分

三田耜の出発と帰還を唐側が記録するとでも?

それより次の、「決定的に異なるもの、それは外交の実質(2字傍点)だ。〈中略〉右のように、両者ともきわめて仲むつまじいままで、帰国に至っている。」
2021年6月5日 15時5分

古田氏は本当に『書紀』を審に読んでいないのか?読んでいて自説に都合のいい解釈をしているだけなのか?

読めば高表仁への対応に違和感を感じるはず。以前にも書きましたが再述しておきます。
2021年6月5日 15時10分

舒明4年(632)10月【唐國使人高表仁等泊于難波津】
船や鳴り物での盛大な来迎セレモニーがあります。古田氏が舒明紀から引いた「時に高表仁対(こた)えて曰く」は、この来迎時のことです。どうぞ当該記事をお読み下さい。ところが、次に高表仁が舒明紀に出てくるのは、舒明5年(633)1月。
2021年6月5日 15時17分

己卯朔甲辰、大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂・黑摩呂等到對馬而還之。

朝廷での饗宴も天皇への拝謁もありません!裴世清の折りはもちろん、推古18年(610)10月の【新羅任那使人臻於京】の際の、裴世清時にも劣らぬ盛大な歓待とは雲泥の差です。
2021年6月5日 15時21分

また、裴世清の際は小野妹子が送使として唐まで送り届けているのに比べ、高表仁は【送使吉士雄摩呂・黑摩呂等到對馬而還之】の如く、対馬までしか送っていません。高表仁は隋の煬帝・楊広の兄・楊勇の娘である大寧公主の夫で、隋朝の著名な元勲の一人である高熲の息子。サラブレッドです。
2021年6月5日 15時26分

裴世清はもちろん、三韓の使者の場合でも「於京」など入京の記録が見えます。隼人でさえ「明日香寺之西」唐で饗えているんです。

高表仁への対応は〝冷遇〟としか。既に川村明氏が述べているように、これが「爭禮」を物語っていると見ていいでしょう。
2021年6月5日 15時31分

古田氏は高表仁が難波から動いていないこと、入京していないこと、そして古田氏の理解力からすれば「時に高表仁対(こた)えて曰く」が「泊于難波津」時のものと分かっていたはずです。

恐らくは読者を甘く見ての行論なんでしょう。『書紀』を具に調べることなどないだろう、、、なんて。
2021年6月5日 15時36分

p290
むしろ、代表の単于との国交のみを記し、他は省略する、その方が原則なのである。

『隋書』煬帝紀には九州王朝たる俀国からの遣使が記されず、近畿天皇家たる倭・倭国からの遣使のみが記されているのは「原則」に反するのでは?
2021年6月5日 15時54分

同頁。
したがって他(近畿天皇家以外にも、吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中國との交流を求めたであろう。中国も、礼(上下関係)さえ守れば、こばむところではなかった。しかし、それらは必ずしも記載されるべきものではないのである。

読者はふむふむ?文章は上手い。けど、、、
2021年6月5日 15時58分

前述の煬帝紀。肝心の俀国=九州王朝からの遣使は記載されず、倭・倭国=近畿天皇家からの遣使のみ記載されているという事実。どゆこと?
2021年6月5日 16時1分

p290冒頭
一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。

一方は九州王朝、他方は近畿天皇家。天智2年(663)3月、二萬七千人の兵を率いて新羅を討つために渡海し、新羅の沙鼻岐・奴江の二城を取ったのは誰でしょう?上毛野君稚子らではありませんか?

古田氏は徹底的に『書紀』無視!
2021年6月5日 16時10分

p293
ここで第一に注目すべきは、「もとは小国であった日本が、倭国を併合した」という認識だ。

つまり、近畿天皇家が日本なんですよね?ところが同書p81では「これら二書が上進(2字傍点)された公権力、それは近畿天皇家ではなかったのではないか」と。
2021年6月5日 17時27分

p82でしたね。訂正します。同頁には、
拙著『盗まれた神話』第四章「その名は『日本旧記』」参照。
とありますので、参照しました。p88
とすると「日本旧記」という場合の「日本」も、当然、九州王朝のこととなるほかない。

なんのこっちゃ?「日本」ってどっちを指すの?
2021年6月5日 17時30分

p294
一方が真実なら、他方は偽。両立しうるものではない。

その通りですね。古田氏の数多くの欺瞞を見ていけば、いずれが「偽」であるかは、既に前世紀中に決していたと言えます。
2021年6月5日 18時2分

同頁。
その向う側は「毛野臣」の支配する「毛人の国」なのである。

あのう、、、その上「毛野君」稚子らが二萬七千人の兵を率いて渡海し新羅を討ったんですけど?ホントに『日本書紀』読んでないのかしらん?まさかね。引くとまずいから引かないだけだと思いますけど、、、
2021年6月5日 18時6分

同頁最後に、
その上、唐側は「蝦夷国」の国名を知っているから、それを指すのならば、そのように記すはずだからである。

『日本書紀』には蝦夷の記事が具体的に多く出てきます。もちろんヤマトとの交渉記事として。爵位を賜ったり饗したり。
2021年6月5日 18時11分

『通典』邊防一東夷上蝦夷【大唐顯慶四年十月隨倭國使人入朝】(659)
斉明紀5年(659)7月 小錦下坂合部連石布らを唐へ遣わした際【道奧蝦夷男女二人示唐天子】とあり、唐帝が蝦夷について色々訪ねてたことが書かれてあります。『通典』に見える「倭国」がヤマトであることは否定の仕様がありません。
2021年6月5日 18時20分

〝『日本書紀』は嘘っぱちだ!〟とでも叫ばなければ、この状況は打開できません。しかし、そう言ってしまえば、今度は高表仁来訪時の(古田氏が主張する)対応の齟齬が存在し得なくなります。正直な中国正史と嘘の『日本書紀』との間に齟齬があるなど、立論の根拠にはならないからです。
2021年6月5日 18時26分

p296、白亀と霊亀。
案外、真相は別にあるかもしれぬ。なぜなら、後漢の霊帝(1字傍点)の帝名あるを知り、これを慎重に忌諱したのかもしれぬのである。

よく意味が、、、後漢の霊帝の「霊」が忌諱の対象になったと?忌諱の対象は諱(本名)であり、帝命が忌諱の対象になるとは聞いた事がありません。
2021年6月5日 18時46分

「帝命」は「帝名」の誤変換。もし、帝名が忌諱の対象になるのなら、武帝の「武」、文帝の「文」、明帝の「明」なども忌諱の対象になるはず。そういうことはあり得ない。裴世清が裴清とするのは唐の李世民の「世」を忌諱したため。
2021年6月5日 18時50分

古田氏は文字の異同について「忌諱」によるものがあることを知り、その知恵をここに用いてみたのかも知れません。

私の見立て通りだとすれば、余りにもお粗末な話なので、どなたか古田氏を弁護して頂くとありがたいのですが、、、
2021年6月5日 18時52分

そもそも、忌諱をするのは〝当代〟王朝の天子などを対象にするものであって、唐代の事象について五代晋朝で『旧唐書』を編纂する際、何百年も昔の「後漢の霊帝の帝名」を忌諱するなど、ありえません。

もちろん『旧唐書』では「霊」字が何百も出てきます。
2021年6月5日 19時0分

p296、阿倍仲麻呂を持ち出す。
 (g)(四)も重大だ。阿部仲満(仲麻呂)が、終生中国にとどまり、大唐内の顕官を経ていったことは、よく知られている。「旧日本国の高級官僚」として、朝野に著名だったのである。〈続く〉
2021年6月5日 22時18分

とすれば、唐朝が、日本国、さらには倭国の事実に関して、ことあれば、彼に確認を求めたであろうこと、少なくとも求めえたことは、明らかだ。〈続く〉
2021年6月5日 22時19分

もちろん、彼とて、日本列島のすべてに知悉していたわけではないけれど、〝国が一つか、二つか〟〝「倭国」と「日本国」の生い立ちや関係〟といった、大筋の事実について、無知だったはずはない。〈引用終わり〉
2021年6月5日 22時19分

阿倍仲麻呂は宝亀元年(770)1月、生涯を閉じます。ここでまた『通典』を取り上げましょう。同書は「大歴1 (766) 年に着手し」たとコトバンクに出ています。成立は801年とも。つまり、『通典』着手は阿倍仲麻呂の最晩年。
2021年6月5日 22時25分

「唐朝が、日本国、さらには倭国の事実に関して、ことあれば、彼に確認を求めたであろうこと、少なくとも求めえたことは、明らかだ」というのなら、それは唐滅亡後、はるか後代成立の『旧唐書』より、〝超・同時代〟とでも言いうる『通典』にこそ当てはまる考え方ではないのでしょうか?
2021年6月5日 22時27分

『通典』の編者・杜佑は『旧唐書』によれば【元和七年其年十一月薨,壽七十八】とあり、735年の生まれ。丁度、阿倍仲麻呂が入唐した頃に当たります。まさに両者は唐の同時代を生きたことになります。

その杜佑『通典』に【倭一名日本】と明記してあります。
2021年6月5日 22時43分

倭条本文のみならず、「邊防一 序」でも、ご丁寧に【倭國一名日本】と特記してあります。

古田氏は阿倍仲麻呂在唐をテコに『旧唐書』の記載に真実性を持たせようとしたのかも知れませんが、阿倍仲麻呂にとっての〝超・同時代史〟は『通典』ということになるはずです。
2021年6月5日 22時45分

『通典』の編者・杜佑と、阿倍仲麻呂のは同時代の唐に生きたのです。その杜佑が『通典』に【倭一名日本】【倭國一名日本】と明記しているということは、当時の認識として、これにまさるものは有り得ないでしょう。
2021年6月5日 22時48分

古田氏の言を再度引きます。「唐朝が、日本国、さらには倭国の事実に関して、ことあれば、彼に確認を求めたであろうこと、少なくとも求めえたことは、明らかだ。」

そうなのです。「日本国、さらには倭国の事実」とは、【倭(国)一名日本】だったのです。
2021年6月5日 22時49分

古田氏はあまりにも有名な阿倍仲麻呂を持ち出すことに拠って『旧唐書』に基づいた自説に援用しようとしたのですが、10世紀半ばに編纂された『旧唐書』に対して、杜佑や阿倍仲麻呂が責任を持てるはずはありません。

ここでもまた『通典』は古田氏にとっての〝鬼門〟となったようです。
2021年6月5日 22時51分

p297
このように考えてみると『旧唐書』倭国伝・日本伝のしめす歴史像を虚とみなすこと、それは客観的かつ理性的な人間のなすべきところではない。

古田氏はしばしばこのような表現をします。古田氏の基準となる「人間」とは自分自身のこと。これこそ「客観的」を欠く思い込み、思い上がりなのです。
2021年6月5日 22時55分

古田氏は言いいました。
中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。中国の史書の多くは、当時の倭国との同時代史料だ。しかも、倭国の中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた。その報告にもとづく第一史料、それによったのが中国史書である。
2021年6月5日 22時56分

確かに阿倍仲麻呂は「中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた」証拠であり、『通典』は紛れもなく「同時代史料」のはずです。

その『通典』には【倭一名日本】【倭國一名日本】と明記してあります。両者同一の国です。
2021年6月5日 22時59分

p298からの「第二章 『日本書紀』の側から」に入ります。前出した「白村江の戦い」の「一年のずれ」です。『旧唐書』『三国史記』は龍朔2年のこととして書かれてあると古田氏は言います。そこで先ず、『三国史記』の記述を見てみました。
2021年6月5日 23時39分

【龍朔二年七月】以降の部分を対比してみると、『三国史記』はほぼ『旧唐書』百濟伝によって成文していることが明らかです。『三国史記』成立は『旧唐書』の丁度200年後。よってこの「一年のずれ」検証に『三国史記』を用いるのは同一情報の重出ということになります。
2021年6月5日 23時52分

同時代史料である『日本書紀』と『冊府元亀』の記載から、白村江の戦いが663年であることは確かと言えます。しかし、このような点の確認すら必要だという教訓を古田氏が与えてくれたことは教訓的と言えそうです。
2021年6月6日 10時45分

p299に「前・中・後軍」の陣立ての中で云々以下、何か思わせぶりなことを述べます。「王と王子らが先頭に立って戦う慣例」として好太王碑を持ち出しますが、そんな「慣例」が当時のわが国の史料上、実在するんでしょうか?こんな事を言いだしたのは次ページの、「筑紫君薩夜馬」登場の前触れ。
2021年6月6日 10時51分

では、この「筑紫君」が、捕囚された経緯は何か。『日本書紀』は、明白にそれをカットしているから知りえない。

は?だれそれが「捕囚された経緯」がいちいち『日本書紀』に書いてあるんでしょうか?
2021年6月6日 10時54分

前頁で古田氏自身が、
しかし右の(a)(b)の記事の以後、彼の名は一切現れない。
「彼」とは前将軍上毛野君稚子のこと。その名が「記事の以後、彼の名は一切現れない」。稚子も「明白にそれをカットしている」とか?
2021年6月6日 10時57分

p300
知りえないけれど、分かることは、一に、先の「前・中・後軍」の中(1字傍点)に入っていないこと。入っていれば、「六将軍以上(2字傍点)」の存在であることだ。
2021年6月6日 11時1分

意味がよく分からない。薩夜麻が「六将軍以上」の存在であることという状況を、なんとか〝創り上げよう〟としている。紛れもなく、拠不記載。

「王」が先頭に立つ。これが東夷の国々の武勇の伝統であった。

あのう、、、薩夜麻が「先頭に立」ってどこに書いてあるんでしょうか?史料的根拠は?
2021年6月6日 11時6分

p300
(一)筑紫君薩夜麻(天智十年十一月項では、薩野馬の卑字)は、対唐戦に参加していた。
(二)「前・中・後軍」の三軍の上にあり、これを統率していた。
すなわち右の帰結は次のようだ。――〝(a)の三軍派遣の主語は、本来(2字傍点)「筑紫の君」であった〟と。
2021年6月6日 11時10分

はあ?(一)は捕囚となっているので確か。しかし、どうして(二)の「これを統率していた」なんてことが得られるのか?まるで〝手品〟としか言いようがありません。恐らく、古田史の〝夢想〟の中では、そのような「帰結」が得られたんでしょう。
2021年6月6日 11時12分

「前・中・後軍」の中に入っていない

入っていれば、「六将軍以上」の存在であること

そもそも、書くようなことが薩野馬について無かったからと、どうして考えることが出来ないのか。
2021年6月6日 11時18分

それを「カット」などと、あたかも『書紀』の作為が如く言うのは、明らかに〝ためにする議論〟以外のなにものでもありません。

同頁最終行。
以上のように理解するとき、この記事は、中国や朝鮮半島側の史書と一致するのである。

はて?「中国や朝鮮半島側の史書」に薩野馬のことが出てましたっけ?
2021年6月6日 11時20分

p301
「敗戦後の叙勲」では、
筑紫の君のような(たとえ彼を天皇家の配下とみなしてみたとしても)、主要人物すら捕囚の身にあえいでいると
として、叙勲を不審視していますが、筑紫の君が「主要人物」とは、どこから出てくるんでしょうか?
2021年6月6日 11時27分

筑紫の君が「主要人物」だと思っているのは、古田史が燦然と輝く九州王朝を脳内に描いているからにすぎません。かつて筑紫君であった磐井は敗れて死に、辛うじてその子葛子が、命乞いのため糟屋の屯倉を献上したのではなかったか。古田氏は「磐井王朝の滅亡」という表現さえ使いました。
2021年6月6日 11時30分

その筑紫君の王朝が7世紀になると「近畿大和を中心の拠点とする天皇家の領域を内にふくんで「日出づる処の天子」と、誇りやかに宣言」して、隋唐の使者を迎えるほどになった。それは古田氏の妄想にすぎません。
2021年6月6日 11時33分

古田氏はこの項で『日本書紀』の記述を援用しながら、自説の裏付けにしようと試みますが、ならば磐井の乱以後の『日本書紀』を読んで、同様なことが言えるのか?はなはだ疑問無しとしません。

安閑、宣化朝での屯倉、官家設置や欽明朝以降の三韓や任那との外交記事の中の、どこに筑紫の君がいるのか?
2021年6月6日 11時37分

その時期の筑紫の君の記事は『書紀』が「明白にそれをカット」しているとでも?
2021年6月6日 11時38分

もし、近畿天皇家が、この戦の開戦の発動者(3字傍点)であったとしたら、この時期に、こんなきらびやかな、まるで祝典行事のようなものが、できるわけがない。

戦場へ駆り出したものへ恩賞を与えるのは当然のことですよ。
2021年6月6日 11時42分

p301の最後
不幸にも、わたしたちにも、経験がある。昭和二十年八月、広島・長崎とつづいた原爆投下のあと、敗戦の十五日をむかえた。わたしは十八歳を過ぎたばかりのときだった。

何を比較しているんですか?大日本帝国はポツダム宣言を受諾して、無条件降伏したんです。
2021年6月6日 11時45分

比較対象とならないものを比較する、というのは詭弁の一種だと昔読んだ記憶があります。

白村江の敗戦後、倭の誰かが無条件降伏したんですか?国家として、、、
2021年6月6日 11時47分

古田氏は第2書でも原爆のことに触れています(p351)。あたかも戦前の思考を非とするが如き口調ですが、何もないところに築かれた妄想城府に基づく「非」ならば、それは本当の「非」とはなりえないでしょう。
2021年6月6日 11時56分

p302
では、なぜ近畿天皇家は、これほどに喜びいさんでいるのか。――それは白村江に敗けた(3字傍点)からだ。筑紫の君は捕われ、上毛野君は消息を絶った。

本当に古田氏は自分に都合の悪い『書紀』の記事は〝伏せる〟のが上手。レトリックで、いかにも自分の主張が正当である如く言う。
2021年6月6日 14時19分

白村江の敗戦でヤマトは何もしなかったか?そんなことは『書紀』を開けばすぐに明白に。翌年、
天智3年(664) 是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
天智4年(665)8月 遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。
2021年6月6日 14時23分

大宰府防衛のため、水城を造り、長門国に築城し、遣達率憶禮福留・達率四比福夫を遣わして大野城と椽城の二城を造った。
天智6年(667)3月には近江へと遷都。
同年11月には、倭(ヤマト)國に高安城、讚吉國山田郡に屋嶋城、對馬國に金田城を築きます。

これらが「喜びいさんでいる」とでも?
2021年6月6日 14時29分

p298に引いた「阿倍引田臣比邏夫」について次頁末から翌頁にかけて次のように()書きしています。

後者(阿倍引田臣比邏夫のこと)は、その前後、活躍したこと著名。斉明期には「筑紫大宰帥」だったようである。

として『続日本紀』から引いていますが、「斉明期」と書いて何も思わないのか?
2021年6月6日 14時39分

斉明天皇はその7年(661)5月、朝倉橘廣庭宮に遷居します。前年滅亡した百濟の復興運動を支援するため。大宰を派遣することができるほど筑紫がヤマトの管轄下にあったからこそ、斉明天皇は筑紫へ下ることが出来たわけです。そういう〝情勢〟のどこに、九州王朝の天子としての筑紫君の居場所があるのか?
2021年6月6日 14時46分

古田氏の想定に立って『書紀』の記述を解釈すれば、
・筑紫大宰は九州王朝から命じられてヤマトが派遣した。
・大野城や椽城や水城は九州王朝から命じられたヤマトが築造した。
・そして斉明天皇が朝倉宮で崩御したのも九州王朝の謀殺!
なんてストリーにでもなるのか?
2021年6月6日 14時50分

結局は、不拠記載拠不記載なんですね。書いてあることに拠らず、書いてないことに拠る。
2021年6月6日 14時51分

九州王朝最後の山場たる〝白村江敗戦の景〟は、古田氏の夢想に拠れば以下の如く。
そして天皇家にとって母屋であり、主流たる筑紫の君は敗れ、捕らえられ、権力とともに権威をも失ってしまった。

九州王朝が「主流たる」なんてことは、古田氏の好きな漢籍にも『日本書紀』にも一切書いてありません!
2021年6月6日 14時56分

一方、関東の雄たる上毛野臣、かつて武蔵の国造の任命をめぐって、天皇家と任命権を争った存在だ(安閑紀元年十二月)。彼も、騎下のおびただしい将兵とともに消息を絶った。

稚子自体は消息不明ですが、上毛野臣はその後も健在。天武天皇十年(681)三月に大錦下上毛野君三千が見え、同年八月卒。
2021年6月6日 15時12分

また、同十三年十一月に、上毛野臣は他の51氏とともに真人に次ぐ姓である朝臣を賜っています。

そんな『書紀』の記述など、眼中にないのかも知れません。使えそうなネタを拾い集め、自分に都合のいいように解釈して援用します。
2021年6月6日 15時16分

最早、近畿天皇家に対して上に立つ、あるいは並び立つ存在は、実質上消え去ったのである。

影も形もない九州王朝の天子など『書紀』のどこにも見えません。何故、九州王朝はその都である太宰府の至近に防衛施設を作りる当たり、自前でそれをやらなかったのか?
2021年6月6日 15時19分

なぜ九州王朝は、自分の都にわざわざヤマトから筑紫大宰を派遣させたのか?自分で自分の都を監督することが、どうして出来なかったのか。

古田氏の描いている663年前後の筑紫の〝風景〟が不思議で不思議でなりません。

ほんとうに不思議で不思議でなりません。
2021年6月6日 15時24分

このときの、九州や関東、また実際に多くの将兵が陣没した領域の状況はどのようであったろうか。『日本書紀』は、それをわたしたちに伝えぬ。

天智2年(663)3月に上毛野君稚子と共に出陣した間人連大蓋、巨勢神前臣、大宅臣鎌柄らも畿内の豪族でしょうに、、、「伝えぬ」ことに何か意味が?
2021年6月6日 15時31分

ともあれ、逆にこのあと、近畿天皇家はいよいよ繁栄へのひとすじ道を歩み、大唐側から日本列島代表の王者であることを公認された、あの長安元年(七〇一)を、ついにむかえるのである。

「このあと」とは?読み返すと、どうやら天智三年二月の「二十六階」制定のことのよう(p302)。
2021年6月6日 15時35分

「いよいよ繁栄へのひとすじ道」って?何を寝惚けたことを!この8年後、ヤマトは古代最大の内乱が勃発することをお忘れか?

いやいや、2001年には『壬申大乱』という本を出して、それは筑紫を舞台にしたのだ!という珍説を出すことになったんでしたよね。
2021年6月6日 15時40分

その珍説に至る〝萌芽〟は、『古代は輝いていたⅢ』の中で、確かに芽吹いていたようです。

裴世清や高表仁の訪れた倭(俀)国はヤマトでしかありえません。古田氏の信拠する『隋書』に竹斯国がどのように描かれているか?見れば明白です。単なる通過国にすぎません。
2021年6月6日 15時42分

古田氏は九州王朝を「阿蘇山下」とか、『隋書』の「東高」を阿蘇山系を指すとか言っていますが、地図も見たことがないのでしょうか?阿蘇山には登ったらしいんですけどね、、、

『隋書』や『日本書紀』はもちろん、地図すら見ない読者を酔わせるだけの筆力を持っているという自信があるんでしょうか?
2021年6月6日 15時48分

借りてきた本も読まねばならないし、一息入れます。

その前に、安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』からご紹介。
p221 九州王朝は蜃気楼(かいやぐら)にすぎない
〃 九州王朝は「透明魚(トランスパレント・フィッシュ)」
p224 大道香具師のショウに似ていないか
p229 無から有は生まれない
2021年6月6日 15時59分

p235 古代妄想ではないのか
〃 井上光貞氏は、古田武彦氏の九州王朝説を『空中楼閣』と言われた
p236 古田氏の九州王朝説は、大はまぐりの吐き出した蜃気楼に近いと思う。見ていて、大変楽しく面白い。しかし、もちろん、学問や科学とは、全く無縁の古代妄想である。
2021年6月6日 16時3分

p236 古田氏のいうところの、「九州王朝」は無かった。それは、すべて古田氏の空想の所産である。想念と、それにもとづく解釈だけがあって、証拠はまったくあげられていない。実証とは無縁の思いつき史学である。
2021年6月6日 16時5分

以上から、おわかりのように、古田氏と直接、論争するのは、まったく無意味なことである。文献的になにも証拠がなくても、これだけの〝学説〟をつくりだせる人なのである。空想にもとづく議論が許されるのなら、どんな立論も反論も、可能になってしまう。
2021年6月6日 16時7分

p240 体系化、組織化された妄想の世界は、「妄想城府」とよばれている。「九州王朝」という名称のいかめしさは、「妄想城府」という名称のいかめしさとよくつりあいがとれている。
2021年6月6日 16時9分

『京大人文研漢籍セミナー1 漢籍はおもしろい』p29
そのために、一つの古典にはおびただしい数の注釈書が残っている。したがって、原著と注釈書を併せて諸本の校勘、他書の引用文との校合、典拠調べ等々を行うことが、漢籍を読む第一歩である。

ですよね?この「第一歩」を古田氏は無視したんです。
2021年6月6日 19時18分

ふと思いついて『資治通鑑』を調べましたら、白村江は龍朔三年(663)条にかけてありました。ざっと見た感じでは文は『旧唐書』に近いようですが異なる部分もありそう。『冊府元亀』に見える【海水皆赤】が『資治通鑑』でも見えますので、この系統のソースなんでしょう。
2021年6月7日 10時42分

『古代は輝いていたⅢ』p295に、
(イ)(長安元年=七〇一)十月、日本国(3字傍点)、使いを遣わし、其の大臣、人を貢し、方物を貢す。(『冊府元亀』〈一〇一三成立〉外臣部、朝貢三)
とありますが、手元の同箇所では、長安三年になっています。ところが、ご覧の通りすぐ後に又「三年正月」が!
2021年6月7日 11時52分

次行の(長安二年=七〇二)も、前行と1年ズレが。白村江では、1年のズレを放置している模様。どして?
2021年6月7日 11時54分

古田氏の訳、
日本国、使いを遣わし、其の大臣、人を貢し、方物を貢す。
というのは【日本國遣其大臣朝臣真人貢方物】に類似していますが、「朝臣」が闕文。それより書影の「貢人」を、まんま「人を貢し」と読んでますね。これは明らかに「眞人」の誤。誤字を認めない古田氏らしい誤読。
2021年6月7日 13時15分

古田氏がp295で、「長安元年」と読んだのは、「十月」の2行前の【長安元年十二月佛誓國遣使貢方物】を受けてのことでしょう。間に【三年三月大食國遣使獻良馬】が挟まっているのに気が付かなかったのか?それとも、その部分の欠けた版本でも見たのか?
2021年6月7日 13時21分

あれ?文章が抜けてるみたい(・_・;) 下記の如く訂正。
白村江では、1年のズレを放置している模様。

白村江では、1年のズレを指摘してたのに、ここでは放置している模様。
2021年6月7日 13時39分

古田氏が則天皇后長安二年から引いているように、帝紀なので【冬十月,日本國遣使貢方物】は二年に間違い無さそう、、、だけど、、、『旧唐書』日本伝に始まって、「三年」も多出。いずれが是?
2021年6月7日 13時42分

『宋史』日本伝では奝然の『王年代紀』を引きつつ【次文武天皇,大寶三年,當長安元年,遣粟田真人入唐求書籍,律師道慈求經。】と。「大寶三年」は長安三年なのに、どゆこと?
2021年6月7日 13時45分

『失われた九州王朝』p356では、
長安三年(七〇三)、其の大臣朝臣真人、来りて方物を貢す。
として、日本国伝本文の「三年」に従ってますね。最終的に、元年?二年?三年?
2021年6月7日 13時57分

『続日本紀』大宝二年(702)6月29 遣唐使等、去年従筑紫而入海。風浪暴険、不得渡海。至是乃発。
ということで701年出発したものの渡海に失敗。この時にようやく出発。なので、古田氏がp295で、
(イ)(長安元年=七〇一)十月
と『冊府元亀』から引いているのは『冊府元亀』の誤読確定。
2021年6月7日 17時34分

『続日本紀』によれば粟田真人らが帰国したのは大宝4年7月。同10月【辛酉。粟田朝臣真人等拝朝】とあるので7月は筑紫帰着か。

すると則天皇后に拝謁したのは2年10月か3年10月か。則天皇后紀に長安二年とあるのが是のもよう。
2021年6月7日 18時2分

中1年置いての帰国は、恐らく【授司膳卿】とか【拝爲司膳員外郎】があったから?

しかし、『舊唐書』『唐會要』『太平御覧』『太平寰宇記』『冊府元亀』が皆「三年」に作るのは?

一番古い『通典』の「二年」は正しい!
2021年6月7日 18時6分

古田氏の誤読を修正して拙訳を。
十月、日本国、使いを遣わし、其の大臣、人を貢し、方物を貢す。

十月、日本国、其の大臣朝臣眞人を遣わし、方物を貢す。

古田氏は第1書p16で「史料批判」について何やら語っていますが、何のことはない、校勘拒否で珍訳出来!
2021年6月7日 18時17分

10月記事の前条、【大食國遣使獻良馬】が「三年」ではなく「二年」であれば、日本国も二年になりますが、、、『太平御覧』四夷部十六西戎西 大食では【長安中,遣使獻良馬】で、残念ながら年次が闕!
2021年6月7日 18時30分

「漢籍電子文献」『新唐書』日本伝に以下のような校注が付いていました。
【長安元年 舊書卷一九九上日本傳、唐會要卷一〇〇「元」作「三」,通典卷一八五作「二」】

三例併記でいずれが是かは示してありません。たぶん「二」が妥当ではないかと。要調査継続!
2021年6月7日 22時22分

岩波文庫『旧唐書倭国日本伝...』p38の「長安三年」の注(1)には「元年」「二年」については触れず。注(2)では、
粟田真人のこと。『旧唐書』巻六・則天武后本紀には見えぬが云々
とありますが、同則天皇后紀長安二年に【日本國遣使貢方物】とあり、これが粟田真人を指すことは明らか。
2021年6月7日 22時55分

『続日本紀』慶雲元年(704)七月甲申朔 粟田朝臣真人自唐国至
とあり、唐人曰く【亟聞。海東有大倭国。謂之君子国】と。国号〝日本〟はまだあまねく知れ渡っていたわけでもなく、、、
2021年6月7日 23時12分

Wikiで粟田真人を見ると、長安三年説を採ってますね。『旧唐書』日本伝に従ったんでしょうが、則天皇后紀では長安二年ですし、こちらが間違いにくいんでは?と思うんですが、、、これも白村江と同じく、もっと簡単な理由で長安三年が是とか?
2021年6月7日 23時18分

ちょっと目についたんですが、宇也鹿文のそばに「後漢永初元年十月貢漢」と。107年の3代あとが讃ということ?讃の初出は421のハズ。1代100年?
https://twitter.com/augsburg14/status/927497381251125248?s=20
2021年6月8日 10時5分

武の昇明二年為安東将軍倭国王は『宋書』では大将軍。梁武帝の征夷大将軍はもちろん征東将軍。一説に征東大将軍とも。いずれにしても「征夷大将軍」など無い。「国」「為」「晋」など古いものなら「國」「爲」「晉」だろうから近年書写したもの?
https://twitter.com/augsburg14/status/927497381251125248?s=20
2021年6月8日 10時46分

第2書p356で、
だから、長安三年という『旧唐書』側の記載とピッタリ一致して矛盾がないのである。
と。しかし、『古代は輝いていたⅢ』p295で『冊府元亀』から「長安元年=七〇一」説を引くというのは甚だ疑問。第2書p354では、
また、両者年代もくいちがっている。
と不審を述べています。
2021年6月8日 11時53分

粟田真人は701年出発するも風浪激しく入唐できず、702年6月に再出発するわけですから、『冊府元亀』701年の記事は粟田真人ではないことに。すると誰なのか?高表仁の場合に年次に不審を持ったのなら、ここでも当然〝別の誰か〟を想起すべきでは?それも「大臣」!どこの「大臣」なんでしょうか?
2021年6月8日 11時57分

ついでに、『旧唐書』倭国伝 貞観22年(648)又附新羅奉表,以通起居。
について古田氏は、
孝徳天皇の大化四年に当る。しかし、この場合は孝徳紀には全く遣唐使のことは書かれていない。矛盾はハッキリしている。
と。では、『冊府元亀』による701年の遣使はどうなるんでしょう?
2021年6月8日 16時32分

701年の遣使など『書紀』には書かれていない。矛盾はハッキリしている。じゃ、誰?九州王朝は滅亡したんでしょうし(古代は:p285)、ヤマトでもない。しかも誤字を認めない!

「日本国」を僭称した某勢力の偽遣使だった!とでもしなくては、、、
2021年6月8日 16時37分

年次の矛盾など無い高表仁の遣使については「くいちがっている」とし、明らかに年次の矛盾する701年については、取り上げておきながら〝ほっかむり〟。

古田氏の第1書(p147)での表現を借りれば、上述2例は「身勝手な」解釈と言っていいでしょう。
2021年6月8日 17時2分

粟田真人は長安何年奉献か

粟田朝臣真人が唐に遣わされたことは『続日本紀』はじめ『旧唐書』などの漢籍にも記されているが、その遣使年次について若干の齟齬があり、通説の入唐703年説にも疑問を呈しうる史料状況があるのではないかと思う。
2021年6月8日 22時58分

北山茂夫『壬申の内乱』1978年8月21日第1刷発行の巻頭ⅳ「壬申の内乱地図」と、昭和48年十月10日初版、同54年1月20日11版 中公文庫版・直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』p331の「壬申の乱戦況図」とはかなり似てますね。北山書には前著があるらしいので、そちらの図はどうか?
2021年6月9日 10時26分

『壬申の内乱』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより とにかく地名・人名が多出するので、難儀なテーマなんだろうなとは正直感じる。後半、和辻哲郎らの所説について批判する部分も抑制が効いていて、学者の議論とはこういうものかと改めて感じ入る。
2021年6月9日 16時41分

太宰府の至近距離に大野城、椽城、水城を造ったのはヤマトです。7世紀初頭以来、筑紫大宰を任じてきたのもヤマトです。磐井の乱以後、筑紫はヤマトの制圧下に入りました。宣化朝の536年、那津の官家を作り、翌年には大伴金村の子・磐がやってきて筑紫の執政にあたります。
https://twitter.com/sarusuberin/status/1230016597449830401?s=20
2021年6月9日 22時45分

首都の至近距離に大野城、椽城、水城をヤマトに造ってもらった?筑紫大宰がヤマトから派遣された? どこに九州王朝があるんでしょうか?そんなものは幻です。
2021年6月9日 22時47分

簡単かつ明瞭に、そのとおりです!
https://twitter.com/cheyenne1660/status/1232515691804155904?s=20
2021年6月9日 22時48分

>唐が占領し作った筑紫都督府
それ、どこに書いてあるんでしょうか?
https://twitter.com/zawawaai1/status/1228480813894795264?s=20
2021年6月9日 22時49分

③優越感への欲求。「他の人が持っていない情報を持ち、真実を知っている」と考えることで気持ちよく生きられる。

記事の終りの方で、
「いったん洗脳されると、そこから脱するには長い時間がかかる。とても難しい。」
と述べていますが、まったくその通りなんです。
2021年6月9日 22時52分

「毎日新聞」2021/6/6「見る探る 陰謀論の思考とは[下]」
①知識への欲求。パンデミックやテロ事件が起きた理由を知ろうとする。間違った場所に答えを見つけてしまう人もいる。
②安心したい欲求・自分が事態を制御できていないことについて、その説明を求める。
〈続く〉
2021年6月9日 22時52分

〝ラクして真実の歴史を知りたい!〟という願望が根底にあるんだと思います。そして〝ラクして優越感を味わいたい!〟という心理もあるんでしょう。

古田氏が『失われた九州王朝』を発表してから再来年で半世紀です。学問として扱われていないという事実をどう捉えているんでしょうか?陰謀?
2021年6月9日 23時10分

『失われた日本』「神籠石の証明」末尾のp146に、「薩長史学」という言葉が出てきます。

この頁を読むと、ヤマトが太宰府至近の大野城、椽城、水城を造ったことも、ヤマトが筑紫大宰を派遣したことも、古田氏の脳内に存在していないことが明らかです。
2021年6月9日 23時23分

おはようございます。
>都督府とは唐の占領域の名称の為
唐が半島に五都督府を置いたことは明記してありますが、筑紫に都督府を置いたということは、新旧『唐書』には書かれてありませんね。
>推察してます
根拠はなんでしょうか?
https://twitter.com/hyena_no/status/1394153037720166404?s=20
2021年6月10日 8時49分

>彼は何をしに筑紫に
そりゃ、仰るように「戦後処理」でしょうね。問題は「筑紫は占領された」です。熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等が来た同月に對馬國金田城が築かれていますよね。一年を経ずして栗前王が筑紫率に任じられています。『唐書』や『書紀』以外から「筑紫は占領された」と推測?
2021年6月10日 10時31分

それはまたシンプルな!「占領」の〝実体〟はないという理解なんですね?
2021年6月10日 10時49分

空想をたくましくするのは各自のご自由でしょうが、
>まともな占領政策を行う前に撤収した
も同様に無根拠かと。

例えば、太宰、大宰、鴻臚館などというのも中国風の呼び名です。これらをもって中国が置いたのだ!という方は居られないと思いますが?
2021年6月10日 11時6分

>中華風の名称だから中国が作った、という理論は何処からでしょう
はい?それは私が答えるべき問ではなく、zawawa aiさんが答えるべきではないかと思いますが、、、
2021年6月10日 11時22分

>中国が占領政策として設置した機関の名称を敗戦国が嬉々として名付けるだろうか
その疑問は疑問止まりですね。結局「筑紫は占領された」というのは個人的想像の域を出ないわけですよね?

例えば司馬法聰等は遣唐使境部連石積等を送り届けるだけで、たった4日で帰っています。占領?ですか、、、
2021年6月10日 11時28分

ちょっとタイプミスがあるのでは?
2021年6月10日 11時34分

>用が済んだら帰ったのでは?
あのう、、、
>唐が占領し作った筑紫都督府
への返答として、
>天智天皇6年11月
を持ち出したんですよね?

