古田武彦『壬申大乱』を読む

2021年5月15日から数日間、古田武彦氏の『壬申大乱』を読みつつ、ツイートしたものをまとめてみた。


「#壬申大乱」で検索すると、「大和朝廷「日本国」出生秘話」が。初めの方で『會要』の永徽五年の記事を引いています。そういえばこの記事は川村氏が「九州王朝説批判」でも史料(唐會要として)として取り上げていました。それで『日本書紀』の記事と比べてみると、、、
2021年5月15日 10時28分

永徽五年(654)⇔白雉五年(654)二月条 高向史玄理の遣唐、遂到于京奉覲天子。

咸亨元年(670)⇔天智八年(669)遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。

ちゃんと対応していますね。古田氏によれば、この時代の倭國は未だ九州王朝のはず。勿論『唐會要』でも倭國と日本とは区別されています。
2021年5月15日 10時42分

『書紀』の記述は九州王朝からの盗載だ!とでも唱えたいところでしょうが、高向史玄理とか河內直鯨とか、ヤマト朝廷側の人名が。パクった時に書き換えたんだ!とするか?

誰か「#九州王朝説」の立場から、快刀乱麻の解決案を出してませんかねぇ~
2021年5月15日 11時4分

掲示板時代も、そんなこと仰る投稿子の方がおられました。どうやら郭務悰らが大挙して来倭したことを指しているように受け止めましたが、、、

2021年4月25日 午後9:16 しめおん1947さんのツイート
2021年5月15日 14時28分

古田氏の『壬申大乱』を読み始めました。そのp59、
その「秘密をにぎる鍵」は、「丁亥」の一語にあった。
として佐賀県の「吉野」を示唆していますが、その持統紀の文は、
夏四月甲寅朔戊午、以淨大肆贈筑紫大宰率河內王、幷賜賻物。庚申、幸吉野宮。
2021年5月15日 18時10分

丙寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丁亥、天皇至自吉野宮。
と続きます。この「丁亥」が4月に無いことを以て、この吉野行きは斉明六年(660)のことだと解釈していますが、そりゃ無茶苦茶というものでしょう。持統紀に見える他の30個の「吉野」も佐賀の「吉野」?

筑紫大宰は誰が任じて派遣したの?
2021年5月15日 18時18分

余談:同書p62に「丁亥――庚の顕慶五年、斉明六年(六六〇)四月。」とあります。

干支を扱っているので十干の「庚」だと思ったんですが、意味が?これ「唐」の間違いですよね?
#壬申大乱
2021年5月15日 18時26分

p59で、河村秀根『日本書紀集解』で「丁亥」を「丁卯」に改めていることを「原文改定主義」だと「アン・フェアー」と難じています。「邪馬壹国」を「邪馬臺国」へと〝手直し〟した、あの手法だとして。

不思議なのは、次頁で、文字の異同が存在することを取り上げているんですよね。
#壬申大乱
2021年5月15日 18時31分

朝日新聞社『日本古典全書 日本書紀』でも頭注に校異を取り上げてあります。そりゃそうでしょう。複数の写本版本間に文字の異同が生じるのは当然のこと。

異同があれば、いずれの表記を是とするか?その校勘が求められます。なのに古田氏は何をしたか?文中の一部を切り取り、別の時代のものとした。
2021年5月15日 18時35分

持統紀の吉野宮行幸はp43で列挙する如く、31回あります。内、帰還の記載のないものを除くと、行幸期間は、平均8日ほど。同例の吉野宮行幸が庚申(7日)発。丙寅(13日)の記事の次に、例の「丁亥」が出てきます。次は庚午(17日)ですから、「丁亥」は13~17の間。
2021年5月15日 18時45分

丙寅(13日)と庚午(17日)の間の干支は、丁卯、戊辰、己巳の3個。このいずれかを「丁亥」と誤ったと見ると、「丁卯(14日)」以外には無いでしょう。

河村秀根の言うとおりです。即ち、古田氏の〝「丁亥」時空ワープ〟は、単なる妄想に過ぎなかったわけです。
#壬申大乱
2021年5月15日 18時49分

記述されている文字を改めてはならない!というのは、恩師の教えなんでしょうか?

この『壬申大乱』の刊行は2001年。2015/4/20刊行の『古田武彦の百問百答』中で古田氏は張元済の『百納本二十四史校勘記(三国志校勘記)』に言及していますが、この頃〝校勘の真実〟を知ったのかも知れません。
2021年5月15日 18時55分

『#壬申大乱』は300頁を越します。老いて尚、健筆は衰えを知らなかったようですが、今触れた箇所以降、どのようにストーリーは展開していくのか?乗りかかった船ですから、眼の疲れを考慮しつつ、読んでみたいと思います。

筑紫大宰の解釈に出会うとしたら、一定の収穫とは言えるかも知れませんが。
2021年5月15日 18時59分

「丁亥」を「丁卯」の誤と見ると、吉野宮行幸が7月発、14日還で7日間。平均の8日ほどとよく合います。

これが一番妥当で自然な解釈でしょう。
#壬申大乱
2021年5月15日 19時15分

持統紀の吉野宮幸還のうち、帰還日付が明記してある分の集計を採ってみました。先程「平均の8日ほど」と書きましたが、表中最下段にあるように、平均は6.875日と出ました。

急ぎ働きの集計ですが、何かの参考になるかも知れません。
2021年5月15日 23時12分

文字の校異を頑なに拒む一方で、記述された文章の一部を切り取って、別の時期に関するものだと主張するなど、正当な歴史解釈になるとは到底思えません。

安本氏曰く、「古田氏の多くの本は、「無から有」を生じせしめた、奇術の結果にほかならない。」『古代九州王朝はなかった』p235。
2021年5月15日 23時26分

今夜もお休み前に、古田氏の「#九州王朝説」の定義看板を掲げておきたいと思います。 https://twitter.com/hyena_no/status/1383644254392573952
2021年5月15日 23時47分

