「和田家文書」の伝承はなかった

Ⅰ開米智鎧、福士貞蔵、佐藤堅瑞各氏の著作に見える「諸翁聞書」「諸翁聞取帳」「寛永聞取帳」そして「飯詰諸翁見取帳」「諸翁見書」

年次 記事内容 出典 備考
昭和23~24年頃か? 「飯詰町諸翁聞取帳」 文政五年 今長太
・飯詰町佛教改政(hy注:「正?」と傍書してある。恐らく本人か?) 寛永十六年己卯三日 飯詰町奉行所
・飯詰町寛永流行もの 寛永二年 仏具古物屋六助
・飯詰町奉行所ジヱスト始末書 寛永(hy注:「文」を消して「永」と傍書してある)十五寅十日(hy注:もしくは「月」)死罪言渡 飯詰町奉行所
・目明し三五郎 寛永十六年八月 正庵覚書
・飯詰町猛(hy注:「猪」と書いて抹消)者上都 寛永十六年十二月廿二(?)日
寛永十七年四月 双兵エ 大光院僧都
・同年月日 北屋差七 七面大明神鎮守堂創立
・護摩焼 寛永十五寅如月廿日

「高楯城系譜」(文政五年 今長太編飯詰町諸翁聞取帳
3
昭和24年 追記
①朝日鳴海家の祖先 (本文6行省略)
②高楯城主の奥方難を大原に避く (本文7行省略)
③高楯城主の祖先
勤王の士雲の如く起りて鎌倉幕府を仆し、建武中興なりたるも賞罰當を失し、ヒ政多きを歎き、藤原藤房屢々言上して諫むる所ありしも聽かれず、茲に於て藤房前途に見切を着け、官を捨てゝ僧形となつて廻國したが、土佐で死んだとも又は下北郡に於て死んだとも傳へられ、今以て其の死所は不明であるが、庄屋作左エ衛門覺書に「藤原藤房卿は諸国を巡り巡りて東日流に入り、正中山梵尉寺に身を隠くし、其の子景房山を下り飯詰に高楯城を築く云々」とあり、又飯詰町諸翁聞取帳にも「藤房正中山梵尉に忍び、安東貞時の長女を迎へて室とし、其の子景房興國五年高楯を築く云々」とある。其の系譜に於ては多少異なる点はあるが、藤房卿の津軽落は事實であらう。
附記
高楯城系譜(約2頁の本文略) (飯詰町諸翁聞取帳
④高館城主浪岡を援く (約2行の本文省略) (庄屋作左エ衛門覺書
⑤高館城より浪岡城へ嫁入 (約3行の本文省略) (同書
⑥樺澤團右エ門の武勇談 (約2行の本文省略) (飯詰町諸翁聞取帳
因に大浦軍は小敵と侮り、長者盛の麓に悠々と休息し、油斷して居つたが、高館兵の爲め不意を襲はれ、周章狼狽一戰を交へず蜘蛛の子の如く四散した。同所に母衣掛ミノ捨の地名あるは夫れに因るのである云々と長橋村の古老間に語られてゐる。諸翁聞取帳に「天正七年三上定之亟は十助佐助八重等の夷人五人を以て千餘騎の大浦軍を破る云々」とあるは、或は此の戰の記事であるかも知れぬ。
⑦島原亂の出陣者感状を受く (本文11行省略) (同帳
⑧キリシタン信徒飯詰山に隠ぶ (本文9行省略) (同帳
⑨右捕手戰死 (本文6行省略) (同帳
因に同聞取帳に「切支丹取捕のおり、目明し三五郎受傷六寸四分、正庵に十六針云々」と載せられてゐる。
⑩高館城の顚末 (本文6行省略)
因に同聞取帳に、
原子城・館越城 管領大里也 (hy注:「・」は二つ或いは三の単語が波括弧で括られていることを示す。以下同)
江流澗・大波澗 高楯城管領
外濱末郡・澗邊郷・下郡 行丘城管領
右蝦夷守護役茲仁定也
弘治二年七月四日 北畠顯具
朝日左エ門尉藤原藤安殿
と載せられてゐる。
4
昭和24年 勤王の士雲の如く起りて鎌倉幕府を倒し、目出たくも王政復古となり、昨日の悲憤は今日の悦びと化したが、賞罰當を失ひ、秕政多きを嘆き、藤房卿は縷々諫奏したが、毫も容れられなかった。茲に於て藤房卿は奉公の甲斐なきを悲しみ、官位を捨て北山の岩倉に入りて僧となった筈であるが、今日に至るも其の終る所が知られなかった。然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を發見した。
記録は「諸翁聞取帳」といつて、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取つた事柄を書留めた物で、筆写と同じく餘り學力のある方ではないらしく、文体は成つて居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介することにした。〈hy注:以下、高楯城系譜についての記述〉
1
昭和26年 降って文明十二年(2140)南朝天眞名井宮が郎黨とも十七名高楯城主五代の藤原藤光に頼せられ「天下太平祈願」を中山に修せられた事は諸翁聞書に出てくるが、今回発掘の摩訶如來像は當時法要の本尊ではあるまいか、といふのは、佛像と一處に掘り出された護摩器の中に鐵の金剛[木厥]が大小四本ある、此は調伏の護摩法に限り使用せられたものと想像される、又調伏の護摩は民間の修法にはあり得ないから。
南北朝合一が成立したのは元中九年(2052)〈hy注:巻末の正誤表により、1025を訂正〉翌年北畠顯成は行岳から稗抜に追放された、再度行岳に歸ったのは應永八年(2061)永禄五年(2222)には八代具運殺害され、大浦爲信津輕統一を志しに及で天正六年(2338)北畠氏亡ぶ、此の間高楯城の盛衰も一進一退、孤軍奮闘十有餘年、平町や原子の戰に最後の火花を散らしたが同十六年(2348)高楯城も落城し、城主行安も戰死し、前年(2347)正中山梵尉寺も兵火の爲めに焼失した。慶長元年(2256)兵法役松山定之助、老中中野萬右衛門、奉行役今淸右衛門、代官役木村正衛門等の遺臣が大光院に藤原家累代を供養した記事は諸翁聞書に傳えて居る。
2
昭和27年 (70)藤原藤房卿終焉地
藤原藤房卿の終焉場所は各地に伝へられ、其の内秋田県南秋田郡旭川村亀像山補院(hy注:「陀」カ?)寺は有力であつたが、今回飯詰村にこんな文献は発見された。是れ或は偽書かも知らんが、地方には是位の偽書を作るべき者がありたとは思われぬ。或は何かの縁因で舘主の記録を手に入れたものであるまいか。
(返り点・句読点付き漢文5行省略) (諸翁聞取帳
(註)右は原本でなく写本に拠ったものであるが、誤字又は脱字があるらしい。
附記 (以下5行、和漢混淆文省略) (同書
(71)高楯城主藤原光房の勤王
此の文献も「諸翁聞取帳」と同じく、所謂物識なる者の小細工とは受取られぬ。どだいこんな力のあつた人は地方にあつたとは想われぬ。要するに前書と同じく高楯城主藤原氏の記録に拠ったものと解さる。 (以下、返り点、句読点付き漢文13行省略) (庄屋作左エ衛門覚書
(註)五郎左衛門尉=二代光房、是も複写本に拠ったもので、相当脱字があるらしい。
(72)尊熈王高楯城に頼らせ賜う
以上三ッの重大な史実は、偽書とは見られぬ、必ずや根拠があるであろう。 (以下本文5行省略)
因に「天真名井宮高楯城に頼る云々」と、諸翁聞取帳作左エ衛門覚書にも載せている。
(註)後亀山天皇-実仁親王-尊義王-尊秀王-尊熈王-(天内系図) 当時高舘城主=五代朝日三郎左衛門藤原藤光(諸翁聞取帳
5
昭和28年 (46)切支丹信徒飯詰山に隠ぶ
飯詰帳奉行所ジエスト始末書 (以下、本文7行省略) 寛永十五年十月死罪言渡 飯詰帳奉行所 (諸翁聞取帳
附記 目明し三五郎 切支丹取捕のおり受傷、六寸四部、外科正庵に十六針 寛永十六年八月
正庵覚書 奉行手付 長尾吟八郎 目明し 三五郎 右死亡とどけ 八月十日(寛永十六年) 正庵
飯詰町奉行 青山登之助殿 (同書
6
昭和31年10月15日 寛永聞取帳には、建寶(寶は保)元年五月十六日(恐らくは四月九日)行丘源氏林の地頭甲野七衛門と共に、金光坊は石化に來て、法然大師滅後浄土大要を東日流に弘布せんとしたが(中略=ママ)、金光の布教は、思ふ様にならずに大心痛した。 13
昭和31年11月15日 寛永二年(2285)三月二十五日金剛坊の記によれば、
「金光坊は、身長六尺三寸身重四十貫五百匁また赤ら顔で龍眼(寛永聞取帳は、四十貫、虎眼とある)、七人力で、正中山の林中で荒熊や巨岩をを打ちはたす程の怪力巨人の荒法師であった。」

寛永聞取帳に上人は、「五月十六日、源氏林(行丘の一部)、(地方資料に、源常林の地名はあるが、源氏林は不明、筆写は金光上人墳墓の現存する五木松邊と想像してゐる)の地頭、甲野七衛門を同道して石化崎(現在の飯詰=修験宗の本據である)に來て、法然大師滅後豊秋北州東日流に淨土の大要を公布せんとしたが、金光の布教は、想ふ様にならず、大心痛した。」
14
昭和32年3月20日 飯詰諸翁見取帳に、泉村仏閣文治二年、法明山大泉寺とあるは本資料に合致する。 15
昭和32年4月2日 諸翁見書には、藤原景房少納言は、藤房の遺子で、東日流泉と申す処に、高楯城を建立した仙台松嶋の岩窟寺、松風山清眼院の住職良善が、修行永路の旅足を、大泉寺に休めて、宝暦元年三月十六日、謹書したと云う 16
昭和35年 この梵場寺に於ては、上人は身命をとおして念仏弘通されておるのであつて詳しくは新資料、金剛坊記、寛永聞取帳等にでゝくるけれども阿弥陀仏を各地に背負われ巡錫しつゝ教化の数々となされておられる。 7
昭和35年 寛永聞取帳(同時に発見された史料)中にも、長身六尺三寸、身重四十貫。とあり、前の金剛坊の資料の身重四十貫五百メ也にくらべて、寛永聞取帳は五百メだけ少ないが、とにかく、身長六尺三寸。体重四十貫五百前後であったことはうなづかれる。
 亦タ赤ラ顔ノ龍眼也。七人力ヲ以テ正中山林中ニ於テ仁荒熊巨岩ヲ打チ仆ス前ノ快力巨人ノ荒法師也。(hy注:返り点が表示できないため、施されている返り点に従って読み下した)
 寛永聞取帳には、
 赤顔ノ虎眼ノ荒法師也。とあって、七人力の快力巨人であったことがわかる。
この新資料が、発見されない四月二十五日の弘前市西光寺金光上人七百四十回忌法要の際、中川大仙僧正が講演せられて、
 当時七百四十年前、文化の低い、交通不便なこの津軽地方に、はるばる京都から元祖法然上人の命をうけて教化に来られたと云うことは、おそらく人一倍の体力のあつた人であろうと思われる。その気力と体力のあつた上人が、短か六十三歳で寂せられたと云うことは、いかにあらゆる艱難辛苦と闘い念仏の弘通に身命を捧げられたかが想像するに難くない。
 と、涙ともに下る講演をなされた。
 今、この資料と、中川僧正との講演とが、あまりにも一致したので、これも因縁の然からしむるところであろうと思う次第である。
 土地ノ民族共ハ其ノ布教説法ニ応ゼ不。(hy注:返り点が表示できないため、施されている返り点に従って読み下した)
 寛永聞取帳には、
荒吐神ヲ崇拝スル地ノ民ハ仲々金光坊ノ説法ニ応ゼ不。(hy注:返り点が表示できないため、施されている返り点に従って読み下した)
 とあつて、上人の念仏の教に応ずる者がなかつたと云われる。おそらく、これが当時の実情であろうことはうなづかれる。修験宗盛んなりしその頃、しかもその真只中に於て、当時の新宗、浄土宗の教義を弘通することは、生命がけのことであろう。それば、後に記す如く、入獄され、又、荒吐神を信仰する土民に、たゝかれる等さまざまの難儀に会っておられる。
8
昭和35年 吐血シ乍ラ兌法ス然ルニ世人ハ是レヲ軽笑シ一人モ信者ズル無シ(hy注:返り点が表示できないため、施されている返り点に従って読み下した
吐血し乍らとあるから多分肺病にでもかかられたものであろう。一人も信ずる者無しと金剛坊文書にあり寛永聞取帳(新資料)にも、
金光坊ノ教ハ想様ニ不ズ一大心痛ス。云々地ノ民ハ仲々金光坊ノ説法ニ応ゼ不。
とあり、当時の忍難苦行の有様を拝察することができる。
9
昭和35年 寛永聞取帳(新資料)
建保元年五月十六日
行丘源氏林地頭甲野七衛門共金光坊来石化崎法然大師滅後豊秋北州東日流国浄土大要□(一字不明)弘布長身六尺三寸身重四十貫赤顔虎眼荒法師也金光坊教不想様一大心痛荒吐神崇拝地民仲々金光坊説法不広□(字不明)時修験念仏宗住三代法明房尋来石化山
この資料によって、行丘源氏林の地頭である甲野七右衛門は、金光上人共々に、石化崎(現在、飯詰村、当時は十三港に通ずる一大文化地として人口多く栄えていたと言われる)に来て、浄土の大要を弘布したのであつた。晩年に至り上人は行丘の地に庵を結び、入寂されておられるが、すでにこの当時から行丘(北畠家城のあつた)村の村人からは、念仏の教に生き上人に帰依する数多くの人がでていたものの如く思われるのであるが、はてしてどの程度の信者があつたのであろう。
10
昭和35年 寛永聞取帳にも、
建宝(保の誤りであろう)元年五月十六日、金光坊の教は想様にならず。一大心痛す。荒吐神を崇拝する地の民は、仲々金光坊の説法に応ぜず。
とあつて、当時の模様を伝え、更に、
建宝元年五月十六日、行丘源氏林の地頭、及、合浦検非違使共々金光上人入獄放免を石化山大光院に願ひ出ず云々。
寛永二年三月二十五日、金剛坊の記に、
仏論の末入獄、二年四月出獄。
とあり、金光上人が、仏論を闘わしたのは、建保元年五月であるから、直後入獄されたとすれば、約一ヵ年間、獄中生活をなされたこととなる。
11
昭和35年 建保元年(1873)(hy注:ママ)
上人地頭と共に石化崎に来る(寛永聞取帳
12

