内藤湖南「晋寫本三國志呉志殘巻跋」

■内藤湖南「晋寫本三國志呉志殘巻跋」の読み下し比較 拙訳とGoogleGemini訳■

・細字は左右両訳の主な異同にかかる私見。
・クリーム色網掛けは原文。
拙訳 Google Gemini
自西域墟墓石室出古簡牘巻袠漢晉人手跡皆得目睹於二千載之下但其巻袠率多佛經至于經史百無一二余遍閲内外収儲其乙部最古之本爲瑞典人歇丁博土所獲於樓蘭廢墟戰國策燕策斷簡小隷書止七行余睹諸獨國萊不窒古典館蓋漢魏間書也
西域墟墓ノ石室自リ出シ古簡牘巻ハ袠(?)漢晉人ノ手跡ナリ。皆二千載之下ニ於ヒテ目睹(よく見る)スルヲ得。但ダ其ノ巻ハ袠率多ク、佛經カラ經史ニ至于ルマデ、百ニ一二無シ。余ハ内外ニ収儲(タクワエ)ラレシ其乙部ヲ遍ク閲スルニ、最古之本ヲ瑞典人歇丁博士ガ樓蘭廢墟ニ於ヒテ獲ル所ノ戰國策 燕策 斷簡、小隷書七行ト爲ス。余ハ獨(逸)國萊不窒古典館ヲ諸睹ルニ、蓋シ漢魏間ノ書也。
・巻袠(かんちつ)は書物と書物を保護する覆い。 ・率はおおむねが是。 ・諸は「もろもろ」より「これ」が適切か?
西域の墟墓きょぼ石室より古簡牘こかんとく巻袠かんちつ漢晉人かんしんじん手跡しゅせきを出し、皆二千載のもと目睹もくとすることをただ其の巻袠はおおむね多くは佛経にして、経史に至りては百に一二も無し。余あまねく内外の収儲しゅうちょけみするに、其の乙部いつぶ最古の本は、瑞典スウェーデン歇丁ヘディン博士の楼蘭ろうらんの廃墟に於いてる所の『戦国策』燕策の断簡なり。小隷書しょうれいしょにしてとどまりて七行、余諸(之)を独国ドイツライプツィヒ古典館にたり。蓋し漢魏間の書なり。
在我邦則武居君所藏三國呉志虞翻陸績張温傳殘巻隷書八十行晉人書出於吐魯蕃土中爲王陶盧樹枏所獲既歸戈齋白堅白堅再歸之於吾友武居君是二本者實爲宇内無上祕笈矣
我ガ邦ニハ則チ武居君所藏ノ三國呉志虞翻陸績張温傳殘巻隷書八十行在リ。晉人ノ書ハ吐魯蕃土中於リ出、王陶盧樹枏ノ獲ル所ト爲ルモ、既ニ戈齋白堅ニ歸ス。白堅ハ再ビ之ヲ吾ガ友武居君ニ於ヒテ歸ス。是ノ二本者實ニ宇内(天下)無上ノ祕笈ト爲ス矣。 我がくにに在りては、すなわち武居君の蔵する所の『三国呉志』虞翻ぐほん陸績りくせき張温ちょうおん伝の残巻、隷書八十行なり。晉人の書にして、吐魯蕃トルファンの土中よりで、王陶廬おうとうろ樹枏じゅぜんる所となり、既に戈齋かさい白堅はくけんに帰し、白堅はくけん再びこれを吾が友武居君に帰せり。の二本は、実に宇内うだい無上の祕笈ひきゅうたり。
古本呉志與今本異同之處陶盧嘗擧三十三事然尚有遺漏者陸績傳志存儒雅今本存作在
古本呉志與今本ノ異同之處ハ、陶盧嘗ツテ三十三事ヲ擧グ。然レドモ尚ホ遺漏有リ者。陸績傳〔志存儒雅〕、今ノ本ニハ存ヲ在ニ作ル。 ・「遺漏有リ者」は右欄の如く「遺漏する者有り」が適。 古本『呉志』と今本こんぽんとの異同のところ陶廬嘗とうろかつて三十三事を挙げたれども、しかれども遺漏いろうする者有り。陸績伝に「志存儒雅(志、儒雅に存す)」、今本「存」を「在」にす。
張温傳故屈卿行今本故上有以字又有校語誤者陸張二傳皆云呉郡呉人也元刻本毛刻本並與此同陶廬謂今本陸傳刪呉郡二字張傳呉郡下刪呉字者未必然也
張温傳〔故屈卿行〕、今ノ本ニハ故ノ上ニ以ノ字有リ。又校語ノ誤マレル者有リ。陸(績)張(温)二傳、皆〔呉郡呉人也〕ト云フ。元刻本、毛刻本並ビテ此與(ト)同ジ。陶廬ハ今ノ本ノ陸(績)傳ハ呉郡ノ二字ヲ刪リ、張(温)傳ハ呉郡ノ下ノ呉字ヲ刪ル者、未ダ必然ナラザル也ト謂フ。 ・「謂フ」は文末ではなく右欄の如く「陶廬の謂える」と読むべきか。 張温伝に「故屈卿行」、今本「故」の上に「以」の字有り。又た校語こうごの誤れる者有り。陸・張二伝にみな「呉郡呉人也」と云う。元刻本・毛刻本ならびにこれと同じ。陶廬とうろえる「今本の陸伝に呉郡の二字をけずり、張伝の呉郡の下に呉の字を刪る」という者は、いまだ必ずしもしからず。
又虞翻傳翻子竦今本作聳陶廬以古本爲筆誤張傳功冒普天今本普作溥陶盧謂宜從古本則太拘古字通用者不須改也
