「景初四年」はあったか?

2020/5/6
最近ではあまり見かけなくなった「景初四年実在説」。2005年にYahoo!掲示板上でも話題になったが、tenchuukun氏らの史料に基づく解説により大納得の解決に至る。

ところが、『季刊邪馬台国 104号 2010年2月』に笛木亮三氏が寄せた「「景初四年」は、存在した!」という一稿があり、2011年6月16日号『週刊新潮』掲載の「歴史的発見に騒然!『邪馬台国』論争にケリをつける!?『卑弥呼の鏡』の新証拠!聖徳大学山口博名誉教授」という記事も次いで発表された。

これに対して、入倉徳裕氏が極めて明快な反論を示された。
・『季刊邪馬台国 108号 2011年1月』117ページ、「『晋書』に「景初四年」は存在しない」
・『季刊邪馬台国 111号 2011年10月』148ページ、「「佩文韻府」の景初四年について」

また、平松健氏も2011年6月20日に「景初四年銘鏡」との関わりについても言及した「景初四年の検証」という一文をネット上に公表しており、山口博名誉教授の「歴史的発見」が、その表現に値しないものであることを明らかにしている。

入倉氏と平松氏の両論文で「景初四年実在説」は完全に否定されたと見て間違いない。

2019年夏、私のブログにこの件についての連載を書いたが、それらをひとまとめにして一ページを作成し公開するとこととした。

「昭和六十四年」の硬貨

2009-08-20 (Thu)
お気づきの方もいらっしゃるかも知れませんが・・・。百円と五十円を除く硬貨には「昭和六十四年」の刻印のあるものがあります(小生は五百円、十円、五円、一円、の四種すべてを所有しています)。

「昭和六十四年」は1月7日に昭和天皇が崩御されたので、一週間しかありません。この「一週間」のうちに「昭和六十四年」の刻印の硬貨が、大阪の造幣局で製造されたのではありませんから、前年、つまり「昭和六十三年」中に製造されていたわけですね。

問題の「景初四年」の鏡の場合は、もっと複雑な事情があったようで、すでにこの「トピ」でも取り上げられたと記憶しています。

さてさて、この「景初四年銘」の鏡のことを考えると、なんか「結論」が見えてくるような気がするのですが・・・。
「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」 #2489 2002/4/28 0:22

「倭」では、いつ「知った」か?

2009-08-20 (Thu)
>景初から「正始」への改元は明帝が死去した時点で予定されていたのではないでしょうか

そうですね。で、それを知っていたのは、だいたいどのあたりまでの地域の人々でしょうか?

卑弥呼の遣い「難升米」が「帯方郡」に至ったのが「景初三年六月」。魏帝から卑弥呼への「詔書」が下賜されたのが十二月。「難升米」らが「倭」へ戻ったのは、「正始元年」?。さて、それ以前に「魏の明帝」が景初三年の正月に崩御したことを、倭の人々は知り得たのでしょうか?

面白い記事を見つけました。「季刊邪馬台国51号、1987年春」の森教授の「一九八六年考古学の成果と問題点-景初四年の鏡を巡って-」の中に、

「今日の北朝鮮の平壌周辺の墓では墨で一年遅れの年号を書いていることがあります」「有名な安岳三号墳は、永和は十二年までなのに、一年のちの永和十三年という年号を使っています」(21頁)。

さて、問題の「鏡」の場合に、実在しない年号を刻んだものがあるのかどうか、どなたかご存じの方は、いらっしゃらないでしょうかね?
「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」 #2681 2002/ 5/18 23:31

「景初四年」はあったか?