@toratorasirosir @qi5yohei @kensyou_jikenbo 人間、歳を取ると、ルーツとか家系とかに興味を持ち始めると言います。昔、TVで山口瞳の「血族」を観ましたが、あれも確か自分のルーツに関する話だったように記憶しています。

古文書ブームとのことで、これからもあちこちから色んな情報が発掘されるんではないかと期待しています。
2021年5月16日 10時14分

案の定『#壬申大乱』p65に、この「宮處の郷」が取り上げてあります。そして、

すなわち「吉野の宮」だ。

しかしこれは『筑前国風土記』を見れば分かるように「同天皇の行幸しし時、此の村に行宮を造り奉りき。因りて宮處の郷といふ」と書いてある通り、前条の琴木の岡に見える景行天皇の行宮。https://twitter.com/hyena_no/status/1390838309371342855
2021年5月16日 10時27分

『筑前国風土記』ではなく『肥前国風土記』でした。訂正します。
2021年5月16日 10時29分

古田氏はなぜ、そのことを書かないんでしょうか。『肥前国風土記』から引いている文中に明記してあるんですよ。読者が『肥前国風土記』など読まないと思ったのか?それとも別の場所で、この件について景行天皇説についての疑義を述べているのか?甚だ不審としか言えません。
#壬申大乱
2021年5月16日 10時32分

古田氏の著作は膨大な量に及びますので、いずれかの箇所でこの件(景行天皇の行宮)について私見を述べているかも知れません。第3書では景行の九州平定は『記紀』に〝あとからはめ込んだ〟と。よって景行行宮も認めないのかも知れませんが、『風土記』の「宮處」で一言も触れないのは甚だ疑問です。
2021年5月16日 10時48分

〝あとからはめ込んだ〟は第3書p78。

Yahoo!掲示板時代から言ってきたことですが、この第3書における古田氏の〝問題提起〟については一定の評価をしています。勿論、それを九州王朝説に強引に結びつける姿勢については、全く受け入れられません。
#壬申大乱
2021年5月16日 10時52分

p69
あまりにも書紀の当編集者たちの注意能力に対し、これを〝軽視〟することになるからである。無礼だ。

として郭務悰等二千人派遣の2回記載について疑問を呈していますが、古田氏自身は『書紀』を偽書呼ばわりしているのに変な話です。
2021年5月16日 11時7分

同頁で
総計「四千余人」の唐の軍勢が
と書いてますが、2000の2回で4000なんですか?なら、郭務悰は二人いた?

吉野宮行幸でもそうですが、帰還の記事がない例は他にも見えます。この2例が重複でないとしても1回目の帰還の記録が無いだけのこと。
2021年5月16日 11時10分

1/3ほどまで進みましたが、これでは専門の学者は相手にしないでしょう。というか、専門の学者が相手にしないくらいの〝珍説〟を出さなければ、ファンは喜んでくれない。そんな印象さえ持ちます。
#壬申大乱
2021年5月16日 16時19分

第二章 真実の白村江では天武紀における壬申の乱について「精しすぎる」と言いつつ、じゃ、自分なりの仮説に基づけば、天武紀の壬申の乱の記述は、九州を舞台にして、どのような展開になるのか?という〝精しい〟読み替えをすべきだと思うんですが、、、
#壬申大乱
2021年5月16日 16時21分

P128から『東アジアの古代文化 1979年早春号』三森尭司氏の「馬から見た壬申の乱」を援用しています。え!?と思いましたね。というのは、この文は『壬申大乱』刊行の21年前、安本美典氏の『「邪馬壹国」はなかった』pP73から、「魏西晋朝短里説」に対する批判として引用されているものだからです。
2021年5月16日 16時37分

半ばほど読みましたが、地名付会がものすごいですね。昔からそうですが、この『#壬申大乱』では一層昂進しているようです。佐賀県の太良まで出てきました。次はどんな地名が飛び出すのか?
2021年5月16日 18時47分

P160
それ(古田氏の解釈)なしの「反対」や「批判」は。本質的に「学問上の反対」や「学問上の批判」には当りえない。わたしはそのように考えている。誤っているだろうか。
学問の女神はついに、厳正なるその横顔をわたしたちに見せはじめたようである。

タハハの一言です。
#壬申大乱
2021年5月16日 18時51分

〝これらの不思議は全て宇宙人の仕業である!〟という説に対し、「さらに明確に解決できる。」この一事を明示することが不可欠だ。と仰ってるわけです。

逆でしょう。それらの不思議が全て宇宙人の仕業である!と立証するのは、そう唱えている側の責務でしょ?
#壬申大乱
2021年5月16日 18時54分

「学問の女神」ですか、、、(-_-)第1署でも、そんなこと仰ってましたね。

P404
わたしたちは論理の女神の導くところへ導かれたにすぎないのである。

辿り着いたところはどこでしたか?
#壬申大乱
2021年5月16日 18時58分

P160
ではなぜ、天武天皇(大海人皇子)は、「肥前の吉野」を目指したのであろうか。

もはや妄想の境地で彷徨っているようです。
#壬申大乱
2021年5月16日 19時3分

いやはや、郭務悰の話あたりになると、これはもう〝ものがたり〟の体ですね。どこか『東日流外三郡誌』に通じるところがあるかも知れません。
2021年5月16日 19時19分

これまでの所、永徽5年(654)12月と咸亨元年(670)3月の遣唐使が『書紀』の記述と合致することについては触れず。

又、これまでの所、筑紫大宰の話も出てきません。天智10年(671)11月郭務悰6回目来訪時の話は「對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言」として出てきます。筑紫大宰って誰?
#壬申大乱
2021年5月16日 19時25分

P175
歴史の女神の彫像は、火の国(肥前、肥後)のゆらぐ炎の中から、くっきりと今、姿を現しはじめたように見える。

それは幻覚です!
#壬申大乱
2021年5月16日 19時32分

P176
「持統天皇の伊勢行」〈中略〉「持統天皇の三十一回の吉野行」もまた、白村江前夜の「倭国」(九州王朝)の史書からの「盗用」、見事な〝作り変え〟による「変修」だったのである。

