古代天皇論を読む

2021年9月から10月にかけて古代天皇論に関する書籍を何冊か読んだ。書中で引用言及されたものも含めて以下の通りである(敬称略)。特に永年の懸案であった津田左右吉、所謂「津田史観」を読まねばと『古事記及び日本書紀の研究』を紐解き、自分の認識している古代天皇との関わりについていろいろと思いを巡らせてみたが、戦後の日本古代史界に「津田史観」が想像以上に根を張っていることを知る。というより、一部古代史論の土壌にさえなっているのではないかという印象さえ強く持った。

しかし、津田左右吉の所論自体が師事した白鳥庫吉の古代史観の上に成り立っている以上、到底現代に通用するとは思えない。以下、系統だててはないが、とりあえず古代天皇論についての書籍を読んで感じたツイートをひとまとめにしてページを作成公開した次第である。尚、話があちこち飛んでいるが、それはそれ余興としてとりあえずそのままにしておきたい。

茂木雅博『天皇陵の研究』、日本史研究会・京都民科歴史部会編『「陵墓」からみた日本史』、星野良作『研究史 神武天皇』、安本美典『神武東遷』、古田武彦『盗まれた神話』、安本美典『江戸の邪馬台国』、新井白石『古史通』『古史通或問』、山片蟠桃『夢の代』、松本信広『日本神話の研究』、伊東信雄「古代に於ける国家の発達」『文化』2-5、肥後和男『神武天皇―肇国伝説の形成―』、水野祐『日本古代王朝史論序説』、松前健『日本神話99の謎―神々のパンテオンで何が起こったか―』、原島礼二『大王と古墳』、直木孝次郎「神武伝説モデル論」『歴史読本』H6-4、衛挺生『神武天皇=徐福伝説の謎』『日本神武開国新考』、中沢見明『古事記論』、河出書房新社『新装版 文芸読本 古事記』、津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究』、石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』、久保常晴『日本私年号の研究』、ペリー提督『日本遠征記』、尾佐竹猛『幕末外交物語』、本居宣長『玉勝間』、原島礼二『倭の五王とその前後』、直木孝次郎「継体朝の動乱と神武伝説」『日本古代国家の構造』、『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』、河内春人『倭の五王』、田中卓『古代天皇の秘密』、『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』、田中卓『海に書かれた邪馬台国』、井上光貞「鉄剣の銘文ー五世紀の日本を読むー」『諸君』1978-12、井上光貞「国造制の成立」『史学雑誌』26-11、井上光貞『日本国家の起源』、『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群』、上田正昭『大和朝廷』、水野祐『日本古代王朝史論』、肥後和男『邪馬台国は大和である』、原田大六『日本古墳文化―奴国王の環境』、牧健二「神武東征伝説の史実性試論」『史林』1954、遠藤慶太『東アジアの日本書紀』、東野治之「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』1969
神武天皇陵の治定については茂木雅博『天皇陵の研究』第三章 神武陵の治定と修陵(p91-142)に詳細に論述されています。
2021年9月11日 9時55分

日本史研究会・京都民科歴史部会編『「陵墓」からみた日本史』p145-コラム④始祖王陵としての「神武陵」に「寺院」についての記述が。p146

ところで、文久の修陵で「神武陵」に決定されたミサンザイの地は、国源寺と呼ばれる中世寺院の跡地でもあった。(以下詳述)

天武天皇奉献の神武陵は何処に?
2021年9月11日 10時8分

そういえば古田氏は"天皇陵を発掘せよ!"と仰っていましたね。左派の人には受けたかもしれません。それは無理としても、箸墓は何とかなりませんかねぇ、、、
2021年9月11日 10時33分

@sir_manmos 幾つかあるようですが、一番長いのは
やまとととびももそびめ
かと。
2021年9月11日 12時21分

@rarara_roadster おばんです^^

2600年の間に「神武天皇の遺伝子」など1兆分の1以下に薄まってるでしょうね。その余の99.999999999%以上は別の遺伝子が混じっているわけですし、、、

1兆分の1以下の遺伝子がそんなに有り難いものなのか?

hy注)「1兆分の1以下」は比喩的表現で実際はこれより遙かに微小。
2021年9月11日 13時30分

そもそも高天原から天降ってきた邇邇芸命の子孫ですから、生物学的なホモサピエンスと理解するのは不可能でしょう。そのような伝説がある!ということが基本だと思いますし、史実性を争っても無意味な立場の方々なんだと思います。つまり学問外に属することで、思想信条宗教的な位置づけかと。
https://twitter.com/soOuR12EJrvSBUY/status/1436359412550029315?s=20
2021年9月11日 13時46分

@sir_manmos 『書紀』倭迹々日百襲姫、倭迹々姫
『古事記』夜麻登登母母曾毘賣

原田大六『邪馬台国論争 下』p408-409より
2021年9月11日 13時53分

なお、神武天皇についての一般向けの本としては吉川弘文館刊、星野良作『研究史 神武天皇』が読みやすく、大いに参考になります。もう少し具体的な仮説としてお奨めなのが安本美典氏の中公新書『神武東遷』。ただし、当否の判断は自己責任ということに。
2021年9月11日 13時59分

『研究史 神武天皇』にも神武陵について解説してあり、p42では、さきほどご案内した国源寺についても言及してあります。壬申の乱の頃には神武陵なるものが大和のどこかにあったことは恐らく事実でしょう。伝説上の始祖を顕彰する施設だったのかも知れません。
2021年9月11日 14時6分

同書には巻末に数百に上る参考文献等が列記してあり、神武天皇にかかる先人の研究成果の殷賑なる様を窺うことが出来ます。世人が風聞の域を出ない情報で甲論乙駁しても、重要なテーマにおける議論に資するところは少ないものと考えます。
2021年9月11日 14時16分

@mama0331 おはようございます。
>神武天皇が埋葬されてるかどうか
江戸時代に神武陵の治定をする際、候補地が3箇所あったんですが、最終的に〝神武田(じぶた)〟という伝承地に選定されました。「神武」が決め手だったのか?(続く)
2021年9月12日 1時46分

@mama0331 しかし神武という漢風諡号は8世紀中に淡海三船が撰上したとされますから、天武天皇の時代も神武という称号はなかったわけです。天武紀にも〝神日本磐余彦〟として記されていますから。天武から(伝承上は)1300年前の存在である神武天皇の陵が正しく伝わっていたのか?甚だ疑問です。(続く)
2021年9月12日 1時49分

@mama0331 事実、中世にあっては神武陵の存在は殆んど忘れられており、江戸時代に入ってから学者等によって神武陵再発見の動きが活発になり幕末の修陵につながることになります。

よって現在地の神武天皇陵は幕末に定められ整備されたもので歴史的にはほぼ裏付けがないと見ていいんだと思います。(続く)
2021年9月12日 1時54分

@mama0331 しかし、歴史的な裏付けの有無は天皇制を国の根幹に据えようとする考え方においてはさしたる支障にはならないんだろうと思います。

国民がそのような考え方をどこまで容認するか、ボールは主権者たる国民の掌中に握られているんでしょう。そのボールを投げ返す数少ない機会が、もうすぐ訪れます。
2021年9月12日 2時0分

@nemurikappa @mama0331 いえ、知りませんでした。難しい問題ですね。随分昔の話ですが、丸の内のビル群も皇居を「見下ろすのは恐れ多い」ということで高さについての〝自粛〟があったとか。今では、そんなこと言う人もいないんでしょう。一方で、陵墓の誤った治定の放置もありそうで、天皇より明治が大切なるが如くです。
2021年9月12日 4時42分

@nemurikappa @mama0331 平安時代でしたか、神功皇后陵の治定を誤っていたため山鳴りがし、あわてて真陵への治定替えをしたとか言う話もありました。皇統への畏怖の念は、古代のほうが余程純朴だったのではないかとさえ思えます。
2021年9月12日 4時48分

1980/8/9毎日新聞
奈良の見田・大沢遺跡 三種の神器?3世紀前半 鏡、玉、剣セットで出土

「弥生時代と古墳時代の接点の古墳から三点セットの副葬品が現れたのは全国でも初めてのことである。
「大和高原の丘陵の一角にあり〝神武天皇東征〟のルートとして神話に含まれている。

今日の評価や如何?
2021年9月12日 6時8分

@nemurikappa @mama0331 その辺りの話になると皆目わかりません(-_-;)

こんにちてき風潮として、古代天皇制と明治以降の天皇制とを同日に議論しているような印象があるんですけど、、、そこんとこきちんと区別して取り扱ってほしいものだと思います。
2021年9月12日 9時10分

>明治前期の民権家
呉の太伯始祖説のことでしょうが、これは南北朝期の禅僧中巌円月の皇祖太伯説が起源のようです。これを江戸時代の林羅山以下が発展批判させて説として一定の地歩を得ます。元は『魏略』他に見える倭人呉太伯後裔説。他に徐福渡来に因む説も。詳細は星野良作『研究史 神武天皇』を。
https://twitter.com/ShinHori1/status/1437196472550768647?s=20
2021年9月13日 4時13分

中巌円月の皇祖太伯説成立に最も影響したのは、宋の金履祥(1232-1303)が著した『資治通鑑前編』(呉滅亡条)によるもので原文を引けば【今日本國亦云呉太伯之後蓋呉亡其子孫支庻入海為倭也】です(中國哲學書電子化計劃)。
2021年9月13日 4時18分

前ツイ出典は前掲書p2-3。
2021年9月13日 4時24分

私的には皇祖太伯説だった林羅山も幕府儒官としては以下の如く。

本邦は元是霊神の国なり。何が故に妄りに彼を取て祖と為んや

幕府への忖度。
2021年9月13日 4時35分

前ツイ出典:前掲書p17

「霊神の国」の祖を他国に求めるは不可!という姿勢なんでしょうが、ではどこから?『記紀』に拠るならば高天原から天孫降臨した邇邇芸命の子孫。高天原は現実世界に非ざれば遂に人皇神武天皇の出自や果して如何?という永遠に解けないパラドックスに陥ることに。
2021年9月13日 4時42分

世界の王室で、その始祖を神話に求めているところがどれくらいあるのか?調べたことがないので何とも言えませんが、日本に近いケースはある?

教科書で習ったところでは、王権神授説なんてのがありましたっけ。しかしこれは始祖なのかどうか?
2021年9月13日 4時47分

邪馬台国はどこにあったか?はヤマト(纏向)説がかなり有力ですが、高天原とは何か?という問題は、邪馬台国より遥かに難問のよう。

具体的に地名比定している説としては、
・安本美典氏の甘木朝倉説
・昔読んだ記憶がある琵琶湖説
・根拠不明ながらあったような説としてヤマト説
2021年9月13日 4時52分

古田説については恐らく第3書『盗まれた神話』で述べてあると思いますが、どなたかご存じの方のご教示に待ちたいと思います。
2021年9月13日 4時54分

@ArisatoCovtha ありがとうございますm(_ _)m
なんかそんな感じでしたね。で、高天原の神々と神武天皇はどのようなつながってるんでしょうかねェ、、、

あ、自分で読むべきでした。スミマセン、、、
2021年9月13日 5時7分

@ArisatoCovtha (本読んでたらうたた寝してしまった)
・根拠不明ながらあったような説としてヤマト説
については『研究史―』に取り上げてました。大和恢弘説として天照大神の神都を大和に求める考え。パズルのようで難解。他に高天原常陸説も。同書p29-31あたり。
2021年9月13日 7時23分

@ArisatoCovtha 高天原を大和と考えるにしても、じゃ天照大神らはどこから来たか?という問題は解決できず。そもそも天御中主や国常立命はどう位置づけるのか?という問題に遡求してしまいます。

近景は実写ながら遠景は特撮という映画もありました。どこからが両者の境目か?観客にはわからない。
2021年9月13日 7時30分

@ArisatoCovtha 「ベン・ハー」で奴隷となってガレー船での海戦に遭遇し難破するも提督を助け、遂にローマに帰還して皇帝に謁見するシーン。前景は当然実写ですが、広大な広場の遠景は特撮のようでした。どこからが境目なのか?画面が動いているので見分けることは不可。
2021年9月13日 7時36分

@ArisatoCovtha 今読んでる本のp32に、

神武東征はもとより史実でないが、

との一節が。史実と架空の仕分けが大変です(・・;)
2021年9月13日 7時38分

@ArisatoCovtha 其天たるの所以に至ては聖も又知りやすからず、これ其事を神にしてこれを秘するがためにはあらず。我国の皇統の天地と共に悠久におはします故も又、神にして秘する事により給ふべきにはあらず。〈続く〉
2021年9月13日 7時51分

@ArisatoCovtha p33、新井白石『古史通』から引き

其事を神にしてこれを秘するは天統を尊ぶ義也といふべけれど、其民を愚にして自ら尊大にするは秦の二世にして滅びし所也。天之昭々たるは、横目之民望で視ずといふものなし。〈続く〉
2021年9月13日 7時51分

@ArisatoCovtha と見え、古代史の神秘化について強く反対している。〈中略〉むしろ神道家が「我国の皇統の」淵源を「神にして秘する事」に対する正面からの批判であったのである。〈引用終わり〉

明治になり逆行していると考えていいんでしょぅ。
2021年9月13日 7時52分

@ArisatoCovtha p34

まず白石は前述のように高天原常陸説を主張する。(『古史通』『古史通或問』)

これを理解するのは難儀そう、、、(~_~;)
2021年9月13日 9時35分

@ArisatoCovtha 藤貞幹、本居宣長、山片蟠桃と次々に出てきて目も虚ろ、、、(◎◎;)
2021年9月13日 9時43分

@ArisatoCovtha 山片蟠桃『夢の代』は安本氏の『江戸の邪馬台国』に一部紹介されていたような、、、p38

本書「神代第三」で展開された神代批判は近世の最高水準を示し、近代の合理的古代史研究の先駆をなすだけでなく、現代の批判にすら耐え得る内容を維持しているのである。

うーん、、、
2021年9月13日 9時47分

@ArisatoCovtha p38「応神ヨリハ確実トスベシ」

蟠桃はすでに、確実な天皇は応神にはじまるとする観方をとっていたのである。この考えはこんにちでも一説足りうる。

文字や暦のない時代のことなど信じられるかっ!と。
2021年9月13日 9時53分

@ArisatoCovtha いつの世も、学者というものはすごいものです(たぶん)!
2021年9月13日 9時55分

@ArisatoCovtha p39、山片蟠桃曰く

ユヘニ神武ヨリ千年ホドノ間ハ神代ノ名残ニテ、史ニハイカニ載タリトモ、ミナコトラヘゴトナリ。勿論、神代ノコトハ猶サラニ夢ノゴトシ。

神武天皇から千年くらいは創作だと。明治時代にこんなこと言ったら学会追放されかねない?
2021年9月13日 9時59分

@ArisatoCovtha 一方で、

日本神代ト云モノ、空虚ノ論ニシテ云ニタラズ。大テイ神武ノ東征以後ヲ実トスベシ。

として、「一定の史実が含まれている」(星野)とも。
2021年9月13日 10時3分

@ArisatoCovtha p40

日本最初の地動説承認者でもある山片蟠桃にしてはじめて、このような科学的な考察にいたり得たのであると考えられる。

へえ~、そうなんだ!
2021年9月13日 10時6分

@ArisatoCovtha 同頁

すなわち、羅山、白石、そして貞幹にみられた合理的な、異端の建国観の系譜は、蟠桃において結実したことを知るのである。

彼等と議論して勝てる現在の右派政治家っていないでしょうね。
2021年9月13日 10時10分

@ArisatoCovtha 情報ありがとございます!学問の自由は江戸時代のほうがあったようですね。
2021年9月13日 11時23分

@nemurikappa 元号にしろ神武にしろ、この日本にはものすごい論客がいて、息を潜めつつ獲物を待ち構えているってことを知らない政治家や著名人が少なくないような気がしています。

ただ、彼等論客は獲物の美味い不味いをよく知っているので、不味くて栄養のない獲物には襲いかからないようです。

(ねえ、、、)
2021年9月14日 7時33分

@ArisatoCovtha 『研究史 神武天皇』p80〈要約〉

慶応元年(1865)8月、全体が終了した文久の修陵の総費用は22万両ほど、うち神武陵(文久3年5月着工12月完成)で15,062両1分2朱でずば抜けて高額。傾いた幕府を公武合体により立て直そうとして行われたもの。

数年後には江戸幕府崩壊!トホホ(+_+)
2021年9月14日 13時41分

@ArisatoCovtha p81から紀元節について。いっそうややこしくなって速やかなる理解は不可。2月11日に撰定された件について詳述してあり、Wiki/紀元節と併せて読めば、ますますこんがらがって脳内麻のごとく乱れ、、、

無理に理解しようとしないのが身のためかも、、、
2021年9月14日 14時15分

『研究史 神武天皇』神武紀年論あたりを読み進めていますが、皇紀2600年などというものも、結局は中国の讖緯思想に基づく辛酉革命説によって定められたんですよね。どうやっても中国文明圏の軛からは抜け出せないようで、、、

和魂洋才、土台は中華!

と書いてる文字も漢字とそれから派生したカナ。
2021年9月15日 5時17分

昭和天皇の「終戦の詔書」も漢学者の起草だったとか。非常に格調高い文ですね。つまり明治国家では漢学は尊重されていたんでしょう。戦後、欧米の価値観が基本に据えられたのはいいとしても、中国へのリスペクトは衰え、一部に嫌中の風潮さえ。

米中は日本にとって最大の貿易相手国。勿忘却!
2021年9月15日 5時28分

『研究史 神武天皇』p123 三宅米吉「年代考ト国体」

我レト異ナル行為ヲナスモノハ、皆忠臣愛国者ニアラズト思フハ誤レリ。我レト全ク反対ノ事ヲナス者卜雖、其ノ精神ニ於テハ至誠至忠ノモノアラン。余輩年代考ノ問題ヲ提出セル豈意ナカランヤ。〈続く〉
2021年9月15日 6時39分

抑今後我ガ国人ヲシテ史学ヲ研究セシメ之ヲ愛セシムルノ方法如何。歴史ヲ知ラザルモノハ国ヲ知ラズ、国ヲ知ラザルモノ豈国ヲ愛スルノ情アランヤ。愛国ノ精神ハ史学ノ研究ヨリ起コル。

那珂通世「日本上古年代考余論」への反発批判。学者同志の空中戦の様相!
2021年9月15日 6時41分

p146

白鳥庫吉「邪馬台国について」
神武東征は大和への帰還
天照大神の時すでに大和に都があったのである。而してこの大和に都されたといふことが、既に大和朝廷の勢力の強かったことを知るのである。

掲示板でこんな発言したら、集中砲火浴びるかも(・・;)
2021年9月15日 9時29分

夫故九州の南に天孫三代が居られたといふことは、熊襲を征伐されたことと見るべきである。神武東征は大和に帰られたことである。即ち大和が高天原になったのである。

理解困難。傍に以下の如く朱書き。
「なぜ戦って大和に入らねばならぬのか?