2019-08-19 (Mon)
『季刊邪馬台国 104号 2010年2月』に笛木亮三氏が「「景初四年」は、存在した!」という一稿を寄せている。

この件については、かつてYahoo!掲示板で話題になったことがあったので、データベースを検索してみた。

まずは、笛木氏の紹介する小林惠子氏と井沢元彦氏の対談から引いてみよう。
実際に『晋書』(天文志・中)を見てください。景初四年というのはあるんですよ(一九九八年『「記紀は」史学への挑戦状』共著)
として、『晋書』志第二巻、天文中から【景初元年七月、公孫文懿叛。二年正月、遣宣帝討之。三年正月、天子崩。四年三月己巳、太白与月俱加景昼見、月犯太白。占同上。】という文を引く。

この文を見る限り、確かにここでの「四年」は「景初」と読める。なので、掲示板上で「景初四年」ありや・なしやについて話題になったことがあるのは確かだ。

この件について決着を付けたのが「天誅君大先生」と「湖南さん」という二人の猛者だった。

まずは、「天誅君大先生」の#33063 @2005/7/29 23:05 title「事後報告」by tenchuukun
え~と、事後報告。

つらつら日月の運行を調べてみると、正始元年(景初四年)三月乙巳にも正始四年三月己巳にも、月と金星がコンジャンクションしてるような事実がない。
また他の天文志をみても、この相当記事がない。

で、さらに調べてみると、なんと
青龍四年三月己巳(ユリウス暦5月19日)の昼間にあったんですな、これが!

考えてみりゃ、叛乱とか天子崩という大不幸の予兆としての不吉天文現象だって記事なんだもん。明帝の死後じゃ意味なし。

たぶん晋書の記述ミスですね。
続いて「湖南さん」。#3070 @2005/7/30 0:03 title「> 事後報告」 by yamatogawakonan
> 青龍四年三月己巳(ユリウス暦5月19日)の昼間にあったんですな、これが!

 なるほど。これですか?

宋書天文志「青龍四年三月己巳,太白與月倶加丙,晝見.月犯太白.」


晋書天文志「四年三月己巳,太白與月倶加景晝見,月犯太白.」

 決まりですね。「錯簡」ってやつですかね。
つまり、『晋書』天文志の「四年」は「青竜四年」の「青竜」が脱漏したもの。ワタシ的には正史といえども誤写・誤刻は勿論、脱字・衍字も見慣れているので、上のお二人のご案内もさほどの抵抗もなく飲み込めたのだが、そういう世界を垣間見たことのない方(小林惠子氏、井沢元彦氏、そして引用した笛木氏)にとっては〝刮目〟すべき正史中の記述だったのかもしれない。

こうやって思い起こすと、「天誅君大先生」や「湖南さん」などの猛者連を頂点とした往時の掲示板というもののレベルの高さが、まざまざと思い起こされる。

余談だが、この時の「月犯太白」探索に少しばかり関わった自分が、ほんの少しだけ誇らしい気持ちを持ったのは確かだ。

「景初四年」はあったか?その2

2019-08-19 (Mon)
『季刊邪馬台国 104号 2010年2月』に笛木亮三氏が寄せた「「景初四年」は、存在した!」という一稿には、もう一つ『晋書』からの引用がある。
九月、涼州塞外胡阿畢師侵犯諸國、西域校尉張就討之、斬首捕虜万許。其年七月甲寅、太白犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」景初元年,皇后毛氏崩。
笛木氏は、
この記事によると、少なくとも「景初四年」は九月までは使われていることになる。
と、この「九月」を「景初四年」と読んでいる。

しかしこれは誤読。【其年七月】の「其年」とは、「景初」ではなく「青竜」であることが、その文の少し前に明記してある。【青龍二年三月辛卯】から青竜の記事が始まって、【四年閏正月己巳】が出てくる。そのことがはっきり分かるのは『宋書』「天文志」による。

【青龍四年五月壬寅,太白犯畢左股第一星。占曰:「畢為邊兵,又主刑罰。」九月,涼州塞外胡阿畢師侵犯諸國,西域校尉張就討之,斬首捕虜萬許人。】

『晋書』でも、この文の少し前から丁寧に読めば、この「四年」が「景初」のことではなく「青竜」のことだと分かるのだが、こうやって不適切な〝引きちぎり〟引用をすると誤読が発生する。

「天文志」のこの部分では、「占曰」の結果、その後どういう事象が発生したかが縷々述べられている。「九月」の【女主憂】という「占曰」の結果、「景初元年,皇后毛氏崩」と語られているのであるから、「九月」は「景初元年」以前でなければならない。つまり、ここの「四年」は「景初」ではなく「青竜」ということが明らかである。