あのう、その「倭国」(九州王朝)の史書ってのは、なんという名前の史書で逸文はどこに?
#壬申大乱
2021年5月16日 19時38分

P177
このように、破天荒な「記事の作り変え」がなぜ行われなければなかったか。

「破天荒」なのは『#壬申大乱』という本の中身の方!
2021年5月16日 22時15分

P187にようやく太宰府が出てきます。どう展開してゆくのか楽しみです。

しかし、この期に及んで薩野馬、薩夜麻を「倭国(俀国。九州王朝)の天子」なんて言ってます。

安本氏は明断しています。九州王朝は「透明魚」であると(『古代九州王朝はなかった』P221)。
2021年5月16日 22時24分

筑紫君薩野馬が出てくるのは天智10年(671)11月「對馬國司、遣使於筑紫大宰府」の中で、筑紫君薩夜麻が出てくるのは持統4年(690)10月「遣使者詔筑紫大宰河內王等曰」に続く「詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻曰」の中で。二つの「遣」はいずれもヤマトからで「詔」は天皇から。どこに九州王朝が?
2021年5月16日 22時33分

幾らデコレーションを施そうが、プラスチックの根・幹・枝に花は咲かないし、実が実ることもない。
#壬申大乱
2021年5月16日 22時35分

P198から、旧唐書・新唐書を持ち出して「倭国(九州王朝)は実在した」という立場を「必然だ」と。

ならば永徽、咸亨の『書紀』にみえる倭国による遣唐使はどう解釈するのか?
#壬申大乱
2021年5月16日 22時42分

P213
日本書紀に描かれた「壬申の乱」像、それはついに一片の幻にすぎなかった。近畿周辺のデルタの上に造成された一個の蜃気楼にすぎなかったようである。

タハハ!安本氏の「蜃気楼」への意趣返し?
#壬申大乱
2021年5月16日 22時54分

教科書で取り上げられる壬申の乱が、古田氏の言うように、九州が舞台だった!と書き直されることなど、未来永劫有り得ないでしょう。

そのような荒唐無稽な古代史像は自分と熱心なファンの逃げ込む洞穴に過ぎません。そこに逃げ込めば、馬鹿馬鹿しくてほとんど誰も追いかけてきません。
#壬申大乱
2021年5月16日 22時57分

P215
その(阿彌陀佛)制作場所は「筑紫」だった。だから「筑紫大宰率」に対して、持統はその仏像の「上送」を要求したのである。

出てきました!筑紫大宰率!前頁てせ引くように、折の筑紫大宰率は河内王。持統3(689)閏8月、ヤマトから任じられています。九州王朝ってどこにある?
#壬申大乱
2021年5月16日 23時7分

因みに河内王が筑紫大宰率に任じられたときの冠位は諸王十二階12番目の淨廣肆。持統8(694)4月亡くなった時の冠位は一つ上がって淨大肆。制定したのは天武天皇。河内王は畿内の人だと思いますが、筑紫の人という根拠でも?
#壬申大乱
2021年5月16日 23時14分

あれ?筑紫大宰は河内王だけで終り?柿本人麻呂の話に移るそうです。
#壬申大乱
2021年5月16日 23時16分

何、飛鳥浄御原宮の「飛鳥」も九州?んな馬鹿な!
#壬申大乱
2021年5月16日 23時26分

天武天皇紀に出てくる諸々の人名も、全て九州の人ということ?地名も同じく?大量の人名・地名が出てきますよ。ぱらりとめくった箇所でも、紀臣、河内国司、当麻衢、近江将、三輪君、高市郡大領とか延々と、、、そうそう箸墓の近くでも戦ってます。筑紫に箸墓がある?
#壬申大乱
2021年5月16日 23時39分

『古代九州王朝はなかった』p237
以上からおわかりのように、古田氏と直接、論争するのは、まったく無意味なことである。文献的になにも証拠がなくても、これだけの〝学説〟をつくりだせる人なのである。空想にもとづく議論が許されるのなら、どんな立論も反論も、可能になってしまう。
#壬申大乱
2021年5月16日 23時42分

おっ!p289「三輪」が「筑紫の三輪」だそうです。
#壬申大乱
2021年5月16日 23時46分

p293
歴史の女神は、幻の中から大漠(たいばく:大砂漠)の奥に堂々と立つ姿を、かえりみる人々の前に現しはじめたようである。

「かえりみる人々」とは古田氏とその熱心な支持者。
#壬申大乱
2021年5月16日 23時49分

p302からの〈付論〉「舎人の歌」ではこの本の最後を飾るにふさわしい地名付会の羅列。
#壬申大乱
2021年5月16日 23時54分

p324には「筑紫都督府」が出てきますので、以下をリツイート。
https://twitter.com/hyena_no/status/1383243813532041220>
#壬申大乱
2021年5月16日 23時57分

これも注意喚起でリツイート。
https://twitter.com/hyena_no/status/1393939063674048518
#壬申大乱
2021年5月17日 0時7分

昨夜、ベッドに入ってから思い出したこと:天武紀には神武陵に触れた箇所があったっけ!天武元年七月、高市郡大領高市縣主許梅(しこめ)が神がかりして神日本磐余彥天皇の陵に、馬及び種々兵器を奉れ、と言ったとか。

筑紫に神武陵があった?それとも筑紫とヤマトで電波飛ばして通信した?
#壬申大乱
2021年5月17日 9時12分

『#壬申大乱』p65で「宮處」を取り上げるにあたり、「和名抄」と「肥前国の風土記」が引いてますが、肝心の「吉野」について「和名抄」や「肥前国の風土記」に該当する地名の有無を求めなかったのは何故か?

