〈書き下し〉
曩(サキ)ニ余ハ王光禄ノ「十七史商榷」、錢宮詹ノ「廿二史考異」ヲ讀ミ、頗ル今本正史之信ズ可(ベ)カラ不(ザ)ルヲ疑フ。會(オリシモ)禁網(おきて)既ニ弛(ユル)ミ、異書(珍本)時(ココ)ニ出ズ。因リテ正史ヲ重校スル之願ヲ發ス。舊本ノ有ルヲ聞キ、展轉(イソイデ)請託シテ地ニ就(オモム)キ、影本ヲ攝影ス。既ニ隨讀隨校ヲ成シ、疑フ可(ベ)キ有ル者(ハ)、輒(ソノツド)録スルトコロ之レ存リ。一史ノ畢(オハ)ル毎ニ即チ書ヲ以テ摘要シ、後於(ニ)商務印書館ノ既ニ覆印セル舊本ヲ世ニ行フ。先後八載中、兵燹(戦火)ヲ經ルモ幸ニシテ厥(ソ)ノ成ルヲ觀ル。余ハ同人與(ト)其事ニ始終シ、共ニ校勘記百數十册ヲ成ス。文字ハ繁冗ニシテ亟(シバシバ)董理(タダシオサメル)ヲ待ツ。茲世(この世)ノ變異(異変)ニ際シテモ、日ゴトニ能ク續印セシコトハ、未ダ殊ニ敢ヘテ言ハザルニ否(アラ)ズ。友人傳沅叔ハ書ヲ貽(ノコ)シ、先ンジテ諸史ヲ以テ屬(ツナ)ゲ、後ニ跋ヲ別ニ行フ。余ハ重ネテ其ノ意ヲ違ヘ、原稿ヲ取閲シ、語較詳盡ス。更ニ干條ノ如ク摘(ツマ)ム。活字ヲ用ヒテ集印シ讀史者之參證ニ備フルハ、管蠡(カンライ:極めて見識の狭いこと)ノ及ブ所、詎(イヤシク)モ敢ヘテ王・錢二子之什一(十分の一)ヲ望ミ、亦タ聊(イササ)カ其ノ意ニ師(ナラ)ハントスルニ而已(ホカナラズ)。
民國紀元二十有七年九月、海鹽張元濟
〈口語意訳〉
以前私は、王光禄の「十七史商榷」、錢宮詹の「廿二史考異」を讀み、頗る今の正史は信用できないのではと疑った。おりしも規制が既に弛んで、珍本がここに出てきた。だから正史を重校しようとの願望を抱いたのである。舊本があるとこを聞いて急ぎ現地へ赴き、書影を撮影した。読み較べ、疑うべきところがあれば、その都度記録したのがこれである。一史を終える毎に摘要を書きとどめ、後に商務印書館が既に覆印した舊本を世に刊行した。前後八年の間には戦火をも經たが、幸にしてその完成を見た。私は同志とそれに終始し、共に校勘記百數十册を完成した。文字は繁冗で、しばしば校正するのに時を要した。世情の異変に際しても、日毎によく続刊できたことを、敢えて云わないというわけには行かない。友人の傳沅叔君は書を残し、先に諸史をつなげ、跋は後に別に行った。私は重ねてその意味を取り違え、原稿を取っては閲(しら)べ、詳細に較語しつくした。更に干條(?)のように拾い出した。活字を用いて集印し史書を読む者の参考に備えようというのは、私の管蠡(カンライ:極めて見識の狭いこと)の及ぶ所、詎(いやしく)も敢えて王・錢二氏の十分の一ほどを望み、また少しでもその意志に倣おうとするに他ならないものである。
中華民國紀元二十七(1938)年九月、海鹽県 張元濟