36年前の自分のツッコミに同感!
2021年9月15日 9時32分

p147

これによれば白鳥は、史実としての神武東征は考えようがなく、これを熊襲征伐より大和への帰還の反映とみたのである。換言すれば東征物語は、大和朝廷の九州平定によってつくり出されたものとする見解なのである。

河内で敗れて紀伊半島山中を経巡ったことは、どう説明する?
2021年9月15日 9時36分

p147から肥後和男氏が登場。「人の世は崇神天皇より始る」とし、神武天皇を崇神の過去因と。これも反映説なんでしょう。神武の始馭天下之天皇、崇神の御肇国天皇を取り上げます。

p148(肥後は)「神武を崇神の反映と断じたのである。
2021年9月15日 9時46分

p149

松本信広氏は『日本神話の研究』の中で
「日向は、やはり日に向かうという名称から、天孫降臨の地にえらばれたのである
「白鳥、津田の諸博士が解釈されたように、九州のまつろわぬ部族を帰順せしめるため、天孫の日向降臨の神話が利用されたという考えが、この場合正当らしい

理解不能。
2021年9月15日 9時55分

「九州のまつろわぬ部族を帰順」は実際に景行や神功や倭建によって行われたと伝えられているけど、その物語中には「天孫降臨」など全く窺えない。それどころか、景行が日向巡幸した際は、なんら天孫降臨の地なる感慨も示さず、ただ大和を偲んでいる。

つまり、景行の時代までは天孫降臨説話など無!
2021年9月15日 9時58分

p151伊東信雄「古代に於ける国家の発達」

およそ歴史の研究に取っては、確実なる史料に準拠することが第一の問題である。〈中略〉古代社会、特に四世紀以前の社会の研究には、古代人によって遺されたる遺物遺跡と当時支那人によって記された比較的確実なる文献に、主なる資料を求めなければならない。
2021年9月15日 10時9分

同稿は昭和10年5月『文化』2-5収載。

戦後の古代史研究の基本的スタイルの先駆けのよう。
2021年9月15日 10時10分

p152

肥後和男氏は、戦後に著した『神武天皇―肇国伝説の形成―』(s27.3弘文堂刊)で、先の「大和闕史時代の一考察」に関して、「当時そろそろ国家主義がさかんになろうとした頃であったために、こんな論文を書いたらあぶないぞという忠告をうけた」と回顧しているが〈以下略〉
2021年9月15日 10時17分

『研究史 神武天皇』を過半読み進んでフト思うこと:

数多く想定されるであろう神武伝説のモデルの一つとして、神武≒倭国王帥升(先行説あり)ってのが立候補できそうな気がしてきました。候補者は多いほうが賑やかでいいかも(^^;)
2021年9月15日 14時55分

前掲書p194
紀元二千六百年祭は、たしかに、「ある意味で旧大日本帝国の最後の光栄を示すものであった」(植村清二、前掲書=『神武天皇』s32.12至文堂刊)」が、同時にそれは、科学的な神武研究を体制的に圧殺することによって構築された虚像であったことを確認しておかなければならない。〈続く〉
2021年9月16日 1時35分

かつて神武天皇は、明治天皇をモデルとしてそのイメージを与えられたが、紀元二千六百年祭における神武は、昭和(戦前)の天皇と二重写しとなって嵐の時代のただ中に立たされたのである。〈引用終わり〉
2021年9月16日 1時36分

神武天皇にかかる数々の研究の片鱗を垣間見るにつけて思うのは、『記紀』にこの物語を文字として記した往古の人たちが天上界で高笑いしているのではないか?ということ。

「お前らにこの謎が解けるのか?どうだ解けまい!この謎を解こうなど千年早いわっ!わっはっはっっっ!なんて、、、
2021年9月16日 1時53分

p208に「ハンガリーの建国神話と神武伝説」という項目が。

マジャール人がアルパート王に率いられて南ロシアからカルパチヤ山脈を越えてハンガリアに進入した時王軍が疲労困憊して一歩も進めなくなった。その時トゥルルturulという鳥(鵄か鷹の種類)が現れて王軍は再び元気を恢復し、〈続く〉
2021年9月16日 2時40分

トゥルルに案内されて目出たくウンガルランドに建国を果たし、アルパートはハンガリア王国第一代の王となった」というハンガリーの建国神話と「神武が熊野から大和に入る時皇軍が昏睡して軍が進まなかった時、ヤタ烏が現れて皇軍を東導し、めでたく大和の地に建国が成就した」〈続く〉
2021年9月16日 2時41分

という物語の構想とほとんど同一であるということを意味している。〈引用終わり〉

日本神話と世界各地の神話とが共通していることは他にも例があります。天照の天の岩戸隠れも類例がありました。こう考えると神武東征伝説も〝天ぷらの衣〟かもしれません。もちろん天ぷらの〝ネタ〟はあるのかも。
2021年9月16日 2時43分

アルパート王がハンガリアに進入したという話が史実なのかどうか?埒外のことで全く分かりませんが、ほぼ史実であり「トゥルルturulという鳥」の話が潤色だとしたら、神武東征説話にもある程度の史実の〝核〟があったということになり、取り扱い注意かも知れません。
2021年9月16日 2時47分

Wiki/アールパードで出てました。読んでみましょう。
2021年9月16日 2時53分

@tPg2BSD2el0IqMg ご案内、ありがとうございます。そう言えば『風土記』には神武天皇が出てこないような気がしますが、、、手が空いたらちょっと調べてみましょう。取り急ぎ御礼までm(_ _)m
2021年9月16日 4時24分

アルパート王について言及しているのは岡正雄氏。
2021年9月16日 4時34分

戦後の神武天皇論に進んで水野祐氏が登場。s27-29(増訂)『日本古代王朝史論序説』におけるその空想力は、その約20年後登場する古田氏の九州王朝説を上回ると言っても過言ではないかも。
2021年9月16日 5時35分

昔も今も水野氏の仮説は空想的だと思う点は自分の中で変わっていないとは思いますが、以下のような記述は今改めて読むに刮目すべきものを感じます。即ち、

神武が崇神より分離して完全に実在の人物のように説かれるにいたったのは、「天武朝以後、持統天皇文武天皇」のころとみなし〈以下略〉p219
2021年9月16日 5時38分

『記紀』編纂の直前の時点に神武伝説成立を置こうとするのはそれまでの研究史から見て画期的といえるかも知れません。水野氏は「仁徳東遷の反映」という趣旨の発言の中で「九州国家」という概念までも採用。これは狗奴国が九州全島を統一して樹立した地方的統一勢力とします。
2021年9月16日 5時49分

あれ?この水野氏の説は原田氏も取り上げてませんでしたっけ?
2021年9月16日 5時53分

水野祐氏といえば三王朝交替説として有名で、江上波夫氏の騎馬民族説と並ぶ大胆な仮説構築が印象に残っていますが、いま『研究史―』に引かれる要約を読むにつけ、当今支持を得るのは難しいのではないかという気がします。ただ、一般の読者を引きつけるであろう魅力は小さくはないのかも知れません。
2021年9月16日 6時0分

昨日、「つまり、景行の時代までは天孫降臨説話など無!」と書きましたが、水野氏の言われる如く仲哀・応神・仁徳以降~天武・持統・文武あたりまでの間に神武伝説創成時期を置くならば上述の疑問点は解消することになります。
2021年9月16日 6時3分

前掲書p221-222

水野氏は論文の最後に、
神武天皇に関して述べなければならぬ事項は尚幾多の重要な課題を残してゐる。けれども此天皇が、全く実在の天皇に非ずして、凡て伝説史上に於いて、天武天皇の壬申の乱前後の時期における、万世一系的皇統思想の確立期に、〈続く〉
2021年9月16日 6時20分

吾皇室の始祖として天武天皇の行動を主たる説話のモチーフとして表出し、誕生せしめられた天皇であること、従つて此天皇に関する所伝の凡てが、崇神天皇の書紀で言へばその四年紀以前に相当する部分の伝承と、仁徳天皇の大和遷都伝説及び其他若干の伝説とを結合して、〈続く〉
2021年9月16日 6時21分

天武天皇の性格及行動をモデルとしつつ、新たに編成せられたものであるとする私の見解の、文献批判に基く実証として掲げ得べきものの凡ては茲に略々尽し得たと信ずるので、此論考に於いては神武天皇抹殺論の論拠を明らかにするに留めて置く。
と所論を総括している。〈引用終わり〉
2021年9月16日 6時22分

最近も天武持統両天皇への注目が集まっていことを思えば、戦後程ない時期にこれだけの大胆な仮説を提示する水野祐氏の着眼力、構想力は驚嘆すべきものがありそうです。
2021年9月16日 6時29分

述懐すれば、初めて神武天皇天武モデル説(水野説だったという確かな記憶は無い)を読んだ時、両者の地理的隔絶により全く受け入れられませんでした。

地理的な面は今でも受け入れないのですが、天武天皇が関わりを持っているかも、というイメージは受け入れられそうな、、、
2021年9月16日 6時31分

Wiki/アールパード
ハンガリーの建国神話にはアールパード王が持つ杖の先端に光る鳥が止まり道を示したと言われ、日本神話の『金鵄』との関連としても注目される。

類似の説話は他にもあるかも。
2021年9月16日 6時36分

p241から「神武天皇伝説の形成」として、延々と反映説による諸説を列挙しますが、いずれも〝東征伝説の「核」〟については曖昧模糊としたまま。昔からその有効性に疑問を感じていた反映説が、何の解決ももたらさないことが改めて再認識されることになります。
2021年9月16日 9時9分

p256

ともかく継体朝反映説は、それとして貴重な成果を上げながらも、やはり日向と応神の問題で課題を残したとしなければならない。

ということになります。
2021年9月16日 9時14分

p257では、直木孝次郎「神武天皇と古代国家―神武天皇はいかに作られたか―」から「国家形成の力が西から来たという物語のおこるみなもと」を、応神・仁徳を中心とする勢力が「摂津・河内方面から大和へ進入して」新王昶を樹立した〈以下略〉

星野良作氏が「すこぶる疑問」と批判する通り。
2021年9月16日 9時22分

@ArisatoCovtha ありがとうございます。筋は通っていますね。しかし、神武は男性なのでその点がどうか?
>なぜ日向なのか?
はい。原田大六氏や古田氏は伊都国を天孫降臨の地に想定していますよね。かなり力技のようにも思えますが果して、、、
2021年9月16日 9時25分

@ArisatoCovtha 古墳文化盛行期に新たな勢力が大和に進入したと考えるには、古墳文化の連続性に照らして難があると言えそうです。また、日向が神武伝説ゆかりの地としての候補足りうる一つの根拠は数多くの古墳群が挙げられると思います。なにゆえ日向にはあれほど畿内型古墳が多いのか?
2021年9月16日 9時30分

@ArisatoCovtha この件を知った当初に読んだ説の中に、朝廷につかえていた熊襲隼人の説話が天皇家の伝説として取り入れられたのではないか?というものがあったような記憶があります。謎が一つ消えますが、新たな謎がまた一つ。
2021年9月16日 9時33分

@ArisatoCovtha それは勿論です。ただ前方後円墳自体は箸墓に先行する小規模のものが確認されていますので、ヤマトの権力成立時から前方後円墳体制は開始したんではないかと個人的には想定しています。
2021年9月16日 9時34分

@ArisatoCovtha そうなんですよ。新たな謎になります。
2021年9月16日 9時35分

@ArisatoCovtha というか山上降臨神話自体は半島はじめ世界各地にあるんではないでしょうか?それが取り入れられたとしたら、今度はそこに〝なぜ?〟が発生します。
2021年9月16日 9時37分

@ArisatoCovtha >核となる史実
そんなものは全く無かったのだ!100%虚構なのだ!と考えるのが精神衛生上、もっともラクなんですけどね、、、(^^;)
2021年9月16日 9時39分

@ArisatoCovtha 水野説は画期的な破壊力がありましたよね。破壊はしたもののとうとう再建はできなかった!みたいな、、、
>笠沙の話
ですよね。これも現在の笠狭のことを指しているのか?そうなら九州西岸を南下したことになり具体的イメージが湧きそうです。
2021年9月16日 9時44分

@ArisatoCovtha >地名分布パターンの一致
甘木周辺のですか?私も当初ハマりました。今では棚上げ状態ですね。甘木朝倉は私の邪馬台国論揺籃の地ですので、希望の糸だけはつないであります。
2021年9月16日 9時47分

@ArisatoCovtha >例の「坊津」
何でしたっけ?
2021年9月16日 9時48分

@ArisatoCovtha ああ、そうですね。脳内のスイッチが古代に固定されていましたので思いつきませんでした(^^;)
2021年9月16日 9時53分

@ArisatoCovtha 私は1/4薩摩の人なんですが、鹿児島市に一度と隼人塚や桜島溶岩展望台、志布志湾の古墳を訪ねたことがあるくらいですね。いずれご先祖探しに行ってみたいとは思っていますが、、、

そうそう、現在の霧島市(旧国分市)を流れる川は天降(あもり)川と言うんですね。天孫降臨という焼酎も(^^;)
2021年9月16日 9時58分

p263

松前健氏の「日向の御子」伝承説
「史実ではなく、現実に大和盆地に根拠地を持つ朝廷と、本来隼人族の伝承であった日向の御子の伝承とを、結びつけるために作られた説話である」(『日本神話99の謎―神々のパンテオンで何が起こったか―』s53.11)
2021年9月16日 10時6分

@ArisatoCovtha >韓国に向かう良き地
>「そほり」というのも「ソウル(都)」と関係する
有力説だと思います。原田大六氏が唱えていました。南九州の日向とは全然関係ない!とする立場ですが、そうすると新たな疑問が出てきそうな気がするんですが、、、
2021年9月16日 10時8分

@ArisatoCovtha >鵜戸神宮にも
既に訪れています。安産にご利益があるとのことで、出産する知人の安産のお守りに二三度取り寄せたことがあります。天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命!
2021年9月16日 10時10分

@ArisatoCovtha 引いて考えれば、『記紀』というものが8世紀になって朝廷で整合性を持って編纂されたものではない!ということを表しているのではないかと思うのですが。
2021年9月16日 10時12分

@ArisatoCovtha 神武天皇伝説というものは、卑弥呼の邪馬台国より、ずっと政治的意味合いがありそうですので、これが永遠の謎というのは、どうも落ち着かないものを感じます。

下々は黙って信じればいいのだ!という時代は御免蒙りたいので、何らかの持論は持っておきたいと思う次第です。
2021年9月16日 10時18分

@ArisatoCovtha >隼人の乱
その時の犠牲者を葬ったのが隼人塚って読んだことがあるような、、、方墳でしたね。
>シラス台地
古代史にハマり始めた頃、書店で立ち読みした中に〝ハツクニシラスのシラスはシラス台地だ!〟というのがありました。もちろん買いませんでしたけど、何でもありの時代でした。
2021年9月16日 13時14分

@ArisatoCovtha 昔から、これだけ多くの賢者たちが議論してきて正体不明なんですから、ひょっとして〝核〟なんて全く無かったのかも知れません。

と思いたいところですが、西力東漸といわれる文化の伝播と銅鐸文化の断絶は間違いなくあるわけで、やはり何か〝核〟があるんじゃないかと。〝初めに戻る!〟みたいな。
2021年9月16日 13時19分

@ArisatoCovtha p264

それにもかかわらず、わざわざ南九州の日向国が選ばれたのは、何か理由があったとみなければならない。

やっぱり〝初めに戻る!〟になってます(-_-;)
2021年9月16日 13時21分

@ArisatoCovtha 表現が少し難しくてよく分からないのですが、小説家がものにするような創作ではないことは確かでしょうね。7-8世紀ころの創作であれば、当時周知の地名などが色濃く反映しているはずでしょうから。
2021年9月16日 13時56分

@ArisatoCovtha お付き合いいただいたようで、、、(・・;)
2021年9月16日 13時57分

@ArisatoCovtha p286からの原島礼二氏の所論は二つ注目点が。

1.やがて五世紀の中ごろ、河内の大王は奈良盆地の南部へ本拠を移し、先代の王統の拠点を占領した(『大王と古墳』s46.5学生社刊)。この時の戦争が、神武天皇の大和平定物語を生みだすもとになった、とわたくしはみたい。

これは✕でしょう。
2021年9月16日 14時3分

@ArisatoCovtha 2.このような情勢に直面した飛鳥の宮廷は、まず高句麗の国ゆずり物語と降臨物語をモデルとして、はじめて天孫降臨と出雲の国ゆずりの物語を創造した。そこでは、まず南九州に対する領土支配を正当化するために、のちの日向、当時のソの国への天孫が構想され〈以下略〉
2021年9月16日 14時9分

@ArisatoCovtha 「このような情勢」とは隋帝国と外交関係を当時の宮廷が結んだこと。これは新視点かも知れませんね。ただしあら捜しすれば問題点は出てくるでしょう。

例えば、壬申の乱時に天武が神武陵に捧げものをしている点。7世紀前半に神武説話が創成されて後半に天武がそれを始祖王として祀るということとか。
2021年9月16日 14時13分

@ArisatoCovtha そもそも『隋書』には倭が南九州を意識しているかのような記述は無く、【其國境東西五月行,南北三月行,各至於海】とあるように九州南方の島々が意識されているようには見えません。
2021年9月16日 14時19分

@ArisatoCovtha 確かにそうです。7世紀頃の『書紀』中の記事の分量では隼人、多禰、掖玖より蝦夷が遥かに多いですね。
2021年9月16日 14時20分

@ArisatoCovtha それより白雉5年(654)2月、遣唐押使高向史玄理が唐帝皇宗に謁見し【日本國之地里及國初之神名】を聞かれて答えています。この時、何らかの想定問答を用意していったでしょうから、この時点ではある程度の建国神話的なものが生成されていたと考えることは出来るかも知れません。
2021年9月16日 14時30分

@ArisatoCovtha 原島説については『研究史―』著者星野良作氏はじめ佐伯有清氏も倭隋の関係から否定的に論じています。

p292でも
原島説においても、「日向」解釈はなお不十分であり、結局「日向」問題は、将来の課題として残さざるを得ないことを確認し、〈以下略〉

として未解決のまま先送り。
2021年9月16日 14時37分

@ArisatoCovtha ありえますね。ただゼロからの創作ではなく、諸家が持っている家伝のようなものを寄せ集めたのかも知れません。
2021年9月16日 14時39分

@ArisatoCovtha そろそろ就寝時間ですが、『隋書』から1件。開皇20年の遣使の際、帝は所司に命じて【其風俗】を訪ねさせています。倭の歴史については前史から要約して倭(俀)国伝の初めの方に記述してあります。ですから、隋朝では倭国の建国神話など聞かれなかったということでしょう。
2021年9月16日 14時44分

@ArisatoCovtha 立場が専門かアマかで分かれるんじゃないんでしょうか?アマならそれこそどんな想像も自由でしょうから、、、
2021年9月16日 14時45分

@ArisatoCovtha 〝一書に曰く〟群が、たぶん「氏族伝承」なんでしょう。『記紀』の話になると恐る恐るになります(^^;)

それではそろそろ就寝します。おやすみなさい~
2021年9月16日 14時47分

『神武天皇 (研究史)』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

数多の学者たちが心血を注いで神武天皇について解明を進めてきたが、一言で言って謎は謎のままである。後半、所謂反映説による諸説を取り上げるが、その限界と無力さをまざまざと見せ付けられる。
2021年9月17日 0時22分

『研究史 神武天皇』の刊行が1980/11/1。その14年後に当るH6.4月号『歴史読本』が手元に。「シリーズ人物検証 神武天皇伝説の謎 天皇史最大の謎 初代天皇の正体に挑む」と銘打って、直木孝次郎氏、水野祐氏以下諸氏の寄稿。拙脳がクールダウンしてから読んでみましょう。
2021年9月17日 2時20分

神武天皇について取り上げるならば『新唐書』『宋史』についても一応触れておくべきかも。後者には984入宋した奝然のもたらした『王年代紀』から、神武が筑紫から大和へ移ったことが引用されています。前者はやや内容に相違がありますが、類似の年代記でしょう。やはり神武東征が。
2021年9月17日 2時31分

『旧唐書』はどうかと言うと、日本伝にも建国の紀元とかは触れてありません。ただ一つ気になるのが【日本舊小國,併倭國之地】。古田氏ならずとも、この文の解釈には頭を悩ますところですが、これを神武建国説話の萌芽と見ることは出来ないかという私案を持っています。ただ、情報が乏しくて。
2021年9月17日 2時48分

紀元⇨起源
2021年9月17日 2時50分

『旧唐書』日本伝最初の年次は長安三年(703)で朝臣眞人。すると【日本舊小國,併倭國之地】はその時までにもたらされていたのか?そうだとしたら『記紀』成立の直前。654高向玄麿入唐の際には【悉問日本國之地里及國初之神名、皆隨問而答】と返答しているので建国説話についてもある程度の形が?
2021年9月17日 4時30分

H6.4月号『歴史読本』直木孝次郎「神武伝説モデル論」読みました。稿末で星野良作『研究史 神武天皇』参照を断っているように内容は同書中と変わらず。西都原古墳群調査を取り上げて5c後半畿内勢力進出により熊襲平定して古墳が築かれ、それが東征の基地を日向とする伝説に反映したと。
2021年9月17日 5時18分

しかし、そう考えると次の疑問が。熊襲平定は景行、倭建、仲哀などによって既に『記紀』上では成立している。「5c後半畿内勢力進出」という考古学的知見に足場を置くならば、次には景行、倭建、仲哀などの熊襲平定が、「5c後半畿内勢力進出」に基づく〝反映〟だとせねばならないのでは?
2021年9月17日 5時22分