勿論探したでしょう。でも見当たらなかった。
2021年5月17日 9時16分

『#壬申大乱』|感想・レビュー #bookmeter @bookmeterより

壬申の乱は九州が舞台!など荒唐無稽の一言。『風土記』の宮處を吉野宮と。でも『風土記』には景行天皇の行宮と明記。箸墓で近江軍と戦うが筑紫に箸墓があった?神武陵も出てくるが?地名付会のオンパレード!
2021年5月17日 10時18分

古田武彦『壬申大乱』「あとがき」抄

古田氏はしばしば張元済の名を持ち出し、自説に援用しているが、その張元済が必ずしも宋本の信じがたいことを明記しているのだ。古田氏はこれをどう読んだのだろうか?
2021年5月17日 10時50分

一通り読んだだけだが、もう一度くらい読み返してみたい。コロナの影響で図書館が月末まで休館になり、返却日もいつもより遅く可なので、、、
#壬申大乱
2021年5月17日 10時54分

『#壬申大乱』p324
(一)都督府は「都督」の中心拠点である。
(二)「都督」は、倭王の称号である(宋書倭国伝等)
(三)「筑紫都督府」の一語の史実性を認めれば、「倭王は筑紫を中心拠点とする王者である。」という根本命題を認めざるをえないこととなる。
2021年5月17日 13時18分

『宋書』は5世紀。「筑紫都督府」は7世紀。南朝で頂戴した爵号が唐の時代まで活きていると思ってるんでしょうか?『宋書』『南斉書』では爵号に「都督」が含まれますが、『梁書』武帝紀天監元年には【征東将軍】のみ。「都督」は外れています。
#壬申大乱
2021年5月17日 13時37分

唐の前代、隋からは倭(俀)は爵号など頂戴しておりません。唐代になると百濟滅亡後に熊津、馬韓、東明、金漣、德安の五都督府を置いたことが新旧『唐書』に見えます。じゃ、倭に都督府が置かれたか?そんなことは書いてありません。
#壬申大乱
2021年5月17日 13時49分

じゃ天智6年(667)11月に出てくる「筑紫都督府」とは?7世紀初頭以降、筑紫大宰が多く任じられていることから見て、大宰府を一時的に〝唐風〟に呼んだと見て可。都督府:唐代の地方行政機構の名称。唐は辺境の重要な鎮に都督府を設け、都督を置いて軍事をつかさどらせた、ですから。
#壬申大乱
2021年5月17日 13時58分

古田氏の言ってることは、南朝の〝古証文〟を7世紀の話に持ち出してくるという、〝2世紀のズレ〟と言えるでしょう。倭の爵号都督が最後に出てくるのは『南斉書』建元元年(479)。天智紀の「筑紫都督府」が667ですから、凡そ2世紀!
#壬申大乱
2021年5月17日 14時4分

例えば筑紫大宰の名称も、微妙に変化します。筑紫大宰帥、筑紫率、筑紫帥、筑紫大宰率、竺紫惣領など。また大宰府も743には筑紫鎮西府となり、2年後に復しています。筑紫都督府も半島の五都督府に合わせ、一時的に改称したと考えて可。
#壬申大乱
2021年5月17日 14時12分

『梁書』武帝紀天監元年には【征東将軍】には校記が付いています。【進武號 征東大將軍 「大」各本脫,據南史倭國傳補。】
百衲本『梁書』では確かに「征東将軍」です(岩波文庫参照)。これを『南史』は「征東大将軍」とします。
#壬申大乱
2021年5月17日 14時19分

この校勘の「キモ」は「進」。南斉の鎮東大将軍から「進」めたのですから、鎮東大将軍より上位のはずです。しかし、征東将軍は四征将軍ですから第三品、鎮東大将軍は諸大将軍ですから第二品。下がることになります。よって「進」を認めれば征東大将軍と考えるのが妥当。「大」の闕字ですね。
#壬申大乱
2021年5月17日 14時25分

この辺りの爵号問題は「倭の五王」を論じる際の必須事項で、諸説あり!状態でしょう。断定的なことは言えないかも知れません。
#壬申大乱
2021年5月17日 14時26分

いくら頑張っても、大概の古田説批判は、原田さんや安本氏や川村氏が前世紀中に既に述べていること。しかし、そんな事実を知らない〝俄古田説ファン〟がいることも事実。そういう方向けに愚生がツイートするのも、あながち無駄とは言えないかも、、、 =原田氏のツイート=
2021年5月17日 14時49分

7世紀の筑紫大宰関係略年表

藤井功・亀井明徳『西都大宰府』p26-27より一部字句、年次等修正して作成しました。これら筑紫大宰関連記事を見て、どこに九州王朝の姿が見えるのか?はっきり言って〝無〟です。
2021年5月17日 15時21分

GoogleMapで飛鳥宮から吉野宮までのルートを測ってみました。国道169号 経由で4 時間 30 分(21.4 km)と出ました。古代はもちろんもっとかかったでしょうが、持統4年12月の往復2日というのも、あながちムリだとも言えないようで、、、
#壬申大乱
2021年5月17日 15時45分

そもそも、吉野宮には長期に渡る複合遺跡があり、宮跡と思しき遺構も検出されています。
吉野町・宮滝遺跡とは
古田氏が想定する筑紫の「吉野宮」はどこに遺構があるのか?遺存地名としても根拠に乏しい吉野ケ里を持ち出し、持統天皇の故地だなど、学問的に通用するはずなどありません。
#壬申大乱
2021年5月17日 16時5分

たまたま開いた『#九州王朝の歴史学』p167-168に永徽5年、咸亨元年の倭国と日本国遣使について言及、
(この点、改めて詳論したい)
と書いています。この時点では『書紀』に合致する記事のあることには触れていません。「一九八八年二月二九日稿了」と。どこかで「詳論」されたのか?
#壬申大乱
2021年5月17日 18時46分