>海上ルートは唐の支配下
その「唐の支配下」にヤマトが金田城を造ったと?
2021年6月10日 13時14分

>ただの素人
私も同じです。
>「個人的想像の域をでない」とて何の問題があるのでしょうか
いいえ、「問題」はありませんよ。ただ人とおしゃべりすると突っ込まれるんじゃ?ということです。私が嘴を入れておいてこう言うのもなんですが、、、
2021年6月10日 13時16分

>流行りの中華風名称
別に「流行り」でもないと思いますが。古田氏も倭の五王が「都督」に任じられたことを指摘していますよね。「都督」自体は古くからあります。『後漢書』倭伝で言えば、【使人自稱大夫】とあります。「大夫」自体は中国古来の名称で、倭人もそれに倣った。都督府も同様かと。
2021年6月10日 13時24分

虚妄の古田7世紀史
磐井の乱以後の筑紫には「九州王朝」の影も形も見出すことが出来ない

という頁を作成・公開しました。
5/31~6/8間のツイートを集めたものです。お手すきの折りにでもお立ち寄りいただきましたら幸いですm(_ _)m
2021年6月10日 13時41分

ついでに言えば、2006年刊は『古田武彦と「百問百答」』というタイトルで、Amazonでは10,100円とあります!
2021年6月10日 13時59分

>唐代にて都督府が支配地以外で使われてる例
存じ上げませんが、、、新旧『唐書』内で〝筑紫都督府〟とか書かれているなら問題でしょうね。
2021年6月10日 14時1分

>十分裏付ける物証は出てきてません
何にしろ「十分裏付ける物証」を期待するのは難しいかも・
>なぜその時代に占領地を統括する機関を意味する名称を倣って付けたのか
何故でしょうかねぇ、、、想像で良ければ〝向こうを張った〟とか言えますが、、、そこまでですよね。
2021年6月10日 14時5分

>正面衝突しておきながら
>友好的に接してくる
『唐會要』倭國に咸亨元年(670)3月 【遣使賀平髙麗爾後繼來朝貢則天時自言其國近日所出故號日本國蓋惡其名不雅而改之】とあります。

恐らく小錦中河內直鯨等のことだと思うんですが、ここで国号改号の話が出てくるんですよね。
2021年6月10日 14時27分

最近読んだ説ですが、国号を倭国から日本へ改号することによって、なにか外交的意味合いがあるのでは?とか。真偽の程は不明です。
2021年6月10日 14時29分

>全国の口伝や風土記を集め、隠して所持すれば罰を下すと詔を発し
の具体的出典をご案内いただけたらと思います。
2021年6月10日 14時30分

借りてきたついでに、例の郡支国問題のp57を。書陵部本が「郡支国」であるとして、

この発見者は、天文学者の難波収さんです。実は(神戸の白鶴美術館)で講演したとき、(二〇〇三年五月四日)、御注意をえて、気づきました。

と。しかし古田氏はとっくの昔、自著の中で「くんき」と。
2021年6月10日 15時13分

1992年に古田氏は自著で「郡支(くんし)国」と!?
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1673.html

ついでに、
古田氏は「郡支国」を知らなかった?
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1670.html
2021年6月10日 15時15分

同書p201に、斉明天皇と皇極天皇は別人だとあります。関心をお持ちの方は『古田武彦の古代史百問百答』を御覧ください。
2021年6月10日 15時21分

いいえ、こちらこそ!史料に基づいて意見を述べられる方には丁重に対応すべきかと考えておりますので、、、これからもなにかご意見ありましたら、何なりとお寄せ下さい。
2021年6月10日 15時40分

恐らく原田さんが仰ってた「禁書」のことでは?
2021年6月10日 16時14分

和銅元年(708)正月乙巳(11) 亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。
でしょう。で、原田さんのアドバイス。
https://twitter.com/gishigaku/status/1381073062699749379?s=20
「禁書」を「軍器」とする写本・版本があると注に見えます。
2021年6月10日 16時21分

史料から言えることには限界がありますよね。
>持ってるだけで処罰される書
何でしょうかねぇ、、、
>余計な情報
嘘を書こうと思ったら幾らでも嘘を書ける側が編纂しているんですから、嘘を書くつもりなら「都督府」とか使わないでしょうね。
2021年6月10日 16時33分

いやはや、実におもしろいですね!『古田武彦の古代史百問百答』は!p188
倭王が天子を称した時、中国に倣い都に都督を置いたと考えています。

都督って地方に置くもんだと思ってましたが、、、
2021年6月10日 16時52分

同頁、
『日本書紀』に出てくる筑紫都督(『岩波日本書紀』下、三六六ページ)境部連(さかいべのむらじ)が倭国の親唐政策を担って、帰りは〈以下略〉

え?これ、境部連石積が筑紫都督だった!という意味?境部連石積は天智4年に守君大石等と共に遣唐しますよね?2年間筑紫都督が留守?
2021年6月10日 17時1分

『書紀』の原文は【送大山下境部連石積等於筑紫都督府】ですから、筑紫都督府へ送る、としか読めないと思うんですが?

『岩波日本書紀』下、三六六ページでは、そういう訳になってるのかしらん?
2021年6月10日 17時3分

p188にその件について何やら説いていますね。読んでみます。
2021年6月10日 17時6分

版本にはない「於」を挿入し〈原文中略〉、其の意を歪めた形で現在理解されています。

確かに朝日でも原文に「於」は見えません。細かいところまでよく気がつくもので、、、しかし、境部連石積が筑紫都督なら、原文は【送大山下筑紫都督境部連石積等】とでもなるでしょう。
2021年6月10日 17時12分

『魏志』倭人伝でも【親魏倭王卑弥呼】と号が前についていますからね。
2021年6月10日 17時14分

倭が都督を置いたんですから、その都督府のある場所は〝地方〟ということになります。

そう言えば渡邉義浩氏の『魏志倭人伝の謎を解く』で、刺史と司隷校尉の違いが説かれてありました。一大率は刺史のようだ、ですから地方官。都督府も地方ですから、『魏志』の時代から唐代まで通じるものが、、、
2021年6月10日 17時19分

同頁に、
斉明天皇、正式にはサイミョウと読むべきと思いますが、これは九州王朝の天子です。

どひゃ~~~っ!荒唐無稽の『壬申大乱』が2001年、『古田武彦の古代史百問百答』が2004-2006。そりゃ、妄想も一段と昂進しているでしょけど、、、
2021年6月10日 18時9分

九州王朝自前の史料が無いんで、何でもいいからパクってくる!継体も景行も「九州王朝の天子の名前を近畿天皇家のように取り入れて、『日本書紀』はプラスアルファしています。」

こんな事しゃべってもついてくるファンというのは有り難いものですかねぇ、、、
2021年6月10日 18時13分

古田氏の『日本書紀』の取り扱い方を見てると、記述をそのまま〝事実として〟引いてきて立論の根拠にしているかと思えば、虚構だとして否定していたりする。その基準は何?

p196
残念ながら「詭弁」と言う他はない。

「詭弁」の総本山から「詭弁」と言われたら、逆に喜ぶべきかも(・_・;)
2021年6月10日 18時20分

九州王朝 https://blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/7df6216be4335667d6a890d76775c219

こういうブログが。2013-10-15 23:19:52
「九州王朝説を完全に真正面から否定する反論にはまだお目にかかっていないのである」

「完全に真正面から否定」の定義が不明ですが、どれくらいお読みになってるのかしらん?#原田実 氏の『#幻想の多元的古代』は?
2021年6月10日 18時27分

p196
しかし築造時点については、全く矛盾している。なぜなら、「白村江の敗戦」以後に、このような一大軍事網を築きうるはずがない。すでに「白村江の勝者」たる、郭務悰等が来日したあとであるからだ。

「築きうるはずがない」って古田氏が言ったって、築いたとあるんですからね、、、
2021年6月10日 18時35分

古田氏は誤字を訂正する場合、必要十分な論証が必要だと言ってましたよね?『書紀』を扱う場合も同じじゃないんですか?必要十分な論証が無い限り、みだりに記述を改めて読んではいけない!

違いますっけ?
2021年6月10日 18時38分

古田氏は水城の築造時期について疑問を呈していますが、古賀達也氏の2017年 6月12日『古田史学会報140号』「前畑土塁と水城の編年研究概況」では、
水城の造営年代(完成年)は七世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智三年(六六四)とする記事とも矛盾しないことになります。
2021年6月10日 18時44分

水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外です。

とあり、古田氏の考えと違いが?古賀稿は古田氏の没後ですね。
2021年6月10日 18時45分

「白村江の敗戦」以後に、このような一大軍事網を築きうるはずがない。

というのは古田氏の願望に過ぎません。天智6年(667)11月には 築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。これも否定しますか?否定しなきゃでしょうね。

はずがない!ですから、、、
2021年6月10日 18時51分

天智7年(668)7月には栗前王が筑紫率に。誰が任じたんでしょうか?「郭務悰等が来日したあと」が問題だ!というのなら、筑紫率も唐が任命した?

どうせト説唱えるんなら、唱え放題で行けば?
2021年6月10日 18時53分

天智10年(671)11月には郭務悰らが総勢2,400名、船47隻でやって来ると對馬國司が筑紫大宰府に言上します。【恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。】
2021年6月10日 18時58分

平たく訳せば、
我らの船は多く、急に行ったら防人が驚いて撃ちかけて来るかも。なので道久等を遣わして訪問の意図を述べることにしよう。

「白村江の勝者」たる、郭務悰等が3回目来日時の話。えらく低姿勢な「白村江の勝者」ですこと!
2021年6月10日 19時1分

この時の筑紫大宰は2年前の天智8年(669)1月任じられた蘇我赤兄臣でしょうね。誰が任じたんでしょうかね?

翌天智9年(670)2月又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。

あれれ?また城造ってますよ!しかも筑紫に2つ。古田氏は「全く矛盾している」「築きうるはずがない」と言いました。
2021年6月10日 19時7分

p199
九州王朝最大の証拠は、多利思北孤は男であり、女の推古と男のタリシホコが同一であるはずがないということです。

あれれ?「女の推古」ってのは『書紀』をまるまる信じてるんですよね?おかしいなぁ、、、『書紀』の斉明は偽りだ!のはずですが?推古は信じる?どして?
2021年6月10日 19時14分

信じないと「九州王朝最大の証拠」が消滅しちゃうから!当時の斉明女帝の実在を信じることは、古田「九州王朝説」にとって〝至上命題〟なのです!

スミマセンm(_ _)m 『書紀』は嘘書いてました。実は当時タリシホコという男帝が在位していたんです!

さて、どうしましょ?
2021年6月10日 19時18分

何故、タリシホコが「九州王朝最大の証拠」なのか?古田氏のいう「九州王朝説」の定義に照らせばすぐに明らかに。

紀元前から七世紀まで、倭国と呼ばれ中国と通好していたのは、卑弥呼以降も連綿と続いた九州王朝だった―。

タリシホコこそ「中国と通好していた」という必須条件を満たすからです。
2021年6月10日 19時20分

p215
質問:『日本書紀』の編纂をすすめさせた黒幕は...
回答:もちろん唐朝です。戦勝国です。その戦勝軍は、「天智の没後」も居残った、と思います。(「郭務悰等、帰る」という形で、何人帰ったか、何千人帰ったか、不明の形で書いてあるのが、「秘密の鍵」です。この点、改めて精しく書きます。)
2021年6月10日 22時46分

哀れを誘いますね~ 「何人帰ったか」なんて通例書いてないでしょうに、、、軒並み具体的に人数が書いてあるのに郭務悰の時だけ書いてない!というなら妄想に耽る余地もあるかも知れませんが、、、ホントに『書紀』読んでないのか、読者は読まないだろうと踏んでいるのか?
2021年6月10日 22時49分

p221には、例の「禁書」が登場。戦勝軍(唐)はいつまで居座っていたか?という自問に対して、
「唐軍が、九州王朝や近畿天皇家の背後にいた。」
だそうです。んで、アメリカの占領軍が敗戦後60年は「決して引き揚げて」はいませんよね。

なるほど、こういう物言いが、左派の人たちに受けるのか!?
2021年6月10日 23時5分

p226では「白村江(六六二)」とありますが、p230では「白村江の戦(六六二、あるいは六六三)」と両論併記。『失われた日本』では662一本だったような、、、因みにp222に「白鳳元年(白村江敗戦の直前)六一一」とありますが、何の間違いなんでしょうか?
2021年6月10日 23時16分

ちょっと引っかかった箇所。p232、劉仁願が『資治通鑑』等によると総章元年(天智七年)、雲南省に流されたという部分。確かに『資治通鑑』ではそのようにある。で、古田氏は「三年(以上)の誤差」と。
2021年6月10日 23時40分

しかし、同じ天智7年(668)10月 【大唐大將軍英公、打滅高麗。】という李勣による高句麗滅亡記事には「ズレ」など無いので、天智10年の記事の方に錯誤があるとみるほうが妥当。ズレ説を持ち出すのなら、他の記述についても整合性が取れるのかの検証が必須!
2021年6月10日 23時46分

就寝前にもう一つ。天智10年(671)11月 郭務悰が来倭した翌月に天智天皇が近江宮で崩御。翌天武元年(672)3月 郭務悰等が【咸着喪服三遍舉哀、向東稽首】、つまり東へ向いて天智の崩に対して哀悼の意を表しています。劉仁願が李守眞等を遣わした年次を3年ずらすなら、天智崩御と齟齬をきたすのでは?
2021年6月10日 23時58分

古田氏の「ズレ」メソッドが〝禁じ手〟というわけではないでしょうが、ある件について「ズレ」説を用いるなら、その前後の件についても不整合が生じないか検証しべきだと思います。裴世清訪倭の際の「12年のズレ」の場合はどうなるのか?
2021年6月11日 10時20分

小野妹子の次の遣隋使である犬上君御田耜、矢田部造が〝大唐に遣わ〟されたのが推古22年(大業十年=614)。これは当然、動かさないと小野妹子と年次が逆転。
2021年6月11日 10時24分

しかし12年動かすと、唐代に入りますが、まさに推古31年(626) 「大唐の学問者僧恵済、恵光、また医恵日、福因等並びに智洗爾等に従いて来れり」と同一年に。犬上君御田耜、12年ズラした矢田部造の遣唐と〝行き違い〟になりますし、626年もこれまたズラすとどうなるか?
2021年6月11日 10時27分

舒明2年(貞観四年=630) 大仁犬上三田耜と大仁薬師恵日を大唐に遣わすの扱いはどうなる?この際の遣使は、貞観五年(舒明3年=631)倭国遣使し方物を献ず、という高表仁来倭と対応していることは(目的地は異なると解釈)古田氏も認めているんですから、動かせません。
2021年6月11日 10時35分

つまり「ズレ」の適用範囲をどこまでとするか?範囲を設定したら、その間の諸記述と不整合が生じないか?これらを全て検証して初めて「ズレ」メソッドの合理性が裏付けられると思うんですが、古田氏の場合はその検証が置き去りにされているように見えます。
2021年6月11日 10時39分

昨夜もツイートしましたが、天智10年(671)11月、對馬國司が筑紫大宰府へ遣使して郭務悰等の来訪を告げます。実際に彼らの筑紫着がいつなのかは記載されていませんが、12月の天智崩御を告げられたのが天武元年(672)3月、そして咸着喪服三遍舉哀、向東稽首と、哀悼の意を表しています。
2021年6月11日 10時45分

この辺りで「3年のズレ」を想定するなら、周辺の記述との整合性を検証しなくてはならないはず。「咸着喪服三遍舉哀、向東稽首」など虚言だ!とするか、天智崩御も3年ズラしてあるとするか、、、

そのような検証を始めると、恐らく収集がつかなくなるのではないかと予測します。
2021年6月11日 10時47分

『古田武彦の古代史百問百答』のp200あたりから先をめくっているんですが、理解不能状態です。p214に、
北魏の『魏書』では、三世紀の魏朝と西晋朝の初期、北魏(当時は「鮮卑」)は、魏、西晋、高句麗らと厚い「国交」を結んでいたこと、『(北)魏書』に明記されています〈続く〉
2021年6月11日 11時42分

(注=例、百衲本『魏書』九六一九ページ下段)。

と読者向けとしては詳しく紹介してあります。この「ページ」は『史記』に始まる通巻ページで、古田氏所有の百衲本と手元のものが同一か不明なのですが、「九六一九ページ」にはそれらしき記述は見えませんので、違う編集になっているのかも。
2021年6月11日 11時47分

校点本を参照することもあるでしょうから、こういう場合は、◯◯伝とか書いて頂くと良かったのではないかと。

話はそういう問題ではなく、
北魏(当時は「鮮卑」)
としている点です。確かに北魏は鮮卑系の王朝ですが、鮮卑系の王朝は沢山興亡していますので、この表現は不適切ではないかと。
2021年6月11日 11時50分

フツー言われる北魏と通交のあったのは高句麗ですが、高句麗は南朝劉宋にも数多く遣使して(二股外交)いますので、古田氏がことさら北魏と高句麗との「国交」を特筆する意義が分かりません。百濟は延興二年【其王餘慶始遣使上表曰】とありますから、一度だけ北魏に通好し立伝されています。
2021年6月11日 12時0分

別の本でも感じたのですが、古田氏は中国南朝、北朝という文脈で九州王朝を捉えようとしているかに見えます。

ただ、中国史という視点から捉えているようには思えないので、「北魏」の扱い方にも違和感を感じます。
2021年6月11日 12時3分

ちょっと待って下さいよ!p215
「偽」は当時(七世紀後半)における「大義名分」上の「偽」である。すなわち「南朝」や「九州王朝」の史実こそ全くの「偽」である。だから、それらは『古事記』・『日本書紀』とも、姿を見せないのです。

あれれ?
2021年6月11日 13時7分

中国の南朝の本はどうか。『三国志』は「邪馬壹国」です。
って、『古代に真実を求めて 13集』p32では仰ってるのに。p214で『日本書紀』が「俾弥呼・壹與」の「国交記事」を挿入したと。矛盾してるようですが?それとも別の読み方があるのか?
2021年6月11日 13時10分

p215
①歴史を一貫して、近畿天皇家を「中心軸」とする。
②「九州王朝の歴史」を歴史の〝表面〟から、一切「カット」する。
③「九州王朝の歴史」の各部分を「近畿天皇家の歴史」として〝再活用〟する。
2021年6月11日 13時16分

④すなわち、「九州王朝の、倭王や天子」の形の主語を「近畿天皇家の中の各〝天皇〟」の形の主語に〝切り替え〟る。
⑤中国の南朝の存在は、一切「カット」する。

以下、興味のある方はお読み下さい。
2021年6月11日 13時17分

つまり、九州王朝の歴史は『記紀』から任意に抽出して組み立てれば良い!と言う宣言なんですね?これで堂々となんにも記録のない〝王国〟の歴史を語ることが出来るわけです。
2021年6月11日 13時21分

今から35年前、安本美典氏は、その著『古代九州王朝はなかった』巻末の「九州王朝は「透明魚」」の中で、古田氏の論法を喝破し、適切な比喩を用いて指摘しています。
2021年6月11日 13時29分

裴世清の来倭時の応対者の名前ですが、『隋書』と『書紀』では違っています。『隋書』に見える哥多毗とか阿輩臺などは『書紀』には見えませんが、九州王朝の歴史書には、それらが書いてあったんでしょうね。見てみたいものです。金石文でも無いかしらん、、、
2021年6月11日 13時35分

ちょっと目についたこと。p134で忌諱について。「跨犬」は普通、火を跨ぐとして理解されています。つまり「犬」は「火」の誤。しかし古田氏は、「仮説」と断りながら

たとえば同音の「軒」を避けて「犬」としたとという理解があります。

と。意味不明。
2021年6月11日 16時38分

「軒」を避けたのなら、もともと「跨軒」とあった!ということに。軒を跨ぐってどういう意味なんでしょうか?犬を跨ぐなら、まだ意味は通じますが、軒を跨ぐとは、これ如何に?

ひょっとして古田氏は忌諱の実際をあまりご存じなかったのかも、、、と勘ぐってしまいます。
2021年6月11日 16時41分

『百衲本三国志校勘記』の「四六〇五」個の異同については2004-2006年頃言及していますが、実際にこの校勘記の内容を具に読んだのか?疑問に思えます。二と三、比と北、郡と都など似た文字の異同がいかに多いか?気がついたはずです。『隋書校勘記』には、比と北の誤が実際に取り上げてあります。
2021年6月11日 17時3分

『隋書』倭(俀)国伝に限っても、古田氏が信拠する元大德刊本では、男弟が男第と、十二等が十五等と誤られており、既に修正されています。十五等には「修・見北史」と備註に。

古田氏は自身の信拠する百衲本『隋書』の影印原本に「十五等」とあったことなど、当初は想像もしていなかったでしょう。
2021年6月11日 17時8分

古田氏の「一字一句改変せず」という原文は、既に一部は張元済に拠って「改変」済みだったのです。

古田氏は第1書から「史料批判」という言葉を用い、史料の取り扱いについて自身の態度を明確にしてきましたが、その「史料批判」を支える一つの柱として〝校勘〟は必要不可欠なものだったはずです。
2021年6月11日 17時16分

この本は会員さんの質問に答えるという形なので、古代史万般について回答せねばならないわけです。大変だったでしょう。

脱線しましたが『隋書』中の話だったので取り上げてみました。
2021年6月11日 17時47分

p162に、
この「都督」のいるところは「都督府」です。すなわち、筑紫都督府です。

筑紫都督府が出てくるのは、天智6年(667)11月の一回だけで、その前後に出てくるのは、筑紫大宰、筑紫大宰帥、筑紫率、筑紫帥、筑紫大宰率、竺紫惣領、筑紫捴領などです。都督というのは天智6年頃だけいた?
2021年6月11日 17時57分

読者が『日本書紀』を繙けばすぐに分かってしまうような虚言を口にするのはなぜでしょう?

「磐井王朝の滅亡」で南朝から頂戴した冠号がどうなったのか?説明してもらいたかったですね。
2021年6月11日 18時7分

p164
*武彦今言
白村江の戦いのときの「九州王朝の天子」は、はじめ薩夜麻と考えていましたが、後に斉明天皇としました。薩夜麻は皇太子です。この点、一七四ページ参照。

荒唐無稽な説を唱えていれば、専門家からの批判も受けない。古田氏は自分の〝安全地帯〟を築き上げ、そこに籠ったのです。
2021年6月11日 18時33分

斉明天皇が九州王朝の天子だという話のネタ元の一つは、p189-190あたりに書いてある「サイミョウ」という地名のようですね。

松山ではサイミョウという名前で地名が残っていると合田さんが言って居られますが(以下略)

得意の地名付会。紫宸殿という地名もあるとか。斉明天皇はサイミョウと読むと。
2021年6月11日 18時48分

再三に亘りますが、安本氏の『古代九州王朝はなかった』から引きます。p236

古田氏のいうところの、「九州王朝」はなかった。それは、すべて古田氏の空想の所産である。想念と、それにもとづく解釈だけがあって、証拠はまったくあげられていない。実証とは無縁の思いつき史学である。
2021年6月11日 18時57分

古田氏の本を読んで感ずるのは、論証らしい論証にはなっていないにもかかわらず、古田氏は、証明をしたつもりになられ。想念にもとづく結論をくりかえし、声高に提示し、他説を論難するという傾向である。
2021年6月11日 18時59分

薄弱な根拠により、ある結論がくだされ、その結論をもとに、さらに次の結論がみちびかれていく。空想も、ここまで徹底すると、それなりのファンを生み出すものらしい。
2021年6月11日 19時0分

安本氏のこの本は1986年6月20日初版発行です。今から丁度35年前、安本氏は古田氏の所説について、このような指摘をしていますが、最近私が開く古田氏の世紀を跨ぐあたりの本の〝有様〟は、実に安本氏の指摘した通りの姿を呈しているように思えます。
2021年6月11日 19時4分

皇極天皇と斉明天皇とが同一人物だという根拠は何でしょうか?古田氏の空想を除外すれば、どこに論拠があるのか?

『真実に悔いなし 親鸞から俾弥呼へ 日本史の謎を解読して』で古田氏は言う。

この本をかきすすめるとき、指針は一つしかなかった。「虚偽を書くな。」この一語である。
2021年6月11日 19時7分

A「オレは宇宙人に逢った!
B「嘘つけ!
A「嘘だという証拠は?
B「・・・
よってAの「オレは宇宙人に逢った!」は〝真実〟としてまかり通ることになったとか(-_-)
2021年6月11日 19時15分

古田氏の「皇極天皇と斉明天皇とが同一人物だ」という主張に対し、根拠を挙げて反論否定すれば、その「根拠」を否定することで自説の正当性を主張することになるでしょう。

かかる場合の対策は、古田氏の内に抱える矛盾をつくしか無いのではと考えます。しかし、それを探し出すことにどんな意義が?
2021年6月11日 19時22分

安本書p241-242
では、私が、この本を書いた意味は?
将来も、古田武彦氏のような人はあらわれるであろうから、そのような人たちの言説を正しく判断するのに、多少なりとも、この本が役に立つところがあれば、私は、満足なのである。
2021年6月11日 19時32分

「古田武彦氏のような人」ではなく、古田氏の書籍が未だに強い影響力を持ち続け、新たなファンを獲得しているように見えます。安本氏は古田説の〝影響力〟を過小評価していたように思えます。
2021年6月11日 19時35分

あれ?皇極天皇と斉明天皇は同一人物なのに、何とち狂ったかな?晩飯が迫ってたので焦ったか?
2021年6月11日 21時14分

えっと、p198の会員の質問は
『日本書紀』はなぜ皇極天皇と斉明天皇を同一人物としたのでしょうか。同一人物とすることで、かえって近畿天皇家にデメリットになったのではないでしょうか。

こういう次元の質問と回答がかわされる世界なんですね、この〝会〟というのは、、、
2021年6月11日 22時14分

こういう会話を聞くにつけ、いつも思うのは、この方々の子供さんたちに、実は皇極天皇と斉明天皇とは別人で、斉明天皇は九州王朝の天子だったんだよ!と言って聞かせてるんだろうか?ってこと。

こう付け加えるのを忘れずに:
でもね、試験に出たら、先生の教えたとおりに書くんだよ。
2021年6月11日 22時20分

回答:白村江の時点で、現実に神籠石山城が軍事的目的で、太宰府を取り巻いていました。敗戦後投が来たときには、実戦に使われないまま残っていました。あれを壊すことが、唐が来た一番の目的です。このような重大なものを誰が造らせたのかと、当然唐は問題にします。

憶測・空想・妄想です。
2021年6月11日 22時29分

天智3年(664)5月 郭務悰はやって来て、同年12月に郭務悰等罷歸です。約7ヶ月の滞在。んで、【是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。】と天智紀にあります。郭務悰の来訪前か後かは不明ですが、水城を造っています。
2021年6月11日 22時33分

神籠石を壊すことが「唐が来た一番の目的」なら、水城も壊したんでしょうね?その翌年には達率答㶱春初を遣わして長門國に築城。達率憶禮福留・達率四比福夫を遣わして、筑紫國に築大野城と椽城を築きます。

郭務悰が帰ったから急いで造った?
2021年6月11日 22時36分

天智4年(665)9月には劉德高、百濟禰軍、郭務悰等がやって来ます。その12月には劉德高等罷歸です。3ヶ月!破壊作業を指令して帰ったのかな?

天智6年(667)11月には劉仁願が司馬法聰等を遣わしますが、たった4日でとんぼ返り。是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城です。
2021年6月11日 22時44分

神籠石群を「壊すことが、唐が来た一番の目的です」と言いながら、壊すどころか〝権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる〟状態。

「このような重大なものを誰が造らせたのかと、当然唐は問題にします」と言いながら、水城だ!大野城だ!椽城だ!と次から次に築造!なにこれ?
2021年6月11日 22時48分

天智8年(669)是歳 又大唐遣郭務悰等二千餘人。すると翌年(670)2月 又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。

どうも郭務悰等が来るたびに城とか造ってるみたいですが?これについて古田氏は何か言ってるんだろうか?
2021年6月11日 22時52分

p198の回答の続きです。
近畿天皇家は「九州王朝はなかった」ことにしていますので、「九州王朝がやった」という答えはできません。『日本書紀』では、名目上の責任者は斉明天皇としたわけです。名前が違うけれども、皇極天皇と同一人物です。
2021年6月11日 22時54分

斉明天皇はもうなくなっています、と言って懸命に唐の追求を免れました(実際は斉明天皇は伊豫に逃れていってるのですが)。

こういうストーリーが理解できるようでしたら、病院で受診の必要性があるでしょう。
2021年6月11日 22時56分

『書紀』からパーツを切り取ってきて、自説に都合のいいように援用する。こんなことが許されるのでしょうか?
2021年6月11日 23時4分

安本氏の同書p227に「中国文献の過信と日本文献の軽視」という項目を立てていますが、昨日からとりあげている劉仁願を巡る「3年のズレ」も同様。『新唐書』高麗伝や『資治通鑑』によれば668年姚州へ流されています。ところが『書紀』には671年に百濟鎭將劉仁願が。
2021年6月11日 23時8分

古田氏の基本的姿勢からすれば、中国文献を採り、日本文献を斥けるべき。しかも、
中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。中国の史書の多くは、当時の倭国との同時代史料だ。
とも古田氏は言う。『新唐書』も『資治通鑑』も11世紀の文献。
2021年6月11日 23時12分

『新唐書』や『資治通鑑』に誤りのある可能性もあるはずなのに、両者を非ともせず、『書紀』を是ともせず、両者の顔を立てるかのごとく「3年のズレ」。

それでいて時間的に前後の記事の整合性については未検証。あまりにも場当たり的なコジツケ手法でしかありません。
2021年6月11日 23時16分

p201
『日本書紀』の記述によれば、斉明七年(六六一)秋七月に崩御し、白村江向けの主力部隊が撤退することになります。

この「主力部隊が撤退」ってのはどの記述のことなんだろ?
2021年6月11日 23時34分

白村江の前年、天智元年(662)5月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國して百濟再興運動に助勢してますが、、、滅亡した百濟の国王に豐璋を立てて帰国させるんですよね。

これは「主力部隊」じゃないのかしらん、、、
2021年6月11日 23時38分

回答の続きです。
これは斉明天皇とありますが、さに非ず、死去したのは、後に「斉明」と諡された、近畿天皇家の首長「皇極」です。

はい、全然意味が分かりません(@_@;) 『書紀』の斉明(さいみょう)は九州王朝の天子ですってp190に書いてありますが、、、
2021年6月11日 23時45分

〝斉明ラッシュ〟で、ノーミソがスクランブルエッグ状態かも(@_@;) 

こういう時には、脳内浄化剤として #原田実 氏の『#幻想の多元的古代』を読むのが効果があるという経験則を活用!

さっそく紐解く、、、
2021年6月12日 10時35分

早速至言をピックアップ!p246
もとより古田氏は追試に耐ええない説を守ろうとするわけだから、論争には無理を重ねざるをえない。かくして、古代史学の方法の刷新を図ったはずの古田史学は、いつしか欺瞞の体系になっていってしまったのである。

まさしく日々、痛感させられております(-_-)
2021年6月12日 10時50分

p247には丸山真司氏の指摘も。
その〝ひらめき〟以後の氏自身の〝検証〟がおろそかであるとおもっている。

もう一歩のツッコミを。古田氏の〝ひらめき〟は自説に役立つもの〝のみ〟を拾い集める重要な作業を支えるもの。役に立たないものには目を向けない。よって素人目にも明らかな〝空洞〟が!
2021年6月12日 10時59分

〝原文の一字一句もみだりに改変せず〟という古田氏の設けたルールが、現実の校勘の世界からかけ離れたものであることに目を向けようとしなかった。

それが今世紀に入ってから「郡支国」に気づき、「四六〇五個」という発言を生むことに。
2021年6月12日 11時2分

p248の、作業仮説と追試についての原田氏の指摘は、まさしくその通り!

古田氏が著作の中で示す膨大にして一見精緻な考証は、実はあらかじめ定められた〝正解〟にいたるための手続きにすぎない。

そうなんです!聞き慣れない史料を持ち出してきて自説に援用するのも、同様。
2021年6月12日 11時8分

遠くまで出掛けて行って自説に役立つものを探し求め、拾い集めてくる。身近にある〝自説に反するもの〟には目を向けない。しかし、結局は、それらから逆襲を受け、追い込まれることになる。
2021年6月12日 11時11分

p250
しかし、古田氏はついにいかなる実証を伴えば、その原文改定が「安易」でなくなるのか、その基準を示したことは一度もない。

まさしくそうなんです。古田氏が誤写を認めたのは、知る限り以下の一度だけです。
2021年6月12日 11時20分

「邪馬壹国」『多元的古代の成立 上』所収p172
(一)〈単純な版本のミス〉
女三國――女王國

※「誤写を認めたのは」は魏志倭人伝において。
2021年6月12日 11時22分

原田氏の言われる通り、古田氏は「必要にして十分なる論証」を要請しながら、「必要にして十分なる論証」とは何か?について定義しません。定義されないものを達成するのは不可能ですから、永遠に古田氏の主張は護られることになります。
2021年6月12日 11時24分

p271
古代王朝の滅亡を自らの経験として語ることができる。―〝九州王朝〟とは、古田氏自らその滅亡を実見した〝大日本帝国〟を、古代に投影したものに他ならない。

古代史をやり始めた頃、〝反映法〟という方法があるというのを読みました。古田氏の思考は一種の〝反映法〟なのかも。
2021年6月12日 14時54分

p275
そもそも古田氏が『日本書紀』を偽書とする根拠は、『日本書紀』では九州王朝の存在が抹殺されているとみなしたからである。九州王朝の論理を徹底していくと、その説の根拠を否定せざるをえない。九州王朝説はその内部に自滅への萌芽を兆していたのだ。

古田説ファンは、多分気がついていない。
2021年6月12日 15時3分

p298-9
同様に古田氏の著作・論文を読み、どこが間違っているかを確かめ、考えていくことは、私たちの歴史理解を深める上で大いに役立つはずである。
問題提起の書として、また反面教師として、古田氏の著書・論文に、今後とも読みつがれていくだけの価値があることは間違いないのである。

完全同感!
2021年6月12日 15時31分

p323
古田氏が夏侯湛を勘違いしている点について、#原田実 氏は「古田氏は夏侯湛をいったい誰と間違えているのだろう。」と書いています。

本書刊行早々にどなたかからの指摘があったと思いますが、例の目くじら論争(反覆四千里)の当事者の夏侯淵じゃないでしょうか?
2021年6月12日 16時7分

p334
相手の文脈を捻じ曲げて奇説にしたてる

安本氏が似たようなケースを指摘されていましたので作図してあります。

2021年6月12日 16時26分

p339で、古田氏の呉志残卷に対する反論を取り上げますが、古田氏が恐らく今世紀に入って知ることになる『百衲本三国志校勘記』中の大量の異同を目の当たりにして、どう思ったのだろうか?と推察せずにはおられません。
2021年6月12日 17時17分

古田氏は、白崎・安本両氏に対して「厳正な古写本・古刊本の処理に馴れておられないための〝お手つき〟」と揶揄していますが、氏の人生の最終章で訪れた〝校勘の真実〟は、かなり残酷なものであったのではないかと思えます。

第1書p54での盧弼に対する侮蔑は忘れることの出来ない一場面です。
2021年6月12日 17時23分

p356
古田氏のファンの多くは自ら追試を行おうとはせず、その著書を古田氏の文才に流されるままに読み終えてしまう。古田氏のとって、文章を引き伸ばすことそれ自体が強弁・詭弁を隠すテクニックになっているというわけである。

一度読んでパッと染まり、その説に酔う。二度三度読むことなど
2021年6月12日 18時5分

恐らくなかろう。ましてや反対説を読んだり、用いられている基本史料に当たることなども到底期待できない。

酒も飲みすぎると悪酔いして悔やむ。ほろ酔い程度がもっとも心地よいのかも知れません。
2021年6月12日 18時8分

#原田実 氏の『幻想の多元的古代』末尾の書き下ろし2編を再読(多分再々読)しました。脳内のスクランブルエッグ状態がほぼ解消されたような気がします。

20世紀最後の年にこの本は出され、翌年21世紀最初の年には古田氏の『壬申大乱』が刊行されます。
2021年6月12日 18時46分

古田氏が仮に原田氏のこの本を手に取ったとしても、古田氏は最早引き返すことの出来ない下り坂を転げ落ちていくしか道はなかったでしょう。それでも熱心な支持者たちに最後まで囲まれ続けたでしょうから、それはそれで幸せだったのかも知れません。
2021年6月12日 18時51分

「超一流大学を首席で卒業された方々ばかり」だからこそ、未経験の事態に対して確証性バイアスが強く働いたのでは?自らが引き起こした大戦争に敗れるなど考えたくもないし楽観的になるのは当然かも。で、その先には地獄が!
https://twitter.com/zzsuzumebatizz/status/1403613659704676354?s=20
2021年6月12日 19時23分

この件についてやや詳しく触れている箇所を見つけました。2006/3/31刊『古代に真実を求めて 第9集』p33~

天智6年(667)11月 丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。

の「於」は卜部兼右本では見えるが校異に(北・勢・閣ナシ)と。
2021年6月12日 22時25分

北:北野神社本
勢:伊勢本
閣:内閣文庫本
この3本が卜部兼右本より古いと。それで「於」が無いとどういう読みになるか?古田氏は述べています。
2021年6月12日 22時28分

p35
とうぜん「送大山下境部連石積等筑紫都督府」は、大山下境部連石積等のいた筑紫都督府へ送る。つまり彼らのいた筑紫都督府へ送ることになります。〈中略〉それで見ますと、誰を送ったかと言いますと、この場合「司馬法聰」を遣わして、どこどこへ送った。〈続く〉
2021年6月12日 22時32分

この場合劉仁願がどこへ送ったのかと言いますと、「筑紫都督府」へ送った。そうしますと、この場合「大山下境部連石積等のいる都督府へ送った」と理解せざるを得ない。

誤読でしょう。これじゃ、司馬法聰を遣わして誰を送ったの?
2021年6月12日 22時36分

いったい「誰を送ったかと言いますと、この場合「司馬法聰」を遣わして、どこどこへ送った。」というのは日本語として意味不明。この文章は劉仁願が司馬法聰を遣わして誰それを送った、という意味。誰かを送り届けるだけの仕事だったから、司馬法聰は4日で帰った。
2021年6月12日 22時38分

同頁「つまり天子や上級の高官が、使い自身を送ることを「送使」という」の意味もワカラン。『書紀』の用例を見ればすぐ分かります。来客の帰還を送り届けるための使いのこと。この事例の文の【以小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石、爲送使。】は読んでの通り。
2021年6月12日 22時49分

【百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。】は、百濟鎭將の劉仁願は、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣わして、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
2021年6月12日 22時51分

p35
ところが今の後世写本『卜部兼右本』では、そう解釈したくなかった。ここでは「於」を入れて読むと、改竄(かいざん)ですが「大山下境部連石積等」がどこかにいて、それを連れて帰ったという意味にした。

え?境部連石積等は天智4年(665)、小錦守君大石等とともに遣唐されてますが?
2021年6月12日 22時56分

あらら~、次頁では「それもありうる」と。なんだこりゃ?

そして境部連石積の冠位が入唐中に上がっていることを問題視し、「もうこれから唐に帰順して従います。そういう誓いをして唐から帰ってきた。それで筑紫都督府に居座った。」

空想以外の何物でもない。
2021年6月12日 23時1分

そういう人物が居座っている都督府に、中国の百濟鎭將である劉仁願は、自分の懐(ふところ)刀とも言うべき人物上柱國司馬法聰を派遣した。

その懐刀は、たった4日で帰還した!何しに君はニッポンへ?
2021年6月12日 23時5分

遣唐使である境部連石積等を司馬法聰が筑紫都督府に送り届けてくれた。それで、伊吉連博德・笠臣諸石が司馬法聰帰還の送使とされた。

何の難しいこともない文章だと思いますよ。どこをどう読めば「大山下境部連石積等のいた筑紫都督府へ送る。」という意味に読めるのか?いったい、誰を送るのか?
2021年6月12日 23時9分

「隋の天子の弟としての「秦王」です」という古田氏の発言にも驚いて調べ、間違いであることが明らかになりましたが、古田氏の漢文読解力には疑問符が付きますね。古くは「屯苑」を地名だと誤解したり、、、
2021年6月12日 23時13分

p37
つまりこれで南朝系の「筑紫都督府」というものは最後の命脈を絶たれた。一巻の終わりとなった。そういうことなのです。

推古17年の初出以来、筑紫大宰、筑紫大宰帥、筑紫率、筑紫帥、筑紫大宰率、竺紫惣領など名称が転々している中に、筑紫都督府があるのに、これだけどうして南朝云々と?
2021年6月12日 23時18分

p41
しかし「日出処天子」は大和の勢力ではありません。心がけの悪い九州の筑紫都督府のあとを継いだ連中がやったことです。そのような無罪証明に、『日本書紀』を書いている。考えてみればそれ以外にありえない。

これまた意味がよく分からない。「日出処天子」は607年の話。筑紫都督府は667年。
2021年6月12日 23時37分

667年の「あとを継いだ連中が」607年に「日出処天子」?タイムマシンでもあったか?

どうも古田氏には倭の五王時代以来、607年までずっと筑紫都督府があった!と夢想してるんでしょう。何の根拠もなく、、、
2021年6月12日 23時40分

今日もまた痛感したこと。古田氏は7世紀初頭から世紀中30回ほど筑紫大宰の記事が『日本書紀』に出現することを〝ほとんど〟取り上げません。筑紫大宰はもちろんヤマトから任命派遣されたもの。

多数の筑紫大宰記事に読者の注意が向かないように誘導しているのではないかとさえ思えます。
2021年6月12日 23時55分

その多数の筑紫大宰記事の間に、ぽつんと存在している筑紫都督府が、どうして2世紀前の倭の五王時代の冠号「都督」と結びつくのか?

