三國志呉書陸抗傳裴注漢晉春秋


〈原文〉

漢晉春秋曰:羊祜既歸,增脩德信,以懷呉人。陸抗毎告其邊戍曰:「彼專爲德,我專爲暴,是不戰而自服也。各保分界,無求細益而已。」於是呉、晉之閒,餘糧栖畝而不犯,牛馬逸而入境,可宣告而取也。沔上獵,呉獲晉人先傷者,皆送而相還。抗嘗疾,求藥於祜,祜以成合與之,曰:「此上藥也,近始自作,未及服,以君疾急,故相致。」抗得而服之,諸將或諫,抗不答。孫晧聞二境交和,以詰於抗,抗曰:「夫一邑一郷,不可以無信義之人,而況大國乎?臣不如是,正足以彰其德耳,於祜無傷也。」或以祜、抗爲失臣節,兩譏之。習鑿齒曰:夫理勝者天下之所保,信順者萬人之所宗,雖大猷既喪,義聲久淪,狙詐馳於當塗,權略周乎急務,負力從橫之人,臧獲牧豎之智,未有不憑此以創功,捨茲而獨立者也。是故晉文退舍,而原城請命;穆子圍鼓,訓之以力;冶夫獻策,而費人斯歸;樂毅緩攻,而風烈長流。觀其所以服物制勝者,豈徒威力相詐而已哉!自今三家鼎足四十有餘年矣,呉人不能越淮、沔而進取中國,中國不能陵長江以爭利者,力均而智侔,道不足以相傾也。夫殘彼而利我,未若利我而無殘;振武以懼物,未若德廣而民懷。匹夫猶不可以力服,而況一國乎?力服猶不如以德來,而況不制乎?是以羊祜恢大同之略,思五兵之則,齊其民人,均其施澤,振義網以羅彊呉,明兼愛以革暴俗,易生民之視聽,馳不戰乎江表。故能德音悅暢,而襁負雲集,殊鄰異域,義讓交弘,自呉之遇敵,未有若此者也。抗見國小主暴,而晉德彌昌,人積兼己之善,而己無固本之規,百姓懷嚴敵之德,闔境有棄主之慮,思所以鎮定民心,緝寧外内,奮其危弱,抗權上國者,莫若親行斯道,以侔其勝。使彼德靡加吾,而此善流聞,歸重邦國, 弘明遠風,折衝於枕席之上,校勝於帷幄之内,傾敵而不以甲兵之力,保國而不浚溝池之固,信義感於寇讐,丹懷體於先日。豈設狙詐以危賢,徇己身之私名,貪外物之重我,闇服之而不備者哉!由是論之,苟守局而保疆,一卒之所能;協數以相危,小凡之近事;積詐以防物,臧獲之餘慮;威勝以求安,明哲之所賤。賢人君子所以拯(極)世垂範,舍此而取彼者,其道良弘故也。
※「漢籍電子文献」による(一部「百衲本」により修正した部分あり)

