郭沫若「新疆新出土的晋人写本《三国志》残卷」
郭沫若『出土文物二三事』p58-65
郭沫若という名は私も含めた高齢者にはどこか懐かしい響きを持っているのではないかと思う。日本への留学経験もあり、経歴をざっとみただけで知の巨人たることがすぐに覗えそうだが、それでも大陸を襲った時代のうねりに翻弄された人生だったろうと凡眼にも映る。
さて、古本『三国志』の一つに数えられる『呉志』の虞翻・陸績・張温各伝残卷について郭沫若が一文を認めていることをかつて知り、十数年前にこの『出土文物二三事』を入手していたのだが、全8ページの簡体字論文であることから読み下しに取り掛かる意欲すらわかないまま今日に至っていたが、最近の対話型AIの機能をもってすればそれが可能であることを知り、気持ちを奮い立たせて当該文の読み下し作業に入った。とは言っても当方のやることと言えばスキャンしてAIに丸投げするのみであるから、辞書を引いて語句の解釈に難渋することもない。簡体字を繁体字に変換し、書き下した上にルビまで付してくれるというのだから、とんでもない時代が到来したものだとつくづく思わずにいられない。
今回も援用したのはGoogle Geminiであり、取り敢えずは回答の吟味などせずにそのまま公開する。いずれ気が向けば部分的にせよ閲することもあるかも知れない。
尚、本書は1972年8月第1版、1973年10月第2版、1973年10月北京第2次印刷、人民出版社出版である。
Q.次の画像の簡体字で書かれた中国の文章を(できれば繁体字で)テキスト化した上で、日本語に翻訳して下さい。宜しくお願いします。
A.昨日は失礼いたしました。分量が多いため要約と判断してしまいましたが、今回はご提示いただいた全4枚(58〜65ページ)の画像を、一切の省略なしで忠実にテキスト化(OCR)いたします。
中国語(繁体字)での翻刻となります。
(hy注:ページをまたがる文をつなぐなど回答文を一部整形した。)
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新疆新出土的晋人寫本《三國志》殘卷 —— 郭沫若
公元一九二四年,新疆鄯善縣曾出土一份晉人寫本陳壽《三國志·吳志》殘卷,起自《吳書·虞翻傳》“權于是大怒”句的“怒”字,終於《張温傳》“臣自入遠境”句的“境”字。計共八十行,中有殘損,存一千九十余字。這份殘卷已流入日本,國內幸有影印本流傳,我所見到的有兩種:一種收入羅振玉編印的《漢晉書影》(一九二六年增訂本)①,另一種收入中華書局標點《三國志》卷一卷首(一九六二年印行)。前一種原大,第二種縮小,但前一種剪去了殘卷第一行的四個殘字,是人為的缺陷。關於這一份殘卷,張元濟在所著《校史隨筆》(一九三八年)中論述甚詳,他曾將古寫本與宋刊本《三國志》對校,大有收穫。張謂“寫本略有舛誤,然大都勝于宋本”。特別是寫本《張温傳》中有“大拘于丕”句,宋本“丕”字作“蜀”,大背史實。張謂“宋本‘蜀’字實訛,而寫本‘丕’字為正,誠所謂一字千金矣!”張氏的核訂,至為精確。
