紹興監本〈書き下し文〉
范書世存宋本尚不少,錢泰吉校是書時所見者,有義門校本紀第三至九卷之殘宋本,校律暦至禮儀志之北宋小字殘本,校郡國志第十九至二十二卷之宋一經堂本,小山校蔡邕傳之鈔補北宋本,校第九十卷之淳化校定本及麻沙劉仲立本,近時常熟瞿氏聊城楊氏,德化李氏,鳥程劉氏,亦均藏有宋刻,然無一與此合者,惟北平圖書館及日本静嘉堂文庫各有殘本,行款相同,然彼多係後來補刻,李心傳建炎以來朝野雜記云,紹興末年,張彦實待制為向書郎,始請下諸道州學取舊監本書籍鏤板頒行,從之,然所取者多有殘缺,故胄監刊六經無體記正史無漢書,二十一年五月,輔臣復以為言,上謂秦益公日,監中其他闕書亦令次第鏤板,雖重有費,不惜也,觀此知當時剞劂,頗極鄭重,是書校印較精,疑即彼時所刊監本.
避宋諱特嚴
余見宋刊本多矣,所避宋諱,罕有如是之謹嚴者,聖祖諱有[略:忌諱欠画諸字例]等字,僖祖有[略:忌諱欠画諸字例]字,翼祖有[略:忌諱欠画諸字例]等字,宣祖有[略:忌諱欠画諸字例]等字,太祖有[略:忌諱欠画諸字例]等字,太宗有[略:忌諱欠画諸字例]字,真宗有[略:忌諱欠画諸字例]字,仁宗有[略:忌諱欠画諸字例]等学,濮安懿王有[略:忌諱欠画諸字例]等字,神宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,哲宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,欽宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,高宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,桓字或作淵聖御名,構字或作今上御名,此二字亦有缺末筆者,大都就四小字原格剜改,且有多處剜而未補,遂留空格,是知刊版在南宋初年,而竣工之時,已在孝宗受禪之後,故瑗瑋慎三字亦兼避也,又真宗大中祥符七年,禁交字斥用黄帝名號,是本軒轅二字亦缺末筆,此則他書甚罕見者.
志不當夾入紀傳間
志三十卷,為司馬彪所撰,其先本自單行,崇文總目,郡齋讀書志,均作後漢書九十卷志三十卷,直齋書錄解題,亦云後漢書九十卷後漢志三十卷,其與紀傳合刊者,始於孫奭之奏請,洪邁容齋四筆,淳化五年監中所刊後漢書,凡九十卷,惟帝后紀十卷列傳八十卷而無志,乾興元年,判國子監孫奭始奏以補前史之闕,云云,是可證也,前校班書時,獲見乾興元年中書門下牒國子監文一通即孫奭以劉昭注司馬彪志補章懷注范書故事,更足徴信,是本列傅卷一,大題後漢書十一,直接皇后紀第十,循序而下,至後漢書九十而止,志三十卷,均無大題,與紀傳全不銜接,當猶是淳化乾興舊式,然目錄則已以志羼入紀傳之間,兩不相應殊不可解,陳錄稱館閣書目直以百二十卷併稱蔚宗撰,按中興館閣書目,陳騤叔進等撰,淳煕五年上之,亦見陳錄,是本同時刊成,意者編目之時,作者獲見館閣書目,以為撰自一人,遂沿紀志傳先後之成例而混合之,遂致有此歧異歟.
劉昭注范書紀傳不傳注司馬志獨傳
梁書文學劉昭傳,昭集後漢同異,以注范曄書,世稱博悉,范書無志,是所注為紀傳也,其注補八志,别有自序,曰司馬續書總爲八志,又曰徒懐纉緝,理慙鉤遠,迺借舊志注以補之,狹見寡陋匪同博遠,及其所値,微得論列,分為三十卷以合范史,求於齊工,其本傳曰集注范書一百八十卷者,是必併紀傳志而言,王鳴盛謂章懷詔集諸儒共注范書,不免襲取劉昭舊注,又謂注紀傳易注志難,避難趨易,故于志仍用昭注,司馬彪續漢書紀傅不傳而志獨傳,劉昭注范書紀傳不傳而注司馬志獨傳,亦一異也,是本司馬志,每卷均題劉昭注補,不失原序之意,殿本乃易注補為補注,故王氏極詆諆之,而錢大昕亦譏其有失本来面目.