〈読み下し〉

「漢晉春秋」曰ク。羊祜ハ既ニ歸リ、增(ますま)ス德信ヲ脩メ、以テ呉人ヲ懷(=なつける)ス。陸抗ハ毎(=常)ニ其ノ邊戍(=国境警備軍)ニ告ゲテ曰ク、「彼(=相手方)專ラ德ヲ爲シ、我レ專ラ暴ヲ爲サバ、是レ戰ハ不(ず)シテ而シテ自ラ服スル也。各ノ分界(=領分)ヲ保タバ、細益ヲ求ムルハ無シ而已(断定の意)」。是ニ於ヒテ呉・晉之閒(=間)、餘糧(=余った食糧)ヲ畝ニ栖(とど)ムルモ而シテ犯サ不(ず)、牛馬ノ逸(のが)レ而シテ入境スルモ、宣告シ而シテ取ルモ可也。沔(水)ノ上(ほとり)ニ獵(=猟)スルニ、晉人ノ先ニ傷ツクルヲ呉ノ獲ル者(は)、皆送リテ而シテ相ヒ還ス。(陸)抗嘗(かつ)テ疾(=病)シ、藥ヲ(羊)祜於(に)求ムレバ、(羊)祜ハ以テ成合(=調合)シテ之ニ與フ。曰ク、「此レ上藥也,近(々)始メテ自ラ作ルモ、未ダ服スニ及バズ、君ノ疾(=病)急ナルヲ以テ、故ニ相ヒ致ス」。(陸)抗ハ得テ而シテ之ヲ服スニ、諸將或ヒハ諫ムルモ、(陸)抗ハ答ヘ不(ず)。孫晧ハ二境(二つの国の境)ノ交和スルヲ聞キテ、以テ(陸)抗於(に)詰スレバ、(陸)抗ノ曰ク、「夫レ一邑一郷ニテモ、以テ信義之(の)人無カル可カラ不(ず)、而況(いわんや)大國ニオヒテオ乎(ヤ)。臣(=私)是クノ如カラ不ンバ、正ニ以テ其ノ德ヲ彰(あきらかにす)ルニ足ルベキ耳(のみ)ニシテ、(羊)祜於(に)傷無キ也」。或ヒハ(羊)祜・(陸)抗ヲ以テ臣節(=臣下としての節操)ヲ失フト爲シ、兩(とも)ニ之ヲ譏(そし)ル。習鑿齒曰ク、夫(そ)レ理ニ勝ル者ハ天下之保ツ所トナリ、信ニ順(したが)フ者ハ萬人之宗(たっと)ブ所トナル。大猷(大いなるはかりごと)ノ既ニ喪(うしな)ハレ、義聲(=声)久シク淪(沈)ミ、狙詐(偽り欺くこと)ノ當塗(要職にあること)於(に)馳セ、權略(はかりごと)急務乎(に)周(あまね)ク、力ニ負ヒテ從橫之人、臧獲(ソウカク=しもべ)牧豎(牧童)之智ト雖(いへど)モ、未ダ此(これ)ヲ憑(たの)マ不(ず)シテ以テ創功シ、茲(これ)ヲ捨テテ而シテ獨立スル者ハ有ラザル也。是カル故ニ晉ノ文(文公)ノ舍(=軍の一日行程)ヲ退(ひ)キ、而シテ原城ハ命ヲ請ヒ、穆子(=中行穆子)ノ鼓ヲ圍(=囲)ムヤ、力ヲ以テスルヲ之ニ訓ジ、冶夫(冶区夫)ノ獻策スルニ、而シテ費ノ人ハ斯(かく)シテ歸シ、樂毅ノ攻ムルハ緩カニシテ、而シテ風烈(=風格と功業)ハ長ク流(つた)ハル。物ヲ服(=従)ハセ勝ヲ制スル所以ヲ觀ル者(に)、豈(あ)ニ徒(た)ダ威力相詐而已(のみ)ナラン哉!今三家(=魏呉蜀三国)ノ鼎足(=鼎立)シテ自(よ)リ四十有餘年矣、呉人ハ淮(淮河)沔(沔水)ヲ越ヘ、而シテ中國ヲ進取スル能ハ不(ず)、中國(=魏)ハ長江ヲ陵(しの)ギ以テ利ヲ爭フ能ハ不(ざ)ル者(は)、力均シク而シテ智侔(ひと)シク、道(=道義)モ以テ相ヒ傾クルニ足ラ不ル也。