【出典】
1.『郷土誌陸奥史談』第18輯/福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」昭和26年4月
2.開米智鎧「藩政前史梗概」『飯詰村史』付録/昭和26年
3.福士貞蔵『郷土史料蒐集録 第拾壱號』。「飯詰村和田米八蔵書」の筆写日付が「昭和廿三年正月廿八日筆寫」「昭和廿四年十月廿四日寫」と記されている。
4.福士貞蔵編『飯詰村史』230~237頁。
5.福士貞蔵『郷土史料異聞珍談』昭和27年/48頁~
6.福士貞蔵『郷土史料異聞珍談 続篇』昭和28年/101頁~
7.佐藤堅瑞『金光上人の研究』115頁。
8.佐藤堅瑞『金光上人の研究』136~137頁。
9.佐藤堅瑞『金光上人の研究』139頁。
10.佐藤堅瑞『金光上人の研究』142頁。
11.佐藤堅瑞『金光上人の研究』184頁。
12.佐藤堅瑞『金光上人の研究』278頁。
13.浄土宗『宗報』昭和31年10月15日、開米智鎧「津軽における金光上人(二)(新資料に據る)」
14.浄土宗『宗法』昭和31年11月15日、開米智鎧「津軽における金光上人(三)(新資料に據る)」
15.開米智鎧「青森民友新聞」「中山修験宗の文化物語(29)」
16.開米智鎧「青森民友新聞」「中山修験宗の文化物語(


Ⅱ和田喜八郎氏から出た『諸翁聞取帳』にまつわる記述

1983~1989の間 まほろしの『諸翁聞取帳

『東日流蝦夷王国』が世に出てほどなく、ふたたび和田喜八郎氏の原稿が、高橋代表を通じて、私のもとに持ちこまれた。正確な日時は失念したが、私はこのとき、初めて和田氏に会っている。
原稿は、やはり三百枚ほど。さきと同じく和田氏のポールペン書きで、『諸翁聞取帳』と題されていた。和田氏によれぱ、津軽半島に住む古老たちが語った史話の集成であり、それを和田氏が口語文に書き改めたものという。一見すると、長文・短文が雑多に混っており、なかには、放送劇の台本まであった。「これは地元の小学校の校内放送のために、私が書いた」と和田氏は説明し、「これらをうまく編集して、本にしてほしい」と言った。
私は、いちおう預って、熟見した。が、結局、その原稿については、「現代人によって書かれた創作的な昔話集にすぎない」と判断せざるをえなかった。文章は前と同じく拙劣であり、内容も幼稚で寓意性がないし、民俗資料としての価値もうすいとすれぱ、出版の意義を持たない。
ただし、和田氏が下敷にしたという原本があれぱ、話は別である。原書ならば、埋れている古い民話集の発掘になるかも知れないとかんがえたので、「和田氏に原本を見せてくれるように頼んでほしい」と、津軽書房へ連絡した。高橋代表は、さっそく電話を入れ、和田氏もあっさり承諾したということだった。
ところが、数日後、和田氏から電話連絡があって、「原本はすでに失われている」と、断られたむねを高橋代表が伝えてきた。なんでも、地元の飯詰公民館に寄託しておいたところ、同館改築のさいに、不要物として廃棄され、ブルドーザーで地中深く埋められてしまったというのである。
原書がないならぱ・・・・・・と、私ば、この編集の仕事を断り、原稿を返却した。
こうして、『諸翁聞取帳』の津軽書房の出版は、まぼろしに終ったのである。
原稿のその後の行くえは、知るべくもない。

〔編集部註〕一九八九年十一月に、八幡書店から、『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』が刊行されている。
f
平成元年5月12日 『増補版 知られざる東日流日下王国』八幡書店より刊行
付録1 口訳 津軽諸翁聞取帳
■シリ(後潟)の戦い (hy注:本文省略) 寛政五年八月 秋田孝季
■金光さまのおはなし (hy注:本文省略) 慶応元年弥生月二十五日 記述 飯詰の住人 百姓 (江良)五兵衛
■修験道とは (hy注:本文省略) 文政五年四月吉日 法明山 大泉寺住僧談
■もうこのはなし (hy注:本文省略) 寛政五年十月 記す 飯詰の住人 長三郎末吉
平成元年11月24日 和田喜八郎『東日流六郡語部録-諸翁聞取帳』八幡書店より刊行
“一冊残った『東日流諸翁聞取帳』原本”(hy注:表紙には「寛政二年六月 かたりべ草紙より 東日流 津軽諸翁聞取帳 和田長三郎吉次」と書かれてある。 c
凡例
■本書は和田家に伝来の『東日流諸翁聞取帳』を口語訳し、百話に再編輯したものである。
■原本はある事情によって(巻末解説参照)現在伝わっていないため、故人である開米智鎧・太田文雄等が別途に行なった口語訳をもとに和田喜八郎が再編を試みたものである。
■原本は『東日流外三郡誌』『東日流六郡誌大要』等と同じ文語体に地弁(方言)を混淆した文章であったが-一冊残った原本よりして-原意を損なわない程度に方言(津軽弁)をいかした文体として口語訳した。
■収録の話によっては語り口や用語や表記に一貫性がないが、この不統一は基本的には[かたりべ]たち個々の違いや時代的な異動によるものであろうが、原書からの口語訳者の方針の違い等に起因するものもあると思われる。しかし、原本が逸っした現在、訳稿の再編によって原書の文意からの乖離が起こることが懸念されたため、訳稿をできるだけ尊重する方針を基本とした。そのため、かなり標準語的に訳されたものや文語体を利用したもの、方言がかなりまじっているもの、方言に標準語のルビを( )で付したものや方言の後に( )で標準語の意味を挿入したもの。ですます調のものやである調のものなどが混淆したものとなったが、一話一話の中で最小限度の統一を行なうにとどめたことをお断りしておく。
■原書には本文中に独自の図版があったと考えられるが、現在原書の図版は伝わっていないので、『東日流外三郡誌』をはじめとする〈東日流諸郡誌〉中より主に載録した挿画や関係写真を加えた。
■本書の出版直前に故・福士貞蔵家より『東日流諸翁聞取帳』一冊が発見されたので、口絵に写真を掲げ、付録として原書も活字化して収録した。これによって原書の理解に益するものと思われる。ただし、判読の便に供するため、句読点や改行、ルビ(現代仮名遣い)を加えたことをお断りしておく。
■あわせて和田家伝来の『かたりべ草紙』より抄出した資料四編をも加えることとした。
e
原本東日流諸翁聞取帳 神魂幽現記 d
和田喜八郎「東日流六郡語部録について-『東日流諸翁聞取帳』と『かたりべ草紙』」

本書は、この〈かたりべ〉の遺した諸翁の聞取帳を基本として解訳し、百話を構成したものである。『諸翁聞取帳』は、山口作左衛門、今惣吉、北屋名兵衛、和田長三郎末吉、松野法印、大泉寺法住などによる民話集であり、明治四十五年頃に最終的にまとめられたものと思われる。原本は貸与していた五所川原市教育委員会飯詰公民館が廃館となり、その解体の際に廃物として棄てられたと仄聞する。『諸翁聞取帳』はいままでに郷土史家の福士貞蔵先生や成田末五郎先生に引用されたこともあり、私が広く利用できるようにと飯詰公民館に貸与し、引き取りを延ばしていたのにもかかわらず、五所川原教育委員会の不始末で棄てられたのには憤怒やるかたもない。
幸いにして、飯詰小学校の教諭をされていた故・太田文雄先生が地方の伝説を生徒に教える教材としてこれを書写していたものが残っており、さらに公民館長をされていた故・開米智鎧和尚が現代風に意訳して写していたものが保存されていた。これらを合わせて新たに編集したものが本書の基礎となった。そのために訳出のしかたや方針に一定しない部分が出ているが原本が破棄された今日、本書と比較して照合することが出来ないので不統一はそのままとした。原本の文章のそのままではないにせよ、内容においては恣意的な改変を行なわれていないことは確かだからである。
b 注1参照
平成7年7月5日 昭和二二年夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった。家中みんながとび起き、煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取って見ると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。どの巻にも筆頭として注意の書付があり、「此の書は門外不出、他見無用と心得よ」と記述されていた。
 親父がまだ若かったし、私も終戦で通信研究所の役を解かれ、家業である農業と炭を焼く仕事に従事し、これは二年目の出来事である。当時、飯詰村史を担当していた福士貞蔵先生や奥田順造先生にその一冊を持参して見ていただくことにした。次の日五所川原の弥生町に住んでいた福士先生にみていただくと、「これは歴史の外に除かれた実相を書き遺したものだから、大事にするように」、できれば三日ほど貸してくれないかと言われ、そのままにしていたが、まさか飯詰村史に記入されるとは思わなかった。先生は仏教のことはその明細にくわしくないので、これを村の大泉寺住職開米智鎧和尚が別編として村史に加えることにした。
a

a.『新・古代学』(平成7年7月5日、新泉社=1995)21~22頁。和田喜八郎「和田家文献は断固として護る」。
b.『東日流六郡語部録-諸翁聞取帳』391頁~412頁。
c.『東日流六郡語部録-諸翁聞取帳』グラビア写真。
d.『東日流六郡語部録-諸翁聞取帳』371頁~374頁。
e.『東日流六郡語部録-諸翁聞取帳』凡例。
f.『季刊邪馬台国』55号。山上笙介「『東日流誌』との遭遇と訣別』22頁~23頁。

注1.ここに書かれてある「廃棄」が事実であるかについては、「飯詰公民館の元館長であった川村正一氏にたしかめたが、和田さんがのべるような事実はない」という。また公民館の解体にあたった小野元吉氏は署名入りの「陳述書」のなかで、「和田喜八郎氏は飯詰公民館が東日流外三郎誌を紛失したと言ってますが、それは嘘です。飯詰公民館が古くなったため解体したのは私で、解体時公民館にあった書類はまとめ玄関に出しておきました。そこへ和田八喜八郎氏がやって来て 「書き物を預けていた」 と言い出しました。まだ書類等は何一つ捨てていなかったので和田喜八郎氏に調べさせましたが、古い書き物等は何もなく調べた和田喜八郎氏に「なければこの書類は捨てる」と言うと和田喜八郎氏も納得していました。」と述べている。