古田氏の想像以外に何の裏付けるものも存在しないと思うのですが、、、
2021年6月12日 23時58分

昨夜は倭の五王の時代と天智朝の都督が、どうしてつながるのか?との疑問をツイートしましたが、その2世紀の間には、古田氏が「磐井王朝の滅亡」という「一王朝の全面的敗北」という画期が古田九州王朝説においては厳然として存在するわけです。
2021年6月13日 10時48分

古田氏の想定する磐井の乱は530-531だったと思いますが、それから開皇、大業の遣使までの約70年間、九州王朝はどのような有様だったのか?この期間についての古田氏の強い主張を聞いたことがないように思います。
2021年6月13日 10時50分

#原田実 氏のご教示に拠れば、「肥後の翁」とかが九州王朝を継いだらしく想定されていたとか。また古賀氏も同様の考えを述べているようです。

しかし、それらは何の根拠もない想像にすぎないと言えます。
2021年6月13日 10時54分

一方『書紀』を見れば、どうか?安閑宣化朝には筑紫などに屯倉、官家が置かれ、大伴金村の子、磐と狭手彦が筑紫に遣わされ、磐はその執政に、狭手彦は海を渡って任那、百済問題に対処します。欽明朝以後、ヤマトと三韓の記事は頻出します。筑紫がヤマトの制圧下に入ったことが明白に記されます。
2021年6月13日 11時0分

古田氏は裴世清の来訪が九州王朝を目的地とするものだったと主張していますが、古田氏によって、ほとんど何も語られていない〝空白の70年〟の間に、どのようにして九州王朝は列島を代表する王権となったのか?

空想にしても語るべきだったのでは?
2021年6月13日 11時4分

筑紫都督府にかかる古田氏の誤読

「大山下境部連石積等の筑紫都督府に送る」などという解釈はあり得ない。古田氏が単に誤読しただけなのか?それとも「大山下境部連石積等」が筑紫都督府に「いる」ことにするための、意図的な〝誤読〟なのか?今の所判断がつかない。
2021年6月13日 14時43分

この件について再度確認しました。古田氏は『数理科学1978年3月』安本氏「邪馬台国論争と古代中国の「里」」を次のように引用。

安本さんは〝夷蛮伝短里〟説です。つまり異蛮伝だけは、短里で書かれており、その点何の誇張もない。

『東アジアの古代文化17号 1978秋』「九州王朝の方法―証言二―」p132
2021年6月13日 15時53分

安本氏の同稿から引きます。p58
(A)地域的短里説 〈中略〉すなわち、「短里説」は、『三国志』の「魏志」の「韓伝」「倭人伝」の部分について妥当すると考える。私は、この立場に立つ。

安本氏は〝倭韓短里説〟という立場を明言しています。
2021年6月13日 15時57分

それを古田氏は「わたしの短里説に対する、安本さんの批判論の大綱を左に要約してみましょう。」として全形のような、

安本さんは〝夷蛮伝短里〟説です。つまり異蛮伝だけは、短里で書かれており、その点何の誇張もない。

と、安本氏の主張を〝歪曲〟しています。その上で、以下のように断じます。
2021年6月13日 16時1分

従って夷蛮伝内の里数値の単位は、本伝(帝紀・列伝)内の里数値の単位とは別物、と見なそうとする安本説。それは遺憾ながら、結局成立しがたいようです。(東アジアの古代文化17号p142)

客観的な判定眼を持った人なら、即座に古田氏に他対してレッドカードを突きつけたでしょう。理由は明白!
2021年6月13日 16時5分

古田氏の同文は『多元的古代の成立 ―[下]邪馬壹国の展開』p101以降に再録されています。『東アジアの古代文化』はなかなか読めないかも知れませんが。古田書なら図書館にもあるでしょう。
2021年6月13日 16時10分

ふと【名曰卑彌呼。 宣帝之平公孫氏也】を思い出してしまいました。

名を卑彌呼と曰ふ。 宣帝の平げし公孫氏なり

と読む人がいました。いやいやネットで検索したら、今でも!古田氏の〝筑紫都督府読み〟よりは、幾分筋は通っているかも、、、

※既に『卑弥呼の正体』で #原田実 氏からご指摘あり。
2021年6月13日 16時40分

もちろんです。『晉書』に前後して成立した『梁書』『北史』を見れば、当代の人がどう解釈していたか明白です。両者とも「誅後」です。この件については既に、#原田実 氏の指摘があります。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1363.html

ついでに山形氏は、どうやら校勘の文も誤読してたみたいで、、、
2021年6月13日 22時30分

これは書いてあるとおりですね。解釈に違いはあっても読み方はふつう一つかと思いますが、、、
>やはり九州に倭国
いえいえ、当時の倭国はすでに畿内中心ですね。高表仁の記事が倭国条に見えていますから、、、問題は「日本国」とは何か?の方かと。
2021年6月13日 22時40分

変換ミスです(^^;)

当代⇨唐代
2021年6月13日 22時42分

>九州のことばかり
その「九州のこと」というのは、1,400年前の「九州のこと」なんでしょうか?
2021年6月13日 22時45分

それらは「倭」のことを書いているのだと解釈できませんか?別に、都周辺のことを書いたとも限りませんので。
2021年6月13日 22時49分

>首都の風俗を記述しないのか
そんなことは旅した人に聞かないと分からないですよね。はっきりしているのは裴世清や高表仁は畿内ヤマトを訪れているわけですから、当時の都はヤマト。
2021年6月13日 22時55分

卑弥呼の時代と『隋書』『旧唐書』の時代とは切り分けて考えたほうがいいでしょうね。間に、倭の五王の時代も挟まりますし、、、東遷説は根強いですね。もう一つ忘れてならないのが、重ね合わせ写真説ですね。『魏志』倭人伝には卑弥呼の時代と壹與の次代の情報が併存していると。
2021年6月13日 23時3分

変換ミスです(^^;)
壹與の次代

壹與の時代
2021年6月13日 23時4分

比定は難しいですね。それより卑弥呼の時代は九州、壹與の時代はヤマトという想定ですと、説明のつくことがあります。水行陸行2ヶ月とは、壹與のヤマトまでの日数だ!いまでも一定の方が、この立場を取っていると思います。
2021年6月13日 23時12分

文献からは多分、無理でしょう。考古学的には新発見でもあれば話は進むと思います。例えば、帯方郡の封泥ですね。これが出るとかなり決定的かと思います。それでも異論は出るでしょう。永遠のロマンと思っておいたほうがいいのかも、、、(^^;)
2021年6月13日 23時17分

へえ?そうなんですか!ネタ元はどこでしょう?
2021年6月13日 23時21分

なんだ、『宣和集古印史』に載ってるヤツですね。そんなものが未だにまかり通ってるんですか?半世紀前の1971/12/1刊、大庭脩『親魏倭王』の裏表紙カバーにデカデカと印刷されていますよ。
2021年6月13日 23時32分

箸墓の中でしょう。

なお、この『宣和集古印史』収載の親魏倭王印については、大庭脩氏の同書p104-106にかけて解説がしてあります。
2021年6月13日 23時36分

じゃ、誰かが臺與から引き継いで、、、京都にあったりして!
2021年6月13日 23時40分

ですね。
2021年6月13日 23時42分

こちらこそ!ちょうど就寝時間になりました()
2021年6月13日 23時45分

「親魏倭王」の周辺
これはおそらく、卑弥呼の後の倭国王、台与による中国王朝交代に対する朝貢でしょう。
とすれば、このときに「親魏倭王」印は返上され、
新たに「親晋倭王」印?をもらった可能性が高いんじゃないかと思うんですね。
http://scoby.blog.fc2.com/blog-entry-1345.html

こういう説も。金印は難しい!
2021年6月14日 8時28分

このブログにの掲げられてある親魏倭王印は大庭脩『親魏倭王』裏表紙カバーのものでしょうね。

しかし、滇王之印も現地の遺跡から出土しているわけですし、何より「漢委奴国王」印は志賀島から。
2021年6月14日 8時39分

金印「親魏倭王」の謎。(印影:親魏倭王) | 注文篆刻の「楽篆堂」:落款印・雅号印・遊印・雅印の通販(オーダー)
https://www.lucktendo.co.jp/blog/2013/12/post-431.php

『宣和集古印史』には「親魏倭王 銅印獣紐」って書いてあるんですね!偽物確定。同書の印影はよく引かれますが、「親魏倭王 銅印獣紐」は引かれない。
2021年6月14日 8時41分

いやいや、ちょっと待ってくださいよ!大庭脩『親魏倭王』p104の『好古日録』(宣和集古印史から親魏倭王印を引く)には印影の下に「親魏倭王 銅印獣紐」ではなく、ただ「親魏倭王」とだけ。ということは『好古日録』の藤貞幹が『宣和集古印史』から引く時、「親魏倭王 銅印獣紐」を外した?
2021年6月14日 8時47分

金印「親魏倭王」の謎。(印影:親魏倭王) | 注文篆刻の「楽篆堂」:落款印・雅号印・遊印・雅印の通販(オーダー)
https://www.lucktendo.co.jp/blog/2013/12/post-431.php

明の万暦時代、来行学という人物が山中の古墳墓の
中から徽宗の印譜らしきものを得たと称して刊行

あれ?どこかで聞いたような話だ!
2021年6月14日 8時49分

原田実氏の『幻想の多元的古代』「『三夢記』親鸞真作説への疑問」p185で、赤松秀俊氏の同書偽作説について、

その人々(たとえば赤松氏)に対してこそ〝必要にして十分な偽作の論証〟が厳しく求められる。

という古田氏の文を引いています。
2021年6月14日 13時34分

まあ、驚きますね。古田氏が『日本書紀』を好きなように切り刻み、取捨選択我田引水するにあたって〝必要にして十分な偽作の論証〟をやったのでしょうか?

身勝手な憶測で自分に都合のいいように解釈しているだけで、そこには、必要にして十分な「論証」など何も無いと思いますよ。
2021年6月14日 13時41分

『古代は輝いていたⅢ』p236

『書紀』成立をさかのぼるわずか半世紀、しかも、史書にとって事実を歪めて偽りの全焼失を記載すべき道理なし、これが喜田の史家としての根本の直観だったのである。

あれれ?斉明天皇も「『書紀』成立をさかのぼるわずか半世紀」なんですけど?

ダブスタじゃ?
2021年6月14日 17時25分

これは法隆寺再建論争について「災法隆寺、一屋無餘」との『書紀』の記述を是とする古田氏の主張。これに続けて、

その喜田の史眼の正しかったことは、若草伽藍の発掘によって、やがて証明されたこと、今は周知のところだ。建築史家・美術史家のさまざまの弁証は、ひっきょう空しかったのである。
2021年6月14日 18時0分

ことの本質は、これと同じだ。『日本書紀』にとって、聖徳太子の没年月日を書き歪めて何の得るところがあろう。また近畿天皇家にとって何のプラスか。
2021年6月14日 18時1分

このように考えてみれは、一般的な『日本書紀』不信論また造作説等の弁証をもって、この『書紀』の明載を葬り去ることの不当であること、それは天日のごとく明らかであろう。

壬申の乱は筑紫が舞台だとか、斉明天皇は九州王朝の天子だとか、真逆のように思えますけど?
2021年6月14日 18時2分

古田氏にしてみれば、自分の『書紀』操作は「一般的な『日本書紀』不信論」には当たらないということなのかも。

畿内にあるものに疑いを投げかけ、実はそれは九州王朝のものだ!という論法なんですね。あまりにも九州にブツが乏しいもんで、そういう手も使わねばならないのでしょう。
2021年6月14日 18時6分

九州王朝に関する古田氏の出版物が、これだけ膨大なのは、何もないところにあちこちからネタを集めてきて、九州王朝のブツに仕立てるための涙ぐましい作業の結果だと見ることができるでしょう。

斑鳩に行けば法隆寺が建ってるんですもんね。ハナから勝負になりません。
2021年6月14日 18時10分

半世紀近く前、訪れた法隆寺。雨が降っていましたっけ、、、

2021年6月14日 18時21分

第一部第一章 継体と筑紫の君 いつわりの反乱

法隆寺再建論争では、熱く『書紀』擁護に奔っていたかと思えば、ここでは「記紀の常套手段」(p14)として一転、疑惑の眼差!

【今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食】は無視なんでしょうね。甚だ都合が悪いから!
2021年6月14日 19時6分

継体紀の【今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食】の記事は、九州王朝説にとって〝あってはならぬ〟記述のはず。古田氏としは、これは偽りだ!と斥けたいでしょう。でもね、

その人々(たとえば赤松氏)に対してこそ〝必要にして十分な偽作の論証〟が厳しく求められる。

なんですよね。
2021年6月14日 19時20分

『古代は輝いていたⅢ』第一部をめくってみていますが、なかなか突っ込みどころ散在で食指が動きます。

p47
したがって、やはり『書紀』のその記載のない(2字傍点)ことは、史実にない(2字傍点)ことの反映、そう考えるほかはないのである。

「その」とは「磐井の律令」のこと。
2021年6月14日 22時19分

そりゃいいですね!6~7世紀の『日本書紀』には、一切九州王朝など影も形もありませんので、やはり『書紀』のその記載のないことは、史実にないことの反映、そう考えるほかはないのである。

めでたく、ジ・エンド!本書はs60.4.5刊行ですから、s48から12年の命でした!九州王朝説は!
2021年6月14日 22時22分

古田氏の手法:疑わしきは九州王朝の利益に

これですね。継体崩年についての3年の齟齬。裴世清や高表仁の記載の異同。あるいは『壬申大乱』での「その「秘密をにぎる鍵」は、「丁亥」の一語にあった」。

所謂未解決の問題をほじくって、あたかも九州王朝が関わっているかのように話を展開させます。
2021年6月14日 22時50分

第2書でも「三年のずれ」と併せて、継体25年条に引かれる「百濟本紀」の【日本天皇及太子皇子、倶崩薨】が未解決である点に着目して、九州王朝に結びつける。

古田氏の手法:疑わしきは九州王朝の利益に
2021年6月14日 22時57分

裁判に例えれば、原告代理人の弁護士は法定で延々と陳述するが、果たして原告が実在の人物であるかどうかは、未だ確認が取れていない!という状況かも知れません。そんな状況の中で

疑わしきは九州王朝の利益に

なんて言われても、じゃあ、原告を出廷させて下さい!と言われたらどうします?
2021年6月14日 23時1分

第2書での「三年のずれ」はp319です。p318では、

『日本書紀』中、従来最も難解だった個所。それは、継体紀の末尾である。

つまり、「従来最も難解だった個所」が、九州王朝説に拠れば、説明がつく!世界の不思議現象は、万能の宇宙人の仕業だとすれば、説明がつく!みたいな、、、
2021年6月14日 23時4分

んで、次回の公判で原告代理人弁護士が法定に提出したのは、
これが原告の着ていた服です
これが原告の履いていた靴です
これが原告の被っていた帽子です
これが原告のかけていた眼鏡ですetc.etc.
2021年6月14日 23時9分

p318からp351までの「磐井の「反乱と滅亡」」の中で、磐井の乱の直前・直接の原因と見られる、【近江毛野臣率衆六萬】が出てこないようなんですね。原田大六『新稿 磐井の反乱』でも、もちろん取り上げてあります。もちろん近江毛野臣が動員されたのは任那対策。磐井の乱を語る上で不可欠の記事。
2021年6月14日 23時23分

『古代は輝いていたⅢ』の方には取り上げてあるかも知れませんので、今一度めくってみます。
2021年6月14日 23時24分

p12~p27までの間に【近江毛野臣率衆六萬】は出てきませんね~ これ出すと当時の実勢がバレバレになるからでしょうか?

ため息一つ、そろそろおやすみなさい~
2021年6月14日 23時59分

昨夜のp12~p27はp12~p25でしたね。訂正します。それで!?と戸惑ったのがp22「ささやかな戦果」以降の部分。特にp24の「沈黙の史実」では、「逆に葛子側が大勝を博したのではないか。」と。第2書では確かに「磐井王朝の滅亡」とまで。「時を経過するうち」と述べていますから、考えが変わった?
2021年6月15日 9時9分

p20あたりから、どうも雲行きが怪しくなってきたんですよね。読んでいて、その憶測の逞しさに対して口あんぐり。古田氏自身が「右のような推定は、もちろん想像にすぎない」とするくらい。しかしこうも続けます。「しかし、そのような想像の方が、史料事実を説明しうるように思える。」
2021年6月15日 9時17分

「したがってその西進軍は、磐井への味方(2字傍点)の軍として、筑紫に到着したのではあるまいか。」

あのう、、、継体紀読んでますか?「わたしたちは現在、『日本書紀』の継体紀を、初めの方から読む。」って、読んでたらそんな発言はナシ!
2021年6月15日 9時21分

継体紀21年4月の冒頭、「近江毛野臣率衆六萬」と。6万ですよ!白村江の663年でさえ「二萬七千人」。『書紀』の記述によれば、磐井は新羅からそそのかされて近江毛野臣の任那救援軍を妨害する挙に出ます。この辺りの解釈に諸説ありとしても、古田氏の解釈はあきらかに〝ためにする〟ものと言えます。
2021年6月15日 9時29分

p25
「糟屋屯倉の献上」問題も、これに対する、継体側の譲歩(近畿側の屯倉献上等)の存在した可能性もあろう。

何を言ってるのか?安閑2年(535)5月には筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豐國滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉・火國春日部屯倉をヤマトが置いてるではないか!
2021年6月15日 10時9分

翌宣化元年(536)5月には、那津之口に官家を修造し、筑紫肥豐の物資を集めさせます。どこから「逆に葛子側が大勝」なんて想像が湧くのか?「可能性もあろう」って、何の根拠もなくて、何の「可能性」?

磐井の乱に関わる近江毛野臣や大伴金村は半島対応に於いて健在です。古田氏の想像は夢想!
2021年6月15日 10時20分

第2書での「磐井王朝の滅亡」はある意味史料に基づいていますが、この『古代は輝いていたⅢ』での「逆に葛子側が大勝」は全く根拠がありません。

そうそう、宣化元年(536)5月に那津屯倉が置かれますが、翌年には大伴金村大連がその子磐と狹手彥を遣わし、狭手彦は渡海、磐は筑紫の執政に当たります。
2021年6月15日 10時25分

【磐、留筑紫執其國政、以備三韓】です。「大勝」した「葛子」は何をしてた?

古田氏の夢想にとって都合の悪い記事が『書紀』にはあります。古田氏はそれらに触れようとしません。
2021年6月15日 10時28分

この部分で特に難解なのが、「筑紫以西汝制之」の解釈。p19
この場合、右の発言は前提として、磐井の勢力圏が山口県以東にも広がつていたことをしめしている。それでなければ「長門以東は、朕之を制せむ」の一言はナンセンスだ。

え?どして?
2021年6月15日 10時39分

古田氏自身がp18にAとして「磐井・火(傍点)・豊(傍点)・二国に掩ひ拠りて(8字傍点)」と引いている通り、「磐井の勢力圏」は筑紫火豊。だから、乱後この3国に多くの屯倉が置かれた。当たり前の解釈でしょう。

その上、弥生時代の矛・戈まで持ち出してくるとは!
2021年6月15日 10時44分

p25の最後、
要するに、一方(2字傍点)(近畿天皇家側)の記録(『日本書紀』)のみによって、交戦終結後の両者の実勢力を客観的に判定すること、それは、実証上、きわめて困難なのである。

一方の記録だけで判定するのがダメだというのなら、他方の記録も出せばいいんじゃ?
2021年6月15日 10時56分

要するにこの一文は、古田氏が『書紀』に縛られず、空想をたくましくするという〝宣言〟と受け取っていいんでしょう。

p24③筑紫の君側には、北に洛東江沿いの「倭地」の倭軍があり、南に無傷の肥後軍等があった。物部軍は急を知って南下・北上した両軍の夾撃をうけたものと思われる。

完全に妄想!
2021年6月15日 11時0分

乱後、近江毛野臣が渡海し、任那に駐留している記述は、どう解釈するんでしょうか?「筑紫の君側には、北に洛東江沿いの「倭地」の倭軍があり」など夢想。

しかも、「肥後軍等」も根拠不明。欽明朝には阿倍臣・佐伯連・播磨直、率筑紫國舟師を遣わし百濟王子惠を護送。誰が遣わしたかは言わずもがな。
2021年6月15日 11時16分

同年の記事には、筑紫君兒、火中君弟という筑紫火君が登場。遣わされ要所を護らせたとあります。誰が遣わした?

「両軍の夾撃をうけたものと思われる」には、何の根拠もありません!
2021年6月15日 11時20分

p24-25④その上、先にものべたように、筑紫の君側は、西日本海域の制海権をもっていたと思われるから、この点からも、物部郡の勝利持続は困難である。

どこからそういう結論が?磐井の乱など、ものともせずにヤマトは半島対策に尽力していますが?
2021年6月15日 15時20分

⑤逆に、葛子側にも、後半の優勢化にもかかわらず、交戦を継続したり、さらに近畿への東征へと戦闘を拡大しえぬ情勢があった。それは、洛東江流域において、新羅軍や高句麗軍と対峙していたからである。

これまた夢想。その「対峙していた」勢力が「葛子側」だという根拠は?
2021年6月15日 15時23分

乱から年明けての3月、またまた近江毛野臣が安羅に遣わされ、新羅と百濟のせめぎあいの対処に当たります。どこに「葛子側」が出てくるのか?

翌年継体24年(530)にかけて、毛野臣が頻出し、駆けずり回っていることが窺えます。毛野臣がその後どうなったかは『書紀』をお読みいただきたく、、、
2021年6月15日 15時33分

古田氏は、何もないところに九州王朝を見出してしまうという幻覚症状に陥られたと見ていいでしょう。

⑥がまた興味深い。
2021年6月15日 15時35分

『日本書紀』は、少なくとも日本列島内においては、敗北の記事がない。これは史実(2字傍点)において、無敗の連続だったのではない。この史書は、歴代の天皇の勲功を記す、という立場になっており、そのため、敗北や劣勢の記事は、カットされたためと思われる。

不思議ですね~
2021年6月15日 15時38分

自分で「葛子側の大勝」を夢想し、「両軍の夾撃」も夢想し、それが書いてないのは「カットされた」のだと。

そんなものは最初からなかったんですよ!
2021年6月15日 15時41分

⑦対葛子戦も、そのケースのひとつである。

はあ?「対葛子戦」でヤマトが「敗北や劣勢」だった?どこにそんな話が?どこからそういう妄想が?全く何の客観的根拠もありません!
2021年6月15日 15時43分

p25の末尾。
「糟屋屯倉の献上」問題も、これに対する、継体側の譲歩(近畿側の屯倉献上等)の存在した可能性もあろう。

昨年でしたか、ニュースショーに出た勇ましい若手女医さんが「寝言は寝て言え!」と口走りましたが、同じ気分です。
2021年6月15日 15時45分

何度も書きます。磐井の乱後、筑紫は大和の制圧下に入ったんです。『書紀』の記述に従う限り、そのような歴史しか復元できません。

それでも6~7世紀の九州王朝史を組み立てたいのなら、『書紀』の記述など、まったく無視して自由に書けばいい。どうせ根拠が伴わないのなら、完全創作のほうがマシ。
2021年6月15日 15時47分

p14-15
雄略紀の呉国貢献について、『書紀』が北朝側の大義名分論に同じていた、とし、北朝にとっては、久しく南朝は天子の国ではなかった。「呉国」が長らく反逆していた。これが大義名分上の立場だったのである。

分りました!そうしましょう!
2021年6月15日 16時16分

なので『日本書紀』はその大義名分論にしたがって、倭の五王時代の南朝との通交を〝カットした〟のだ!

古田氏は〝カットメソッド〟もお持ちなんで、これも許容されるでしょう。倭の五王は畿内の諸天皇だった。北朝である唐の大義名分に同じて、南朝との通交を記録から〝カット〟した。
2021年6月15日 16時18分

『書紀』に南朝に通好した倭の五王の記載がないのは、そういうことにしましょう。古田氏のメソッドに従ったんです。

つまり、倭の五王を九州王朝の王たちだとする仮説は、古田氏自身のメソッドにより不要となりました。
2021年6月15日 16時20分

例の『三夢記』に関する論争上に出てくる古田氏の発言を再掲しておきます。
https://twitter.com/hyena_no/status/1404296157023543299?s=20

『書紀』に偽りがあるというのなら、〝必要にして十分な偽作の論証〟が厳しく求められる。結局古田氏は、自分の吐き出した蜘蛛の糸に絡まってしまったのです。
2021年6月15日 16時31分

近江毛野臣が6万の軍勢を率い、新羅に併呑された南加羅、喙、己呑を復興して任那に合わせようとした。しかし新羅がこれを知り、磐井に賂を渡し、毛野臣の軍を遮るよう勧めた。磐井がこれに応じたので、天皇が物部麁鹿火、大伴金村に諮って麁鹿火を派遣した。そして御井で戦闘、磐井は斬られます。
2021年6月15日 16時44分

【今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食】が誰に対しての言葉かは『書紀』で明記してありませんが、原田大六は『新稿 磐井の反乱』p33で、近江毛野臣だとしています。「共器同食」は同じ釜の飯を食った、という意味でしょうから、磐井と毛野臣との過去が浮かんできそうです。
2021年6月15日 16時49分

「昔爲吾伴」とはどういう意味でしょう。平たく言えば、〝昔は友達だったじゃないか!〟というあたりでしょう。

原田氏は慎重ながら、「まだ若く身分も定まらぬ頃に、あるいは南朝鮮の戦場で戦友として交際したことがあったのかも知れない。」とし、
2021年6月15日 16時55分

「これをうがち過ぎる見解とするならば、「共器同食」のような触れあいが、他のいずれかの場所であったとしなければならない。」と結んでいます。

さて、「昔爲吾伴」で「共器同食」とは二人(?)にどのような過去があった?
2021年6月15日 16時57分

「昔爲吾伴」で「共器同食」の相手は誰?原田大六氏は近江毛野臣としていますが、もう少し飛躍して大伴金村とか大胆に継体天皇!なんて説もすでに出ているかも知れません。
2021年6月15日 18時36分

第二章は任那日本府を取り上げますが、わずか10頁。任那日本府を扱った本としては井上秀雄氏の『任那日本府と倭』が著名。まだ読んだことがありませんが、400頁超とか。手元にあるものでは小学館『日本の歴史 別巻1 任那と日本』が。これでも300頁超。それを10頁で!
2021年6月15日 18時42分

この10頁で一見して驚くのは、『日本書紀』からの引例がごく僅か!ということ。欽明朝は特に任那関連記事が頻出しますが、古田氏はほとんど触れていません。p30で、「任那日本府は実在した。それは九州王朝の版図の一部であった」と結論づけています。

実際に『書紀』を開けば、その虚は明白。
2021年6月15日 18時47分

任那関連記事に多出する人名のうち、いずれが九州王朝の人間なのか?古田氏は指摘できるのでしょうか?それとも、〝カット〟されたとでも?

p31には、以下のような夢想を述べます。
2021年6月15日 18時52分

筑紫の君側は、継体の反乱に対して、一応後半優勢に終ったものの、以後、北の新羅と東の近畿天皇家側と、いわば両面の敵を持つこととなった。そのような形勢の、一つの反映、それがこの任那の滅亡だったのではないであろうか。

またぞろ「優勢」という夢物語が。
2021年6月15日 18時55分

『古代は輝いていたⅢ』の刊行が1985年、1973年には井上 秀雄氏の『任那日本府と倭』が出ています。任那について考究するのなら、井上書くらい紐解いて吟味し、そこから自説を述べて然るべきでは?

古田氏はこれまで、そのように先行説に注意を払ってきたはずじゃなかったですか?
2021年6月15日 18時58分

10頁のうち、『翰苑』に触れて約2頁、矛戈の出土で1頁余、地名付会で2頁、「倶に崩薨」で2頁。『日本書紀』を明確に引いているのは欽明23年春正月の任那滅亡記事のみ。

任那を九州王朝の裏付けとして言及せざるを得なかったにしても、余りの粗略に却って何らかの不都合さを裏付けているかのよう。
2021年6月15日 19時7分

「北の新羅と東の近畿天皇家側と、いわば両面の敵」のうち、「筑紫の君側」にとって、「近畿天皇家側」が「敵」であるとする記述は『日本書紀』のどこに見えているんでしょうか?

読者は『日本書紀』など読まないだろう!と踏んでいるとしか思えません。
2021年6月15日 19時13分

1973/8/8刊『失われた九州王朝』p338,479で「磐井の滅亡」という言葉が使われています。
1985/4/5刊『古代は輝いていたⅢ』p31に同じく。
1998/2/19刊『失われた日本』p145では「継体と磐井の決裂」に。

ストーリーが変わってきているようですね。第2書では「一王朝の全面的敗北」なんて。
2021年6月15日 22時30分

改めて目次を見てみたら、「第三部 六、七世紀の東アジアと日本列島」と。面白そうなんで、第二部までは飛ばして、さっそく読んでみます。
2021年6月15日 22時34分

読み終わるまでツイートしないと思ってましたが、我慢できずに書きます。p143

いずれとも分からない。乏しい史料をもとに、わたしたちは想像しすぎてはならないであろう。

あのう、、、わたし「たち」って何ですか?「想像しすぎて」いるのは、古田さん!あなたなんですよ!自覚ないの?
2021年6月15日 22時46分

はれれ?「第一章 空白の世紀」が4頁で終わっちゃいました!

『三国遺事』から一文引用して、何やら想像してますが、結局「わたしたちは想像しすぎてはならないであろう」で終り。そもそも頭の「倭国史書の欠如」からして変。p141で『日本書紀』への不信感を述べるのみ。
2021年6月15日 22時52分

そして仰ることがふるってます!
歴史学では、遺存史料の有無という限界をほしいままに超えることは許されない。

なにこれ?古田氏の仮説は、その「限界をほしいままに超え」てると思いますけど?「法隆寺の中の九州王朝」なんてサブタイトルによく現れています。
2021年6月15日 22時55分

p140
北朝系の『魏書』『周書』『北斉書』等には、もちろん倭国の記事はない。したがって今まで多く依拠してきた中国史書、その中の倭国記事が欠如しているのである。

あのう、『日本書紀』にはその時代の記事がてんこ盛りなんですけど、、、
2021年6月15日 22時59分

自分で不信感を創出して『書紀』を利用しないメソッドを創り出したんですよね。これで『書紀』の記述の束縛から開放される!しかし、中国史書は「欠如」している。倭国の歴史が組み立てられなくなったという当然の事態を招いたわけです。
2021年6月15日 23時1分

それともう一つ気がついたこと。p143
倭王は、その南朝の天子のもとで、「使持節・都督・六国諸軍事・・・・・・」を称してきた。しかし今は、その名分を失ったのである。

「今」とは陳が隋に滅ぼされた時点。「都督」の「名分」を失ったのに、7世紀後半に突如「筑紫都督府」が出てくる?
2021年6月15日 23時6分

p144からの「第二章 出現した出雲の金石文」は、何のための文かよく分からない。1冊の本になりうる任那をたった4頁で済ませているのに、10文字にも満たない金石文のために13頁を費やしているというアンバランス!

任那については余程書くことが無かったのかしらん、、、
2021年6月15日 23時32分

そうそう、p150には、
しかし、わたしの立場はちがう。多元史観だ。

『史学雑誌』九一-七(昭和57年7月)に掲載された古田氏の「多元的古代の成立―邪馬壹国の方法とその展開―」の3年後、『古代は輝いていたⅢ』が刊行。「多元史観」という用語の使用としては早いほうですかね。
2021年6月15日 23時39分

この辺りについては既に #原田実 さんが書いておられました。

古田氏としてはデビューして程ない「多元史観」アピールのための岡田山鉄刀銘言及なんでしょうね。
2021年6月15日 23時42分

p157からは「第三章 隋朝の南北統一と俀国」というタイトルで。これは面白そう!

じっくり読みましょう!
2021年6月15日 23時43分

おっと、午前0時に!続きは明日!おやすみなさい~zzz
2021年6月15日 23時50分

朝から『古代は輝いていたⅢ』第三部第三章を読んでいますが、古田氏には珍しく『通典』が出てきましたので、それに関して調べ物をしていました。

第三章はやや長く、30数頁ありますが、内容的には第2書の補足再説の趣かと。
2021年6月16日 10時41分

気になったのは『隋書』裴清の道行き文中の「附庸」について古田氏が説いている個所。『隋書』新羅伝中に「迦羅国に附庸(2字傍点)す。」とある件について(p188)。

p190で中華書局校点本『隋書』の校勘(古田氏は「注記」と)に、「疑うらくは、「於」字は是れ、「諸」字の訛(あやまり)か」と。
2021年6月16日 10時48分

『隋書』のままだと「迦羅国に附庸」となりますが、『通典』の校勘を受け入れれば「迦羅国を附庸」となります。

古田氏はp191で、
その上、『通典』や『三国史記』のしめす史実、それ自身は、何等あやまりではない。
と述べています。
2021年6月16日 10時52分

そりゃそうでしょう。任那や加羅諸国の滅亡は『三国史記』『日本書紀』にもありますしね。そして、

したがって中華書局本の編者は、五世紀前半の史実(加羅国=主と、新羅国=従の関係)と六世紀後半の史実(新羅の加羅国滅亡)とを混同したのではあるまいか。

とします。
2021年6月16日 10時58分

しかし、この「五世紀前半の史実(加羅国=主と、新羅国=従の関係)」って想像の域を出ないでしょ?

そもそも問題の箇所の原文は次の通り。
【其先附庸於百濟,後因百濟征高麗,高麗人不堪戎役,相率歸之,遂致強盛,因襲百濟 附庸於迦羅國。】
2021年6月16日 11時6分

古田氏による訳はp188に載っていますが、「遂に強盛を致す」というのは新羅国のことで、続けて「因りて百済を襲い」は流れとして是。その次、「迦羅国に附庸す。」というのは明らかに変!

強盛を致す⇨百済を襲う⇨迦羅国に附庸

ってドユイミ?
2021年6月16日 11時12分

p190では、口癖の「原文を改定しようとするものだ」の登場!13世紀、元大德刊本の文面を「原文」として尊奉し、他書の記述を斥けます。古田氏自身、『通典』『三国史記』の示す史実に異を唱えているわけではないのに、原文遵奉の余り「五世紀前半の史実(加羅国=主と、新羅国=従の関係)」などと。
2021年6月16日 11時19分

p190では、
しかし、ここには、根本的な史料批判上のミスがあるように、わたしには思われる。

と。「史料批判」とは、現存文面をただ遵奉することではなく、広く校勘に耳を傾けることも大切ではないかと、「わたしには思われる」。
2021年6月16日 11時23分

ついでに:『太平御覧』巻七八一では『南史』から引いて「於迦羅国焉」。『太平寰宇記』一七四ではやや文が違っていて【因襲加羅任䢷諸國滅之並三韓之故地也】。「䢷」は[舟+阝]。
2021年6月16日 11時40分

もうお昼かぁ、、、我ながら、なにゆえ一銭の得にもならない〝古田調べ〟をやるんだろうか?と頭をよぎることも、、、

それより飯だ飯だ!
2021年6月16日 11時58分

「4頁」ではなく10頁でしたね。訂正します。
2021年6月16日 12時19分

わたしたちが日常、大変恩恵に浴しているものでも、そのオリジンを知らないことは多々ありますね。コンピュータの起源も論理的部分について遡れば、どこまで遡れるのか、、、
https://twitter.com/gishigaku/status/1404978205795098624?s=20
2021年6月16日 13時47分

この件については、川村明氏も「後の用例は、解釈が若干難しいが」と、やや悩んでおられるようです。

古田氏も文意そのものには特に異論は無さそう。史的流れからも迦羅国「を」附庸す、でいいでしょう。
2021年6月16日 17時3分

さて、第三章は内容的には第2書の補足再説の趣だと、午前中に述べましたが、第2書の内容と、どこまで被っているかを確かめながらだと手間がかかりますので、気にせず粗製濫発してみます。

p157 南朝の滅亡 「ついに七世紀にきた。」

そうですね!待望の「七世紀」です。
2021年6月16日 17時18分

p159
要するに「卑弥呼の国」=「多利思北孤の国」なのだ。

第2書でいうところの「連鎖の論理」(の一部分)ですね。もちろん、邪馬台国畿内説のばあいにも通用するんで、この部分のみを採ると特段古田氏に有益でもないと思うんですが、、、
2021年6月16日 17時28分

『宋史』日本伝では【日本國者,本倭奴國也】として【自後漢始朝貢,歷魏、晉、宋隋皆來貢,唐永徽、顯慶、長安、開元、天寶、上元、貞元、元和、開成中,並遣使入朝。】と歴代王朝への遣使を明記していますから、結局は倭奴国から長安以降の日本国遣使も、同一国によるものと見ています。
2021年6月16日 18時7分

p160
(B)魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず。
とのべているように、「倭の五王」もまた、この多利思北孤の「俀国」と同一王朝であることをのべているのであった。

それはヤマトであっても同じ。
2021年6月16日 18時11分

p161の、
「東高くして西下り」の一句は、日本列島では、各地で該当しうる状況である。したがって、地域特定力はない。

と。本書は1985/4/5の刊行。1980/10/20刊の『邪馬一国の証明』p319では、

「東高」とは、他ならぬ〝阿蘇山の山系を指している〟のだ。

と仰ってますので、5年間で修正?
2021年6月16日 18時20分

p162
このように、直接会って話をして、それでなおかつ「男と女」の見分けのつかぬものだろうか。

古田氏:
歴史学では、遺存史料の有無という限界をほしいままに超えることは許されない。

九州王朝独自の史料が欠如しているんですね。ですから、古田氏の主張は、あくまでも〝解釈論〟ですよね。
2021年6月16日 18時28分

裴世清と俀王との面会は、推古紀の記述から大凡妥当なものと言っていいでしょう。森田悌『推古朝と聖徳太子』p125「小墾田宮推測図」を元に自作してみました。推古16年(608)8月の記述からは、推古と裴世清が直接対面したとは思えないですね。

2021年6月16日 18時37分

古田氏は同頁で、
このように考えてくると、この多利思北孤を推古天皇と見なすことは、絶望的だ。しかし、従来のすべての論者は、この絶望の土俵の中に、日本古代史を構築してきたのであった。

こういうフレーズが読者を酔わせるんでしょうね。
2021年6月16日 18時44分

しかし、古田氏は次のようにも言いました。

歴史学では、遺存史料の有無という限界をほしいままに超えることは許されない。

九州王朝の「遺存史料の有無という限界をほしいままに超えることは許されない」!言うまでもなく、『隋書』は九州王朝によって編纂されたものではありません。
2021年6月16日 18時46分

実は、あまり取り上げられませんが、裴世清帰国の2年後に新羅と任那(国としては既に滅亡)の使いがやって来ます。10/8入京し、莊馬(かざりうま)で来迎を受けます。同9日、朝廷に詣り、裴世清の時に似たシーンが記録されています。使いが直接天子と言葉をかわすなど無いようですね。
2021年6月16日 18時53分

「絶望の土俵の中に」いるのは、実は古田氏自身なのです。古田氏が九州王朝説を唱え、発展させるにあたって、どれだけ広範囲に材料をかき集めたか?涙ぐましい感さえあります。そのことは実に、「遺存史料の有無という限界」を如実に表しているのです。
2021年6月16日 18時57分

p162「多利思北孤」の意義
古田氏は『失われた日本』では、「多利思比(あるいは北)孤」と「比」に配慮も見せていますが、それは後のこと。1985年『古代は輝いていたⅢ』時点では、未だ「多利思北孤」です。

これは単純な誤写誤刻なんです。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
2021年6月16日 19時19分

これは「垂りし矛」の意ではあるまいか。充ち足りた筑紫矛の王者として、ふさわしい名前であろう。あの「天日矛」などと同類の名である。

馬鹿馬鹿しい限りです。「筑紫矛」って弥生時代の青銅器ですよ。7世紀の王者に「筑紫矛」?「天日矛」は新羅の王子の名でしょ?
2021年6月16日 19時23分

『北史』は「多利思比孤」であることについて、古田氏は第2書p282で「『隋書』にもとづいて「意改」を加えたものだ。史料のオリジナリティ(原初性)はない。」として、第1書p90参照とします。お持ちの方はご覧いただければと思います。他書との何項目かの比較表のみで、この件には触れず。
2021年6月16日 19時28分

その上、誤植まで。そもそも「意改」って何でしょう?辞書にも載ってないんですよね。多分、意味を以て改める、くらいの意味なんでしょう。『北史』はどういう理由で『隋書』の「北」を「比」に改めたのか?分かる方、いらっしゃいますか?
2021年6月16日 19時31分

多利思北孤は多利思比孤の誤。阿毎多利思比孤で、和名「天足彦」。古田氏は第2書p280で、このような天皇諡号由来説を、多利思北孤が是として「裴世清の「視力」の問題」などと揶揄論難しています。

原稿文面墨守主義の古田氏が陥った最大の陥穽が、誤字遵奉なのです。誤写を正せば天足彦!
2021年6月16日 22時22分

原稿⇨現行(^^;)

「筑紫矛」や「天日矛」に比して、どちらが筋が通っているか明らかでしょう。そもそも、『隋書』に出てくる人名が、いちいち借音なのに、どうして多利思北孤だけが一字一字に意味を持たせてあるのか?
2021年6月16日 22時26分

『古代は輝いていたⅢ』p166
隅田八幡の人物画像鏡が出てきます。銘文の「意柴沙加宮」について、仰ることがふるってます。

この「意柴沙加宮」は「石坂宮」。太宰府のそば(筑紫野市大字原)に小字として「石坂」がある。太宰府や天満宮の領域を眼下に見る丘陵地帯だ。
2021年6月16日 22時36分

#原田実 氏も既に言及されていますが、隅田八幡の人物画像鏡って和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵するものですよ。太宰府そばの小字名「石坂」と、どういう関係が?そもそも〝おしさか〟でしょう、この読みは。
2021年6月16日 22時43分

『天寿国繡帳』に見える欽明天皇の和風諡号「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等」の「意」は、『古事記』の「押」、『日本書紀』の「排」から「おし」と読むのは当然。

九州王朝とは無関係。和歌山県所在の銘文まで九州王朝アイテムに仕立て上げなくてはならないという、極度の史料飢餓状態!
2021年6月16日 22時47分

古田氏は金石文の漢字読みを、当用漢字の読み方するんですね。1978/12/15『週刊朝日』で大野晋氏と「古代激突対談 稲荷山鉄剣の主は誰なのか」という対談をしています。例を挙げます。
大野:「獲居」の「居」をケと読むことを認めるかどうかです。
古田:別に反対はしません。
2021年6月16日 22時52分

大野:前半の仮名で一音一字のところは読めないということでしたが、どうして「加多支鹵」というところだけ読まれたのですか。
古田:大王がワカタケルという形で出て重大な問題になっていますから、仮に名を振っただけです。読めないということで結構です。
2021年6月16日 22時55分

大野:「獲居」をカキと読みましたが、「居」をキという音にする根拠はなんですか。
古田:仮に読んだだけです。
〈中略:獲居を居を獲ると古田氏が読んだことについて〉
大野:獲居(カクキョ)なら音でなく意味として読んでいるのですか。
2021年6月16日 23時0分

古田:「獲居」が官名であるかというところはわからない。ただ、私にとっては「獲居(ワケ)」と読んでもかまわないんです。
〈中略:大野が獲をワの仮名として読めるなら獲加多支鹵もワカタケルと読める〉
古田:私はカタシロと読みましたが、ワカタケルと読めることに全く反対しないし、賛成なんです。
2021年6月16日 23時4分

大野晋氏が対談の中で「私は万葉仮名の専門の人間ですから十万枚ぐらいのカードを作って調べたが」との発言。勝負にならないでしょう。しかし、古田氏はこの場での〝読み方〟を以後も変えることは無かったのではないかと思います。

カキ、イフヒキ、カタシロ、、、
2021年6月16日 23時11分

p165 兄弟統治
いわゆる九州年号の登場です。
五五八年―戊寅、欽明十九 兄弟(五〇ページ、「九州年号」対比表1参照。)とのことで開くと、海東諸国紀、如是院年代記、麗気記私抄、九州年号(『襲国偽僭考』)の4書年号対比表が。
2021年6月16日 23時25分

いつも思うんですが、九州年号を取り上げる際に、記事も併せて扱うべきではないの?