我現在所要叙述的新出土的晉人寫本《三國志》殘卷,是另一種寫本,以一九六五年一月十日出土于新疆維吾爾自治區的吐魯番。新疆同志在吐魯番的英沙古城之南、距城北蘇公塔一公里光景的一座佛塔遺址中發現了一個陶瓮,瓮外有鐵鏃木箭二十余支,瓮内有寫本佛經殘卷十三種、樺樹皮漢字文書、梵文貝葉兩片和其他寫本等。在這些寫本中就有這一份新出土晉人寫本《三國志》殘卷(圖二十二),存四十行,凡五百七十余字,中有殘缺。内容寫的是《孫權傳》,存建安二十五年的後半和黄武元年的前三分之二。第一行僅存一“巫”字左側殘划,是原文“是歳劉備帥軍來伐至巫山秭歸”的“巫”字的剩余;最終一行是“敕諸軍但深溝高壘”句至“高”字止。
兩種殘卷比較,字迹十分類似,捺筆極重,隸書氣味很濃厚。但兩者决不是一個人寫的:第一,行距與每行字數不同,甲種行距較寬,行十四五字,乙種行距較狭,行十七八字;第二,字的結構也有所不同,如“免”字,甲種無變異,乙種均寫作“勉”,連“俛”(俯)字也誤寫作“勉”;第三,出土地不同,一出在鄯善,一出于吐魯番。從書法的角度看來,乙種的字迹較優于甲種;但從文獻學的角度看來,乙種却不及甲種有所貢獻。我也曾經把乙種和宋刊本核對過,在文字上彼此小有短長。擇其要者,列表如下:
(新出寫本) (宋刊本)
“據三州而虎視于天下。” 无“而”字,殆奪。
“潘陽言黄龍見。” “潘”作“鄱”,殆誤。
“君生于擾攘。” 下有“之際”二字,較長。
“埋而掘之,古人所耻。” “古人”下有“之”字。
“猶冀言之不信。” “之”作“者”。
“口陳指麾。” “麾”作“麾”,系抄本之誤。
乙種“寫本所用紙”,有的同志推測:“可能是‘左伯紙’,寫本應是《三國志》成書后不久,新疆人民傳抄的。”左伯是東漢末山東人,製紙有名。據説“蔡邕作書,用張芝筆、左伯紙、韋誕墨。”(見《三輔决録》)估計,左伯当是東漢晚期的人。寫本用紙究竟是否“左伯紙”,不能肯定。但寫本是晋代所書,毫無問題。陳寿仕晋為著作郎,終于御史治書。《三國志》定稿当在西晋時。西晋統治僅僅五十三年,抄本傳入新疆,或為新疆人民所傳抄,為時当在東晋時代了。就字迹看来,乙種寫本当比甲種較早,可能乙種是西晋抄本,甲種是東晋抄本,但相距的年代,畢竟不会太長。
前幾年新疆吐魯番出土了卜天壽的《論語·鄭玄注》抄本,若羌縣米蘭古城又出土了《坎曼爾詩簽》,都是唐代的文物。我曾根據它們駁斥了蘇修的官僚和所謂“學者”們的谰言,説“中國的西界從來没有逾越過甘肅和四川的西部”。他們惱羞成怒,罵我在别人的文章上“署名”、所根據的資料不可靠。那些碰壁的蒼蠅們敢于不顧事實,展翅嗡嗡,不忙説他們把列寧主義玷辱得不成名器,連實事求是的科學精神都被抛到九霄雲外去了。我對于他們覺得可鄙、可耻,但也覺得可憫、可笑。他們不愧是赫魯曉夫的門徒,青出于藍,竟遠遠把赫魯曉夫超過了。現在又有晋人寫本《三國志》殘卷相繼出土于新疆,新疆和内地文化関係的密切更提前了四百多年,且看那些蒼蠅們又會怎樣的嗡嗡叫吧。
