Xなどネット上の投稿を見ていると、『魏志』倭人伝など信用できない!として軽んじるものを時折見かける。そのような発言をする人たちは、恐らく『魏志』倭人伝をつぶさに読んだことが無いのだろうし、現今の邪馬台国論争が考古学界の成果も含めてどういうレベルまで進んでいるかも知らないのだろう。
特に同書倭人伝の後半で全体の1/3強を占める倭と魏との外交記事は余りにも具体的であり、二度の魏使来訪などかかる外交記事は他の東夷諸伝に類を見ない。その外交記事を裏付ける考古学的徴証の一つとして景初・正始の紀年銘鏡が挙げられよう。卑弥呼が難升米を魏に遣わしたのが景初三年(現行本の二年は誤)、難升米帰還は翌正始元年。この間の年号を刻んだ鏡が国内から8枚出ていることは下表(表4 日本出土の紀年銘鏡にみられる同型鏡)を一瞥して分かる通りで⑤から⑫までがそれに当たる。
その中で特筆せねばならないのが景初四年銘鏡であることは言うまでもない。景初四年が実在しない年次であることは史料に基づけば疑いのないところである。ただ一部に景初四年が実際に使われた可能性を論じる向きもあるが、安岳三号墳の「永和十三年十月」墨書銘と同様に改元を知り得なかった故の齟齬であると見て大過ないのではないか。また実在しない年号については三木太郎氏が「三角縁神獣鏡国産説を批判する―景初四年鏡を軸として―」(『季刊邪馬台国32号』1987年夏号)p55-56に以下のように挙例されている。
①景初三年までしかない年号が四年と記されているのはおかしいというが、黄初三年までしかなかった呉の黄初四年の年号を記した対置式神獣鏡が、現在まで日本と中国で五面(うち一面は、呉の地域にあたる湖北省鄂城出土)発見されている。)
他に拙ブログではこの「景初四年」に関する掲示板時代からの投稿を集めてあり、それらを列記すれば以下のとおりである。
承
さて、この景初四年問題を語り始めると当時の書籍等を紐解くだけでうんざりしそうであるし、最近の議論の行方もほぼ把握していないので、そこは体よく回避することとして、「景初四年ありやなしや」についてYahoo!掲示板上で交わされた貴重なやり取りの一部を引用させて貰うことにしたい。runsunnoleさん、tenchuukunさん、hige_daruma_3seiさん、yamatogawakonanさんの諸氏には同板の好で引用させていただくことにどうか御寛恕を賜りますよう!
景初四年
2005/7/2122:27
メッセージ: 32815 / 33434
投稿者: runsunnole
二年か三年かの議論に横槍ご免。
>景初は四年(冗談。三年)までですから、
hyena_no_papa さんは、来年は平成18年だと言い切れますか。
景初三年の翌年が景初四年だなんて誰にも分からないのですから、景初四年銘鏡が存在するということは、「景初四年」は存在したと考えるのが「筋」ではないでしょうか。
晉書志第二の「景初元年七月、公孫文懿叛。二年正月、遣宣帝討之。三年正月、天子崩。四年三月己巳、太白與月倶加景晝見、月犯太白。」の四年は「景初」ではないでしょうか。
明帝が「景初三年春正月丁亥朔」に死去したため、景初四年正月(となるべき月)を景初三年後十二月とし、景初四年二月(となるべき月)を改元して正始元年正月にしたのですから、「正始元年春二月乙丑」(三少帝紀 齊王芳)はあり得ないのではないでしょうか。
原記録には「景初四年春二月乙丑」とあったのではないでしょうか。
これは hyena_no_papa さんの 32775 に対する返信です
>景初四年
2005/ 7/21 23:04
メッセージ: 32818 / 33434
投稿者: tenchuukun
>晉書志第二の「景初元年七月、公孫文懿叛。二年正月、遣宣帝討之。三年正月、天子崩。四年三月己巳、太白與月倶加景晝見、月犯太白。」の四年は「景初」ではないでしょうか。