「天誅君大先生」の教えの一つに「原典に当たるべし」というのがあった。こ小林氏、井沢氏、そして笛木氏の誤解は、まさにこの教訓が当てはまる例と言えよう。

「景初四年」はあったか?その3

2019-08-19 (Mon)
では、もう少し誤読の状況を原文に即して見てみよう。

『晋書』「天文志 中」
月奄犯五緯

魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星。青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。占曰:「人君死,又為兵。」景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。景初元年十月丁未,月犯熒惑。占曰:「貴人死。」二年四月,司徒韓暨薨。
上掲分を箇条書きにしてみる。
1.魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星
2.青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。
3.占曰:「人君死,又為兵。」
4.景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。
5.四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。
6.景初元年十月丁未,月犯熒惑。
7.占曰:「貴人死。」
8.二年四月,司徒韓暨薨。

この文の読み方は、1,2が天文上の異変。3が占いに曰くという預言。4がその結果起きた事象。以下も同様で、5,6が天文上の異変。7が占いに曰くという預言。8がその結果起きた事象。

すなわち、5の「四年」は2の「青龍二年」に続くものであるから、当然「青龍四年」である。6の「景初元年」が5に続く天文上の異変であるから、5は当然、「景初元年」より前でなくてはならない。つまり「青龍四年」ということになる。

このことが明確に分かるのは、先にも述べた『宋書』「天文志一」による。
青龍三年十月壬申,太白晝見在尾,歷二百餘日恒見。占曰:「尾為燕,燕臣強,有兵。」青龍四年三月己巳,太白與月俱加丙,晝見。月犯太白。景初元年七月辛卯,太白又晝見,積二百八十餘日。占悉同上。是時公孫淵自立為燕王,署置百官,發兵距守,遣司馬懿討滅之。
『晋書』にみえる【四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白】が、「青龍四年」であると『宋書』は明確に記す。

4の【景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩】に続けて【四年三月己巳】とあれば、これを「景初四年」と読んでしまうことはありがちなことかも知れないが、史料批判の常道である他典籍との突合という手続きを怠ると、このような誤読に陥ってしまう。

「景初四年」はあったか?その4

2019-08-19 (Mon)
『晋書』の「景初四年」の件について、過去の掲示板での書き込み等を引用しながら3本書いてみたが、検索してみると、笛木氏の稿が掲載された翌年、2011年1月号の『季刊邪馬台国 108号』に入倉徳裕氏が「『晋書』に「景初四年」は存在しない」という稿を寄せている。

未読だが、内容的には想像がつく。このレスポンスの速さは魅力的だ。恐らくは国会図書館の複写サービスで取り寄せ可能だろうから、読んでみよう。

折角だから『晋書』「天文志 中」から当該箇所をスキャンしてUpしておく。台湾商務印書館印行 百衲本『晋書』より。

「景初四年」はあったか?その5

2019-08-19 (Mon)
ついでに「景初四年」をネットで検索すると『佩文韻府』中にも「景初四年」が見えるという。そこで、「中國哲學書電子化計劃」のサイトで検索すると、次の2条がヒットした。

1.卷二十九之一【又魏志倭人傳景初四年倭王遣使上獻生口倭錦絳
2.卷五十三之一【晉書天文志景初四年三月己巳太白與月俱】

1は勿論、正始四年の記事【其四年,倭王遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢】中の太字の部分以外が欠落してしまった残骸であり、「正始」であるところを粗忽にも「景初」としてしまっている。2は既に書いたように、『晋書』を誤読したもの。

『佩文韻府』は清の康煕帝の勅命で張玉書らが編纂した444巻に亘る韻書であり、諸書からの引文を残す。しかし、内実は上記二条を見ても分かるとおり、引用の正確さという点では粗雑と判断せざるを得ない。

この件についても、『季刊邪馬台国 111号』(2011年10月号)に同じ入倉徳裕氏が「「佩文韻府」の景初四年について」という一文を寄せているが、読むまでもないかも知れない。