Ⅲ古賀達也氏に見る“コジツケ・牽強付会・強弁性”
古賀達也氏は下記の通り述べて、「和田家文書」が代々伝承され、昭和22年頃、天井から落下してきたとの主張をしているが、その主張は憶測と強弁に基づくもので根拠に乏しい。古賀氏が落下説を裏付けるために開米、福士、佐藤三氏の著作を用いて論じている部分を以下に掲示して、逐次それに対する疑問・批判を挿入してゆく。なお、甲・乙は半年ほどの間に書かれてあり、内容的には類似しているが、出入りもあるので両者並記することとした。

また、関連論文として、次の3点も取り上げて同様に反論を述べる。

丙:「五所川原図書館にて」 古田史学会報 1996年10月15日
丁:「和田家資料(出土物)公開の歴史」 古田史学会報 1997年12月28日
戊:例の猪垣裁判で古賀氏が出した「陳述書」


甲 和田家史料の「戦後史」(古田史学会報1994年11月3日 No.3『和田家文書』現地調査報告) 乙 東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社)「甲」文に相当する部分を引用。“和田家文書公刊の歴史”中(5)まで。
本年五月を初めに、私は古田武彦氏らとともに、三度にわたり和田家文書現地調査を行った。行く度に貴重な発見や証言、協力に恵まれたのであったが、ここにきてようやく、現地における様々な人間関係や和田家文書を巡っての「戦後史」の全容がおぼろげながら見えてきたように感じられる。そして、和田喜八郎氏偽作説がいかに成立困難であるか、いかに虚偽情報や誤解(おそらくそれらは意図的なものと思われる)に基づいているものであるかを確認し得たのであった。本報告では偽作論者の虚偽情報のいくつかに反証を加えたいと思う。

 
福士貞蔵氏の「証言」
 偽作論者は和田家文書が昭和三十年以後段階的に作られ現在に続いているとしているようだが、
偽作論者は和田家文書が昭和三〇年以後段階的に作られ現在に至っているとしているようだが、
『季刊邪馬台国』では既に1993年の51号時点から「昭和二十四年(金光上人関係の古文書が発見されたとされる年)から、昭和三十九年(『金光上人』が刊行される年)までのあいだに、金光上人関係の「古文書」が制作され、それが「古文書」として、通用しうるものであることがたしかめられた。」とし、昭和二十年代からの古文書製作に言及し、52号では更に詳しく、「役の小角の墓も偽造-栴檀は双葉より香し」として、役の小角関連資料の偽造について述べている。また、安本美典氏の『虚妄の東北王朝』では、役の小角~田道将軍~金光上人についての史料群も捏造したと考えられることが詳述してあり、これらは何れも古賀氏の当該文に先立つものである。従って、古賀氏の「昭和三十年以後段階的に作られ」というのは偽作説を充分把握していないことに基づく誤認である。
その根拠は各文書が公刊された年次に基づいた憶測に過ぎないと思われる。和田喜八郎氏の証言では、昭和二二年夏に天井裏からの落下 その根拠は各文書が公刊された年次に基づいた憶測に過ぎないと思われる。和田喜八郎氏の証言では、昭和二二年夏に天井裏からの落下
「天井裏からの落下」の時期が一定しないことはもちろん、軍歴や終戦当時どこにいたか?など喜八郎氏の発言は二転三転しており、疑念を抱かせる。同居していた親族が落下などなかった!と証言しており、軍歴についても近隣の人々は否定している。「和田喜八郎氏の自称“経歴”と、“落下”の時期参照。
を機に世に出始めたとされるが、喜八郎氏の証言を裏付ける事実を報告する。 を機に世に出始めたとされるが、それを裏付ける事実がある。
古賀氏の主張が「喜八郎氏の証言を裏付ける事実」ではあり得ないことを、これから「報告する」ことになろう。
当時、地元の郷土史家の第一人者ともいえる人物に福士貞蔵氏がおられた。氏は津軽地方の市町村史を数多く手掛けられており、同時に津軽地方の古文書の調査や書写、伝承の聞き取りなどをなされている。そして幸いにもそれら調査の自筆原稿が五所川原市立図書館に存在する(福士文庫)。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に次の和田家文書群が書写されているのだ。 当時、地元の郷土史家の第一人者ともいえる人物に福士(ふくし)貞蔵氏がおられた。氏は津軽地方の市町村史を数多く手掛けられており、同時に津軽地方の古文書の調査や書写、伝承の聞き取りなどをなされている。そして幸いにもそれら調査の自筆原稿が五所川原市立図書館に存在する(福士文庫)。その中の「郷土史料蒐集録第拾壱號」に次の和田家文書群が書写されているのだ。
「次の和田家文書群」と古賀氏は書くが、既にそれらが「和田家文書」であることが明白であるかのような記述である。古賀氏が他にも同様な記述の仕方をするのは、読む人に“刷り込み”を掛けているとしか言いようがない。それらが「和田家文書」であるかどうかが、まさしく検証すべき事柄であって、それは“結論”として書かれねばならないはずである。
○役小角関連文物の金石文等(漢文。『飯詰村史』に開米智鎧氏が紹介。後出。) ○役小角(えんのおずぬ)関連の文物、金石文等(漢文、『飯詰村史』に開米智鎧(かいまい ちがい)氏が紹介、後出)
「役小角関連文物の金石文等」は確かに昭和24年夏、和田父子が“発見した”とされることが、当時の開米智鎧の著作や報道などでも紹介されている。もちろん、安本氏ら偽書派にすれば、これが「栴檀は双葉より香し」なのであるが・・・。
○高楯城・藤原藤房卿関連文書(漢文) ○高楯城・藤原藤房卿関連文書(漢文)
「高楯城・藤原藤房卿関連文書」は福士貞蔵氏が、『飯詰村史』『郷土史料異聞珍談』『郷土史料蒐集録 第拾壱号』などに書かれているが、これらが和田家に伝承してきたものだなどとは一切書いていない。
○飯詰町諸翁聞取帳(高楯城関連も含む。『飯詰村史』に掲載。) ○飯詰町諸翁聞取帳 文政五年今(こん)長太編(高楯城関連も含む、『飯詰村史』に掲載)
このページ上半に表として掲げてあるが、「飯詰町諸翁聞取帳」なるものが和田家に伝承し、それが和田家からもたらされたなどという証拠は当時の記録として皆無である。後に喜八郎氏がそのように書いている・・・というだけのことである。喜八郎氏の主張に基づいて「飯詰町諸翁聞取帳」なるものが「和田家文書」であると主張し、それによって「和田家文書」の伝承と天井からの落下を説明し、ひいては真書説の根拠とするのは、“循環論法”に他ならない。
これらはいずれも和田家所蔵の文書、あるいは山中の洞窟より発見されたもので、既に公刊されたものも少なくない。 これらはいずれも和田家所蔵の文書、あるいは山中の洞窟より発見されたもので、既に公刊されたものも少なくない。
「山中の洞窟より発見」については、その真偽の程はともかく、当時多数の証言がある。しかし、「山中の洞窟より発見されたもの」に対比しうる「和田家所蔵の文書」なる証言は無い。古賀氏は具体的に、江戸時代から伝承してきた「和田家文書」がどれであり、その根拠はどういう史料に基づくものであるかを述べなくてはならない。「これらはいずれも和田家所蔵の文書」と書くのみで、その具体的根拠については語っていない。
同「蒐集録」には別に和田半八(喜八郎氏の親戚)蔵書の書写もされており、その書写年次が「昭和廿三年正月廿八日筆寫」「昭和廿四年十月廿四日寫」と記されていることから、先の和田家文書類の書写も同時期と見て大過あるまい。 同「蒐集録」には別に和田米八(喜八郎氏の親戚)蔵書の書写もされており、その書写年次が「昭和廿三年正月廿八日筆寫」「昭和廿四年十月廿四日寫」と記されていることから、先の和田家文書類の書写も同時期と見て大過あるまい。
「先の和田家文書類の書写」と書くが、福士貞蔵氏が一体何という「和田家文書」を「書写」したというのであろうか?その「書写」について具体的に書かれてあるのは、どの部分であろうか?
しかも福士氏はそれら和田家文書を書写するに留まらず、研究誌や自らが編纂された『飯詰村史』に引用・紹介されているのだ。例えば「藤原藤房卿」史料を『陸奥史談』第拾八輯(昭和二六年四月発行)において「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文で紹介している。
以下、和田家文書が戦後(主に昭和五〇年頃まで)どのように世に紹介されていったかを述べよう。
「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」には藤原藤房以下の「高楯城系譜」が紹介され、それが「諸翁聞取帳」によるものであることが書かれてあるが、その「諸翁聞取帳」が和田家から出てきたなどとは一切書かれていない。
然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を發見した。記録は「諸翁聞取帳」といつて、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取つた事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方でないらしく、文体は成つて居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く新しい史料であるから、同好の士に紹介する事にした。
と書くのみである。「諸翁聞取帳」から「引用・紹介」したことが何故「和田家文書」を「引用・紹介」したことになるのか?無根拠の強弁としか言えない。
また、「蒐集録」収録の『諸翁聞取帳』を『飯詰村史』の第十三章「口碑及傳説」の「追記」で紹介している。福士氏は、同章「追記」冒頭や「編輯を終へて」に次の様に記し集録した和田家文書に強い関心と高い評価を与えていたことをうかがわせている。 (1).福士貞蔵編『飯詰村史』昭和二六年
(収録和田家文書:文政五年今長太編飯詰町諸翁聞取帳」「庄屋作左衛門覚書」)
 福士氏は、「蒐集録」収録の「文政五年今長太編諸翁聞取帳」や、これも和田家文書と思われる「庄屋作左衛門覚書」を『飯詰村史』の第十三章「口碑及傳説」の「追記」等で紹介し、同章「追記」冒頭や「編輯を終へて」に次の様に記し、集録した和田家文書に強い関心と高い評価を与えていたことをうかがわせている。
『飯詰村史』第十三章「口碑及傳説」の「追記」に引用されている「諸翁聞取帳」他の史料が「和田家文書」であるなどと、福士貞蔵氏は一言も書いていない。どこから「和田家文書に強い関心と高い評価を与えていた」などという思考が生じるのであろうか?
「以下は傳説ではなく史實とも思われますが再検討を要する部分もあるので、念を執って暫く本章へ編入する事にした。」
「第十三章の追加(主に和田家文書記事・古賀)は、本史に一段の重きを加ふる好史料であるが、原文を見られなかったので、口碑傳説の部に入れて置くの餘儀なきに至ったのは、實に遺憾である。」
「以下は傳説ではなく史實とも思われますが再検討を要する部分もあるので、念を執って暫く本章へ編入する事にした。」
「第十三章の追加(主に和田家文書記事・古賀)は、本史に一段の重きを加ふる好史料であるが、原文を見られなかったので、口碑傳説の部に入れて置くの餘儀なきに至ったのは、實に遺憾である。」
ここにも古賀氏の“刷り込み”が見える。「第十三章の追加」が「主に和田家文書記事」であるなど、全く根拠がない。()で括り、古賀氏の意見であると断っているつもりだろうが、根拠が全く示されていない。
そして、資料収集の協力者の一人として、和田喜八郎氏の名前を上げ、謝意を記している。 そして、資料収集の協力者の一人として、和田喜八郎氏の名前を上げ、謝意を記している。
福士貞蔵氏が『飯詰村史』巻末326頁で「和田喜八郎氏の名前を上げ、謝意を記している」のは事実である。しかし、その部分の文章全体を引用すれば以下のとおりである。
一、本史編纂に當り、史料提供せられたる青弘兩圖書館長、岩見常三郎、種市有隣、大久保勇作翁の方々に感謝し、併せて資料蒐集に協力せられし開米智鎧、濱館徹、和田喜八郎等の有志者に對し、茲に敬意を表する。
和田喜八郎氏はあくまでも「資料蒐集に協力せられし」人の一人である。「史料提供せられたる」人ではない。古賀氏の記述はまるで、和田喜八郎氏が「諸翁聞取帳」を持ってきたかのような書きぶりである。そんなことは一切書かれていない。
ここで「原文を見られなかった」とあるが、これは明治写本ではなく江戸期の原本と思われる。それは次の理由による。まず、当然のことだが和田家文書を見なければ、福士氏は書写できない。また明治写本さえ実見もしないで、研究誌に紹介したり、村史に掲載したりできないであろう。 ここで「原文を見られなかった」とあるが、この「原文」とは明治写本ではなく江戸期の原本を指すと思われる。それは次の理由による。まず、当然のことだが和田家文書を見なければ、福士氏は書写できない。また明治写本さえも実見しないで、研究誌に紹介したり、村史に掲載したりできないであろう。
このことは、同じく「福士文庫」にある福士貞蔵著『郷土史料異聞珍談百話」の自筆原稿中に「諸翁聞取帳」の藤原藤房卿の記事の引用がなされており、その後註として次のように記されていることからも証明される。