正始で改元されずに景初4年のままだとすると、4年3月朔辛巳で己巳が25日。暦に合致します。
正始で改元されたとして、正始4年3月朔癸亥で、3月には己巳は存在しません。
この4年3月己巳が景初である可能性は高いんじゃないでしょうか。
これは runsunnole さんの 32815 に対する返信です
月犯太白
2005/ 7/22 11:39
メッセージ: 32830 / 33434
投稿者: hige_daruma_3sei
>四年三月己巳、太白與月倶加景晝見、月犯太白
己巳→乙巳
己巳なら3月朔癸亥の7日
この日に、太白(金星)が、月に再接近していたのなら、天文計算で確認できるのでは。
これは tenchuukun さんの 32818 に対する返信です
訂正です
2005/ 7/24 0:07
メッセージ: 32860 / 33434
投稿者: tenchuukun
>正始で改元されずに景初4年のままだとすると、4年3月朔辛巳で己巳が25日。暦に合致します。
>正始で改元されたとして、正始4年3月朔癸亥で、3月には己巳は存在しません。
己巳を乙巳と打ち間違えて朔閏ソフトをまわしてしまいました。
したがって上記は結果が逆です。
失礼しました。
これは tenchuukun さんの 32818 に対する返信です
>>事後報告
2005/ 7/29 23:37
メッセージ: 33068 / 33434
投稿者: hyena_no_papa (999歳/男性/倭国)
>青龍四年三月己巳
『晋書』・・・四年三月己巳太白與月加景晝見月犯太白占同上
『魏志』・・・四年春二月太白復晝見月犯太白又犯軒[車袁]一星入太微而出
なんか、クサイような気が・・・。もちろん「二」「三」は気にする必要は無いでしょうが。
これは hyena_no_papa さんの 33065 に対する返信です
ありました!「三月己巳」
2005/ 7/29 23:54
メッセージ: 33069 / 33434
投稿者: hyena_no_papa (999歳/男性/倭国)
『芸文印書館二十五史・三国志集解』の当該記事、
>四年春二月太白復晝見月犯太白又犯軒[車袁]一星入太微而出
の「二月」に注して次のようにあります。
【盧文[弓召]曰宋志作三月己巳】
これで決まり・・・ですね!ここにも「二」「三」の誤写有り!でした。
これは hyena_no_papa さんの 33068 に対する返信です
> 事後報告 2005/ 7/30 0:03
メッセージ: 33070 / 33434
投稿者: yamatogawakonan
> 青龍四年三月己巳(ユリウス暦5月19日)の昼間にあったんですな、これが!
なるほど。これですか?
宋書天文志「青龍四年三月己巳,太白與月倶加丙,晝見.月犯太白.」
晋書天文志「四年三月己巳,太白與月倶加景晝見,月犯太白.」
決まりですね。「錯簡」ってやつですかね。
これは tenchuukun さんの 33063 に対する返信です
失礼!
2005/ 7/30 0:12
メッセージ: 33071 / 33434
投稿者: yamatogawakonan
hyena_no_papaが、より詳しく指摘済みですね!
これは yamatogawakonan さんの 33070 に対する返信です
失礼!^2
2005/ 7/30 0:14
メッセージ: 33072 / 33434
投稿者: yamatogawakonan
申し訳ありません。
敬称が落ちてしまいました。
多謝!
これは yamatogawakonan さんの 33071 に対する返信です
>> 事後報告
2005/ 7/30 0:22
メッセージ: 33073 / 33434
投稿者: hyena_no_papa (999歳/男性/倭国)
>宋書天文志
>晋書天文志
>決まりですね
はい、そのようですね!いい勉強をさせていただきました!諸先輩方に感謝しつつ、本日はいい気分で就寝いたします。お休みなさい!