注語入正文附傳跳行均誤
郭太傳注,初太始至南州過袁奉高不宿而去從叔度累日不去或以問太太曰奉高之器譬之氾濫雖清而易挹叔度之器汪汪若千頃之火陂澄之不清擾之不濁不可量也已而果然太以是名聞天下七十四字,本為章懷引謝承書中之語,監本汲古本殿本皆列入正文,是本獨否,錢大昕謂嘗見南宋本及明嘉靖已酉福建本,皆不誤,盞必從舊本出也,又以下左原茅容孟敏庾乘宋果賈淑史淑賓黄允謝甄王柔及其弟澤諸人,皆爲太所獎拔,故史云著之篇末,今時本一一跳行,殊不合附傳之體,且其下尚有張孝仲范持祖召公子許偉康司馬子威等,又在王柔兄弟之後,即本傳所謂皆如所鑒者,其文氣聯貫而下,故跳行實誤也.
劉攽所刊誤字不誤
昔人校勘范書,莫詳於宋之劉攽,宋史言攽邃史學,作東漢刊誤,為人所稱頌,是本於劉氏所指之誤,均不復見,或即據刊誤改正,否則所據之本,出於劉氏所見之外,未可知也,如
光武帝紀,建武九年初置青巾左校尉官,十五年,復置屯騎長水射聲三校尉官,十九年,復置函谷關都尉,又列傳第九耿國傳,遂置度遼將軍,是本四置字劉氏所見均誤致,故均謂致宜作置.
明帝紀,亦復是歲更賦,注當行者不可往即還因住一歲,是本住宇劉氏所見誤任,故謂因任一歲,案任當作住.
章帝紀,建初四年,教學為本,注夏日校,是本校字劉氏所見誤教,故謂夏曰教,教當作校.
靈帝紀,熹平四年,為民興利,注前漢地理志及續漢郡國志並無監,今蒲州安邑縣西南有鹽池,是本無監二字劉氏所見誤無鹽,又鹽池誤鹽城,故謂注鹽城常作鹽池耳,及無鹽字下當有一監字.
又中平六年,上軍校尉蹇碩下獄死,是本獄下劉氏所見脱死字,故酬正文蹇碩下獄,案碩以此時誅,實少一死字.
齊武王傳,引精兵十萬南渡黄淳水,是本黄字劉氏所見誤潢,故謂潢字據注唯當作黄.
又子煬王石嗣,是本煬字劉氏所見誤殤,故謂王石立二十四年不可以殤謚,蓋是煬字.
竇憲傳,發北軍五校,注漢有南北軍中候一人六百石掌臨五營,是本五字劉氏所見誤立,故謂掌臨立營,臨常作監,立常作五.
馮衍傳,陂山谷而間處兮守寂寞而存神,注陂音兵義反,是本兵字劉氏所見誤丘,故謂注陂丘義反,切不得,丘當作兵.
樊鯈傳,鯈字長魚,是本下文全作鯈,劉氏所見誤儵故謂按儵非魚類,與名不合,疑本是鯈字,又按儵弟名鮪,知作鯈無疑.
又如令陛下子臣等專誅而已,是本如令二字劉氏所見誤如今,故謂按文今當作令.
鄭玄傅,其勗求君子之道研鑽勿替,是本鑽字劉氏所見誤讃,故謂案文讃當作鑽.
度尚傳,夫事有虛實法有是非,是本夫事二字劉氏所見誤大事,故謂案文大常作夫.
劉愷傳,如今使臧吏禁錮子孫,是本今不作令,今義亦較令字為長,劉氏所見殆作如令,故謂案文多一如字.
朱暉傅,數年坐法免,注坐考長吏囚死獄中,是本吏字劉氏所見誤史,故謂案臨淮郡無長史,既言囚死獄中,當是吏字.
又惟今所言適我願也,是本今字劉氏所見誤令,故謂惟令所言,案時暉未爲尚書令,明此令字是今字.
應劭傳,夫國之大事莫尚載籍,是本籍字下劉氏所見殆有也字,故謂案文多一也字.
李雲傳,帝者諦也,注帝之言諦也,是本言諦二字劉氏所見誤諦言,故謂注帝之諦言也,案文言當在諦字上.
張衡傳,曾何貪于支離而習其孤技耶,注學屠龍于支離益,是本益字劉氏所見誤蓋,故謂注支離蓋,案莊子蓋常作益,支離其名益耳,後人不讀莊子,妄改為蓋.
又羇要褭以服箱,是本褭字劉氏所見誤裊,故謂案要裊古良馬,當作褭從馬.
又歘神化而蟬蛻兮朋精粹而為徒,注蟬蛇蛻所解皮也,蟬下有蛇字,考說文虫部,蛻蛇蟬所解皮也,知是本不誤,特文字顚倒耳,劉氏所見殆有缺文,故謂當云蛻蟬所解皮,但未言及蛇字.
趙岐傅,著盂子章句,是本孟字劉氏所見誤要,故謂正文著要子章句,案要當作孟.