反映説に基づく論考を読んで感じるのは、刑事もののTVドラマで出てくる〝プロファイリング〟。犯人像を浮かび上がらせることは出来るけれど、さてそれに合う人物を探し出し自供してもらうか周辺捜査により証拠を固めねばならない。〝プロファイリング〟のみでは犯人を逮捕することは出来ない。
2021年9月17日 5時25分

『風土記』をつらつら開いてみていますが、日向と薩摩には邇邇芸命の降臨が出てきますが、神武は出てきませんね。摂津と伊勢には神倭磐余彦が出てきます。常陸、播磨、豊後はこれからめくってみます。
2021年9月17日 9時47分

幕末に伝承に基づいて作られたものですね。確かな根拠があるわけではありません。
https://twitter.com/kofun_bu/status/1438828613223075845?s=20
2021年9月17日 11時41分

山上降臨説話は邇邇芸命の他に、天之日矛が出てきますが、『常陸国風土記』では鹿島天之大神が高天原から降臨します。
2021年9月17日 13時23分

常陸国茨城の里では怒賀毗咩(ぬかびめ)に夜這いする者があり怒賀毗咩が小蛇を生むという話が。三輪山伝説ソックリですね。兄の名は怒賀毗古。きょうだいセットというのも土蜘蛛はじめ魏志倭人伝の卑弥呼と男弟も同様。
2021年9月17日 13時31分

『常陸国風土記』久慈の郡東七里、太田の郷に長幡部の社あり。古老の曰ひしく珠賣美萬命(すめみまのみこと=瓊々杵)天より降りましし時云々。降臨の山として筑紫の国の日向の二神の峰。
2021年9月17日 13時43分

今のところ、ごく限られた風土記にしか神武は出てこないようです。また天孫の降臨は幾つかの風土記に見えますが、肝心の瓊々杵から神武への接続と、神武の東征については出てきません。

神武東征は建国神話創成の必要からいずれかの時点より作り上げられていったものではないかという感触を持ちます。
2021年9月17日 14時23分

日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説(朝日新聞デジタル)
#Yahooニュース
※2022/1/14現在リンク切れ

古代史マニアとしては非常に興味深いですね。「東アジア人に多く見られる特徴」ということは後漢崩壊による魏晋南北朝の大混乱を逃れて東渡した人々が古墳時代人?
2021年9月18日 0時59分

高天原とは中華大陸だった!という説は既出でしょうね。呉の太伯や徐福もその範疇に入るんでしょうから、、、

書棚の最下段の一番端に衛挺生『神武天皇=徐福伝説の謎』という本が!読了メモも無いし赤線も引いてないので多分未読。読んでみよう!
2021年9月18日 1時10分

諸『風土記』を一通りざっと読んだ限りでは、神武東征が記されているのは伊勢国の「伊勢の国号」の段のみのよう。

天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時云々

紀伊半島から大和に入る話で金の烏も出てきますので『記紀』に基づくものなんでしょう。
2021年9月18日 2時39分

景行天皇などは特に九州で頻繁に出てきます。地名起源譚と読んだほうがいいのかも、とも思いますがある程度の史実性もあるんでは?という期待も。それに比べて神武は全く出てきません。日向も豊も筑紫も。

どゆこと?状態です。
2021年9月18日 2時42分

では最初に戻って『記紀』では神武東征がどのように描かれているのか?読み直す必要がありそうです。しかし、今まで読んでみた段階では、神武東征伝説(ひょっとしたら神武の存在そのものすら)など汎日本的説話では無かったようなきがします。景行、神功、倭建、応神などとは比べ物にならないほど。
2021年9月18日 2時47分

『神武天皇=徐福伝説の謎』p30-31

この書(hy注:古事記)は元明天皇の和銅五年、すなわち七一二年、太安万侶に託してできた書物とされているが、しかし中沢見明氏の研究によると、九世紀前半の古典研究の盛んな時代に作られた偽書であることが明らかになっている。
2021年9月19日 2時16分

同書の原著『日本神武開国新考』刊行は1950年、邦訳して刊行されたのが1977年で太安万侶墓誌発見の2年前。

『古事記』偽書説と言えば大和岩雄氏が有名ですが、「中沢見明氏の研究」は墓誌発見でどのような取り扱いになったのか?読めば読むほど読まねばならないことが増えてくる!
2021年9月19日 2時19分

『神武天皇=徐福伝説の謎』p132訳注

『古事記』偽書説は、古く賀茂真淵からある。中沢見明著『古事記論』では、平安期初期に、日枝、松尾神社関係の人物が偽作したものとしている。他にも、沼田順義氏や筏勲氏らが『古事記』偽書説を提唱している。

本書は1977年の訳刊で大和説との先後は未確認。
2021年9月20日 1時33分

今、書棚から河出書房新社『新装版 文芸読本 古事記』を取り出して目次を見ると、

p10 古事記 三島由紀夫

と!目次には西郷信綱、津田左右吉、折口信夫、柳田国男、上田正昭、家永三郎、和辻哲郎、金達寿、大林太良、吉田敦彦、福永武彦諸氏の名も!読んでも多分脳がフリーズ(-_-;)
2021年9月20日 1時38分

>大和説
とは邪馬台国大和説の「大和(ヤマト)」ではなく、古事記偽書説を唱えた大和(おおわ)岩雄氏の所説のこと。
2021年9月20日 1時40分

p135に「甕棺は中国の「堲周」である」との項が。ググルと、

堲周:燒土為磚繞於棺材四周(百度百科をGoogle繁体翻訳)

『小戴礼記』「檀弓上」篇第十二章に「夏后氏は堲周」とあるとか。魏志倭人伝には【夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。】と!うぬぬ、、、
2021年9月20日 2時3分

@gishigaku ありがとうございますm(_ _)m
衛挺生氏の『神武天皇=徐福伝説の謎』は原著が1950年刊ということで、今から見ると内容的には飛んでます(×_×)ただ、家永三郎、津田左右吉、藤間生大等諸氏が反論を寄せているので、終戦5年後という当時の空気を窺うことができそうです。
2021年9月20日 2時38分

『神武天皇=徐福伝説の謎』|感想・レビュー#bookmeter @bookmeterより

書中の「科学は真実の探求を重んじます。主観的な一人よがりであってはなりません。」の言は、著者にこそ当てはまる。敗戦後5年の史学会の空気が窺える。
2021年9月20日 9時47分

長年の懸案だった津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究』(2012/8/28毎日ワンズ刊)を紐解いていますが「建国の事情と万世一系の思想」p17で「ヤマト(大和)」と九州の「ヤマト(邪馬台国)」が。

前者が後者を「服属させたらしい」と。ヤマトがヤマトを?非常に違和感を感じます。
2021年9月21日 0時20分

魏志倭人伝でも邪馬壹と邪馬、蘇奴と姐奴、支惟と鬼など似通った国名が出てきますが、九州北半で「権威をもっていた」ヤマトと、それを服属させるに至る同名の畿内ヤマトが併存していたというのは〝はい、そうですか!〟と俄には首肯できないものがあります。
2021年9月21日 0時28分

@mitsusato_2 ありがとうございます。昔から弾圧されたことは知っていましたが、自分自身『記紀』に関する事件のことなどとても手を出す器ではないことは自覚しておりましたので、放置しておりました。早速ググってみます。
2021年9月21日 9時22分

@mitsusato_2 Wikiを取り急ぎ読みました。

「つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。」

というのは、稲荷山鉄剣銘の「意富比垝」が『記紀』の大彦に相当すると考えられることから、現在では否定的なんじゃないでしょうかね?
2021年9月21日 9時35分

@mitsusato_2 景行紀などの熊襲征伐の説話にしても、どのような理由で「史実としての資料的価値は全くない」と言ってるのか?同書内に示されているんでしょうが、今日的再検証に耐えられるのか?興味津々です。
2021年9月21日 9時42分

@mitsusato_2 とにかく、当局の顔色を窺わねばならないような時代は御免蒙りたいですね。意見の相容れない相手とでも議論できる時代でなくては、結局国のためにならないと思います。明治天皇も「万機公論に決すべし」と言われているわけですし、、、
2021年9月21日 9時44分

@mitsusato_2 今読んでいるところで、もう少しで「古事記及び日本書紀の研究」に入ります。多分、そこに書いてあるんでしょう。
2021年9月21日 10時1分

@mitsusato_2 「建国の事情と万世一系の思想」p46

邪路に走った為政者に国家を委ねて、ついに彼らをして、国家を窮地に陥れるとともに、大いなる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民自ら省みてその責を負うところがあるべきである。

この前後を斟酌するに、穏当な右寄りと言えそうな気がします。
2021年9月21日 10時14分

@mitsusato_2 ただ「窮地」の責任を国民に向けていることについては激しい批判反論があるかも。Wikiによれば、この論文は1946年(s21)、雑誌『世界』第4号に発表されたものとのこと。終戦翌年にこれだけのものを書くのは、やはり相当確固たる学問的信念があるんでしょう。

さて「古事記及び日本書紀の研究」へ。
2021年9月21日 10時18分

@mitsusato_2 Wikiで蓑田胸喜もざっと目を通しましたが、結局彼も軍部に利用されたと言えるんじゃないですか?どんな思想信条も個人の胸中に収まっているうちは誰からも咎められるべきものではないと思いますが、それが一旦表に出て他からの力を得て羽ばたき始めると、当人も馭することのできない事態を招来します。
2021年9月21日 10時26分


@mitsusato_2 思い出したこと。長崎市の繁華街にあった古書店の書棚の一番上、天井に触れそうな場所に『津田左右吉全集』と『内藤湖南全集』が紐で縛って横たわっていましたっけ。両方とも10冊以上はあったような。1982年の長崎大水害で浸水被害を受け程なく廃業しました。あの全集も廃棄されたんでしょうね。
2021年9月22日 0時12分

9/18拙ツイ
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景行天皇などは特に九州で頻繁に出てきます。地名起源譚と読んだほうがいいのかも、とも思いますがある程度の史実性もあるんでは?という期待も。それに比べて神武は全く出てきません。日向も豊も筑紫も。

どゆこと?状態です。
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『記紀』に描かれているような神武はいなかった!
https://twitter.com/ShinHori1/status/1440476005781491714?s=20
2021年9月22日 1時52分

というか、平安はまだ古代のうち!そーいやそーかも^^;
2021年9月22日 1時54分

これに対する外野席での乱闘:
景行より神武がはるか昔だから、地域には残っていなくて、天皇家だけに伝承されてきたのだ!

以後、泥仕合の予感が、、、(・_・;)
2021年9月22日 1時58分

@mitsusato_2 p66-67 魏志倭人伝に書かれてある倭がツクシ地方であることは「疑いを容れる余地がない」とし、

(もっとも世間には異論はあるが、私見によれば倭人伝のこの解釈は動かすべからざるものである)。

と。今では「異論」の方が優勢に見えますので、津田説を下敷にした古代史はどう対応したんでしょう?
2021年9月22日 2時14分

@mitsusato_2 津田左右吉は白鳥庫吉に師事したので師の九州説を踏襲すべきとされたのか?「疑いを容れる余地がない」「解釈は動かすべからざるもの」は今や大いに疑問が。
2021年9月22日 2時43分

@mitsusato_2 いわば〝師の説に泥〟んでしまったわけなので、無観客試合ならともかく、大勢の観客をスタジアムに入れてしまった当今では、野次が飛んでくるのはやむを得ないかも。
2021年9月22日 2時50分

@mitsusato_2 許家印氏について"一代で大富豪に"って紹介されますが、大富豪ってのはフツー"一代"で成り上がるみたいな。二代三代かけて大富豪になる例は少数かも。逆に"唐様で書く三代目"だったり(-_-;)
2021年9月22日 3時18分

@mitsusato_2 p68

邪馬台国(福岡県山門郡にあった国)の女王卑弥呼の使者が〈以下略〉

津田史学に拠っている人は今でも少なくないんでしょうが、この件についても肯定的に理解してるんでしょうか?
2021年9月22日 4時11分

@mitsusato_2 同頁

さて、魏の使いのはじめてきたのは正始元年(二四〇年)であって、そのときには特殊な政治的意味はなかったようであるし、

これにはさすがに外野席から野次が飛んできそう(-_-;) 「狗奴国と衝突」には「やや政治的意味のある交渉」と。魏は国際仲裁裁判所ではないんですけどね。
2021年9月22日 4時17分

@mitsusato_2 同頁

(三世紀のはじめに楽浪郡の南部は帯方郡となって独立し、倭人の交通はこの帯方郡の所管に移った)。

これも〝なんだかなぁ~〟的な表現。公孫氏を明記しないとマズイでしょうに、、、
2021年9月22日 4時27分

@mitsusato_2 次頁でも山門郡説を強調して再述。
2021年9月22日 4時28分

@mitsusato_2 >門脇禎二の「蘇我氏渡来人説」
え?そうなんですか?読んだことがあるような気もするんですが、、、コレですかね⇩
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11215106441
2021年9月22日 7時45分

@mitsusato_2 お詳しいですね。蘇我氏のあたりは系図が出てきますので敬遠しています。頭に入りませんから、、、
>撤回謝罪はしない
謝ると死ぬ病かも(-_-;)
2021年9月22日 7時50分

@mitsusato_2 p69

ところが、シナの文献に見えるこれらの記載は、『古事記』や『日本書紀』によって伝えられているわが上代の物語とは何らの接触点を有せず、まったく交渉のないものである。

ツクシは東方の勢力に服属していなかったとし、次頁では、

こういうシナの文献の記載と記紀の物語とが互いに関係ない...
2021年9月22日 9時39分

@mitsusato_2 なんかおかしいなぁ、、、津田説によれば倭の五王もツクシの勢力ということなるんでしょうか?『記紀』には記載されていませんから、、、

基本構造的には襲国偽僭説や古田説にかなり近いような気がします。
2021年9月22日 9時47分

@mitsusato_2 >恣意的な読み方
そういう読み方を許す甘さがあるんじゃないかと思います。
>古田のようなトンデモ
結論はトンデモですが問題提起は妥当だと思います。倭の五王は『記紀』に記載されていない、という点では津田説も古田説も問題提起としては共通すると思いますが、、、
2021年9月22日 9時53分

@mitsusato_2 >倭の五王は『記紀』
は端折りすぎました。津田の問題提起は魏倭通交で古田の問題提起は倭の五王。枠の捉え方としては共通すると思います。
2021年9月22日 9時58分

@mitsusato_2 一般論としてはその通りでしょう。しかし、少なくとも今読んでいる箇所あたりの論述は漢籍史料など用いていませんし、憶測の積み重ねのようにしか読めません。

恐らくは過去の論文等で詳述してあるんでしょうが、今はこの本に触れての感想を述べておりますので、お含みいただければと思います。
2021年9月22日 10時7分

@mitsusato_2 >気をつけたほうが
そりゃもう、、、素人のヘマなんて掃いて捨てるほどあるんですから、自分の至らなさを認め訂正謝罪して終りです。謝ると死ぬ病よりはずっといいと思いますが、、、

当方のプロフ:相手が誰であれ、いい加減な発言には独断と偏見に基づく辛口コメント進呈!
2021年9月22日 10時13分

@mitsusato_2 >素人だからってそこは甘えちゃダメだと
あのう、寿命は限られていますので、専門家レベルに並ぶなんてことは、そもそも無理なことで。気がついたことはどんどん発信しておくことが大切だと思います。
>学者は素人を相手にするの嫌がる
はなから「相手」にされるようなタマじゃありませんから、私は。
2021年9月22日 10時18分

@mitsusato_2 >津田史学を批判したいなら
そりゃ無理ですよ!
---
思い出したこと。長崎市の繁華街にあった古書店の書棚の一番上、天井に触れそうな場所に『津田左右吉全集』と『内藤湖南全集』が紐で縛って横たわっていましたっけ。両方とも10冊以上はあったような。
---
全部読まなきゃ批判できないってのは不可!
2021年9月22日 10時20分

@mitsusato_2 実際に論文というのは特定の人の特定の論説について言及批判するわけですから、全部読むことを要求されたら、批判なんて出来ませんよね。

「門脇禎二のトンデモ説」って先刻言われたようですが、門脇氏の書いたもの全部読まれたわけじゃないんですよね?
2021年9月22日 10時23分

@mitsusato_2 コレへのリプライが遅れました。
>応神より前って話ではないと思いますが
大彦の話です。【乎獲居臣上祖名意富比垝】と銘文にある「意富比垝」が第8代孝元天皇の第1皇子大彦命であるというのは大方の共通認識だと思います。「応神天皇よりも前」の話ですね。架空の始祖だという解釈はあるうるかも。
2021年9月22日 13時23分

@mitsusato_2 利害一致ですね!古代史好きとは言っても、それぞれ関心分野が違いますから、得意分野以外へ首突っ込むと怪我する!というのも掲示板時代に得た教訓です^^;

もう少ししたら就寝します。おやすみなさい~
2021年9月22日 14時24分

@mitsusato_2 ご意見拝聴しました。津田左右吉の本を読むのは初めてですから、的外れも多いんでしょう。〝今日時点の〟私の思ったこと!とでもご理解いただければ幸いです。
2021年9月22日 14時26分

『古事記及び日本書紀の研究』p130-131で、古代天皇号について「オホヤマト」「タラシヒコ」「ヤマトネコ」等の尊称を持つものは「天皇としての呼称であって実名ではない」と。しかるにホムダワケ、オオササギ、イザホワケになると実名だと言う。これは古代史を読み始めた当初、誰かの本で読みました。
2021年9月23日 13時44分

不思議ですよね。「タマテミ」「スキトモ」「カエシネ」「フトニ」「クニクル」「オオヒヒ」「イニエ」「イサチ」なんてのは実名ではないんでしょうか?
#津田史学
2021年9月23日 13時46分

>御簾で隔てられて
御簾かどうかは不明ですが、卑弥呼は見えない王だった。裴世清が訪倭した時も推古紀の書きぶりからすると、直接天皇に拝顔はしていない模様。 https://t.co/yImWEQ03ao
2021年9月24日 0時49分

神功皇后の新羅親征の辺り(p160±)を読んでます。全体として「らしい」「だろう」「あろう」「ようである」などと婉曲な表現を基調としていますが、神功の説話になると、
「事実でないことは、同様である
「説話であって、事実ではない
と断定的。婉曲と断定の基準の違いがよく分からない。
#津田史学
2021年9月24日 1時27分

p163-164

さて、皇后の新羅親征が事実でないとすると、仲哀天皇のツクシへ行かれたことが事実でないことは、この点からもまた知られ、応神天皇の生誕に関するいろいろの物語もまた、事実ではないことになる。両方とも、皇后の新羅親征の説話から離しては考えられないものだからである。

飲めない。
2021年9月24日 1時30分

「考えるべきであろう。
「あるかもしれぬ。
「べきものであろう。
「例は甚だ多い。
上3つは推測の連続。しかし、否定する口調は断定的になる。
#津田史学
2021年9月24日 1時35分

p164終り2行から。

要するに、皇后の親征が事実でないとすれば、応神天皇がツクシで、また仲哀天皇の崩後に生まれたことも、事実でないことになるのである。

と断定的。
#津田史学
2021年9月24日 1時36分

p165

また神功皇后について一般的に考えると、この物語に含まれている『帝紀』『旧辞』がはじめて文字に写されたときには、すでにわが国に関するシナ人の著書が伝わっていたはずであり、したがって倭の女王卑弥呼に関する『魏志』の記事が知られていたであろうと思われる。
#津田史学
2021年9月24日 1時42分

何故ここ(神功~応神)で唐突に『魏志』が引かれるのか意図が不明。卑弥呼は共立された王であり、共立以後【少有見者】とある通り、所謂〝見えない王〟。神功皇后に通じるような記述は無い。ただ神功紀に『魏志』『晋起居注』が引かれているのみ。再度、意図不明!
#津田史学
2021年9月24日 1時47分

p166

実をいうと、ツクシ地方の少なくとも北部がヤマトの朝廷を戴く国家組織に入ったことは、晋のはじめ頃、すなわちツクシの邪馬台国が晋に交通していた時代と、百済がわが国に交渉を生じた時代との中間に行われたのであるが〈以下略〉

ここでも「ツクシの邪馬台国」と明記。
#津田史学
2021年9月24日 1時53分

当論の冒頭からそうであったように、当論は邪馬台国ツクシ説の上に立っているのだから、それが崩れた時、当論も大きく傾ぐことは疑いないと見ていいのかも知れない。
#津田史学
2021年9月24日 1時56分