兄弟という年号は、欽明天皇19年に改元されたとあるのみで、欽明はもちろんヤマトの天皇。九州王朝の年号のはずなのに、どうして九州王朝の人名が出てこない?

海東諸国紀は欽明五年で甲子。誤写かな?
2021年6月16日 23時32分

そもそも襲国偽僭考など「欽明十九年戊寅、兄弟元年とす」とあり、どう見ても欽明朝で改元があった!という意味にしか取れないと思うんですが?

そもそも、これらの逸年号が九州王朝の定めた年号ならば、そこに登場する人名は、軒並みヤマトには見えない名前のはず!違いますっけ?
2021年6月16日 23時37分

例えば、古田氏が『壬申大乱』でも大きく取り上げていた「倭京」。二中歴によれば、その記事は「戊寅二年難波天王寺聖徳建」とあるとか。

戊寅年は推古20年(618)、厩戸もご存命中だし、四天王寺と理解するのが普通なんでしょうけど、、、九州王朝さんでは仮説が恐らく〝繁って〟ることでしょう。
2021年6月16日 23時46分

「難波」も「天王寺」も「聖徳」も、九州アイテムというのなら、これはまた面妖な!まるでバックアップコピー!

ものが二つに見えるようなら、そりゃ眼鏡か目の具合が良くないんであって、眼科受診をお奨めします。
2021年6月16日 23時49分

「倭京」が出たついでに『壬申大乱』から。古田氏は倭京を太宰府付近に想定しているようなんですが、天武天皇元年(672)五月条【自近江京至于倭京】の「近江京」ってのも当然、九州なんでしょう。同書には書いてないみたいですが、まさか滋賀県の「近江京」でもないでしょうし、どこなんだろ?
2021年6月17日 9時0分

そのまたついでに、この倭京という年号については、一に倭京(景)縄とするものがある、と。そして久留米市や近隣の「城」「城島」という地名を取り上げています。古田氏は地名付会が好きですね~ 史料飢餓状態なのでフツー使いないようなネタまで拾ってきます。
2021年6月17日 9時31分

古田氏は取り上げてないようですが、麗気記私抄には「和縄」という年号も見えているようです。二中歴や海東諸国紀、襲国偽僭考の「倭京」、如是院年代記の「和景縄」と同時期なんで、いずれかが誤なんでしょう。
2021年6月17日 9時41分

それよりもっとストレートな疑問なんですが、古田氏の言う九州年号が九州王朝が定めたものだとしたら、その年号を含む記録の中に、多利思北孤とかなにゆえ出てこない?
2021年6月17日 9時51分

「俀王は、近畿大和を中心の拠点とする天皇家の領域を、内にふくんで「日出づる処の天子」と、誇りやかに宣言している」と言うくらいですから、列島に燦然と輝く天子だったのでしょう、多利思北孤は!

それが九州年号を残す文書に一切登場しない?不思議じゃありませんか?
2021年6月17日 9時52分

そもそも、これら九州年号の記録に欽明だの敏達だの推古だのでてくるのが変。漢風諡号は8世紀に淡海三船が撰定したもので、九州王朝滅亡後。禁書令が出されるくらい九州王朝の歴史抹殺を図っていたであろう時期に、九州年号を用いた文書が果たして書けるのでしょうかねぇ、、、
2021年6月17日 10時0分

多利思北孤は出てこない代りに、稲目や馬子や聖徳太子は出てきます。九州の記録もヤマトの記録もちゃんぽんにしたったことですか?

それとも九州にもそういう人がいた、とか、『書紀』がパクったとか?
2021年6月17日 10時5分

話が私年号に脱線しました。『古代は輝いていたⅢ』に戻ります。p169 俀国の律令
「律令」ってのは古田氏の解釈であって、法体系があった!という意味ですよね。それなら大概の国にあったでしょう。自分で「律令」という言葉を俀国に当てはめ、それと「大宝律令」とを並べて論ずる。不当です!
2021年6月17日 10時10分

九州王朝の史書に「律令」と書いてあれば、大宝律令と同じ爼の上に並べて論ずることもできるでしょうが、「俀国の律令」とは古田氏のネーミングにすぎません。

それより、『隋書』俀国伝の【或置小石於沸湯中,令所競者探之,云理曲者即手爛。】は『書紀』の盟神探湯を連想しませんか?
2021年6月17日 10時16分

p170からは「俀国伝の地理」
次は、俀国伝の行路記事について分析してみよう。

「行路記事」と書いてますね。普通は「裴清の道行き文」とでも言うんでしょうが、、、『隋書』焉耆国、百済の地理記事を取り上げて比較してますが、結局は『魏志』の里程記事、行程記事とのコラボ。
2021年6月17日 10時31分

p172の『隋書』俀国伝の読み下し。
則ち魏志の所謂(5字傍点)邪馬壹なる者なり。

タハハ、「臺」と「壹」の誤写発生!

2021年6月17日 10時35分

なんだろ?悪意は無いでしょう。「壹」への思い込みが強すぎたか、単なる勘違いか、それとも編集部のせいにするか?

すぐ後ろに「その内実は『後漢書』倭伝によっている。」とありますから、単純なミスでしょう。「臺」と書くつもりだったことは確か。
2021年6月17日 10時38分

古田氏は『隋書』俀国伝の「行路記事」を『魏志』倭人伝の行程記事と結びつけて論じようとしていますが、比ぶべきは『隋書』赤土国伝でしょう。冒頭から俀国伝と似たような書き出しになっていますし、裴世清来訪の前年の大業三年、屯田主事の常駿が赤土を訪れています。これについては川村氏が既に。
2021年6月17日 10時45分

kobayutaさん、どうもです。
>「百済附庸」で「百済の属国」
なるほどですね。

因りて百濟の附庸せし諸迦羅國を襲ふ

ですか。ちょっと落ち着きが良くないかも知れませんが、読めないとも言えないかも、、、しかし、襲ったあと附庸した、というのがやはり意味の通りはいいんじゃないかと思います。
2021年6月17日 15時17分

Kilo Umeshuさん、お初ですかね?
>”短里”で考えないと
それは古田氏の「魏西晋朝短里説」の立場に立つ、という意味でしょうか?
2021年6月17日 15時20分

そうですか!それは失礼しました。
2021年6月17日 15時22分

p172
行路記事に関しては、魏志倭人伝はいわばとくダネのスクープだった。ところが、『隋書』俀国伝は後追いネタ(2字傍点)だったのである。それゆえ里程、日程の行路記事は省略されたのではあるまいか。

俀国への行程については『魏志』参照!とか?
2021年6月17日 15時30分

その本は読んでいませんが、その本を引用した本を読みました。『甦る三国志「魏志倭人伝」 新「邪馬台国」論争への道』です。この本の中で半沢英一氏が『九章算術』から魏の時代に「一里=七六~七七メートルが採用されていたこと」を証明したと書いてあったんですが、谷本茂氏の説では?
2021年6月17日 15時40分

その論文には谷本茂氏の作図が載っていますが、『周髀算経』そのものの原文が載っていないようですね。「陳子榮方問答」の「知日之高大」にかかる部分を読めば、谷本氏の計算が『周髀算経』本文とはかけ離れた理解に基づいていると言えると思いますが、、、
2021年6月17日 15時50分

「竹斯国」を取り上げて、あーだこーだ!と、根拠の無い語源説。

国名地名が九州内部だとか講釈を。その竹斯国が単なる通過国としてしか書かれていない!ということにもっと目を。

【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國】

竹斯国には何の説明もナシ。【邪馬壹国女王之所都】とはエライ違い!
2021年6月17日 15時57分

「里程、日程の行路記事は省略された」って、『魏志』の行路記事を頭に入れて俀国へ旅した人は、戸惑うでしょうね?

あのう、、、投馬国ってのはどっちの方へ行けばいいんでしょうか?え、不弥国?不弥国はどこから?え、奴国?伊都国?末盧国?それは、、、
2021年6月17日 16時8分

p175
隋使の行路はむしろ、「竹斯国→阿蘇山」の方向を辿っているようである。

そんなことが『隋書』のどこに書いてありますか?

(とすれば、右の「十余国」記事は、九州を北から南へと向って鹿児島湾の方へ出る行路を指している可能性もあろう。)

は?何のために隋使は鹿児島へ?
2021年6月17日 16時13分

>その点については別に考えるとして
では「別に考え」て頂くのを楽しみにしております。
2021年6月17日 16時14分

次行に、
ただ、国名が書かれていない点から、伝聞(2字傍点)であって、実地踏査ではないかもしれぬ。

「裴清の道行き文」は、いつ・誰が・何のために、が明確な紀行文。実際に裴世清が辿った旅程が記録されているわけです。「經都斯麻國」とは裴世清が都斯麻を経た。「經十餘國」も同様。
2021年6月17日 16時18分

つまり、この「十餘國」とは、実際に裴世清が「経」た国々。古田氏の解釈のとおりだとすると、裴世清は何のため鹿児島まで行った?

大業4年、裴世清は煬帝の命により、俀王多利思北孤に会うために都・邪靡堆へと旅したのです。その間に「經十餘國」た。
2021年6月17日 16時21分

>バランスをとった
それは普通に言われていることですね。可能性はあるかも知れません。
2021年6月17日 16時22分

拙ブログ:「裴清の道行き文」 通説を図示すると・・・
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-798.html

ご参考までに。
2021年6月17日 16時26分

陳寿は『魏略』などの元ネタに拠ったと見られますので、『三国志』のうち、どの部分が陳寿オリジナルかを見出すのは至難の業ではないかと思います。
2021年6月17日 16時28分

p175で古田氏は、
「海岸」を大阪湾に当てるとしたら、その地名の厳格な表記が全く現れていない、そのことが不可解となろう。

なんておっしゃいますが、いくら気張ってみても、九州王朝側には何の記録も無く、ヤマトにはちゃんと裴世清来訪の記録がありますから、学問的には門前払いでしょう。
2021年6月17日 16時43分

「行路記事」を力説している場面では、推古紀の記事などおくびにも出さないんですよね。

で、無視するわけにもいかないので、第2書段階では九州王朝を訪れたあと、足を伸ばした説だったのが、この本では「12年のずれ」説。絶対にヤマトではない!と言い張るための涙ぐましい努力です。
2021年6月17日 16時46分

p175から「秦王国」とは
第2書でも書いてありますが、「其の人華夏に同じ」の「其の人」を、
「俀国の人」の意、そのように解すべきなのである。

まさかぁ!【又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也.又經十餘國,達於海岸】ですよ。秦王国と十餘国に挟まれて【其人同於華夏...】
2021年6月17日 17時7分

この文の「其人」が秦王国の人を指していることは明白。『魏志』倭人伝でも各国の後ろにその国の説明が書かれてある。それと同じ。そもそも【其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也】が俀国の人々なら、それより前の「其俗」記事の場所にどうして記載しないのか?そこには延々と俀の風俗等を記載。
2021年6月17日 17時12分

古田氏はこの箇所が〝道行き文〟であることを理解していない。「明年」以降を読めば、全て裴世清の紀行文であり、途中の経由地で簡単に「南望[身冉]羅國」「迥在大海中」「自竹斯國以東,皆附庸於倭」との説明を附している。

古田氏の解釈は、漢文読解不全なのか、それとも〝ためにする〟読みなのか?
2021年6月17日 17時17分

この「其の人」についても既に、川村明氏が「九州王朝説批判 第2章 8.「其人」は何を指すか」で検証済みです。

2021年6月17日 17時56分

『魏志』倭人伝で言えば【始度一海,千餘里至對海國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離】の「其大官」は「對海國」の「大官」を示していることは明々白々。【其風俗】の「其」は倭を表している。

道行き文中、秦王国直後に書かれてある「其の人」がなにゆえ、俀国の人になるのか?理解不能!
2021年6月17日 18時0分

p177には、例の「秦王」が登場。
https://twitter.com/hyena_no/status/1399908158936551432
で、『古代に真実を求めて 13集』p115-116と書きましたが、9号の間違いでした。訂正します。同号は2006/3/31刊で、そこに「秦王」が会場からの質問として出てきます。その返答の元は1985/4/5刊『古代は輝いていたⅢ』だったんですね。
2021年6月17日 18時10分

9号で、古田氏は「隋の天子の弟としての「秦王」です」と。
https://twitter.com/hyena_no/status/1399909126474407940
ホントに古田氏は◯◯王というものについて知らなかったのか?『魏志』巻四 斉王紀【齊王諱芳】。陳留王も。古田氏の悉皆調査で目に触れたはずですが?
2021年6月17日 18時27分

再掲します。
https://twitter.com/hyena_no/status/1399909956522975234
2021年6月17日 18時28分

『隋書』列伝十 文四子伝から【秦孝王俊】を探すのは大変だったと思います。しかし巻一高祖紀に【俊為秦王】など皇弟や皇子を各地の王に封じたという話が載ってるんですよね。

あの曹操も亡くなる直前には魏王に。曹操の墓(高陵)からは「魏武王常所用挌虎大戟」と記された石牌が出ています。
2021年6月17日 18時42分

古田氏の言っていることは、例えば某社で社長の息子が副社長になった。よって副社長とは社長の息子のことである、と言ってるようなもの。確かに秦王がバリューのある位であったとしても、「『隋書』全体では「秦王」とは天子の弟をいう」なんてのは無意味。
2021年6月17日 18時49分

この「秦王」の名が貴位(2字傍点)であったことが知られよう。〈中略〉
それで「シノ」といった俀国の現地名を「秦王」と表記する、などということは考えられない。

多利思北孤側が、「秦王」という王名を使用させていたのではないか、と。

根拠のない空想を弄ぶのがお好きなんですね、、、
2021年6月17日 19時9分

その次は、秦王国の王は多利思北孤の弟だ!という説でも出てくるんですかねぇ、、、
2021年6月17日 19時11分

しかし、1985年から2006年までの間に、「『隋書』全体では「秦王」とは天子の弟をいう」について異論を挟む人は近くにおられなかったのでしょうか?
2021年6月17日 19時19分

この件を、もう一度整理しておきます。p177、
秦孝王俊、字は阿祗、高祖の第三子なり。開皇元年(五八一)立ちて秦王(2字傍点)と為る。

開皇は高祖文帝の年号です。高祖の第三子。楊俊が秦王になった時は、当時の天子文帝の「子」ですよね。
2021年6月17日 19時31分

その後、楊広(煬帝)が帝位についた(仁寿四年=六〇四)ために、楊俊は「天子の弟」になったんじゃありませんか?

古田氏は自身を持って大胆なことを仰るので、こっちが間違ってないか用心深くなるんですよね。
2021年6月17日 19時34分

>書き下し文として
この部分は新羅と百済、高句麗、迦羅との関係を時系列的に述べている文でしょうから、やはり、
(新羅は)強盛を致す⇨百済を襲う⇨「諸」迦羅国を(新羅が)附庸す
が一番喉を通りやすいんでは?
2021年6月17日 22時17分

>他にも片言隻句レベルでない、はっきりした事績が
正論かと。『書紀』にもそれらしき記述が残りそうな気がしますが、、、
2021年6月17日 22時18分

p178で、
このようなお家騒動の中で、高祖は死に、次子煬帝が即くこととなった。翌年、改元された。これが大業元年(六〇五)である。煬帝の弟俊の子が「秦王」の位を嗣がずにいるのを哀れみ、早速その位につけたのであった。もって、この「秦王」の名の貴位(2字傍点)であったことが知られよう。
2021年6月17日 22時24分

ここでも煬帝の弟俊の子に「秦王」を嗣がせたというのですから、「秦王」は天子の甥。

『古代に真実を求めて 第九集』p116では、確かに古田氏は「「秦王」とは天子の弟をいう。」と書いてます。

やはり勘違いとしか思えません。かなりの作業量だったでしょうに、報われませんね~
2021年6月17日 22時30分

さて、次頁に移ります。p179 「秦王国の不定性」として、
では、その「秦王国」の位置はどこか。

との問を発しています。
2021年6月17日 22時43分

この点については1980/10/20刊『邪馬一国の証明』「古代船は九州王朝をめざす」(初出:『野性時代』1975年9月号、同臨時増刊号)は、『古代は輝いていたⅢ』とは5~10年しか経っていませんので、想定に大きな変化は無さそうです。

ただし、第2書以来の問題点も引き継いでいて、、、
2021年6月17日 22時46分

それは、
また「竹斯国→阿蘇山」という方向に、隋使が足跡を向けていることから考えると、筑後や肥後にこの「秦王国」を求めることも可能かもしれないけれど、その場合は「東」という方向性から、いささかずれすぎる難点があろう。

とします。
2021年6月17日 22時48分

この「隋使が」「竹斯国→阿蘇山」という方向に、というのは解せません。阿蘇山の噴火を描いた記述がどこにあるかと言えば、「裴清の道行き文」中ではなく、もっと前の倭の風俗記事中にあるのです。
2021年6月17日 22時55分

その風俗記事がどのようにして『隋書』俀国伝に再録されるに至ったかも同伝中に明記してあります。
【開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言】
開皇二十年の遣隋使が闕に詣った際、天子の命で所司が使い国の風俗などを訪ねたのです。
2021年6月17日 23時1分

再録⇨採録です。
2021年6月17日 23時7分

王制、官制、服飾、法制、文化、宗教、民俗、気候、葬祭、そして阿蘇山なのです。次に大業三年遣使の記事が続きますから、それ以前の記事は、所司の聞き取りと理解するのが至当です。

古田氏のように、阿蘇山と隋使の足跡とを結びつけるのは、まさしく〝ためにする〟読み方としか言えません。
2021年6月17日 23時7分

なにゆえ、そのような読み方をするのか?隋使の訪れた先を九州王朝だとするためです。隋使裴世清の「道行き」としては書かれいない阿蘇山を、むりやり裴世清に結びつけて解釈したのです。

いくら頑張って裴世清の道行きを九州王朝へと誘導しようとしても、肝心の九州王朝には、何の痕跡もありません。
2021年6月17日 23時11分

「使い」は衍字ですね。推敲した際の消去忘れかと思います(^^;)
2021年6月17日 23時12分

『後漢書』倭伝の【樂浪郡徼,去其國萬二千里】は「明示的な里数による距離表記」ではないんでしょうか?
2021年6月17日 23時35分

p180 竹斯国基点
第2書以来の「竹斯国以東」の解釈論です。p182にかけて色々と書かれていますが、竹斯国が単なる通過国に過ぎないという記載実態はいかんともしがたいですね。

ここでも『魏志』の行程記事を持ち出して何やら言ってますが、『魏志』には【邪馬壹国女王之所都】と明記してあります。
2021年6月17日 23時38分

方や『隋書』では【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國】。竹斯国には何の説明もありません。単なる通過国です。

「竹斯国以東」云々は、いわば〝博多から東は新幹線に乗ってきました〟みたいなもの。
2021年6月17日 23時41分

古田氏が竹斯国に俀都があると強く信じているから、「竹斯国基点」と読むのであって、循環論法みたいなもの。

「まさにズバリの表現であった」って、自分で置いた結論に至るように解釈しているのですから、その結論が得られるのは当然。

虚心坦懐に文を読むべし。竹斯国は通過国。
2021年6月17日 23時43分

でも『隋書』にも【水陸三千里】という記述が。
2021年6月17日 23時46分

p182
すなわち、俀国伝は、地理的には、倭人伝を下敷きとし、倭人伝追補版(3字傍点)としての基本性格をもっていたのである。

ト説でしょう。
2021年6月17日 23時50分

では、なぜ俀国伝には「竹斯国以東」しか書かないか。それは、その地点(首都)に到着するまで(「女王国以北」)の諸国が女王の権力下の「検察」をうけていること、その記述はすでに倭人伝にあり、中国の人士周知のところだからである。

意味不明!隋代まで「女王の権力下の「検察」をうけている」?
2021年6月17日 23時52分

仰ってる趣旨が、あまり良く飲み込めないのですが、、、今夜はこれにて失礼しますm(_ _)m
2021年6月18日 0時0分

同頁、
この点をしめすもの、それが俀国伝冒頭の「則ち魏志の所謂・・・・・・」や「楽浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里・・・・・・の句であった。

「所謂・・・・・・」の「・・・・・・」の部分まで書かなかったのは心情が透けて見えるような、、、
2021年6月18日 9時42分

もちろん古田氏はここに「邪馬臺国」とあり、それについての所見も公言しているので、隠しているわけではないのですが、ここに再記すると、またぞろ説明が必要になると思ったのでしょう。

それは措くとして「一万二千里」については何らかの言及が必要では?
2021年6月18日 9時45分

「一万二千里」が『魏志』の【自郡至女王國萬二千餘里】に対応するものであることは衆目の一致するところで、古田氏も同意でしょう。しかし、古田氏には「魏西晋朝短里説」という仮説があり、短里は魏西晋朝のみ行われたとする立場のはず。
2021年6月18日 9時48分

『隋書』の行程記事と、『魏志』のそれとを相俟って考えようとしているのですから、当然、「長里」の時代である隋朝にあって、そのまま「一万二千里」が用いられていることに説明が必要。
2021年6月18日 9時51分

特に、『隋書』の場合は裴世清が来訪しているわけですから、p182で言われる如く「地理的には、倭人伝を下敷きとし、倭人伝追補版としての基本性格をもっていたのである。」と仰るくらいですから、一言あって然るべし。

裴世清は『魏志』の【萬二千餘里】が、実際と全然違っていることに大混乱のはず!
2021年6月18日 9時54分

「魏西晋朝短里説」に基づく『魏志』の【萬二千餘里】と、当然長里の時代である『隋書』の「一万二千里」とが同一であることについて、古田氏は自説を維持するためには解釈を施すべき。それともどこかで既に所見を述べている?
2021年6月18日 9時56分

p183は「琉球国」
ここまで読んで、結局の所受ける印象は、九州王朝は実在した!『隋書』等も、それに沿って解釈します!という宣言にすぎないように思えます。拾い集めてくる史料が、確かに九州王朝説を裏付けている!と受け取られるものがどれだけあるのか?甚だ疑問です。
2021年6月18日 10時0分

その前に、「南北三月行」について、
これは、都斯麻国から九州を南北に縦断し、沖縄諸島(の一端)に至る、その南北ルートを示したものであろうか。

と言いますが、「南北三月行」の直後の文は何か?【各至於海】です。
2021年6月18日 10時8分

九州島の南北の海域まで「南北三月行」のうちに含めるというのは、直後の【各至於海】と齟齬をきたすと思うのですが、、、あくまでも【各至於海】からイメージできることは、陸地の拡がりが「南北三月行」だと思うんですが、違いますっけ?
2021年6月18日 10時10分

古田氏の好きな『旧唐書』倭国伝には【東西五月行南北三月行】【四面小島五十餘國】ともあります。倭国は島国。

原文を再掲します。【其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。】
2021年6月18日 10時14分

どうも古田氏は地理が苦手ではないかと思えます。『隋書』流求国伝を説くにあたり、「夷邪久国」の話を持ち出しますが、自身で(屋久島か)と言っているのだから、流求の話の参考にならないのは当たり前だと思いますが、、、
2021年6月18日 10時29分

p186の、
しかしながら反面、俀国がこの流求国の蒙った不法の悲運に対して無関心でありえなかったこと、それもまた必然だ。

どうして古田氏はかほどに空想を弄ぶのか?歴史家というより小説家にふさわしいのではないかとさえ思えます。
2021年6月18日 10時34分

同頁後半の括弧書き。
(近畿天皇家側の史書たる『日本書紀』では、この流求国の非侵略という大事件に対し、何等の関心もはらった形跡がない。)

そもそも、大業年間に相当する時期『日本書紀』中に、流求国の記事など出てこないので「何等の関心」もへったくれもナシ。
2021年6月18日 10時39分

『書紀』の南島の記事といえば、タネ、ヤク、アマミ、トカラ(諸説あり)くらいで、流求などそれらより南。「何等の関心」を払う以前に、流求の情報など未知。

九州王朝の金石文にでも「流求」と記してあれば、当然尊重されるべきでしょうが、、、
2021年6月18日 10時49分

p186-187から引きます。
しかしながら、この大業四年の隋朝、流求侵略の事件は、半世紀後の「白村江の戦」(龍朔三年=六六三)にとって、見のがしえぬ、一つの伏線なのではあるまいか。
2021年6月18日 10時56分

なぜなら、俀国(2字傍点)はこの大業四年以降の断交からあと、「白村江の戦」まで、隋・唐朝と再び深く友好的な関係にたちもどりえた形跡が見られないからである(初唐代の国交については、後述)

古田氏は『通典』を余程忌避しているんでしょうか?それとも知らないのか?
2021年6月18日 10時59分

『通典』邊防一東夷上蝦夷 四年(659)十月 隨倭國使人入朝。

倭國とありますし、当然、九州王朝の時代。白村江の戦の前。そして『日本書紀』斉明紀同年に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥らが天子に謁見した際の詳細な記事が見えます。
2021年6月18日 11時5分

もちろん『通典』にある通り、蝦夷も同行して唐の天子から蝦夷についての様々な質問が下されたこと、『書紀』に明記してあります。

「隋・唐朝と再び深く友好的な関係にたちもどりえた形跡が見られない」など全く事実に反します。というか、この年の記述自体で、7世紀の九州王朝説は却下。
2021年6月18日 11時8分

あれ?「四年」の前に「顕慶」が抜けてました(^^;)
2021年6月18日 11時9分

p187からは「正確な国家関係」。この中の「附庸於迦羅国」については先に触れましたので、その余の件について。

ここでは「東西五月行」について、何の関係があるのかわからない話が延々と。
2021年6月18日 11時19分

ついにはp193で「六角連続文の分布」として「一定の文明圏の拡がり」と。

そんな些事に着目するより、#原田実 氏も指摘されているように、前方後円墳や三角縁神獣鏡の全国分布を正視したらどうなんでしょう?
2021年6月18日 11時21分

p193の末尾括弧書き。
(同じく、江田船山古墳出土の画文帯神獣鏡も、遠く関東方面に至る伝播ルートをもつようである。―樋口隆康氏『古鏡』参照。なお、この点、千歳竜彦氏の御示唆をえた。)

『古鏡』は手元にありますので、開いてみましょう。
2021年6月18日 11時26分

あれ?樋口隆康氏のではなく、小林行雄氏の『古鏡』だった(^^;)

樋口氏の他の文を探してみましょ。
2021年6月18日 11時35分

樋口隆康氏が画文帯神獣鏡に詳しく言及している文が見当たらないようなので、他を探してみたら『シンポジウム三角縁神獣鏡』p226から「(1)画文帯神獣鏡の評価」という項目が。お昼から読んでみましょう。
2021年6月18日 12時0分

先日も書きましたが、『古代は輝いていたⅢ』後半では、白村江の戦を龍朔二年(662)にしてるんですよね。同じ本の中ですから、どういうことなのか?どこかでまた解説してるのか?一旦保留ですかね、、、
2021年6月18日 16時5分

ざっと読んでみました。鏡の問題は形式論とかになってしまうので素人的には難しい。その中で、画文帯神獣鏡と公孫氏との関わりについての発言もあります。岡村秀典氏の「公孫氏が画文帯神獣鏡で、魏が三角縁神獣鏡」という発言は興味深いですね。
2021年6月18日 16時45分

p241に「図5 画文帯神獣鏡の分布」という岡村氏作成の図が掲げてあり、やはり近畿中心に分布しています。画文帯神獣鏡が公孫氏と関わりがあるとすれば、邪馬台国畿内説の有力な論拠になりそうです。
2021年6月18日 16時48分

小山田宏一氏は「鏡分布の中心、儀礼の発信の中心、纒向型前方後円墳の拡散を考えて、邪馬台国は畿内です。」との発言は明快。

「伊都国(平原)のところに大量に送らなければいけない事情があったというように想像します。」の「事情」とは?
2021年6月18日 16時51分

そう言えば、和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘鏡も画文帯神獣鏡でしたよね。
2021年6月18日 16時54分

磐井の乱以降の九州王朝説について、古田氏の『古代は輝いていたⅢ』を取り上げて、いろいろつついていますので、3世紀の話は程々にしておきます。

p193末尾の古田氏の括弧書きも、大して意味がないようですね。
2021年6月18日 17時0分

それはそうと、『シンポジウム三角縁神獣鏡』は2003/5/30刊ですが、シンポジウム自体は2000年12月16-17日に開催。20世紀最後の年の最後の月ということに。

同じ年の2月には、#原田実 氏の『#幻想の多元的古代』も刊行されていますので、この2冊は〝世紀の〆〟としてふさわしい快著!と言えそうです。
2021年6月18日 17時4分

さて、p194からは「第四章 推古朝の対唐外交」に入ります。恐らくは第2書の繰り返しでしょう。ちがう点と言えば恐らく、「12年のズレ」くらいかも。しかし30頁以上ありますので、まずは一度、通しで読んでみます。

※我慢できずに途中ツイートあるかも(^^;)
2021年6月18日 17時11分

p301
坂元義種氏の「遣隋使の基礎的考察―とくに遣使回数について」〈井上薫教授退官記念会編『日本古代の国家と宗教』下巻所収〉に、先行する古田氏の『失われた九州王朝』が「無視されている」と。

安本氏に拠れば、井上光貞氏は九州王朝説を「空中楼閣」と言われたとか。坂元氏も同感だったのでは?
2021年6月18日 18時23分

「日本の古代史学会の慣行としてきたこのような無視の態度が、今後、真に是正されることが望まれよう。なぜなら、公正さこそ人間の学問にとって、真実の土俵であろうから。」

自分自身に酔ってるみたい。この本の数年後ですよ、「東日流外三郡誌」騒動が発生したのは!どこに「公正さ」が?
2021年6月18日 18時28分

p204から「十二年のずれ」。延々と講釈を垂れ、p207-208に、
以上によってみれば、『日本書紀』が「唐」「大唐」と書いているところは、まさに中国側の唐朝期に当っていたのだ、というきわめて平凡な解答を手中にすることができよう。
2021年6月18日 18時35分

読者は〝なるほど!〟と思うのかも知れない。古田氏の筆力が高いことは否めないかも知れない。

しかし、「十二年のずれ」が、どの範囲に適用できるのかの検証が全うされていないのではないか。
2021年6月18日 18時39分

例えば、大業十年(推古22年=614) 犬上君御田耜、矢田部造を大唐に遣わした件。もちろん未だ隋朝。じゃ、ここでも「大唐」と書いてあるから、この遣使は618年唐朝の成立以降と見なすのか?12年ずらせば626年。帰朝は627年。
2021年6月18日 18時44分

さすれば、推古31年(626) 大唐の学問者僧恵済、恵光、また医恵日、福因等並びに智洗爾等に従いて来れり、の記事と前後することになるが、この記事の扱いは?

しかも三田耜は舒明2年(貞観四年=630)、再び派遣される。12年ずらした前回のわずか3年後ということに。
2021年6月18日 18時47分

じゃ、三田耜の2回めもずらす?これは出来ません。なぜなら632年の帰朝の際に高表仁を伴って来ており、この年次自体は古田氏も認めているからです。

つまり、古田氏は「十二年のずれ」を想定したものの、前後記事との整合性についての説明を放棄していることに。
2021年6月18日 18時49分

いくら頑張って「十二年のずれ」というアイデアで、九州王朝の存在を裏付けようとしても、現実に、九州王朝の存在を示す証拠が、何にも無いのですから、多くの根拠の羅列も畢竟、解釈論に終止しているというのが正体なのです。
2021年6月18日 18時52分

p212からは「元興寺の丈六光銘」。この辺りについても既に、川村明氏から批判が出されており、私が細々言っても川村氏に及ぶものでもないのですが、、、古田氏は「丈六光銘」の全文を書き下しを添えて掲げ、「畢竟にして」がどうとか、「原光背銘の存在を、いわば暗示している」とか、だから何?
2021年6月18日 19時0分

「丈六光銘」には「歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之」とあり、「戊辰」は608年、「隨」は実際に隋代に使用されていたとか、「遍光高」という他に未見の人名が見えるとか、既に川村明氏からの指摘が。
2021年6月18日 19時11分

川村氏の文から引用させていただきます。

以上で、丈六光銘は書紀とは独立の史料価値をもつことがわかり、大業4年に大和に裴世清が訪れたことは決定的になった。これは、推古紀の12年のずれ仮説が成立しないという前節の結論を裏づけるものである。

2021年6月18日 19時16分

古田氏は延々と講釈を垂れますが、⑩として挙げた上記文の是非についてはどこに書いてあるのか?「宝命」とは、とか唐の高祖の使用後とか、延々と解釈論を繰り広げますが、「丈六光銘」⑩の記事の是非について直接の検証はありません。
2021年6月18日 19時19分

p225
とすれば、〝推古紀の対大唐外交記事を十年以上(おそらく十二年)くり下げて解すべし〟、とする私の仮説、それが当をえていること、それがここに決定的な確証をえているのではあるまいか。何よりも、この時点なら、まさに相手国の国名は「大唐」なのであるから。
2021年6月18日 22時19分

何が「決定的な確証」なのか、さっぱり分からない。「宝命」という唐の高祖の使用語が「決定的な確証」?なんでも推古紀十六年の大唐の国書中に「宝命」の語があり、それは王朝の第一代にふさわしいから、二代目である煬帝ではなく、唐の高祖だと。
2021年6月18日 22時39分

確かこれも川村明氏が明らかにしておられたような記憶があります。【欽承寶命】なので、「宝命」を「欽承」、つまり〝謹んで受け継ぐ〟の意味。事実、『隋書』煬帝紀大業三年に【欽承景業】と。『魏志』文帝紀にも【今王欽承前緒】。二代目以降にこそふさわしい。「宝命」とは皇帝になるべき天命。
2021年6月18日 22時52分

古田氏は力説していますが、「宝命」が初代にこそふさわしいというのなら、高祖はいったい誰から「欽承」したんでしょうか?p223で「(一)高祖(第一代)」と書いています。すると、高祖は〝第0代〟から「欽承」した?
2021年6月18日 23時0分

ちょっと「漢籍電子文献」で調べてみました。『旧唐書』禮儀志四釋奠 玄宗開元二十七年八月(739)に、【又下制曰】として【朕以薄德,祗膺寶命,思闡文明,廣被華夏。】とあります。

俄には釋読するに至りませんが、「朕」は唐の第9代皇帝玄宗。「寶命」は第1代に限らない証拠と言えそうです。
2021年6月18日 23時22分

「祗膺」は〝つつしんで引き受ける〟という意味のようで、「欽承」と同様の意味でしょう。

どうやら「宝命」だから第一代だ!として「12年のずれ」説の根拠にしようとする古田氏の思惑も成り立たないようです。
2021年6月18日 23時26分

参考までに、昨年来の関連ツイートのリンクをご案内。
https://twitter.com/hyena_no/status/1321449961527996419
https://twitter.com/hyena_no/status/1321447333662314500
https://twitter.com/hyena_no/status/1311465501172748289
https://twitter.com/hyena_no/status/1321447333662314500
2021年6月18日 23時29分

p227からは「第四部 法隆寺の中の二つの金石文」。本書のサブタイトルが「法隆寺の中の九州王朝」ですから、この第四部は本書の山場なのかも、、、

しかし、九州王朝の根拠を斑鳩まで出向いて拾い集め、コジツケ作業をする。九州王朝の史料飢餓状態を如実に表していて、情けないとも思わないのか?
2021年6月18日 23時39分

第四部は約50頁程。まずはいつものように粗読。んで、途中ツイートもあるかも。
2021年6月18日 23時41分

あらら、午前0時!就寝時間。

しかし、p242「多利思北孤(九州の王者)=上宮法皇」だそうです。

それではおやすみなさい~
2021年6月18日 23時57分

原田さん、おはようございます。
>「天皇」との比定などにこだわらず
私も昨年、久しぶりに再読して意外でした。倭の五王に関する本なら比定論が中心になると思うんですが、それはナシ。その代り目の覚めるようなことが書いてあり、ブログに何本か書きました。
2021年6月19日 10時2分

思い出したことがあるので、第四章に戻ります。p217で、池田温氏の「裴世清と高表仁」を引いていますが、同稿によれば裴世清は618年以降、従五品上主客郎中に進んでおり、古田氏の言われるように「12年のずれ」を想定すると、620年の裴世清は、逆に八品~九品に官位を落としての来訪ということに。
2021年6月19日 10時18分

最終的に裴世清は正四品下の江州刺史にまで登るのですから、官位の逆転はありえないこと。池田氏の文から借りれば「そして郎中を無事につとめ刺史に進むのは当代普通にみられた昇遷である。」

12年ずらして620年頃、八品~九品で来訪した裴世清がその後正四品江州刺史に登るなんてどう説明?
2021年6月19日 10時23分

古田氏の「12年のずれ」説は、その場しのぎの弥縫策に過ぎないことが明らか。ということは、第2書当時の、同年ヤマトへも足を伸ばした!説のほうが、まだましだった?
2021年6月19日 10時25分

なお、池田氏の同稿は『日本歴史』第280号、1971年9月号巻頭に収載。

ということは、古田氏の第2書刊行の2年前。第1書発刊の直前ですから、九州王朝説への展開を図っていた時期でしょう。渉猟に漏れたんでしょう。
2021年6月19日 10時31分

いやいや、待ってくださいよ。『古代は輝いていたⅢ』p218では以下のように述べています。
隋滅亡後、唐朝が興ってより、煬帝の恩寵を受けていた彼は、当然ながら「降格」された。それがわずかにとどまったのは、唐朝もまた、彼の才能を利用せんと欲したからであろう。〈続く〉
2021年6月19日 10時37分

そして正規の外交官僚タル「鴻艫寺の掌客」に任用されたのである。

池田氏によると618年以降、従五品上の主客郎中に進んでますよね。618年とは唐朝の成立年。「降格」してません。「降格」というのは、古田氏の「12年のずれ」説に基づくと、という解釈なので、事実の裏付けはナシ。
2021年6月19日 10時45分

『新唐書』巻七一上 宰相世系表裴氏にみえる(裴)世清です。

2021年6月19日 10時59分

ということで、古田氏の「12年のずれ」というアイデアは儚く潰え、『書紀』と『隋書』の裴世清来訪記事は、めでたく年次の一致が再確認されることになりました。

九州王朝には裴世清来訪の痕跡が全くありませんので、ハナから勝負になりません。
2021年6月19日 11時4分

あ、推古16年4月、裴世清が小野妹子らと筑紫に来着した際の記録が木簡の形で太宰府あたりに残ってるかも、、、今後の発掘に待つというのも一案か?