又虞翻傳〔翻子竦〕、今ノ本ハ聳ニ作ル。陶廬ハ古本ヲ以テ筆誤ト爲ス。張(温)傳〔功冒普天〕、今ノ本ハ普ヲ溥ニ作ル。陶盧ハ宜シク古本ニ從ヒテ、則チ太、拘、ノ古字通用スル者須ラク改メ不ル也ト謂フ。 ・「太、拘、ノ古字通用スル」は意味をなさない。「太」にはなはだの意あるを知らざる故の不備。 又た虞翻伝に「翻子竦(翻の子、竦)」、今本「しょう」に作る。陶廬とうろは古本を以て筆誤と為す。張伝の「功冒普天」、今本「普」を「」に作る。陶廬とうろよろしく古本に従うべしとうも、すなわはなはだ泥す。古字の通用する者は、必ずしも改むるをもちいざるなり。
虞傳竦越騎校尉晃諸本作昺廷尉今本聳越騎校尉下有累遷廷尉湘東河間太守十字昺廷尉下有尚書濟陰太守六字陶廬以爲古本闕文者非也按錢辛楣三國志考異云河間濟陰二郡不在呉封内蓋入晉以後所授官也於史例不當書今此古本於辣官不書廷尉湘東河間太守於晃官不書尚書濟陰太守乃陳承祚原文如此可知今本有後人附加者也
虞(翻)傳〔竦越騎校尉晃諸本作昺廷尉〕、今ノ本ハ聳越騎校尉ノ下ニ〔累遷廷尉湘東河間太守〕十字有リ。〔昺 廷尉〕ノ下ニ〔尚書濟陰太守〕ノ六字有リ。陶廬ノ以テ古本ノ闕文ト爲ス者非也。按ズルニ錢辛楣ノ三國志考異ハ河間濟陰ノ二郡ノ呉封内ニ在ラ不ト云フ。蓋シ晉ニ入リテ以後、授ケラレシ所ノ官也。史例ニ於ヒテ書ク當カラ不。今此ノ古本ハ〔辣官〕ニ於ヒテ〔廷尉湘東河間太守〕ト書カ不、〔晃官〕ニ於ヒテ〔尚書濟陰太守〕ト書カ不ル。乃チ陳(壽)ノ承祚セル原文ハ此クノ如キト知ル可シ。今ノ本ハ後人ノ附加スル者有ル也。 ・「諸本作昺廷尉」は引文ではない。右欄のごとく読むべし。 虞伝に「竦越騎校尉晃しょうえつきこういこう」、諸本しょほんに「昺廷尉へいていい」に作る。今本は「聳越騎校尉」の下に「累遷廷尉湘東河間太守」の十字有り。「昺廷尉」の下に「尚書済陰太守」の六字有り。陶廬とうろ以て古本を闕文けつぶんと為す者は、なり。あんずるに銭辛楣せんしんびの『三国志考異』にわく、「河間・済陰の二郡は呉の封内に在らず。けだし晉に入りて以後授けらる所の官なり。史例に於いてまさに書すべからず」と。今此いまこの古本、しょうの官に「廷尉湘東河間太守」を書せず、こうの官に「尚書済陰太守」を書せざるは、すなわ陳承祚ちんしょうそ原文くのごときなり。今本に後人の附加する者有るを知るべきなり。
史記賈生傳書誼孫嘉至孝昭時列爲九卿事前史徃徃有此例 武居君已獲此本後白堅復獲其殘簡十行歸諸中村不折乃虞翻傳文宜接此本前余獲其照片因臨寫于左方使讀此本者得併孜焉
史記賈生傳書誼孫嘉〔至孝昭時列爲九卿〕ノ事、前史ニ徃徃ニシテ此クノ例有リ 武居君ノ已ニ此本ヲ獲タ後、白堅ハ復タ其殘簡十行ヲ獲ルモ、中村不折ニ歸ス。乃チ虞翻傳ノ文ハ宜シク此ノ本ノ前ニ接グ。余ハ其ヲ獲テ片ト照ラシ因ッテ左方于臨寫シテ此ノ本ヲ讀マ使ムル者、併孜ヲ得ムトスルモノ焉。 ・「誼孫嘉」の「誼」は【賈生名誼】とあるにより賈生の名。【索隱】名義。漢書並作「誼」也と注す。「嘉」は賈生の孫「賈嘉」。 ・「歸諸中村不折」の諸を右欄は訳してないが前例に倣い「これ」と読むべし。則ち「これを中村不折に歸す」。 ・照片は写真のこと。右方のGeminiの書き下しが適切。 『史記』賈生かせい伝に「しるすらく、孫嘉まごか、孝昭の時に至りて列して九卿と為る」と。前史ぜんし往々にしての例有り。武居君すでに此の本をる後、白堅た其の残簡十行を中村不折なかむらふせつに帰す。すなわち虞翻伝の文にして、よろしく此の本の前に接すべし。其の照片しょうへんりて左方に臨写りんしゃし、此の本を読む者をしてあわせてかんがえしむ。
昭和五年八月 内藤虎書於恭仁山荘之漢学居
昭和五年八月 内藤虎書 於 恭仁山荘 之漢学居 昭和五年八月 内藤虎ないとうとら 恭仁山荘くにさんそうの古典館に於いて書す。
Geminiによるポイント [cite: 5]

内容としては、出土した古写本と現行のテキスト(今本)を比較し、現行本に見られる官職名などが後世の加筆であることを考証した、湖南らしい鋭い文献学的な記録となっています。[cite: 10]