これは yamatogawakonan さんの 33070 に対する返信です
転
次に、現実として景初四年が歴史上存在しなかったと考えられることを確定事項として踏まえるとすれば、実際にその年号の鋳込まれた鏡はいつ鋳造されたものか?同時代と考えざるを得ない。かつて一部には景初・正始年号鏡は後の時代に記念すべき年次を鏡に鋳込んだとする見方があったやに記憶しているが、「後の時代」であれば景初四年が実在しないことは周知のことであるはずだから、そのような見方は却下されることになる。また、倭において「後の時代」の人が景初・正始を記念すべき年次だと想起するにはそのような記載のある文献を見なければならない。つまり『魏志』倭人伝が古墳時代に我が国に渡来していたことを前提とせねばならぬはずであるが、漢籍渡来は遣隋使以降のことであるから、到底想定し得ないことである。
なれば最早、景初四年銘鏡が同時代鋳造のものであることは動かず、それに前後する景初三年鏡、正始元年鏡もまた当然同時代の鋳造となる。しかるに景初、正始年号鏡の分布を見れば畿内へ至るコース上に分布しているように見えるし、中でも大量の鏡を副葬している桜井茶臼山古墳から正始元年鏡が見つかっているし、何より邪馬台国九州説比定地の多い北部九州からは1枚も出ていない。
『東アジアの古代文化』1987年春・51号 岡本健一 「景初四年」鏡の行方 p46一、日本に来た呉の工人が、なぜ敵方の魏の年号を用いたのか。
まず、「景初三年」も「正始元年」も、実年代を表すものではない、とする薮田嘉一郎氏らの見方がある。「景初三年」は卑弥呼の朝責した年として、後代まで長く記憶されたから、有名な年号をいわば符牒のように使った、と見るわけだ。
さらに、「景初」といい「正始」といっても、文字が判然としなかったり、欠落したりで、これまでの釈文に異議がある、よる立場もある。しかし、「景初四年」鏡の出現で、こうした見方は成り立たなくなったようだ。後の世の人が、はじめからない(と分かっている)架空の「景初四年」銘を、鏡に入れるはずがないであろうし、一方、「景初四年」の年号はだれの目にもはっきりと鋳出されていて、これと酷似した銘文をもつ他の年号鏡の年代も、「景初」「正始」と判定できるからだ。
一方、呉の工人作鏡説に立つ人の間でも、菅谷文則氏(橿原考古学研究所)のように、魏からの渡来工人も混じっていたのではないか、――つまり、呉と魏と倭の三国の工人たちが共同して作ったという意見が出された。
卑弥呼が初めて魏へ遣使した景初三年から正始元年の銘を刻む鏡の存在は倭女王之所都が畿内であることを指していると考えるのが自然であろう。いや、それでも九州説の立場から、それらの鏡はもともと九州の諸勢力が所持していたもので畿内への移動時に携えられ、やがて畿内に築かれた古墳に副葬されたのだと主張することは可能かもしれない。
結
寸考の最後にこれら年号鏡などの理化学的分析についての論考を引用したい。『季刊邪馬台国60号』1996年秋号p207からの
総力特集 三角縁神獣鏡論争に新視点―馬淵久夫氏らによる鉛同位体比研究―
馬淵久夫・平尾良光「景初四年銘龍虎鏡の鉛同位体比」
(辰馬考古資料館『考古学研究紀要』2、一九九一年一月二十一日刊にのせられたものの転載)
から一節を引用しよう。(※hy注:表2,図1は略。)
3.結果と考察
資料の測定値は表1のようになった。
筆者らがすでに測定した漢式鏡のデータから、神獣鏡など後漢中期以降の鏡は前漢鏡とは異なったグループを作ることがわかっている。神獣鏡や画像鏡を図にプロットすると、図1の中央から左下にかけての帯の中に取り、右上に集る前漢鏡とは画然と異なる。さらに、発表を準備中の多数のデータを含めて総合的にみると、神獣鏡の中で「舶載」三角縁神獣鏡はさらに狭い、斜線を付けた範囲に収る。
以上のことを前提にして、今回測定した景初四年銘龍虎鏡二面の同位体比をプロットすると、図1に示すように「舶載」三角縁神獣鏡の領域に完全に収ってしまう。これは、材料の面で景初四年鏡と「舶載」三角縁神獣鏡とは区別できないということで、両者が同じような原料を使って作られた可能性が高いことを意味している。参考までに、すでに発表した紀年銘のある神獣鏡のデータ(表2)を図1に示した。魏の年号である景初三年、正始元年が刻まれている三面の鏡は三角縁神獣鏡であるから、当然のこととして斜線部分に入るが、呉の年号である赤烏元年銘鏡は斜線から外れた左下方に位置する。魏と呉のこれらの年号は、数年違うだけで同時期であるが、原料の出所は異なると言える。製作に携った工人(集団)が違うとも言えるのではないだろうか。
寸考の結びを短言すれば上掲引文の
「今回測定した景初四年銘龍虎鏡二面の同位体比をプロットすると、図1に示すように「舶載」三角縁神獣鏡の領域に完全に収ってしまう。これは、材料の面で景初四年鏡と「舶載」三角縁神獣鏡とは区別できないということで、両者が同じような原料を使って作られた可能性が高いことを意味している。」
というあたりがここ数日の拙考のまとめとはなりそうだが、果たして如何なものか?