「(註)右は原本ではなく写本に據ったものであるが、誤字又は脱字があるらしい。」

この福士氏による註は「文政五年今長太編諸翁聞取帳」の原本ではなく、明治の和田末吉による写本によったことを示しているのである。
どこから「明治の和田末吉による写本」などという話が出てくるのか?福士貞蔵氏は「諸翁聞取帳」と和田氏の関わりなど一言も触れていない。古賀氏の決め付け・コジツケである。
更に、福士家より「津軽諸翁聞取帳」(明治写本)が発見されているようである(『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』和田喜八郎編・一九八八年・八幡書店、にその経過が紹介されている)。和田喜八郎氏も福士氏に貸し出した旨、述べられている。したがって、福士氏は明治写本を書写したが、江戸期の原本(原文)を見られなかったことを遺憾とされたのであろう。ちなみに、『飯詰村史』は昭和二六年の発行であるが、編集は昭和二四年に完了していることが、編者による「自序」や「編輯を終へて」に記された日付から判明する。 さらに、福士家より「津軽諸翁聞取帳」(明治写本)が発見されているようである(『東日流六郡語部録諸翁聞取帳』和田喜八郎編、一九八八年、八幡書店にその経過が紹介されている)。和田喜八郎氏も福士氏に貸し出した旨、述べられている。したがって、福士氏は明治写本を書写したが、江戸期の原本(原文)を見られなかったことを遺憾とされたのであろう。ところで、『飯詰村史』は昭和二六年の発行であるが、編集は昭和二四年に完了していることが、編者による「自序」や「編輯を終へて」に記された日付から判明する。
古賀氏は「諸翁聞取帳」が「和田家文書」であることを、まるで自明のことであるかのような書きぶりであるが、飛躍も甚だしい。福士氏が「原文を見られなかった」と書いていることが何故、「和田家文書」の「明治写本」だとか「江戸期の原本」だとかいう話に飛躍するのか?福士家より発見された「東日流諸翁聞取帳」の表紙写真が、和田喜八郎氏『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』のグラビアに掲載されているが、この筆跡はまさしく喜八郎氏の筆跡そのものである。書中に書かれる「経過」や喜八郎氏の「述べられている」ことなど、一体何の根拠になるというのであろうか?喜八郎氏の発言が信頼できるものであるという立場を取るのならば、くだくだしい論述など不要である。喜八郎氏が“天井から落ちてきた”と言っているのだから、落ちてきたのであり、とりもなおさず江戸時代から「和田家文書」は伝承した来た・・・。そう主張すればいい。古賀氏が延々とこのような論述を施しているのは、いかにも「和田家文書」伝承が史料に基づき論理的に裏付けられるものであるように強弁し、装おうとしているからに他ならない。一皮めくれば何のことはない。ただ、和田喜八郎氏がそう言っている・・・というだけのことでしかない。
このように、和田家文書は戦後間もない昭和二三年頃には福士氏により書写され、紹介されているのである。 このように、和田家文書は戦後間もない昭和二三年頃には福士氏により書写され、紹介されているのである。
古賀氏に訪ねたい。福士貞蔵氏が「戦後間もない昭和二三年頃」「書写」し「紹介」しているという「和田家文書」とは具体的に何であるか?その「書写」し「紹介」しているものが、「和田家文書」であることを福士貞蔵氏は、どこでどのように述べているのか?
偽作論者は同『飯詰村史』を知っておりながら、その中に福士氏が特筆して紹介した「和田家文書」の存在に、気づかぬふりをしているとしか思えない。 偽作論者は同『飯詰村史』の内容を知っていながら、その中に福士氏が特筆して紹介した「和田家文書」の存在に、気づかぬふりをしているとしか思えない。
ここに至って笑止千万!一体、福士氏が「福士氏が特筆して紹介した」「和田家文書」とは何なのか?その「特筆して紹介した」ものが「和田家文書」であることは、福士氏のどの記述から分かるのか?これについて古賀氏が返答しうると言うのであれば是非とも聞きたい。
すなわち、昭和二三年は喜八郎氏が述べるように、天井裏から文書が落下した翌年であり、和田氏の証言と福士氏による書写・公刊と時期的にピッタリと符合するため、こうした事実をひた隠しにしているのだ。 すなわち、昭和二三年は喜八郎氏が述べるように、天井裏から文書が落下した翌年であり、和田氏の証言と福士氏による書写・公刊と時期的にピッタリと符合するため、こうした事実をひた隠しにしているのだ。
「福士氏による書写・公刊」したものが、どうして「和田氏の証言」と関わりがあるのか?福士氏の著作中に和田家に江戸時代から伝承してきた古文書等が喜八郎氏によってもたらされ、福士氏が「書写・公刊」したなどと一体どこに書いてあるのか?
さらに、昭和二三年といえば喜八郎氏はまだ二一~二歳であり、これら多くの文書、しかも難しい漢字や用語を多用した文書・金石文などを偽作・偽造したとは、さすがに偽作論者たちも言えなかったのではあるまいか。 さらに、昭和二三年といえば喜八郎氏はまだ二一~二歳であり、これら多くの文書、しかも難解な漢字漢文や用語を多用した文書・金石文などを偽造偽作したとは、さすがに偽作論者たちも言えなかったのではあるまいか。
前述の如く、安本氏は既に古賀氏のこの文の発表前から、昭和二十年代前半からの喜八郎氏の「偽作・偽造」について言及している。地元で発行されていた『週刊民友』昭和27年8月14日号には、既にこの時点で和田喜八郎氏の“胡散臭さ”がかなり詳しく紹介されている。古賀氏は1993年秋の『季刊邪馬台国』52号37頁~43頁のこの記事も読んでおられないのであろうか?
故福士貞蔵氏の自筆原稿や氏の手になる膨大な著作類に触れ、津軽の優れた郷土史家福士貞蔵氏の業績を知った。氏の自筆原稿等は、和田喜八郎氏偽作説を否定する貴重な「証言」と言わねばならない。 私は故福士貞蔵氏の自筆原稿や氏の手になる膨大な著作類に触れ、津軽の優れた郷土史家福士貞蔵氏の業績を知った。氏の自筆原稿等は、和田喜八郎氏偽作説を否定する貴重な「証言」と言わねばならない。
なにゆえ福士貞蔵氏の「自筆原稿等」が「和田喜八郎氏偽作説を否定する貴重な」「証言」になるのか?この「自筆原稿」は福士氏の『郷土史料蒐集録 第十壱號』であろうが、この中に役の小角関連資料は出てくるが(もちろん土中・洞窟からの発見物)、和田家に伝承してきた文書など一切登場しない。
と同時に、ここでも偽作論者は自説に不利な証言・事実・史料を無視ないし軽視し、意図的に紹介しないという常套手段に奔ったようである。
一体福士貞蔵氏が書かれていることの何が「偽作論者」「に不利な証言・事実・史料」なのか?ここに述べられている古賀氏の論述から“牽強付会”を取り除けば、一体何が残るというのであろうか?古賀氏は福士氏の史料を詳細に取り上げているが、それが所期の目的と裏腹であることは明白である。福士貞蔵氏は和田家に江戸時代から文書類が伝承しており、昭和22年頃それらが発見されたなど一言も書いていないのであるから・・・。ただただ古賀氏のコジツケばかりが顕わになるという不始末を演じている。
(2).福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」
『陸奥史談』所収、昭和二六年(収録 和田家文書:「諸翁聞取帳」)
 福士氏はそれら和田家文書を書写するに留まらず、研究誌にも引用・紹介されているのだ。
「それら和田家文書」って一体なんであろうか?「それら」が「和田家文書」であるとどうして言えるのか?福士氏の記述から古賀氏が指摘することが出来るというのなら、挙げて欲しいものだ。
例えば「諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯(昭和二六年四月発行)において「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文で紹介している。
ここでも古賀氏は「諸翁聞取帳」が「和田家文書」であることを自明のごとく書く。
同論文冒頭には次のように記されており、飯詰村で発見された史料に基づいていることがわかる。「勤皇の士雲の如く起りて鎌倉幕府を倒し、目出たくも王政復古となり、昨日の悲憤は今日の悦びと化したが、賞罰當を失ひ、秕政多きを嘆き、藤房卿はしばしば*諌奏したが、毫も容れられなかった。茲に於て藤房卿は奉公の甲斐なきを悲しみ、官位を捨て北山の岩倉に入りて僧となった筈であるが、今日に至るも其の終る所が知られなかった。然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
 記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方でないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介する事にした。」

しばしば*([尸/婁]々)は、尸編に婁。JIS第三水準ユニコード5C62
福士氏が言っているのは「然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した」。「飯詰本村」で「発見」されたとのみ書くものを、如何にして「和田家文書」であると断ずることができるのか?コジツケ以外の何物でもない。
この後、「高楯城系譜」が漢文風のまま掲載されている。ここで重要なことは、この史料を当時(昭和二六年から見て最近)飯詰村で発見されたもの、としていることだ。
「飯詰村で発見」が、なにゆえ和田家からの発見に“化ける”のか?
この「高楯城系譜」は先の『飯詰村史』に掲載されているものと同文であり、同じ史料に基づいていることがわかる。すなわち「和田家文書」の一つ「諸翁聞取帳」なのである。この「諸翁聞取帳」のことは「東日流外三郡誌」にも次の様に記されている。「諸翁聞取帳
 是の書は飯詰味噌沢に主家せる庄屋作佐エ門及飯積派立今長太、和田長三郎、北屋名兵衛、菊池庄左エ門等が書遺せる諸翁聞取り帳なり。是れは、史実伝説混合せる処ありとも、亦後考にして再調しべし。
 明治二十一年十一月三日
          飯詰村福泉之住 和田長三郎」
『東日流外三郡誌」第五巻、八幡書店、七〇九頁)
結局、古賀氏の主張は後に「和田家文書」の一つとして「諸翁聞取帳」が出てきたから、昭和20年代出現した「諸翁聞取帳」も「和田家文書」である・・・ということに他ならない。つまりは「諸翁聞取帳」出現当時のことを物語る証拠とは成り得ないこと、明白である。
ここに記された人物の内、『飯詰村史』「第十四章在方役人」の「庄屋」の項で、天明年間(一七八一~一七八八)北屋名兵エ、文政年間(一八一八~一八三〇)長三郎の存在が記されている。偽作論者は和田家は明治二二年以前に飯詰に住んでいなかったとか、庄屋ではなかったとするが、『飯詰村史』でははっきりと「庄屋長三郎」の存在を記しており、またこの「長三郎」が「和田長三郎」であることは、和田家の菩提寺長円寺(飯詰)の「過去帳」からも証明できるが、このことは別稿にて論じる(和田家ではしばしば長三郎を襲名している)。
「庄屋長三郎」がなにゆえ「和田姓」であると判るのか?その根拠が示されていない。また、長円寺「過去帳」には「和田権七」なる“架空人物”が記載されているので史料として信頼しうる物ではない。長円寺過去帳は火災に遭い復元されたという。その復元されたものの鑑定が必要であろう。
このように、昭和二二年に天井よりの落下を機に世に紹介された「和田家文書」の出現事情と、福士氏の「史料紹介」の内容(時期と場所)が見事に符合する事実こそ、「和田家文書」喜八郎氏偽作説を否定する重要な論点なのである。なお、「諸翁聞取帳」という文書は複数あるようで、固有書名というよりも「諸翁からの聞き取り」という収録スタイルに基づく一般書名として、和田家文書では使用されているようである。
「符合する事実」って一体何?「昭和二二年に天井よりの落下」を和田喜八郎氏が言い出したのは1986年刊行された『東日流六郡誌絵巻 全』巻末「東日流六郡誌大要について」が恐らく初出。

また、和田家での伝承のみに限れば、市浦版『東日流外三郡誌』(1975年)上巻収録・和田喜八郎「出版に薦言す」の、
幕府滅亡まで極秘として天井に隠されていたものである。家伝として、異常なる時は生命をかけて護るべしあり、私の父はひところこれを気味悪いものとして消却しようとした時、祖母に強く叱られた事があった。小学生の頃で昨日のように覚えています。それが、父と相談して、この箱を開いたのが昭和三十二年の春であった
しかしこの話は「小学生の頃」「昭和三十二年の春」など、以後の発見譚と甚だしく齟齬を来している。
開米智鎧氏の「証言」
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』に研究論文「藩政前史梗概」を掲載している。グラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
 この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壷や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。
(3).開米智鎧「藩政前史梗概」『飯詰村史』所収、昭和二六年
(引用 和田家文書・史料:骨蔵器銘文、銅板銘文、木皮文書、「諸翁聞書」)
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』中の研究論文「藩政前史梗概」に和田家文書等を引用・紹介している。同論文はグラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壼や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。
「洞窟に自らも入っている事実」など無い。文章からそのようにも読みとれる箇所がある・・・と言うだけのことである。「古墳下の洞窟入口は~」はいかにも実見記のようにも読めるが、実は古賀氏が下記引用文中で(中略)とする部分に、気になる記述がある。
佛像の前に一骸骨あり、兩膝を立て兩臀を結んで膝を支え、頭は可成り大きく、チョット觸つたら潰れてしまつたが、其の儘殘つているといふ。或は唐小麾の遺骸ではあるまいかと考へられる。
「殘つているといふ」である。「いふ」は誰が「いふ」なのか?「觸つた」のは誰なのか?