果報は寝て待て!
2021年6月19日 11時5分

さて、第四部に戻ります。法隆寺釈迦三尊光背銘に見える「上宮法皇」と、所謂聖徳太子の「没年と月日が違っている。到底、同一人物ではありえない。」と。

年次の齟齬など『書紀』にはあちこち出現します。
2021年6月19日 11時11分

そもそもたった8年差で成立した『古事記』と『日本書紀』では、「同一人物」でも没年が相違することは多々あります。じゃ、没年の相違する人物は「同一人物ではありえない」か?もちろんそんな事はありません。
2021年6月19日 11時12分

p236で、以前にも触れました「若草伽藍」の話が出て、
一般的な『日本書紀』不信論また造作説等の弁証をもって、この『書紀』の明載を葬り去ることの不当であること、それは天日のごとく明らかであろう。

と擁護論をぶち上げます。偽書と言われたり明載と持ち上げられたり忙しい!
2021年6月19日 11時17分

昨夜の就寝前につぶやきましたが、早い話、上宮法皇とは多利思北孤のことだそうです。そこで「法興」という年号を取り上げ、p239で、
そしてその王者は「法興」という九州年号=倭国年号をもつ権力者だった。

と。p237に、「対比表2(五一ページ)」と書いてありますので、開きました。
2021年6月19日 11時33分

「法興」って表中には載ってないんですよね。「法興」をヤマトの年号とすると齟齬を生じるとして疑問を呈し、九州年号だと言ってるのに関わらず、「「九州年号」対比表」にはナシ。

年号って天子が定めるって古田氏は仰ってませんでしたっけ?同時期に2つの年号を併用することってある?
2021年6月19日 11時37分

伊予温泉碑には法興年号が出ていますよね。
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村
とネットには出ています。「恵慈」については校異ありのようですが、「葛城臣」は異論ないでしょう。九州王朝にも「葛城臣」がいた?
2021年6月19日 11時47分

「恵慈」については、

推古3年(595)5月 戊午朔丁卯(10日)、高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之。

の「高麗僧慧慈」とみていいんでしょうね。温泉碑の法興六年は596で、慧慈が歸化した翌年ということで、無理のない解釈かと。
2021年6月19日 11時57分

p240
では、この「上宮法皇」とは誰人か。わたしたちは、幸いにもその人を特定することができる。なぜなら、すでにのべたように、この法興年間(五九一~六二二)に当る九州王朝(俀国)の俀王の名をわたしたちは知っている。多利思北孤(たりしほこ)がその人だ。
2021年6月19日 14時28分

(五九一~六二二)間の九州年号は、瑞政(改)、吉(告)貴、願(煩)転、光充(元)、定居、和景縄(倭京)あたりですか?古田氏は第2書p402で、
以上を要するに、実在した「年号」とは、いわば一つの文明圏のシンボルだ。それはその中心に権力者(または強烈な思想運動)が実在したことを証明している。
2021年6月19日 14時36分

―これが年号についての基本公理だ。
この公理に従えば、わたしたちは知ることができる。「九州年号」は、「継体―文武」期の六~七世紀の間、天皇家とは別個に、一個の公権力が実在し続けていた、その事実の証明である、と。
2021年6月19日 14時39分

天皇家に先立ち、連綿と年号をもちつづけていた公権力―それがいずこの誰であるか。もはやこの本の論証を経てきたわたしたちにとって、疑問の余地はないであろう。

読者を酔わせる名文です。さて、この名文の中に「法興」を置くと、どうなりますか?
2021年6月19日 14時41分

九州王朝は多利思北孤の時代、瑞政(改)、吉(告)貴、願(煩)転、光充(元)、定居、和景縄(倭京)という年号群と、「法興」を併用していたことになります。

古田氏の「「法興」という九州年号=倭国年号」との命題が立ち行かなくなることは「疑問の余地はないであろう」。
2021年6月19日 14時46分

いつものように『日本書紀』の多利思北孤の時代を見てみましょう。相変わらず三韓関係の記事や隋唐への遣使もにぎやか。推古12年(604)4月丙寅朔戊辰(3)には、皇太子親肇作憲法十七條と。小野妹子遣使の直前ですね。大量の記事のどこかに多利思北孤が潜んでいるのかしらん?
2021年6月19日 15時10分

いくら古田氏が高らかに謳い上げようが、多利思北孤の事績など影も形も見当たらないんですよね。あるのは古田氏による『隋書』の我田引水解釈のみ。
2021年6月19日 15時12分

おっと、見落とし発見!p237、
対比表2(五一ページ)の末尾に、
喜楽―端正―始哭(始大) 法興(2字傍点)
の4年号がある。

とあり、p51を見ると、確かにそのように書かれてあります。そして古田氏が続けて言うには、
2021年6月19日 15時25分

これは、上段の「吉貴」(従貴・告貴)の項に記されているものであるけれど、おそらく「兄弟」という兄弟統治をしていた九州王朝が、二系列の年号群並立という状況下にあったことをしめすものではあるまいか。

やっぱりそうなんですね!一人の天子が同時に二つの年号を併用していた!
2021年6月19日 15時31分

どうせそこまでト説に奔るなら、兄弟別々派閥を持っていて、それぞれに年号を定めていた!とでも言えば?

ヤマトの年号については、いろいろ論難するのに、自分は平気で「二系列の年号群並立」なんて!人に厳しく自分に甘い!
2021年6月19日 15時34分

ところで「法興」を九州王朝の(多利思北孤)年号だと、古田氏は言いますが、伊予温泉碑の「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村」については引いていないようですね。p237で、『襲国偽僭考』から「伊予風土記に法興」と記されていることを引きます。
2021年6月19日 15時43分

時には煩瑣を厭わず細かい史料を取り上げる古田氏が、たった2つしか無い「法興」年号史料の内、主題の光背銘の他の1例たる伊予温泉碑の「法興」碑文を取り上げないのは不審です。

そこに高麗僧らしき慧慈や葛城臣などというヤマト絡みの人名が出てくることを嫌ったと見られるのは必至でしょう。
2021年6月19日 15時48分

またまた戻ります。p232-233、「上宮」が桜井市「ウエノミヤ」とする通説に対して、
ところが、阿蘇山にも「上宮」(山頂にあったというもの)「下宮」(現・阿蘇神社)があり、大分県...

ホントに何も史料がないので、いつもの史料あさり、、、阿蘇神社は神道なので崇仏の多利思北孤は不可!
2021年6月19日 15時54分

p242 止利仏師の謎
〝疑わしきは九州王朝の利益に〟メソッドですね。「使司馬」というのは官名だそうです。んで、
使司馬・鞍首、止利仏師造
(使司馬・鞍首、止利仏師、造る)
と読んでいます。「使」とあるのに主語がないとのこと。
2021年6月19日 16時5分

通説の、止利仏師=鞍作鳥を否定してるんですね。それで、九州王朝には〝クラノオビト トリブッシ〟という、よく似た名前の工人がいたと!?

SFにありましたよね。この世とそっくりの世界が、もう一つあるってストーリー、、、
2021年6月19日 16時11分

そう言えば、裴世清の時も、『隋書』『書紀』で似た名前が出てきますね。
阿輩臺⇔大河内
哥多毗⇔額田部
それと、本朝側で韓風和風両方の表記を見せるのが、
雄成⇔乎那利

やはりコピーワールドは実在した!
2021年6月19日 16時22分

以下、p268まで延々と講釈を垂れ続けますが、肝心要の核心事項が抜け落ちています。裴世清が訪れた先はヤマトであり、九州王朝ではなかった!という点。

だって、裴世清が九州王朝の都・邪靡堆を訪れたという証拠は、筑紫のどこにも存在しないし、そのような筑紫の文献も存在していないからです。
2021年6月19日 16時29分

古田氏の長舌は、原告代理人弁護士のみが出廷し、未だ原告の実在が確認されていない裁判のようなものです。

原告代理人弁護士は雄弁で、原告の姿を生き生きと表現して見せても、その原告が代理人弁護士の〝脳内〟意外の場所に実在することを確認した人はいないのです。
2021年6月19日 16時36分

安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』が刊行されたのは、35年前の明日6月20日です。その中で安本氏は古田氏の九州王朝説を「蜃気楼」「透明魚」と表現し、その実態を喝破しています。

しかし古田氏の雄弁は、安本氏の声に勝っていたのか、未だに九州王朝説になびく人は絶えません。
2021年6月19日 16時41分

あれ?p277では、
これに対し、近畿天皇家。四世紀以降三角縁神獣鏡の生産が行われ、
と。どこかで古田氏は三角縁を九州産だって仰ってませんでしたっけ?最近読んだような気がしますが、、、はて、どこだったか?
2021年6月19日 16時49分

この本の中ですね。ただ、ページ数を書き忘れてます(^^;) なんたる失態!今一度、めくり直すべし!
https://twitter.com/hyena_no/status/1399634099741003776
2021年6月19日 16時57分

思いついたので再掲。
https://twitter.com/hyena_no/status/1404354404191399941
多利思北孤の時代も『書紀』成立の1世紀ほど前。1世紀前に多利思北孤がいて、半世紀前までは列島を代表して白村江で戦った。その九州王朝が『書紀』から抹殺された?手品みたい、、、
2021年6月19日 17時15分

p69 九州年号に関して、
写本間の異同は、、、

へえ?国内史料ではそうなもん想定可?

原本の「善記」の用語の意義が不明だったため、分かりやすい「善化」として意改、もしくは誤写を行った、そういうケースと見なすべきであった(このような改変は、写本の書写者によく見られる一傾向である)。
2021年6月19日 18時10分

「意改」ですか!第2書p282以来ですかね?んで、「善記」が意義不明で、「善化」が分かりやすいという根拠はなんでしょう?

というか、「写本の書写者によく見られる」のなら、中国でもあるでしょうに、、、史料の新旧など古田氏得意の史料批判はどうしたのかしらん?
2021年6月19日 18時14分

思い出したので再掲。
https://twitter.com/hyena_no/status/1404799743507800069
2021年6月19日 18時28分

p75では、
しかし、歴史を学ぶ者にとって、いかなる時代をも、権力をも、決してそれを絶対化せず、これに対する自由な視点をうること、それこそ最初にして最後の課題、わたしにはそのように思われているのである。そこに人間の学としての歴史学の本領があろう。〈続く〉
2021年6月19日 18時31分

このような目から見るとき、現代のわたしたちにとって、この天皇家以外(2字傍点)の、そして以前(2字傍点)の年号問題は、象徴的な意義を有する。なぜならこの問題についての違和感、もしくは無知こそ、明治以降の統治者による洗脳の深さ、そのバロメーターとなっているのであるから。
2021年6月19日 18時33分

こういうのを〝煽情的〟というんでしょうね。一見、立派なことを仰っているように見えますが、その実やっていることは、我田引水等々。何にもないところに、あちこちから材料を集めてきてのコジツケ作業。ヤマトにあるものですら、九州王朝のものだ!と宣う!
2021年6月19日 18時36分

釈迦三尊光背銘の個所を読み直し。熱弁を振るっていて、思わず拍手したくなるんですが、「法興」記載の光背名は九州王朝のものだ、と言われるんですよね。その熱弁です。

でも、お忘れではありませんか?伊予温泉碑に見える恵慈法師と葛城臣のことを。九州年号が「二系列の年号群並立」になることを。
2021年6月19日 19時1分

伊予温泉碑にみえる「法興」が厩戸に因むものであることはフツーに理解できること。また、「二系列の年号群並立」など天子や王朝と年号にかかる古田氏の立場からすれば容認できまいこと。

これらの疑問について解き明かさない限り、この光背銘を九州王朝のものだ!と強弁することは不可。
2021年6月19日 19時4分

古田氏の言:明治以降の統治者による洗脳の深さ

洗脳するためのテクニックの一つに、情報を大量に流し続け、受け手の思考力を停止させることがあるとか。古田氏の〝多弁饒舌〟は、それを疑わせるに十分です。
2021年6月19日 19時8分

名言を見かけました。
☆言っていることではなく
☆やっていることが
☆その人の正体
  久田 恵
https://twitter.com/nyankoryo11/status/1405862929082114058
※自省の言葉として心に収めておきましょう。
2021年6月19日 22時25分

藤森栄一『考古学・考古学者』p36
元来、日本人には物をしっかり見つめていく思考力と、なぜかと疑っていく研究心と、古い伝統にたいする反撥力が弱かったためか、そうした優れた学者たちも、正しい学問の組織の上にその着眼を移していくこともせず終わりました。
昭和22年「古代史と考古学」より。
https://twitter.com/gishigaku/status/1406070950785732612
2021年6月19日 22時34分

イワン・ペトロヴィッチ・パヴロフ
鳥の翼がどんなに完全であるとしても、空気なしで鳥を飛びあがらせることはできません。事実―それは科学にとって空気であります。それなしでは君たちは決して飛びあがることはできません。それなしでは君たちの「理論」は、むなしい羽ばたきに終わってしまいます。
2021年6月19日 22時39分

未だ、見つけられません。#井上陽水 の教えに従うことにしましょう(^^;)
https://twitter.com/hyena_no/status/1406159181334253572
2021年6月19日 23時9分

p277 薬師仏の光背銘
何を言いたいのかよく分かりません。ただ、倭王武を九州王朝の王者と既定して話を進めているのは、所謂〝屋上屋を架す〟状態。その上で、釈迦三尊の光背銘がこの伝統下(五世紀には連綿たる文書外交)に生まれることは、不思議ではない、と。

空中楼閣の上に更に楼閣!
2021年6月19日 23時25分

大呆けでした(^^;)今読んでる本は『古代は輝いていたⅢ』で、「三角縁神獣鏡は、はじめ(古墳時代初頭)、筑前中域を中心とする九州北部で造られた」というのは『ここに古代王朝ありき』でした。p288ですね。思い込みというのは恐ろしい!
2021年6月19日 23時40分

何故気がついたかと言うと、原田さんの『幻想の多元的古代』「「多元」と「王朝」」を開いてて、p24に『ここに古代王朝ありき』から三角縁神獣鏡を引いてたんですね。それで気が付きました(^^;)
2021年6月19日 23時43分

同頁の末尾、
古田氏の前方後円墳論は、あらかじめ前方後円墳が「王朝」の存在を示すものではないという前提に立って、その性質を解釈し、その解釈を以て、前方後円墳は「王朝」の存在を示すものではないという態の循環論法、詭弁に過ぎない。

まさしく!
2021年6月19日 23時46分

探しものが見つかったので、今夜はそろそろ就寝しましょう(^^;)

おやすみなさい~
2021年6月19日 23時47分

kobayutaさん、おはようございます。
>隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称した
そうなんですか!早速覗いてみます。ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月20日 10時12分

取り急ぎ拝読。「三宝興隆の詔」とやらを調べて見る必要があるんでしょうが、仏教用語が出てくると途端に立ち往生必至なので成果は期待できそうにも、、、

最初の遣隋使が開皇20年(600)年なので、それ以前に文帝の「三宝興隆の詔」が倭国に伝わっていたかどうか?素人にはハードル高そうで(^^;)
2021年6月20日 10時23分

『古代は輝いていたⅢ』p278
西なる九州王朝産の釈迦三尊と東なる近畿分流王朝産の薬師仏と、両々相対する金石文の存在する七世紀後半、これほど一元史観の非、多元史観の必然をあかあかと証(あか)しする世紀はない。

ご自分の妄想に酔ってらっしゃる。
2021年6月20日 11時12分

「七世紀後半」って、『書紀』を見れば、外交記事はてんこ盛り!もちろんヤマトから任じられた筑紫大宰も多出。これらの大量の記事を、古田氏はどう説明するのか?斉明紀は九州王朝の天子の事績が移植されたなどと。かかる空想は現実の記事からの〝逃避〟としか言い表しようがありません。
2021年6月20日 11時17分

『壬申大乱』を読んで受けたショックが尾を引いて、磐井の乱以降の古田〝史〟について、思いつくままにツイートしてみましたが、『壬申大乱』は突然変異的に書かれたものではなく、その荒唐無稽の源泉は、ずっと以前から萌芽していたことが理解できました。
2021年6月20日 11時43分

少なくとも「邪馬壹国説」や「魏西晋朝短里説」は他の専門家との間で激しい議論が展開されましたが、こと「九州王朝説」に関しては、それらの専門家も〝引いて〟しまったのだと思います。井上光貞氏の『空中楼閣』発言は至言であり、諸氏が古田氏を敬して遠ざけたのはうべなるかな!の一語に尽きます。
2021年6月20日 11時49分

藤森栄一『考古学・考古学者』解題・・・戸沢充則
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-78.html

そして戦争で荒廃した日本の国土をその目で確かめ、正しい歴史認識をもつことこそ、ふたたび日本を戦争の不幸に追いこまないためにも、ぜひ必要なことだと改めて確認したのにちがいない。
2021年6月20日 14時27分

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』を久しぶりに開いてみたら磐井について触れてあります。1993/11/30刊で、「東日流外三郡誌」論争熾烈な時期。こういう時でも新刊を出すエネルギーには感服するのみです。

めくっていると、いろいろ口を挟みたくなる個所が目に付きます。
2021年6月20日 16時3分

p210に『資治通鑑』という書名が見えましたので、読むと、
中国の『資治通鑑(しじつがん)』という史料をみると唐代のところで第三代天子の高宗は高宗天皇と表現されています。

古田氏に限らず『資治通鑑』や『冊府元亀』から引く人を見かけますが、そのソースを確認しているのかどうか?
2021年6月20日 16時16分

高宗を「天皇」とするのは、別に『資治通鑑』のオリジナルではなくて、古田氏の好きな『旧唐書』高宗紀のほうが〝古い〟んですよね。『資治通鑑』は『旧唐書』より一世紀以上遅れて成立しますので、当然『旧唐書』から引くのが〝作法〟というものでしょう。

2021年6月20日 16時22分

p211では、「十七条憲法」について、
残念ながら聖徳太子のものではないということになります。日本書紀の記事は、九州王朝で作られたものを転用、あるいは「盗用」したものであったということになります。

出ました!何でも九州王朝メソッドが!
2021年6月20日 16時28分

p210で、
第三代の天子の高宗は高宗天皇と表現されています。天皇というのは「殿下」などのような敬称なのです。

『旧唐書』高宗紀上元元年秋八月壬辰【皇帝稱天皇】。「天皇」とは「皇帝」そのもので、「敬称」ではありません。
2021年6月20日 16時39分

しかも、「高宗天皇」は上元元年(674)のことで、それより以前のことである、用明天皇、推古天皇(6c後半~7c前半)に用いられた「天皇」号の解釈に用いるのは不適切でしょう。

「天皇」号のみで1冊の本にもなりうるテーマなのに、古田氏の考察の浅薄さに驚きさえ感じます。
2021年6月20日 16時46分

p213からは、例の「禁書」が。
つまり「十七条の憲法」は天子を称していた九州王朝で出された。それを日本書記を作るときに聖徳太子の項にはめこんだと考えられるのです。

史料飢餓状態が招く幻覚症状。
2021年6月20日 16時56分

p215
八世紀のはじめ、「日本国」(近畿天皇家)が本家にあたる「倭国」(九州王朝)を併呑した。というのですから、「倭国の正規軍」のなかに山沢に「亡命」するグループが出ても当然。

元明天皇紀に見える三項は「残党狩り」のことだそうです。
2021年6月20日 17時1分

不思議ですよね~ 『日本書紀』には「併呑した」したことを窺わせる記述は無いでしょ?そもそも古田氏の考えに拠れば「九州王朝」など無かった!という立場で『日本書紀』は編纂されてるんでしょうから、「併呑」が書かれてないのに、〝何の〟「残党狩り」なんでしょうか?不思議ですよね~
2021年6月20日 17時4分

この時期の「残党狩り」と言えば他でもない「壬申の乱」(672)。古田氏の挙げた慶雲四年(707)、和銅元年(708)、養老元年(717)の「軍器」「禁書」「兵器」は、乱から30年以上と、時間が経ちすぎているように思えますが、
2021年6月20日 17時11分

実は慶雲四年(707)、銅三年(710)、霊亀二年(716)に、壬申の乱の論功行賞が「壬申年功」として記されています。古田氏の言う「残党狩り」とほぼ同時期ということになります。

つまり、古田氏の挙げた3例の「残党狩り」は壬申の乱にかかるもので、九州王朝とは無関係でした。
2021年6月20日 17時14分

いやそれでも、古田氏は『壬申大乱』で、乱の舞台が筑紫だったことを論証しているではないか!なんて声は無視していいでしょう。

つまり、『日本書紀』が九州王朝の史書から記述をパクったのだ!という古田氏の主張には、何の根拠も無く、史料飢餓状態が招いた単なる妄想に過ぎないということです。
2021年6月20日 17時17分

岩戸山古墳に戻ります。衙頭での裁判について、何やら大袈裟なことを言っていますが、猪を盗んだものを裁くというシンプルな裁判。そんなものは『魏志』倭人伝にもありますし、『日本書紀』にも雄略13年に【違國法】と国の法律が登場!針小棒大です。
2021年6月20日 18時55分

それともヤマト王権下の各地の首長は、猪を盗んだものの裁きについて、いちいちヤマトにお伺いを立てるんでしょうか?
2021年6月20日 18時58分

因みに雄略紀の【違國法】の顛末は天皇が小野臣大樹をして兵士百名を率い家を襲って焼いた、というものです。税も係る事案のようで、自衛隊と国税庁の共同作戦のようです。
2021年6月20日 19時7分

この古田氏の磐井の話のところに、「近江毛野臣率衆六萬」の話を持ってきたらどうなるでしょう。これも九州王朝の史書からのパクリだ!とでも仰るのか?

衙頭での裁きの話など、重箱の隅つつきです。
2021年6月20日 19時14分

とにかく、古田氏にとって、自身の九州王朝説を展開させるためには、極力『日本書紀』に触れないようにしなくてはなりません。そのくせ、使えそうな個所は引きちぎってきて、我田引水の解釈を施したり、漢籍との齟齬を言い立てたり、終いには九州王朝の史書からのパクリだとか。
2021年6月20日 19時17分

古田氏が取り上げなかった大量の『日本書紀』の記事を浴びせかけたら、途端に説明困難に陥るでしょう。ほんの一例が【近江毛野臣率衆六萬】。
2021年6月20日 19時18分

p193からの「石人石馬の破壊」は、読んでて首をひねります。『風土記』にある官軍による石人石馬の破壊が「まちがい」だと。

葛子があとを継いだので「大和朝廷の軍がこわした半かけらの石像を、そのまま別区に置いて祭ったのでしょうか。そんなことはないでしょう。
2021年6月20日 19時28分

当然新しく作り直して配置したはずです。そうなると、どうして現在のように、こわされたままの状態になっているのか、という問題が出てきます。
おそらく旧唐書にみられるように、Ⅶ世紀の終わりまで筑紫が倭国の中心だったのでしょう。そのときに磐井の石人石馬はこわされるはずはありません。
2021年6月20日 19時30分

非業の死を遂げた「立法の王者」ですから。では、だれがこわしたのか。八世紀以後、近畿天皇家の時代になりました。太宰府も地方官庁のような扱いにされたわけです。つまり、その〝八世紀以後〟にこわされたと考えざるをえないでしょう。
2021年6月20日 19時32分

何をとぼけたことを!本書巻末に引く『釈日本紀』所引『筑後国風土記』にある通り、官軍が磐井を見失った怒りに任せて石人の手や頭を打ち壊したと書いてあるでしょ。磐井は死に、葛子は命乞いで助命。
2021年6月20日 19時36分

10年経ずして那の津官家(536)が置かれ、翌年には大伴金村の子、磐と狭手彦が任那救援のため筑紫に至り、磐はそのまま留まって、筑紫の執政に当たります。

このような情勢の中で、どうして「七世紀終りまでは筑紫が倭国の中心」なんてことが言えるのか?妄想としか言いようがありません。
2021年6月20日 19時39分

原田大六『新稿 磐井の叛乱』をパラパラめくっていると、興味深い記述が。p247、
磐井が筑紫の大宰として実権を掌握していたことは、彼が日本船師の総帥であったからで、宋王朝への遣使、船師の出航あるいは作戦の総指揮を天皇から命ぜられていたからだといえる。
2021年6月20日 23時13分

その直前、
葛子の父磐井は筑紫国造として、山門大宰府と伊都一大率を掌握し、東シナ海と玄界灘の両海面を制圧していたといえよう。

大六さんも空想力は古田氏並みかも、、、
2021年6月20日 23時15分

磐井が「宋王朝への遣使」ってのは時代的にやや難が。生まれてても、まだ子供でしょう。それと「伊都一大率」はいくらなんでも、、、考古学者の大六さんなら、5~6世紀の伊都に、らしき遺跡があるかどうかご存知だったでしょう。
2021年6月20日 23時19分

ちょっとした謎発見、、、かも。2015/4/20ミネルヴァ書房刊『古田武彦の古代史百問百答』に『百衲本三国志校勘記』の「四六〇五カ所の相違」が取り上げてある(p59)のは再三触れましたが、2010/11/24稿了「日本の生きた歴史(六)」では、〈続く〉
2021年6月20日 23時49分

つまり張元済が日本から持ち帰った写真を〝もと〟にして、新たに「版」を作った。その中国側による「新版」だったのです。その作業の中で、
「『郡』を『都』と〝まちがえた〟」
これが真実だったのです。分かってみれば、何のことはない、簡単な「作業ミス」にすぎなかったわけですが、〈続く〉
2021年6月20日 23時52分

わたしにとっては、懸案に対する「最高の発見」となりました。

2004-2006の間に『百衲本三国志校勘記』の「四六〇五カ所の相違」について知ったんですよね。そして「そのうち一三三七カ所、底本を修正したと書かれています」と。それなのに2010年の原稿で、〝まちがえた〟というのは解せませんが。
2021年6月20日 23時57分

『魏志』巻三十の郡支国、都支国の項をみれば「備註」に「修」と書いてあるのが分かるはず。つまりこれは「底本を修正した」一つ。

数年後に〝まちがえた〟説とは?考えられるのは、古田氏がこの『百衲本三国志校勘記』のこのページを開いて見ていないこと。
2021年6月21日 0時2分

また、「四六〇五カ所の相違」「そのうち一三三七カ所、底本を修正したと書かれています」を知っているということは、そのすぐ後ろの【可見諸本不誤而宋本誤者約佔五分之一強、五分之四則宋本勝於諸本】に気が付かなかったのか?
2021年6月21日 0時3分

先日、訂正ツイートをした如く、「四六〇五カ所の相違」発言が2015年と勘違いしていたので、亡くなる年にその事実を知ったのかと思ってたのですが、実は2004-2006年だった。しかし、『百衲本三国志校勘記』の「整理縁起」や『魏志』巻三十は確認したのかどうか?疑問あり。
2021年6月21日 0時5分

掲示板での書き込みから:
2005/8/3 23:25
「二」と「三」の誤
hyena_no_papa
張元済の『三国志校勘記』から「二と三の誤」を拾ってみました。巻/葉/行/宋本<>殿本という書式で書きます。因みに「葉」「行」は『百衲本三国志』のものですから、他の刊本では当然違います。
2021年6月21日 9時11分

『魏書』
2/2/前5注/二<>三
2/24/後7/二<>三
4/31/後2/三<>二
5/12/前3注/三<>二
6/11/後9注/三<>二
6/19/後9注/三<>二
9/35/後6注/二<>三
9/38/前2注/三<>二
12/6/前9注/三<>二
12/12/前2注/三<>二
2021年6月21日 9時12分

取りあえず拾ってみたところでは、以上のような状況でした。あと、数字がらみのものでは「一と二」「二と五」「三と五」「三と王」「五と王」など見えます。少しでも似ていると異同が発生します。
2021年6月21日 9時13分

『蜀書』
12/16/前3注/三<>二

『呉書』
2/25/後4/三<>二
3/4/後3/三<>二
3/14/後8注/三<>二
3/17/後8/二<>三
3/27/前4注/三<>二
10/21/前9/二<>三
12/2/前2注/三<>二
19/16/後5注/三<>二
20/11/前6/二<>三
2021年6月21日 9時13分

13/23/後9/二<>三
16/8/後10/二<>三
16/14/前4/二<>三
16/26/後7/三<>二
18/10/後1注/三<>二
23/9/後10/三<>二
23/10/前3注/二<>三
27/11/前6/二<>三
28/3/後3注/三<>二
29/3/後8/三<>二
2021年6月21日 9時13分

「余計な校勘」の一例 - 達而録

以前にも拝見したことのあるブログ。ここに書いてあることが、フムフムと理解できるようになれたらどんなに、、、(-_-)
2021年6月21日 10時4分

そうそう、郡と都との校勘については、巻末の「漏修・誤修字表」にも再度取り上げてあります。宋本と殿本による引文は同じですが、備註には、やや詳しく「汲作郡◯修都誤」と。汲古閣本は郡。都の誤として修す、でいいかと。巻三十の「修」のみよりは少しマシですが、なにゆえ「都」が是なのか?
2021年6月21日 10時21分

古田氏が実際に『百衲本三国志校勘記』を開いてみたとしたら、「底本(宋本)と諸本の間には」という誤解はしなかったかも。実は私も当初はそのように思っていましたが、「三国志校勘記整理説明」などを見ていると、あくまでも宋本(百衲本)と殿本との対校であることが書いてあり、ようやく理解。
2021年6月21日 10時43分

4年前のBOTクイズ。去年3月にも反応してしまいましたが、またサラしておきましょう。
https://twitter.com/wiki_quiz/status/877028744568774656
2021年6月21日 10時48分

以前にもツイートしたと思いますが、『古田武彦の古代史百問百答』p59
そのうち日本の帝室書陵部に紹興年間の刻本⇨紹煕年間
紹煕年間の刻本で補っている⇨紹興年間
帝室書陵部⇨帝室図書寮。書陵部は宮内庁書陵部

2021年6月21日 10時57分

一つ前のページ。郡と都の問題。
張元済が言うように、
《α》原本
《β》写本
ですから、両者に〝くいちがい〟があれば、当然、
《α》―正
《β》―誤
です。〈中略〉
「写本、恐るべし」の一言ですね。
2021年6月21日 11時5分

「写本、恐るべし」って《β》は影印本であり、「写本」ではありません。というか、どうして「都」と書いた《β》写本が「恐るべし」なのか?古田氏は《α》則ち「郡」が正しいと仰ってるわけですから、間違ってるほうが「恐るべし」?意味ワカラン!
2021年6月21日 11時11分

それと、p57から見てみると、「皇室図書寮」「帝室図書寮」「皇室書陵部」「帝室書陵部」と間違いとも言えないけど用語に乱れ。2004-2006年といえば、古田氏は80歳直前。やはり精神力に衰えが?
2021年6月21日 11時16分

校勘について考えると、古田氏の一丁目一番地である邪馬「壹」国が浮かんできます。古田氏は世に行われている〝改定〟を「知的退廃」とまで言いました(初出:「朝日新聞」s50.3.8-29「戦後古代史学への疑問」。s50.10.30刊『邪馬壹国の論理』p12。2003/1/15刊『まぼろしの祝詞誕生』にも再掲)。
2021年6月21日 11時52分

ペルシャ系の文化も流入してたんでは?飛鳥時代は江戸時代よりはるかに開明的!新沢千塚古墳群からペルシャのカットグラスが出てましたよね。
https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1406558035393138689
2021年6月21日 13時28分

壹を臺と改定するのは知的退廃だ!
俀は九州王朝で倭は畿内天皇家だ!
多利思比孤ではなく多利思北孤だ!
etc.etc.

12世紀版本の文面拘泥主義の行き着く果ては?古田説という繁りに繁った巨大な仮説樹となりました。出発点は「陳寿を信じ通した」です。
2021年6月21日 13時42分

@alps_henry そんな話も聞きますね。松本清張が盛んにそんなこと言ってたような、、、
2021年6月21日 15時0分

日本って、東へ向かって流れてきた文明の終着駅なんですよね。西へ向かった終着駅が合衆国。両者とも人種と文明の坩堝状態かと。
2021年6月21日 15時8分

2010/12/20ミネルヴァ書房刊古田武彦古代史コレクション⑥『倭人伝を徹底して読む』の「はしがき」末尾に次のようにあります。

ところが、実際ははじめの「大阪書籍版」と、あとの「朝日文庫版」と同じではなかった。一点だが、重要な〝ちがい〟があった。

として郡と都との校異を取り上げます。
2021年6月21日 15時38分

古田氏がもし、『百衲本三国志校勘記』を開いてみたとしたら、もう一点「重要」かどうかは別にして、〝ちがい〟に気がついたのではないでしょうか?なにしろ倭人伝部分で備註に「修」としてあるのは2箇所だけなんですから。
2021年6月21日 15時42分

古田氏は対海国が是であると(国境の国名は2つありうる)していますが、校異として挙げてあっても備註もなくそのまま。何より、邪馬壹国が取り上げられてないことは心強かったのでは?

このあたりのことについて、どこかで言及されてたのかどうか?
2021年6月21日 15時47分

『古代に真実を求めて 11集』p85で、会場からの質問「七世紀末に、九州王朝から近畿王朝へ交代するところの情勢を先生がどう考えておられるのかよくわからない。」に答えていますが、その「回答要点」とやらが、いやはや空想ものがたりでして、、、
2021年6月21日 16時7分

九州王朝の天子・薩野馬は自ら先頭に立ったが、唐側は更に狡猾であって、日本列島の第二権力者・中大兄王子と手を結び、中大兄は斉明天皇の喪に服するのを名目として、朝鮮半島へ出兵しなかった。〈中略〉
薩野馬は帰国して「倭王」の地位に復帰した。

関心をお持ちの方はぜひ図書館で。
2021年6月21日 16時11分

完全に夢の世界の吟遊詩人と化してしまい、、、

歴史学会の学者専門家たちは、もう誰も古田氏のことを批判しようとはしなかったでしょう。

なおこの講演は2007/10/21pm6:30~pm9、豊中市男女共同参画推進センター・ステップホールにて行われたもので収載誌は2008/3/25刊。
2021年6月21日 16時27分

他にも隋唐代に触れた個所がないかと探したら、1993/5/25刊『市民の古代 別巻4 法隆寺論争』に水城が取り上げてありました。この本は家永三郎氏との論争をまとめた本で、ご明察の通り『法華義疏』など難しいアイテムが登場します。
2021年6月21日 17時19分

で、水城について:
p69
水城には、もう一つ、重大な困難点が浮かんでいます。書紀には、「大堤を築きて水を貯へしむ」とありますが、じっさいは、水城には、〝水がたまらない〟のです。

古田氏は「貯水」を、フツーにある〝堤〟のごとく、その上流に貯水するものと思ったんでしょうね。
2021年6月21日 17時23分

事実、同頁には「御笠川はかなり大きな川ですから、これをせきとめて(5字傍点)内側に水をためることなど不可能です。」と書いています。

「内側」じゃないんですよね。外側なんです。堤の前面に水を貯めるんです。
2021年6月21日 17時26分

この本の前年に出た朝日新聞福岡本部編『福岡の古代を掘る』では、p19~22と簡単ですが、水城の断面モデル図まで添えて解説してあります。前面に濠があり、土塁も約70度で戦車さえ登れないと言います。見事な防塁ですね。
2021年6月21日 17時28分

そして続けます。
p71
もともと「御津城(みつき)」だった。〈中略〉これが「水城」と〝当て字〟されたため(「三潴」のように)、近畿天皇家側は誤解(2字傍点)し、「大堤を築きて水を貯へしむ」という〝珍妙な〟解説を加えてしまったのです。実地と、その城の実態を知らなかったためです。
2021年6月21日 17時52分

「〝珍妙な〟解説」をしたのがどなただったかは最早明白。

p68では、天智3~4年の各築造工事に疑いの目を向け、次のように述べます。

つまり、この一文も、別の「時点」の、「九州王朝主体」の記事を、ここ(白村江のあと)に、〝偽り置いた〟そういう可能性もある、と考えるのです。
2021年6月21日 17時56分

そして言うことがふるっています。p69

これを「日本書紀の記事を想像で補って」ひたすら北の唐に対する防御と考えて(3字傍点)来たのが、従来の史学でした(書紀には、「唐に対する防御」とは、書かれていません)。

はあ?白村江で敗けて翌年には郭務悰等が送り込まれてきたでしょ?
2021年6月21日 18時1分

1998/2/19刊『失われた日本』p143からの「神籠石の証明」では、次のように言ってます。

第二、この「一大山城群」は、はりねずみ(5字傍点)のように「太宰府の地」を〝四囲〟から守る形となっている。中でも対馬(長崎県)の金田城が朝鮮海峡の真ん中におかれていることから判明するように、〈続く〉
2021年6月21日 18時4分

「北」すなわち朝鮮半島側からの来襲と襲撃にそなえていることが明白だ。

「金田城」を含む「一大山城群」は「北」からの、で水城は(書紀には、「唐に対する防御」とは、書かれていません)なんて、意味不明。二枚舌じゃ?
2021年6月21日 18時7分

天智4年(665)8月 遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。

達率答㶱春初とか、達率憶禮福留とか、達率四比福夫とかは、〝いつの〟「時点」の、「九州王朝主体」の記事を、ここ(白村江のあと)に、〝偽り置いた〟というんでしょう?
2021年6月21日 18時12分

それほど『日本書紀』を〝偽り〟だと言うなら、一切『日本書紀』の「に」にも言及すること無く、古田説を組み立ててみればいい。

磐井の乱も『日本書紀』『古事記』『筑後国風土記』『国造本紀』などヤマトの史書も使用禁止!なら、それこそ古田氏の得意な〝なかった!〟
2021年6月21日 18時16分

薩野馬も『日本書紀』にしか出てこないんで、そんな九州王朝の天子もいなかった!そうそう、筑紫都督府も〝なかった!〟白村江の戦いは「倭」として記録されてますが、具体的名前はナシ。郭務悰も倭へは来なかった!