それと一言、古田氏流の意地悪を。『魏志』はヤマトではなく「邪馬壹」。p166末行には、

『魏志』のヤマト(邪馬台)と彼らの生活しているヤマトとが同名であるということも〈以下略〉

勿論、当時は〝邪馬壹は邪馬台の誤なること言うまでもなし〟で通用したのだろうから、非不正焉。
#津田史学
2021年9月24日 2時5分

p167

神功皇后の親征が史実であるかどうかは、この点をも顧慮して考えるべきである。

「この点」とは『魏志』に卑弥呼が女王として記されていること。フツーに読めば、卑弥呼には「親征」の記事など見えないから、「神功皇后の親征が史実であるかどうか」疑わしい!ということに?
#津田史学
2021年9月24日 2時20分

ならば『記紀』の神功に関わるすべての行動歴は虚構と理解しなければならないはず。何故ならば卑弥呼には行動歴が皆無だから。勿論、卑弥呼は【無夫婿】だから子供はいない。応神天皇も虚構。「考慮」の対象を「親征」に留めているのか?ならばその理由は?
#津田史学
2021年9月24日 2時24分

津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究』p221

けれども、それによりどころがあるということ、もしくはそれが古くからの伝えであるということは、それが歴史的事実であるということではない。準拠となったものが歴史的事実の記載でないかもしれぬからである。
2021年9月25日 1時54分

はてはて、ここまで読んできたけれど、津田の論述からは、一向に「歴史的事実」が見えてきません。神功の熊襲征伐は無かったとか、応神生誕説話も虚構だとか、そんな話ばかりで、じゃ『記紀』からどのような「歴史的事実」が復元できるのですか?と突っ込みたくなります。
2021年9月25日 1時56分

p249。皇室の発祥地がクマソの地であることに触れ、

(景行朝のクマソ平定の物語に、そこがかつて皇都の所在地であったことを想起せしめるような文字が見えず、ただ叛徒の拠るところとせられているのも、奇異といえば奇異でないこともない。〈以下略〉)

素人でも思いつく点。さてその解答や如何?
2021年9月25日 6時21分

同頁おわりに『宋書』「倭王の上書」に触れ、

「西」に「衆夷」とせられているが、これはしばらく問わずにおこう。

と。
2021年9月25日 6時24分

p250-251。日向の古墳に触れて、

だから、もし日向に古墳を遺したものが皇室と特殊の関係があることを論証しようとするならば、その古墳またはそこからの発掘品が皇室特有のものであって、他の豪族のものとしては決して許されない特徴がそれにあることを明らかにしなければなるまい。〈続く〉
2021年9月25日 6時28分

ところが、そういう立証はさられていないようである。

日向の古墳中、規模において一二である男狭穂塚(ニニギノミコト陵)・女狭穂塚(コノハナサクヤヒメ陵)は陵墓参考地で発掘調査は不可。「立証」しようにも出来ない。
2021年9月25日 6時32分

p256

約言すると、東遷は歴史的事実ではないので、ヤマトの朝廷は、のちにいうように、はじめからヤマトに存在したのである。

だから、どうして東遷なんて物語が必要だったのか?その答えを待ち望んでるんですけど?
2021年9月25日 6時49分

p270

東遷そのことが皇孫降臨の繰り返しまたは延長の意味をもっているように語られているのであるから、その側面では、この東遷の物語は神代と人代とを連結する用をなしているのである。〈続く〉
2021年9月25日 7時23分

そしてそれによって、人代の前に神代が置かれ、ヤマトの都におられる現実の天皇の地位の由来がその神代の物語によって示されている『帝紀』や『旧辞』の精神が、よく実現せられているのである。〈引用終わり〉

さっぱりわからない。凡脳はこんなことに首突っ込んでないで静かにしてなさい!とか?
2021年9月25日 7時24分

『古事記及び日本書紀の研究』末尾

『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。

あらら、、、
2021年9月25日 9時20分

『記紀』読んでも日本の歴史はわからないってことですか?

この本を読み進みつつ、一昨日頭に浮かんだ言葉:説話はいつまでも説話のままで、歴史にはならない。

読了後の脱力感を久しぶりに味わっている。
#津田史学
2021年9月25日 9時23分

ヤマトの朝廷は、のちにいうように、はじめからヤマトに存在したのである。

その「はじめ」って何?ある日ヤマトの社会の中から突如リーダーが出てきて〝我は王なり!〟と宣言したというストーリーでも可!ということなのか?
2021年9月25日 9時36分

時と共にその事実は忘れ去られ、王朝成立する頃に始祖説話の必要性が生まれ、どういうわけかクマソの地に天降った説話が導入され、それじゃヤマトまでどうするか?ということで東征物語が造られた?

キリンの首はなぜ長いの?それはね、頭が高いところにあるからなのよ!みたいな話。
2021年9月25日 9時38分

津田曰く「反覆証明しようとした」

何が「証明」されたのか?さっぱり分からない。
#津田史学
2021年9月25日 9時44分

白鳥庫吉に師事した故か、邪馬台国山門郡説を採っている(p69)が、単に言及したのみならばいざ知らず、行論の基本部分に関わっているのだから、これは見過ごすことの出来ない問題点。
#津田史学
2021年9月25日 9時52分

p69)ところが、シナの文献に見えるこれらの記載は、『古事記』や『日本書紀』によって伝えられているわが上代の物語とは何らの接触点を有せず、まったく交渉のないものである。

ならば『宋書』に見える倭の五王はどう捉えるのか?これも「接触点を有せず」と言えるのではないか。
2021年9月25日 9時53分

まさか身狭村主青を以て「接触点」とは言わないだろう。倭の五王は何処の王なのか?

p249で『宋書』に触れるも「これはしばらく問わずにおこう」として留保している。
#津田史学
2021年9月25日 9時57分

『魏志』の記事には信拠している。当然『宋書』においても信拠されて然るべき。劉宋からの授号の記憶など消滅してしまっており、区々たる交渉説話のみが伝承されていたと考えることもできようが、ここでは「これはしばらく問わずにおこう」という扱いである。
#津田史学
2021年9月25日 10時8分

勿論本論は膨大な研究の上に書かれたものだろうから、これ1本で全容を知ろうというのは無謀と言うものだろう。しかし、結論が、

ヤマトの朝廷は、のちにいうように、はじめからヤマトに存在したのである。

というのでは、疑問点の拡大再生産になるのではないかとさえ思える。
2021年9月25日 10時20分

『古事記及び日本書紀の研究―建国の事情と万世一系の思想』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

天孫降臨や神武東征についても憶測は述べるも帰結が見えない。ヤマト王権は最初からヤマトに生じたとするのみで、それでは新たな問題を派生することになる。脱力感も。
2021年9月25日 13時54分

津田左右吉を読んだ流れで石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』を再読することに。その序に、

戦前の国体論者の説によると、天皇親政が国体であり、それは肇国以来不変であるが、律令時代と明治時代に、国体の精華はもっともよく発揮されたというのである。〈続く〉
2021年9月26日 13時9分

ところが律令時代というのは、天皇が中国流の皇帝に作りかえられた時代であり、明治時代は天皇がプロシア流の王に作りかえられた時代であるから、この二つの時代に、国体の精華が発揮されたというのは合点がいかなかったのである。〈続く〉
2021年9月26日 13時12分

外国法の影響を強く受けたこの二つの時代を除くと、天皇の親政の時代はない。そうだとすると、国体論者のいうこととあべこべに、天皇不親政こそ天皇統治の伝統ではないかと考えるようになったのは無理からぬことではなかろうか。〈引用終わり〉

まさしくその通りだと思う。さて、続きを、、、
2021年9月26日 13時14分

序の後半で以下のように述べる。

天皇の生成については、邪馬台国大和説をとると、卑弥呼の一族にその起源を求めたくなるであろうし、邪馬台国北九州説をとると、大和への東遷が考えられるであろう。〈続く〉
2021年9月26日 13時29分

前著ではこの点についての記述は曖昧であったが、この度は、邪馬台国は大和にあったけれども、天皇の祖先は北九州より東遷して卑弥呼の後継者台与より政権を譲り受けたといいう見解を取り、邪馬台国が大和にあることを示すために必要な『魏志』の文章を解説した。〈引用終わり〉

当初の設定が大胆。
2021年9月26日 13時32分

p39 本書のキモ。

すなわち卑弥呼の推戴において、すめらみことの成立を認めることができるのである。

著者によるかかる言説の是非は厳しく問われなければならないが、かかる提示をなすことは、疑問や憶測ばかりを並べたてた推考に比べてどれほど有意義だろうか。
2021年9月27日 5時54分

石井良助『天皇』p146-147

前に幕府の政体は統一政権であると書いたことがある。これは中世の政体をよく理解した上で書いてのではなくして、多分そういえるのではなかろうか、という推量を断定のごとく書いてしまったのであるが、これは誤りであった。

潔いですね。
2021年9月29日 2時15分

関心外の分野ですけど、#承久の乱 なんてスゴイですね~ 

日本国は万世一系の天皇が!なんてあんまり叫ぶと、こんな寂しい時代のことにも陽が当たったりして、却ってイメージダウンかも、、、(-_-;)
2021年9月29日 13時42分

p196

帝位の事猶東夷之を計ふ、末代事悲しむべき事か

東夷って鎌倉の幕府なんですよね。帝位の沙汰も東夷次第って、寂しすぎるような、、、(-_-;)
2021年9月29日 13時49分

p197

この以後、踐祚ないし治世の君の決定には、幕府の指図により、あるいは少なくともその承諾をえてなされることが通例となったのである。

それでも力任せに朝廷を潰しにかからなかった武家政権というのは外国からは理解されにくいかも。
2021年9月29日 13時52分

p206

爾、日本国王源道義

足利義満は朝廷から征夷大将軍に任じられており、朝廷(天皇)が上位にあるはずなのに、下位の義満が日本国王と称する。やっぱり外国人には理解されないかも。というか、私も消化不良に(-_-;)
2021年9月29日 14時14分

p207

このような下剋上の風潮と相まって、義満がたとえ皇位をねらわないにしても、少なくとも実質的な国王をもって任じていたことはほぼ疑いないことであろう。〈中略〉朝廷では義満の死を聞くと、太上皇の号を賜らんとさえしたのであった。

...(-_-;)
2021年9月29日 14時31分

p311

このように、秀吉は大名を統合したのであるが、江戸幕府は秀吉の方策をそのまま採用Lた。そこで、江戸時代(近世中期、後期)の政体は統合政体(藩村封建統合政体)ということができる。すなわち、第三次の統合政体である。〈続く〉
2021年9月29日 14時46分

しかし、統合者は将軍であって、天皇は統合の枠の外におかれていたのであり、ただ古代君主の後裔として、後に示すように若干の権能を保有していたのに過ぎないのであるが、そのうちで、元号制定の権は天皇が国家の象徴であったこと、〈続く〉
2021年9月29日 14時47分

また伊勢の神官を通じて全国民の敬愛を受けたことは国民統合の象徴だったことを示すものとして、戦後の日本国憲法下の天皇の地位によくにたものとして、とくに注目に値する。〈引用終わり〉

天皇の地位については押し付け憲法的解釈もありそうですが、こうしてみると江戸時代の政体に通じるものが。
2021年9月29日 14時49分

p212

『大乗院旧記』応仁元年十二月一〇日条には、諸国が将軍の下知を用いぬことを述べて、結局「日本国は悉く以て御下知に応ぜず」といっている。応仁の乱以後、戦国時代に入るに及んでは、将軍の統制力はほとんど失われた〈以下略〉

まして天皇於いておや!
2021年9月29日 23時56分

p213では『大乗院寺社雑事記』を引用し、要約すれば

即位しても、正体なくんば、王とは思わないし、また即位せずとも、王と思うから、即位大礼などは無用という議論である。皇威の衰えがこれより甚だしい例はないであろう。

と。
2021年9月30日 0時1分

即位の大礼さえ行えないほど権威が凋落しても、天皇と朝廷が絶滅しなかったのは何故?

昔、天皇をローマ教皇に喩えた本を書いた人がいました。誰だったか、、、ある部分では当っているのかも。
2021年9月30日 0時4分

p214

そして、当時日本の大部分は分国の国主によって支配されていたのであるから、天皇の有せられる統治権のごときは、事実上ほとんど消滅したといっても、過言ではないような状態であった。

それでも戦国時代の終結過程では、朝廷より
信長:右近衛大将
秀吉:関白太政大臣
家康:征夷大将軍
に。
2021年9月30日 1時7分

同頁「しからば、当時において、天皇統治権は名実ともに全然消滅したかというと、そうではなかった。その実は失われたが、その名だけは残っていたのである。その名というのは、第一に、元号の制定権であり、第二に、官位授与の形における栄典授与権であった。

「名だけは残」した理由は何?
2021年9月30日 1時12分

@ArisatoCovtha あ、なんかそうだったみたい。山本七平でしたね。これには批判反論も結構出てたような、、、昔は〝右〟と思ってみてたんですが、今からすると案外〝中道〟かも(^^;)
2021年9月30日 1時16分

@ArisatoCovtha 山本七平は読んでなかったと思いますが、浅見忠雄『にせユダヤ人と日本人』は読んだんですよね。

本が本を批判する。興味津々でした。
2021年9月30日 1時22分

@ArisatoCovtha 子供の頃は、本に書いてあることはほとんど真に受けてたんですがね。邪馬台国問題に首突っ込んでから、自分で考えなくちゃならなくなったので大変でした。

YouTube見ると無批判に賛同するコメント多数で驚きます。まあ、easy come,easy goですから、一時的反応なんでしょう。
2021年9月30日 1時29分

p214あたりから元号について。「天皇は全国統治権の源泉たる地位をほとんど失ってしまったのである。」以下、中世 #私年号 に関わる記述が続き、非常に興味深いものが、、、p217では「私年号」という用語登場!ふむふむ、、、
2021年9月30日 1時40分

歴史の研究者の中には、世界史上興亡した数限りない国家の統治形態の相違について専ら考究している方もいらっしゃるんでしょう。日本の統治形態と類似するものがあるのか?中国王朝はかなり違いますよね。少なくとも東アジアに類例はなさそう。
2021年9月30日 1時53分

石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』p217
 この元号は朝廷で制定し、幕府が公布したのであり、さればこそ天皇が国家および国民統合の象徴たりえたのであるが、しかし、戦国時代は各地方に独立政権が存した時代であったから、朝廷の元号を使用しない若干の地方のあることを免がれなかった。
2021年9月30日 7時31分

それらの地方では、いわゆる私年号を使用したのである。たとえば、甲斐、常陸、陸奥、相模、下総などで行なわれた福徳(元年が延徳二年に当たる)、薩摩地方で行なわれた福伝(元年が延徳二年に当たる)、甲斐、常陸、会津地方で行なわれた弥勒(元年が永正二年に当たる)、〈続く〉
2021年9月30日 7時32分

私年号はもとより戦国時代にだけ行なわれたわけではなく、中央政権の衰えたときに、地方によって行なわれたことがある。飛鳥時代、源平時代、南北朝時代のごときこれであるが、戦国時代ほど顕著に行なわれたことはないのである。〈続く〉
2021年9月30日 7時33分

甲斐に行なわれた宝寿(元年が天文二年に当たる)のごときこれである。改元を奉じないで古い年号を用いた例もある。たとえば、文明三年を享徳二〇年と記したごときこれである(享徳と文明のあいだには、康正、長禄、寛正、文正、応仁がある)。〈続く〉
2021年9月30日 7時33分

それほどまでに、戦国時代における中央の統制力は衰えていたのである。〈引用終わり〉

本書は昭和57年の刊行で、昭和42年の久保常晴『日本私年号の研究』に遅れること15年なので、該書を参考にした可能性は少なくないかも知れない。
#私年号
2021年9月30日 7時34分

信長:右近衛大将

最終的に天正五年右大臣にまで登ってました。
2021年9月30日 8時2分

p230

このようにして、幕府は朝廷を政治に関与させないのは無論のこと、幕府より朝廷内部の重要事項に干渉するの途を確保したのであった。

学校で教わったような記憶がうっすらと、、、(-_-)
2021年9月30日 9時34分

p255

ペリー提督の『日本遠征記』(序論第三項政府)にも、
日本は同時に二人の皇帝を有すると云う奇異なる特質を有して居る。一人は世俗的の皇帝であり、一人は宗教的の皇帝である。

外から見るとこう見える!
2021年9月30日 14時2分

同頁

そして、将軍の政権の由来については、ケンプェルのごときも、将軍が朝廷より簒奪したものとしているが、安政五年(1858)赴任してきた英国公使オールコックが本国政府に送った報告書(尾佐竹猛『幕末外交物語』p33)にも、〈続く〉
2021年9月30日 14時6分

日本には虚器を擁せる一個世伝の君主即ち御門あり、御門は命令を出さず、又大政を施さず、其第二は大君なり、此王は選定せる制度を以て之を子孫に伝ふと雖も、基本は一時の勢いに乗じて、政権を攘奪するものに過ぎず。〈中略〉
2021年9月30日 14時12分

元治元年(1864)に、英国公使パークスが本国に送った報告書(同上三四頁)中に、詳細に日本の国情を報じて、

日本の主権は京都の皇室にある、徳川幕府は事実上の統治者であったが、今やその実力衰へて為す所が無い。
というような状態となった。〈引用終わり〉
2021年9月30日 14時15分

p256では、

日本全国の大権は御門に在り、而て大君は日本の守護を承る大将軍なり。然れども尋常一様の将軍とは異にして、大君の一組(ママ)は、恰も仏蘭西帝ナポレオン第一世の羅馬教皇より位官を受けたるが如く、御門より官位を受け、且国政の大任を託せられて之を子孫に伝えたる者にして〈続く〉
2021年9月30日 14時21分

全く独立の君主とは謂ふべからず云々。然れども大君を以て全く日本の君といふも不可なる事無し、諸大名悉く大君の命令に従ふのみならず、年々大君に年貢を払ふを以て見るべし。唯其命令を聴かざる者は、長州の如き輩と、浪人とのみ。
といった方が、よりよく実相をうつしたものであろう。〈引用終り〉
2021年9月30日 14時26分

p257の注(2)では

御門と呼ばれる精神的皇帝

という記述も。やはり見方によっては天皇がローマ教皇の如く見えたケースもありそう。
2021年9月30日 14時28分

愚生には難しいですが参考になります。
石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』
2021年10月1日 2時30分

p286-287

終戦と決したについては、天皇個人の終戦を願う意思力およびその背後に存する天皇の神格的尊厳性が大きな意味を演じたことは疑いをいれないが、しかし、法律的にいうときは、明治憲法第一条の規定が決定的な役割を演じたものといわなければならない。〈続く〉
2021年10月1日 4時25分

(1)天皇の神格性がとくに強調されたのは、大化改新のときと、明治初年と昭和末期とこの三度であり、いずれも国家統一強化の目的をもって、天皇を戴く為政者によって、意識的になされたものである。これらの時期をのぞくと、天皇が神であるというような意識は乏しい。〈続く〉

注)「昭和末期」は?
2021年10月1日 4時26分

『古事記』に見える上代の天皇も、物語や小説に見える中世の天皇も、みな人間性に富んだ自然人である。江戸時代の天皇は皇居に幽閉されたようなもので、ために、いろいろな伝説も生じているが、しかし、大化改新のときのような意味で神格化されてはいない。〈引用終わり〉
2021年10月1日 4時28分

※「昭和末期」は恐らく〝戦争末期〟のつもりか?本書の刊行は昭和57年(1982)。
2021年10月1日 4時29分

天皇の人間宣言 s21.1.1
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
2021年10月1日 7時23分

p332
すなわち、当時(16c)において、領主を異にしていても、全国民は直接には伊勢の、そして神宮をつうじて間接的に天皇を統合者として、統合されていたものというべく、〈続く〉
2021年10月1日 9時20分

この意味において、間接的ではあるが、天皇は前記のような元号の制定者として国家の象徴であったことと相まって、国民の精神的統合者たる地位にあったものということができるであろう。〈引用終わり〉
2021年10月1日 9時23分

p333

本居宣長の『玉勝間』に記すところによれば、前者(宝永2年=1705の御蔭参り)では閏四月より五月まで五〇日間に、その数三六二万人にのぼったという。当時のわが国の全人口の一割以上のものが、二ヵ月足らずの間に参宮したというのである。〈引用終わり〉
2021年10月1日 9時27分