看到兩種晋人寫本《三國志》殘卷,自然而然地又聯想到相傳為王羲之所寫的《蘭亭序帖》的真偽問題。這個問題,七、八年前曾經熱烈地辯論過,在我看来,是已經解決了。不僅帖是偽造,連序文也是摻了假的。看到這兩種《三國志》的晋抄本,又為帖的偽造添了兩項鐵証。字體太相懸隔了,真是“不怕不識貨,只怕貨比貨”,兩相對比,一目了然,可以無容多話。但最近我翻閲到章士釗先生的《柳文指要》,他却十分堅持《蘭亭序帖》非偽,《蘭亭序文》為真,而斥反對説者為“以一定万,以偶冒常”,“持論詭譎,不中于實”。因此,在這里又不能不把舊事重提。“以一定万,以偶冒常”,章先生以為“詭譎”,不切合實際者,其實我們的証據已不是“一”,已不是“偶”,而是相反的“万”與“常”了。即使是“一”與“偶”,也要看其性質如何,有時也是可以“定万”而“冒常”的。例如北京猿人最初只發現一個牙齒,但由一齒可以定其為猿人;出土于周口店本是偶然,但由偶然可以斷其必然,即人類發展必然經過這一階段,周口店能出土者必然在别處也會出土。后来的事實也証明是這樣,一點也不“詭譎”,而正合乎實際。又例如,上述兩種《三國志》抄本都是隸書體,雖是殘卷,但我們可据以推定兩種《三國志》抄本的全卷都必然是以隸書體抄寫的。《三國志》的晋寫本既是隸書體,則其它一切晋寫本都必然是隸書體。新疆出土的晋寫本是隸書體,則天下的晋代書都必然是隸書體。所謂一隅三反,所謂必然性通過偶然性而表現,就是這個道理。在天下的書法都是隸書體的晋代,而《蘭亭序帖》却是后来的楷書體,那末,《蘭亭序帖》必然是偽迹,這樣的論斷正是合乎邏輯的,而且也合乎辯證邏輯。然而章先生却不以為然,且看,章先生寫的文章吧。
章先生在柳宗元全集中找到了兩處有關“蘭亭”或《蘭亭序》的文字,因成《柳子厚之于蘭亭》一文以闡述之(見《柳文指要》卷十三,一九一七頁)。第一處見《邕州馬退山茅亭記》,其文云:
“蘭亭也,不遭右軍,則清湍修竹,蕪没于空山矣。”
這十八個字,于《蘭亭序文》的真偽既無関係,于《蘭亭序帖》的真偽更無関係。《蘭亭序文》的偽迹是在後半段自“夫人之相與俯仰一世”以下。前半段正暢叙歡樂,後半段却突然无端悲痛起来,既為劉孝標《世説新語》注中的《臨河序》所无,也和王右軍的性格與晋人的達觀不相契合,故可斷言為后人所竄入。至于“茂林修竹”、“清流激湍”等語是在前半段,《臨河序》中也有。因此,把這十八個字引作証明,便毫無依附。章先生竟据以論斷:“子厚確認《蘭亭序》為右軍作,雖未明渉及書,而書手不可能疑及右軍以外之人,似不待論。”誰也没有説過《蘭亭序》不是右軍所作,問題是後半段是后人偽加的,但章先生却輕鬆地把這個問題避開了。所“待論”的正是右軍以外另有“書手”,而他也輕鬆地把這個問題避開了。用了一個“似”字,足証章先生的自信也并不那么堅定。
第二處見《與吕恭書》(一本作《與吕恭論墓中石書》),其文云:
“仆早好觀古書,家所蓄晋魏時尺牘甚具。又二十年來遍閲長安貴人好事者所蓄,殆无遺焉。以是,善知書。雖未嘗見名氏,望而識其時也。(以上章氏文中未引。)又文章之形状,古今特异。〔弟之精敏通達,夫豈不究于此?〕(方括弧中文字,文章亦未引。)今觀石文,署其年曰‘永嘉’。其書則今田野人所作也。雖支离其字,尤(猶)不能近古,為其‘永’字等頗效王氏變法,皆永嘉所未有。辞尤鄙近,若今所謂律詩者,晋時盖未嘗為此声,大謬妄矣!”