『書紀』を用いないで7世紀の九州王朝史を書くとすれば、原稿用紙何枚くらい?
2021年6月21日 18時25分

ほとんど『隋書』俀国伝と『旧唐書』倭国伝の読み下し文の範囲内かも、、、
2021年6月21日 18時27分

p72
〈その五〉これに対し、もし「いやそうではない。書紀の解説が正しい」と言いつずける方があれば、現地の人々の当面している、この困難点を、ハッキリと解明する、その学問的義務が生じます。

「困難点」とは「水のたまらぬ水城」のこと。
2021年6月21日 18時34分

前掲の『福岡の古代を掘る』P19にあるように「これまでの発掘調査で明らかにされた水城の断面図は21頁の図のように」と既に明らかになっていました。そんなことも知らないで、古田氏「この困難点を、ハッキリと解明する、その学問的義務が生じます」なんて言う。
2021年6月21日 18時36分

古田氏が自分の思いつきを貫徹するためには、たいがいの手法は使う、なんてこと、原田さんも仰ってませんでしたっけ?
2021年6月21日 18時38分

〈その六〉逆に、わたしの方の理解が正しければ、それは重大なテーマをしめします。それは「水城を築いたのは、近畿天皇家側ではない(2字傍点)」という帰結です。なぜなら、自分の方で、この間(七二〇から見て、天智二年は「この間」です)造った「水城」の実態を見失って、〈続く〉
2021年6月21日 18時42分

「珍解説」を行う、ということはありえないからです。

「珍解説」を行ったのが古田氏だったことは明白です。堤の内側に水を貯める、と思い込んでいたのですから。古田氏の思いつきイチャモンは噴飯ものということです。
2021年6月21日 18時45分

なぜそれほどまでして『書紀』の記事を切り抜き、疑問にもならない個所に、あたかも自分が見出した「困難点」があるかのように吹聴するのか。

ひとえに、九州王朝はあるのだ!という妄執に基づいた思いつきなのでしょう。
2021年6月21日 18時48分

〈その七〉〈前略〉白村江で大敗北を喫しながら、その翌年(2字傍点)直ちに、あれほど(水城)の大土木工事を、北(一般に知られた水域)や南(新しく発見された水域)にまで(3字傍点)行うとは。そんな余力がどこにあったのでしょう。

じゃあ(別の「時点」p69にしろ)九州王朝にはそんな「余力」が?
2021年6月21日 18時53分

前方後円墳全盛時代を思い起こしてみればいいでしょう。畿内と九州の古墳にどれほどの大きさ(体積)の差があるのか?数十倍の差がある。それはとりもなおさず経済力の差。

古田氏は「別の「時点」」と言いながら、具体的にそれを示さない。
2021年6月21日 19時4分

p72
しかもそこは(従来説の学者には)「都」ならぬ「地方官庁」にすぎません。それほどの大工事を行うなら、当然、近畿(2字傍点)に対してでなければ、不可解(従来の史学の立場では、そうなりましょう)。それが人間の常識、理性ある人間の「経験法則」にかなう理解です。〈続く〉
2021年6月21日 19時11分

貴見及び従来の史学の目は、それに真っ向から反して(3字傍点)います。

こう言い放つお相手は家永三郎氏!これは挑発でしょうね。こんなこと言われてムキになる人もいれば、引く人もいるでしょう。
2021年6月21日 19時13分

筑紫の地がヤマトにとって枢要の地であることは、宣化朝に那の津の屯倉を置いた時、あるいは壬申の乱時に、近江側に付くよう「符」を受けた筑紫大宰栗隈王が、それを拒んだときの言葉によく現れています。

古田氏は触れようとしませんが、だからこそ、代々、筑紫大宰が任命派遣されてきたのです。
2021年6月21日 19時22分

p72からは「「太宰府」は総理官庁」
これについては最近もツイートしました。

「天子の宮殿」と同じ町(3字傍点)にあります。

とのことですが、はて?九州に「天子の宮殿」がありましたっけ?古田氏の脳内にはあるようですけどね、、、
2021年6月21日 22時14分

p73
その上、大切な一点、それは日本書紀に「筑紫に太宰府を置いた」という記事がない(2字傍点)ことです。

これまた面妖な!吉備大宰も「吉備に大宰府を置いた」という記録が『日本書紀』にありませんが、誰が置いた?というより、九州王朝の史書には、九州王朝が「太宰府を置いた」と書いてあるの?
2021年6月21日 22時17分

「設置記事があろうとなかろうと、官職を授け、官庁を置きうるのは、近畿天皇家のみ」という、「証明なきイデオロギー」を貫いてきました。

はあ?古田氏は何を「証明」したの?九州王朝を高らかに謳い上げてますけど、その実在を「証明」しましたか?してないでしょ?
2021年6月21日 22時22分

どさくさに紛れて「官職を授け」を文中に含めていますが、筑紫大宰を任じたのはヤマト。他に誰か任じたという証拠でもありますか?九州王朝が「官職を授け」たという「証明」を、古田氏はしましたか?してないでしょ?
2021年6月21日 22時23分

「証明なきイデオロギー」だなんて、まさしく古田氏にこそ当てはまるスローガンを投げつけられて、家永三郎氏はさぞかし当惑したでしょう。

巻末の「論争を終えて」に家永氏が書いておられます。

〈続く〉
2021年6月21日 22時30分

古田氏は、公刊文中くり返し自説に対して学会からの反応の無いのを遺憾とする意を表明しておられるが、はからずも氏と論争した私の経験によると、氏は反論に対し強弁をふるって自説を擁護することにのみつとめ、感情的口吻さえ随処に見られるのである。
2021年6月21日 22時32分

〈中略〉ことに私の危虞するのは、「一元史観」「多元史観」といったレッテルはりの語勢が強くなってきていることである。それは無理をしてでもそのレッテルの適不適に合わせて史実を理解しようとする強引な命題の定立固執を導くおそれ甚大である。〈続く〉
2021年6月21日 22時36分

法隆寺金堂本尊と天寿国繍帳銘文とについての古田説は、私にはそのような氏の姿勢からもたらされたもののように思われてならないのである。

まさしく家永氏の言われる通りです。今日取り上げた「水城」の解釈についても、自分の思いつきに基づいた強弁に他なりません。
2021年6月21日 22時38分

p73に戻ります。通説の立場を「近畿天皇家の御用史学」と決めつけます。そして、

とくに〝総理庁〟に当る重要官庁であり、その時期も、七世紀頃なのに、その「設置記事なし」もお構いなしに、「太宰府」を〝近畿天皇家の太宰府〟と解し通して(3字傍点)きました。〈続く〉
2021年6月21日 22時43分

その矛盾の露頭が、右の「水城」問題です(hy注:紫宸殿とか北帝門とかの遺存地名云々)。

その「水城」問題は、古田氏のトンチンカンであったことが明らかになりました。家永氏の「無理をしてでもそのレッテルの適不適に合わせて史実を理解しようとする強引な命題の定立固執」に他なりません。
2021年6月21日 22時46分

続けます。

以上によって、何気なく(従来の歴史学者間に「自明のこと」として)お使いになった史料が、その実、大変な問題性をはらむこと、ご了解いただければ幸いです。

一体、誰がそんなもの「ご了解いただけ」るのか?
2021年6月21日 22時56分

そしてこの項の最後の一文:

まこと、秋田孝季の言のごとく、「歴史は足にて知るべきものなり」ですね。

そう、この本が出された年は、まさしく「東日流外三郡誌」真贋論争が表舞台で激烈な炎を上げ始めた年なのです。
2021年6月21日 22時59分

p76ではp73からの「阿知王の高句麗訪問の時期」の話の結末として、「書紀の〝偽史ぶり〟の好例」として講釈。そして、

この阿知王説話もまた、九州王朝(筑紫君)に関する歴史記事(事実)をあたかも近畿天皇家の歴史であるかのように、偽わって(4字傍点)〝とり入れ〟ている、その好例です。
2021年6月21日 23時4分

安本氏の言葉です。
(1)みずからの想念により説を立て、
(2)みずからの優秀性、卓越性を信じ、そのゆえに自説の正しさを信じ、
(3)他説を論難罵倒しつくすことによって、自説の優位性を誇示し、

『古代九州王朝はなかった』p242です。(6)までありますので、関心をお持ちのむきは是非お読みください。
2021年6月21日 23時8分

p83加ら。
(一)類推の成立しないことを挙げて類推する強弁が多く、
(二)感情的な用語が多すぎ(もちろん人間であるかぎり、感情を全く抜きにして論争できませんし、私も時には感情的用語を用いましたけれど、貴兄の文章にはあまりにもそれが多すぎます)、〈続く〉
2021年6月21日 23時12分

これ以上論争を継続することの意義が疑わしくなったことを、感じたままに申しあげて一応筆を擱きます。

この家永氏の感じたものは、ひょっとして谷野満氏の感じたものと共通するのではないかと、ふと思ってしまいました。
2021年6月21日 23時16分

p92に「九州歴史資料館の「水城」の解説」という項目を立てています。館内の水城の解説・展示を見て「ああ、それなら、この前、家永さんあてにお書きしたのを訂正しなければいけない」と思って館を辞したのですが、

とあり、お?と思ったのですが、次が、、、
2021年6月21日 23時19分

帰路よく考えてみると、この解説・展示はどうも正しくないようです。

として、その解説に対して疑問を抱いたようです。曰く、

この場合、Aの大堤を基準(2字傍点)にして「水を貯へしむ」という表現は妥当しません。
2021年6月21日 23時23分

むしろ「小堤(2字傍点)を築きて水を貯へしむ」となるわけで、こっちの小堤の方が「水城の主体」ということになります。しかし現地で「水城」と呼びつづけてきたのは〝目にもあらわな〟Aの方です。

これも見事な強弁です。「堤」とあれば、その内(上)側に水を蓄えるものだ!とのキメツケ。
2021年6月21日 23時25分

そして、
いずれから見ても、今回の「新解説」はあやまりでないかとわたしには見えます。では、何か。

と言って切り出したのが地名付会。どうしても水城=御津城としたいようです。
2021年6月21日 23時29分

まさしく、安本氏の、
(1)みずからの想念により説を立て、
(2)みずからの優秀性、卓越性を信じ、そのゆえに自説の正しさを信じ、
に他なりません。

終いには、「利(リ)(地名単位)の上塔利(カミタフリ)の太子」が登場。もちろん『隋書』の利歌彌多弗利ですが、、、
2021年6月21日 23時31分

p95に「鬼ノ前、鬼ノ内、鬼(「桜井地区小字標定一覧図〈1965年〉より)」という地図のようなものが掲げてありますが、この小字名が「法隆寺金堂釈迦三尊像銘」に記される「鬼前太后」ゆかりの地なんだそうです。前原町所在のよう。

古田氏は第1書p283で「「地名比定」を先とせず」と言いました。
2021年6月21日 23時43分

数十年来、古代史に親しみ、色々本も読んできましたが、古田氏ほど〝地名漁り〟の激しい方は他に記憶がありません。その地名がどれほど古く遡れるか?検証しているのはごく僅かです。それどころか、『肥前国風土記』宮處条に景行天皇の行宮だと明記してあるのに、それを伏せて「吉野宮」と。
2021年6月21日 23時47分

「吉野宮」とはもちろん、天武持統朝の、あの「吉野宮」です。

なにゆえそれほど〝地名漁り〟に奔るか?九州王朝説が、それを裏づける史料飢餓状態という宿痾を抱えているからに他ならないでしょう。
2021年6月21日 23時50分

どうして〝地名漁り〟に奔るか?古田氏が稀に口にするのが、ご自身が一時長岡京の故地(向日町?)に住んでた折、都の名残かという字名が現在まで遺存していた!という体験があるのではないかと思えます。
2021年6月22日 10時6分

久しぶりに『関東に大王あり』を開きました。別に、倭の五王の問題に移ろうというのではなく、鉄剣銘の「斯鬼宮」を地元から探してきた(というか教示を得た?)件を思い出したからです。しかし、次の一文が目に止まりました。#原田実 氏も引いておられましたが、、、
2021年6月22日 10時9分

自分がすでに提出していた学説の手前、自己に不利な証拠を前にして見苦しい弁明を行う、それは男の、いや人間のとるべき態度ではない。私はそれをもっとも嫌悪する。

同書p19。はなはだ名文です。まるで人生論の本かと見紛うばかりの格調高い名文です。惜しむらくは、言行不一致であること。
2021年6月22日 10時15分

この本が刊行されたのはs54。第一論文「邪馬壹国」の10年後。この頃の古田氏は既存の古代史をなで斬りにして、最も脂ののっている頃でしょう。まさか将来自身が「人間のとるべき態度ではない」仕儀に陥るなどとは夢想だにしなかったでしょう。では、古田氏は自己「嫌悪」に陥ったか?
2021年6月22日 10時20分

自己「嫌悪」に陥ったとは到底思えません。むしろ、『関東に大王あり』でのこんな発言など、既に忘却の彼方に消え去っていたのではないかと思えます。

同書p44に、「なんでも「古事記・日本書紀」」という項目を立てていますが、古田氏はまさしく「なんでも九州王朝」という症状に陥って、、、
2021年6月22日 10時23分

『法隆寺論争』に戻ります。巻末の「〝言われた〟テーマ、〝言われなかった〟テーマ」の中で、水城問題を取り上げ、

九州歴史資料館を訪ねた帰途、わたしにとっての「決着」を見た。

と。「決着」とはp92-93の部分かと思いますが、結局は自分の思いつきである、水城=御津城に戻っただけのこと!
2021年6月22日 10時30分

p93
水城のそば(北側)に、「月の浦」や「月隈(ぐま)」があります。別段この地点で「月がよく見える」というわけではありません。これは「津城(月)」のことだと思います。つまり「御津城(みずき)」と同類です。

九州歴史資料館の解説を非とし、自分の地名付会を是とする、信じがたい思考回路。
2021年6月22日 10時36分

本書の初めの方に白村江が取り上げてありましたので、その点を追ってみました。p41に、

ここは「熊津都督府(3字傍点)」と相並んで「筑紫都督府(3字傍点)」が出てくるのですから、一連の役所名(6字傍点)と見るべきは当然です。〈続く〉
2021年6月22日 10時53分

そして前者が中国(唐)側の役所名(在熊津)であるとすれば、後者も同じ(在筑紫)と見なすべきでしょう。すなわち、百済(公州)に戦勝後の統治機関(都督府)を置いたと同じく、倭国(筑紫)にも、それ(都督府)を置いた―これが一番自然な理解です。
2021年6月22日 10時55分

古田氏の好きな『旧唐書』には、百済には都督府を置いたことが明記してありますが、倭国に置いたなどとは一切書いてありません。この事の説明は?
https://twitter.com/hyena_no/status/1394153037720166404
2021年6月22日 10時57分

『日本書紀』に対しては偽書偽作扱いをする一方で、漢籍史料については誤字ですら〝ありのままに〟信拠する古田氏にあって、『唐書』筑紫都督府不記載についての説明は避けて通れない設問だと言えるはずですが?

どこかで触れているのでしょうか?
2021年6月22日 10時59分

古田氏の論法で言うと、鎌倉幕府も中国が置いた!ということになりそうです。何しろ中国では『史記』のころから「幕府」はありますからね、、、あれ?「内閣」という言葉も『三国志』の時代から見えていますよ!
2021年6月22日 11時7分

何より、7世紀初頭から筑紫大宰がヤマトにより任命され続けているという『日本書紀』の記述の〝解釈〟を確定しなければ、古田7世紀史は大きな障害を抱えたままということになります。

ここのところ、磐井の乱以降の九州王朝説に関する古田氏の著作を開いていますが、一向にこの件が解決されなくて。
2021年6月22日 11時12分

p41から続けます。

ではなぜ、それが「近江(2字傍点)都督府」ではなく、「筑紫(2字傍点)都督府」なのか。

それは、都督府が「唐代の地方行政機構の名称」だからです(孟慶遠主編『中国歴史文化事典』p814)。筑紫は近江にとっては「地方」です。
2021年6月22日 11時19分

同事典から続けます。

唐は辺境の重要な鎮に都督府を設け、都督を置いて軍事をつかさどらせた。

近江の朝廷からすれば、まさしく大宰府は「辺境の重要な鎮」。
2021年6月22日 11時22分

p41を続けます。

その回答は一つ。白村江で敗れた中心権力者(倭王)は「筑紫君薩夜麻」たちだったからです。

根拠のない空想です。近畿天皇家にとって記録上抹消したい九州王朝の王など、『書紀』に一切書かなければいいはず。
2021年6月22日 11時26分

磐井の乱以降の『書紀』を見ても、どこにも筑紫に権力者がいたなど窺えない。九州王朝説の立場から言えば、『書紀』が抹消したからではないのか?ならば、なにゆえ薩夜麻の記事を残す?『書紀』に〝書かない〟ことなど、何よりも容易に九州王朝を抹消することのできる〝作業〟のはず。
2021年6月22日 11時29分

続けます。

もし、そうではなく、斉明・天智たちだったとしたら、彼等(唐側)が「大和(2字傍点)都督府」や「近江(2字傍点)都督府」を置くのに、遠慮する必要などどこにもありません。また、それでなければ置く意味(4字傍点)がありません。
2021年6月22日 11時31分

ホントにこの人は自分のアイデア、自分の言葉に酔う人なんですね。脳内では既に唐が倭国に勝利して大和や近江に都督府を置けるのだ!という(否定するための)仮の構図が出来上がってるんですよね。

筑紫都督府を唐側が置いた!ということすら、何の根拠も挙げてないにもかかわらず、です。
2021年6月22日 11時39分

a.筑紫都督府は唐が置いた
 ⇩
b.大和や近江には置かなかった
 ⇩
c.それは筑紫が敗戦国の都だったからだ!

こういう回路でしょう。aすら全く論証されていない、単なる空想に過ぎないのに、古田氏の脳内では既定事実化しているようです。
2021年6月22日 11時42分

マッカーサーが厚木か高知などに総司令部、もしくはその別(副)司令部を置いただけで、〝東京には置かないままにした〟ようなものですから。

は?何が「ようなもの」なんですか?比較にならないものを比喩として用いるのも詭弁の一つだったような。
2021年6月22日 11時44分

戦後生まれでさえ、あらまし知っている太平洋戦争の終戦の経緯を、1300年前の白村江の戦の比喩に用いるなど、もはや論理論証のはるか枠外にあると言っていいでしょう。

白村江の敗戦で、誰か〝ポツダム宣言〟を受諾し、〝終戦の詔勅〟を発したのでしょうか?そんな記録があれば見てみたいものです。
2021年6月22日 11時50分

このような弁論が一般の読者向けではなく、家永三郎氏に向けてのものだということを思い起こすと、若干の〝おののき〟さえ感じます。
2021年6月22日 11時52分

p38②⑤、すなわち天智三年五月、同四年九月の記事(唐側の行動)は天智紀六年十一月の筑紫都督府の記事としてその政治的結実を残した、と言います。何を言っているのか不明です。
2021年6月22日 13時16分

天智紀六年十一月の都督府記事は、2年前に遣唐された内の一人、小山坂合部連石積を熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等が送ってきた、という話です。その司馬法聰等の送使として小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石が遣わされた、という記事。丁重な外交儀礼に基づいていると思えます。
2021年6月22日 13時18分

p42の古田氏の言、その間の具体的経緯を書紀の記述者(編者)はカットしたため、唐突にこの一文が見え、後代の学者にとって「文飾」視されて、その実体を「無視」ないし「軽視」されることになったもの―わたしにはそう思われます。

※傍点、傍線については以下記載略。
2021年6月22日 13時22分

「唐突」とは、どうして「唐突」と言えるのか?その説明はナシ。自分で描いた空想が、実際に『書紀』中に見えないので「カット」と。

なんら、九州王朝があった!という仮説に対して寄与することのない空想です。
2021年6月22日 13時25分

続く括弧書き、

(肝心の「表函」の「表」の内容が全く掲載されていません。これもポイントです)。

「表」の内容が書かれてないことが、何か九州王朝説に資するとでも仰るんでしょうか?甚だ不思議な言いがかりです。「表」の内容は必ず掲載されるものだ!という法則でもあるのか?
2021年6月22日 13時30分

これに対し、従来の「大和朝廷一元主義」(Tennology)に立つ歴史学者の場合、的確な解説が与えられない(原理上)ため、「文飾」視したり、相手国の人々を「物に目がくらんだ中国使節」視したりして、〝ごまかしてきた〟。
2021年6月22日 13時34分

―わたしの目にはそう見えています(もちろん、論文に直接そのように表現されているわけではありませんが、わたしの目には、そう見えています)。

(1)みずからの想念により説を立て、
(2)みずからの優秀性、卓越性を信じ、そのゆえに自説の正しさを信じ、
という安本氏の言や然りです。
2021年6月22日 13時36分

「的確な解説が与えられない」というのなら、ご自分で「その間の具体的経緯」や「「表」の内容」を書き示してみればいい。どんな話になるのか?

古田氏は疑問を投げかけるばかりで、ならば自分の立場ならば具体的にどういう対案が出せるのかが、示されません。
2021年6月22日 13時40分

『書紀』は疑わしいから九州王朝はあった!何の論理もそこにはありません。

古田氏は具体的に7世紀の九州王朝史を述べたことがあるのか?代々の天子が、何年にどこで何をした!という歴史を。大業や貞観の際、九州王朝から隋唐へ使わされた使者の名と冠位は?
2021年6月22日 13時48分

「#世界ふれあい街歩き ちょっとお散歩」をNHK+で。タイのプーケット島。占いで赤ちゃんの名前を決めてもらうお母さんが。決まった名前が「明通(みんどん)」。家族が観音様を信仰しているらしいので、中国系かな?ここって漢字文化圏?イスラム教やキリスト教の人も混在とか。奴国ももしかして!
2021年6月22日 16時22分

古田vs家永『法隆寺論争』に戻ります。p42から「近畿天皇家の唐への内応」。『備中国風土記』邇磨郷の記事を引きます。

皇極(斉明)・天智(皇太子)の命で百済救援のために募兵したけれど、斉明が崩じたため、(その喪に服して)白村江には参加せずじまいだった、というのです。
2021年6月22日 18時18分

あれ?本書は1993年ですが、1998年『失われた日本』では違った解釈を。
https://twitter.com/hyena_no/status/1400266208809603073
2021年6月22日 18時19分

その次がすごいんです。

とすると、「備中の兵」ですら「斉明の喪に服し」、白村江不参加なのですから、大和や近江の兵(近畿直属)が「喪に服さなかった」ら変なのです。ですから、近畿天皇家の軍は、「白村江に参加しなかった」のです。「斉明の喪に服する」ことを名分(表向きの理由)として。
2021年6月22日 18時23分

『書紀』の記述を全く無視していますね。
斉明7年(661)8月 遣前將軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河邊百枝臣等・後將軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等、救於百濟、仍送兵杖・五穀。

このうち阿倍引田比邏は斉明朝で筑紫大宰帥だったことが『続日本紀』に出ています。
2021年6月22日 18時31分

天智2年(663)3月 遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅。

これも「近畿天皇家の軍」ではなかったと?
2021年6月22日 18時40分

同年6月、前將軍上毛野君稚子等、取新羅沙鼻岐奴江二城。

これも「近畿天皇家の軍」ではなかったと?
2021年6月22日 18時41分

同8月、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。

これも「近畿天皇家の軍」ではなかったと?
2021年6月22日 18時43分

p43を続けます。

実際は、すでに推古・舒明以来の「唐との友好関係」(遣隋使でなく、遣唐使―日本書紀)を深めていたため、仲間(母国)の九州王朝を〝見捨て〟て、直前に戦線離脱したのです。

何の根拠もない空想。高表仁は難波に足止めされ、朝廷での饗宴はおろか、入京すらできなかったのです。
2021年6月22日 18時50分

これが、私の目から見た「近畿天皇家の天皇や皇子や重臣に〝敗戦責任〟をとらされた形跡のない」理由です(唐から見れば「功績者」です)。

「九州王朝」の実在すら証明されていないのに「見捨て〟」るなどという事案の発生する由も無し。まさしく〝屋上屋を架す〟空説に過ぎません。
2021年6月22日 18時54分

唐側も、「遠交近攻」のたとえ通り、倭国(九州王朝)の「分国」(分流)である近畿天皇家とは、推古期から一貫して(七~八世紀)友好関係を結び続けていました。〈続く〉
2021年6月22日 18時57分

ですから、「倭国」を亡ぼしてあと、一時的に置いていた自己の「筑紫都督府」を「日本国」(近畿天皇家)に〝ゆずりわたした〟形で吸収させたのです。これが私の認識です。

おそらく家永三郎氏は、このような古田氏の妄想につきあわされている現実に、辟易としていたことでしょう。
2021年6月22日 18時59分

古田氏の脳内では既に、筑紫都督府は唐が「一時的に置いていた」という既定事実が出来上がっています。何の史料的裏付けもないそのような空想を既定事実として「「日本国」(近畿天皇家)に〝ゆずりわたした〟」などと説かれても、首肯できるはずがありません。
2021年6月22日 19時2分

まずは、筑紫都督府とは唐が置いたものだ!という〝論証〟が必須でしょう。でも古田氏は、自分が唱えれば、それは事実である!という強い信念をお持ちなんでしょう。どんどん空想の上に空想を重ねていきます。
2021年6月22日 19時4分

「推古期から一貫して(七~八世紀)友好関係を結び続けてい」たヤマトが、なにゆえ白村江直後から、
對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に防人と烽を置き、又於筑紫に水城という大堤を築いて水を貯えた〝という記述〟を『日本書紀』に書いたのか。古田氏は水城は「別の「時点」の話だと(p69)。
2021年6月22日 19時14分

「友好関係を結び続けてい」たのなら、『書紀』に、まるで敵対するような水城の記事を書く必要など無い。
天智6年(667)3月には近江京へ遷都。何を恐れての遷都?
同年11月には、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。「友好関係」?
2021年6月22日 19時18分

もっと前、すでに書いたかも。
天智4年(665)8月 遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。

大野城、椽城は明らかに大宰府を防衛するため。「友好関係を結び続けてい」た唐からの防衛?

なんのこっちゃ?
2021年6月22日 19時20分

古田氏の言う「私の認識」なるものは、『日本書紀』の記載に照らせば、ご覧の通り支離滅裂なのです。
2021年6月22日 19時22分

隋唐代の話から外れますが、面白いことが書いてありますので脇道へ。p44、8/1から6のシンポジウムというのは1991/8/1-8/6の「白樺湖シンポジウム」。『「邪馬台国」徹底論争 第1巻』自由討論中p298にある木佐敬久氏の発言のこと。倭人伝の行程記事は軍事用なので使用目的に耐えるものだ、とします。
2021年6月22日 22時23分

古田氏の言です。

この瞬間、一切の「邪馬台国」論争はフットンだ。つまり集結した、と感じました。

そして、
①方角を「あやまてり」とせず
②里程を誇張とせず(魏・西晋朝の短里)
③「水行十日陸行一月」を...総日程とする。
とする古田氏の説こそ、木佐提言にパスできる!と。
2021年6月22日 22時27分

自由討論は8/3の最後のプログラムで、始めに『行路・里程』をテーマとして白崎昭一郎氏らも出席して討論が行われます。つまり、この木佐提言の前に、古田氏と白崎氏の短里論争は戦わされたことになります。
2021年6月22日 22時32分

その短里論争での応酬がどのようなものであったか?是非読んで頂きたいところです。百里単位の短里論争で古田氏の反論は完全に破綻していたのです。

それがあった上での『法隆寺論争』p44での木佐提言パス発言となります。
2021年6月22日 22時34分

②里程を誇張とせず(魏・西晋朝の短里)
って、魏西晋朝短里説は破綻したのです。短里があるとすれば倭韓のみ。つまり、中国本土と倭韓の里単位が違う!というのが『魏志』から得られる帰結。里単位が違うものが「軍事用の使用目的に耐える」はずがありません。
2021年6月22日 22時40分

恐らく古田氏には光芒が見えたのか、p45で次のように続けます。

まだ今回の白樺湖シンポ(八月一日~六日、昭和薬科大学諏訪校舎)の成果を知らない学者は、「邪馬台国」論争はつづいていると思っていますが、もう市民は知りはじめています。学者も、結局これを無視し通すことは不可能でしょう。
2021年6月22日 22時44分

自説にこれほど〝酔っ払う〟ことができるというのは驚嘆すべきことです。その日、短里論争で白崎氏との応酬で〝詰んで〟しまったことなど、おくびにも出しません。

「学者も、結局これを無視し通すことは不可能でしょう」という古田氏の予言は、あれから30年後の今年、的中しているでしょうか?
2021年6月22日 22時48分

p45に阿倍仲麻呂が出てきます。仲麻呂が「京師」に50年いたことを強調し、

旧唐書の根本資料を記録した唐朝の史官にとって、阿倍仲麻呂(仲満)は、上司だったのです。

として、旧唐書の倭国・日本国伝は彼(仲麻呂)の情報に依拠し、そのOKを得ていたことを意味します、と。
2021年6月22日 22時52分

つい先日もツイートしましたが、『通典』の着手は阿倍仲麻呂最晩年のこと。杜佑は『通典』完成後、【貞元十七年,自淮南使人詣闕獻之】、つまり801年、朝廷へ献上しているんです。この『通典』に書かれてあることは、仲麻呂メソッドを用いるならば、信拠すべきということになります。
2021年6月22日 23時5分

再掲します。
https://twitter.com/hyena_no/status/1401168268048564224

その『通典』になんと書いてあるか。【倭一名日本】【倭国一名日本】

2021年6月22日 23時8分

仲麻呂メソッドを使うならば、『通典』とは、阿倍仲麻呂在唐の〝超・同時代史料〟ということになります。

それに比して、『旧唐書』は『通典』より1世紀半後の成立。古田氏は次のように言いました。
2021年6月22日 23時12分

『失われた九州王朝』p3
「中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。中国の史書の多くは、当時の倭国との同時代史料だ。しかも、倭国の中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた。その報告にもとづく第一史料、それによったのが中国史書である。」
2021年6月22日 23時13分

古田氏の〝場当たりメソッド〟は互いに矛盾しています。仲麻呂メソッドを用い、同時代史料メソッドをも併用するならば、答えは唯一つ!【倭一名日本】【倭国一名日本】以外にありえません。
2021年6月22日 23時16分

古田氏の言を真似るとすれば:
この瞬間、九州王朝説はフットンだ。つまり終結した、とわたしは感じました。なぜなら、『通典』の証言は、理性ある人間なら、万人が首肯するはずのものだったからです。
2021年6月22日 23時19分

この「フットンだ」を回避するためには、後代史料でも真実が含まれている場合もある!という、新たなメソッド(古田氏風に言えば「法則」)が必要です。

張政と仲麻呂(仲満)の一字ずつ用いて「政・満の法則」と、古田氏はネーミングしています(p43-)。
2021年6月22日 23時23分

もう一人、郭務悰から「悰」を頂戴して、結局「政・悰・満の法則」というメソッドを創作したわけです。

で、登場するのが郭務悰。話がよく読み取れないのですが、結局『旧唐書』の倭・日本別記を前提に組み立てているようです。
2021年6月22日 23時26分

ところが、先程も述べたように、仲麻呂メソッドを使わせてもらえば、『通典』こそ信拠するに足る史料ということのなりますので、【倭一名日本】【倭国一名日本】で、両者同一のものということが確定します。
2021年6月22日 23時29分

古田氏曰く「倭国について一国か二国か、これをまちがえて報告した、などということは考えられません。」

そうです。郭務悰がまちがえて報告した、などということは考えられません。一国なのです。仲麻呂とほぼ同時代の『通典』がそれを保証しています。
2021年6月22日 23時31分

p46終りの方で、次のように述べます。

一方では、郭務悰、他方では阿倍仲麻呂の「報告」を「裏づけ」とし、情報源とした「倭国・日本国」別国記載に対し、

はあ?郭務悰が「倭国・日本国」を別国だと報告した?どこで?何年何月?
2021年6月22日 23時37分

古田氏は10世紀なかば成立の旧唐書』に書かれてあることが、即・7世紀なかばの史実!と直結していますが、古田氏流に言えば〝仲麻呂の証言〟とも言える『通典』の【倭一名日本】【倭国一名日本】については視野の外にあるのか、触れません。

本当に古田氏にとって『通典』は鬼門のようです。
2021年6月22日 23時41分

p47の「『旧唐書』倭国・日本国伝との矛盾」は、美味しそうですので、明日の楽しみにとっておきましょう。

ここでも例の「必要にして十分な反論」を相手に求めています。人の抱く妄想に対して「必要にして十分な反論」を行うことが至難の業であることは、昨今の陰謀論を見ても明らかでしょう。
2021年6月22日 23時44分

朝のお目覚めに誤写誤刻の1例を。『冊府元亀』外臣部悖慢(はいまん) 【隋倭國王多思此】。もちろん「多利思比孤」から2字脱1字誤。

2021年6月23日 9時16分

p47
わたしは、貴論と見地を同じうしません。なぜなら、わたしは「全日本書紀は疑ってかかるのが安全」と考えているからです。「天武紀」(二巻)「持統紀」(一巻)を「完全圏内」におけるものとは考えていません。

この時点で既に疑念を生じます。
2021年6月23日 9時47分

p41で筑紫都督府、則ち天智六年十一月条の記事を「疑ってかか」っているようには見えません。もちろんこの文に対する大系本の「解説」が「姑息」とは言ってますが。そして、

ここは「熊津都督府」と相並んで「筑紫都督府」が出てくるのですから、一連の役所名と見るべきは当然です。

とします。
2021年6月23日 9時56分

その天智六年十一月の記事:
a.百済の鎮将劉仁願が、
b.熊津の都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣わし
c.大山下境部連石積等を
d.筑紫の都督府に送る

a-dのいずれについてもその記述を「疑ってかか」っているようには見えません。「疑って」しまえば自説の立論の土台が崩れるからです。
2021年6月23日 10時2分

古田氏には『日本書紀』の記述を激しく疑う場面も見受けられます。その峻別の基準は何か?自説に対する、好都合・不都合が基準であるかのように思えます。

さて、問題の「必要にして十分な反論」の件です。
2021年6月23日 10時6分

p47中程
その理由は、当然ながら旧唐書の倭国・日本国伝に矛盾するからです。

「矛盾」するなら、同時代史料を採るべきなのでは?『旧唐書』は『日本書紀』より2世紀以上も後に成立したものです。古田氏は言いました。

中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。

と。
2021年6月23日 10時11分

また古田氏は第1書から、シュリーマンを引き合いに出します。しかし、シュリーマンが信じたのは、ギリシア人が書いたギリシアの歴史であり、わが国に置き換えれば、それが『記紀』に当ること、既に安本美典氏がかつて指摘しているところです。
2021年6月23日 10時17分

「その理由は、当然ながら旧唐書の倭国・日本国伝に矛盾するからです」については馬鹿馬鹿しくて、触れるのも厭いたくなるのですが、『明史』日本伝によれば、秀吉は薩摩の人らしいんですね。また李氏朝鮮の『徴毖録』では秀吉が中国人だとあるとか。
2021年6月23日 10時31分

『明史』日本伝には秀吉についての記事中に、【此舉非襲大唐,乃襲我耳】とあります。この挙は大唐を襲うに非して、すなわち我を襲うのみ、ですか。

この「大唐」って何でしょう。古田氏にかかれば、これは『唐書』から紛れ込んだ文だ!とでも?
2021年6月23日 10時35分

p47からの引用を続けます。

根幹(大義名分)が「安全」と見るためには、岩波文庫本の解説者(和田清・石原道博氏)に同調して「倭国と日本を併記するような不体裁」と、旧唐書記載を一蹴する他ありますまい。それは「人間の理性を一蹴する」暴挙であるとわたしには見えています。

家永氏の心中や!
2021年6月23日 10時39分

『旧唐書』の記述を受け入れないものは「人間の理性を一蹴する」暴挙なんだそうです。『日本書紀』の2世紀以上後に成立した『旧唐書』が各も信拠できて、記述対象から1世紀にも満たず編纂された『日本書紀』は〝偽られている〟として斥ける?
2021年6月23日 10時43分

古田氏が〝偽わられ〟ていると言うのは、九州王朝説にとって『書紀』の記載は、受け入れがたい部分があまりにも多いからに他ならないのでしょう。果たして古田氏は『書紀』が〝偽わられ〟ているという「必要にして十分な」論証を行ったのでしょうか?
2021年6月23日 10時45分

「暴挙」発言に続けて、

もし、「然らず」ということでしたら、必ずこの「政・悰・満の法則」に対し、正面から、必要にして十分な反論をしていただきたい。わたしはそれを心から願います。
2021年6月23日 10時47分

A「オレは宇宙人に逢った!
B「嘘つけ!
A「嘘だというのなら必要にして十分な反論をしていただきたい

立証責任の転嫁というんですか?こういうのって、、、
2021年6月23日 10時50分

「政・悰・満の法則」が、とんだマヤカシであることは、昨日ツイートしました。自分流のメソッドにすぎないものを法則だ、定理だ、公理だ、と古田氏は各種ネーミングを創案します。しかも、その「法則」が是だという「必要にして十分な」論証など無く、単なる思いつきの組み合わせに過ぎません。
2021年6月23日 10時54分

「必要にして十分」については安本氏が白崎氏の『東アジアの中の邪馬臺国』を紹介しているので開くと、p92に簡単な解説がある。と、言われなくとも、必要十分条件など学校で教わったはずだから多くの人は認識していると思う(愚生は定かでないが)。
2021年6月23日 11時9分

どなたか、古田氏が他者の説に対して「必要にして十分な反論」をしている個所があったらご案内いただきたいものです。

「政・悰・満の法則」にしてからが、憶測の組み合わせに過ぎませんし、簡単に否定されるべきものです。しかしさて、それに対し「必要にして十分な反論」をするとなると、はて?
2021年6月23日 11時14分

議論をする上で、言葉の定義というのは、はなはだ重要で、その定義が彼我一致しなければ、議論は噛み合わないでしょう。古田氏が「必要にして十分な反論」の定義なり実例を示して貰えたら、それを基準に考えることもできるのでしょうが、、、
2021年6月23日 11時16分

掲示板時代に、「政・悰・満の法則」を持ち出す人がいました。仲麻呂の証言とかですね。この辺りのことはあまり注目していなかったのですが、今回、古田氏の首長を読んでみて、いかに稚拙な「法則」なのか!と、やや驚きさえ感じました。
2021年6月23日 11時20分

仲麻呂が唐に長期滞在したことをテコにするなら、まさしく超・同時代史料ともいえる『通典』こそ信拠するに足る史料であり、そこには【倭一名日本】【倭国一名日本】と明記してあるのです。『新唐書』『宋史』以降の正史も両者同一の立場ですし、『文献通考』でも【倭即日本】と明記してあります。
2021年6月23日 11時23分

なお付言すれば、「別種」表記は正史中『史記』から見えていますが、『旧唐書』が最も多く、編纂方針や時代的背景もあるのかも知れませんが、確たることを言うには至らないのではないかと思います。
2021年6月23日 11時33分

『法隆寺論争』も終末近くに古田氏の〈追伸〉が。

前回(三月二十日)の愚簡中、失礼の点、多々あり、つつしんで削除させていただきます。御寛恕お願いいたします(同封、赤線部分、本書にては削除)。

と。
2021年6月23日 14時0分

例えばp72の
これが人間の常識、理性ある人間の「経験法則」にかなう理解です。貴見及び従来の史学の目は、それに真向から反しています。

など、相手に対する礼を顧みない表現と思えるのですが、これは削除されていませんので、「つつしんで削除」した個所には、一体何と書いてあったのか?
2021年6月23日 14時3分

p97の家永氏からの返書から、それは窺えそうです。

三月十六日の貴簡で家永の主張には生産性が失われるとありましたが、今回三月十六日訂正版で後者をカットされたところを見ますと、貴兄はこの論争に生産性がある(貴兄のほうだけの意味でしょうが)とお考えのようですから、〈続く〉
2021年6月23日 14時11分

それならば公表することに異議はありませせん。

どうやら古田氏が「家永の主張には生産性が失われる」と述べたようですね。さすがにこれは「失礼」だと思ったのか?古田氏の「主張には生産性が」果たしてあったのかどうか、大いなる疑問無しとしません。
2021年6月23日 14時15分

p96「追伸」の後半、公開希望を述べたあと、

後生のわたしにとってきわめて学問上多産であり、また種々勉強の土台となりましたので、一般の若い方にはさらに大きな学的刺激となるものと存じます。

として次のように括弧書きを続けます。
2021年6月23日 14時18分

(大和近辺で「鬼の前」や「上塔」を探す方々も出て来られるか、と存じます)