同頁

すなわち、江戸時代においても、天皇は伊勢神宮という宗教的なものを媒介として、間接的ながら、国民の形式的な統合者たる地位を占めたのである。〈引用終わり〉
2021年10月1日 9時29分

p334-335

以上に述べたところを総合して見れば、日本国憲法の定める天皇制は、南原教授の懸念されたような「歴史ノ断絶ヲ意味スル革命主義」によって生まれたというをえないであろうし、新天皇制の採用は「肇国以来ノ大革命」を意味するものということもできないであろう。〈続く〉
2021年10月1日 9時35分

それはむしろ、歴史の自然な発展の結果と見るべきものなのである。少なくとも形態的にはそうである。〈中略〉少なくとも天皇統治をもってわが国体と考える人々に、甚大な衝撃を与えたことも否むことはできない。〈続く〉
2021年10月1日 9時37分

しかし、これらの人々の考えたわが国の国体なるものは、なんら歴史的根拠のないものであり、頭の中で空に考え出された独断だったのである。〈引用終わり〉
2021年10月1日 9時38分

同頁

こうして、到着した結果が、日本国憲法の定める天皇制なのである。その血ぬらざる伝統は平和主義を基礎とする日本国憲法にふさわしいものといえよう。〈引用終わり〉
2021年10月1日 9時40分

再読了。レベルが高く凡脳がとやかく評すべきものでもないが、天皇(制)をメインテーマに据えてこの2千年近くの本邦の歴史を説いた本は他に読んだことがないので、非常に興味深くずしりと重かった。同時に世に流れる天皇(制)云々の説がどれ程価値のあるものか、想うに大いに疑問無しとしない。
2021年10月1日 9時52分

石井良助『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』
昭和57年8月31日 第1版1刷発行
株式会社山川出版社
石井良助:東京大学名誉教授・日本学士院会員
創価大学教授
昭和5年東京大学法学部法律学科卒業
〈著書〉
『日本法制史概説』創文社ほか
Wikiによれば1990年文化勲章、1993年1月12日死去。
2021年10月1日 9時59分

石井良助氏の天皇の生成をモデル図として作成してみました。是非は措くとして邪馬台国と天皇の生成とを結びつけた意欲的主張に賛意を表します。
2021年10月2日 10時28分

最後の最後にオノコロ島をやってくれました!非常に面白い!淡路島は日本古代史の扉を開く、一つの鍵になりそうな、、、五斗長垣内遺跡も見れましたし。最初に淡路島造ったのに、どうして瓊々杵は遠い遠い日向の高千穂に降臨したのか?淡路に降臨したら東征せずに済んだのに!
ブラタモリ「淡路島の宝〜神はナゼ淡路島を“はじまりの島”にした!?〜」
2021年10月2日 13時41分

原島礼二氏の『倭の五王とその前後』を読み進めています。難解ですし、稲荷山鉄剣銘見前ですので、所説がどれほどこんにちに通用するのか不明ですが、p169で

応神が女系で先王朝とつなかっていたとする点は、井上(光貞)氏の説と変わらない。

と。原島氏は成務・仲哀が架空だとの立場。うーむ...
2021年10月7日 1時8分

当時は水野祐氏に代表されるように、古代天皇架空説がもてはやされたようです。原島氏も一部については架空を唱えておられます。

この「女系」云々の箇所は、最近読んだ義江明子さんの本に、どこか通ずるものを感じるんですが、、、
2021年10月7日 1時13分

かかる皇統譜上の位置は、応神がかつて継体と同じく、新王朝の始祖であったと考えられていたことを示している。⇦

うーむ...
2021年10月7日 4時42分

p169

この系譜自体は史実でないと考えるが(本書Ⅳ参照)、注目されるのは応神と先王朝とのつながり方である。女系でつながるあり方は、継体が手白香皇女を通じて、武烈以前の王朝につなかった形式とよく合致する。⇨
2021年10月7日 4時42分

p202

この提言(応神五世擬制説)はまず直木孝次郎氏によって支持された。直木氏は「継体朝の動乱と神武伝説」(同氏『日本古代国家の構造』所収)で、水野氏の説を念頭におきながら、継体即位と神武天皇の大和入りが共通した要素を多く持つ事実に留意されている。
2021年10月7日 6時19分

どうですかねぇ~
2021年10月7日 6時26分

p203では、この説に疑問を持つ者として清水正司、坂本太郎、黛弘道各氏の名を挙げ、黛氏の「推古朝の意義」から以下のように引きます。

まったく前の皇統と無縁の者が、しかも、その大連(大伴金村)によって擁せられ、ともかくも群臣の承認をえて皇位に即きえたといいきれるであろうか。⇨
2021年10月7日 6時33分

継体天皇は仁徳系皇統につながるものと考えて少しも差し支えないと思う」と述べられた。⇦

なるほど感あり!ただ、原島氏は黛説が〝武烈断絶説〟について触れてない点を指摘します。
2021年10月7日 6時37分

この辺りで関わってくるのが「上宮記一云」なんですが、これ確か、稲荷山鉄剣銘と関連付けて論じられましたよね。最近、稲荷山関連の本はとんとご無沙汰なんで忘れてしまいましたが、、、ということは稲荷山鉄剣銘の本を再読せねばということ?うへぇ、、、(-_-;)
2021年10月7日 6時44分

p205に津田左右吉の名が出てきますが、津田説の流れをくんでるんでしょうかねぇ、、、
2021年10月7日 7時7分

p208

乎非王はこの允恭と同時代の人物とみるべきだろう。そこでオホナカツヒメは実は乎非王の姉妹だったと推測されるのである。オバ・オイに改めたのは、大王系図と世代数を一致させるために、オホホド王が加えられた結果に過ぎない。⇦

到底理解が追いつきません(-_-)
2021年10月7日 7時7分

『倭の五王とその前後 (1970年) (塙選書)』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

応神王朝、継体王朝という概念を導入するも論証の裏付けに乏しい。何より稲荷山鉄剣銘発見以前の稿につき反正を大王とする点の克服の可否や如何?
2021年10月8日 9時28分

倭の五王ものを読んだからには、当時を思い出すためにも『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』を読まねば(・_・;)
1978/9/19 鉄剣銘文解読結果発表
10/14-15 銘文討議検討する研究会開催
11/3 直木孝次郎氏による本書「はじめに」脱稿日付
1979/1/5 新潮社より本書刊行
2021年10月8日 9時56分

・研究会参加者は以下の諸氏
井上光貞
大野晋
岸俊男
斎藤忠
直木孝次郎
西嶋定生
・寄稿者
甘粕健
佐伯有清
川口勝康
木下礼仁
※川口、木下両氏以外は全て故人となられたんですね。まさしく〝錚々たる〟方々といえるでしょう。この本を読んで気分が悪くなった記憶があります。その再現か?
2021年10月8日 10時6分

・参考資料「鉄剣銘の書と仮名の発音をめぐって」を東野治之氏が、「継体天皇の系譜―釈日本紀・上宮記逸文」の訓読を黛弘道氏、「天寿国繍帳銘」訓読文を飯田瑞穂氏が寄せておられます。
2021年10月8日 10時20分

@tPg2BSD2el0IqMg この本は稲荷山鉄剣銘について知るための基本文献と言っていいのではないかと思います。突然出現した金石文について短期間のうちにここまでの議論を組み立てられる学者というものの凄まじさに圧倒されたというのが正直な気持ちです。
2021年10月8日 12時5分

「抹殺博士」といえば水野祐博士が思い出されます。天皇を抹殺するんですから、豪胆と言うか何と言うか、、、 https://t.co/w1nLRbVOdt
2021年10月9日 9時32分

@tPg2BSD2el0IqMg 当シンポジウム出席者6氏の当時の年齢等を一覧表にしてみました。斎藤忠氏の70歳を除いて、他は還暦前後。一番脂の乗り切ってる年齢でしょうか!
『#シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』
2021年10月10日 2時55分

@tPg2BSD2el0IqMg 『#シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』のシンポジウム部分ほぼ読み終わり、巻末寄稿を読んでいますが、冒頭は甘粕健氏の「ヤマト政権と東国の古墳」。p199に気になる記述が

東海地方西部の民衆が、大和の巨大古墳の造営に動員され、その実見談が、東海道経由で関東南部に伝えられ〈以下略〉
2021年10月11日 1時11分

@tPg2BSD2el0IqMg 「動員され、その実見談」で、あの幾何学的な大土木工事である前方後円墳の築造が叶うものか。甚だ疑問に思うところ。箸墓築造について『書紀』に「昼は人が作り、夜は神が作る」と表現されるように、高度な土木技術を持つ集団が関わっていたと見るべきでは?
2021年10月11日 1時19分

@tPg2BSD2el0IqMg 各地に完成形の古墳が突如出現するのは、ワタリの職能集団の存在を考えねば説明がつかないのではないかと思うところです。
2021年10月11日 1時21分

@tPg2BSD2el0IqMg 前掲書 甘粕健「ヤマト政権と東国の古墳」p208

 五世紀後半頃の古墳には、中国の南朝からもたらされたと考えられる画文帯神獣鏡や画像鏡がしばしば副葬されているが、この種の鏡には同笵鏡が多く含まれていて、畿内を中心に関東から九州までの各地の古墳に分有されている。⇨
2021年10月11日 5時52分

@tPg2BSD2el0IqMg 稲荷山古墳出土の画文帯神獣鏡もこの仲間である。熊本の江田船山古墳にもこの種の鏡が四面副葬されている。江田船山大刀銘もワカタケルであったとすると、これらの鏡が、南朝に朝貢した倭王武が輸入して全国に配布した可能性が強くなったわけである。⇦
2021年10月11日 5時53分

@tPg2BSD2el0IqMg 同頁

画文帯神獣鏡と言えば、江田船山古墳出土鏡の同笵鏡が、宇都宮市雀宮牛塚古墳から出土している。また東京都狛江亀塚古墳からも素晴らしい画像鏡が出土しているが、この同笵鏡は、允恭陵古墳の陪塚から発見されている。⇦

鏡の分有を通じて当時の諸王権がヤマトと紐帯を結んでいた姿が。
2021年10月11日 6時14分

@tPg2BSD2el0IqMg p238

つまり倭王武の上表文に言うところの「祖禰」(祖先の意)として、ヤマトタケルが構想されたわけである。記紀において、ヤマトタケルが天皇に準じた位置を占めるのも、史実ではなく、そのような意図がもたらしたものであろう。⇦
2021年10月11日 7時26分

@tPg2BSD2el0IqMg 河内春人氏『倭の五王』を読んでツイートしましたが、前掲書中の川口勝康氏「五世紀史と金石文ーワカタケル大王の時代ー」に書かれてあるまんまですね。
hyena_no_papa
@hyena_no
河内春人氏『倭の五王』でもう一つ!だったのは158-159頁の「慣用表現が生んだ〝記憶の改竄〟」。倭王武の上表文「東征」「西服」からヤマトタケル伝承が生まれた、とする考え。こういう考え方は嫌いではないが?もある。そんなことで詳細なヤマトタケルや景行の伝説が『記紀』『風土記』に残るのか?
午後11:32 · 2020年4月8日
2021年10月11日 7時28分

@tPg2BSD2el0IqMg これも反映説の一種なのかも知れません。こういう言説に対しては粘着質になってみたい欲望が芽生えてきそうです。
2021年10月11日 7時35分

@tPg2BSD2el0IqMg 木下礼二氏「鉄剣銘文字に見る朝鮮との関係」p245で、新羅真興王巡狩碑のことが出てきますが、我国でも大彦やヤマトタケルや景行天皇の〝巡狩碑〟が出てくるといいんですがね~
2021年10月11日 9時54分

『鉄剣の謎と古代日本―シンポジウム』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

銘文文字一つ一つが他の史料的裏付けを伴って解きほぐされていく過程はスリリングでさえある。巻末寄稿の甘粕健・佐伯有清・川口勝康・木下礼仁諸氏の文からも極めて学ぶところが大きい。
2021年10月11日 13時34分

古代史に足を踏み入れてから46年、この間のビッグニュースを挙げるとすれば、一に #稲荷山鉄剣銘、二に #吉野ヶ里遺跡 発見。後者はほぼ考古学的発見ですが、前者は金石文ですから文献、考古双方にまたがる大発見と言えます。紙上報道から一月を経ずしてこれだけの面々打ち揃えてのシンポは空前絶後?
2021年10月11日 13時53分

稲荷山鉄剣に関する単行本は何冊か持ってますが、ほぼハードカバーのきちんとした装幀。風変わりな1冊が東京大学卒で皇学館大学文学部長の田中卓氏『古代天皇の秘密』。太陽企画出版でサンブックス。カッパ・ブックスの類。見かけで侮るのはイケマセン!賛否は別として読みつつ頷くことしばしば!
2021年10月11日 14時17分

『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』の翌月s54.2.25刊。Wikiによれば田中卓氏は、

田中 卓(たかし、1923年(大正12年)12月12日 - 2018年11月24日)は日本の歴史学者。皇學館大学名誉教授。皇學館大学学長を務めた。専門は日本古代史。平泉澄の弟子。学位は文学博士。大阪府出身(一部略)。
2021年10月11日 14時20分

冒頭から当時の新聞雑誌報道を列挙。これは有り難い。毎日新聞9/27夕刊一面「オオビコは四道将軍『大彦命』・崇神天皇が派遣・東国から九州中部、三世紀の大和政権支配」という見出し5段抜きの大きな記事が載ったとか。記事の内容より関西大学教授有坂隆道氏の談話に田中氏は注目!
2021年10月11日 14時25分

「金象嵌(ぞうがん)の銘文を追跡していくと、われながら恐ろしい結論に到達する。一部から〝日帝史観〟と批判されるかもしれないが、これが銘文の示す事実だと思う。百歩譲っても、雄略朝には、すでに崇神以前の天皇の実在が信じられ、大彦命を始祖とする武蔵の国の豪族の伝承があったことは、⇨
2021年10月11日 14時28分

疑う余地がない。」これは正直で勇気ある発言である。なぜなら、虚心坦懐に、文字どおりこの刀銘を読む限り、有坂氏が到達した結論に落ち着くことは、誰の目にも明らかだ。〈中略〉しかし、考えてみれば、おかしな話ではないか。⇨
2021年10月11日 14時32分

〝日帝史観〟つまり日本帝国主義史観の略称のようだが、そんな特定史観のレッテルをはって、論者の発言を封殺しようとする風潮が、果たしてこの自由謳歌の世の中にあるうるのか。一般世間の常識では考えられないことだろう。⇨
2021年10月11日 14時33分

だが、我が古代史学会には現存するらしい。そしてそれを、はしなくも告白されたのが有坂氏だ。私が、正直な発言というゆえんである。⇦

1979年当時の諸氏の発言。手元には2001年刊『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』という本も。約20年後。さて、どのように推移しているのか?
2021年10月11日 14時36分

@ArisatoCovtha 手元には『海に書かれた邪馬台国』という青春出版社の似たような装丁の本も。しかし、最近の下手な新書版古代史本より、ずっとマトモなような記憶があります。

確か辛亥年を531年、ワカタケルを欽明にあてていませんでしたかね、、、ちょっと記憶だよりですが。
2021年10月11日 14時43分

『古代天皇の秘密』Ⅰ古代への招待状では稲荷山鉄剣銘〝騒動〟を明快に解説してあり、関わった学者諸先生方には申し訳ないが、読んでいて痛快!中でも毎日新聞が韓国考古学の権威とする金元龍氏に見解を求めた記事が痛罵される。当初金氏は門外漢として遠慮されたとのことで、ここは毎日の企画ミス。
2021年10月12日 1時40分

これもリツイート。
hyena_no_papa
@hyena_no
返信先:@hyena_noさん

不思議ですよね。「タマテミ」「スキトモ」「カエシネ」「フトニ」「クニクル」「オオヒヒ」「イニエ」「イサチ」なんてのは実名ではないんでしょうか?
#津田史学
午後10:46 · 2021年9月23日
2021年10月12日 1時52分

リツイートしておきます。
hyena_no_papa
@hyena_no
返信先: @hyena_noさん
『古事記及び日本書紀の研究』p130-131で、古代天皇号について「オホヤマト」「タラシヒコ」「ヤマトネコ」等の尊称を持つものは「天皇としての呼称であって実名ではない」と。しかるにホムダワケ、オオササギ、イザホワケになると実名だと言う。これは古代史を読み始めた当初、誰かの本で読みました。
午後10:44 · 2021年
2021年10月12日 1時52分

これも。
hyena_no_papa
@hyena_no
返信先: @hyena_noさん
p163-164

さて、皇后の新羅親征が事実でないとすると、仲哀天皇のツクシへ行かれたことが事実でないことは、この点からもまた知られ、応神天皇の生誕に関するいろいろの物語もまた、事実ではないことになる。両方とも、皇后の新羅親征の説話から離しては考えられないものだからである。

飲めない。
午前10:30 · 2021年9月24日
2021年10月12日 1時53分

『古代天皇の秘密』p63

ところが最近、鉄製品などの錆が進行してきたというので、錆どめして永久保存するため、処理技術では全国随一といわれる奈良の元興寺文化財研究所に送られてきたのが、昨年の五月中旬。⇨
2021年10月12日 2時25分

その後、同研究所の分室にあたる埋蔵文化財処理センターで作業をはじめ、女子研究員の大崎敏子さんが、キラッと光る金泥粒に気づいたのが、同年七月の末。もしかすると金象嵌の文様ではないかと、同研究所の工業用レントゲン装置でエクス線をあてたところ、刀の両面から、⇨
2021年10月12日 2時29分

一一五字の文字が浮かび上がって所員一同を驚かせたのが九月十一日。それを毎日新聞のO記者がスクープして、九月十九日夕刊の〝世紀の大発見〟特ダネとなったのだ。⇦
2021年10月12日 2時30分

田中卓氏の説として
>辛亥年を531年、ワカタケルを欽明
というのは私の勘違いのようです。お恥ずかしい。40年は長いですね~ でははて、そのような説を唱えたのは誰だっけ?
hyena_no_papa
@hyena_no
返信先: @ArisatoCovthaさん
手元には『海に書かれた邪馬台国』という青春出版社の似たような装丁の本も。しかし、最近の下手な新書版古代史本より、ずっとマトモなような記憶があります。

確か辛亥年を531年、ワカタケルを欽明にあてていませんでしたかね、、、ちょっと記憶だよりですが。
午後11:43 · 2021年10月11日
2021年10月12日 9時3分

田中卓氏は乎獲居臣を武蔵国の豪族ではなく、「中央の官人」だと考えます。これは当時の多数説だった豪族説に真っ向から立ち向かうもので、興味津々。読んでいてなるほど感にあふれています!

p124
乎獲居臣は後の阿倍臣である
#稲荷山鉄剣銘
2021年10月12日 9時40分

p165からの「オホヒコ伝説虚構説の欠陥」という項では、反映説に基づく井上光貞氏の所論に対し明快なる批判を行っています。一部引用します。〈改頁〉
2021年10月12日 13時37分

とすると、この「六世紀の前半のころ」に成立したはずの〝四道将軍の話〟を、銘文の書かれた四七一年以前に〝朝廷に出仕〟したヲワケノオミが、どうして〝熟知していて、その英雄に自家の系譜の本源を求める〟ことができようか。⇦

井上光貞氏の所論には「実に巧妙な弁解」が用意されていると。
2021年10月12日 13時41分

これに続く頁での田中氏の〝追い打ち〟は痛快で、ぜひ読んでいただきたいものです。
2021年10月12日 13時45分

p170

一部の古代史家は、記・紀を疑う点においては極めて大胆で、それこそ〝慎重〟さを欠いているとさえ思われるのに、この五世紀の珍重すべき新資料の解釈については、それが記・紀所伝と一致することの故をもって、たちまち小心となり、〝慎重〟さをよそおおうとしている。不思議なことだ。
2021年10月12日 13時48分

p187からは「Ⅶ ゆれ動く井上学説の落とし穴」として井上説追求を続けます。p190で、雑誌『諸君』1978/12月号掲載の「鉄剣の銘文ー五世紀の日本を読むー」が引かれますが、幸いこの『諸君』は手元にあるので、明日にでも読んでみましょう。
2021年10月12日 14時45分

p192で田中卓氏は「地方豪族とみるか中央官人と考えるか」と問題点を簡潔に表現します。素人の感触ですがどちらかと言うと「中央官人」を支持したい気もします。引っかかるのが継体紀に見える磐井の「伴(ともがら)」。これは地方豪族子弟の朝廷出仕の匂いもします。おっと、そろそろ就寝時間に!
2021年10月12日 14時50分

p210

井上光貞氏の「国造制の成立」(昭和26年11月『史学雑誌』収載で、昭和40年時点でも井上氏自身が「私の書いた論文の中では最も学会に影響を与えたものであった」と言う)を次のように引いています。⇨
2021年10月13日 1時20分