《墓中石文》的字様究竟是怎樣,无從考見。所謂“永字等頗效王氏變法”,“王氏”自指王右軍,《蘭亭序帖》一開始就是“永和九年”,故有“永”字。“變法”是説不合正規,以效法不合正規的字迹為理由,又加以文近律詩,而嚴斥《墓中石文》為偽作,這里正表明着話中有話,所謂“皮里陽秋”。其意若曰:“《蘭亭序帖》本来是偽迹,而你偽造《墓中石文》的人還去效法它,豈不是自露馬脚?”《蘭亭序帖》是唐太宗李世民所推崇的,或甚至是他命人假托的。趙之謙在《章安雜説》中説得好:
“安吴包慎伯(世臣)言:‘曾見南唐拓本《東方先生畫贊》《洛神賦》,筆筆皆同漢隸’。然則近世二王書可知矣。重二王書始唐太宗,今太宗御書碑具在,以印証二王書,无少异。謂太宗即二王可也。”(見章鈺抄本及趙氏手稿本,兩者均藏北京圖書館。)
趙氏説他“此論實千万世莫敢出口者,姑妄言之。”趙氏的胆子相当大,敢于揭穿了秘密。但他如果生在唐代,也未見得就敢于“妄言”。因此,柳宗元要閃爍其辞,是可以理解的。其實章士釗先生也未嘗不懂得柳氏的深意,他説:“子厚所謂‘永’字等頗效王氏變法,此尊王之辞,非鄙之也。”如果是毫无掩飾的“尊”,何致反能使人疑為“鄙”?章先生為了要自圓其説,故已自啟疑竇,而又自行閉塞。章先生為文實在也是大費苦心的。由永嘉元年(三〇七年)數至永和九年(三五三年),僅合四十七年。永嘉所未有的書法,何以永和便能有?!反過來,永和能有的,何以永嘉便不能有?!二者俱偽,不是很明了嗎?但柳宗元的文字也并不是鄙薄王右軍,而是鄙薄作偽者,明知其偽,特不敢直斥其偽而已。李白要胆大一些,他有詩句云:“《蘭亭》雄筆安足夸!”(《魯郡堯祠送張潯華》)“雄筆”是别人稱為“雄”,“不足夸”是由于知道有人作假。在《草書歌行》中説得更為痛快:“王逸少,張伯英,古来幾許浪得名!”這不僅点破了王右軍書多偽迹,而且也点破了張伯英書也多偽迹。毫无成見地實事求是地看問題,只能得出這樣的結論。
不過,《蘭亭序帖》雖偽,并不貶低它的價值,只是它不是王右軍所書而已。不僅字迹不是王右軍所書,序文的後半段也不是王右軍所作;這樣説也并不貶低王右軍的價值。一定要堅持《蘭亭序文》的後半段絶非偽作,那倒是損于王右軍的。這些話,幾年前已經説得很多,在這里不再多説。
一九七二年八月十七日
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注釈(58ページ脚):
① 《漢晉書影》有兩種版本,初版印行于一九一八年,无晉人寫本《三國志》殘卷;一九二六年再版時始增入,但目錄仍舊,亦无跋語説明。可見編印者疏忽之至。
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以上で全ページのテキスト化となります。
王羲之の『蘭亭序』を巡る論争は、中国書道史上でも極めて大きなトピックです。もし内容の要約や日本語訳が改めて必要になりましたら、いつでもお知らせください。
Q.文章がページをまたいでいますので、以下は3画像を同時にアップします。分量が多くて大変かと思いますが、宜しくお願いします。
A.郭沫若による論文「新疆新出土的晋人写本《三国志》残巻」の日本語書き下し(翻訳)です。専門的な歴史用語や書道用語を補足しながら、原文の力強い論調を再現しました。
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新疆で新たに発見された晋代写本『三国志』残巻について ―― 郭沫若
