『校史隨筆』後漢書

百衲本二十四史『史記』は目録に続いて張元済による『校史隨筆』が『史記』から『明史』まで全て掲げてある。そのうち『三国志』については以前独力にて書き下しを試み、拙サイトにも公開しているが、今次同『後漢書』についてもLINE OCRとGoogle Geminiの力を借りて書き下し公開することが出来た。尚、OCR結果については原文と対照し誤変換・脱字等を修正したものの、ルビの適否については今回も未チェックである。

文中[ ]内相当箇所は原文で忌諱欠画諸字例が列挙してあるが、サイト上で表示するのは不可につき、[略:忌諱欠画諸字例]と表示している。

〈原文〉
紹興監本
范書世存宋本尚不少,錢泰吉校是書時所見者,有義門校本紀第三至九卷之殘宋本,校律暦至禮儀志之北宋小字殘本,校郡國志第十九至二十二卷之宋一經堂本,小山校蔡邕傳之鈔補北宋本,校第九十卷之淳化校定本及麻沙劉仲立本,近時常熟瞿氏聊城楊氏,德化李氏,鳥程劉氏,亦均藏有宋刻,然無一與此合者,惟北平圖書館及日本静嘉堂文庫各有殘本,行款相同,然彼多係後來補刻,李心傳建炎以來朝野雜記云,紹興末年,張彦實待制為向書郎,始請下諸道州學取舊監本書籍鏤板頒行,從之,然所取者多有殘缺,故胄監刊六經無體記正史無漢書,二十一年五月,輔臣復以為言,上謂秦益公日,監中其他闕書亦令次第鏤板,雖重有費,不惜也,觀此知當時剞劂,頗極鄭重,是書校印較精,疑即彼時所刊監本.

避宋諱特嚴
余見宋刊本多矣,所避宋諱,罕有如是之謹嚴者,聖祖諱有[略:忌諱欠画諸字例]等字,僖祖有[略:忌諱欠画諸字例]字,翼祖有[略:忌諱欠画諸字例]等字,宣祖有[略:忌諱欠画諸字例]等字,太祖有[略:忌諱欠画諸字例]等字,太宗有[略:忌諱欠画諸字例]字,真宗有[略:忌諱欠画諸字例]字,仁宗有[略:忌諱欠画諸字例]等学,濮安懿王有[略:忌諱欠画諸字例]等字,神宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,哲宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,欽宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,高宗有[略:忌諱欠画諸字例]等字,桓字或作淵聖御名,構字或作今上御名,此二字亦有缺末筆者,大都就四小字原格剜改,且有多處剜而未補,遂留空格,是知刊版在南宋初年,而竣工之時,已在孝宗受禪之後,故瑗瑋慎三字亦兼避也,又真宗大中祥符七年,禁交字斥用黄帝名號,是本軒轅二字亦缺末筆,此則他書甚罕見者.

志不當夾入紀傳間
志三十卷,為司馬彪所撰,其先本自單行,崇文總目,郡齋讀書志,均作後漢書九十卷志三十卷,直齋書錄解題,亦云後漢書九十卷後漢志三十卷,其與紀傳合刊者,始於孫奭之奏請,洪邁容齋四筆,淳化五年監中所刊後漢書,凡九十卷,惟帝后紀十卷列傳八十卷而無志,乾興元年,判國子監孫奭始奏以補前史之闕,云云,是可證也,前校班書時,獲見乾興元年中書門下牒國子監文一通即孫奭以劉昭注司馬彪志補章懷注范書故事,更足徴信,是本列傅卷一,大題後漢書十一,直接皇后紀第十,循序而下,至後漢書九十而止,志三十卷,均無大題,與紀傳全不銜接,當猶是淳化乾興舊式,然目錄則已以志羼入紀傳之間,兩不相應殊不可解,陳錄稱館閣書目直以百二十卷併稱蔚宗撰,按中興館閣書目,陳騤叔進等撰,淳煕五年上之,亦見陳錄,是本同時刊成,意者編目之時,作者獲見館閣書目,以為撰自一人,遂沿紀志傳先後之成例而混合之,遂致有此歧異歟.