| 年号 | 鏡式 | 径(cm) | (国)年号(西暦) | 出土地 古墳名 | 銘文 | 備考 | 鏡出土古墳のおよその築造年代(「日本古墳大辞典」による) |
| ① | 方格規矩四神鏡 | 17.4 | (魏)青竜三年(235) | 京都府竹野郡弥生町と中郡峰山町との境 大田南5号墳 | 青竜三年顔氏作竟成文章左竜右虎辟不詳朱爵玄武順陰陽八子九孫治中央寿如金石宜侯王 | ②③と同型。1994年(平成6)出土 | |
| ② | 方格規矩四神鏡 | 17.4 | (魏)青竜三年(235) | 大阪府高槻市安満御所の町 安満宮山古墳 | 青竜三年顔氏作竟成文章左竜右虎辟不詳朱爵玄武順陰陽八子九孫治中央寿如金石宜侯王 | ①③と同型。1995年(平成7)出土 | |
| ③ | 方格規矩四神鏡 | 不明 | (魏)青竜三年(235) | 個人蔵 | ①②鏡と同文とみられる | ①②と同型。この表の下の〔註〕をみよ | |
| ④ | 平縁神獣鏡 | 12.5 | (呉)赤烏元年(238) | 山梨県西八代郡三珠町鳥居原狐塚古墳(鳥居原2号墳) | 赤烏元年五月二十五日丙午[造作竟白凍精銅服]者君侯[宜子孫寿]萬年 | 1894年(明治27)〈1〉出土 | 5世紀中葉の築造か |
| ⑤ | 三角縁神獣鏡 | 23.0 | (魏)景初三年(239) | 島根県大原郡加茂町神原 神原神社古墳 | 景初三年陳是作鏡自有経述本是京師社[地命]出吏人[詺之位至]三公母人詺之保子宜孫寿如金石兮 | 1972年(昭和47)出土 | |
| ⑥ | 画文帯神獣鏡 | 23.1 | (魏)景初三年(239) | 大阪府和泉市上代町 黄金塚古墳 | 景初三年陳是作詺詺之保子宜孫 | 1951年(昭和26)出土 | 4世紀末から5世紀初頭ごろの築造と考えられる |
| ⑦ | 斜縁盤竜鏡 | 17.0 | (魏)景初四年(240) | 京都府〈2〉福知山市天田 広峯15号墳 | 景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之保子宜孫寿如金石兮 | ⑧〈3〉と同型。1986年(昭和61)出土 | 4世紀後半と考えられ、福知山盆地では最古の一つとみられる |
| ⑧ | 斜縁盤竜鏡 | 17.0 | (魏)景初四年(240) | 宮崎県か 出土地不明(辰馬考古資料館蔵) | 景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之保子宜孫寿如金石兮 | ⑦〈4〉と同型。 | |
| ⑨ | 三角縁神獣鏡 | 22.6 | (魏)[正]始元年(240) | 群馬県高崎市柴崎字蟹沢 柴崎古墳(蟹沢古墳) | [正]始元年陳是作鏡自有経述本自𦭴師社地命出寿如金石保子宜孫 | ⑩⑪⑫と同型。1909年(明治42)〈5〉出土 | 5世紀初頭の築造と考えられる |
| ⑩ | 三角縁神獣鏡 | 22.7 | (魏)[正始元年](240) | 兵庫県豊岡市森尾小字市尾 森尾古墳 | [正始元年]陳是作鏡自有経述本自𦭴[師]社地命出寿[如金石]保子[宜孫] | ⑨⑪⑫と同型。1923年(大正12)出土 | 年代の決め手に欠けるが、4世紀末から5世紀初頭の年代を与えておきたい |
| ⑪ | 三角縁神獣鏡 | 22.8 | (魏)正始[元]年(240) | 山口県新南陽市竹島 竹島古墳(御家老屋敷古墳) | 正始[元年陳是作鏡自有経]述本自𦭴師社地命出[寿如金石保]子宜[孫] | ⑨⑩⑫と同型。1888年(明治21)出土 | 5世紀前半の築造か |
| ⑫ | 三角縁神獣鏡 | ー(破片) | (魏)[正始元年](240) | 奈良県桜井市外山 桜井茶臼山古墳 | [正始元年陳]是[作鏡自有経述本自𦭴師社地命出寿如金石保子宜孫] | ⑨⑩⑪と同型。2010年(平成22)出土 | 4世紀中葉ごろの築造と考えられる |