参考サイト:「孝徳朝」の連続「遣唐使」と「東宮監門」による「尋問」
#壬申大乱
2021年5月17日 23時10分

「論争の歴史~吉野宮の宮滝説が通説になるまで~」
「幻の吉野宮」か、大型の建物跡が出土 奈良・宮滝遺跡
#壬申大乱
2021年5月18日 18時43分

発信:2018年5月16日 6時38分
「1989年に東端部分が出土していたが、昨年末からの調査で西側が出土し、全容が明らかになった。」なんで、古田氏はこの「全容」を知らないまま逝かれたことに。発掘の途中経過くらいは耳に入っていたかも、、、現実は残酷ですね(-_-)
#壬申大乱
2021年5月18日 18時47分

『筑紫君薩夜麻≠九州王朝の天子』 #アメブロ @ameba_officialより

是也!「こういうときには勝手に解釈するのではなく、先師である古田武彦が提唱した学問の方法に従うべきです。古田の手法は、この記事がある『旧唐書』の記事から全事例を調べて判断する方法です。」
2021年5月18日 18時56分

『筑紫君薩夜麻≠九州王朝の天子』 #アメブロ @ameba_officialより

頭が二つあれば、一方の頭で頷き、他方で横に振りたい(・_・;)
2021年5月18日 18時59分

さて、再読開始。反射的にツイートするので、重複あるかも(・_・;)
p9「滝がなかった」
吉野歴史資料館学芸員の方の言、「滝は、ないんです。」んで、p12「ここは人麿が歌った吉野ではない。」と。
#壬申大乱
2021年5月19日 10時38分

同頁末「では、どこが真の吉野か。この問いは、必然的に、一つの方向を私に指ししめす道標となった。――九州だ。」

馬鹿馬鹿しい!の一言。林修さんじゃないが、滝がないのは〝今でしょ?〟。
#壬申大乱
2021年5月19日 10時48分

思い出しました。「赤壁の二里」。古田氏は人民日報に問い合わせたんですね。そして赤壁の川幅が「400~500メートル」との情報を得ます。1800年前ですよ、赤壁の戦いは。んで何と云ったか?「三世紀前半と現在と、五~六倍もの大変化が『川幅』に存在したとは考えがたい」と。古田氏は地質学者ですか?
2021年5月19日 11時4分

長崎市にはシーボルトゆかりの〝鳴滝〟という地区があります。京都の鳴滝になぞらえて名付けられたとか。市の観光案内にも。
「岩に刻まれた真実 地名は体を表す?鳴滝」

華厳の滝とか、そういうレベルで想像してはいけません。風流というものですから、、、
#壬申大乱
2021年5月19日 11時12分

以下延々と『萬葉集』から持論を展開していきます。漢籍や『記紀』からの推論はとりあえず脇において、、、ということかな?そして、p19
「九州の吉野」の探求へと向かおう。
なんて意気込んでいます。
まさにこの肥前の地は「吉野の国」というにふさわしい。
そうです。
#壬申大乱
2021年5月19日 11時18分

@rarara_roadster すんでのところで転落せずに踏みとどまったんですね?それは何よりでした(^^;)

『#東日流六郡誌絵巻 全』は記事が活字で印刷されてますね。『#東日流外三郡誌』もそうだと思うんですが、これが陥穽かも。
2021年5月19日 11時24分

@rarara_roadster うまい喩えですね!

笠谷論文でしたっけ?原田さんの書かれたもの読んで、少し調べたんですが、ひどい話です。
2021年5月19日 11時33分

んで、その「吉野の国」に吉野宮の遺構でも見つかったんでしょうか?

そういえば吉野ケ里遺跡は複合遺跡で奈良平安時代の遺構遺物も出てました。しかし、滝はありませんからね~
#壬申大乱
2021年5月19日 11時43分

思い起こせば、古田氏は第1書時点から、地名比定に奔らないことをモットーとしていたような、、、しかし『#壬申大乱』では地名付会のオンパレード!

今度は嘉瀬川まで出てきました。川上峡から古湯に向かう国道沿いの川は、確かに急で、滝もありそうです。だからといって、、、
#壬申大乱
2021年5月19日 11時47分

p21
以上によって、「吉野の国」がここ肥前という国を指す、という点は問題なし、として、次に「吉野川」とはどこだろうか。

こんな地名付会で「問題なし」とは、タハハの極みですね~
#壬申大乱
2021年5月19日 11時50分

同頁
従って「吉野の河」(三七)、「吉野川」(三八)と呼ばれているもの、それは現在の嘉瀬川以外にない。少なくとも、候補地の随一だ。わたしにはそう思われたのである。

「わたしにはそう思われた」。後は読者のご判断にお任せします!ってことかな?
#壬申大乱
2021年5月19日 11時54分

@rarara_roadster >論文の最後
忘れちゃったですね~(・_・;) 拙脳はシングルcpuなもんで、別件思い出すのに時間がかかるんですよね~(・_・;)
2021年5月19日 13時34分

@rarara_roadster と学会『トンデモ本の世界』本棚から探し出しましたので、『壬申大乱』終わったら、原田さんの部分だけでも再読してみましょう。
#笠谷和比古
2021年5月19日 13時49分

ショウペンハウエルはいいことを仰ってます。
世間でいわれるように、じょうずな料理人なら古靴の底皮でさえもけっこうおいしく調理することができるでしょう。(『博識と学者について』)

古田氏は「古靴の底皮」を美味しく料理して読者に提供しているんですね~
#壬申大乱
2021年5月19日 13時53分

p28
以上によって、論証は終った。人麿作歌の四首歌の「作歌舞台」、それがどこだったか。「大和の吉野」だったか、それとも「肥前の吉野」だったか。その是非の決着はついた。わたしには、そう思われる。

後は読者のご判断にお任せしますってか?徳島県の吉野川は駄目だったんでしょうか?
#壬申大乱
2021年5月19日 13時58分

同頁。
もちろん、従来の論者、すなわち「国学以来の万葉学」の専門家たちは、直ちに同意はしないであろう。また、諸般の「学会事情」からも、できないかもしれない。

匂わせてるつもりなんでしょうか?諸般の「学会事情」ってのは、、、
#壬申大乱
2021年5月19日 14時1分

しかし、それはそれだけのことだ。わたしなどの一切関知するところではない。〝住む世界〟がちがうのだ。学問の名において、〝目指すところ〟を全く異にしているのであるから、やむをえない。

