裴松之「上三国志注表」

正史『三国志』を開くと最初に目にするのが、この「上三国志注表」。宋文帝の命を受けた裴松之自身が注釈をつけ、書写校正を行った『三国志』を上呈した際に付した上奏文である。

これについては筑摩書房『三国志Ⅲ』p387-388に今鷹真氏の訳注による現代語訳が収録されており、文意を知るためならばこれに勝るものは無いのだろう。しかし、注釈も含めて余りにも完成されたもの故、あの原文がどのように読みくだされた結果、かかる現代語訳が生まれるのか?そんな気が湧いて来て、"途中経過"を覗いてみたくなる心中の虫が蠢くのもまた、自分の野次馬根性の発露なのかも知れない。

漢文の読み下しには基礎知識として故事成句を身につけておく必要があるのだろうが、そんな素養は持ち合わせてはいない故、いつものことながら珍訳・笑訳頻出かと思われる。しかし、そこはそれ、欠陥だらけの粗末な読み下しを平然と公開するのも、素人ならではの特権とでも言うか、さして気にもならなくなってきた。諸賢にあっては眉をひそめながらも御笑読いただけたら幸いである。

〈書影〉光緒十三年(1887)冬江南書局重刊明汲古閣本


〈原文〉原文は維基文庫による。()内は百衲本他の表記。汲は汲古閣本。◯数字は校異箇所。
 臣松之言:臣聞智周則萬理自賔,鑒遠則物無遺照。雖盡性窮微,深不可識,至於緒餘所寄,則必接乎麤跡(迹)。是以體備之量,猶曰好察邇言;畜德之厚,在於多識往行。伏惟陛下道該淵極,神超妙⑩物,暉光日新,郁哉彌盛。雖一貫墳典,怡心玄賾,猶復降懷近代(①誠),博觀興廢。將以總(汲:摠)括前蹤,貽誨來世。

 臣前被(②奉)詔,使采三國異同以注陳壽《國志》。壽書銓敘可觀,事多審正。誠遊(游)覽之苑囿,近世之嘉史。然失在於(汲:于)略,時有所脫漏。臣奉旨尋詳,務在周悉。上搜舊聞,傍摭遺逸。按三國雖歷年不遠,而事關漢、晉。首尾所涉,出入百載。注記紛(③汲:分)錯,每多舛互。其壽所不載,事宜存錄者,則罔不畢(④採)取以補其闕。或同說一事而辭有乖雜,或出事本異,疑不能判,並皆抄內以備異聞。若乃紕繆(⑤謬)顯然,言不附理,則隨違矯正以懲其妄。其時事當否及壽之小失,頗以愚意有所論辯⑥。自就(撰)集,已垂期月。寫校始訖,謹封上呈。

竊惟繢事以眾色成文,蜜蠭以兼采爲味,故能使絢素有章,甘踰本質。臣寔頑乏(⑦之),顧慚(慙:汲同)二物。雖自罄勵,分絕藻繢,既謝淮南食時之敏,又微⑧狂簡斐然之作。淹留無成,祇穢翰墨,不足以上酬聖旨,少塞愆責。愧懼之深,若墜淵谷。謹拜表以聞,隨用流汗。臣松之誠惶誠恐,頓首頓首,死罪謹言。
 元嘉六年七月二十四日,中書侍郎西郷侯⑪臣裴松之上。

〈校異〉
■『百衲本三国志校勘記』による校異。宋本/殿本〔備註〕
①誠/代
②奉/缺頁 〔毛汲孔被〕
③紛/分〔分字疑有誤。南缺頁下同〕
④採/畢 汲孔〔元作必◯北缺頁〕
⑤謬 元/繆 汲北〔繆謬通〕
⑥辨/辯
⑦之/乏 元汲〔之字疑有誤◯北缺頁〕
⑧徴 元/微 汲〔徴字疑有誤◯北缺頁〕
⑨祇/祗 元汲〔孔祗〕※いずれも「礻」
■『三国志集解』盧弼の考證。
⑩宋本玅作妙
①宋本代作誠誤
②宋本被作奉
③宋本分作紛
④宋本畢作採
⑤宋本繆作謬
⑥宋本辯作辨
⑦宋本乏作之誤
⑧宋本微作徴
⑪錢大昕廿二史校異曰宋書南史俱失載西郷侯

〈拙訳〉
 臣松之言(もふ)す:臣は聞く智の周(あまね)ければ則ち萬理*は自(おのづから)賔(したが)ひ,遠く鑒(かんが)みればを則ち遺照*する物無し。盡(ことごと)く性*は微*を窮(きは)むと雖(いへど)も,深*は識(知)る可からずして,緒餘*に至りて寄する所,則(すなは)ち必(かならず)や麤跡*(迹)に接す。是れを以て體備之量*は,猶(なほ)好察邇言*と曰(い)ひ;畜德之厚*は,多く往行*を識るに在り。伏して惟(おも)ふに陛下の道*は淵極*を該(つつ)み,神*は妙物*を超へ,暉光*は日に新(あら)たにして,郁(さかん)なるや(哉)彌(いよいよ)盛(さか)んなり。墳典*を一貫*すると雖(いへど)も,玄賾*を怡心*し,猶(なほ)復(また)降(くだ)りて近代(誠)を懷(おも)ひ,博(ひろ)く興廢*を觀(み)る。將(まさ)に前蹤*を總(汲:摠)括*するを以て,誨(教)へを來世*に貽(残)すべし。