| ⑬ | 平縁神獣鏡 | 17.0 | (呉)赤烏七年(244) | 兵庫県宝塚市安倉南 安倉高塚古墳(安倉古墳) | [赤]烏[七]年[太歳〈6〉]在丙午昭如日中造[作]明[竟]百[幽]漳服者富貴長楽未央子孫[盤昌可以昭]明 | 1937年(昭和〈7〉12)出土 | 4世紀末葉の築造か |
| ⑭ | 平縁神獣鏡 | 13.0 | (晋)元康□年(291〜299) | 伝京都府相楽郡山城町上狛 上狛古墳 | 元康□年八月二十五日氏作鏡□□ | 不明 |
| 書籍名 | 頁 | 記事 | 著者 |
| 季刊邪馬台国 30号 1987年冬号 | 21 | 第1特集 第30号記念特集―古代史研究16のポイント 4 畿内の遺跡に関連して 「景初四年」鏡への疑問―国産鏡説の有力資料 | 奥野 正男 |
| 季刊邪馬台国 30号 1987年冬号 | 22 | 第1特集 第30号記念特集―古代史研究16のポイント 4 畿内の遺跡に関連して 景初四年在銘の磐竜鏡と邪馬台国 | 横山 貞裕 |
| 東アジアの古代文化 51号 1987春 | 2 | 一九八六年考古学の成果と問題点-景初四年の鏡をめぐって | 森 浩一 |
| 東アジアの古代文化 51号 1987春 | 35 | 「景初四年」は存在したか-国産説の有力史料 | 奥野 正男 |
| 東アジアの古代文化 51号 1987春 | 42 | 年号鏡“幻の景初四年”をめぐって-元旦の忌日を避ける窮余の一策だった | 坂本 義種 |
| 東アジアの古代文化 51号 1987春 | 44 | 「景初四年」鏡の行方 | 岡本 健一 |
| 東アジアの古代文化 51号 1987春 | 50 | 市民と考古学-景初四年銘鏡の報道から思うこと | 松下 煌 |
| 東アジアの古代文化 51号 1987春 | 59 | 景初四年の鏡をめぐって-古代史通信特別版 | |
| 季刊邪馬台国 32号 1987年夏号 | グラビア | 福知山広峰15号墳出土景初四年鏡 他 | |
| 季刊邪馬台国 32号 1987年夏号 | 10 | 総力特集 大論争!これが卑弥呼の鏡だ 論争・景初四年鏡と三角縁神獣鏡 話題の論文全訳 日本で出土した景初四年銘の三角縁磐竜鏡について論ず | 王 仲殊/竹下 ひろみ・訳 |
| 季刊邪馬台国 32号 1987年夏号 | 26 | 総力特集 大論争!これが卑弥呼の鏡だ 論争・景初四年鏡と三角縁神獣鏡 先駆的論文の紹介 三角縁神獣鏡は魏の鏡にあらず | 高坂 好 |
| 季刊邪馬台国 32号 1987年夏号 | 45 | 総力特集 大論争!これが卑弥呼の鏡だ 論争・景初四年鏡と三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡国産説を批判する | 三木 太郎 |
| 季刊邪馬台国 32号 1987年夏号 | 58 | 総力特集 大論争!これが卑弥呼の鏡だ 論争・景初四年鏡と三角縁神獣鏡 景初四年の鏡 | 辻 直樹 |
| 季刊邪馬台国 32号 1987年夏号 | 157 | 第3特集 鏡をめぐる資料 景初四年鏡と景□三年鏡 | 小山 満 |
| 季刊邪馬台国 34号 1988年冬号 | 236 | 読者のひろば 景初四年鏡について | 久保田 穣 |
| 季刊邪馬台国 54号 1994年夏号 | 68 | ニュースフラッシュ 卑弥呼の鏡・埴輪 景初四年銘鏡の謎 | 建 豊男 |
| 季刊邪馬台国 60号 1996年秋 | 207 | 総力特集 三角縁神獣鏡論争に新視点 ―馬淵久夫氏らによる鉛同位体比研究 景初四年銘龍虎鏡の鉛同位体比 | 馬淵 久夫/平尾 良光 |
| 季刊邪馬台国 104号 2010年2月 | 97 | 特集 卑弥呼の墓・宮殿を、捏造するな!〈おかしいぞ、マスコミ便乗主義考古学〉 「景初四年」は、存在した! | 笛木 亮三 |