自己陶酔の境地かも、、、
#壬申大乱
2021年5月19日 14時4分

p40くらいまで延々と古田氏の〝万葉論〟が続く。だから何?どうして吉野ケ里や嘉瀬川が吉野になるの?ってな疑問は一向に解けない。古田氏の空想を聞きたいのではなく、論証でしょ?必要なのは、、、『萬葉集』など知りませんが、柿本人麻呂の足跡に基づいて論じるべし。
#壬申大乱
2021年5月19日 14時18分

持統紀の吉野行幸。sさんからの「一通の手紙」から話が膨らむ。
これは、もしかすると、貴方の言われる九州王朝の天子が、太(ママ)宰府から香椎宮あたり(地名「美(よし)野」)へ行かれた記事を、焼き直して、持統天皇の行幸として「はめ込ん」だのではないでしょうか。
と。
#壬申大乱
2021年5月19日 14時32分

古田説ファンの方は、何の根拠もない空想を弄ぶ傾向にあるようで、、、なんで「九州王朝の天子」の事績を『書紀』が「はめ込」む必要があるのか?

sさん曰く「わたしには吉野がそれほど魅力のある、行かねばならぬところとは思われない。」

古田氏の「思われない」も既出。
#壬申大乱
2021年5月19日 14時36分

古田氏の方法というのは実証が基本だったと思うんですが、、、九州王朝の史書に天子の吉野行幸が書いてあったとして、それをなにゆえ『書紀』が採用せねばならないのか?sさんは明らかにしているんでしょうか?
#壬申大乱
2021年5月19日 14時44分

空想の説明をするのに、新たな空想を以てする!そんなパターンじゃ?
#壬申大乱
2021年5月19日 14時51分

p52にかけて、通説(というと通説に失礼かも)に疑問を投げかけます。だした結論が
この「吉野宮、行幸記事」もまた、同様に「九州王朝の史書」からの〝換骨奪胎〟だった。そういう可能性がすこぶる高いのである。

第1書p59でも『後漢書』が『魏志』の「換骨奪胎」なんて言ってました。
#壬申大乱
2021年5月19日 15時0分

p53から「白村江の戦で戦って敗れた、日本の一大軍船団の出発地(軍港)は一体どこか」と。p55で、
①有明海
②佐世保湾
③大村湾(出入り口は佐世保湾)
を挙げています。
#壬申大乱
2021年5月19日 15時18分

①有明海は否定しませんよ。神功皇后の三韓征伐の帰途、流されて有明海に辿り着いたという伝説もありますから。しかし、②と③は無いでしょ。佐世保軍港を想起したのかも知れませんが、藩政時代は寒村。③は尚更。渦潮の針尾瀬戸を知らないんでしょうか?早岐瀬戸は水深浅く流れが急。
#壬申大乱
2021年5月19日 15時24分

むしろ松浦水軍の松浦半島周辺が。それと周辺島嶼部。村上水軍もそうでしたが、水軍は小さな島に拠るのでは?五島列島も倭寇の根拠地と言いますが、小さな島々の集まり。古田氏の「なぜか」など説得力なし。古代の水軍の根拠地はどこか?それを調べるべし!
#壬申大乱
2021年5月19日 15時30分

欽明紀17年(556)に百済の皇子・恵を護送する際に「遣阿倍臣・佐伯連・播磨直、率筑紫國舟師、衞送達國」と見えます。筑紫水軍とでも言えるものがあったのは確か。んで率いたのはヤマトの豪族たち。「磐井王朝の滅亡」後30年ほど。ヤマトの支配下ですね。
#壬申大乱
2021年5月19日 15時38分

P58
わたしたちは、「白村江以前」の有明海に臨む一代軍事中心としての吉野、七世紀中葉における「吉野」という名前に、ようやく到着できた。

「わたしたち」とは古田氏と、その熱心な支持者のみ。
#壬申大乱
2021年5月19日 15時41分

「吉野」なる地名が「七世紀中葉」に実在したという証明はどこにもありません。『風土記』にも『倭名類聚抄』にも見えません。「吉野ケ里」という地名が「七世紀中葉」に実在したという証明はされていません。全て古田氏の空想にすぎません。
#壬申大乱
2021年5月19日 15時43分

p59
中世の騎士が恋人の住む館に夜ふけて辿り着くように、一介の探求者としてわたしはついに目的の「吉野」の地を眼前にしたのである。

原田氏の「私は、天武天皇の吉野が佐賀県吉野ケ里遺跡のことだというくだりでもうお腹いっぱいで」に激しく同感!
#壬申大乱
2021年5月19日 15時47分

吉野ケ里から雄淵の滝までのルートです。現代の道で約20Km。柿本人麻呂の歌に合うんですかね?この距離感って、、、どなたか『萬葉集』に詳しい方の解説をお願いしたいところですが、、、原田さんならずとも「お腹いっぱい」かも知れません。

#壬申大乱
2021年5月19日 16時55分

p59からは、例の「丁亥」。「原文改定」を「アン・フェアー」として斥けますが、じゃ、干支の合致する年次へ記事の内容を移転することは「アン・フェアー」ではないのか?
#壬申大乱
2021年5月19日 18時10分

p63
持統十一年(六九七)は、右の「フック」にもとづいた場合、必然的に竜朔三年(六六三)となる。すなわち「実年代」を三十四年〝引き下げ〟て、持統天皇の「時代」に当てはめて〝再構成〟したもの、そのようにみなされるのである。