結局の所、漢籍中に「景初四年」を確認することは、いまのところ出来ていないと言っていいのかも知れない。

「景初四年」はあったか?その6

2019-08-21 (Wed)
『晋書』「天文志 天文中」の【月奄犯五緯】段に見える「四年」を「景初」と読むことが誤読であることは既に明らかだが、『晋書』「天文志」と、その出典となった『宋書』「天文志」との対比表を作成してみた。『晋書』の記事は、【月五星犯列舍】【月奄犯五緯】とに別れている。

文字が小さくて見づらいかも知れないが、2枚めの画像中の青太字「四年」が問題の箇所である。『宋書』と対比してみれば一目瞭然。この「四年」が「青龍」であることは明らか。

■『宋書』『晋書』各天文志 青龍年間の「占曰」
宋書 天文志天文一 晋書 天文下 月五星犯列舍 晋書天文志 天文中 月奄犯五緯
明帝青龍二年二月乙未,太白犯熒惑。占曰:「大兵起,有大戰。」是年四月,諸葛亮據渭南,吳亦起兵應之,魏東西奔命。九月,亮卒,軍退,將帥分爭,為魏所破。案占,太白所犯在南,南國敗,在北,北國敗,此宜在熒惑南也。
青龍二年三月辛卯,月犯輿鬼。輿鬼主斬殺。占曰:「民多病,國有憂,又大臣憂。」是年夏大疫,冬,又大病,至三年春乃止。正月,太后郭氏崩。 青龍二年三月辛卯,月犯輿鬼。輿鬼主斬殺。占曰:「人多病,國有憂。」曰:「大臣憂。」是年夏及冬,大疫
四年五月,司徒董昭薨。 四年五月,司徒董昭薨。
青龍二年五月丁亥,太白晝見,積三十餘日。以晷度推之,非秦魏,則楚也 五月丁亥,太白晝見,積三十餘日。以晷度推之,非秦魏,則楚也
是時,諸葛亮據渭南,司馬懿與相持孫權寇合肥,又遣陸議、>孫韶等入淮沔,帝親東征。蜀本秦地,則為秦、晉及楚兵悉起應占。 是時,諸葛亮據渭南,宣帝與相持。孫權寇合肥,又遣陸議、孫韶等入淮沔,天子親東征。蜀本秦地,則為秦及楚兵悉起矣。
青龍二年七月己巳,月犯楗閉。占曰:「天子崩,又為火災。」三年七月,崇華殿災。景初三年正月,明帝崩。 其七月己巳,月犯楗閉。占曰:「有火災。」三年七月,崇華殿災。
青龍二年十月戊寅,月犯太白。占曰:「人君死,又為兵。」景初元年七月,公孫叛。二年正月,遣司馬懿討之。三年正月,明帝 青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。占曰:「人君死,又為兵。」景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子
蜀後主建興十二年,諸葛亮帥大眾伐魏,屯于渭南,有長星赤而芒角,自東北,西南流投亮營,三投再還,往大還小。占曰:「兩軍相當,有大流星來走軍上及墜軍中者,皆破敗之徵也。」九月,亮卒于軍,焚營而退。羣帥交惡,多相誅殘。
魏明帝青龍三年六月丁未,鎮星犯井鉞。四年閏四月乙巳,復犯。戊戌,太白又犯。占曰:「凡月五星犯井鉞,悉為兵起。」一曰:「斧鉞用,大臣誅。」景初元年,公孫淵叛,司馬懿討滅之。 三年六月丁未,填星犯井鉞。戊戌,太白又犯之。占曰:「>凡月、五星犯井鉞,悉為兵災。」一曰:「斧鉞用,大臣誅。」
青龍三年七月己丑,鎮星犯東井。四年三月癸卯,在參,又還犯之。占曰:填星入井,大人憂。行近距為行陰,其占大水,五穀不成。」景初元年夏,大水,傷五穀。九月,皇后毛氏崩。三年正月,明帝崩。 七月己丑,填星犯東井距星。占曰:「填星入井,大人憂。」行近距,為行陰。其占曰:「大水,五穀不成。」景初元年夏,大水,傷五穀
青龍三年十月壬申,太白晝見在尾,歷二百餘日恒見。占曰:「尾為燕,燕臣強,有兵。」 年十月壬申,太白晝見,在尾,歷二百餘日,恒見。占曰:「尾為燕,有兵。」
青龍四年三月己巳,太白與月俱加丙,晝見。月犯太白。景初元年七月辛卯,太白又晝見,積二百八十餘日。占悉同上。是時公孫淵自立為燕王,署置百官,發兵距守,遣司馬懿討滅之。 四年三月己巳,太白與月俱加晝見,月犯太白。占同上。
青龍三年十二月戊辰,月犯鉤鈐。占曰:「王者憂。」景初三年正月,明帝崩。 十二月戊辰,月犯鉤鈐。占曰:「王者憂。」四年閏正月己巳,填星犯井鉞。三月癸卯,填星犯東井。己巳,太白與月加景晝見。
青龍四年五月壬寅,太白犯畢左股第一星。占曰:「畢為邊兵,又主刑罰。」九月,涼州塞外胡阿畢師侵犯諸國,西域校尉張就討之,斬首捕虜萬許人。 五月壬寅,太白犯畢左股第一星。占曰:「畢為邊兵,又主刑罰。」九月,涼州塞外胡阿畢師使侵犯諸國,西域校尉張就討之,斬首捕虜萬計
青龍四年七月甲寅,太白犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」景初元年,皇后毛氏崩 年七月甲寅,太白犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」景初元年,皇后毛氏崩
青龍四年十月甲申,有星孛于大辰,長三尺。乙酉,又孛于東方。十一月己亥,彗星見,犯宦者天紀星。占曰:「大辰為天王,天下有喪。」劉向五紀論曰:「春秋星孛于東方,不言宿者,不加宿也。」宦者在天市為中外有兵,天紀為地震。孛彗主兵喪。景初元年六月,地震。九月,吳將朱然圍江夏,荊州刺史胡質擊走之。皇后毛氏崩。二年正月,討公孫淵。三年正月,明帝崩。
※ブログでは表を画像として表示していたが見づらいのでhtmlでの表に変更した。@2020/5/6