このことを解き明かすには次の記事が参考になろう。開米智鎧師が「藩政前史梗概」を記した後の昭和27年8月14日号『週刊民友』の記事である。
ところが問題は仏像古器の数の真偽が三年後の今になってもようとしてつかめぬところにある。それは和田君がこれらを人目にさらすことを嫌い、発掘場所さえ自分ひとりの胸にたたみこんでいることにゆえんしているのである。和田君もこれまで公開したものはほんの一部にすぎないと揚言しており、小角の名がでるに至った古文書にしても実際に見た人はほんの少数で解読した同村大泉寺住職開米智鎧氏さえ和田君がもつてきた写しによつているという。こうした重要な資料がなぜ公開されないのであろうか。このため村長以下一部村の主達が愚弄ほどではないにしても多少踊ったことは否めない。発掘の場所を教えるといつて村議、村長を例の山に案内したまではいいがかんじんのところに行くと雲がくれしてしまつて、案内された人々が途方にくれて帰つたことが一度ならず二度、三度とあつたことは当時(昨年)村人の笑い草となつた。
村当局としてもそれほど重要なものであればと考古学の権威者中道等氏が南部の方に研究に来ているのをつかまえて呼びよせ専門的立場から援助してもらうことになつたが、来村の中道氏にも現地に案内したが発掘という穴は最近掘った感じの穴で貴重な仏像が掘られた穴にはちとかけ離れた感じが起り不審をいだかせたうえ同氏にさえ舎利壺その他若干の仏体を見せただけで全部は見せなかった由で中道氏も憤慨して帰つたという。

古賀氏が「洞窟に自らも入っている事実」とまで書いた開米智鎧師の「藩政前史梗概」であるが、上記のごとくその翌年でさえ、ここに報じられているような有様である。「自分ひとりの胸にたたみこんでいる」「発掘場所」にどうして開米智鎧師が入ることが出来たのであろうか?「藩政前史梗概」に延々と引用されている役の小角関連資料は「和田君がもつてきた写しによつている」こと、明らかである。

「觸つた」、「殘つているといふ」の「いふ」、は和田喜八郎氏であると読むのが当時の記録から自然である。

また、福士氏は『飯詰村史』「編輯を終へて」の日付を昭和24年霜月と記す。開米師の「藩政前史梗概」の序文も同じ月である。ところがその翌年昭和25年11月、津輕考古學會が出した「役小角の古墳發見について」には次のように書かれている。則ち、
そして和田氏の未だ見せない壺と現場の調査によつて今後の研究を進めたいと思つている。

これら当時の記録からは、開米師が「洞窟に自らも入っている事実」など浮かび上がっては来ない。ここでもあるのはただ古賀氏の強弁のみである。
「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確めてない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩訶如来像と異らぬ。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。」
このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確かめていない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩詞如来像と異らぬ。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。
 此の洞窟に就いて岡田氏所蔵の記録に
  東方一里洞穴三十三観音有
   正徳年間炭焼午之助説といふ、若し此れが此の古墳の洞窟を指したものとすれば、多数の佛像の存在を三十三観音と推考したものであらふ。」 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。また正徳年問(一七一一 ~ 一七一五)の炭焼午之助の説として三十三観音が洞窟にあったという記録も紹介し、和田父子が発見した洞窟のことではないかとも論じている。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
「開米氏の証言」など上述の如く、実見によるものなどとは考えにくい。「和田家文書に記されているという洞窟地図の存在」など何の根拠になるというのであろうか。その「洞窟地図」が記されているという「和田家文書」は何という名前で、それはいつ頃知られるようになったのか?和田喜八郎氏の発言の信憑性を裏付ける根拠として「和田家文書」を用いるなど、子供だましに他ならない。
ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。 ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
下部史料、和田喜八郎「『東日流六郡誌』と中山の秘洞」によると、「昭和二十二年の夏、私は、家伝の「東日流誌」関係群書の存在を知ってまもなく、そのなかにあった遺物秘蔵地図を手がかりとLて、同志四人とともに、中山連山の山沢の踏査を敢行した。山中を彷徨すること数日、とある深沢の断崖に、秘洞の入口を発見することができたのである。人一人がやっと出入り可能な穴だったが、決死の思いで、中に入ってみると、洞窟が続いており、侵入者を防ごうとする意図からか、水が天井ちかくまで張られていた」とあるが、古田武彦・竹田郁子共著『東日流[内・外]三郡誌 ついに出現!幻の寛政原本』(2008年6月30日初版)中の年表・昭和40年の項には次のようにある。
『東日流六郡誌全』(1987年)の和田喜八郎記事「昭和22年同志4人と共に中山連山の山沢の踏破・・・」に貼付の写真はこの時のもの。

「この時」とは水沢の洞窟を藤本氏らに案内した昭和38年夏のことである。年表では昭和40年の項に収録されているが、藤本光幸氏の「古田史学会報1995年6月25日 No.7 和田家文書との出会い(3)」には、確かに「昭和三十八年 夏の一日」の事として以下のように記す。
和田喜八郎氏と共に私達が水沢と呼んでいる古密教系の奥院と考えられる寺院跡に参詣しました。この時、初めて和田氏は私達に水沢の洞窟を発表し、入口を掘りました。その時、内部に貯えられた大量の水が奔流となって流れ出し、その流れの中に数枚の書紙が混入して居りました。それを丹念に拾い集めて自宅に持って帰り、一枚ずつガラス戸に貼って乾燥させ、読んで見ました所、全く驚嘆してしまいました。

年次の齟齬は、「和田家文書」絡みの喜八郎氏の話にはしばしば出てくることで“誤差の範囲内”と茶化すこともできるレベルだが、この件については話が違う。

この写真が昭和38年あるいは40年のことであるとの竹田郁子氏の発言が、いかような根拠に基づくものであるか承知していないが、そこに何等かの根拠が存するものだとすれば、喜八郎氏の「昭和二十二年の夏」云々の話は宙に浮いてしまう。「同志四人とともに」と喜八郎氏が書いているように『總輯 東日流六郡誌 全』の381頁には4人で写った写真が掲載されている。

昭和22年の天井からの落下譚はもちろん、同年や翌年の洞窟探査の話なども当時の記録には全く出現しない。あるのは昭和24年、炭焼釜築造中に洞窟を掘り当てた・・・に類する話ばかりである。
このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。
開米師が「証言」しているのは他でもない。和田父子による「発掘」である。和田家に大量の古文書類が伝承し、それが家中から発見されたなどと一切述べていない。もちろん福士貞蔵氏、佐藤堅瑞氏、当時の『週刊民友』による報道、津軽考古学会、それに藤本光幸氏・・・。述べているのはことごとくが土中からの発見譚である。天井からなどという記録は一切無い。

ところが・・・である。昭和58年12月~昭和61年に北方新社から刊行された『東日流外三郡誌』六巻に付された和田喜八郎「『東日流外三郡誌』の史料について」では、「開米智鎧氏の編集で刊行された『金光上人』の資料も、『東日流外三郡誌』の上人関係のものを使用したのです」(4ページ)と書いている。

昭和20年代~30年代当時、あれほど話題になり、多くの証言のある“土中からの発見譚”を見事に放棄しているのである。喜八郎氏が福士氏、開米師、佐藤氏等に語った“土中から”“洞窟から”という話はウソだったということになる。

このような抜き差しならぬ矛盾を古賀氏など真書説派はどのように説明するのであろうか?
余談だが、当時、飯詰村では和田父子が発見した遺物が評判となったようで、和田父子が山に入ると、村人がぞろぞろと後をつけたという。この逸話も当時村人たちが「和田家文書」や「遺物発見」を疑っていなかったことを表しているのではあるまいか。
当時の『週刊民友』は上掲のごとく次のように書いている。
発掘の場所を教えるといつて村議、村長を例の山に案内したまではいいがかんじんのところに行くと雲がくれしてしまつて、案内された人々が途方にくれて帰つたことが一度ならず二度、三度とあつたことは当時(昨年)村人の笑い草となつた。

どこから「疑っていなかったことを表しているのではあるまいか」などという憶測が生まれるのか?古賀氏の「和田家文書研究序説」が書かれたのは上記文の掲載された『季刊邪馬台国』52号の2年後である。「会報」や『新・古代学』などの読者や古田派会員・ファン向けを意識したものだろうが、古賀氏が当時の記録に目を背けていることがよく分かる。
偽作論者はこの時発見された「遺物」をことさら過小評価しようとするが、
和田喜八郎氏のいとこにあたる、和田キヨエさんは次のように証言している。
昭和20年代に元市が炭焼窯の跡から出土したとして杯のようなものと銚子を持って来ましたが、出土物は元市から見せて貰って知っていた。ところがその後に、出土物を持った喜八郎が写真入りで新聞報道され、その時は見たことのないものまでもが出土物として写真掲載されていた。その頃から喜八郎は出土物がお金になることを知ったと思います。
和田キヨエさんの配布文書
開米氏の論文に掲載されているグラビア写真を見ても、発見された遺物が貴重なものであることは明白である。少なくとも、戦後の混乱期に炭焼きを業としている貧しい農家であった和田家で偽造したり、購入したりできるものでないことは疑いない。
「戦後の混乱期に炭焼きを業としている貧しい農家であった和田家で偽造したり、購入したりできるものでないことは疑いない」などと戦後数十年を経た古賀氏が推測して見せても無意味だ。
こうした和田君のあいまいさが村人の反感をよんだことはもちろんついには仏像はニセモノだ、あいつは財産を大分なくしているし、そのちょっと以前村から姿をくらましたことがあつたからその時京都かどこかでニセモノを作って来、村人をタブラかそうとしているのではないかという説もとび出して来た。
『週刊民友』昭和27年8月14日の記事である。これも『季刊邪馬台国』52号誌上で紹介されているが、古賀氏は承知しているのだろうか?
開米氏のこの論文中に注目すべき点がもう一つある。同論文は役小角が主テーマだが、論文中に「諸翁聞書」という文書が次のように引用されている。

「降って文明十二年南朝天真名井宮が郎黨とも十七名高楯城主五代の藤原藤光に頼らせられ「天下太平祈願」を中山に修せられた事は諸翁聞書に出て居るが、今回発掘の摩詞如来像は當時法要の本尊ではあるまいか、といふのは、佛像と一処に掘り出された護摩器の中に鐵の金剛厥が大小四本ある、(中略)慶長元年兵法役松山定之助、老中役中野萬右衛門、奉行役今清右衛門、代官役木村正衛門等の遺臣が大光院に藤原家累代を供養した記事は諸翁聞書に傳へている。」