劉昭注范書紀傳不傳注司馬志獨傳
梁書文學劉昭傳,昭集後漢同異,以注范曄書,世稱博悉,范書無志,是所注為紀傳也,其注補八志,别有自序,曰司馬續書總爲八志,又曰徒懐纉緝,理慙鉤遠,迺借舊志注以補之,狹見寡陋匪同博遠,及其所値,微得論列,分為三十卷以合范史,求於齊工,其本傳曰集注范書一百八十卷者,是必併紀傳志而言,王鳴盛謂章懷詔集諸儒共注范書,不免襲取劉昭舊注,又謂注紀傳易注志難,避難趨易,故于志仍用昭注,司馬彪續漢書紀傅不傳而志獨傳,劉昭注范書紀傳不傳而注司馬志獨傳,亦一異也,是本司馬志,每卷均題劉昭注補,不失原序之意,殿本乃易注補為補注,故王氏極詆諆之,而錢大昕亦譏其有失本来面目.

注語入正文附傳跳行均誤
郭太傳注,初太始至南州過袁奉高不宿而去從叔度累日不去或以問太太曰奉高之器譬之氾濫雖清而易挹叔度之器汪汪若千頃之火陂澄之不清擾之不濁不可量也已而果然太以是名聞天下七十四字,本為章懷引謝承書中之語,監本汲古本殿本皆列入正文,是本獨否,錢大昕謂嘗見南宋本及明嘉靖已酉福建本,皆不誤,盞必從舊本出也,又以下左原茅容孟敏庾乘宋果賈淑史淑賓黄允謝甄王柔及其弟澤諸人,皆爲太所獎拔,故史云著之篇末,今時本一一跳行,殊不合附傳之體,且其下尚有張孝仲范持祖召公子許偉康司馬子威等,又在王柔兄弟之後,即本傳所謂皆如所鑒者,其文氣聯貫而下,故跳行實誤也.

劉攽所刊誤字不誤
昔人校勘范書,莫詳於宋之劉攽,宋史言攽邃史學,作東漢刊誤,為人所稱頌,是本於劉氏所指之誤,均不復見,或即據刊誤改正,否則所據之本,出於劉氏所見之外,未可知也,如

光武帝紀,建武九年初置青巾左校尉官,十五年,復置屯騎長水射聲三校尉官,十九年,復置函谷關都尉,又列傳第九耿國傳,遂置度遼將軍,是本四置字劉氏所見均誤致,故均謂致宜作置.

明帝紀,亦復是歲更賦,注當行者不可往即還因住一歲,是本住宇劉氏所見誤任,故謂因任一歲,案任當作住.

章帝紀,建初四年,教學為本,注夏日校,是本校字劉氏所見誤教,故謂夏曰教,教當作校.

靈帝紀,熹平四年,為民興利,注前漢地理志及續漢郡國志並無監,今蒲州安邑縣西南有鹽池,是本無監二字劉氏所見誤無鹽,又鹽池誤鹽城,故謂注鹽城常作鹽池耳,及無鹽字下當有一監字.

又中平六年,上軍校尉蹇碩下獄死,是本獄下劉氏所見脱死字,故酬正文蹇碩下獄,案碩以此時誅,實少一死字.

齊武王傳,引精兵十萬南渡黄淳水,是本黄字劉氏所見誤潢,故謂潢字據注唯當作黄.

又子煬王石嗣,是本煬字劉氏所見誤殤,故謂王石立二十四年不可以殤謚,蓋是煬字.

竇憲傳,發北軍五校,注漢有南北軍中候一人六百石掌臨五營,是本五字劉氏所見誤立,故謂掌臨立營,臨常作監,立常作五.

馮衍傳,陂山谷而間處兮守寂寞而存神,注陂音兵義反,是本兵字劉氏所見誤丘,故謂注陂丘義反,切不得,丘當作兵.

樊鯈傳,鯈字長魚,是本下文全作鯈,劉氏所見誤儵故謂按儵非魚類,與名不合,疑本是鯈字,又按儵弟名鮪,知作鯈無疑.