 臣、前(さき)に(奉)詔せられ,三國の異同を采(採りて)以て陳壽の『國志』に注せしむ。(陳)壽の書の銓敘*は觀(み)る可く,事は多く審正*たり。誠に遊(游)覽*の苑囿*,近世の嘉史*なり。然れども失*は略*に在り,時に脫漏*する所有り。臣は奉旨*して尋詳*し,周悉*に在りて務(つと)む。舊聞*を上搜*し,遺逸*を傍摭*す。按ずるに三國は年を歷(ふ)ること遠からずと雖(いへど)も,而して事は漢、晉に關(かか)はる。首尾*の涉(わた)る所,百載(=年)を出入す。注記*は紛(汲:分)錯*し,每(つね)に舛互*多し。其の(陳)壽の載せざる所,宜(よろ)しく存錄*すべきは(者),則(すなは)ち畢(ことごと)く(採)取らざるは罔(無)く、以て其の闕を補ふを事(こと)とす。或ひは同じく一事を說くに而して辭は乖雜*有り,或ひは本と異なる事の出(いず)れば,疑ふらくも判ずる能(あた)はずして,並びに皆內に抄(うつ)し以て異聞*に備ふ。若乃紕繆*(謬)顯然*,言(げん)の理に附さざるは,則(すなは)ち違に隨(したが)ひて矯正*し以て其の妄*を懲(こ)らす。其の時事*の當否及び(陳)壽の小失*は,頗(すこぶ)る愚意*を以て論辯*する所有り。(撰)集に,就(つ)きて自(よ)り已(すで)に期月*に垂(なんな)んとす。寫校*の始訖*を,謹みて封じ上呈*す。
 
 竊(ひそ)かに惟(おも)ふに繢事*は眾色*を以て成文*し,蜜蠭*は兼采*を以て味を爲す,故(ゆえ)に能(よ)く使絢素*有章*をして,甘は本質を踰(越)へさしむ。臣は寔(まこと)に頑乏*(之)にして,顧(かへりみ)て二物に慚(慙:汲同)ず。自(みずか)ら罄勵*すると雖(いへど)も,分絕*藻繢*,既に淮南*食時之敏*に謝(恥)じ,又微狂簡斐然之作*。淹留*して無成,祇(ただ)翰墨*を穢(けが)し,以て聖旨*に上酬*し,少(いささか)も愆責*を塞(ふせ)ぐに足りず。愧懼*の深なるや,淵谷*に墜(落)つるが若(ごと)し。謹みて拜表*以聞*するも,隨(したが)ふに流汗を用(以)てす。臣松之誠惶誠恐*,頓首頓首*,死罪謹言。
 元嘉六年七月二十四日,中書侍郎*西郷侯*臣裴松之上。