夫(そ)レ彼ヲ殘(そこな)ヒ而シテ我ニ利スルハ、未ダ我ヲ利シ而シテ殘フコト無キニ若(しか)ズ。武ヲ振ヒテ以テ物ヲ懼(おそ)レサスハ、未ダ德廣クシテ而シテ民懷(なつ)クルニ若(しか)ズ。匹夫(=一人の男)猶ホ以テ力服スル可カラ不(ず)、而シテ況(いわ)ンヤ一國ニオイテオ乎(ヤ)?力服ハ猶ホ以テ德來ニ如(し)カ,不(ず)。而シテ況ンヤ制セ不(ざ)ルニオイテオ乎(や)?是以(これゆえ)羊祜ハ大同之略ヲ恢(そな)ヘ、五兵(種々の兵器)ヲ思フニ之レ則ハチ、其ノ民人ヲ齊(=等)シクシ、其ノ施澤ヲ均シクシ、義網ヲ振ヒテ以テ彊(=強)呉ヲ羅(=網)シ、兼愛ヲ明ラカニシテ以テ暴俗ニ革(=代)ヘ、生民(=人民)之視聽ヲ易(=変)ヘ、不戰ヲ江表乎(に)馳ス。故ニ能(よ)ク德音ハ悅暢シ、而シテ襁負(=帯紐で幼児を背負うこと)雲集(雲の如く集まる)シ、殊鄰(=隣、異国)異域、義讓(正義と謙譲)ハ交(こもご)モ弘マリ、呉之敵ニ遇シテ自(よ)リ、未ダ此ニ若(し)ク者(は)有ラザル也。(陸)抗ノ見ルニ、國小ニシテ主(=君主)ハ暴、而ルニ晉ノ德ハ彌(いよいよ)昌(盛ん)ニシテ、人ハ己之善ヲ積兼(更に積む)シ、而ルニ己ハ本ヲ固ムル之規無ク、百姓ハ嚴敵之德ニ懷(なつ)キ、闔境(=国全体)棄主之慮有リ、民心ヲ鎮定スル所以ヲ思フニ、外内ヲ緝寧(まとめ安んじる)シ、其ノ危弱ヲ奮ヒテ、上國(=畿内の国)ニ抗權(=対抗する)者ハ、親シク斯道ヲ行ヒ、以テ其ノ勝ルヲ侔(取)ルニ若(し)クハ莫(=無)シ。彼ノ德ノ吾ニ加フルヲ靡(な)カラ使メ、而シテ此ノ善ノ流聞スレバ、邦國ハ歸重シ、弘明ハ遠風スレバ、枕席(寝台)之上ニ於テ折衝シ、帷幄(とばり)之内ニ於テ校勝シ、敵ヲ傾クルニ而シテ甲兵之力ヲ以テセ不(ず)。國ヲ保ツニ而シテ溝池之固ヲ浚(さら)ハ不(ず)、信義ハ寇讐(仇)於(に)感ジ、丹懷(=誠心)ハ先日於(に)體ス。豈(あに)詐ヲ狙ヒ以テ賢ヲ危クシ、己ガ身之私名ヲ徇(とな)ヘ、外物(=他者)之我ヲ重ンズルヲ貪リ、之ニ闇服シテ而シテ備ヘ不ル者(を)設ケム哉(ヤ)!是ニ由リテ之ヲ論ズレバ、苟(いやしく)モ局(=現状)ヲ守リ而シテ疆(=強)ヲ保ツハ、一卒之能(よくす)ル所、數ヲ協(あは)セ、以テ相ヒ危クスルハ、小凡之近事(浅慮)、詐(いつわり)ヲ積ミ以テ物ヲ防グハ、臧獲(しもべ)之餘慮(浅慮)。威勝リテ以テ安ヲ求ムルハ、明哲之賤(いやし)ム所。賢人君子ノ世ヲ拯(すく)ヒ垂範スルニ、此ヲ舍(捨)テ而シテ彼ヲ取ル所以(ゆえん)者(は)、其ノ道ノ良弘ナル故也。