又如令陛下子臣等專誅而已,是本如令二字劉氏所見誤如今,故謂按文今當作令.

鄭玄傅,其勗求君子之道研鑽勿替,是本鑽字劉氏所見誤讃,故謂案文讃當作鑽.

度尚傳,夫事有虛實法有是非,是本夫事二字劉氏所見誤大事,故謂案文大常作夫.

劉愷傳,如今使臧吏禁錮子孫,是本今不作令,今義亦較令字為長,劉氏所見殆作如令,故謂案文多一如字.

朱暉傅,數年坐法免,注坐考長吏囚死獄中,是本吏字劉氏所見誤史,故謂案臨淮郡無長史,既言囚死獄中,當是吏字.

又惟今所言適我願也,是本今字劉氏所見誤令,故謂惟令所言,案時暉未爲尚書令,明此令字是今字.

應劭傳,夫國之大事莫尚載籍,是本籍字下劉氏所見殆有也字,故謂案文多一也字.

李雲傳,帝者諦也,注帝之言諦也,是本言諦二字劉氏所見誤諦言,故謂注帝之諦言也,案文言當在諦字上.

張衡傳,曾何貪于支離而習其孤技耶,注學屠龍于支離益,是本益字劉氏所見誤蓋,故謂注支離蓋,案莊子蓋常作益,支離其名益耳,後人不讀莊子,妄改為蓋.

又羇要褭以服箱,是本褭字劉氏所見誤裊,故謂案要裊古良馬,當作褭從馬.

又歘神化而蟬蛻兮朋精粹而為徒,注蟬蛇蛻所解皮也,蟬下有蛇字,考說文虫部,蛻蛇蟬所解皮也,知是本不誤,特文字顚倒耳,劉氏所見殆有缺文,故謂當云蛻蟬所解皮,但未言及蛇字.

趙岐傅,著盂子章句,是本孟字劉氏所見誤要,故謂正文著要子章句,案要當作孟.

陳蕃傳,震受考掠誓死不言,是本受字劉氏所見誤授,故謂案文授當作受,公孫瓚傳,每聞有警瓚輒厲色憤怒,是本警字劉氏所見誤驚,放謂驚當作警.

四域莎車國傳,不復置王但遣將鎮守其國,是本王字劉氏所見誤正,故謂案文正當作王.

鲜卑傳,将帥良猛財賦充実,是本賦字劉氏所見誤富,故謂富字當作賦.

據此則是本校印之精,實勝於劉氏所見之本矣.