「鬼の前」とは「法隆寺金堂釈迦三尊像銘」に記される「鬼前太后」のこと。「上塔」は『隋書』利歌彌多弗利の「歌彌多弗」のこと。

これを読んだときの家永氏の心中や如何!
2021年6月23日 14時24分

「論争を終えて」p112での古田氏の言葉。

これを思うと、やはり、家永さんにとって〝容易に答えがたい〟ような重要性を、この「政・悰・満の法則」に対して、感じとって下さったのかもしれぬ。

家永氏はそういう発想には付いていけなかったのではないかと、、、
2021年6月23日 14時31分

古田氏ご案内の通り、この「政・悰・満の法則」については『法隆寺論争』の前年刊行の『古代史―日本国の真実 全ての日本国民に捧ぐ』という大仰なタイトルの本に書かれてあります。幸い、これも手元にありますので、一呼吸置いてから紐解いてみたいと思います。
2021年6月23日 14時34分

「大和近辺で「鬼の前」や「上塔」を探す方々も」とは、〝地名漁りの勧め〟なのか、、、

第1書p338
わたしは「地名比定」から、問題を出発させることを、厳にみずからに禁じてきた

「鬼の前」や「上塔」は、「地名比定」から、問題を出発させることに当たらないと考えてるのか?
2021年6月23日 14時54分

『古代史―日本国の真実 すべての日本国民に捧ぐ』を開きましたが、「全ての歴史学者に捧ぐ―政・悰・満の法則」は、内容的に『法隆寺論争』に書かれてあることとあまり違いは無いようですね。

p96から引きます。
2021年6月23日 18時31分

その(hy注:郭務悰)軍事的・政治的報告書が資料の一つとなって書かれたもの、それが旧唐書の倭国伝であること、この一事は疑いがたいところであろう。

『旧唐書』貞観五年の倭国からの遣使は犬上君三田耜らの遣唐に相当します。帰国時、高表仁を伴ってきました。
2021年6月23日 18時40分

この年に九州王朝から遣唐使が出たなど、一切記録はありません。旧唐書の「倭国」とはヤマトのことと考える他ありません。斉明五年の遣使の際は、使者が唐の天子と「相見」え、倭国について様々訊かれます。これももちろんヤマトの記録です。『旧唐書』倭国の記事はこれらの機会にもたらされたもの。
2021年6月23日 18時47分

この時のヤマトからの遣唐使については、『通典』蝦夷条顯慶四年十月の記事として見えています。斉明紀の記事にも蝦夷が登場し、天子からいろいろと質問された旨、記録されています。当時、蝦夷に対応していたのは、もちろんヤマトです。九州王朝説による説明など問題外です。
2021年6月23日 18時50分

そもそも、はるか東夷の百済鎮将劉仁願の部下である郭務悰の報告と、天子が直接「相見」えて採録された記録と、いずれが記録として重んぜられるかは論ずるまでもないでしょう。
2021年6月23日 18時57分

古田氏は『書紀』に見える具体的な遣唐の記述を受け入れる訳には行きませんので、『旧唐書』倭国伝の記事は郭務悰の訪れた「九州王朝」のものだと主張する必要があるのです。

古田氏は小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥の遣唐の際の詳細な記述など、決して目を向けることは無かったでしょう。
2021年6月23日 18時58分

もし、あったとしたら、九州王朝の史書からのパクリとでもしなくてはならなかったでしょうね。
2021年6月23日 18時59分

「政・悰・満」の三番目、阿倍仲麻呂については、既に再三書きました。仲麻呂メソッドを用いるならば、『通典』こそ、超・同時代史料であり、【倭一名日本】【倭国一名日本】という『通典』の記述こそ、信拠するに足る情報ということになります。

つまり、仲麻呂メソッドは九州王朝説を否定します。
2021年6月23日 19時2分

「全ての歴史学者に捧ぐ」という大仰なタイトルを付した「政・悰・満の法則」の正体は以上の如くです。

木佐敬久氏の提言を受けての思いつきに「全ての歴史学者に捧ぐ」という大仰なタイトルを付し、しかも「必要にして十分な反論をしていただきたい。」と。
2021年6月23日 19時7分

果たして古田氏は終生、この「政・悰・満の法則」を維持し続けたのか?知り得ないところですが、『古田武彦の古代史百問百答』の目次を見てみると、Ⅶ白村江の戦いと九州王朝の滅亡 40に「阿倍仲麻呂の探求」について、という項目が。ここで触れているかも知れませんが、本は返却済みなので未確認。
2021年6月23日 19時17分

開いたついでに頭から覗いてみました。p4

昭和二〇年、わたしたちは決意しました。敗戦の年です。「もはや二度と、虚偽の歴史に頭を垂れまい。真実の歴史を知ろう」と。

どうして古田氏はスローガンと実体が、これほど乖離するのでしょうか?
2021年6月23日 19時22分

飲む酒は「皇国史観」「九州王朝」と違っていても、〝酔い方〟は相通ずるものがあるように、私には感じられます。

何につけ、九州王朝説に基づいて強引な解釈をする。そのためには詭弁、遁辞、我田引水も辞さず!戦前の史観から漂ってくる体臭と、どこが違うのでしょうか?
2021年6月23日 19時25分

@tPg2BSD2el0IqMg >横から失礼します
掲示板時代を思い出します(^^;)
>古田氏の説は東アジアの情勢が、わざとかどうかわかりませんがありません
ええ、そのとおりだと思います。そういう視点がありません。自説の維持補強のみに執心していた印象が強かったですね。
>「律令国家と隋唐文明」
面白そう!
2021年6月23日 22時12分

@tPg2BSD2el0IqMg 早速、bookmeterで自分の読みたい本に登録しました()v ご案内、ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月23日 22時17分

p4
八月三日、夜の一〇時頃、「自由討論」の時間に重要な提案が出されました。「木佐提案」です。

p10の注1によれば、木佐敬久氏(NHK放送文化研究所・主任研究員)と。どこかで見かけた名前と思ったら、『かくも明快な魏志倭人伝』の著者で、昨年3月読了後bookmeterで感想も書いてました。
2021年6月23日 22時24分

有名な「行路・里程」記事は、彼の中国の天子に提出された、軍事報告書にもとづくもの、と考えなければならない。

と。8/3夜ですよね。同日中には白崎昭一郎氏らも参加して短里論争が行われたはず。そこで取り上げられた百里単位の論争では、古田氏の主張は破綻していました。その夜の木佐提言。
2021年6月23日 22時33分

書棚にあった1998/2/27刊『古代史の未来』p144-145に「政悰満の法則」として一項を設けてありました。読んでみましょう。
2021年6月23日 22時35分

報告者(張政)と被報告者(天子)と両者の里単位が同一でなければ、軍事報告書として態をなさないからである。

中国本土での魏西晋朝短里説は既に否定されているので、それに基づいて言うならば「軍事報告書」でなかっただけのこと。
2021年6月23日 22時42分

どなたか事例を挙げて解説して頂くと有り難いのですが、、、
2021年6月23日 22時51分

木佐提案では、張政は正始八(二四七)年から泰始二(二六六)年まで、『晋書』倭人伝、『日本書紀』神功紀参照、とのこと(『全ての日本国民に捧ぐ』p10注3)。

こういう解釈を一概に斥けるのも乱暴だと言う気もしますが、魏の塞曹掾史として倭に赴いて、晋朝に復命するってこと、あるんでしょうか?
2021年6月23日 22時51分

『古代史の未来』p144に戻ります。A~Cは軍事報告書という前提に立って解説していますが、そもそも「張政の証言」なるものが実体としてあったのか?不明です。

何より、『翰苑』所引『魏略』には、既に行程記事が見えていますから、『魏略』の成立が266年以降であることを証明しなくては不可。
2021年6月23日 22時56分

『隋書』經籍志雑史に【典略八十九卷魏郎中魚豢撰】と見えていて、魚豢が魏の郎中だったことが分かります。魚豢が晋朝にまで仕えたかどうかは不明ですが、印象的には陳寿よりやや早い時期の人ではないかと考えられます。すると、木佐提案の「政」の部分は不成立となるでしょう。
2021年6月23日 23時3分

行程記事の解釈に、あれほど腐心した古田氏が、『魏略』の行程記事を思い起こさなかったとは考えにくいのですが、どこか別に解釈を施しているのか?

「軍事報告書」というアイデアを活かそうとするなら、張政はそれほど長く滞在しなかった!という解決策もありそうです。
2021年6月23日 23時6分

そうすれば、張政の「軍事報告書」が、まず『魏略』に取り入れられ、後に陳寿が『魏志』に『魏略』の行程記事を用いた。

そうやっても、結局は、中国本土での短里説不成立は如何ともし難いのですが、、、
2021年6月23日 23時8分

隋唐代の話から外れますが、そもそも投馬国へと邪馬壹国へとの行程文は同一構文なのであって、それを違う読み方をするというのが無理筋なのです。

2021年6月23日 23時13分

続いて郭務悰の話に移ります。p145

何回も、現地を踏んだ郭務悰が「倭国中心」の所在を誤認するはずはない。また「日本国」を承認したのは、唐朝(則天武后)だから、「倭国」(七世紀末以前)と「日本国」(八世紀初頭以降)との区別を「誤認」することなど到底ありえない。
2021年6月23日 23時23分

「到底ありえない」と力説されますが、天武元年(672)3月 阿曇連稻敷を筑紫に遣わし、郭務悰に天智天皇の喪を伝えた時、郭務悰は【咸着喪服三遍舉哀、向東稽首】と、弔意を表しています。「稽首」とは頭を地につけて礼をすること。筑紫にいて「向東」とはヤマトに他ならないでしょう。
2021年6月23日 23時31分

しかも、この時の筑紫率は前年任じられた栗隈王で、壬申の乱当時も栗熊王は在任中で、近江側の命令を拒んでいます。

そうですね、古田氏の「「誤認」することなど到底ありえない」の構成を変えれば、確かにそうかも知れません。郭務悰が「倭国中心」の所在を誤認すること無く、「向東稽首」ですから。
2021年6月23日 23時38分

最早、郭務悰の来訪した当時、九州王朝があった!とする考えなど、その成立は絶望的です。

後はもう『書紀』など全て嘘っぱちだ!として〝ちゃぶ台返し〟でもするしか無いでしょう。でも、そうすると、それはそれで自説成立の基盤を崩すことになることは既に #原田実 氏が指摘しているとおりです。
2021年6月23日 23時42分

3つ目の「満」についてはくり返しません。『通典』の2文字でボツ。

こうして、木佐提案を受けて古田氏が力説した「政・悰・満の法則」も、単なる思いつきの組み合わせにすぎず、九州王朝説に何等の寄与するところもなかったと見ていいでしょう。
2021年6月23日 23時48分

「犬人」と「大人」
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1852.html

Yahoo!掲示板「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」での投稿をメモランダムとして。

「犬人」か「大人」かで、延々とz氏との議論が。中立さんが声をかけてきたので、簡単な説明をしたというシーンです。
2021年6月24日 10時27分

思い出したことが。木佐提案では張政が泰始二(二六六)年、帰国したとしますが、『晋書』倭人伝では
【宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。】
とあり、「其後貢聘不絕」なら結構往来があったことに。
2021年6月24日 10時50分

また「及文帝作相,又數至」の「文帝作相」とは司馬昭が相国となった263年(未確認)の頃ですから、この時点でも倭人はしばしば至っていたということ。

張政の「泰始二(二六六)年」帰国説には難がありそうですが、、、
2021年6月24日 10時57分

この「及文帝作相,又數至」については確かtenchuukunさんからのご指摘があったように記憶しています。
2021年6月24日 10時59分

『古代史の未来』p170に「太宰府中心の山城群(神籠石)」という簡易マップが掲げてありますが、神籠石と水城は太字で表示されているのに、大野城、椽城は表記さえされていません。水城は「別の「時点」」(法隆寺論争p69)の疑いを述べていますが、大野城、椽城にはそのメソッドが使えなかったのか?
2021年6月24日 11時7分

天智4年(665)8月 遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。

憶禮福留や四比福夫が亡命百済人でヤマト側の人であることは、その後の記録からも明らか。そのヤマト側の人間がやって来て、太宰府の南北に山城を築造した。
2021年6月24日 11時19分

古田氏が大野城、椽城を認識しているのは確かですが、天智4年の築造記事について、どこかで見かけたのか?ちょっと記憶がありません。見かけたり、思い出したらまたツイートしましょう。
2021年6月24日 11時27分

p179には「大和は国のまほろば・・・・・・ではない」という簡易マップ。マップ上に崇神天皇陵、景行天皇陵、大神神社は表示され、注に唐古・鍵遺跡、ホケノ山古墳、石塚古墳も見えますが、纒向遺跡と箸墓は表示されず。完無視!ってヤツですかね、、、JR桜井線の駅名「巻向」はありますが(-_-;)
2021年6月24日 11時35分

『全ての日本国民に捧ぐ』をもう少しめくってみました。p10

わたしたちは、真実を恐れぬ、本当の人間として、もっと深く、もっと大きく、日本列島のなかのわたしたちの歴史に対して、ゆるがぬ誇りをもつようになるでしょう。

はなはだ面妖なことを仰る。
2021年6月24日 15時17分

7世紀までの『日本書紀』に記される「歴史」に大いなる懐疑を抱き、どこにも具体的客観的根拠のない九州王朝という妄想を修正抱き続けた人が「真実を恐れぬ」だの「本当の人間」だのとは笑止の極み!
2021年6月24日 15時20分

わたしは日本人として、日本の歴史を心の底から愛する、そういう人間でありたい。もっともっとそうなるでしょう、この生涯を終える日まで。

古田氏の言う「日本の歴史」とは何?「空中楼閣」でしかない九州王朝説?もしそうなら、確かにそれを「この生涯を終える日まで」「心の底から愛」した!
2021年6月24日 15時23分

p7の『旧唐書』の注としてp11に。

〝きゅうとうじょ〟または〝くとうじょ〟(一二世紀の成立、劉昫(りゅうく)著。五代晋の開運二〈九四五〉年完成)。(岩波文庫にあり)

「一二世紀の成立」ってナンダロ?『新唐書』が1060成立なのに?後ろの「完成」は正しい年次。ワケワカラン!
2021年6月24日 15時31分

p29からも、「木佐敬久氏の画期的発言」が。読んでみます。
2021年6月24日 15時46分

女子学生との対話というスタイルを取ってます。読み物として捉えるのがいいのか?張政が「二〇年間」倭に滞在していたという根拠として、『晋書』倭人伝と『日本書紀』の神功紀を引き、

泰始の初め、使を遣わして重訳して入貢す。(晋書・四夷伝、倭人伝)

と。その直前の文を省いたのは何故?
2021年6月24日 15時57分

【宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。】

宣帝の公孫氏を平ぐるや、その女王遣使し帯方に至りて朝見す。女王の遣使は公孫氏平定後、という意味なので、古田氏の〝景初二年が是〟説は難しいでしょう。
2021年6月24日 16時2分

また、その後貢聘は絶えず、ですから、継続的に通交していたとも受け取れます。なので、ことさら張政の帰国を「泰始初」と読むのは、晋朝への復命ありや?ということも考えれば、考えすぎではないかと思えます。
2021年6月24日 16時6分

p33では、

張政の軍事報告書に書かれて、洛陽の天子に報告された、行路の里程です。いずれにしても、世紀の里単位による、里程であると考えざるをえません。

もうすっかり「軍事報告書」が既定事実化されているんですね。古田氏特有のメソッドです。この本は1992刊で「白樺湖シンポジウム」の翌年。
2021年6月24日 16時10分

白崎昭一郎氏との間で、あれだけ議論し、「魏西晋朝短里説」は破綻してしまっているのに、そんなことは既に忘却の彼方なのか?嫌なこと、不都合なことは早々に忘れる性格なんでしょうかねぇ、、、

木佐提案をくり返し大げさに取り上げるのは、古田氏にとって〝救いの女神〟だったからでしょうか?
2021年6月24日 16時12分

そう言えば古田氏は、第1書p404で、

いわば、わたしたちは論理の女神の導くところへ導かれたにすぎないのである。

名文ですね!惜しむらくは、実体が伴っていないということ。
2021年6月24日 16時19分

p33

この瞬間に、明治四三年に成立した、東大の白鳥庫吉と京大の内藤湖南との間の「黙契」は、ふっ飛んだ。

あれ?「ふっ飛んだ」は確か「娘の字だ」でも。倭韓に短里のある可能性は一部容認されている説なので、古田氏が喜ぶ筋合いのものでもナシ!
2021年6月24日 16時24分

隋唐時代から脱線しますが、乗りかかった船なので、もう少し、、、

p34 水行十日・陸行一月が総日程

唐・宋・元代の史家が、この行程文を順次式に読んでいた!という文献上の根拠がありますので、そのような読み方は不成立!邪馬壹国は北部九州から水陸2ヶ月のところにありました。
2021年6月24日 16時30分

説明が付けば、九州内でも可能性はあるでしょうが、博多はあり得ません。
2021年6月24日 16時31分

謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』p97

中国文としてふつうに読めば、伊都国以後の行程も順次式(略)をとったことに疑いの余地はなく、文脈的に不自然な感じがしないのである。九州説にとっては、行程が長すぎるから放射式という妙案で、行程を縮めようとするのは面白いが、自然な読み方ではない。
2021年6月24日 16時34分

p55 『旧唐書』倭国伝の真実

隋唐代に戻ります。読んでみましょう。
2021年6月24日 16時38分

間違い発見!p64

「天武天皇の元(六七三)年の五月だね」

天武元年は672。即位は翌2年2月丁巳朔癸未(27)、天皇命有司設壇場、卽帝位於飛鳥淨御原宮。

〝三は二の誤〟

2021年6月24日 16時51分

p64

「なかなか鋭いね。壬申の乱については、まだ正面から取り組んだことがないんだけど、また、時を見て、やってみたいね」

2001年に『壬申大乱』として結実します。
2021年6月24日 16時53分

p68 郭務悰の肩書について

「いや、第二回目のときには、長ったらしいぞ。
右戎衛(うじゅうえい)・郎將・上柱国・百済禰軍(ねぐん)・朝散大夫・柱国・郭務悰ってんだ」

え?「右戎衛・郎將・上柱国・百済禰軍・朝散大夫・柱国」が郭務悰の肩書?
2021年6月24日 17時13分

「右戎衛・郎將・上柱国」というのは百済禰軍の肩書、「朝散大夫・柱国」というのが郭務悰の肩書。二人ですよ。例の禰軍墓誌が知られる以前とは言え、「上柱国」と「柱国」ふたつ肩書に入るって読み方、おかしいって気が付かなかったのか?
2021年6月24日 17時22分

因みに朝日新聞社『日本書紀五』では頭注に
(一)底本「彌」。右に「將イ」と。で、「將軍」と改めてあります。
2021年6月24日 17時25分

なお、『善隣国宝記』所引の「海外国記」天智四年(664)にも「百濟禰軍」として出ているとのこと。幾ら〝調べ魔〟の古田氏でも、ここまでは行き届かなかったのかも。

これ(長ったらしい肩書の件)は古田氏の失態の内に加えていいでしょう。
2021年6月24日 17時31分

安本氏は古田氏の中国史書の読み方が、極めて自己流であり、少しも正確ではないと、謝銘仁氏ら中国人学者のみならず、藤堂明保氏、森博達氏ら中国語学者の名を挙げて示しています。

今回の「長ったらしい肩書」も同根だと思われます。
2021年6月24日 18時24分

『通典』巻三十四 職官十六 勲官に「上柱国及柱国」が出ています。難しいので内容は省略(^^;) 掲示板時代なtenchuukun氏から、さっと解説が出るところなんでしょうが、、、一人の肩書の中に上柱国と柱国両方ってのは幾らなんでも、、、(石塚くん風に)

2021年6月24日 18時42分

p69
「百済禰軍って何ですか」
「百済の官人の称呼のようだね。だから、もともと彼は百済人だったのでは、という観測が生まれる。唐は、周辺の諸国の人材を自分の国の官僚として、活用していたようだから、その可能性は十分あるね」

「彼」ってのは郭務悰。誤読からくる誤答。が、まぐれ当たりも?
2021年6月24日 18時50分

p71
当然ながら、唐は文字ある国、記録ある国だ。だから、その『同時代記録』をもとにして編成された。そういう本なんだ」

『通典』こそ、見事な『同時代記録』ですね。仲麻呂メソッドによれば、【倭一名日本】【倭国一名日本】。『旧唐書』ははるか後代史料。
2021年6月24日 19時3分

p74
「そう、それ(hy注:郭務悰の報告書)が当雕の記録官や史官に見せられて、倭国伝の基本資料となったはずだよ」

ヤマトからの遣唐使は天子に謁見して詳細を尋ねられているのに、九州王朝からの遣唐使は天子に謁見しなかったの?九州王朝は列島を代表する王権だったはずでは?
2021年6月24日 19時12分

顯慶4年(659)10月 大唐顯慶四年十月隨倭國使人入朝(通典邊防一東夷上蝦夷)の記事は、斉明紀五年伊吉連博徳書の内容と月次まで一致。

『通典』の「倭国」を九州王朝の遣使だ!とするなら、伊吉連博徳書も九州王朝からのパクリだ!とでもしなくちゃいけませんが?

極度の史料飢餓状態!
2021年6月24日 19時16分

p74からは「日本伝と仲麻呂」。それで、時系列モデル図を作成してみました。一目瞭然!

2021年6月24日 22時41分

p76
「彼は『日本国大使』だったんだから、そのOKをとらずに、日本伝を書く、いやその基本資料を作る、なんて、考えられませんね」
「そうだろう。仲麻呂が、倭国と日本国と同一国だか、別国だか、知らなかった。なんて、ありえないよね。」

そう!ありえません!
2021年6月24日 22時47分

「仲麻呂が、倭国と日本国と同一国だか、別国だか、知らなかった。なんて、ありえないよね。」

その通りです!だからこそ、仲麻呂存命中に編纂が始まり、貞元十七年(801)に徳宗に献上された『通典』には、見事に【倭一名日本】【倭国一名日本】と明記してあるのです!
2021年6月24日 22時50分

古田氏が木佐提案を受けて思いついた「政・悰・満の法則」を、仲麻呂存命中編纂に着手された『通典』に適用したら、倭国と日本国が別国である!という『旧唐書』に基づく九州王朝説の大きな支柱が瞬時にして崩れ去りました。
2021年6月24日 22時54分

p77
「学問とは、そういうもんだと思うよ。その点、『倭国と日本を併記するような不体裁なこともなく』なんていってきた、日本の歴史学会は、恥ずかしい限りだったわけだ」

結局、「恥ずかしい限りだった」のが一体、誰だったのか?明らかですよね。
2021年6月24日 23時1分

「何ですか、それ」と高山君。
「わたし、知ってる。授業で聞きました。岩波文庫の『旧唐書倭国日本伝』の解説ですね。歴史のえらい先生だったっけ」
「まあ、そうだね。それが現在でも、日本歴史学会の『常識』になっている。やがては必ず世界の『非常識』になってゆくのだうけどね」
2021年6月24日 23時3分

こういう発言も、「恥ずかしい限り」なんですけれども、、、

そもそも仲麻呂在唐から凡そ2世紀後、唐滅亡後の945に成立した『旧唐書』に目一杯軸足を乗せて自説を組み立てるという〝基本プラン〟から間違っていたわけなんですね。魅惑の言葉「別種」に誘惑されて、道を誤ったんですね。
2021年6月24日 23時8分

ふっと思ったんですが、古田教授は昭和薬科大学で九州王朝説を教えてたんでしょうかねぇ、、、架空の設定でしょうが、昭和薬科大学の学生さんが複数登場して古田先生と対話するという構成なんですね。

もし、本当に九州王朝説を教わっていたら、、、
2021年6月24日 23時15分

p79
「そこで『新唐書』の実際を見ると、現在、というと、一一世紀の半ばだけど、その時期に実際に存在した国を基(もと)にして伝名を立てている」

どういう意味ナンダロ?まさか「一一世紀の半ば」に存在しなかった国の伝は立てなかったという意味じゃ無いはずだし、、、そう捉えることで何か利が?
2021年6月24日 23時30分

p80に、
「もっとくわしくは、この『九州王朝の歴史学』(駸々堂)のなかの『新唐書日本伝の史料批判』を見て下さい」と。

明日はこれですね!しかし、古田氏は「史料批判」って言葉、好きですね~ 

十月、日本国、使いを遣わし、其の大臣、人を貢し、方物を貢す。

なんて誤訳する前に、校勘を!
2021年6月24日 23時36分

「天の原 ふりさけみれば...

何々?「ところが、筑紫の春日の人が壱岐の北端部でつくった、という仮説に立てば、全部矛盾が解けてくる。こけだけは確かなんだ」
「私、先生が授業でおっしゃったように、筑紫人の歌を、仲麻呂が中国の明州で〝吟詠〟したんだ、と思います」

そんなこと教えてる!?
2021年6月24日 23時45分

春日、三笠、天の原が九州にあるからだって!
p83「志賀島にも三笠山があるんだ」

あの、三笠山なら長崎文明堂総本店の銘菓ですけど?
2021年6月24日 23時48分

p88「本当の歴史とは何か」って、、、

三月中旬の午後、研究室で原田実さんと相対していた。

本日はここまでにしておきましょう!おやすみなさい~
2021年6月24日 23時50分

大和岩雄氏の訃報が!

大和書房創業者で著名な古代史家。同書房が1974年から2009年まで刊行した『東アジアの古代文化』は多くの学者研究者の論文を載せ、古代史界に大きな貢献をされたと思います。初期には安本美典氏と古田武彦氏との熱論も、この誌上で戦わされました。

ご冥福をお祈りします。
2021年6月25日 8時31分

そうでした。古事記偽書説を唱えておられましたが、太安万侶墓誌が出てきて立場が悪くなったような、、、前年の稲荷山鉄剣に続いて〝百年に一度の発見〟が半年足らずで2度も!とにかく偉大な人だったと思います。
https://twitter.com/finegan_wake/status/1408220562812325892
2021年6月25日 9時39分

古田教授に対する原田さんの返事
「といいますと・・・・・・
「何ですか・・・・・・
「いわゆる『統一』ですね
「なるほど
「そうですね
「なるほど
「はあ

この時の原田さんの脳内をスキャンしてみたい!
2021年6月25日 9時46分

p90 古田氏の言葉
そしてまず、『国家のお仕着せ』ではなく、自前の、人間の真実に根ざした、本当の歴史を知りたい、と思い始めている。わたしたちは、幸いにも、そういう時期に、この地球の一角に生を受けたらしいね

ホントに古田氏は「真実」という言葉が好きなんですね。
2021年6月25日 9時49分

皇国史観のマヤカシをイヤというほど味わった世代としては当然かも知れません。その反動なんでしょう。

藤森栄一『考古学・考古学者』開題に戸沢充則氏が寄せた言葉も、古田氏のこの発言に非常に近いものがあるように感じられます。
2021年6月25日 9時52分

戸沢充則
昭和二十一年六月、南方の最前線で死地をさまよった末、藤森一等兵は奇跡に近い生還をとげた。そして戦争で荒廃した日本の国土をその目で確かめ、正しい歴史認識をもつことこそ、ふたたび日本を戦争の不幸に追いこまないためにも、ぜひ必要なことだと改めて確認したのにちがいない。〈続く〉
2021年6月25日 9時53分

そして皇国史観にかわる科学的な原始・古代史の歴史叙述を構想することが、身をもって戦争の悲惨さを体験した考古学者の一人として、当然はたすべき役割であると意志されたのだと思う。
2021年6月25日 9時54分

戸沢氏の言う藤森氏の「南方の最前線で死地をさまよった」に相当するのが古田氏の場合、同年輩の出征であり、両親の住む広島の惨劇だったのかも知れません。

古田氏が膨大な著作を生み出した力の源泉は、恐らくそのあたりにあるんではないかと思いますが、、、
2021年6月25日 9時59分

おはようございます。
>九州王朝説、ちゃんと教えてましたよ(というか授業のメインです)
やっぱり!教え子さんたちのその後はどうなんでしょうね、、、
>役割をふられているだけ
シナリオライターの才能も!
>「原田」はうなずき役
でしょうね。お忙しい中、ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月25日 10時5分

あ!なるほど!コロナ禍でおそらく皆さん、懸命の毎日かも知れません。

ホントに医療に携わる方々には頭が下がりますm(_ _)m
2021年6月25日 10時11分

さて、『九州王朝の歴史学』「新唐書日本伝の史料批判」を開いてみましょう。約50頁。少し時間がかかりますので後ほどまた、、、
2021年6月25日 10時16分

「新唐書日本伝の史料批判」読んでますが、前方後円墳が出てくる個所、読んでて吹きそうになりました。原田さんも確か取り上げてました。p134の初めの方ですね。
2021年6月25日 10時33分

(ⅶ)以上を要するに、「前方後円墳」という墳形が〝最大の発達〟を見たのが近畿地方であったことは確実であるけれども、そのことから、他地方への古墳文化(ことに「前方後円墳」型の場合)をもって、〝近畿に従属したもの〟あるいは〝近畿から伝播したもの〟と見なすような見地は、理由がないのである。
2021年6月25日 10時46分

じゃあ、九州に従属した、あるいは九州から伝播したもの「と見なすような見地は、理由が」あるの?

それとも多元的で各地独自に類似墳形が発生したの?
2021年6月25日 10時51分

p133
したがって、近畿以外、たとえば山陰や北陸地方などに「前方後円墳」が存在した場合、直ちにこれを「近畿からの伝播」とは断じえないことになろう。

古田氏はご存じなかったのかな?山陰や北陸は方墳系(四隅突出型、前方後方)古墳が多い地帯だってこと。東北は両者混在。
2021年6月25日 10時55分

東北でも大型古墳は前方後円墳が多い。古田氏は全国の古墳分布など真面目に調べたこと無いんでしょう。思いつきの発言しか見えない。

ついでに言えば吉野ヶ里遺跡衰退期には前方後方墳が3基営まれています。九州王朝のエリア内でしょう。
2021年6月25日 10時59分

因みに古田氏がとりあげた津古生掛古墳の墳形は、周溝も含めて纏向石塚古墳に近いですね。こんにちの知見では纏向石塚古墳が古い。
2021年6月25日 11時3分

またまたついでに言えば、津古生掛古墳にも近い焼ノ峠古墳は同時期と見られますが、前方後方墳です。方形周溝墓のブリッジが前方部へ発展したという見方もあるらしく、淵源はかなり古そうです。

古田氏の思いつきなど古墳論という土俵上では意味がないと思いますが、、、
2021年6月25日 11時9分

p134
日本列島の古墳時代でも、関東や東北地方に「前方後円墳」が存在したとしても、それがいかなる経路で、いずれからの伝播か、にわかには「断定」しえない。―この帰結である。

何を一人で悦に入っているのか?じゃ、どこからの「伝播」なんですか?
2021年6月25日 11時18分

この点、従来の〝近畿天皇家中心の一元主義的「前方後円墳」理解〟には、大きな疑問がある。そのように言わざるをえないのである。

古墳に関して片々たる知識しか持たずに、何を言っているのか?
2021年6月25日 11時21分

というか、「新唐書日本伝の史料批判」中の文とは到底思えない、古田氏の〝前方後円墳論〟。

気を取り直して先へ、、、
2021年6月25日 11時22分

p137
(ⅱ)これに対し、近畿とその周辺は、「彩色古墳」という、大陸と半島の新流行をうけ入れず、三~四世紀以来の〝古型〟を墨守した。〝非、彩色の「前方後円墳」〟という、「筑紫淵源の古形式古墳」を維持していったのである。

あれ?高松塚古墳は?唐風最先端の壁画古墳ですけど?
2021年6月25日 11時32分

古田氏は確か野呂邦暢氏の訃報を聞いたときだったか、天われをほろぼせり、と言ったとか安本氏が書いておられました。孔子の言葉らしいですね、これ。さすが哲学畑の人!
https://twitter.com/gishigaku/status/1408231292424966156
2021年6月25日 11時36分

畿内の前方後円墳は後期になると方部の開きが大きくなる傾向がありますが、これは各地の前方後円墳でも見られます。発生期の前方後円墳の方部がバチ型に開くことも畿内と各地で共通しているようです。墓室についても連動します。
2021年6月25日 11時41分

最初は竪穴式石室で中途から横穴式石室へ。「筑紫淵源の古形式古墳」を維持して、なんてのは古墳の形式変遷を知らない人の無根拠の発言。
2021年6月25日 11時44分

ここでの古田氏の立論は、津古生掛古墳をもって「前方後円墳の淵源は九州」という解釈の上に立っていますよね。

そんなもの全然証明されていないし、逆に不可。前提が不可ならば、数ページに渡る場違いの〝前方後円墳論〟も無意味にて却下。
2021年6月25日 11時50分

そもそも、径150m近い箸墓円部の真円にして五段築成技術の「淵源」が筑紫にあるなど、どうやって証明するんでしょう?

その「淵源」を窺わせるものが筑紫にあるとでも?
2021年6月25日 11時53分

p138
以上のように、「装飾古墳」問題に対する理論的理解は、「九州が中心、近畿が周辺」という基本イメージの妥当性、逆に、「近畿天皇家中心の一元主義」という基本イメージの非妥当性をしめしていたのである。
2021年6月25日 13時1分

ほんとに古田氏の言説は古墳の実態に対する無理解の上に立っていますね。装飾古墳密集地帯というのは筑後川南岸、矢部川、菊池川、白川それぞれの流域で、福岡周辺は非常にまばらなんです。古田氏が倭都と想定する太宰府周辺などほぼ皆無。
2021年6月25日 13時14分

しかも装飾古墳は古墳中期以降。「淵源」とは無関係。

安本氏の場合は、箸墓が3世紀に遡らないと根拠を挙げて強く主張されていますが、古田氏の場合はほとんど知識がないのに、思いつきのみに立脚した古墳論を説く。そして「旧唐書の記述が」と!『旧唐書』に古墳のことでも書いてあるのか?
2021年6月25日 13時22分

あれ?「当雕」は「唐朝」の誤変換みたい。なんでこんな候補が出てくるんだろうか?
2021年6月25日 13時49分

「新唐書日本伝の史料批判」を読み進めるも、何がいいたいのかよく分からない。p155の末尾、

「倭=ヤマト」という、「新しい常識」を近畿天皇家は流布せしめつつあった。新唐書は、その「新しい常識」をしめす、新史料の支持に従ったのである。(16)

古田氏の脳内にどんな時系列が横たわってる?
2021年6月25日 16時10分

720『日本書紀』
801『通典』
945『旧唐書』
984 奝然入宋
1060『新唐書』
『書紀』から340年後に『新唐書』成立。「「新しい常識」を近畿天皇家は流布せしめつつあった」って、どゆいみ?
2021年6月25日 16時18分

特に【併倭国之地】と【爲倭所并】の解釈が難解。

p155中程
(B)新唐書日本伝における「併合国」とは、「倭=ヤマト」である。

ならば、【惡倭名,更號日本】の「倭」とはナンダロ?
2021年6月25日 16時32分

同頁
ことに新唐書の重んずる「唐代後半期以降」、また「宋代」においては、すでに「倭=チクシ」という存在は、〝消滅〟していたのである。

ワカラン。『旧唐書』は唐滅亡後。そこに、明らかに「倭=チクシ」という概念で記述されているからこそ、古田氏の九州王朝説の大きな柱になっている。
2021年6月25日 16時36分

検索してみました。『新唐書』蕭穎士伝天寶年間に【倭國遣使入朝】と見えますね。天寶というのは玄宗の年号で742-756。確かにこの頃遣唐使が入唐しています。藤原清河、吉備真備、大伴古麻呂らですね。

この辺りについても川村氏が調べておられ、『唐會要』では702年以降も倭国が使われています。
2021年6月25日 16時54分

「新唐書日本伝の史料批判」の初めから40頁ほど読みましたが、何のための文なのか?判然としません。新旧『唐書』の日本伝を比べて論ずるという主旨なのか?

そもそも倭=日本というのは『通典』時から共通認識になっていたもので、『新唐書』『宋史』『元史』も皆それに倣っているだけのこと。
2021年6月25日 17時5分

意味不明なものを無理に理解しようとすると、脳に異常をきたすかも知れないので、先へ。p156から「目多利思比孤」が登場!どれどれ、、、
2021年6月25日 17時11分

p156
(1)右で「目多利思比孤」といっているのは、隋書俀国伝の「多利思北孤」に当ること、疑いない。

あれれ?7年後1998年刊の『失われた日本』p187では、(「目」は「目代」、代理)とありますが?7年間で考えを変えた?
2021年6月25日 18時17分

あれ?p157中程で、「持統八年=六〇〇」と。誤植ではなく単なる勘違いでしょう。右頁には、

ところが、現在の通例の年表では、この年は「推古八年」に当っている。

とし、p157で、

右の「通例の年表」のしめす「持統八年=六〇〇」

とありますので、単純な勘違い。誰にでも間違いはあります。
2021年6月25日 18時24分

p158
ここは『新唐書』の難解な個所の一つかも。【次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。】

古田氏は「後、日本国」「前、日本国」という概念を立てて、説明しようとしていますが、シンプルに考えたほうがいいのかも。
2021年6月25日 18時44分

奝然の『王年代紀』とは内容が相違していますが、同類の情報に基づいたと見ていいんでしょう。『王年代紀』には開皇中の遣使には触れていますが、「始」の文字はナシ。一方で『新唐書』は日本が倭奴からの国である基本認識は押さえてある。
2021年6月25日 18時59分

細かく見ると、天智が立った明年(663)、使者が蝦夷と入朝したとありますが、倭国使が蝦夷を伴って入朝したのは斉明5年(659)であり、また持統が立って(687or690)咸亨元年(670)の遣使があったように『新唐書』ではなっており、古田氏の想定するような〝年次のずれ〟では説明不可としか。
2021年6月25日 19時12分

この辺りのことについては、既に先行研究が出ているでしょう。それこそ徹底的な史料批判でもしなければ、確たることは言えないと思われます。

古田氏が新旧『唐書』間の齟齬のすり合わせに難渋していることは、いかに外国文献が左程信じるに足らないものであるかを如実に示していると言えそうです。
2021年6月25日 19時17分

安本氏が既に取り上げているように、『明史』日本伝に見える信長や秀吉の話には誤りが少なくありません。もちろん信じるに足る記述も。当時は鎖国時代でもなく日本の情報もかなり海外に知られていたであろう時代にもかかわらず、です。
2021年6月25日 19時22分

古田氏が知恵を絞って書かれた「新唐書日本伝の史料批判」ですが、シュリーマンに倣うならば、より『日本書紀』に基づいて歴史を復元すべきだったのではないかと愚行する次第です。

さて、あと7頁ほど残っていますので、後ほど取り組んでみたいと思います。
2021年6月25日 19時25分

今読んでいる『逆転の大中国史』に通じるものがありそうです!
https://twitter.com/fushunia/status/1408144099069161472
2021年6月25日 21時2分

さて、p160
日本は乃ち小国、倭の為に并せらる。
の「小国」表記も、理解しえよう。この「日本」は、「被併合国」たる「前、日本国」であるから、「九州島」という〝面積上の「小国」〟であると共に、「神武東遷」以来、〝中心国でなくなった、傍流の国〟、そういう〝大義名分上の位置づけ〟〈続く〉
2021年6月25日 22時10分

を示した表現だったのである。

さっぱり分からない。「日本は乃ち小国、倭の為に并せらる」の「日本」は「前、日本国」であり、「九州島」乃ち、倭=九州王朝ということ?なのに『新唐書』日本伝の「日本」とは、長安以来の近畿天皇家?

「わたしにはそのように思われるのである。」って一人納得!
2021年6月25日 22時16分

漢文の読み方競っても出口が見えるとも思えませんが、古田氏の「日本は乃ち小国、倭の為に并せらる」という訳にはやや違和感を。【或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。】の「為倭所并」は果たして「倭の為に并せらる」なのか。
2021年6月25日 22時31分

『新唐書』蘇毗伝に似たような文が。
【蘇毗,本西羌族,為吐蕃所幷,號孫波,在諸部最大。】

これも吐蕃が蘇毗を併合したと読まねば意味が通じないようですが、その併合された「蘇毗」が「孫波」と号したと。しかし、この場合は「吐蕃」に名称の変更はナシ。
2021年6月25日 22時43分

「或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。」のうち、日本が小国である点は新旧共通。どうも「為倭所并,故冒其號」の文が何らかの誤解を招いているのではないか?