西暦1924年、新疆の鄯善県において、晋代の写本である陳寿『三国志・呉志』の残巻が出土した。これは『呉書・虞翻伝』の「権(孫権)はここに於いて大いに怒り」という句の「怒」の字から始まり、『張温伝』の「臣は遠境に入りてより」という句の「境」の字で終わっている。計80行あり、欠損はあるものの1,090余字が現存している。この残巻は日本に流出したが、国内(中国)にも幸い影印本が流布しており、私の見たところ2種類ある。一つは羅振玉編印の『漢晋書影』(1926年増訂本)①に、もう一つは中華書局の標点本『三国志』巻一の巻頭(1962年刊行)に収録されている。前者は原寸大、後者は縮小されているが、前者は残巻第1行の4つの欠損文字を切り取っており、人為的な欠陥がある。この残巻については、張元済が著書『校史随筆』(1938年)の中で詳しく論じており、彼は古写本と宋刊本(宋時代の木版刷り)を対校して大きな収穫を得た。張氏は「写本にはわずかな誤りがあるが、概ね宋本より優れている」と述べている。特に『張温伝』の「大いに丕(曹丕)に拘めらる」という句で、宋本では「丕」が「蜀」となっており、史実と大きく矛盾する。張氏は「宋本の『蜀』は明らかに誤りであり、写本の『丕』こそが正しい。誠に一字千金の価値がある」と評した。彼の校訂は極めて精確である。
私がここで述べようとする新出土の晋代写本『三国志』残巻は、また別の写本であり、1965年1月10日にトルファンで出土したものである。トルファンのヤル(英沙)古城の南、蘇公塔から北へ1キロほどの場所にある仏塔遺址で陶製の甕が発見された。甕の外には鉄の鏃がついた木製の矢が20余本あり、中には写本仏典13種、白樺の皮の漢字文書、サンスクリット語の貝葉2片などが収められていた。その中に、この『三国志』写本残巻(図22)が含まれていた。40行現存し、計570余字だが欠損がある。内容は『孫権伝(呉主伝)』で、建安25年(220年)後半から黄武元年(222年)の前3分の2までの記述が残る。第1行は「是の歳、劉備軍を帥いて来たり伐ち、巫山、秭帰に至る」の「巫」の字の残骸から始まり、最終行は「諸軍に、ただ深溝高塁せよと勅す」という句の「高」の字で終わっている。
2種類の残巻を比較すると、筆跡は非常によく似ており、右払いが極めて重く、隷書の風味が濃厚である。しかし、両者は決して同一人物の手によるものではない。第一に、行間と字数が異なり、甲種(鄯善本)は行間が広く1行14〜15字だが、乙種(トルファン本)は行間が狭く1行17〜18字である。第二に、文字の構造も異なり、例えば「免」の字を乙種はすべて「勉」と書き、「俛(俯)」という字までも誤って「勉」と書いている。第三に、出土地が異なる。書道の観点では乙種の筆致が勝るが、文献学の観点では甲種ほどの貢献はない。私も乙種と宋刊本を対照したが、一長一短があった。主要なものは以下の通りである。
【文字対照表】
- 新出写本: 「三州に拠りて天下に而虎視す」/宋刊本:「而」の字がなく、脱落と思われる。
- 新出写本: 「潘陽に黄龍見ると言ふ」/宋刊本:「潘」が「鄱(は)」となっており、誤りと思われる。
- 新出写本: 「君、擾攘に生る」/宋刊本: 「擾攘」の下に「之際」の二字があり、冗長である。
- 新出写本: 「埋めてこれを掘るは、古人の恥づる所なり」/宋刊本:「古人」の下に「之」の字がある。
- 新出写本: 「なお言の信ぜられざるを之冀ふ」/宋刊本:「之」が「者」となっている。
- 新出写本: 「口に指麾を陳ぶ」/宋刊本: 「麾」の字が異体字(抄本の誤り)。
乙種の用紙について、「後漢の名匠・左伯が作った『左伯紙』ではないか」という推測がある。左伯は製紙で有名で、蔡邕が愛用したとされる。写本が晋代のものであることは確実だ。陳寿が『三国志』を完成させたのは西晋時代であり、それが新疆に伝わり、あるいは現地で書写されたのは東晋時代であろう。筆跡から見れば、乙種(西晋)は甲種(東晋)より古いと思われるが、その差はそれほど大きくない。
数年前にもトルファンから『論語・鄭玄注』や『坎曼爾詩箋』が出土した。私はこれらを根拠に、「中国の西の境界は甘粛や四川を超えたことはない」などというソ連の修正主義官僚や「お抱え学者」たちのデタラメな主張を論破した。彼らは逆上して私を罵ったが、事実に目をつぶる彼らは、科学的精神をかなぐり捨てた、憐れむべきヘラクレス(フルシチョフ)の弟子たちである。今回また晋代の『三国志』が出土したことで、新疆と内地の文化的な結びつきの密接さは、さらに400年以上も遡って証明された。あの「うるさい蝿たち」が今度はどう鳴くか見ものである。