ほとんど理解不能、意味不明。
#壬申大乱
2021年5月19日 18時24分

なにゆえヤマトが『書紀』に、九州王朝の史書なるものから九州王朝の天子の吉野ケ里行幸を「当てはめ」なければならないのか?紙の上を這い回っている妄想としか言いようがない。顕慶五年、斉明六年(660)、一体どこに「九州王朝の天子」が実在するのか?
#壬申大乱
2021年5月19日 18時27分

伊吉連博徳の書に言うように、斉明5年(659)には小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥らが唐へ遣わされて、高宗に対面しているし、『通典』邊防一東夷上蝦夷の記事と年次が一致する。7年には斉明天皇が朝倉橘廣庭宮に遷居しそこで崩御。「九州王朝の天子」の出る幕など無い!
#壬申大乱
2021年5月19日 18時40分

tenchuukunさんの言葉を借りれば、古田氏のこの『#壬申大乱』はもはや、〝ヨタ話〟のてんこ盛りと言えそう。

『書紀』を全く無視して九州王朝の歴史を語るのなら兎も角も、『書紀』の一部を切り取ってきて、九州王朝の話に仕立て上げる。読者は「古靴の底皮」を食べさせられているんです。
#壬申大乱
2021年5月19日 18時48分

p65には例の「宮處」。『肥前国風土記』に明記してある景行天皇の行宮という話を無視。『風土記』を調べない読者には分からない。おお!その「宮處」が「吉野の宮」か!と感嘆する。さすが古田先生だ!と、、、
#壬申大乱
2021年5月19日 19時2分

『肥前国風土記』から余談。三根郡物部郷に推古朝、來目皇子が新羅討伐で筑紫に到った折、物部の若宮部を遣わして社を造って祀ったとあります。『書紀』によれば推古10年(602)のこと。裴世清来倭の6年前。「九州王朝の天子」など、影も形も見えません。
#壬申大乱
2021年5月19日 19時11分

影も形も見えないけれども、「九州王朝の天子」は実在したのだ!と?『書紀』には記されていないだけだ!との解釈かも。そうでなければ、影も形も見えないことの説明がつきません。では、なにゆえ『書紀』は「丁亥」の吉野記事を九州王朝の史書から「換骨奪胎」しなければならなかったのか?
#壬申大乱
2021年5月19日 19時19分

p66、天武紀上の叙述があまりにも〝精しすぎる〟ことを取り上げる。だから何?それが九州王朝の史書からの換骨奪胎とでも?影も形もない、九州王朝の史書からの?

笑う気力さえ起きない。
#壬申大乱
2021年5月19日 22時18分

空き地を指差して或る人が「ここには昔、ウチの先祖の豪邸が建っていたんだ。今は取り壊されたが、隣の家にある家具調度品などは、みなウチの先祖の豪邸にあったものなのさ!」なんて言って、誰が信じる?隣の家にあるのが不審だ!という前に、先祖の豪邸が、そこにあった証拠を出すべし!
#壬申大乱
2021年5月19日 22時23分

p68からは、郭務悰らが大挙して来訪した件を取り上げます。それを「唐の駐留軍」と。p69(c)に天智10年(671)11月の記事を引きます。その(下略)の部分。
【今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意】
#壬申大乱
2021年5月19日 23時2分

平たく訳せば、
我らの船は多く、急に行ったら防人が驚いて撃ちかけて来るかも。なので道久等を遣わして訪問の意図を述べることにしよう。
どこが「駐留軍」?
#壬申大乱
2021年5月19日 23時9分

古田氏が引く(c)の筑紫大宰府にいた筑紫大宰は誰ですか?前年天智10年6月に任じられた栗隈王でしょ。誰に任じられたんですか?ヤマトの朝廷でしょ?それとも影も形も見えない「九州王朝の天子」から任命された?いったい「九州王朝の天子」って、どこにいて、何をしてたんですか?
#壬申大乱
2021年5月19日 23時16分

p69
しかし、彼らが「占拠」したのは「筑紫」近辺だ。近畿ではない。

何を言っているのか不明。どこに「占拠」したと書いてあります?
#壬申大乱
2021年5月19日 23時18分

天武元年(672)3月壬辰朔己酉(18)、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信物。

阿曇連稻敷が筑紫に遣わされました。どこから?何のために遣わされた?天智天皇の崩御を郭務悰に伝えるでしょ?
#壬申大乱
2021年5月19日 23時24分

それを聞いて郭務悰は何をしましたか?【於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。】東へ向けて頭を地に着くまで下げて礼をした。弔意を表したんですね。そして3月21日【郭務悰等、再拜進書函與信物。】外交儀礼に則っているようです。「占領軍」が、です。
#壬申大乱
2021年5月19日 23時29分

5月30日には【郭務悰等罷歸】、つまり帰国します。「占領軍」が、です。そして6月。壬申の乱勃発です。この際、筑紫大宰の栗隈王がどのような態度に出たか?「#壬申大乱」の立場からはどのように説明するのか?興味深いものがあります。
2021年5月19日 23時38分

以後、延々と『萬葉集』などから引いて壬申の乱についてごちゃごちゃ話を続けますが、いつのまにか「九州王朝の天子」の話は消滅!斉明6年4月「丁亥」時点では確かに「九州王朝の天子」が存在したはずなのに、、、
#壬申大乱
2021年5月19日 23時48分

『新唐書』日本電における「誤植」
古田氏はこの時点でもまだ気がついていないのか?「目多利思比孤」の「比」に。「多利思北孤」とするのは、現行刊本である元大德刊本のみ。『隋書』を引用参照した他書はすべて「比」である。〝一字の過謬に道を迷う人〟に他ならない。
2021年5月20日 10時30分

『九州王朝の歴史学』は1991年刊。例の白樺湖シンポジウムと同年。『東日流外三郡誌』偽書問題が大々的な騒ぎになる一二年前。400ページを超す分厚さ。中身も濃い。

それが10年経つと『#壬申大乱』。この落差は何だろう?
2021年5月20日 11時22分

p127からは先述した三森氏の論文を引く。p144では、
この「三森批判」に対しては、言及すらされていない。
と。
これは安本美典氏の『「邪馬壹国」はなかった』pP73から、「魏西晋朝短里説」に対する批判として引用。まさか古田氏がそのことをご存じないとも思われませんが、、、
#壬申大乱
2021年5月20日 11時33分