こんなことを色々悩んでも、別に7世紀の日本史が動くわけでもないんですがね、、、漢籍が何を如何に誤伝するか?の例としては有益かも。
2021年6月25日 22時50分

凡庸な頭脳で凡庸な考えを巡らせてみれば、日本という小国が、倭を併合した!というストーリーが、世界史的にもどこかにありそうで、飲み込みやすいのは確かかも。

★わが国でそのような事例を探すとすれば、神武の【徙治大和州】なんでしょうが、、、
2021年6月25日 22時55分

★そう言えば壬申の乱で天武は神武陵に捧げ物をしてましたっけ、、、
2021年6月25日 23時0分

p161
【都方數千里】は短里だと古田氏は言います。次頁にかけて

三国志全体もまた、この「周・魏・西晋朝の短里」に属すること、私の重ねて論証しつづけているごとくである。

と述べますが、この稿は1988/2/29稿了とありますので、白樺湖シンポジウムの後。しかし白崎氏の批判は10年前。
2021年6月25日 23時12分

しかし、『新唐書』日本伝冒頭には【日本,古倭奴也。去京師萬四千里】とあり、これはどう解釈するのか?まさか唐代まで短里とか?それはないですよね。
2021年6月25日 23時19分

マチゴタ。白樺湖シンポジウムの前、に訂正m(_ _)m
2021年6月25日 23時20分

p163で「九州王朝の短里」と。そりゃ、倭韓短里の名残って理解すればいいんじゃ?「魏西晋朝短里説」は破綻してるんですから、、、

っと直ぐに脱線する!唐代へ戻ります。
2021年6月25日 23時24分

p164
二、それは日本列島の六~七世紀前後の考古学的事実と対応していること。

って、まさか前方後円墳とか装飾古墳のこと?新旧『唐書』に古墳のことなど書いてないでしょうに、、、

しかし、これって昭和薬科大学の『紀要』第二二号に載せたんですよね。私も色々論文取り寄せて読みますけど、、、
2021年6月25日 23時31分

三に、新唐書の日本伝も、決して旧唐書の両伝並立の〝単純否定〟ではなく、「現代(宋代。唐代後半以降)の状態を基準とする」という編述方針に立っているものである。

結局、どっちがどっちを併合して、どっちの名前を冒したか?は解決されてないような、、、
2021年6月25日 23時35分

p150
旧:被併合国=倭、併合国=日本
新:被併合国=日本、併合国=倭

まさしく「一見して正反対だ」。無理に解釈しようとしても逆に話の筋が複雑骨折するだけ。
2021年6月25日 23時39分

p167注21に、
『唐暦』『通典』等の問題には改めて論じる機会を得たい。

とあります。ほう!その「機会」は得られたんでしょうか?亡くなられた大和岩雄氏の『「日本」国はいつできたか』が紹介してあります。天武を漢の高祖に擬している(p154)というヒラメキは鋭いと思いますね。
2021年6月25日 23時46分

さて、そろそろ就寝時間。p166注17

新唐書日本伝には、「誤植」的なあやまりが少なくない。「天安(孝安)」「海達(敏達)」「雄古(推古)」の類である。「目多利思比孤」もその一か。
2021年6月25日 23時49分

「誤植」じゃないでしょう。ソースがかなり杜撰だったんだと思います。『新唐書』は成立直後に開雕されていますから、伝写中の誤写は発生していないはず。現行百衲本も北宋景祐刊本で、成立時と同年号。因みに「漢籍電子文献」で『新唐書』の校注を見ると、非常に少ない。伝写時代を経ていない故。
2021年6月25日 23時52分

昨日の続き。『新唐書』編纂が終わった上表は嘉祐五年(1060)六月。『玉海』巻五十五によれば【嘉祐賜新唐書 五年六月詔鏤新唐書賜二府下逮修書官】とあり、成立同月に「鏤」則ち版刻に回されたということでしょうから、書写による誤写の発生する暇がなかったということになるかと。
2021年6月26日 10時20分

古田氏が「「誤植」的なあやまり」と見たのは、恐らく日本側からもたらされた原史料がそもそも誤った字体を用いていたか、それとも草書体などある種の書体のため、編纂者がその判読困難により誤って取り入れたか。
2021年6月26日 10時23分

『新唐書』『宋史(王年代紀)』間の皇統の異同については、既にネット上で見かけたことが。奝然の『王年代紀』の他にも、類似の年代記が日本で作られており、内一つが奝然以前に中国へもたらされ、それが『新唐書』編纂時に取り入れられた、という見立てもできそうですが時系列的に果たして?要調査!
2021年6月26日 10時29分

未消化のまま頓挫した【或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。】の解釈。「故」は〝なので〟と前文節を受けているのですから、「冒其號」の理由が「為倭所并」でしょう。「冒」は普通〝おかす〟と読んでいるようですが、『漢和中辞典』には「他人の姓名をかりる」という意味も。
2021年6月26日 10時44分

『旧唐書』『新唐書』共通しているのは、日本は小国だった、併合があった、名前を冒した、という点。『新唐書』には【故冒姓王】という事例が見えています。養子が養父の姓を冒す、という意味のようですから、この用例を用いれば、やはり通りのいい解釈には辿り着けないようです。難儀至極!
2021年6月26日 11時7分

古田氏の「日本は乃ち小国、倭の為に并せらる」という訳に、やや違和感を感じると昨日書きましたが、続く「故」を活かすとすれば、〝倭の并すところと為り〟⇨〝だから〟と続いたほうが素人的には意味が飲み込みやすいような。
2021年6月26日 11時19分

どっちにしろ、『新唐書』の書きぶりに従えば、日本は小国で、倭が日本を併合した、なので倭は日本の名を冒した、という解釈に。凡庸な頭脳をもってすれば、やはり『旧唐書』の〝小よく大を制し〟のほうが飲み込みやすいものが、、、

連立不等式:
①A>B
②A の解を求めよ!みたいな、、、
2021年6月26日 11時23分

古田氏のように「前、日本国」「後、日本国」という概念を取り入れて説明しようとするのも、却下するだけの材料は無いので何とも言えません。数十年前、この件を知って以来、快刀乱麻の解決策を見出した人は記憶にありません(拙脳の記憶力に問題ありかも)。川村氏はなんか仰ってましたっけ?
2021年6月26日 11時28分

漢籍がどんな不可解な情報を文献に残そうが、我邦での歴史記録はしっかりと残っていますので、それらの取り扱いを間違わなければ、おおよその歴史復元は可能でしょう。

端的に言えば、ヤマトから筑紫大宰が継続的に派遣されている状況下で、九州王朝の存在する可能性など絶無と言っていいでしょう。
2021年6月26日 11時33分

昼飯前に一つ追加すると、古田氏は『日本旧記』『日本世記』について九州王朝のものだ、と仰ってました(『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』p81)。また『盗まれた神話』p89では、

(日本旧記は)つまり六世紀中葉のころ、成立した本だということになろう。〈続く〉
2021年6月26日 11時42分

これはちょうど、先程のべたように九州王朝がすでに「日本」と名のっていたときなのである。

6世紀中葉、九州王朝が「日本」と名のっていた。これを「新唐書日本伝の史料批判」の中に置いたらどうなりますかねぇ、、、お昼から考えてみましょう。
2021年6月26日 11時45分

『新唐書』日本伝に【咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。】とあります。咸亨元年は670。高麗が滅んだことは天智7年(668)10月に「大唐大將軍英公、打滅高麗」とあり、新旧『唐書』の記載とも合致。よって2年後の「遣使賀平高麗」には矛盾はナシ。
2021年6月26日 13時37分

「後稍習夏音,惡倭名,更號日本。」というのですから、日本への更号は670以降ということになりますね。それだと古田氏の「六世紀中葉のころ」とは1世紀余の開きが。『新唐書』の記述を信じるならば、国号日本の誕生は、やはり7世紀後半というとになりそうです。では、どちらがどちらを併合したのか?
2021年6月26日 13時41分

やはり結局のところは、
連立不等式:
①A>B
②A<B
の解を求めよ!
という設問に帰着してしまうことに、、、
2021年6月26日 13時44分

一つ、目に止まった点。『新唐書』【又妄夸其國都方數千里】の「都」を古田氏は「すべて」と読んでいます。東洋文庫の『アジア民族史2』p392では、
〔日本の〕国都は数千里四方
と読み、『訳註中国正史日本伝』p59では、
妄りにその国を夸(ほこ)る。都は方数千里
と読んでいます。
2021年6月26日 13時54分

前者の当該箇所担当は亀井輝一郎、井上秀雄の両氏、後者は石原道博氏の訳です。この2つの読み方は既知でしたが、古田氏の「すべて」は気が付きませんでした。確かに「都」には「すべて」の意味があるので、古田氏の読みも通りがいいことは否定できません。
2021年6月26日 13時59分

「都」を〝みやこ〟の意味で、それを「夸」ったというのも落ち着きが悪いような感じがします。一方の古田読みは、「其の国を夸る」サイズとしては「方数千里」が手頃なのかどうか?『新唐書』には他に【並在國都之北】という例があり、これは間違いなく〝国の都〟でしょう。
2021年6月26日 14時6分

「都」の読み方については、いずれにも軍配を挙げがたいようです。やや古田寄りの解釈ですが、「都」には「くに。領地」という意味もありそうなんで、ここは〝取り直し〟の一番かと(^^;)
2021年6月26日 14時8分

フランソワ・カロン『日本大王国志』p148

江戸から東方十四マイルの海中に一つの島がある。周囲約一マイル、八丈島と称す。

14マイルって約22Km。千葉県八千代市あたりに八丈島があったってことに。書かれている内容からは島流しの島のようなので間違いなく〝八丈島〟のことだと思えます。
2021年6月26日 14時22分

なので、「東方十四マイル」の方角と距離が間違っているわけです。カロンは実際に江戸参府して色々と情報を得ているので、又聞きではない。しかし、八丈島については明らかに間違い。江戸での通訳の間違いか、それともオランダでの写本版本上の間違いかは不明。ただ、間違いであることだけは明白!
2021年6月26日 14時29分

現在目にする『日本大王国志』の文面に基づいて、千葉県八千代市あたりに八丈島(原文:Faitsinchima)があったのだ!として、古地図を調べ、地質調査をしても、恐らくその辺りに、それらしき島の痕跡を見出すことは不可でしょう。
2021年6月26日 14時31分

「新唐書日本伝の史料批判」p167
『旧唐書』高宗紀【永徽五年〈六五四〉十二月癸丑,倭国獻琥珀、碼碯,琥珀大如㪷,碼碯大如五㪷器。】を引き、

右の(1)について、旧唐書の立場では、当然倭国伝中の「倭国」(九州王朝)を指す。ところがこの点、新唐書では、日本伝中に、〈続く〉
2021年6月26日 14時57分

永徽初,其王孝徳即位,改元曰白雉,献虎魄大如斗,碼碯若五升器。
としている。「日本国」の孝徳天皇による遣使としている。しかし孝徳紀に右の献物の記載はない(このときの日本列島側からの遣使に、近畿天皇家側以外らしい使者団〈倭種、韓智興・趙元宝等〉のいた点、〈続く〉
2021年6月26日 15時2分

『失われた九州王朝』第四章Ⅱ、参照)。

とします。しかし、「孝徳紀に右の献物の記載はない」というのは何でしょう?「献物の記載はない」はありませんが、同年、高向史玄理等が入唐し【遂到于京奉覲天子】と『書紀』孝徳天皇の白雉5年条に明記してあります。
2021年6月26日 15時6分

確かに古田氏の言われる通り、天子に謁見した月次の齟齬が『書紀』と『新唐書』の間にはありますが、九州王朝側には何等の突合すべき記録もありませんので、〝矛盾の指摘〟に留まると捉えていいでしょう。
2021年6月26日 15時23分

@tPg2BSD2el0IqMg 手元にありますので開いてみましょう。ご教示、ありがとうございますm(_ _)m
2021年6月26日 15時24分

@tPg2BSD2el0IqMg p307に「『三国史記』新羅本紀の倭と日本」という表が掲げてあり、「日本」が出てくるのは文武王以降ですね。文武王在位は661-681なので、670年ころという通説にも合いますね。ただし、博覧強記の古田氏のこと、既にどこかで言及しているかも。
2021年6月26日 15時45分

さて、拙脳が過熱気味ですが、補足を。顯慶四年(659)の遣使、
『通典』邊防一東夷上蝦夷【大唐顯慶四年十月隨倭國使人入朝】
『日本書紀』斉明五年 伊吉連博德書曰「潤十月一日行到越州之底。十五日乘驛入京。廿九日馳到東京、天子在東京。卅日、天子相見問訊之、日本國天皇平安以不。」
2021年6月26日 17時4分

この時は蝦夷男女二人を伴っており、蝦夷についても天子からご下問があったことが「伊吉連博德書」にあります。ここで注意すべきは『通典』が十月とし、『書紀』が潤十月としている点です。古田氏なら、ここにも鋭く切り込んだのかも知れません。両者は別々の遣使だった!と。
2021年6月26日 17時8分

この件については下記のような史料事実があります。
『旧唐書』高宗紀 顯慶四年閏十月の記事として【皇太子監國】とあり、『新唐書』高宗紀 同年条では「十月」として、『旧唐書』と全く同じ【皇太子監國】という記述があります。『新唐書』の方に「閏」が脱したと見て間違いないでしょう。
2021年6月26日 17時12分

故に『通典』蝦夷条と『書紀』斉明紀の両記事が〝全く同一の事象〟を示していると見ることができます。しかもここには5年前に見られた「倭種」という文字も無く、当時蝦夷と対峙し交渉のあったのはヤマトですから、『通典』蝦夷条の「倭國使」がヤマトの使いを表していることは論を俟ちません。
2021年6月26日 17時21分

おさらいになりますが、長安の朝臣真人遣使について。
1985『古代は輝いていたⅢ』p295
長安元年(冊府元亀)
長安二年(旧唐書本紀)
1991『九州王朝の歴史学』p102
長安三年(旧唐書日本国伝)

結局はいずれかに落ち着いてとは思うんですが、年次が3説あるんですよね。
2021年6月26日 18時15分

そのうち長安二年(702)は『続日本紀』5月29日「参議朝政」とあるので元年はナシ。同年6月29日、ようやく出航し、慶雲元年(704)7月帰朝。

一方、『旧唐書』則天皇后長安二年に【冬十月,日本國遣使貢方物。】とあります。よって、恐らく正解は、
702真人発⇨702則天皇后に貢献⇨704帰朝
で宜しいかと。
2021年6月26日 18時37分

ちょっと遡りますが『新唐書』が成立と同時に刊刻に付されたのに比べて、『旧唐書』成立の時代は、未だ正史等の刊行が始まっていない時期で、百衲本『旧唐書』は南宋紹興本。成立から約2世紀が経過していることになります。その間の経緯はどうだったのか?
2021年6月26日 18時59分

『九州王朝の歴史学』p109「跋」
換言すれば、これらの史書群を産出した、弥生以来の王朝、すなわち九州王朝の「存在」を歴史上から消し、その「成果」のみを利用する、そういう一種姑息な手法を後継者たる大和政権が採用したことを示しているのである。
2021年6月26日 22時8分

熱弁を奮っておられますが、結局は九州王朝の国内史料が存在しないことの〝言い訳〟に終始しています。

前頁で「日本旧記」「日本世記」を取り上げ、「書名があるけれど、その書が〝いかなる天皇のもとで、いつ作られた〟の解説がない。〈続く〉
2021年6月26日 22時12分

これは不思議だ。なぜなら、そのような史書が現存する以上、それらの書の成立を説くこと、それは〝重要な史実〟であること、疑い難いからである。」

こういう物言いって既視感がありますよね。太宰府を置いた記録がない!とか。
2021年6月26日 22時15分

古田氏は「日本」という国号が670年頃だと言ってませんでしたっけ?「日本旧記」なんて雄略朝ですよ。5世紀ころ「日本」という国号があったという証拠でもあるのか?

自説内で相矛盾することを言ってますよね。結局は『旧唐書』の呪縛にがんじがらめになっているだけのこと。
2021年6月26日 22時21分

古田氏の「政・悰・満の法則」の「満」、つまり仲麻呂メソッドを使えば、『通典』こそ仲麻呂保証付きのリアル日本国情報であり、そこには【倭一名日本】【倭国一名日本】と明記してあります。これほどの同時代史料を視野の外に置いて〝真実〟など見えるはずがありません。
2021年6月26日 22時24分

『九州王朝の歴史学』「九州王朝と大和政権」中、隋唐時代の部分をざっと読んでいますが、延々と解釈論を展開するのは、国内史料の欠如している証拠と言っていいでしょう。
2021年6月26日 22時39分

高麗沙門道顯の「日本世記」は斉明6年(660)7月と斉明7年(661)4月に見えますが、後者など福信も出てきて百済滅亡後の百済王家内の混乱が記述されています。これが九州王朝の史書などと、どこを押せば出てくるのか?
2021年6月26日 22時50分

乗りかかった船ですので、もう少し。『九州王朝の歴史学』p102に、

これにたいし、「倭国伝」中の事件は、日本書紀中に一切出現しないのである。しかも、この〝不穏事件〟は、やがて白江(白村江)の戦へと向かうべき前兆となっているように見える。
2021年6月26日 23時1分

「不穏事件」とは貞観五年の高表仁が王子と礼を争った件。これを古田氏は九州王朝だと言います。しかし、同年の『書紀』にはちゃんと高表仁が難波津に着いたことが書かれてあります。つまり、古田氏の「一切出現しない」というのは「與王子争禮」のこと。
2021年6月26日 23時4分

高表仁は舒明4年(632)10月 泊于難波津で、翌年1月 大唐客高表仁等歸國なのです。裴世清の時や、推古18年(610)10月の新羅任那使人入京や饗宴の記載が皆無です。舒明紀を開いてみれば分ります。高表仁難波津での来迎の〝次の記事〟が帰国記事なのです。間に何もナシ。饗宴はおろか入京の記事さえ無い。
2021年6月26日 23時12分

三韓はもちろん、倭周辺の小国でも入京し饗応するケースがあるのに、高表仁については記載がナシ。これが「與王子争禮」を窺わせるものとの理解は可能です。片や九州王朝には何の記録もありません。ですから、古田氏の「日本書紀中に一切出現しない」は明らかに強弁に属するものと言えるでしょう。
2021年6月26日 23時22分

くどいようですが、7世紀を通して継続的にヤマトより筑紫大宰が派遣されている事実を、九州王朝説の立場からどのように解釈するのか?

これだけ九州王朝に関する古田氏の著作を開いてみているのに、なかなか筑紫大宰ヤマト派遣についての〝疑念〟に遭遇しません。そのうち?
2021年6月26日 23時31分

『九州王朝の歴史学』p113注20に、

蝦夷国を指すという説もある。しかし、中国側は「蝦夷国」使の中朝を明記している(冊府元亀、外臣部、朝貢三。顯慶四年、六五九、高宗)。

この記事は『冊府元亀』に拠らずとも、2世紀早い『通典』蝦夷国条に見えているもの。
2021年6月27日 11時4分

「蝦夷国を指すという説」とはp101で、『旧唐書』「山外即毛人之国」の「毛人」を「毛野国かと思われる」に付注したもの。蘇我蝦夷は毛人とも書かれるので、ほぼ同義語でしょう。それよりこの記事と『書紀』を併せて読めば理解は一つ。
2021年6月27日 11時22分

ちょっと思い出したことが。『通典』新羅条【大唐貞觀二十二年,其王金春秋來朝,拜為特進,請改章服以從華制。】とありますが、『太平寰宇記』では【貞觀二十一年其王遣金春秋來朝】と。「二十一」は新旧『唐書』新羅伝により「二十二」の誤ですが、問題は『通典』が「其王金春秋」としている点。
2021年6月27日 11時39分

『通典』では「遣」を脱しています。これはエライ間違いで、対校する史書が他に複数あるから、「脱」が判明しますが、もし対校する史書がなければ、貞観22年の新羅王は金春秋ということにもなりかねません。
2021年6月27日 11時47分

因みに大化3年(647)、金春秋は来朝して人質となっていますので、『旧唐書』倭国伝貞観22年の【至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。】は、この金春秋遣使時のことと見て大過ないと考えられます。

金春秋を伴って帰朝したのは、前年新羅に派遣された高向黑麻呂であり、もちろんヤマトの人。
2021年6月27日 11時52分

高向黑麻呂は後に遣唐押使となり、唐土で客死します。以上の理由から、『旧唐書』倭国伝最後の【至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。】もまた、ヤマトと見られることは確かです。『旧唐書』倭国伝の「倭国」も、やはりヤマトのことでした。
2021年6月27日 11時56分

p113注21、『三国史記』新羅本紀で白村江を文武王10年にかけているのに対し、天智紀では10年(671)とすることについて「一年の誤差」と。3週間ほど前に書いた通り、新羅本紀の記事は『旧唐書』から出ているので、『旧唐書』と天智紀との間の問題になります。
2021年6月27日 15時16分

6/4に『新唐書』高宗紀龍朔三年【九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。】という記事を引いていました。帝紀は起居注などに拠るんでしょうから、年次の前後は生じにくいのではないかと考えていいんでしょう。
https://twitter.com/hyena_no/status/1400718395545309186
2021年6月27日 15時27分

書棚に『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』があったので、第四章 幻の筑紫舞をざっと読んでみました。1980年代前半ころのことのようですが、古田氏が九州王朝に因むものを探し求めている様が窺われます。
2021年6月27日 16時20分

「あとがきに代えて―筑紫舞追記―」を読んでも、「ハッキリ」「かえってスッキリした」という言葉はありますが、いつもの高らかな調子ではないように感じます。

筑紫舞上でのことでしょうが、「やがて六世紀以降の、肥後中心時代(装飾古墳の時期)になって云々」とあり、磐井後を模索していたのかも。
2021年6月27日 16時23分

原田さんの6/2ツイート。
https://twitter.com/gishigaku/status/1399973441554374657
2021年6月27日 19時1分

『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』にも筑紫舞について書かれてありました。前掲書が1983/6/20で、本書が1985/1/30。内容的に少し深化してそう。

それでも原田さんが「その後、この説はあまり展開されなかった」と仰ってるのは、5年後『真実の東北王朝』を出して没頭したから?
2021年6月27日 19時1分

あらら、「第四章 筑紫舞と九州王朝」は1982/5/23 大阪市森の宮・市立労働会館での講演(『市民の古代』第五集掲載)と。前掲書の「あとがき」稿了日が1982/12/6とあるので、ほぼ同時期。なんだぁ、、、

それにしても磐井の乱についてのキメツケがすごい!
2021年6月27日 19時8分

『古代の霧の中から』p209で、

これは当初、継体が物部麁鹿火に〝磐井をやっつけたら九州をやろう。私は周防(山口県)から東をとる。そこから西はお前にやる〟という約束をして始まった戦争なんです。

「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」をどう読めば「西はお前にやる」に?
2021年6月27日 19時16分

物部麁鹿火は大将軍なんです。中国でもそうでしょ。將軍にはその位階に応じて軍事上の専権が与えられる。いちいち天子にお伺いを立てなくともよい!というフツーのこと。「制」は抑えろ!で麁鹿火の専権の範囲が「筑紫以西」という意味。
2021年6月27日 19時19分

そもそもなにゆえ麁鹿火が出張って来たか?近江毛野臣率衆六萬が半島に渡ろうとするのを磐井が妨げたからですよね。『書紀』の記すところに従えば、そういうことです。古田氏は「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」を引いて論じているわけですから、『書紀』を信じている。
2021年6月27日 19時22分

その箇所を信じるのであれば、前後の文も信じなくては不可。磐井後の『書紀』を見れば、毛野臣が数年に亘って半島で奮戦しつつも、行状により召還されての帰途、対馬にて病死します。磐井が討たれたのはヤマトの半島政策を妨害したから。『書紀』の当該箇所前後を読めば、そうとしか理解できません。
2021年6月27日 19時30分

p210
どこに壊滅していなかった証拠があるかといえば、継体の軍、つまり物部麁鹿火の軍が肥後に侵入した形跡が全くない。『日本書紀』を見ても書いていない。

『日本書紀』を読まない読者は〝ほほう!〟とでも感心してくれるんでしょうか?
2021年6月27日 19時33分

ちゃぶ台返しで〝日本書紀など嘘っぱちだ!〟というのなら、それでも構いません。でも、そうすると「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」、つまり古田氏の言う〝磐井をやっつけたら九州をやろう。私は周防(山口県)から東をとる。そこから西はお前にやる〟という話もナシ。
2021年6月27日 19時37分

p210の続き。

本当は侵入していたのに遠慮して全く書かなかった、とは考えにくいですね。ということは、やはり侵入しなかったとみる他ない。とすると、磐井の勢力下にあったはずの肥後の勢力は、そのまま温存されて実在したはずです。

だから、邪魔した磐井を斬って、半島への出兵が可能になった。
2021年6月27日 22時19分

「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」という『書紀』の一文を採用しておいて、なんで前後の文を無視するんでしょうか?磐井の一件は葛子が命乞いの糟屋の屯倉献上で一件落着。邪魔者が消えてヤマトは半島に専心できるようになった。
2021年6月27日 22時23分

「そのまま温存されて実在したはずです。」ってそうですよ。欽明17年(556)1月 百濟王子惠の帰国を阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣わし、筑紫國舟師を率いて国へ護送していますし、別に筑紫火君を遣わして津の路の要害の地を護らせています。この筑紫火君とは筑紫の君の児、火中君の弟だと言います。
2021年6月27日 22時30分

この文を読めば分ります。筑紫國舟師(水軍)、筑紫火君、筑紫君、火中君らが皆、ヤマトの統制下にあることが!磐井の乱から約30年、6世紀中葉のことです。

九州王朝の居場所などありません。
2021年6月27日 22時32分

同じくp210

「任那日本府は架空の話」なのではなくて、「九州王朝の任那日本府」であったというようにわたしは理解しています。磐井の滅亡は「任那日本府の滅亡」より以前ですから、当然、九州王朝の軍勢が朝鮮半島の南端にいるわけです。
2021年6月27日 22時36分

その「朝鮮半島の南端にいる」にいる「九州王朝の軍勢」ってのは、具体的に誰の率いる「軍勢」なんでしょう?任那滅亡に関しては前後に多くの人名が出てきます。その中にいる?いない?
2021年6月27日 22時40分

事実、装飾古墳と同じ模様が洛東江流域のところに出てくるわけです。(『ここに古代王朝ありき』、朝日新聞社刊)まさに装飾古墳とそっくりなものが出てきております。

古田氏の言う「装飾古墳」とは、珍敷塚とかチブサン古墳とかの彩色古墳のことですよね。
2021年6月27日 22時52分

それら装飾古墳は中小規模のものが多い。大型のものは古墳群の盟主的な存在で、前方後円墳。玉名山鹿付近だと松坂古墳とか岩原双子塚古墳とか100mを超すものも。宇土付近だと天神山古墳や向野田古墳も前方後円墳。八代松橋周辺なら、姫の城、中の城、大野窟など。
2021年6月27日 23時1分

何より筑紫君磐井一族の奥津城である人形原古墳群は比較的装飾古墳は少なく、岩戸山以降もやや規模は小さくなりますが、前方後円墳が造られ続けます。

地方としては大型の前方後円墳で石室内に装飾を持つものは、日岡、月岡とか王塚など少数派。
2021年6月27日 23時8分

装飾古墳という一つのテーマだけで1冊の本になるというのに、古田氏のごとく、自説に合わせた思いつきで装飾古墳を解釈するなど、他分野に対する不遜と言われてもしょうがないでしょう。
2021年6月27日 23時11分

続けて好太王碑文が出てきます。今話しているのは「肥後の勢力」に絡んだ装飾古墳。磐井以後の話です。好太王とは100年以上後の話なんですが、、、
2021年6月27日 23時22分

p211後半になると、話がメチャクチャです。

言い換えますと、六世紀初めに九州王朝の軍が洛東江ぞいにあった。

空想です。
2021年6月27日 23時24分

継体・物部麁鹿火の軍が磐井を斬った余勢をかって、朝鮮半島まで行って羽地を倭地を占領したとは書いてないわけです。

〝何に〟「書いてない」と仰るのか?まさか好太王碑文には物部麁鹿火なんて書いてないし、『書紀』には事の経緯が具に書いてあります。
2021年6月27日 23時28分

「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」は読んでいるのに、それ以後の『書紀』の詳細な記述は読んでいない?
2021年6月27日 23時29分

p211末尾

そのあと、磐井が斬られた。北(朝鮮半島側)から続々帰国してくるし、南(肥後)の軍隊が押し寄せてくるという情勢の中で和睦がなされたわけです。

一体、何の話なんだろうか?『書紀』に書いてあることなのか、それとも古田氏の夢想なのか?
2021年6月27日 23時34分

古田氏は講演でこんなこと喋ってたんですね。

『書紀』にみる限り、北から続々帰国して来ませんし、南の軍隊も押し寄せて来ません。聴衆の中で『書紀』の知識のある方は中座したかも、、、
2021年6月27日 23時39分

p213

こうみてまいりますと、この和睦後は筑前筑後の勢力以上に無事で、直接の侵入による被害を何等受けていない肥後が、非常に重要な支え手になって現れてきたということは、容易に想像されるわけでございます。

何の「支え手」でしょう?ヤマトの「支え手」というなら正しい。
2021年6月27日 23時45分

こういうことは、肥後における装飾古墳の濃密な分布に現れている、というふうにわたしは考えていたわけでございます。

「和睦後」と「装飾古墳」とのどんな関係性がある?
2021年6月27日 23時49分

しかし、以上のことはわたしが考えていただけで、九州の読売新聞にもストレートに書いたわけではないのです。だから「肥後の翁」が中心というテーマは、私の本を読んですぐ思いつけるという性質のものではないわけです。

ここで「肥後の翁」が出てきます。原田さんご案内の話に近づいたようです。
2021年6月27日 23時53分

『古代の霧の中から』p195「伝承されていた筑紫舞」78頁をざっとめくってみました。古田氏の筑紫舞との出会いから考察が延々と語られますが、それが九州王朝とどういう関係があるのか?さっぱり飲み込めません。
2021年6月28日 10時31分

数十年前、第2書『失われた九州王朝』を読み、程なくして磐井の滅亡から多利思北孤までの〝空白期間〟についての説明が古田氏においてはなされていないことに気が付き、ずっと頭に引っかかっていました。

古田氏は会誌にも多く書かれており、いずれかで言及しているのでは?と思っていたのですが。
2021年6月28日 10時34分

先日、他ならぬ原田さんから「肥後の翁」についてご教示を得、手元の本から少し読んでみました。しかし、この〝空白期間〟について古田氏が何か名策を得たようには思えません。

やがて古田氏は1990年に『真実の東北王朝』を出し、「東日流外三郡誌」に絡め取られてしまうことになります。
2021年6月28日 10時43分

『古代の霧の中から』p221で会場からの質問(九州王朝と継体王朝は同時期に二つあったか)に答え、

それに対して近畿の天皇家(略)は、記・紀で主張しておりますように九州から来た、分王朝だった。だから対等に両王朝があったというのではなく、王朝は一つ、九州王朝だけであった。
2021年6月28日 10時54分

『古代の霧の中から』と同年刊行の『古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち』p367では、

継体にはじまる新王朝、それは右の前王朝のような慣例をもたぬ新参の王朝だったのである。

次頁

ここにおいてわたしは知る。『古事記』は前王朝の伝承の書であり、『日本書紀』は現王朝の正史である、と。
2021年6月28日 10時59分

「九州王朝説」を唱える古田氏にあっては、〝王朝〟ということばの定義は〝厳格〟なものだったのではないかと思ったのですが、、、

些末な用語法をつついているのではなく、古田氏にとって蔑ろにできないはずの用語について強い疑問を持ちます。
2021年6月28日 11時4分

斉明天皇(十六)坂合部連石布と津守連吉祥の唐行き・伊吉連博徳の書
https://nihonsinwa.com/page/2159.html

斉明5年(659)7月の遣唐使については、入唐の詳細が「伊吉連博徳書」に残されています。自分で現代語簡訳を試みようと思いましたが、秀逸なブログを見つけましたので、ご案内します。
2021年6月28日 11時50分

ありがとうございます。それにしても同年に出された本の中で、相矛盾するようなことを仰るなんて、まさしく「思い付きでとりつくろい続けていた」典型なんでしょう。

寄る辺ない仮説の辿り着いた先が『壬申大乱』であり「寛政原本」だったのかも知れません。
2021年6月28日 16時12分

あの頃は、太安万侶墓誌出土とか、修羅や小銅鐸の発見とか続きました。1978/9/20読売新聞スクラップがありました。他紙も幾つかとってあります。本も次々に刊行されて、やや食傷気味になった記憶があります。

2021年6月28日 16時24分

それにしても、未だに古田説は新たなファンを獲得しているように見えます。ミネルヴァ書房からの復刊も続々ですし、、、ものすごい生命力のように見えます。
2021年6月28日 16時30分

そうなんですか!採算度外視なんてことも経営者判断としてはあるんでしょうかねぇ、、、
2021年6月28日 16時50分

経営者は算盤勘定も怠りなく!ですね。

改訂版、復刊にも古田氏による追補が載ったりしますので、そこもチェックしたいとは思うんですが、、、年々お財布がやせ細ってきて、、、専ら図書館頼みです。
2021年6月28日 17時3分

413 倭王賛(晋書安帝紀義煕9年他)
〈倭の五王の時代〉
~502 梁書倭国伝。倭王武を征東将軍に進む。
527-528 磐井の乱(古田氏は531説)
■■■九州王朝説の空白■■■
600-608 多利思北孤の時代
631 高表仁来倭
etc.

結局古田氏は、この〝空白〟を埋めることができなかったと思うんですが。
2021年6月28日 17時11分

この空白を「筑紫舞」の肥後の翁や装飾古墳で埋めようとしたんでしょうが、肥後の翁が半島に出兵したとか、装飾古墳に好太王みたいな銘文が記されているとか、そういうものは全く無いわけです。
2021年6月28日 17時17分

『まぼろしの祝詞誕生』p288に「王朝の定義と九州王朝」という項が!早速読んでみましょう!
2021年6月28日 17時18分

p288
最初に「王朝」という言葉について、王朝というからには、自主独立性をもっていなければならない。他の権力からの支配を受けたり、他の政権に従属している従属権力、つまり「地方政権」に対して、これを王朝と呼ぶことはできない。
2021年6月28日 18時25分

ならば話は簡単です。磐井までは不明ですが、磐井以後は九州王朝など存在しえません。安閑朝の屯倉(535)、宣化朝の官家(536)で筑紫肥豊はヤマトの制圧下に入りましたし、大伴金村の子・磐が筑紫の執政にあたっていますから(537)、葛子ら磐井の残存勢力は「地方政権」に過ぎません。
2021年6月28日 18時32分

欽明17(556)1月には、阿倍臣・佐伯連・播磨直らを遣わし、筑紫國舟師を率いて百濟王子惠を護送しています。

7世紀に入れば、筑紫大宰が継続的にヤマトから派遣されているのですから、筑紫は「他の権力からの支配を受けたり、他の政権に従属している従属権力」としか言いようがありません。
2021年6月28日 18時39分

古田氏の「王朝の定義」に従えば、裴世清の訪れた頃の筑紫はヤマトの「他の権力からの支配を受けたり、他の政権に従属している従属権力」に過ぎませんから、裴世清の訪れた俀国の都もヤマトでした。

あとはもう、〝ちゃぶ台返し〟しかありません。〝日本書紀など嘘っぱちだ!〟と。
2021年6月28日 18時42分

〝日本書紀など嘘っぱちだ!〟と言った途端に、『隋書』と『書紀』との齟齬を以て立論の柱の一つとしている九州王朝説は、不可欠の柱を自分の手で消滅させることになります。
2021年6月28日 18時46分

おっと、今とりあげている『まぼろしの祝詞誕生』は新版の方でした。

「新版あとがき」に「古田武彦先生の開いた「真理の探求」の道を共に歩んで行くつもりである。」とあります。「真理の探求」って、定義した途端に自滅する説がどうして「真理」なんでしょうか?
2021年6月28日 18時50分

部屋の整理をしていたら、昭和50年4月付の原稿が。表題は「魏志倭人伝 旅程の新解釈」。表紙も含めてA4で13頁。読み返して恥ずかしくなるような内容ですが、発刊未だ4年の『「邪馬台国」はなかった』にも触れています。内容はご勘弁願うとして、タイトルのみそろりと。

2021年6月28日 23時0分

先に「磐井までは不明ですが」と書きましたが、継体紀のに記される磐井の言葉【今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。】が興味深いですね。誰に向けての言葉かは確かではありませんが、近江毛野臣かも。昔は〝ダチ〟だったようですね、二人は、、、さて、筑紫君磐井は王朝の主だったでしょうか?
2021年6月28日 23時9分

先日、とあるブログで見かけた、『旧唐書』倭国伝には【至二十二年(648),又附新羅奉表,以通起居。】より後の記事が落ちている、という件。特に顯慶4年(659)10月遣唐使が蝦夷を伴って洛陽に至った記事は、『通典』『唐會要』『太平御覧』いずれも蝦夷国として記載が見えますが、倭国条にはナシ。
2021年6月29日 11時2分

ま、蝦夷国として記述してあるから倭国で省いた、とも考えられますが、白村江に触れないのは、どうも落ち着かないものを感じます。
2021年6月29日 11時11分

『旧唐書』劉仁軌伝
仁軌遇倭兵於 白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。餘豐脫身而走
同百済伝
仁軌遇扶餘豐之眾於 白江之口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,賊眾大潰,扶餘豐脫身而走

よく似た文ですが、前者は「倭兵」後者は「扶餘豐之眾」。記録者の立場の違いかも。
2021年6月29日 11時16分

「全長114m」というのはあちこちで見かけますね。佐賀の船塚古墳も114もだったような。時代は会津のほうが古そう、、、大分の亀塚は116mで近い!サイズの規格がありそう。
https://twitter.com/kofun_store/status/1409782655093133316
2021年6月29日 17時0分

古代史やってる人が、決して忘れてはならない古墳の一つでしょう。#赤塚古墳
https://twitter.com/kofun_bu/status/1410101708538073090
2021年6月30日 14時7分

ヤマトの西山古墳は興味深いものがあります。無理に墳形を漢字表記すると、前方後上円下方墳とか(・・;)
https://twitter.com/kofun_jp/status/1410122146995572738
2021年6月30日 15時48分

ネット上に平面図がありました。一段目が前方後方墳、二段目が前方後円墳。墳形の意味するところは?
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/014/809/53/N000/000/005/129499725643116118128.JPG
2021年6月30日 18時46分

奈良盆地には前方後方墳も幾つかあります。下池山古墳などは前方部が長く、後方部も正方形ではなく長方形です。珍しいですね。
http://blog-imgs-64.fc2.com/1/9/4/19481941/201404242246341c4.jpg
2021年6月30日 18時49分

九州に飛びますが、熊本県央の塚原古墳群は方形周溝墓から方墳、円墳、そして前方後円墳まで、古墳の変遷を見ることができる貴重な古墳群です。九州自動車道建設で破壊されるところでしたが、地下トンネル式で保存されました!火の君発祥の地かも知れません。
http://inoues.net/ruins2/kumamoto_tuka.html
2021年6月30日 18時55分

塚原古墳群に時代的に接続するんではないかと思いますが、宇土半島から八代周辺にかけては、地方としては大型の前方後円墳が築かれます。向野田古墳の被葬者は女性で、この地方の女王だったのでしょう。緑川駅裏の天神山古墳は100m超。松橋町の大野窟古墳は横穴式巨石墳です。この辺りも火の君か?
2021年6月30日 19時0分

『明史』日本伝の、「王與其相俱死」 https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1853.html

継体紀25年の【又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。】を連想。
2021年6月30日 23時28分