Yahoo!ブログ「邪馬台国は畿内 奈良県桜井市「纒向遺跡」が邪馬台国」は面白い!

2019-08-22 (Thu)
「景初四年」についてググっていたら、タイトルの如きブログに遭遇した。以前も覗いたことがあるような記憶があるが、非常に興味深いブログだし、レベルも高そうだ。

しかし、Yahoo!ブログなので年内には消滅する。で、最近の書き込みを調べてみたら、
移転のお知らせ 2019/5/6(月) 午前 11:14


ヤフーのブログサービス終了にともない、以下のブログに移転します。


http://yamataikinki.blog.jp/
という案内が出ていた。

最近の投稿から幾つか読んでみたが、鋭い!腰を据えて読んでみる必要がありそうだ。河村秀根の『書紀集解』もちゃんと取り上げている。

※弘法も筆の誤りを一つ。
①「一大卒」について

「一大卒」について「刺使」にたとえて職能を説明しているが、「刺使」の役割は魏時代は「行政官」であるにもかかわらず漢代の「監察官」の意味で使われている、したがって、「一大卒」の部分は漢代の史料からの引用である。
このブログの主は、私から見ると〝弘法〟との違いが分からないほどレベル〝高すぎクン〟なので、真の「筆の誤り」かと、、、

「景初四年」はあったか?その7

2019-08-22 (Thu)
「景初四年」についてググっていたら、かの王仲殊氏の論文が目に止まった。相変わらず端切れのいい論調で、ついつい靡きたくなる。

この中で、『晋書』の「景初四年」についても言及している。誠に当を得た見解で必要にして十分だ。

ただ、「景初四年銘鏡」が魏鏡か国産かについての論及は、当方の知見不足のため是非を云うに及ばない。

「日本出土の景初四年銘三角縁盤竜鏡」について
(2013年10月『季刊邪馬台国』119号掲載分)原著:王仲殊 日本語訳:平松健

「景初四年」はあったか?その8

2019-08-22 (Thu)
「景初四年」についての調べで、2011年6月16日号『週刊新潮』掲載の「歴史的発見に騒然!『邪馬台国』論争にケリをつける!?『卑弥呼の鏡』の新証拠!聖徳大学山口博名誉教授」という記事が、ネット検索で引っかかる。この号の『週刊新潮』を読んでみたいと思って図書館を検索したが、所蔵していない。国立国会図書館ならあるかも、、、と思ったが、遠隔複写には費用がかかる。

どーしよーか?と迷ったが、待てよ!?と思い、自身の書籍データリストを検索したらあった!