蔡邕石經存毁之數
蔡邕傳,邕乃自書册於碑,使工鐫刻,立於太學門外,原注,洛陽記曰,太學在洛城南開陽門外,講堂長十丈,廣二丈,堂前石經四部,本碑凡四十六枚,西行,尚書周易公羊傳十六碑存,十二碑毀,南行,禮記十五碑,悉崩壊,東行論語三碑,二碑毀,殿本注,論語三碑作二碑,劉攽曰,注論語二碑毀,案文當是一碑毀,若二碑毀者,當云皆毁而已,是劉攽所見之本,與殿本同,按原注碑凡四十六枚,西行存十六碑,毀十二碑,南行十五碑悉崩壊,共四十三枚,合之東行論語三碑,正得四十六枚,若論語僅得二碑,則碑數祇得四十五,與上文不合,故知此作三碑為不誤,劉氏所以反覆辨正者,蓋所見之本先誤也.
〈書き下し文〉
紹興監本しょうこうかんぽん
范書はんしょそんする宋本そうほんすくなくからず、銭泰吉せんたいきつしょきょうするとき所見しょけんものは、義門ぎもん校本紀こうほんき第三だいさんより九巻きゅうかん残宋本ざんそうほん校律暦こうりつれきより礼儀志れいぎし北宋小字残本ほくそうしょうじざんぽん校郡国志こうぐんこくし第十九だいじゅうきゅうより二十二巻にじゅうにかん宋一経堂本そういっけいどうほん小山しょうざん校蔡邕伝こうさいようでん抄補北宋本しょうほほくそうほん校第九十巻こうだいきゅうじっかん淳化校定本じゅんかこうていぽんおよ麻沙まさ劉仲立本りゅうちゅうりつほんあり。 近時きんじ常熟じょうじゅく瞿氏くし聊城りょうじょう楊氏ようし徳化とくか李氏りし鳥程うちょう劉氏りゅうしも、ひとしく宋刻そうこくぞうすることあるも、しかれどもいつとしてこれがっするものなし。北平図書館ほくへいとしょかんおよ日本静嘉堂文庫にほんせいかどうぶんこおのおの残本ざんぽんあり、行款こうかんおなじきも、しかれどもれはおお後来こうらい補刻ほこくかかる。李心伝りしんでんの『建炎以来朝野雑記けんえんいらいちょうやざっき』にわく、「紹興末年しょうこうまつねん張彦実待制ちょうげんじつたいせい向書郎しょうしょろうたるときはじめて諸道州学しょどうしゅうがくくだして旧監本きゅうかんぽん書籍しょじゃく鏤板るはんして頒行はんこうせんことをう。これしたがう。しかるにところものおお残欠ざんけつあり、ゆえ冑監ちゅうかん六経りくけいかんするに体記たいきなく正史せいし漢書かんじょなし。二十一年五月にじゅういちねんごがつ輔臣復ほしんまたもっげんす。しょう秦益公しんえきこういていわく、監中の闕書けっしょ次第しだい鏤板るはんせしめよ、かさねてありといえども、しまざるなり」と。これれば当時とうじ剞劂きけつすこぶ鄭重ていちょうきわめたるをる。しょ校印較きょういんややせいなり、うたがわらくはすなわときかんするところ監本かんぽんならん。

宋諱そうきくることとくげんなり
宋刊本そうかんぽんることおおし、くるところ宋諱そうき如是かくのごとき謹厳きんげんなるものまれにあり。聖祖せいそいみなには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、僖祖きそには[略:忌諱欠画諸字例]あり、翼祖よくそには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、宣祖せんそには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、太祖たいそには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、太宗たいそうには[略:忌諱欠画諸字例]のあり、真宗しんそうには[略:忌諱欠画諸字例]のあり、仁宗じんそうには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、濮安懿王ぼくあんいおうには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、神宗しんそうには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、哲宗てつそうには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、欽宗きんそうには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり、高宗こうそうには[略:忌諱欠画諸字例]とうあり。恒字こうじあるいいは淵聖えんせい御名ぎょめいし、構字こうじあるいいは今上きんじょう御名ぎょめいす、これ二字にじ末筆まっぴつものあり。大都おおよそ四小字ししょうじ原格げんかくいて剜改わんかいし、多処たしょけずりていまおぎなわず、つい空格くうかくとどむ。刊版かんぱん南宋初年なんそうしょねんにありて、竣工しゅんこうときすで孝宗こうそう受禅じゅぜんのちにあるをる、ゆえ瑗瑋慎えんいしん三字さんじねてくるなり。また真宗しんそう大中祥符だいちゅうしょうふ七年しちねん交字こうじきん黄帝こうてい名号みょうごう斥用せきようす、の本の軒轅けんえん二字にじ末筆まっぴつく、これすなわ他書たしょにははなは罕見かんけんなるものなり。