帝紀そのものに関する限り、開化以後のもつ信頼性をそれ以前に訴求することをなんら妨げないのである。従ってこの八代の置かれたる位置と、八代に関する帝紀的な素材への可能性とは一応別個の問題であって、後者が前者によってどれだけ傷つけられるものかは一箇の問題といわざるを得ないのである。⇨
2021年10月13日 1時21分

坂本太郎博士は明快にも、この八代は統一日本の首長ではないにしても、皇室の実在の祖先ではあるまいかとせられたが※、それは十分に支持せられ得る見解であり、かつそれにまつわる皇妃・皇子・宮殿その他の帝紀的内容は、古くから語り伝えたかなり重要な伝承としてこれを扱うことも出来るわけである。
2021年10月13日 1時22分

※(日本史概説上)

そして田中卓氏は次頁冒頭で、「いまの同氏だけを知る若い研究者にとっては、驚くべき発言であろう。」と述べます。早い時期に『日本国家の起源』を読み、それを日本古代史の定説〝的〟に理解していた者としても「驚くべき発言」と言えます。
2021年10月13日 1時24分

田中卓氏の井上説批判は続きます。p211から「欠陥だらけの学会の通説」の中で、井上氏による古代天皇の和風次号の分析を吟味批判し、遂にはp221で、

しかし、私の意見を率直にいえば、これは井上氏の〝お遊び〟だ。こんなふうな積木遊びもできるという博識のほどを示されたにすぎないと思う。

と。
2021年10月13日 1時37分

p232辺りからがクライマックス。私の先日のツイートも田中卓氏のこの箇所を起点とし、未だに解消されていない疑問点。
hyena_no_papa
@hyena_no
返信先: @hyena_noさん
不思議ですよね。「タマテミ」「スキトモ」「カエシネ」「フトニ」「クニクル」「オオヒヒ」「イニエ」「イサチ」なんてのは実名ではないんでしょうか?
#津田史学
午後10:46 · 2021年9月23日
2021年10月13日 2時0分

p234

さらにいえば、もし七・八世紀のころに、その当時の感覚で古代の天皇名を造作したとするならば、私は必ずや〝天〟の字をつけ加えたにちがいないと思う。天皇名のなかの〝天〟は、(29)にはじまり、(35)からは(42)まで、全て一代の例外もなしにつけられている。⇨
2021年10月13日 2時4分

それに対して、A・B群(のみならずC・D群も)にただのひとつも〝天〟の名をもつ天皇名がでてこないというのは、それらの名が、七・八世紀的とは考えがたい、有力な証拠ではないか。⇦

29:欽明
35:皇極
42:文武
A:神武
B:綏靖-開化
C:崇神-垂仁
D:景行-神功
2021年10月13日 2時8分

p236

そしてこの推移は、天皇名だけではなく、一般の人名についてみても同じ傾向をしめしている。私のとくに論証しようとしたのは、実にこの点にあるのだが、このことによって、古代の天皇名が、後世の勝手な造作でないことが、確かに知られるであろう。〈中略〉⇨
2021年10月13日 2時12分

しかし、いずれにしても、今回の〝刀銘〟によって、少なくとも三世紀から五世紀にいたる記・紀の〝皇統譜〟――歴代天皇(大王)の存在と皇統の一系が実証されたことは、これまで〈応神天皇や仁徳天皇を始祖〉と説いてきた人々にとって、たいへんなショックにちがいない。⇨
2021年10月13日 2時15分

そして日本の歴史・伝統を考えるものにとっては、この〝刀銘〟の出現は、まさに百万の援軍を得たようなものだ。⇦
2021年10月13日 2時16分

p237

私は、昭和二十年、敗戦の年の九月に大学を出た。いや、出たというより、学徒出陣の海軍から帰ってきた、というほうが正しい。

無事帰還できたから、この本があり、私はこの本から多くを学ぶことが出来る。
2021年10月13日 2時24分

田中卓『古代天皇の秘密 鉄刀〈115字〉が証かす日本国家のルーツ SUN BOOKS』 #日本の古本屋 #さわや「古本フルフル」

5,000円!購入時の定価は650円でしたが(・_・;)
2021年10月13日 2時31分

この本は1979/2/25刊行され、3/18購入、4/29と5/8に読んでいました。続けて読んだのは余程インパクトが強かったからでしょう。巻末に急遽つけ加えられた太安万侶墓誌発見についての考察も明快!
2021年10月13日 2時53分

p239から田中卓氏が〝夢〟として語る「大舎人」の話は興味深いものが。この本が学問的価値の他に〝読み物〟としての価値も備えていることの証といえるかも。
2021年10月13日 4時22分

『古代天皇の秘密―鉄刀<115字>が証かす日本国家のルーツ (1979年)』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

当時の古代史界を牽引し、古代天皇の多くを造作だとする井上光貞氏の史観を、井上氏自身の先行論文と鉄剣銘以後の所論との矛盾を鋭く指摘しながら厳しく批判。
2021年10月13日 6時10分

さてさて、当然のことながら田中卓氏のこの本に対する批判も続出したことでしょう。議論の〝その後〟を追跡するなど、一凡人には到底不可能でしょうね。とりあえずは2001年刊行の『稲荷山古墳発見の鉄剣を見直す』を開いてみましょう。
2021年10月13日 6時15分

その前に、『諸君』1978/12月号掲載の井上光貞氏「鉄剣の銘文ー五世紀の日本を読むー」を開いてみましょう。
2021年10月13日 6時17分

読んだけど、やっぱり記紀ベースの話は難しい!田中卓氏の井上説引用に間違いがなさそうなことだけは、おおよそ理解できたような気がしますが、、、
2021年10月13日 9時59分

『稲荷山古墳発見の鉄剣を見直す』梅澤重昭「毛野の変容と稲荷山古墳」p70-71

太田の天神山古墳の首長と言うのは、古墳を作る技術の系譜上では、畿内中枢に直結する性格を持っている。⇨
2021年10月14日 1時57分

新しい、畿内のファッションと言うとおかしいですけれど、そういう新しいスタイルの古墳をすぐに採用できる立場にあった首長だと言っていいだろうと思います。⇦

へえぇ、、、
2021年10月14日 1時58分

熊倉浩靖「辛亥銘鉄剣と東国六腹朝臣の成立」p85

埼玉古墳群が「辛亥銘鉄剣」を埋納する稲荷山古墳から始まることはまことに示唆的と思います。比喩を超えて、私は、乎獲居臣たちの東国六腹朝臣の始祖達は、征夷大将軍であり、東国に幕府を開いたのだと思っています。⇦

うーーーむ(~_~;)
2021年10月14日 2時32分

@ArisatoCovtha 『稲荷山古墳発見の鉄剣を見直す』和田萃「ヲワケ臣とワカタケル大王」p123

系譜をもとにして言えば、おそらくワカタケル大王家に於いては、辛亥年の当時ではミマキイリヒコを祖とする系譜があっただろうということ、そしてその段階ではそれ以前の神統譜とでも言うべきものはまだ未成立であった、⇨
2021年10月14日 9時23分

@ArisatoCovtha そのようなことも考えることができるかと思います。⇦

どうして「考えることができる」のか?理解不能!津田史観を前提にしているのか?
2021年10月14日 9時25分

@ArisatoCovtha 同頁

八代の系譜を記してあるわけですが、もちろん、これは四七一年の段階でそういう系譜が伝承されていたということであって、けっしてオホヒコが実在したというような議論に、直接結びつくものではありません。⇦

しれーっとこんな事仰るんですが、どうしてそこまでオホヒコの実在性を疑う?
2021年10月14日 9時28分

@ArisatoCovtha 大久保利通とか伊藤博文とか明治維新で活躍した人の子孫については今でも語られることがある。じゃ、彼等の一代前、二代前については語られるか?話題になることはほぼないでしょう。オホヒコというのはそういう存在だったんでしょう。孝元天皇を出自とすることなど物語性の中ではあまり意味がない。
2021年10月14日 9時39分

@ArisatoCovtha p126

五世紀中頃から中部九州では、同一文化圏を形成していました。装飾古墳が生まれてくるといった共通性があります。それはおそらく有明海や不知火海沿岸の在地氏族が、大和王権の体外交渉に際して、軍事や外交など、あるいは物資の海上輸送などに大きな役割を果たしていた。⇨
2021年10月14日 10時1分

@ArisatoCovtha 副葬品からも、対外交渉に従事していたことが推定されます。そうした菊池川中流域の清原台地の首長に、銘文鉄刀が与えられたものと推測できます。
また清原古墳群の対岸では、阿蘇溶結凝灰岩を用いて造られた石棺が、瀬戸内海を運ばれて畿内にもたらされている事実が、⇨
2021年10月14日 10時4分

@ArisatoCovtha 熊本県宇土市教育委員会の高木恭二さんなどのお仕事ではっきりしています。江田船山古墳の被葬者は、瀬戸内海水運にも深く関わっていた。そうした背景のもとに、江田船山銘文鉄刀が与えられたと考えられます。⇦

【西服眾夷六十六國】の一つかもしれません。
2021年10月14日 10時7分

大分とヤマト政権の関係に迫る 県立歴史博物館、15日から特別展(大分合同新聞)
#Yahooニュース
※2022/1/14現在、リンク切れ

うらやましい、、、大分県はオシ!歴史は豊かで自然も豊か!食は関サバ関あじと城下カレイ!行きたいなぁ~~~
2021年10月14日 10時22分

次号⇨諡号
2021年10月14日 10時35分

@ArisatoCovtha 『稲荷山古墳発見の鉄剣を見直す』王仲殊「中国からみた五世紀における倭国の「治天下大王」」p153

それにもかかわらず、上表文と碑文とを合わせてみれば、四世紀末頃から五世紀にかけて、倭国が朝鮮半島南部に侵入して、ある程度その地を占有したことは否定できないのであります。
2021年10月14日 13時58分

@ArisatoCovtha ですよね。

※上表文:宋書倭国伝倭王武の上表文
※碑文:高句麗広開土王(好太王)碑文
2021年10月14日 14時1分

@ArisatoCovtha p154

そうした信憑性の高い歴史書である『宋書』の記述は、倭王たちの描いた夢想がゆらめく、たんなる虚構の反映とは到底考えにくいのであります。むしろ当時の倭国が朝鮮半島南部に一定の統制力を及ぼしていたという事実が、その背後に存在したものと思われます。⇦

ですよね!
2021年10月14日 14時4分

@ArisatoCovtha 金井塚良一氏による「総括」p168

ヲワケの出自については、銘文検出当時から在地―北武蔵豪族説と畿内豪族説が提示されていて、激しく対立しておりましたから、今回、先生方の間で畿内豪族としてほぼ一致していたのは意外な感じもします。⇨
2021年10月14日 14時24分

@ArisatoCovtha 確か、銘文検出当初は、ヲワケ―北武蔵豪族説が圧倒的に多かったように思います。北武蔵の豪族ヲワケが上番して、帰郷する際この鉄剣をつくらせた。銘文にはヲワケの武功が誇張して表現されている、といった解釈がいわば通説のようになっていたんです。⇦
2021年10月14日 14時27分

@ArisatoCovtha 田中卓氏が当初から畿内の官人説を唱えていたのは、慧眼と言っていいんでしょうね。尤も豪族と官人との違いはありますけど、、、
2021年10月14日 14時28分

『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

ヲワケノオミが中央豪族か地方豪族かについては中央に傾いているようだが、異論も根強い。紙上参加の岡本健一氏が加差披余を膳(カシハデ)と読むのは傾聴の一説。
2021年10月15日 9時40分

名付けるならば"cyber天皇"?これはもはやSF作家の創作領域かも、、、cyber首都までは考えついたんですけどね(・_・)
https://twitter.com/ShinHori1/status/1448980341838868480?s=20
2021年10月15日 12時10分

『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群』を読んでいます。2005/6/1新泉社刊で手元にある稲荷山関係の本の中では一番新しいようです。p18では、

つまり、未発見の主体部に埋葬された人物のために稲荷山古墳が造営されたとみるのである。

と。やはりその見方は今でもあるんですね。
2021年10月16日 7時7分

その後、この〝未発見の主体部〟についての報道がないようなので未着手なんでしょう。電探くらいやっていないんでしょうか、、、
#稲荷山古墳
2021年10月16日 7時8分

p9では乎獲居について、

さまざまな見解があるが、これまでの諸説をおおまかにまとめると、つぎの三つの説に集約できる。
(1)乎獲居は、大王が天下を治めるのを補佐した畿内豪族で、乎獲居本人が東国に派遣され、稲荷山古墳に葬られた。⇨
2021年10月16日 7時10分

(2)乎獲居は畿内豪族で、杖刀人として上番した北武蔵の豪族の子弟が杖刀人の首である乎獲居に仕え、功績が著しかったので乎獲居から鉄剣を与えられた。
(3)乎獲居は北武蔵の豪族で、被葬者も同一人物である。⇦

あんな具体的銘文を刻んだ刀を人に上げるもんでしょうか?
2021年10月16日 7時11分

@cornpresident >日本神話を
いやいや、「聖徳太子より前」と仰ってるんで、雄略や武烈を当然含むんでしょう。さすがに右の人たちもこれは拒否するんじゃないですか?
2021年10月16日 7時54分

@cornpresident >宜しいのでせうか
記紀なんてマトモに読んだこと無いんでしょう。風説をなんとなく掴んで夢見ているとか、、、
2021年10月16日 8時7分

雄略や武烈の悪行をネットで書いたら特高が飛んできそうな(-_-;) 何のためにそんなことまで天皇家の正史に書かねばならなかったのか?って問題提起は昔読んだ記憶があります。
2021年10月16日 8時9分

@max6_6facter @cornpresident ああ、逆説的にですね!?そんな説もあったような、、、悪逆を為せば王統は断絶する!という「道徳」ならあるのかも、、、
2021年10月16日 8時10分

@cornpresident 『書紀』大詰めの壬申の乱が問題ですよね。兄弟による皇位継承内戦ですから。
2021年10月16日 8時13分

@cornpresident @max6_6facter 文芸としてみれば世界に誇れる作品だとは思いますが。
2021年10月16日 8時19分

『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

鉄剣は乎獲居臣本人のものと考えたほうが飲み込みやすい。さてその乎獲居臣の出自は?そこが興味津々。p18で示唆される「未発見の主体部」も今後の調査への期待が高まる。
2021年10月16日 14時15分

@JQP1PXXHKyPpfp7 せいぜい大塩平八郎とか民衆一揆レベルでしょう。あるいは一向宗とか。明治維新にしても民衆による革命ではなく下級武士が主体となって実行したことですからね。〝民衆が主体〟という概念が日本には生まれなかったんでしょう。
2021年10月16日 14時56分

上田正昭『大和朝廷』を再読していますが、ささやかなツッコミを。p28

「倭国」「倭国王」の早い例は、五世紀の我が国土の状況を述べた『宋書』(「夷蛮伝」)の記事である。〈中略〉そこには、五世紀のわが国を明確に倭国と記し、またわが国の王を倭国王と書いてある。⇦
2021年10月17日 2時38分

>「倭国」「倭国王」の早い例
『宋書』以前に、『後漢書』倭伝に【倭国之極南界也】とあり、『魏志』斉王紀には【倭国女王】、倭人伝には3箇所【倭国】とありますね。
2021年10月17日 2時46分

@Tetsu6332311 ですね。ついつい「記述上の時代」の方へ目が行ってしまうんですよね。しかし一方で、「成立時の時代の影響」を念頭に置きすぎると、今度は逆に、それに縛られて抜け出せなくなるようで、、、一本の鉄剣でひっくり返ったりします(-_-;)
2021年10月17日 5時34分

p29で建武中元二年の倭奴国(つまり後漢書)について言及しているのに【倭国之極南界也】には触れない。『後漢書』は『魏志』に拠った部分が「少なくない」(p30)と言いますが、建武中元二年は『魏志』の埒外。さて、どこからの情報なのか?
2021年10月17日 6時9分

p44

この倭根子天皇という用例は、大倭根子日子賦斗邇(孝霊天皇)、大倭根子日子国玖琉(孝元天皇)、若倭根子日子大毗々(開化天皇)など古い天皇のおくり名に見えるが、これはむしろ後世の和風諡号にちなんだものと思われる。(注)⇦

として水野祐氏の『日本古代王朝史論』を注引します。
2021年10月17日 6時59分

稲荷山鉄剣銘の意富比垝は大彦だとすると、上引「孝元天皇」の皇子なんですよね。
https://t.co/40lnDIcRZr
2021年10月17日 7時2分

続けて上田氏は、持統の大倭根子、文武の倭根子の美称を「確実」と。持統、文武の美称を古代天皇に冠したからと言って「フトニ」「クニクル」「オオヒヒ」という実名らしき呼称が消えてしまうわけでは無いのですが、、、
2021年10月17日 7時7分

p52 後漢安定永初元年の「倭の国王」、『魏志』「親魏倭王」には言及しますが【倭国之極南界】や『魏志』「倭国」には依然として言及せず。

何か確信でもあってのこと?
2021年10月17日 7時31分

同頁に、江田船山古墳の大刀銘を反正天皇とする説が。本書の刊行がs47、4版がs51で、稲荷山鉄剣銘発見以前なのでやむを得ません。本書は1995年、講談社学術文庫から再刊されているので、そこでは恐らく改稿されているかも。
2021年10月17日 7時38分

p103-104

このように考えてくると、いわゆる闕史時代とよばれる綏靖天皇―開化天皇の時期の『古事記』や『日本書紀』の王室系譜に、后妃としてヤマトの県主の祖とするものが圧倒的に多い事情が理解されてくる。⇨
2021年10月18日 2時11分

もとよりその王室系譜には、後に造作されたところがあり、そのすべてを信頼することはできないが、なぜその系譜において、后妃の出身がヤマトの県主家の祖に求められるのか。磯城県主の祖と明記する后妃は八代の中で、七例(『記』は三例)もあり、ついで十市県主の祖二例(『記』は一例)、⇨
2021年10月18日 2時15分

春日県主の祖二例(『記』は一例)となっている。この系譜のいわれはいったいどこにあるのか。
とくに三輪王朝の本拠であった磯城県主家の祖先とする者が多いことに注目される。これは、磯城地方の首長らを服属させて、三輪祭祀権を掌握し、⇨
2021年10月18日 2時30分

その地に磯城御県を設け、御県神社をまつって王領化していった事情をめぐる歴史意識がこのような系譜をささえる精神であったと思われる。十市・春日など周辺の県主家の系譜が仮託されているのも、王権の拡充とあながち無縁ではあるまい。⇦

なんかすごくいいこと言っているような気がしますが、、、
2021年10月18日 2時33分

p141から「河内王朝 系譜の潤色」という項目で、成務仲哀あたりの和風諡号から「その在位が疑問視されている」と。しかし、読んでみて到底納得できる話ではありません。
2021年10月18日 14時3分

引用します。「成務・仲哀両天皇に関する事績は極めて少なく」と言い、「もとの帝紀は、景行天皇から五百木之入日子→品陀真若王→中日売へという形であったと考えられること。」と。しかし、この3名についてどれだけの「事績」があったのかは取り上げていません。はなはだ不審です。
2021年10月18日 14時7分

ふと思い出したのが肥後和男氏の『邪馬台国は大和である』で昭和46年刊。今読んでいる上田正昭氏の『大和朝廷』はその翌年。後者の〝もやもや感〟と前者の〝スッキリ感〟の対比が面白い。前者はいずれまた読まねば。
2021年10月19日 1時59分

p166

文献伝承の上では、即位前の反正天皇つまりミズハワケ皇子が同母兄の住吉仲皇子を殺害した個所に、隼人が登場してくる(『日本書紀』)。

戦前は『書紀』のこのような記事がどんな扱いとされていたのか?まさか天皇家の正史を禁書にするわけにもいかないでしょうし、、、
2021年10月19日 4時20分

同頁

少なくとも五世紀後半になれば、中部九州より南部九州へとしだいに王権も広がっていったと推定される。日向を出発点とする東征説話や熊襲平定の説話などの原型は、こうした倭王権の南下を背景に形がつくられたと見るのが妥当であろう。