陳蕃傳,震受考掠誓死不言,是本受字劉氏所見誤授,故謂案文授當作受,公孫瓚傳,每聞有警瓚輒厲色憤怒,是本警字劉氏所見誤驚,放謂驚當作警.
四域莎車國傳,不復置王但遣將鎮守其國,是本王字劉氏所見誤正,故謂案文正當作王.
鲜卑傳,将帥良猛財賦充実,是本賦字劉氏所見誤富,故謂富字當作賦.
據此則是本校印之精,實勝於劉氏所見之本矣.
蔡邕石經存毁之數
蔡邕傳,邕乃自書册於碑,使工鐫刻,立於太學門外,原注,洛陽記曰,太學在洛城南開陽門外,講堂長十丈,廣二丈,堂前石經四部,本碑凡四十六枚,西行,尚書周易公羊傳十六碑存,十二碑毀,南行,禮記十五碑,悉崩壊,東行論語三碑,二碑毀,殿本注,論語三碑作二碑,劉攽曰,注論語二碑毀,案文當是一碑毀,若二碑毀者,當云皆毁而已,是劉攽所見之本,與殿本同,按原注碑凡四十六枚,西行存十六碑,毀十二碑,南行十五碑悉崩壊,共四十三枚,合之東行論語三碑,正得四十六枚,若論語僅得二碑,則碑數祇得四十五,與上文不合,故知此作三碑為不誤,劉氏所以反覆辨正者,蓋所見之本先誤也.
紹興監本
范書の世に存する宋本は尚お少なくからず、銭泰吉が是の書を校する時に所見の者は、義門校本紀第三より九巻の残宋本、校律暦より礼儀志の北宋小字残本、校郡国志第十九より二十二巻の宋一経堂本、小山校蔡邕伝の抄補北宋本、校第九十巻の淳化校定本及び麻沙劉仲立本あり。 近時、常熟の瞿氏、聊城の楊氏、徳化の李氏、鳥程の劉氏も、亦た均しく宋刻を蔵することあるも、然れども一として此と合する者なし。惟だ北平図書館及び日本静嘉堂文庫に各残本あり、行款同じきも、然れども彼れは多く後来の補刻に係る。李心伝の『建炎以来朝野雑記』に云わく、「紹興末年、張彦実待制向書郎たる時、始めて諸道州学に下して旧監本の書籍を取り鏤板して頒行せんことを請う。之に従う。然るに取る所の者は多く残欠あり、故に冑監六経を刊するに体記なく正史に漢書なし。二十一年五月、輔臣復た以て言と為す。上秦益公に謂いて曰く、監中の其の他の闕書も亦た次第に鏤板せしめよ、重ねて費ありと雖も、惜しまざるなり」と。此を観れば当時の剞劂、頗る鄭重を極めたるを知る。是の書は校印較精なり、疑わらくは即ち彼の時に刊する所の監本ならん。宋諱を避くること特に厳なり
余宋刊本を見ること多し、避くる所の宋諱如是の謹厳なる者は罕にあり。聖祖の諱には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、僖祖には[略:忌諱欠画諸字例]字あり、翼祖には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、宣祖には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、太祖には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、太宗には[略:忌諱欠画諸字例]の字あり、真宗には[略:忌諱欠画諸字例]の字あり、仁宗には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、濮安懿王には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、神宗には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、哲宗には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、欽宗には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり、高宗には[略:忌諱欠画諸字例]等の字あり。恒字は或いは淵聖御名と作し、構字は或いは今上御名と作す、此の二字も亦た末筆を欠く者あり。大都四小字の原格に就いて剜改し、且つ多処剜りて未だ補わず、遂に空格を留む。是れ刊版は南宋初年にありて、竣工の時は已に孝宗受禅の後にあるを知る、故に瑗瑋慎の三字も亦た兼ねて避くるなり。また真宗大中祥符七年交字を禁じ黄帝の名号を斥用す、是の本の軒轅二字も亦た末筆を欠く、此は則ち他書には甚だ罕見なる者なり。志は当に紀伝の間に夾入すべからず