まさ紀伝きでんかん夾入きょうにゅうすべからず
志三十巻しさんじっかん司馬彪しばひょうせんするところさきもとより単行たんこうなり。『崇文総目すうぶんそうもく』『郡齋読書志ぐんさいどくしょしひとしく後漢書九十巻志三十巻ごかんじょきゅうじっかんしさんじっかんつくり、『直齋書録解題ちょくさいしょろくかいだい』もわく「後漢書九十巻後漢志三十巻ごかんじょきゅうじっかんごかんしさんじっかん」と。その紀伝きでん合刊ごうかんするものは、孫奭そんせき奏請そうせいはじまる。洪邁こうまいの『容齋四筆ようさいしひつ』に、淳化五年じゅんかごねん監中かんちゅうかんするところ後漢書ごかんじょおよ九十巻きゅうじっかん帝后紀十巻列伝八十巻ていこうきじっかんれつでんはちじっかんにしてなく、乾興元年けんこうがんねん判国子監孫奭始はんこくしかそんせきはじめてそうするに前史ぜんしけつおぎなうをもってす、云云しかじかとは、しょうすべきなり。さき班書はんしょきょうするとき乾興元年中書門下牒国子監文一通けんこうがんねんちゅうしょもんかちょうこくしかんぶんいっつう獲見ぎゃくけんす、すなわ孫奭そんせき劉昭注司馬彪志りゅうしょうちゅうしばひょうしもっ章懐注范書しょうかいちゅうはんしょおぎなうの故事こじなり、さら徴信ちょうしんするにる。の本の列伝巻一れつでんかんいっつう大題後漢書十一だいだいごかんじょじゅういち直接ちょくせつ皇后紀第十こうごうきだいじゅう循序じゅんじょしてくだり、後漢書九十ごかんじょきゅうじゅういたりてとどまる。志三十巻しさんじっかんひとしく大題だいだいなく、紀伝きでんまった銜接かんせつせず、まさ淳化乾興じゅんかけんこう旧式きゅうしきなるべし。然るに目録もくろくすなわすで紀伝きでんかん羼入さんにゅうし、りょうつながら相応あいおうぜず、ことすべからず。陳録ちんろくに「館閣書目直かんかくしょもくじき百二十巻ひゃくにじっかんもっ併称へいしょうして蔚宗撰いそうせんとす」としょうす。按ずるに『中興館閣書目ちゅうこうかんかくしょもく』は陳騤叔進ちんきしゅくしんとうせん淳煕五年じゅんきごねんに之をたてまつる、も亦た陳録ちんろくゆ。の本は同時どうじ刊成かんせいす、おもうに編目へんもくとき作者館閣書目さくしゃかんかくしょもく獲見ぎゃくけんし、一人いちにんよりせんぜらると以為おもい、つい紀志伝先後きしでんせんご成例せいれい沿りてこれを混合こんごうし、つい岐異きいあるにいたれるか。

劉昭りゅうしょう范書紀伝はんしょきでんちゅうするはつたわらず司馬志しばしちゅうするはひとつたわる
梁書文学劉昭伝りょうしょぶんがくりゅうしょうでん』に、しょうは『後漢同異ごかんどうい』をあつめ、もっ范曄はんようしょちゅうす、博悉はくしつしょうす。范書はんしょなし、ちゅうするところ紀伝きでんなり。その八志はっし注補ちゅうほするに、べつ自序じじょあり、いわく「司馬続書総しばぞくしょそうじて八志はっしす」と。またいわく「徒懐纉緝とかいさんしゅう鉤遠こうえんず、すなわ旧志きゅうしりてちゅうもってこれをおぎなう、狭見寡陋きょうけんかろうにして博遠はくえんおなじからず、そのところいたりて、わずか論列ろんれつし、かちて三十巻さんじっかんし、もっ范史はんしがっす」と。斉工せいこうもとむれば、その本伝ほんでんに「注范書百八十巻ちゅうはんしょひゃくはちじっかんあつむ」とあるは、かなら紀伝志きでんしあわせてうなり。王鳴盛おうめいせいは「章懐しょうかい諸儒しょじゅ詔集しょうしゅうしてとも范書はんしょちゅうせしむ、劉昭りゅうしょう旧注きゅうちゅう襲取しゅうしゅするをまぬかれず」とう。また「紀伝きでんちゅうするはやすく、ちゅうするはかたし、なんけておもむく、ゆえにはなお昭注しょうちゅうもちゆ」とう。司馬彪しばひょうの『続漢書ぞくかんじょ』は紀伝伝きでんでんわらずして志独しひとつたわり、劉昭りゅうしょう注范書ちゅうはんしょ紀伝伝きでんでんわらずして司馬志しばしちゅうするはひとつたわる、も亦た一異いちいなり。の本の司馬志しばしは、毎巻均まいかんひとしく「劉昭注補りゅうしょうちゅうほ」とだいし、原序げんじょうしなわず。殿本でんぽんすなわち「注補ちゅうほ」を「補注ほちゅう」にゆ、ゆえ王氏おうしきわめてこれを詆諆ていきし、而して銭大昕せんたいきんも亦たその本来ほんらい面目めんぼくうしなうあるをそしる。