昔から不思議でした。なぜ「夷人」の地を神武進発地に?
2021年10月19日 4時26分

「妥当」?どして?ワケワカラン(-_-;)
2021年10月19日 4時28分

p185

『古事記』や『日本書紀』の伝承によると、允恭天皇(倭王済)は、葛城襲津彦の孫(一説に子)とされる玉田宿禰を倒したという。また安康天皇(倭王興)は叔父にあたる大日下王(大草香皇子)を殺したが、葛城円大臣の庇護を受けた大日下の子目弱(眉輪)王によって刺殺されたと伝える。⇨
2021年10月19日 9時57分

そこで安康天皇の弟の大長谷王(のちの雄略天皇)は、軍をおこして目弱王と葛城円大臣を倒し、さらに葛城氏出身の黒姫と履中天皇との間にできた市辺忍歯王(市辺押磐皇子)らを殺して即位したのだという。⇦
2021年10月19日 10時1分

すごいですね~ 皇位継承をめぐる親族間の殺し合い!
2021年10月19日 10時6分

結局、武烈天皇で皇統が断絶しそうになって曲折経て継体天皇を田舎から引っ張って来るんですよね。応神天皇5世の孫という触れ込みで。このあたりからですかね、天皇の不親政の伝統が生まれるのは、、、
2021年10月19日 11時8分

『大和朝廷』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

古代天皇の幾許かについては架空だとの立場を取るが、和風諡号の解釈が恣意的であるなど『記紀』信疑の判定が曖昧で、現今の読者を納得させるだけの十分な根拠を備えているとは言い難いかも知れない。
2021年10月20日 0時15分

肥後和男氏の『邪馬台国は大和である』を再々読していますが、p22に久米邦武について触れ

怡土城に居て漢韓との交通をした国造は女王卑弥呼の国でその子孫が筑紫国造であろうとし、〈以下略〉

と。久米の論文は明治24年史学雑誌「住吉社は委奴国の祖神」。どこか古田説に通じるものがありそう。
2021年10月20日 4時12分

つまり「魏志」倭人伝を重視するあまり、大和そのものについての歴史的発展をかえりみないでいる。或いはそんなものは問題にするに足りないといわんばかりの態度をとっている。私はこうしたやりかたに大きな疑問をもっている。日本側の史料として「古事記」「日本書紀」その他がある。⇨
2021年10月20日 10時15分

p71-72に肥後和男氏の基本的立ち位置が明確に述べてあります。

 私も長い間この問題に取組んで来たが、これを解決する道は、ひとつは大和朝廷の歴史的発展を明らかにすることである。その点において従来の―といっても近代の研究はすべてこれを閑却して来た。⇨
2021年10月20日 10時15分

これらの史書はなるほど八世紀に作られたものである。その点で三世紀に書かれた「魏志」にくらべるとその史料価値においてかなり劣ることは否定できない。⇨
2021年10月20日 10時16分

ことに津田左右吉博士が、この両書を研究して、それが天皇政権を証明するために、後世に至って作為されたものだと述べてから、それに追随するものが多くなった。⇨
2021年10月20日 10時17分

ことに戦後は反天皇制的気分がひろがって、その起源について記・紀を否定する傾向が強まり、日本の起源については何よりも「魏志」を信ずべきだという考えがとくにいちじるしくなった。⇦

本書著作当時既に古希を過ぎているとは思えないほど非常に柔軟で明快です。
2021年10月20日 10時21分

p75

津田博士以来作為という言葉が、あまりに強くひびきすぎて、すべてが何の根拠もない、全く得手勝手な作り話だといった印象を与えているのは、大変残念である。

うんうん。スッキリ爽やか!
2021年10月20日 13時31分

p88

私としてはこの点を特に強調したい。つまり前方後円墳というものこそ大和朝廷のシムボルで、その出現が大和朝廷の成立を示し、その展開が朝廷政権の発展に平行しているということである。私も若い頃は考古学者のはしくれであり、多少の業績をあげたことがある。⇨
2021年10月20日 13時49分

しかしその後それをやめてしまったので、自分の研究によって、叙上の原則を立証し得ないことは大変残念であるが、おおよその見当ははずれないと信ずる。それでこの古墳が三世紀に出現した可能性があれば、大和政権も三世紀に成立したことになる。⇦

今から遡ること丁度半世紀前!
2021年10月20日 13時50分

p90

こうして私はたとえ素人論といわれようとも高塚古墳の発生が畿内で行われたことを考え、それを大和政権の出現とむすびつけて、日本の古代的統一を推論しようとしているのである。⇦

行論の姿勢としても明快!
2021年10月20日 13時54分

p98に立てられた項目名が「中国文化は日本統一の原動力」。

明快ですね!
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 2時30分

p104

九州は皇祖発祥の地
こうして私は皇祖が歴史的には日向でなしに北九州に発祥したと考える。大体古代の伝承の中で皇室が北九州を征服したという話が全く見えないのも不思議なことである。それはそこがごく早い時から皇室によって支配されていたからだと解するのは行きすぎかもしれないが、⇨
2021年10月21日 4時19分

そうした解釈も一応は成り立つのではあるまいか。⇦

半世紀前!原田大六説との先後関係は?
2021年10月21日 4時20分

しかし、上田正昭氏の『大和朝廷』と比べると、躊躇なく草むらへ切り込んでいく感があります。喜田貞吉や白鳥庫吉らの先学説にも目を配りながらの推進力は魅力的です。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 4時24分

p106

要するに伝承をそのまま歴史として信ずるわけではないが、皇祖が一段と進歩せる武器を帯して東遷し、成功したということはいかにもありそうな話である。⇦

こんなこと言うと恐らく、皇国史観の亡霊!などと非難されるんでしょうが、西力東漸は否定仕様もなく、、、
https://t.co/qXBqADfVlc
2021年10月21日 4時43分

p146

ただ前にのべたように前方後円墳は大和朝廷と共に畿内において発生したらしいという素人説を忘れないでほしいというにとどめたい。⇦

謙虚というか謙遜と言うか、それでいてこの曖昧模糊とした問題に自分なりの所説を提示。甚だ潔いと言わざるを得ません。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 9時37分

>「奴」=異民族の国名に付けられる卑下の接尾辞
では奴国は「接尾辞」だけの国名ということになりますよね?
https://twitter.com/coffeehumans/status/1451076402946588678?s=20
2021年10月21日 10時23分

@coffeehumans 他にもそういう捉え方する方はいらっしゃるので分からないでもないんですが、魏志倭人伝には2つの奴国が出てきますよね。この本読んで、この件はどうなるんだろ?と素直に疑問を持ちました。
2021年10月21日 13時14分

p174-175

これらの所伝(注:国造本紀)に出てくる崇神・景行等の諸天皇はすべて記、紀の伝えるものであるが、今日の進歩的歴史学者にとっては記・紀はすべて虚構であり、歴史としてはとるに足らざるものであろう。⇨

#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 13時33分

しかしその人々も大抵、応神・仁徳以後は信ずるに足るという態度をとるのが普通である。私にはそこのところがよく分らない。どうしても理解しかねる。応神・仁徳を認めることができるならばその以前の成務・景行・垂仁・崇神をどうして切りすてるのか。⇨

#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 13時34分

古墳の発展の系列から見ても応神・仁徳陵が兀然としてあらわれたわけではなく、崇神や景行の堂々たる前方後円墳が存するのである。⇦

素朴な疑問。その素朴な疑問を公言するところに著者のスジを見ます。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 13時36分

p181最終章「邪馬台国は大和である」扉の挿図とキャプチャ。

卑弥呼(ヤマトトトヒモモソ姫)の陵

石碑には「倭迹々日百襲姫命大市墓」と刻まれてある。
2021年10月21日 13時49分

p187

ヤマトトトヒモモソヒメの登場
 私は大和朝廷による統一が、崇神朝に行なわれたことを肯定するものであるが、その方法については前に八十万神を神浅茅原に集めたという伝承を重視し、それこそ日本の統一を伝えるものであるとして、その意味内容を分析した。⇨
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 14時6分

ミマキイリヒコの父の開化天皇の妹になるから、書紀ではこれを崇神の姨であるとしている。この女性が八十万神が集ったとされるその大集会において神憑りとなり、三輪の大物主神の意志を伝宣したことになっている。⇨
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 14時7分

それは「魏志」に、共に一女子を立てて王としたという記載と一致するものと見るのである。この神集いに際し脚光をあびたのがヤマトトトヒモモソヒメであった。「日本書紀」によると、彼女は孝元天皇がウチシコメ皇后との間にもうけた姫君であったという。⇨
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月21日 14時7分

書紀によるとそれがいとぐちとなって天下が治ったとある。これは「魏志」に卑弥呼が「鬼道に事え能く衆を惑した」とある記事に恰当しよう。鬼道というのは神道のことである。⇦
#肥後和男 #邪馬台国は大和である

邪馬台国と大和朝廷の創始との二つながら包摂する仮説として選択肢の一つ。
2021年10月21日 14時10分

@coffeehumans >中華思想によるもの
というのは記憶にないんですが、奴国の極南界について冨谷至氏と同様の所見をお持ちの方はおられたと思います。確か西嶋定生氏もそうじゃなかったですかね?西嶋氏の論考は膨大で一部しか読んでおりませんが、、、
2021年10月21日 14時22分

p209

載斯「烏」越が載斯「鳥」越になってました(^^;) 写真植字なんでしょうね。これは原稿の読み間違いかな?#肥後和男 #邪馬台国は大和である https://t.co/pmeBimgFVL
2021年10月22日 9時22分

しかし私は崇神天皇の建国を肯定する立場から、三世紀において、朝廷の勢力はすでに東国に及び、毛野地方の経略に着手していたことを認め、後の研究者の判断を待ちたいと考えている。⇦
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月22日 9時51分

p210

こうした考えかたは大和朝廷による日本の統一をできるだけおそい時代におきたいとする進歩的歴史家たちにとってはナンセンスという外はないであろう。⇨
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月22日 9時51分

p210-211

崇神陵なんか信ぜんられるものかというならば、応神・仁徳陵でもあてにはならないということになる。⇦

きっぱり!
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月22日 9時54分

p211

卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメである

いよいよ佳境に入ります!
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月22日 9時57分

@cmbWpF4rpmVATjH p256からは最終章「邪馬台国は大和である」が。

「邪馬台国というものもれっきとした歴史的現実で」「遺跡がはっきり残るべきはずである」として、次のように述べます。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 1時29分

@cmbWpF4rpmVATjH こうした条件にあう土地を今日から推定すれば、それは北九州の博多を中心とする地域か、大和、河内の地帯しか考えられないのである。そして奴の国が・博多にあり、そこは邪馬台国ではなかったとすれば、結局は大和・河内以外には有り得ないのである。⇦
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 1時30分

@cmbWpF4rpmVATjH 再言しますが本書はs46.11.15刊。古田武彦氏の第1書『「邪馬台国」はなかった』と全く同じ日なのです。肥後和男氏は本書の中で「博多を中心とする地域」を邪馬台国の候補地の一として挙げつつ、それを奴国に比定し邪馬台国を大和に求めることになります。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 1時34分

@cmbWpF4rpmVATjH 理路として奴国の位置比定が邪馬台国の位置比定に影響したということは、肥後和男氏の仮説の建て付けから言えばありえないのですが、外形的には古田氏の邪馬壹国博多湾岸説に接近していることになります。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 1時37分

@cmbWpF4rpmVATjH p256からの「邪馬台国は大和である」は到底半世紀前に書かれたものとは思えないほど、しっかりとした骨格を備えていると言えそうです。p259に言う「東洋史の諸賢」への言葉は今なお生きていると感じます。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 2時24分

@cmbWpF4rpmVATjH p257-258

その築成の年代は客観的に証明することが困難であるが、少なくとも卑弥呼のために大冢が作られたという記載から、三世紀には既に出現した可能性があり、それは様式的に見て畿内をさきとしなければならない。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 2時27分

@cmbWpF4rpmVATjH p259末尾

ただ「魏志」に伝える邪馬台国が大和であるという一点は、今日なお多くの反対論があろうとも、やがてはそこに帰一されることを信じている。⇦

纏向の実態が知られるにつれ、肥後和男氏の〝予言〟は年々確かさを増していると言っていいのかも知れません。
#肥後和男 #邪馬台国は大和である
2021年10月23日 2時32分

井上光貞氏の『日本国家の起源』(岩波新書1960/4/18第1刷発行)を久し振りに再読。p24

中山(注:平次郎)氏の考えでは、五七年後まもなく、国王は畿内大和にに移った(神武東征)。
#井上光貞 #日本国家の起源
hyena_no_papa
@hyena_no
ヤマト王権の成立時期(記憶に基づいてなんとなく。九州王朝説は除く)
57:倭奴をヤマトと読む。
107:倭国王帥升がヤマト王権の始祖。
180頃:卑弥呼共立時にヤマトに王権誕生。
247-266:卑弥呼死後、臺與がヤマトに東遷。
280頃:邪馬台国東遷しヤマト王権に。
午後3:12 · 2021年7月22日
2021年10月23日 13時38分

p25
 中山氏のこの学説に多少の変更を加えながら、それをさらに発展させたのは、中山氏の門弟、原田大六氏の、奴国王の環境を単独のテーマとした『日本古墳文化―奴国王の環境』(一九五四年)である。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月23日 13時46分

原田氏は中山氏と異って、一〇七年の倭面土国を北九州の末盧国にあて―したがって中山氏のいわゆる「神武東征」はこの時以後のこととなる―一、二世紀には奴国も伊都国も末盧国も並存したとみるのであるが、⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月23日 13時47分

しかし、末盧・伊都・奴等の諸国が分立していても、それら諸国を糾合して一人の国王が当っていたのではなかろうか、と述べている。⇦

やはり原田大六氏の想定はややこしい。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月23日 13時48分

もし、伝承のもとづくところが史実であったとしたら、事実を見損なうことになるかも知れないし、少なくとも貴重な材料を切り捨てる結果になって、せっかく古人の残してくれた遺産をないがしろにしてしまうおそれが十分にありうるであろう。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 12時45分

p71

 したがって、中国の記録だけを使って、国土統一の過程をあとづけ、伝承は一切無視してしまうという態度をとることは、誤りを侵さないという意味で賢い方法ではあるが、良心的とはいえないであろう。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 12時45分

矛盾するとしたら、それはなぜであるのか。さらに古伝承は、中国の記録では見逃された何か新しい問題を提起してはしないだろうか。
 伝承と史実の関係を探ってみるのが、ここでの課題である。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 12時46分

またその伝承がなんらの史実からもうまれてものではなくて、まったくの空想の所産であるとしたら、その空想がどういう筋道ででき上がったかを説明する必要があるだろう。
 中国の記録からあとづけてきた国土統一の過程は、記紀の古伝承とは矛盾しないだろうか。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 12時46分

前頁で津田左右吉氏の「考え」に言及した上で、一歩進めた考察。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 12時48分

さて、いよいよp71から「神武東征は史実か」という項に突入!初読時の記憶は既に無いので、鬼が出るか蛇が出るか?身構えながら先へ!
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 12時53分

p75

 さらに大和征定についてみると、それは東遷の話とはちがって具体的であるが、記紀の一般的性質から判断すると、大部分が「神異の話や地名説話、歌物語など」のよせあつめで、それを「取り去り、また人物を除けて見ると、此の物語も、殆んど内容のない輪郭だけのものである」。⇦
#井上光貞
2021年10月24日 13時2分

上掲引用文の「」部分の欄外に鉛筆で以下のように私は書き込んでいました。

そんな事をしたら 全ての伝説は消えてしまう。

そりゃ「人物を除けて見ると」、物語なんてものは「内容のない輪郭だけのもの」になる。当たり前の事。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 13時5分

p76からの「津田説の展開」では、津田説を批判する和辻哲郎や津田説以前の中山平次郎の研究を取り上げつつ、一方で津田説を継承発展させる門脇禎二、直木孝次郎、水野祐諸氏の論考を解説。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 13時27分

713,821,860各年に発見された銅鐸について『続日本紀』等によれば当時の人がそれを知らなかった点を和辻が指摘していることに言及する。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 13時28分

p91
 津田学説は、神武の名をも含めて神武伝承の骨組が六世紀前後に成立したということを明らかにした点で十分に人を納得させるものがあるが、考古学上の事実、中でも銅鐸の問題は、北九州文化の担い手の東遷を証明しているようにみえる。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 13時49分

ヤマトの国号の問題も、邪馬台国の東遷を前提としてみるときわめて合理的に理解されるのである。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月24日 13時50分

筆者がここで、神武東征の史実性について断言を保留したら、無用の長談義に時を費やしたことを叱責されるかも知れない。しかし、多くの学者がこれだけ議論を重ねながら、ここまでしかわかっていないのである。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源

正直な吐露なんでしょうが、結局〝玉虫色〟と言えそう。
2021年10月24日 13時51分

けれども、物語は観念の所産としてできたものではなくて、朝鮮出兵の史実がなんらかの径路で記憶された結果であろう。全体の調子が説話的であること、進路の記載がきわめてぼやけていることは、記憶の事実がなかった証拠ではなくて、記憶の仕方があいまいであっただけのことである。⇨
#日本国家の起源
2021年10月25日 2時10分

p108

記紀の古伝承が、新羅征討の物語をこの前後のこととして述べているということは、朝鮮出兵の事実が決して忘れられてはいなかったことを物語っているであろう。オキナガタラシ姫の物語は、津田氏のいうように六世紀、またはそれ以後にできたものである。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 2時10分

その伝説、口碑が旧辞にまとめられた時が、六世紀またはそれ以後であったので、朝鮮諸国が新羅だけとされ、文化の低い新羅の国が宝の国になったのである。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源

ここは至極当然のことを仰ってます。これだけのことを言うにも憚られる空気があったのか?そこはかとなく、、、
2021年10月25日 2時13分

p109で、アイヌのユーカラ研究で有名な金田一京助氏の所論を引いていますが、伝承の形成と伝播については世界的な研究も少なくないでしょうに、その辺りを援用しないのは怪訝に思えます。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 2時34分

昔、TVで見た英国のアーサー王の話。町ゆく人へのインタビューで、アーサー王の伝説自体はかなり知られているが、いつの時代の人であるかについては市民の回答はバラバラ。うっすらした記憶では千年くらい幅があったような、、、
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 2時37分

井上光貞氏は金田一京助氏の「一番早く忘却されるのは人名である」との言を引きますが、果たしてそうなのか?子供の頃の記憶を遡れば、世界的なビッグネームについて、名前だけはなんとなく知っていたものの、いつの頃の何をした人かなど知らなかった。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 2時40分

邪馬台国問題に首を突っ込んだ当初に素朴に思ったこと:狗奴国の男王・卑弥弓呼や官・狗古智卑狗の名が、いかにして『魏志』に〝漢字〟で記録されるに至ったのか?
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 2時44分

p121では例によって津田流の欠史八代について。「クニオシ」が安閑(ヒロクニオシタケカナヒ)、宣化(タケヲヒロクニオシタテ)と共通していることを以て記紀「の作られたころに最終的にきまったものとみざるをえない」と。じゃ、スキトモ、カエシネ、フトニ、クニクル、オオヒヒは?
#日本国家の起源
2021年10月25日 6時43分

そんな論法が通用するのなら、天智(アメミコトヒラカスワケ)の「ワケ」を以て、景行(オホタラシヒコオシロワケ)・応神(ホムタワケ)以下のワケ諡号をもつ天皇などの実在を疑うこともできるわけで、、、
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 6時48分

もちろん稲荷山鉄剣銘中に見える「獲居」がワケと読むことは異論のないところで、天智より遥か以前のこと。この事実に鑑みれば、津田左右吉の見立てとは逆に、クニオシにしろワケにしろ、〝リバイバル〟という見方も保持しておくべきなのかも。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 6時53分

p128に興味深い記述が。

エミシ五十五国が、どの辺をさすのか明らかでないが、八三五年の法令に、旧記にいわくとして「白河(福島県白河郡)、菊多(茨城県多賀郡)の二つの関は、それが置かれてから四百余年たっている」と述べてある。
#井上光貞 #日本国家の起源