志三十巻は司馬彪の撰する所、其の先本より単行なり。『崇文総目』『郡齋読書志』均しく後漢書九十巻志三十巻に作り、『直齋書録解題』も亦た云わく「後漢書九十巻後漢志三十巻」と。その紀伝と合刊する者は、孫奭の奏請に始まる。洪邁の『容齋四筆』に、淳化五年監中に刊する所の後漢書、凡そ九十巻、惟だ帝后紀十巻列伝八十巻にして志なく、乾興元年判国子監孫奭始めて奏するに前史の闕を補うを以てす、云云とは、是れ証すべきなり。前に班書を校する時、乾興元年中書門下牒国子監文一通を獲見す、即ち孫奭の劉昭注司馬彪志を以て章懐注范書に補うの故事なり、更に徴信するに足る。是の本の列伝巻一、大題後漢書十一、直接に皇后紀第十、循序して下り、後漢書九十に至りて止まる。志三十巻、均しく大題なく、紀伝と全く銜接せず、当に猶お是れ淳化乾興の旧式なるべし。然るに目録は則ち已に志を紀伝の間に羼入し、両つながら相応ぜず、殊に解すべからず。陳録に「館閣書目直に百二十巻を以て併称して蔚宗撰とす」と称す。按ずるに『中興館閣書目』は陳騤叔進等の撰、淳煕五年に之を上る、も亦た陳録に見ゆ。是の本は同時に刊成す、意うに編目の時、作者館閣書目を獲見し、一人より撰ぜらると以為い、遂に紀志伝先後の成例に沿りてこれを混合し、遂に此の岐異あるに致れるか。劉昭の范書紀伝に注するは伝わらず司馬志に注するは独り伝わる
『梁書文学劉昭伝』に、昭は『後漢同異』を集め、以て范曄の書に注す、世に博悉と称す。范書に志なし、是れ注する所は紀伝なり。その八志を注補するに、別に自序あり、曰く「司馬続書総じて八志と為す」と。また曰く「徒懐纉緝、理鉤遠に慙ず、迺ち旧志を借りて注し以てこれを補う、狭見寡陋にして博遠に同じからず、その値う所に及りて、微に論列し、分かちて三十巻と為し、以て范史に合す」と。斉工に求むれば、その本伝に「注范書百八十巻を集む」とあるは、是れ必ず紀伝志を併せて言うなり。王鳴盛は「章懐は諸儒を詔集して共に范書に注せしむ、劉昭の旧注を襲取するを免れず」と謂う。また「紀伝に注するは易く、志に注するは難し、難を避けて易に趨く、故に志にはなお昭注を用ゆ」と謂う。司馬彪の『続漢書』は紀伝伝わらずして志独り伝わり、劉昭の注范書は紀伝伝わらずして司馬志に注するは独り伝わる、も亦た一異なり。是の本の司馬志は、毎巻均しく「劉昭注補」と題し、原序の意を失わず。殿本は迺ち「注補」を「補注」に易ゆ、故に王氏極めてこれを詆諆し、而して銭大昕も亦たその本来の面目を失うあるを譏る。注語の正文に入り附伝の跳行するは均しく誤りなり
「郭太伝注」に、初め太始めて南州に至り、袁奉高を過りて宿せずして去り、叔度に従いて累日まで去らず。あるいは太に問うを以てす、太曰く「奉高の器、これを氾濫に譬う、清くして挹み易し。叔度の器は汪汪たること千頃の陂のごとし。これを澄ますも清からず、これを擾すも濁らず。るべからざるなり」と。已にして果たして然り。太はこのを以て名を天下に聞かするの七十四字は、本章懐の謝承の『書』の語を引くものと為す。監本汲古本殿本は皆正文に列入す、是の本は独り否らず。銭大昕の謂えらく「嘗て南宋本及び明嘉靖已酉福建本を見るに、皆誤らず。おそらくは必ず旧本より出づるなり」と。また以下左原茅容孟敏庾乗宋果賈淑史淑賓黄允謝甄王柔および其弟澤諸人は、皆太の奨抜する所と為る、故に史に「これに篇末を著す」と云う。今時の本は一一跳行し、殊に附伝の体に合せず。かつその下になお張孝仲范持祖召公子許偉康司馬子威等あり、また王柔兄弟の後にあり、即ち本伝の所謂「皆鑒みる所のごとき者」なり。その文気聯貫して下る、故に跳行は実に誤りなり。劉攽の刊する所の誤字誤らず
昔人范書を校勘するに、宋の劉攽より詳らかなるはなし。『宋史』に「攽史学に邃く、『東漢刊誤』を作り、人の称頌する所と為る」と言う。是の本は劉氏の指す所の誤に、均しく復た見えず、あるいは即ち刊誤に据りて改正す、さもなくば据る所の本、劉氏の所見の外に出づるか、未だ知るべからざるなり。たとえば
光武帝紀、建武九年初めて青巾左校尉官を置き、十五年復た屯騎長水射声三校尉官を置き、十九年復た函谷関都尉を置き、また列伝第九耿国伝に「遂に度遼将軍を置く」は、是の本の四つの「置」の字劉氏の所見均しく「致」に誤る、故に均しく「致は宜しく置と作すべし」と謂う。
明帝紀も、亦た復た「是歳更賦」なり。注に「当行する者往くべからずして即ち還り、因りて一歳住す」と。是の本の「住」の字劉氏の所見は「任」に誤る、故に「因任一歳」と謂う。案ずるに「任」は当に「住」と作すべし。