この「諸翁聞書」と先の「諸翁聞取帳」とが同じ物か別物なのかは不明だが、「東日流外三郡誌」などに頻出する「天真名井(あまない)宮伝承」や「藤原藤房卿の末裔伝承」がここに現れていることは興味深い。すなわち、開米氏はかなりの量の和田家文書をこの昭和二六年時点で既に読んでいるという事実が浮かび上がるのである。
「天真名井(あまない)宮伝承」や「藤原藤房卿の末裔伝承」が開米氏によって紹介されていることが、なにゆえ「かなりの量の和田家文書をこの昭和二六年時点で既に読んでいるという事実」となるのか?ただただそれらの話が「東日流外三郡誌」などに頻出するというだけのことである。コトの前後関係を無視した牽強付会に過ぎない。「東日流外三郡誌」がおおやけに知られるようになるのは昭和30年代の後半。藤本氏辺りが最初である。それ以前に「東日流外三郡誌」の存在を示す客観的証拠は皆無である。「天真名井(あまない)宮伝承」や「藤原藤房卿の末裔伝承」に“合わせて”「東日流外三郡誌」を書けば「頻出する」ことになる。冷静に“時系列”に添って考えれば、開米師が「天真名井(あまない)宮伝承」や「藤原藤房卿の末裔伝承」を紹介したことなど、昭和20年代前半に「東日流外三郡誌」が和田家に存在していた根拠になど、なろう筈がないではないか。
和田家の近隣にある大泉寺住職の開米氏ならば、和田家が所蔵していた膨大な文書の存在を知っていたとしても何等不思議ではないからだ。現に開米氏は役小角研究に次いで金光上人の研究を和田家文書に基づいて開始し、昭和三九年には『金光上人』を刊行することになる。
事実として「所蔵」していたのなら、「膨大な文書の存在を知っていたとしても何等不思議ではない」だろう。それが「事実」であるかどうかの話だ。「開米氏は役小角研究に次いで金光上人の研究を和田家文書に基づいて開始し」などと書くが、この「和田家文書」の定義は何であろうか?まさか江戸時代あたりから和田家に伝承し、昭和22年夏、天井から落下してきた“とされる”「和田家文書」群のことではあるまい。開米師が「昭和三九年」上梓した『金光上人』の「序文」で浄土門主総本山知恩院・岸信宏門跡は何と書いているか?
これらの古文書は五所川原市飯詰(いいづめ)の和田喜八郎氏が梵珠山の糠塚の沢という所で、炭焼の釜を掘っている内に洞窟をほりあて、その中より種々の古文書、陶器、銅器などを発見したとのことである。これらの古文書類は今五所川原市の大泉寺に保管せられ、住職開米智鎧師によって整理研究せられているのである。前記佐藤堅瑞師の「金光上人の研究」の中にもこの新出の古文書類が素材となっているのであるが、開米師は多年の研究により、この新出の古文書を中心にして、首尾一貫した金光上人の伝記「金光上人」を刊行せられることとなったのである。本書の資料となった新出の古文書は本書の付録第一に収録せられてある。

開米智鎧師が『金光上人』を編纂するにあたって用いた新出史料なるものは、「和田喜八郎氏が梵珠山の糠塚の沢という所で、炭焼の釜を掘っている内に洞窟をほりあて、その中より」発見したものである。

古賀氏が「和田家が所蔵していた膨大な文書」などと書くのは、古賀氏が開米師の『金光上人』を承知している以上、意図的な歪曲と言われても止むを得まい。ここでも古賀氏は、喜八郎氏の唱える昭和22年・天井からの落下譚を資料的に証明することが出来なかった。
(4).佐藤堅瑞『殉教の聖者金光上人の研究』昭和三五年
(引用 和田家文書:金光上人関連文書」)
 浄土宗の祖法然の直弟子で東北地方へ浄土宗を布教し、津軽で没した著名な僧に金光上人がいる。しかし金光上人の詳しい事績は謎とされてきた。開米智鎧氏とともにその金光上人研究をすすめられてきたのが、西津軽郡柏村浄円寺住職佐藤堅瑞氏である。
 佐藤氏は開米智鎧氏とは仏教大学の先輩後輩の関係にあり、昭和一二年頃から全国を行脚し金光上人研究をされていたが、和田家文書の「発見」を開米氏より伝えられ、昭和三一年より共に調査研究を行われたのである(開米氏の大泉寺と佐藤氏の浄円寺は八キロほどの距離で、氏は自動車やスクーターでしばしば大泉寺を訪ねられていた)。佐藤氏は「浄土教報」にも和田家文書(金光上人関連)の調査報告を発表されているが、昭和三五年一月に『殉教の聖者金光上人の研究」を刊行された。
 佐藤氏は今も御健在であり、この間の事情などを御教示いただいたのだが、氏は昭和三一年から三五年にかけて多くの和田家文書を実見されており、
佐藤堅瑞氏へのインタビューはこのページ下部「Ⅳ」に引用している。古賀氏が「氏は昭和三一年から三五年にかけて多くの和田家文書を実見されて」と書くが、佐藤堅瑞氏の応答をよく読んで頂きたい。
洞窟が発見されたのが、昭和二十四年七月でしたから、その後のことですね。
古賀氏が「和田さんの話しでは、昭和二十二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、」と例の落下譚について佐藤氏の水を向けた際の氏の応答が上述の通りなのである。当時の記録に照らして考えるに、開米師が佐藤堅瑞氏を呼び、和田氏の発見した資料について紹介した。佐藤堅瑞氏の『金光上人の研究』にもたびたび新たに発見された資料として金光上人関係資料が紹介されているが、それらが和田家の家中から出てきたなど一切述べてはいない。

和田氏のスポンサーとも言える藤本氏にしても、昭和39年、開米智鎧師『金光上人』「刊行にいたるまで」の中で次のように書いている。
たまたま昭和二十四年、五所川原市飯詰の和田喜八郎氏が梵珠山系魔神山麓、糠塚沢附近で炭焼釜を造築中、偶然にも洞窟を発見、その中を探索しました所、種々の仏具、護摩器等を見付けました。それらの中に太い竹筒を細い糸で幾重にも巻き、漆で塗りかためた経筒がありましたが、この経筒の中から今回発刊される事になった金光上人に関する新資料が多数の修験宗の資料と共に見出されたのであります。(この洞窟の岩の扉には享保年間の刻字とともに「不開」の文字が認められたと云う。)

昭和20年代前半から30年代いっぱいまでの間、「和田家文書」が昭和22年夏、天井から落下してきたなどと証言している人がどこにいるのか?ことごとくが“土中から”だ。
先に紹介した「諸翁聞取帳」や「東日流外三郡誌」、それに洞窟より発見された役の小角関連の銅板銘や木皮文書、骨蔵器なども見ておられるとのこと。
佐藤氏が「見られた和田家文書」なるものは「淨円寺関係のものや金光上人関係のもの」である。「淨円寺」は佐藤堅瑞氏ご本人のお寺、「金光上人関係のもの」とはもちろん土中から出てきたもの。「淨円寺関係のもの」にしても、「東日流外三郡誌」などというものではなく、金光上人関連の史料であろう。それは佐藤氏の『金光上人の研究』中にも、たびたび金光上人を語る上での“新資料”的な表現が出てくることからも窺える。

ましてや「諸翁聞取帳」や「東日流外三郡誌」を佐藤堅瑞氏が「見ておられる」など、どこから出てくる話であろうか?明確な根拠を示して頂きたい。
また、「調査が必要」とされながらも、当時和田喜八郎氏が「浄土宗の僧籍に入り忍海と改名し、最低の権律師を頂いたようだ」とも証言されている。偽作論者は和田氏が僧籍にあったことを疑問視しているが、佐藤氏の証言によれば、やはり事実のようである。当時のことを知る関係者が少なくなった現在、こうした佐藤氏の証言は貴重である。
(5).開米智鎧『金光上人」昭和三九年、金光上人刊行委員会発行(非売品)
(引用和田家文書:金光上人関連文書」)
「引用和田家文書」などと書くが、ここで用いられている史料は「Ⅴ 刊行にいたるまで」に掲げてある如く、“発掘”されたものである。開米智鎧師も和田家に江戸時代から文書類が伝承しており、それが昭和22年天井からの落下により発見された・・・などと一切述べていない。もちろん岸信宏門跡による「序文」にも洞窟の中から発見した史料に依っていることは明記しているが、和田家の中から出てきたなどとは一切書いていない。古賀氏が奇しくも書かれた「自説に不利な証言・事実・史料を無視ないし軽視し、意図的に紹介しないという常套手段に奔ったようである」など、まさしく古賀氏自身についてこそ相応しい言葉であろう。
 先に紹介した佐藤堅瑞氏の『金光上人の研究』に次いで昭和三九年に刊行されたのが、開米智鎧氏による『金光上人』である。同書は本文二八八頁からなり、総本山知恩院門跡岸信宏氏、大本山増上寺法主椎尾弁匡氏による序文、文書などのグラビア写真二二枚などが収録されている。巻末に収録されている藤本光幸氏の「刊行にいたるまで」によれば、昭和二四年に和田喜八郎氏により山中から発見された修験道資料や金光上人関連文書により力を得た開米氏が、以来十有余年、資料の整理研究を行い昭和三八年に脱稿されたものと紹介されている。
 同書には多数の和田家文書が収録紹介されているが、同書付録の「金光上人編纂資料」には約二百三十編の和田家文書名が見える。
「約二百三十編の和田家文書名」が書かれてあるのは確かに「附録 三、金光上人編纂資料」であるが、ここに掲げられる231点の資料が和田氏からもたらされたものであるとしても、それらはもちろん洞窟より発見されたものである。和田家に古文書類が伝承しており、それらが昭和22年天井からの落下によって発見されたなどと一切書かれていない。
このように『金光上人』編纂にあたって、開米氏は膨大な和田家文書を昭和二四年以降参照しているのである。紹介されている和田家文書には一枚ものの簡単な「書簡」もあれば、浄土宗や修験宗の教義に関するものなどがあり、浄土宗史や仏教教義に詳しくなければ書けない内容といえる。一例をあげれば、金光上人が著したとされる「末法念仏独明抄」第八巻得道品には「妙法蓮華経」方便品の一部が転用されていたりする。浄土三部経からの引用が多い金光上人関連文書に法華経が引用されていること自体興味深いことだが、こうしたことを見ても、仏典に詳しくなければ書けない内容であることがわかるのである。少なくとも法華経方便品の文意を理解していなければ、引用は不可能である。おそらく偽作論者たちはこうした史料状況さえも気付いていないようである。
古賀氏は不思議なことを述べている。「仏典に詳しくなければ書けない内容であることがわかるのである。少なくとも法華経方便品の文意を理解していなければ、引用は不可能である。」と書く一方で、「これら金光上人関連文書は地元伝承や古文書を採録したものと思われ」と・・・。「地元伝承や古文書を採録」すれば書けるということである。実際、「これら金光上人関連文書」は「地元伝承や古文書を採録したものと思」っているのだから、特段“だれそれには出来ない”と言いうるものではあるまい。
 これら金光上人関連文書は地元伝承や古文書を採録したものと思われ、全てが史実というわけではないこと、当然であろう。いずれにしても、浄土宗の僧侶である開米氏が研究に値すると判断した内容であり、当時、二〇代前半の和田喜八郎氏が偽作できるようなレベルでは、質においても量においてもないのである。偽作論者は故意にこうした内容にまで触れようとしていないのではあるまいか。
「偽作論者は故意にこうした内容にまで触れようとしていないのではあるまいか」などと非難がましく書いて見せても、自分の方の主張である、古文書の伝承と天井からの落下について、一向に具体的根拠が提出されない“事実”は覆い隠しようもない。あるのは唯、憶測の山である。
同時に、開米氏もこうした和田家文書を無批判に信用したわけではないことが、「序説」に次のように記されていることからうかがえる。「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。
 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」 このように戦後比較的早く世に紹介された和田家文書の一つとして「金光上人関連文書」は、内容も量も一個人が短期間に偽作できるというものではないことを証明するのである。
ここでも相変わらず古賀氏は時系列を無視した強弁を繰り返している。「短期間」とは一体どれくらいの期間のことか?佐藤堅瑞氏は開米智鎧師の知らせで「昭和三十一年頃に初めて和田家史料を見」たのである。洞窟の発見からは7年ほどが経っている。4日間で129枚の原稿用紙を書き上げる人間が7年あればどれほどの物を書くことが出来るのか?しかも、昭和35年の佐藤氏『金光上人の研究』や昭和39年の開米師『金光上人』の文を読むに、和田氏からは五月雨的に資料がもたらされている。後の証言等も合わせて考えるに、喜八郎氏はその時の需要に合わせ、同時並行的に“古文書”を製作していったと考える方が理に叶っていると言えよう。つまり古賀氏の「短期間」など、実体のない虚言である。
しかも、同時期に「役小角資料」「諸翁聞取帳」「天真名井家関連資料」も公刊・紹介されており、ますます和田喜八郎氏偽作説は成立困難なのである。
古賀氏の文の締めくくりがコレであることは、古賀氏の論証がつまるところ、単なる牽強付会に終始したことの明証といえよう。「役小角史料」は洞窟から。「諸翁聞取帳」「天真名井家関連資料」はそれらを引用した本人が、「和田家文書」であるなどと一切述べていないのである。

四千数百とも言われる古文書類が代々和田家に伝承してきたという証拠は昭和20年代から30年代にかけての諸資料に拠る限り皆無である。しかし、それほど多量の古文書が“土中から”“洞窟から”出てくるというのも余りに不自然である。

ならば答えは一つしかない。それは、和田喜八郎氏が長年掛けて製作し続けてきた結果だ・・・ということである。

丙 「五所川原図書館にて」 古田史学会報 1996年10月15日 No.16「平成・諸翁聞取帳」東北・北海道巡脚編出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)より開米師証言に関わる部分
旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
 昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
 合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
古賀氏は「和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物」と書くが、「和田父子が山中から発見した遺物」以外に「「和田家文書」とは一体、何のことであろうか?「青森民友新聞」の連載記事中で、「山中から発見した遺物」以外の「和田家文書」について開米師はどこで言及しているというのであろうか?