出典は未確認。
2021年10月25日 7時18分

この「四百余年」が信拠しうるものとすれば、それはまさしく五世紀の頃。『宋書』【自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國】の「東征毛人五十五國」が極めて現実味を帯びて来ます。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 7時21分

p130-131

 倭五王の時代、すなわち五世紀には、日本の国家の境域は、西は九州から朝鮮の南部にわたり、東は関東に及んでいた。三世紀中葉の卑弥呼の時代には、九州北部に連合が形成されていた程度だった。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 7時26分

その勢力が東遷したのか、大和に自生したのか、はっきりわからないにしても、五世紀中葉には、大和朝廷が、日本の中心地帯を一つの統治組織のもとにまとめあげていたのである。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源

「五世紀中葉」の歴史観に限ってみれば、恐らく是であり、模糊たる津田氏観からの脱皮かと。
2021年10月25日 7時29分

この頁を以て前編を終えていますが、そこには「国家統一の記念碑」たる応神・仁徳以下の巨大前方後円墳を「記紀のいかなる所伝よりも、国家統一時の天皇の権威の雄大なスケールを物語っている」として締めくくっています。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 7時32分

本書の刊行が1960年。稲荷山鉄剣銘発見の18年前のことです。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月25日 7時35分

真実の―
―の真実
本当は―
誰も知らなかった―
いま明らかになる―
―なかった
―は終わった
間違いだらけの―
学校では教えない―
逆転の―
―はウソだった
―のすべてが分かる
etc. https://t.co/DBRE0TK21w
2021年10月25日 13時29分

p148からの「邪馬台国は専制国家か」に進んでいますが、興味深いのは欄外に手書きしたNON,OUIが現在とほぼ逆なこと。例えば卑弥呼の共立について。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 1時2分

例えばp155

したがってまた「互に攻めあって年を経た」の主格も「共に一女子を立てて王とした」の主格も、邪馬台国内部の諸豪族ではなくて、地方小諸国であると見なければならないであろう。

に対して欄外に〝OUI〟と賛意を。しかし現在は逆の意見に傾いています。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 1時8分

p157「邪馬台国と服属国」という項目で、

したがって、邪馬台国連合はそれぞれ、まさしく主体性を持つ諸国の連合であり、専制国家ではありえない。⇦

ちょっと言葉の使い方に疑問。「連合」なら「専制」ではないでしょう。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 1時36分

邪馬台国は7万の人口を擁し4等官を置く。邪馬台国自体は専制国家のごとく見えます。王統も継続している如し。『後漢書』には【國皆稱王,世世傳統】とあります。これは漢に通じる三十許国について述べてありますが、当然大倭王の居した邪馬臺国も同様でしょう。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 1時42分

p158

これにたいし和田清氏は、明のとき満州女真の強大な首長が、数十百道の名を借りて交易の利を収めた例をあげ、三十国の通交ということは事実であろう、「女王国の使臣が三十国の朝貢名簿を一まとめにして持って行ったものに外なるまい」と述べている。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 2時48分

私はこの説を正しいと考える。⇦
#日本国家の起源

「朝貢名簿」ですか!?賛同したいところですが、そのような実例を挙げて欲しい気もします。
2021年10月26日 2時49分

p161で、倭人伝各国の大官については「それぞれの国王が任意に設置した」とするも、「副の卑奴母離」については「邪馬台国の派遣官」だったと推測していますが、これについては同感ですね。ただ「それぞれの国王」はやや微妙な表現。各国に「王」はいませんので。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 9時36分

同頁末尾

卑奴母離は古来、「夷守(ひなもり)」と解され、辺境守備の意味とみられている。越後の頸城郡には夷守(比奈毛里)という郷があったことが九世紀の和名抄にみえているが、これは蝦夷に対するものだったろう。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 9時40分

日向にもまた夷守があったが(書紀の景行の巻と兵部省式)、これは熊襲隼人に対しておかれた施設であったろう。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源

この見解には同意ですね。確か福岡にもヒナモリがありましたよね。奴国の副官は卑奴母離。ドンピシャ!
2021年10月26日 9時43分

p165

二世紀末には倭国の大乱が起こり、その混乱のなかで諸小国家は卑弥呼を盟主に擁立した。⇦

これはおかしいですよね。邪馬台国は7万余戸、投馬国は5万余戸ですから「小国家」ではありません。まさかこの2国が「擁立」に関わらなかったわけでもないでしょうし。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 13時38分

p166

卑弥呼の遣使は、久しく等閑視されていた中国の朝鮮統治が、魏の帯方郡設置によって回復された直後のことであった。⇦

これは変。「帯方郡設置」したのは公孫康で魏の官職を得ていたとしても「魏の」「設置」と書くのは疑問。その上、「直後」も変。帯方郡設置は204頃、卑弥呼の遣使は239。
2021年10月26日 13時55分

p166

ところが、卑弥呼の時代も、最近の古墳学者の成果によれば(六三頁参照)、まだ古墳時代ではないのである。とすれば、地方小国家の国王たちは、階級的支配者にまでは達せず、共同体の代表者のような存在だったかもしれない。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月26日 14時29分

p169からの「タラシヒコ系の帝紀・旧辞」という項で天皇の名について分析をしていますが理解不能。ミマキイリヒコ、イクメイリヒコ、イワレヒコが「ヒコ」を共通している都市、「D群のタラシヒコ系の人々の名と同日に論じることは躊躇される」と。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 1時32分

「タラシヒコ」も「ヒコ」を含んでますが?

ヒコは倭人伝のクコチヒコ、百済記のソツヒコなど、その頃の人としてもおかしくはない名だからである。

って、なんじゃらほい!神話上の海彦・山彦はどうなるの?
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 1時36分

p169-170

まず帝紀についてみると、E群(応神以後)の天皇の名は最も原初的、D群(景行→神功)のタラシヒコ系天皇の名は七世紀的、B群(綏靖→開化)の名は八世紀的で、さかのぼればさかのぼるほど新しくなるのであるが、B・D群の間のC群(崇神・垂仁)、B群の前のA群(神武)は、異例である。⇦
2021年10月27日 1時42分

じゃ、スキトモ、カエシネ、フトニ、クニクル、オオヒヒは何世紀的というんでしょうか?この件については徹底的に無視しているように見えます。
#井上光貞 #日本国家の期限
2021年10月27日 1時45分

p175

してみると、オオタラシヒコはのちに加えられたにしても、オシロワケの名はもとの旧辞にあったのであろう。⇦

じゃ、スキトモ、カエシネ、フトニ、クニクル、オオヒヒも「もとの旧辞にあったのであろう」でいいはず。
#井上光貞 #日本国家の期限
2021年10月27日 2時23分

とにかくこの辺の推測は根拠を伴っていません。景行からヤマトタケル、仲哀、応神と続く系譜は「改作」されたもので本来は、景行、イオキイリヒコ、ホムダマワカ、ナカツヒメ(応神后)と続くものだったと。推測の根拠が諡号。現在でもこんな考えが支持されているのか?
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 2時29分

「根拠を伴っていません」といいつつ「根拠が諡号」ってのは変。何と表現したらいいのか?そんなもの、根拠にならないでしょ?という趣旨とご理解いただければ^^;
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 5時28分

p179「英雄物語の素材」では、倭王武の上表文を取り上げ、「タラソヒコ系の物語とそのテーマがよく似ている」と。その挙げ句、「上表文はこの三つの物語が五世紀の中葉以前に成立していたこと、しかもその頃にはすでに昔話となっていたことを示しているのである」とまで。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 5時33分

武の上表文中の「東は毛人を...西は衆夷を...」をあくまでも「物語」と捉えようとします。武からすればこの1世紀ほどの間に起きたであろう""史実""であっても一向に不思議ではないはずなのに、頑なにそのような考えを避けようとしているように見えます。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 5時38分

p181

五世紀の中葉には英雄物語にふさわしい内容をもっていた二つの物語の素材が、記紀の現在の形態に固定したのは、石母田(正)氏の説くように、六世紀以後に顕著となった専制国家的体制下の宮廷の雰囲気のためであろう。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 5時47分

物語群は、今日そのあとをたどることのできないモディフィケーションをうけて、七世紀のなかごろには帝紀・旧辞におさまり、八世紀はじめに古事記・日本書紀の今の形態に定着したのである。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 5時49分

四世紀を英雄時代とすることに一見矛盾するのは崇神の存在である。崇神はハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)といわれ、実在の人物なら三世記のなかごろか、四世紀のはじめの人である。人はいつのまにか、この時に国家が成立した、という迷信を作り上げてしまった。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 10時8分

しかし国家とは何であるか。ハツクニシラススメラミコトが、本篇でいっているような国土の統一者でないことは、記紀自らの伝承の語るところである。崇神は大和の神々を祀り、四道将軍を派遣したが、それはただ、北陸・東海及び東山・山陰・山陽に将軍たちを送ったというだけのことである。⇨
#井上光貞
2021年10月27日 10時12分

これはおそらく「四方計略という概念によって作られた物語」(津田)であろうが、かりに文字通りとっても、崇神のときには九州にさえ、その勢力は及んでいないのである。ほぼ国土が統一されたのは四世紀も終りか、五世紀のはじめであることは前篇の終りで述べた通りである。⇨
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 10時16分

ただ石母田氏が、五世紀をも英雄時代としたのは気がかりである。藤間氏は英雄時代を四世紀までとしたが、あの巨大な陵墓を作った諸天皇の地代を英雄時代と考えるのはどうであろうか。しかしこの問題は次の章で、またとりあげる機会がある。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 10時18分

「北陸・東海及び東山・山陰・山陽に将軍たちを送ったというだけ」と言われますが、崇神紀60年には出雲振根が筑紫往還する記事が見えますし、65年には任那の国が筑紫の国を去る二千余里とあります。この頃には筑紫沿岸がヤマトの影響下にあったと見て問題ないと思います。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 13時24分

p183からは「4 国土統一者は征服王朝か」という項目で、まず江上波夫氏の騎馬民族説を取り上げます。p189では『旧唐書』の「日本国は倭国の別種なり」「日本はもと小国、倭国の地を併す」を引きます。江上書も読みましたが『旧唐書』が取り上げてあったんですね。忘却!
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 13時39分

延々と征服王朝説の解説と疑問点の指摘が。p204では

前に述べたように、皇室系図は応神まではほぼ信用しうるが、神功以前は疑わしいというのが、津田氏以来の定説である。⇦

#原田実 氏のこんなツイートを思い出しました。
https://t.co/nOqVQoCkqr
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 14時11分

稲荷山鉄剣銘発見で揺らいだのは九州王朝説ばかりではなかったんでは?津田史観も支柱が大きく軋んできたんじゃないかと思いますが、、、
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 14時13分

p210

私は以上の二点で、水野氏の、応神を九州におこった征服者であるとする考えばかりでなく、応神を南九州の狗奴国と結びつける見解にも、成立の可能性があると考えるのである。⇦

当今この説を支持する人がいるんでしょうか?
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月27日 14時25分

同頁

与えられた記録や伝承に関する限り、騎馬民族の襲来を想定することは、応神朝の場合にも、困難であることを物語るものであろう。⇦
#井上光貞 #日本国家の起源

「記録や伝承」から「応神を南九州の狗奴国と結びつける見解」が生まれる?『記紀』に書かれてあるとおりに解釈してどんな難が?
2021年10月27日 14時30分

p220 国家の起源

応神朝は日本の歴史の上の、エポック・メイキングな時代である。応神・仁徳・履中の三陵は確かに、古代天皇制国家の確立の記念碑である。

前方後円墳Big3は確かに河内に所在しますが、それらに次ぐものは大和に多く存在。しかも河内より古い。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 0時57分

それら大和の多くの前記古墳についての考察から逃れているのは、いかにも不審。規模こそ河内が勝るとは言え、築造技術自体は大和の前記古墳築造時に既にほぼ完成していたと見られます。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 1時0分

これだけの土木工事に大量の人員資材を動員できるということは一定の疆域を持った古代国家が、大和に成立していたと考えて何らの支障もないはずです。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 1時4分

これらの事実に対し、目を背けるとまでは言わないまでも、明らかに矮小化していると断ぜざるを得ないのが井上光貞氏の『日本国家の起源』再読後一番の感想です。辛辣に言えば、津田史観に絡め取られながらも、何とか自分の足で前へ進みたいと〝もがいている〟姿が窺えます。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 1時7分

前記古墳の存在や、定型化した前方後円墳が、高い築造技術を概ね維持したまま4世紀以降、全国に拡散したことや、三角縁神獣鏡の分有関係などを見れば、崇神朝を大和国家成立の一画期とみるのが正しいと思えます。もちろんそれには〝プレ〟の時代があるのは確かでしょう。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 1時16分

前記⇨前期 訂正します。
2021年10月28日 1時25分

『#日本国家の起源』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

これだけの土木工事に大量の人員資材を動員できるということは一定の疆域を持った古代国家が大和に成立していたと考えて何らの支障もないはず。崇神朝を大和国家成立の一画期とみて是。
#井上光貞
2021年10月28日 1時25分

その〝プレ〟の時代の姿ははっきりとは窺えませんが、その王系の中には〝スキトモ、カエシネ、フトニ、クニクル、オオヒヒ〟という素朴な名を持つものがいたのかも知れません。後にも、ヲケ、オケ、オホトという素朴な名を持つ天皇がいました。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 1時30分

巻末参考文献に懐かしい文献名が

牧健二『神武東征伝説の史実性試論』史林、1954年

所謂、投馬国東遷説。日向の都万、今の妻町にあった投馬国が東遷して大和朝廷となった!という説。ロマン性は最右翼。
#井上光貞 #日本国家の起源
2021年10月28日 2時15分

#遠藤慶太 氏の『#東アジアの日本書紀』を借りてきたので読む。何やら難しそう(-_-;)

p26に
第四代、安寧天皇
と。あれ?と思って岩波文庫『古事記』を開く。安寧は第3代ですよね?『書紀』巻四の「四」と勘違いしたのか?それとも別の意味があるのか?

弘法も筆の誤りってこともあるし、、、
2021年10月28日 9時19分

@kunatabure 『古事記』『日本書紀』ともに磐井は殺されたことになってますが、『風土記』では逃れ山中で死んだことになっていますね。判官贔屓なんでしょうね。義経や西郷隆盛は実は生き延びていた!みたいな、、、
2021年10月28日 10時9分

遠藤慶太『東アジアの日本書紀』p122からの「潤色と出典論」p123

 ところが歴史記録が中国古典によって潤色されている場合、書き記された内容が果たして事実であるのかを見極める必要が生まれてくる。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 1時56分

極端な場合、漢籍の文章を切り粘りしたのみで、実際にはなかったことを書いているのではないか、との疑いが抱かれるのは仕方がないのかもしれない。ただしそれでも、『日本書紀』の記述がまったくの「偽作」なのか、それとも事実があっての「潤色」であるのかは別の議論が必要である。⇨
#遠藤慶太
2021年10月31日 1時57分

ただ敷田年治が仏教伝来記事の典拠(唐・義浄訳『最勝王経』)の指摘を通して、出典論が及ぼす『日本書紀』の史料性をいち早く問題にしたことは評価しておきたい。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 1時58分

「潤色」即「偽作」とするのは、あまりに乱暴すぎる。同じ論法を適用すると、『続日本紀』 の漢文詔勅でさえ事実性が疑われてしまうだろう。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 1時58分

p134

近年は国書(外交文書)の検討が活発であるので、今後はそれらの方面から特有の字句について研究が進展することを期待したい。ただ現時点では右に挙げた諸例に照らすならば、やはり「貴国」の称は、外交文書にみえる二人称的な意味を出ないのではなかろうか。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 2時41分

「貴国」とは、「こびへつらったいやな称」なのではなく、〈あなたのお国〉といった程度の外交儀礼上普通に使用された語とみておく。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 2時47分

だが『日本書紀』が百済史書を採用するに当って示した態度は、原資料である百済史書を尊重するものであり、みだりに手を加えたとは考えがたい。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 2時48分

p134-135
 百済史書のうち「百済記」だけが「貴国」の語を用いていること自体は重要で、百済人の立場で日本の朝廷に提出した文献であることは揺らがない。「貴国」や「天皇」「日本」の語は、『日本書紀』編纂の最終段階で書き改められたとみる意見もあるだろう。
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 2時48分

「貴国」について「日本の修史家の潤色」とみた津田左右吉の意見に対して、三品彰英の批判は「想うに、書紀撰者よりも博士がより一層潤色主義者ではなかろうか」と、痛烈である。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 2時49分

p146

『日本書紀』は通常考えられてきたよりも歴史的な書物である。「歴史的な書物」とは、何世紀にもわたって形成された記録・伝承が組み込まれ、複雑な成り立ちをしたという意味で述べている。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 6時47分

そのような書物の性格を考えるとき、最終段階の編纂を注視するだけでは答えが見いだせない。完成時に視点を固定して『日本書紀』をテキストとして読むアプローチだけでは、『日本書紀』の姿を捉えることに限界があると思うのである。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 6時48分

p147-148

『日本書紀』は五・六世紀史の叙述において朝鮮諸国に対して特別な関心を寄せた。それも独自の記録・伝承というよりも、分註による直接引用・本文に取り込んでの間接引用を含め、全面的といえるまで百済史書によりかかって歴史を叙述する。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 6時57分

武烈紀・継体紀において倭国内の記事と直結しない百済の王位継承を記述したのが明らかな例で、岩橋小彌太がもらした「これでは日本書紀ではなく、百済書紀といふべきである」との感想は率直である。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 6時59分

日本で最初に勅撰による歴史書が誕生したとき、結果としてこれほど対外交渉を採り上げることになった背景には、どのような事態が想定されるであろう。〈中略〉⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時1分

ただし、聖徳太子・蘇我馬子は史書編纂の監修者であっても直接の執筆者とは考え難い。編纂の実務を担った者がいるはずである。それは誰か―わたしは百済系の書記官(フミヒト)と考える。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時3分

p151

倭王讃に遣わされて宋に赴いた「曹達」、江田船山古墳出土大刀で銘文を書いたとある「張安」などは、文筆を以って倭王権に仕えた渡来人のさきがけとみなすことができる。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時11分

p152

倭王武の上表文を起草しうる人物は、やはり渡来系知識人、それも百済に関係が深いとみて大きな誤りはない。

#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時23分

『日本書紀』の側では、雄略天皇から「愛寵」をこうむったと特記された「史部(ふひとべ)」身狭村主青・檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が候補に挙がる。身狭や檜隈は渡来系氏族が多く住んだ大和国高市郡の地名であり、「史部」は文書・記録にたずさわった集団を指す。⇨
#遠藤慶太
2021年10月31日 7時28分

身狭村主・檜隈民使が雄略天皇の寵臣とされた理由を考えれば、二人が「呉」(江南、中国南朝)に派遣された履歴は押さえておくべきなのである。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時30分

大王の宮廷に原初的な官制が組織され始めた五世紀代において、渡来系の書記官はその一端を担う存在であった。当初は大王との個別的な関係(愛寵)によって書記官が登用され、継続的に外交に関与していたのであろう。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時32分

やがて加耶をめぐる新羅との角逐を経験し、国政を整える段階―百済の復興を支援した見返りに新たな渡来人を迎えた六世紀代、欽明朝において、編成された書記官が制度として固定されてゆくのであろう。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 7時36分

そうであるならは(ママ)、初代天皇の巻に最初の干支として記されている「是年也、太歳甲寅」には、実年代の表示というよりも、循環する干支の始まりに初代天皇が出現したことを表現したものであろう⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 13時11分

p186
 問題はそれだけではなく、『三五暦記』の逸文は天皇について説明したくだりなのである。中国でいうところでは、太古の帝王、三皇五帝のうちのひとりを「天皇」という。⇨
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 13時11分

(東野治之「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』塙書房、一九七七年。一九六九年初出)。⇦
#遠藤慶太 #東アジアの日本書紀
2021年10月31日 13時12分

『#東アジアの日本書紀―歴史書の誕生』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

ともあれ『日本書紀』は素人が軽々に云々できるものではないことを改めて自覚。ただ、本書をもってしても大和朝廷の創始については依然闇の中を彷徨う如し。 #遠藤慶太
2021年10月31日 13時38分