早速読む。

「景初四年」に関わる部分を引用。同誌137ページ。
また、三角縁神獣鏡のなかに〈景初4年〉という中国に実在しないはずの年号が彫られた出土品があるという疑問についても、それを覆す文書があるという。「唐の時代た編纂された『晋書』という歴史書があります。この中の巻12『天文志』に〈景初4年〉が出てくる。天文志とは天体観測の記録などで日時に関してはかなり正確を期しているはず。当時、〈景初4年〉が当たり前のように使われていた証拠。同じように清時代に編纂された『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』という書にも〈景初4年〉という年号が出てきます」(同)
これについてはまさしく〝間髪をいれず〟、平松健氏が同6月20日に「景初四年銘鏡」との関わりについても言及した「景初四年の検証」という一文をネット上に公表しており、山口博名誉教授の「歴史的発見」が、その表現に値しないものであることを明らかにしている。


『晋書』「天文志」の「四年」が、「景初」ではなく「青龍」であること。『佩文韻府』の「景初四年」は編纂の粗雑さによるものであることは、拙稿でもここ数日書いたとおりである。

ただ、少し怪訝に思うのは、私が「その2」で書いたとおり、『季刊邪馬台国 104号 2010年2月』に笛木亮三氏が寄せた「「景初四年」は、存在した!」に対して、2011年1月号の『季刊邪馬台国 108号』に入倉徳裕氏が「『晋書』に「景初四年」は存在しない」という稿を寄せているから、この応答を知っていれば山口博名誉教授も『晋書』天文志の「四年」について誤認することはなかったのではなかろうか?

Yahoo!掲示板で、この「景初四年」について、「天誅君大先生」と「湖南さん」とのやり取りがあり、真相が判明したのは、山口博名誉教授より6年前、笛木氏の5年前のことで、大学教授と言えども、掲示板を覗くことは、ある程度有用なのかも知れない。

「景初四年」はあったか?その9

2019-08-26 (Mon)
以下2本の論考を読むことが出来た。

・『季刊邪馬台国 108号 2011年1月』117ページ、入倉徳裕「『晋書』に「景初四年」は存在しない」
・『季刊邪馬台国 111号 2011年10月』148ページ、入倉徳裕「「佩文韻府」の景初四年について」

いずれも、聖徳大学名誉教授山口博氏と、同誌104号に寄稿された笛木亮三氏の所見を否定するもので、主旨は明快にして異を唱える余地は皆無と言えよう。


この件は、2011年時点で決着済みのはずだったのだが、、、

2015/07/17にPHP研究所から刊行された、関裕二氏の『神武東征とヤマト建国の謎』という本の中に、以下のような記述がある。116ページ。
「景初四年」の年号は中国で使われていた?

さらに、「景初四年銘」の問題だ。
じつは、中国の文書を丹念に読み込んでいくと、「景初四年」の年号が使われていたことがわかるという。たとえば、『晋書』巻十二「天文志」や、清代に編纂された韻書『佩文韻府』の中に「景初四年」と記されている。特に「天文志」は、天体観測に関わる記録だけに、「日時」には敏感な本である。
関裕二氏は、著作も多いかと思う。が、個々の問題点を細かにトレースできていないのだろう。4年も経って、依然山口博氏らの旧情報に基づいて書いている。

2015年といえば、わずか4年前のこと。この分では、いまでもどこかで文献上の「景初四年」を吹聴している人がいるかも知れない。

自分で調べることがいかに大切か!これもまた、掲示板で教わったことの一つだ。