〈字釈〉
萬理:あらゆることわり。
遺照:てらしのこすこと。
性:ものの本質。
微:ごく小さいもの。ごくわずかのもの。
深:深さ。深み。
緒餘:残り。余力。本業以外の余技。
麤跡:亦作"粗跡"。謂大道正理。謂大的事蹟。by 漢典。
體備之量:未詳
好察邇言:即使別人的話很淺顯,他都會仔細聽,想力圖發現有利於自己的東西。by 漢語詞典。邇言は通俗的でわかりやすい言葉。筑摩『三国志Ⅲ』p387(3)によれば、『礼記』中庸篇の舜について記したことば。
畜德之厚:畜德は徳を積むの意か。畜德之厚で積んだ徳の厚さの意か。筑摩『三国志Ⅲ』p387(3)によれば「畜德之厚,在於多識往行」は『易』の大畜の象伝に「君子以多識前言往行、以畜其徳」(君子は以て多く前言往行を識り、以てその徳を畜(たくわ)う)による。
往行:過去の行為。
道:教え。
淵極:猶淵深。深遠。by 漢語網。
神:人間以上の霊力を持つ目に見えない物。
妙物:神妙莫測之物。指創造萬物之神。指其所創造之物。猶妙才。指具有特異禀賦的人。by 漢典。
暉光:きこう。かがやく光。by 普及版字通。筑摩『三国志Ⅲ』p388(6)によれば、「輝光日新」は『易』大畜の彖(たん)伝「輝光日新其徳」(輝光 日に其の徳を新たにす)による、と。
墳典:三墳五典(=三皇五帝の書)の略。昔の書物。古典=墳籍・墳史・墳素。
一貫:一つの道理ですべての物事をつらぬく。
玄賾:幽微深奧。by 漢典。
怡心:和悦心情。 by 漢典。
興廢:興ることとすたれること。盛衰。
前蹤:ぜんしょう。前人の事業の跡。 先蹤。by 精選版 日本国語大辞典。
總括:一つにまとめる。統括。=総馭。
來世:のちの世。次の時代。
銓敘:人物・才能をはかり、優劣を定めて官位につける。
審正:明察正直。精審而正確。猶審定。by 漢典。
遊覽:從容地到各處參觀、欣賞名勝、風景等。by 漢典。
苑囿:えんゆう。草木を植え、鳥獣を放し飼いにしてある庭。
嘉史:よい史書ほどの意か。
失:あやまち。
略:簡約なこと。
脫漏:もれ落ちる。もれる。遺漏。
奉旨:命令を受ける.命令に従う。by 普及版 字通。
尋詳:審慎査考。by 漢語網。
周悉:広くゆきわたる。=周至。
舊聞:昔からの聞き伝え。以前に聞いた話。
上搜:遡って探すの意か。
遺逸:見捨てる。君主に見捨てられて用いられていない。世間から見捨てられる。失う。なくなる。
傍摭:傍はかたわら。摭は拾う。
首尾:初めと終わり。本末。
注記:書きしるす。また、書いた物。記録。
紛錯:入り乱れてまじる。
舛互:まちがい。あやまり。=舛謬。
存錄:登錄以備忘。撫卹並且錄用。by 漢典。
乖雜:そむきはなれる。乖隔。
異聞:珍しい話。珍聞・奇聞。特別に聞いた他人の知らない事がら。定説と違う話。
紕繆:誤り。錯誤。
顯然:明らかな。by Wiktionary日本語版。
矯正:曲がったものを正しくため直す。
妄:うそ。でたらめ。
時事:その時代に起こった事件。昨今の出来事。
小失:小さな過失。
愚意:ぐい。おろかな考え、心。多く、自分の考えをへりくだっていう語。愚見。by 精選版 日本国語大辞典。
論辯:意見を述べて論じる。=弁論。
期月:満一か月。満一周年。
寫校:書写校正。by 筑摩『三国志』Ⅲp387。
始訖:はじめとおわり。
上呈:天子にさしあげる程の意か。
繢事:事績。
眾色:多くの色の意か。
成文:文章に書き表すこと。あやをつくる。
蜜蠭:みつほう。蜜蜂。
兼采:謂同時向多方面採取。by 百度百科。
絢素:白絹繪以文采。一說在繪畫上加施白采。by 漢語網。
有章:あやがある。文飾のあること。
頑乏:頑迷で才に乏しい。by 筑摩『三国志Ⅲ』p387。
罄勵:けいれい。罄はむなしい。勵は励む。徒労というほどの意か。
分絕:區別;分隔。離棄;棄絕。by 漢典。
藻繢:藻繪。華麗的文彩。by 漢典。
食時之敏:旦受詔,日食時上。by 漢典。朝に詔を受け昼食時に提出する淮南王の故事。筑摩『三国志Ⅲ』p387。
狂簡斐然之作:『論語』公冶長篇の孔子の言葉「吾黨之小子狂簡、斐然成章」に基づく。狂簡は積極的ではあるが正道から外れていること、斐然とは身を飾る礼儀・文辞のみごとなさまをいう。筑摩『三国志Ⅲ』p388。
淹留:とどこおって進まない。
無成:沒有完成、沒有成就。如:「一事無成」。by 教育百科。
翰墨:筆と墨。
聖旨:天子の考え。天子の心。=叡旨・天旨。天子の命令。
上酬:お上に報いる程の意か。
愆責:けんせき。愆はあやまち。責はせめ。
狂簡:志が大きく行いがおろそかなこと。簡は大。
斐然:あや模様があって美しいさま。なびき従うさま。
愧懼:きく。恥じ恐れる。
淵谷:深谷。by 漢典。
拜表:上奏章。by 漢典。
以聞:天子に上奏する。by 字源。
誠惶誠恐:ことに恐れかしこまること。臣下が天子に自分の意見を奉るときに用いる。▽「惶」は恐れかしこまる意。「惶」「恐」それぞれに「誠」を重ねて、丁寧に強調した言葉。「誠まことに惶おそれ誠まことに恐おそる」と訓読する。 by 三省堂 新明解四字熟語辞典。
頓首頓首:とんしゅ。 ① 古く、中国の礼式で周礼(しゅらい)九拝の一つ。 頭を地につくように下げて、うやうやしくする敬礼。 ② 書簡文や上表文の終わりに付け、相手に対して敬意を示す語。by 精選版 日本国語大辞典。
臣某誠惶誠恐,頓首頓首,死罪謹言。は上奏文の常套句。by 筑摩『三国志Ⅲ』p388(8)。
中書侍郎:古代官名,是中書省的長官,副中書令,幫助中書令管理中書省的事務,是中書省固定編制的宰相。是從漢朝開始設置的官職,之後各個朝代曾改過名稱,但大都有類似官職設置。by 百度百科。
西郷侯:筑摩『三国志Ⅲ』p388(9)裴松之が西郷侯の爵位をたまわったことは、『宋書』『南史』いずれの裴松之伝にも記載されていない。