さて、これら晋代写本を見ると、王羲之の『蘭亭序帖』の真偽問題が思い起こされる。この論争は数年前に決着がついたと私は考えている。法帖(文字)だけでなく序文自体にも偽りがある。今回の写本は、その偽作説に二つの「鉄証」を加えた。書体が(写本の隷書に対し、蘭亭序は楷書・行書で)あまりにかけ離れているのだ。「品物を並べて比べる(貨比貨)のが一番怖い」と言うが、対比すれば一目瞭然である。しかし最近、章士釗氏が『柳文指要』の中で『蘭亭序』は本物であると強弁し、私の説を「一つの例外で万を論じる、詭弁である」と批判した。そこで旧事を重提さねばならない。我々の証拠はもはや「一つ(偶)」ではなく、反対に「万(常)」なのだ。一つの歯の化石から北京猿人を断定できるように、偶然性は必然性を表現する。晋代の書がすべて隷書であった時代に、楷書の『蘭亭序』が存在するはずがない。これは論理的帰結である。
章氏は柳宗元の全集から「蘭亭」に関する記述を二つ探し出した。一つは『邕州馬退山茅亭記』の「蘭亭も、右軍(王羲之)に遭わずば、空山に埋没したであろう」という一節だ。だがこれは真偽とは無関係だ。私が偽作だと言っているのは、序文の後半「夫人之相与、俯仰一世(夫れ人の相与に俯仰して一世するや)」以下の悲観的な記述である。前半の喜びの叙述と、後半の唐突な悲痛さは矛盾しており、後世の加筆であることは明白だ。章氏はこの核心を巧みに避けている。
二つ目は『与呂恭書』にある。柳宗元は「自分は古書をよく見てきたが、墓中から出た石文の中に『王氏の変法(王羲之の新しい書風)』に似た文字があり、永嘉(西晋の年号)にはありえない偽作だ」と述べている。これは「王羲之の書風=偽物の基準」としているのであり、柳宗元は「蘭亭序は本来偽物であり、それを真似た石文も当然偽物だ」と皮肉(皮里陽秋)を言っているのだ。唐の太宗が王羲之を過剰に崇拝したため、柳宗元は露骨な批判を避けて言葉を濁したに過ぎない。西晋の「永嘉」から東晋の「永和(蘭亭序の年号)」までわずか47年。永嘉になかった書風が、なぜわずか47年で突如完成するのか。どちらも偽りであることは明白ではないか。
李白はもっと大胆に「蘭亭の雄筆、安ぞ誇るに足らんや」と詠み、王羲之や張伯英(張芝)の名声が「浪得(棚ぼたの評判)」に過ぎないと喝破した。要するに、事実に即して見れば結論は一つである。
もっとも、『蘭亭序』が偽作だとしても、その芸術的価値を貶めるものではない。ただ王羲之の書ではないというだけだ。逆に、あの後半部分を王羲之の作だと言い張る方が、彼の名声を損なうことになるだろう。これについては以前語り尽くしたので、ここでは繰り返さない。
1972年8月17日
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注釈(58ページ脚):
①『漢晋書影』には2種類あり、1918年の初版には『三国志』残巻はない。1926年の再版で追加されたが、目次は旧版のままで説明もない。編印者の不注意は甚だしい。
Q.大量の依頼にお答えいただき感謝します。ありがとうございます。
A.こちらこそ、数日にわたる膨大なテキストの整理と読み解き、本当にお疲れ様でした。
今回扱った史料は、近代出版の泰斗・張元済の足跡から始まり、戦後の中国を代表する知識人・郭沫若によるセンセーショナルな「蘭亭序論争」へと繋がる、非常に読み応えのあるものでした。
郭沫若の文章は、出土したばかりの『三国志』写本という「動かぬ証拠」を盾に、ソ連の学者や国内の保守派(章士釗など)を痛烈に批判する、当時の時代背景(文革期)特有の激しさと知性が同居した独特の熱量を持っていましたね。こうした一次史料を丁寧に読み解くお手伝いができたことは、私にとっても大変刺激的な経験でした。
歴史や書道、あるいは近代中国の出版史など、この資料があなたの研究や趣味において素晴らしい一助となることを願っております。
また何か興味深い資料が見つかった際や、別の時代のテキストを読み解く必要が出てきた時は、いつでもお気軽にお声がけください。またのご依頼を心よりお待ちしております!