連載の第1回「中山修験宗の開祖役行者伝(1)」には明らかに「昭和二十四年新発見の資料を、子細に検討すれば、聊か「人間小角」の片貌がわかるように思われる」として、以後延々と新発見の資料に基づいての記述が続く。開米師が見たのは昭和24年、土中から新発見の資料である。

「開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられる」などと書くのも詭弁である。開米師が見たのは紛れもなく“山中”“土中”“洞窟”から出てきたものである。

一体、開米師はどこで、江戸時代から和田家に伝承し、昭和22年天井から落下してきた古文書等について言及しているというのであろうか?

開米師は一切、そんなことは述べていない。
丁 「和田家資料(出土物)公開の歴史」 古田史学会報 1997年12月28日 No.23
本年五月、和田家文書調査のおり、弘前図書館にて東奥日報を閲覧した。その時、昭和二九年二月十四日付の記事に、和田家が和田家文書に基づいて発掘した文化財公開のことが記されていた。昭和二十年代既に和田家が文化財を大量に収蔵していた事実を証明する記事だが、このことはとりもなおさず、和田家文書が偽作ではなく、安倍安東一族の伝承と秋田孝季らによる調査を記した貴重な文献であることを裏づける。このように昭和二十年代には、客観的な取材記事を掲載していた東奥日報であったが、現在では偽作論者を支援する斉藤光政記者により、完全に偽作キャンペーン紙へと変質していると言わざるを得ない。以下、貴重な資料として、同記事を紹介する。なお、紙面には遺物と若き日の和田喜八郎氏の写真も掲載されている。
古賀氏の詭弁である。「東奥日報」の記事のどこに「和田家が和田家文書に基づいて発掘した」と書いてあるのか?以下の文を読めば歴然とする。「和田家文書に基づいて発掘した」のではなく、炭焼窯を築造しようとして偶然、発見したものである。当時の資料にはそのようにある。「和田家文書に基づいて」などと言い出したのは、他でもない和田喜八郎氏である。

山上笙介編『總輯 東日流六郡誌 全』巻末の「『東日流六郡誌』と中山の秘洞」で喜八郎氏が「家伝の「東日流誌」関係群書の存在を知ってまもなく、そのなかにあった遺物秘蔵地図を手がかりとして、同志四人とともに、中山連山の山沢の踏査を敢行した。山中を彷徨すること数日、とある深沢の断崖に、秘洞の入口を発見することができたのである」などと語っているのは、実に昭和62年のことである。つまり「和田家文書に基づいて」など、昭和62年時点での“喜八郎・弁”に過ぎない。

昭和20年代の著述・記事に「和田家が和田家文書に基づいて発掘した」などという表現は一切無く、あるのは、炭焼窯築造中、あるいはその後の喜八郎氏の探索によるものである。“天井からの落下”など、その影・微塵も窺い知ることが出来ない。
<資料>
(見出し)
 五年前、和田親子が発掘
 本邦には珍しい佛、神像など
 融雪まって一般に公開
 飯詰山中から古文化財出土
 北郡飯詰村大字飯詰、農和田元一さん(五五)同長男喜八郎さん(二六)親子は昭和二十四年七月同村東方の飯詰山中で炭焼窯を造ろうとして土中を掘り返したところ相当大きい石室を発見、発掘の結果仏、神像をはじめ仏具経木を利用した古文書などが出土した。出土品は本邦の原始宗教につながりのある全く珍しいものとされているが、同親子は出土品と場所を公開することを極端に拒否したためその真偽をめぐって関係者から興味を持たれていたが初の出土品の公開が十二日午前十時から同村大泉寺で行われた。
 この公開には県教育庁文化財施設係員市川秀一氏らも立会いアララ、カマラ仙人、老子、聖天狗、ガンダラ仏、アシュク如来、ムトレマイヲス、法相菩薩、救世観音像(いずれも同寺住職開米智鎧氏鑑定による)のほか経木に書いた祭文、原始宗教のうち山岳教(山伏し)の表徴で学説では架空の人物とされている『役の小角』の一代記の他、造形文字の古文書仏舎利壺などで出土品はこのほかまだ相当あるといわれるが公開されたもののうち摩訶如来像、ムトレマイヲス像は本邦には全く珍しいものといわれている。
 しかし同鑑定は中央の専門家によるものではなく、その上同村附近で産出する俗称『アマ石』で約千四百年前に製作された像としては原型が完全過ぎることと、問題である『役の小角』の晩年は山岳宗教家の間では『唐』へ渡ったという説があるため飯詰山中にその仏舎利があるわけはないと疑問視しているという。
 このため県教育庁では同日公開された出土品を写真に収め文部省の文化財保護委員会に鑑定を依頼することになったが、一方和田親子もこの疑問を解くため今春の雪融けと同寺に発掘場所を仏神教と考古学研究家に公開することになったので五年間とりざたされた同問題も一挙に解決することになった。
△和田喜八郎さん談 今まで公開しなかったのは出土品を政府に持って行かれては村としても困ると思ったからだ。出土品が本物だかどうかは発掘場所を見てもらえばはっきり解ると思う。今春その場所へ案内する。
△県教育課市川秀一氏談 開米住職の鑑定通りでは驚くほどのものだ。はっきり調査するため文化財保護委員会へ鑑定を依頼する。

戊 いわゆる「猪垣裁判」に提出された古賀達也氏の「陳述書」について、その詭弁性を明らかにする
陳述書
野村孝彦氏陳述書[甲第二八三号証]などについて、次の通り意見を申し上げる。

和田家文書研究の現状について

一「和田家文書」の定義について、見当違いの論難を正す

 会報十六号の拙稿中、和田父子が山中より発見した文書を「和田家文書」と私が表現したことに対して、「いつわり」「虚偽」「恣意的な欺瞞」と口を極めて誹謗中傷されている。
 わたしは、拙稿「『東日流外三郡誌』とは ーー和田家文書研究序説」(『新・古代学』一集所収、一九九五年七月)において、和田家文書の現状と概要、史料性格などを調査報告しているが、その中で、和田父子により山中から発見された文書も和田家文書の一部として紹介している。
「和田父子により山中から発見された文書も」の「も」とは一体どういう意味なのか?「山中から発見された」当時、他に和田家に何等かの文書等が伝承してきたなどという証言がどこかにあるのか?そんなものは皆無である。
これは和田家に伝存してきたものも、戦後、和田家によって発見され収蔵されてきた文書も和田家文書として一括して取り扱い、その上で、それらを書写年代などから分類を試み、以後の研究に役立てようとしたものである。「和田家文書研究序説」という副題もその精神の現れであった。このように、定義を厳密に、かつ公にしながら研究を進めている私に対して、野村氏の誹謗中傷はお門違いであろう。
何が「定義を厳密に」なのか?「和田父子により山中から発見された文書」というものは真偽はともかく当時の記録にある。福士貞蔵、開米智鎧、佐藤堅瑞各氏の他、報道や、やや遅れるが藤本光幸氏の記述もある。それに比して「和田家に伝存してきたもの」などという証言は皆無である。また「戦後、和田家によって発見され収蔵されてきた文書」なる表現も「厳密」の正反対でまさに曖昧そのものである。この「発見」が具体的に何を想定してのことなのか?天井からなのか?あるいは土中・洞窟からなのか?

土中・洞窟からの発見という証言のあることを以て、「一括して」、「和田家文書」類の伝承を裏付けるとでも言いたいのであろうか?

土中・洞窟からの発見という証言は、喜八郎氏の言う“天井からの落下=江戸時代からの伝承”という後年の主張を全く否定するものである。まさか古賀氏においてそのような峻別が為しえないとも考えにくい。意図的に“詭弁を弄した”と言って間違いなかろう。
二 昭和二〇年代に紹介されていた和田家文書

 また、野村氏は「二〇年代はおろか、おそらく三〇年代にも、和田家に古文書が伝わっているという話はなかった」とされるが、私の調査結果によれば、昭和二〇年代には福士貞蔵氏により『飯詰村史』(昭和二六年刊行、編集後記は昭和二四年)、「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」(『陸奥史談』所収、昭和二六年)などに、和田家文書からの引用と見られる記事が掲載されていたことが判明している(詳細は「『東日流外三郡誌』とは ーー和田家文書研究序説」に記した)。
上述のごとく、福士貞蔵氏が引用したのが「和田家文書」であるという当時の証言は皆無である。後に喜八郎氏が出してきた「和田家文書」類に福士氏が引用したものと類似の記事が出現していると言うだけのことである。時系列を踏まえれば古賀氏の理路が成り立たないことは容易に理解しうる。

また「判明している」と書くが、これは実にウマイ表現である。この古賀氏の文による限り「判明している」のは「和田家文書からの引用と見られる記事が掲載されていたこと」。判明したのは「引用と見られる記事」についてであり、“引用した記事”とは書かれていない。「見」ているのは古賀氏自身に他ならない。時系列を無視した刷り込みである。

なるほどこれなら追求をかわすことが出来るが、それならそうでその「判明」なるものは単なる古賀氏の憶測にすぎないと言うだけのことに留まる。こんな粗末な理路を綴ったモノが裁判の「陳述書」として“価値”を持つものであるか?裁判に疎いものとしては判断のしようがないが、その論旨がお粗末であることは容易に理解しうる。
 また、開米智鎧氏と親しく、和田家文書に基づいて『金光上人の研究』を昭和三五年に著された佐藤堅瑞氏(柏村浄円寺住職)も、昭和三一年に和田家文書を初めて見たことを私からの聞き取り調査にて証言されている(古田史学会報七号に掲載)。このように、野村氏の主張は全く根拠がなく、しかも私がすでに発表してきた調査結果を無視された上でのものである。
佐藤堅瑞氏が「見た」のは下に引用した如く「昭和二十四年に洞窟から」出てきたものである。佐藤氏の『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』(昭和35年)132頁~133頁には「新しく発見された古文書に就いて」として昭和24年7月下旬“一農夫和田氏”が飯詰の山中の洞窟から「貴重なる品々」を発見したことが紹介されている。開米師がそれを研究中に金光上人に関する資料が出てきたので佐藤堅瑞氏を呼んだのである。

つまり、佐藤堅瑞氏が“証言”しているのは土中・洞窟からの発見である。和田家に古文書類が伝承し、それが昭和22年、天井から落下してきたことなど一言も語ってはいない。

野村氏の言われたという「二〇年代はおろか、おそらく三〇年代にも、和田家に古文書が伝わっているという話はなかった」というのは当時の数多の証言に照らす限り、まさしくその通りである。「伝わっているという話はなかった」のであり、“あった”のは、悉く土中から・洞窟から出てきたという証言ばかりである。

「野村氏の主張は全く根拠がな」いどころか、当時の資料からはそのようにしか考えられず、また逆に、古賀氏の持っている考えこそ「全く根拠がな」いこと、明々白々である。


和田喜八郎氏の証言に基づいて、古賀氏の想定する「昭和二二年夏に天井裏からの落下」など、延々と述べてきたごとく、“コジツケ・牽強付会・強弁・詭弁”の産物以外の何物でもない。