※拯(百衲本では極)

〈現代語意訳〉

「漢晉春秋」にいう。羊祜は既に歸り、益々徳と信義を脩め、以て呉の人々を引きつけようとした。陸抗は常にその国境警備軍に告げて言った。「相手方が專ら徳を行い、我々が專ら手荒いことをすれば、戦わずして自分から降伏しているようなものだ。各自の領分を保っていれば、細かい利益を追い求めることは無いのである」と。このようにして呉と晋の間では、余った食糧が畝に積んであっても相手が盗むことも無く、逃げた牛馬が国境を越えて来ても、相手に宣告してこれを取ることもできた。沔水のほとりで猟をしているとき、晋の人が先に傷を負わせた獲物を呉の人が獲ったときは、皆送り還した。陸抗が嘗(かつ)て病になったとき、羊祜に薬を求めると、羊祜は自分で調合して陸抗に与えた。言うには、「これは良い薬である。最近、初めて自分で作ったが、まだ服用したことは無い。君が急病であるから、これを送る」と。陸抗はこれを得て服用したが、諸将に諫める者があっても、陸抗は返答もしなかった。孫晧は二国が国境で交和していることを聞き、陸抗を詰問すると、陸抗は言った。「一つの村、一つの郷にても、信義の人がいなくてはならないのです。いわんや大國においては。私がこのようにしなかったとしたら、まさに羊祜の徳を明らかにするだけのことですから、羊祜には何の傷にもなりません」と。またある者は羊祜・陸抗ともに臣下としての節操を失なっているとして、ともに譏った。習鑿齒は言う。「道理において勝る者は天下が支持するものであり、信義に順う者は万人から尊ばれるのである。大猷(大いなるはかりごと)は既に喪なわれ、正義の声も久しく沈んで、要職には狙詐(偽り欺くこと)がはびこり、権略(はかりごと)によって急務が処理され、縦横力に任せる人、下僕や牧童の知恵と言っても、未だにこれを頼みとせずに功を為し、これを捨てて独立した者はいない。だからこそ、晋の文公が軍の一日行程を退き、そうして原城は命請いをし、中行穆子が鼓の町を囲んだときは、力を以てすることを訓(さと)し、冶区夫の献策によって費の人は帰順し、樂毅は緩やかに攻めることで、風格と功業は長く伝えられることになった。人を従わせ勝敗を制した所以をみるに、どうして徒にただ威力と詐術のみによるだろうか!今、三国(魏呉蜀)が鼎立して以来四十有餘年になっても、呉が淮河・沔水を越えて中原に進出することができず、中原の魏は長江を越えて有利に争うことが出来ないのは、武力知力が相均衡しており、道義の点でも相手を傾けるに足らないからである。相手を損なうことで自分を利することは、自分を損なわないことの方に勝ることは無い。武力を振って、それで人を懼(おそ)れさせることは、德を広めて民を懷(なつ)かせることに勝ることはない。一人の男ですら力をもって服させることは出来ない。ましてや一國においては。力によって屈服させるのは、徳をもって来たらせるに及ばない。ましてや、相手を屈服させることが出来ないのであればなおさらである。これゆえ羊祜は大同の計略を備え、種々の兵器について思案するに、つまりは人民を平等にし、恩沢を均しく施し、道義の網を振い、それによって強い呉を覆い、兼愛を明らかにすることで暴俗に取って変え、人民の見方聞き方を変え、不戦の考え方を江表に拡げたのである。それ故に彼の名声は悦び拡がって、幼児を背負ってまで人々が雲の如く集まり、異国や異域にも正義と謙譲は交(こもご)も拡がり、呉の相対する敵にあって、未だこのような者はなかった無かった。陸抗が見るところ、国は小さく、君主は暴虐にして、かたや晋の徳は彌(いよいよ)盛んであって、自分の善を更に積んでいる。自分たちは根本を固める規律も無く、民衆は厳しい敵の徳に懷(なつ)いて、国全体に主君を見棄すててしまいそうな心配すらある。民心を鎮定する所以を思うに、朝野をまとめ安んじ、その危弱なるを奮って、畿内の国に対抗するには、親しく聖人としての道を行い、それによって相手に勝ることを取る他には無い。相手の徳がこちらへ及んでくることが無いようにし、そうしてこちらの善が相手に流聞すれば、国家は重みを取り戻し、こちらの弘明が遥かに及べば、寝台にありながら敵を挫くことも出来るし、帷幄(とばり)の中にあっても対抗出来、敵を傾けるには、このように兵力を用いることも無い。国家を保つに防備を固めずとも、信義は敵にも感じさせるもので、誠心はすでに身につけていた。なにゆえ賢明さを危うくし、自分の名声を求め、自分を尊重してくれることを願い、無闇にこのような方法をもってして備えが無かったなどということがあろうか。こういう事から考えてみると、苟も現状を守るだけでその勢力を保とうとするのは、一兵卒のすること。数を恃んで、危険を冒すのは、小人の浅慮、詐術によって他者を防ごうとするのは、卑しい人々の浅慮である。威力に任せて安定を求めようとするのは、明哲なる人の賎しむところである。賢人君子が世を救い範を垂れるにあたり、このような方法を採らず、かの方法を採るのは、それが優れているからである。


単語解説
『漢晉春秋』 東晋の習鑿歯によって編纂された歴史書。習鑿歯とともにWikiにあり。
陸抗 呉の丞相・陸遜の次男で大司馬、荊州の牧。
羊祜 魏の中領軍、晋の征南大将軍。