注語ちゅうご正文せいぶん附伝ふでん跳行ちょうこうするはひとしくあやまりなり
郭太伝注かくたいでんちゅう」に、はじ太始たいはじめて南州なんしゅういたり、袁奉高えんほうこうよぎりて宿しゅくせずしてり、叔度しゅくどしたがいて累日るいじつまでらず。あるいはたいうをもってす、太曰たいにわく「奉高ほうこう、これを氾濫はんらんたとう、きよくしてやすし。叔度しゅくど汪汪おうおうたること千頃せんけいのごとし。これをますもきよからず、これをみだすもにごらず。るべからざるなり」と。すでにしてたしてしかり。たいはこのをもっ天下てんかかするの七十四字しちじゅうよんじは、もと章懐しょうかい謝承しゃしょうの『しょ』のくものとす。監本汲古本殿本かんぽんきゅうこほんでんぽん皆正文みなせいぶん列入れつにゅうす、の本はひといならず。銭大昕せんたいきんおもえらく「かつ南宋本及なんそうほんおよ明嘉靖已酉福建本みんかせいいきゆうふっけんほんるに、皆誤みなあやまらず。おそらくはかなら旧本きゅうほんよりづるなり」と。また以下左原茅容孟敏庾乗宋果賈淑史淑賓黄允謝甄王柔いかさげんぼうようもうびんゆじょうそうかかしゅくししゅくひんこういんしゃけんおうじゅうおよび其弟澤諸人そのていたくしょにんは、皆太みまたい奨抜しょうばつするところる、ゆえに「これに篇末へんまつあらわす」とう。今時こんじほん一一跳行いちいちちょうこうし、こと附伝ふでんていがっせず。かつそのしたになお張孝仲范持祖召公子許偉康司馬子威等ちょうこうちゅうはんじそしょうこうしきょいこうしばしいとうあり、また王柔兄弟おうじゅうけいていのちにあり、すなわ本伝ほんでん所謂いわゆる皆鑒みなかんがみるところのごときもの」なり。その文気聯貫ぶんきれんかんしてくだる、ゆえ跳行ちょうこうまことあやまりなり。

劉攽りゅうふんかんするところ誤字誤ごじあやまらず
昔人范書せきじんはんしょ校勘こうかんするに、そう劉攽りゅうふんよりつまびらかなるはなし。『宋史そうし』に「攽史学ふんしがくふかく、『東漢刊誤とうかんかんご』をつくり、ひと称頌しょうしょうするところる」とう。の本は劉氏りゅうしゆびさところあやまりに、ひとしくえず、あるいはすなわ刊誤かんごりて改正かいせいす、さもなくばところの本、劉氏りゅうし所見しょけんそとづるか、いまるべからざるなり。たとえば
光武帝紀こうぶていき建武九年初けんぶきゅうねんはじめて青巾左校尉官せいきんさこういかんき、十五年復じゅうごねんまた屯騎長水射声三校尉官とんきちょうすいしゃせいさんこういかんき、十九年復じゅうくねんまた函谷関都尉かんこくかんといき、また列伝第九耿国伝れつでんだいきゅうこうこくでんに「つい度遼将軍とりょうしょうぐんく」は、の本のつの「」の字劉氏じりゅうし所見均しょけんひとしく「」にあやまる、ゆえひとしく「よろしくすべし」とう。
明帝紀めいていきも、亦たた「是歳更賦ぜさいこうふ」なり。ちゅうに「当行とうぎょうする者往ものいくべからずしてすなわかえり、りて一歳住いっさいじゅうす」と。是の本の「じゅう」の字劉氏じりゅうし所見しょけんは「にん」にあやまる、ゆえに「因任一歳いんにんいっさい」とう。案ずるに「にん」はまさに「じゅう」とすべし。