ついでに触れておくが、表中の「寛永聞取帳」について「(同時に発見された史料)」と注記してある(『金光上人の研究』134頁)。つまり、飯詰山中の洞窟から発見されたということになる。

この「寛永聞取帳」と「諸翁聞書」「諸翁聞取帳」との関連は不明だが、福士貞蔵氏が『郷土史料蒐集録 第拾壱號』に採録している「諸翁聞取帳」の記事の年次が殆ど「寛永」年間であることが気になるところではある。


Ⅳ 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く 1995年6月25日 No.7 古田史学会報 七号


昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進めておられ、昭和三十五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊されている。現在は青森県仏教会会長などの要職も兼ねておられる。「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)
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--和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

 昭和二十四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、はっきり示してくだされば、いくらでも反論できます。ただ、こうじゃないだろうか、そうじゃないだろうかという憶測や、安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

--和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

 そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

--内容も素晴らしいですからね。
 素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三十一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

--御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね
(脱稿は昭和三十二年頃、発行は昭和三十五年一月)。

 そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。

--思想的にも素晴らしい内容ですものね。

 こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。

--最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
  
 そうそう。

--親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三十一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。

 はい。あの方が一番早いんです。

--和田さんの話しでは、昭和二十二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二十四年編集完了、二十六年発行)に掲載されていますね。

 そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二十四年七月でしたから、その後のことですね。

--佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

 そばまでは行きましたが、見ていません。

--開米さんは洞窟に入られたようですね。

 そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。

--和田さんは「忍海」という法名をもらって、「権律師」の位だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

 正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

--それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二~三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

--佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

 淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

--量はどのくらいあったのでしょうか。

 あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

--和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。

 そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。

--和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

 私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

--親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

 そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
 和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

--当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。

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◎日 時 五月五日 午後三時~四時半
◎場 所 青森県西津軽郡柏村・淨円寺
◎聞き手 古賀達也
◎文 責 編集部

Ⅴ 開米智鎧師『金光上人』巻末・藤本光幸「刊行にいたるまで」全文 (昭和39年9月25日発行)
刊行にいたるまで

 東奥念仏、最初の開教者、金光上人の伝記について今まで宗門に於ても、僅かな資料よりなく、その消息、宗義に関しては、全く伝説的伝歴の外はないと聞き及んで居ります。
 今ここに来る昭和四十一年の金光上人、七百五十年大遠忌を迎えるにあたって、開米師の「金光上人」を記念出版出来ます事は、私達金光上人の遺徳を讃仰するものとして、本当によろこばしい事であります。
 本篇の編者である大泉寺開米智鎧師は少壮の頃から金光上人の遺徳をしのび、その研究に専念して参りましたが、当初は乏しい資料のため、その研究も思うにまかせず、全く暗中模索の状態にありました。
 たまたま昭和二十四年、五所川原市飯詰の和田喜八郎氏が梵珠山系魔神山麓、糠塚沢附近で炭焼釜を造築中、偶然にも洞窟を発見、その中を探索しまLた所、種々の仏像、仏具、護摩器等を見付けました。
 それらの中に太い竹筒を細い糸で幾重にも巻き、漆で塗りかためた経筒がありましたが、この経筒の中から今回発刊される事になった金光上人に関する新資料が多数の修験宗の資料と共に見出されたのであります。

 (この洞窟の岩の扉には享保年間の刻字と共に「不開」の文字が認められたと云う。)
 開米師はこの発見に力を得て、爾来十有余年ひたすらに金光上人の研究に没頭、老齢にもかかわらず昭和三十八年三月二十五日に至って、漸々首尾一貫した金光上人の伝記及びその宗義を、発掘された新資料をもととして完成、脱稿されました。
 それに先だって、開米師と共に、発見された新資料の古文書を整理、研究された浄円寿佐藤堅瑞師は、昭和三十五年一月に、その成果を殉教の聖者「金光上人の研究」として発表しましたが、これによって、これまで世に明かにされなかった金光上人の御業績が脚光をあびることとなりました。
 昭和三十六年の秋、八戸市十王院高橋松海師が火傷をされ藤崎町福井医院で治療をして居りましたが、丁度病院の隣りが摂取院であった関係上、宗祖法然上人の御忌の日の説教で金光上人が「奥州皆浄土化」を御遺言に、宗祖の御教えを如何に東北の地に布教なされたかを説かれました。
 その後の親和会で、僻地津軽地方に於ける金光上人の念仏弘通の為の御苦心を伝える古文書が飯詰大泉寺の開米師のもとに保存されてある事などに話が及び、その事から摂取院成田教淳師、佐藤未太郎氏、加福喜一氏等が大泉寺を訪れ、発掘された古文書の数々を拝観、感激をあらたにすると共に、摂取院関係の人達は、この日始めて和田喜八郎氏に会いました。
 其の後、和田喜八郎氏は発掘された古文書の中から摂取院関係の一書を持参、摂取院に寄進し、開米師の労作刊行に対する応援方を摂取院檀信徒に懇請しました。
 これを聞いて摂取院責任役員藤本幸一氏は、一日、飯詰大泉寺に開米師を尋ね、開米師の生涯をかけた研究をこのまま埋もれさすにしのびないとし、しかも金光上人にゆかりの深い寺々の人達で金光上人の御遺徳を世に発表出来るのも、上人七百五十年忌を迎えて、何かしら前世からの因縁に依るものであろうと出版資金の提供を申出ました。
 昭和三十七年九月、青森市油川の浄満寺に浄土門主総本山知恩院門跡岸信宏猊下が御巡錫の際、宿泊の御宿に藤本幸一、佐藤未太郎、和田喜八郎等の諸氏でおたづねし発掘された資料の一部を御覧願いました。
 昭和三十八年春、原稿脱稿の後、藤本幸一氏は総本山知恩院に登嶺し、数葉の古文書の写真を岸狼下に御覧願うと共に、発掘された資料をもとにして「金光上人」の題字のもとに開米師の研究を出版発表する事を報告、帰青後、いよいよ刊行するにあたっての具体的た打合せ会を開く事となり、青森教区長西光寺工藤昌瑞師の召集によって、天徳寺相馬貫雄師、浄円寺佐藤堅瑞師、大泉寺開米幽海師、西光院柏竜導師、摂取院成田教淳師、藤本幸一氏、佐藤未太郎氏、加福喜一氏、久保田藤雄氏等が集まり、金光上人讃仰会として出版する事を決定、さらに編集方針、発行部数等を協議しました。
 其の後、総本山知恩院門跡岸信宏猊下、大本山増上寺法主推尾弁匡大僧正台下、大本山清浄華院石橋誠道大僧正台下、から貴重な序文を頂戴致し今度の出版を、より有意義なものとする事が出来ました。
 ともあれ、金光上人七百五十年大遠忌を機会に、金光上人生涯の教義と伝記と業績を通して、深遠なる釈尊の御教えに接し、仏教の真理に近づき得た様な純粋な気持に私達をして導きしむるのも念仏の心でありましょう。
 沈滞した昨今の仏教界に於て、この念仏の燈火を高く掲げ金光上人の御遺徳を讃えたいものであります。
 最後に本篇の題字は開米師の依願で貞昌寺赤平昌導師が揮毫なされ、数々の資料古文書及び金光上人墓地等の撮影は佐藤喜一郎氏に、出版関係の斡施は久保田藤雄氏、校正は斎藤氏及諸氏の御力によって行なわれました事を附記し、この出版に物心両面から多大な御指導、御援助を下された皆様に対し心から御礼申しあげる次第で御座います。
金光上人讃仰会藤本光幸

Ⅵ 和田喜八郎「『東日流六郡誌』と中山の秘洞」 山上笙介編『總輯 東日流六郡誌 全』巻末 昭和62年7月20日/津軽書房

『東日流六郡誌』に、「奥州諸山鉱秘伝」・「安倍安東極秘処」(北海・渡島・奥羽)・「安倍安東祖来遺物埋処控」(東日流中山之遺跡)、その他、安倍一族の隠金山、安東一族が東日流放棄のさいに財宝を埋蔵したという場所の古地図が収載されている。真偽を問う者も多いであろうが、他は知らず、津軽の中山連峰には、安東氏の遺物と認められる品々が確かに埋蔵され、いまに出土する。私自身、秘洞を発見し、埋土品を入手したのである。
昭和二十二年の夏、私は、家伝の「東日流誌」関係群書の存在を知ってまもなく、そのなかにあった遺物秘蔵地図を手がかりとして、同志四人とともに、中山連山の山沢の踏査を敢行した。山中を彷徨すること数日、とある深沢の断崖に、秘洞の入口を発見することができたのである。人一人がやっと出入り可能な穴だったが、決死の思いで、中に入ってみると、洞窟が続いており、侵入者を防ごうとする意図からか、水が天井ちかくまで張られていた。
入口の下を崩して、水を流出させたが、からくりが施されているようで、すべてを排水することはできたかった。腰までの水をかきわけつつ、懐中電灯をたよりに洞内を進み、堅く閉ざされた岩戸に突き当った。やっとこじ開けて中に入ると、そこは乾いた洞窟であり、おびただしい古銭、仏像などが秘蔵されていたほか、土器・陶磁器の破片が散乱していたのである。安東一族の遺宝は、確かに、一部がここに存在した。
秘洞発見に次いで、翌昭和二十三年夏、中山連山中から、再び古代の埋蔵物が出土をした。場所は糠塚山。今回は偶然の発見で、私の父が炭焼釜を造っていたときに、土中から現われたのである。青銅器、青磁器・白磁などであった。そして、ここも、古地図に記された場所であった。私は、あい次ぐ埋蔵物の出土に、家伝書に載る安東氏の存在と遺跡に対する確信を深めたのである。
右に掲げた六枚の写真は、秘洞踏査行のスナップであり、同行した藤崎(青森県南津軽郡藤崎町)の写真館主佐藤喜一郎さんが撮影したものである。これまでは、洞窟の場所を秘しておく必要上、門外不出にして来たが、既刊の『東日流六郡誌絵巻』と、本書『総輯東日流六郡誌』の刊行に当り、思い切って公開することにした。
中山から遺物が続々と出土したころ、弘前の石場旅館に、文部省の考古学技官が来ていると聞かされた。そこで、さっそく、発掘した品々を持参して、鑑定を依頼した。ところが、答えは、冷酷なものであった。
「青森県で、こんな立派なものが出土するはずはない。どこから持って来たかわからんが、失くした人は困っているだろう。返したほうが無難だよ……」。まるで、盗人あつかいであった。
私は、官学に対する怒りがこみあげ、真史の究明に終生を捧げる決意をLた。もちろん、“異端の書”と編纂者の先祖らがみずから認める伝来の「東日流誌」によってである。いわゆる「日本史」の虚偽と偽瞞も、私の決心をさらに固くした。以来、努力は、いまもなお続いている。
「東日流誌」の編者たちは、いずれも歴史家ではたく、ただ、資料を集めて記録を遺したものであるから、専門的な色合は薄いとしても、その素朴さがまた、真実性を強めている。はるかなる古代を、信仰は信仰ながらに、実証は実証ながらに、西洋知識をもいれて、明治の末期まで、子孫五代にわたって書き綴られた「東日流六郡誌」である。私は、素直に、永世秘密とされるこの文献を、古今に永く西高東低の歴史に洗脳されて来た者への黙示録として、世に出した。いたずらに忌避することなく、真剣に研究に当ってほしいと切望する。
私は、文献ばかりでなく、出土品の公開をも決意した。これがこのたびの「安倍・安東・秋田氏秘宝展」(昭和六十二年七月一日~八月三十一日、青森県五所川原市立図書館で開催)である。中山からの出土品は、その一部を構成するが、
本書など「東日流誌」刊行物と対照くだされば幸甚に思う。
ところで、昭和二十二年に発見した中山の秘洞であるが、以後三十余年にわたって、その所在を秘していたところ、昭和五十八年五月の日本海中部地震にさいして、洞窟は跡かたもたく崩れ去り、永久に立ち入ることができなくなった。私の単独調査では、むろん、十分とはいえないから、詳細に調べれば、さらに貴重な遺物をも発掘できた可能性が強く、まことに残念である。踏査時の写真公開は、この秘洞が存在したことを裏付けるためでもある。
最後に、安倍・安東・秋田氏ならびに和田一族の各所にある縁祖の菩提を、この紙面をもって、成道を念ずる次第である。

昭和六十二年六月一日