あれ?pP73はp173の誤。以前のツイートも含めて訂正。『#壬申大乱』からは脱線しますが、ついでに。

p174「それ以後の五日間は、平均時速、六キロ~八キロの間として居られる」と引用。
#壬申大乱
2021年5月20日 11時38分

『三國志』蜀書先主【聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂】の「三百餘里」が長里か短里かという問題。襄陽~當陽之長坂間の距離は凡そ130Km程。これを24時間で割ると、時速5Kmくらい。三森氏の計算に近い。
#壬申大乱
2021年5月20日 11時42分

古田氏の言う「魏西晋朝短里」によると「三百餘里」は24Km程で、実際の距離にも合わないし、それを「一日一夜」で行くと、時速1Km!犬のお散歩程度!【精騎五千急追】とは犬のお散歩程度の「急追」?
#壬申大乱
2021年5月20日 11時45分

そこで思わず出た川柳が、

“急追の 精騎追い抜く 犬散歩”

#壬申大乱
2021年5月20日 11時47分

日中戦争当時の馬行軍
#壬申大乱
2021年5月20日 11時48分

【曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪】について考える

#壬申大乱
2021年5月20日 11時49分

各史にみる「一日一夜」+「里」

いつの時代にもこういう記述はあります!
#壬申大乱
2021年5月20日 11時50分

川柳一句

#壬申大乱
2021年5月20日 11時50分

「千里の馬」

#壬申大乱
2021年5月20日 11時50分

「一日一夜行三百餘里」は長里

#壬申大乱
2021年5月20日 11時51分

「一日一夜行三百餘里」、古田氏の詭弁

#壬申大乱
2021年5月20日 11時51分

p145からの、「天武天皇の秘密」でもまた、延々と地名付会が。一方「九州王朝の天子」は雲隠れ。p174、郭務悰等は敵の「軍事拠点」を完全に制圧するために来たのであり、その最大中心、それは、有明海を前にした「吉野の国(佐賀県)」だったとか。

完全に、妄想の世界を彷徨っています。
#壬申大乱
2021年5月20日 13時38分

p174
それ(唐の一大軍船)を率いていた将軍、それは劉仁願であり、劉徳高であり、そして最も長く、そして深く、郭務悰その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。

あれ?劉德高は来ましたが、劉仁願まで来てましたっけ?何年何月?
#壬申大乱
2021年5月20日 13時47分

p175
その「吉野」に、天武天皇(大海人皇子)は来たのだった。(以下、あほ臭いので略。物好きな方はどうぞお読み下さい。)

あの~、「九州王朝の天子」はどこにいらっしゃるんでしょうか?
#壬申大乱
2021年5月20日 13時50分

p176
同じく持統紀の「持統天皇の三十一回の吉野行」もまた、白村江前夜の「倭国」(九州王朝)の史書からの「盗用」、見事な〝作り変え〟による「変(傍点)修」だったのである。

その「史書」の名は?逸文はどこに?
#壬申大乱
2021年5月20日 13時59分

p177
すなわちわたしは次の定式を確認せざるをえなかった。
「天武紀の『壬申の乱』の『吉野』と、持統紀に氾濫する『吉野』群は同一だ。すなわち九州の、肥前の吉野である。」

7世紀にそんな地名があったという証拠もなく、滝も20Kmくらい離れている。もちろん宮跡など無い。
#壬申大乱
2021年5月20日 14時3分

p177
西日本を中心に軍事的制圧体制を敷きつずけてきた、あの不可思議な唐軍(2字傍点)の動きと無関係ではなかった。

その「軍事的制圧体制」ってのはどこに書いてあるんでしょう?急に行くと防人が驚くので事前に知らせよう!くらいに気配りして「軍事的制圧」に来る?
#壬申大乱
2021年5月20日 14時13分

p187
白村江の戦において「捕囚」の身となった人、それこそ「倭国(俀国。九州王朝)の天子」たる薩夜麻である。筑紫の君と書かれている。

「筑紫の君」とは書かれてありますが、「九州王朝の天子」とは書かれてありません。妄想です。
#壬申大乱
2021年5月20日 14時17分

同頁。
その「薩夜麻」は、自ら一軍の先頭に立って戦いに臨んだ。そして敗れたのである。
「今に至りて〈中略〉」(倭王武、昇明二年〈四六二〉)

「自ら一軍の先頭に立って戦いに臨んだ」の出典は?それと、昇明二年って白村江のほぼ100年前!またまた古証文!
#壬申大乱
2021年5月20日 14時24分

この100年の間に「磐井王朝」は滅亡したはず。第2書p339では、
「わずかにその子たちの中の一人であった葛子が生き残り、天皇家との和平工作に成功した。」「磐井の子葛子は生き残って和平を求めた」

その70年後、どうなったか?
#壬申大乱
2021年5月20日 14時37分

第2書p310
俀王の直接の統治領域は「九州」にとどまっていたにもかかわらず、東なる天皇家の統治領域をもふくんで、その両者の上に立つ「天子」として、俀王は自負していた。
#壬申大乱
2021年5月20日 14時41分

また、
すなわち、俀王は、近畿大和を中心の拠点とする天皇家の領域を内にふくんで(6字傍点)「日出づる処の天子」と、誇りやかに宣言しているのである。

あれ?葛子は「生き残って和平を求めた」のじゃなかったの?宣化朝では那の津に官家が造られ、筑肥豊の穀が運び込まれたという状況は?
#壬申大乱
2021年5月20日 14時44分

拙ブログに、
「古田説」を長く愛し続けるための〝三条件〟
を書きましたが、
2.時系列でものを考えないこと
年表を作ったり時間単位の計算をしてはいけない。
が当てはまる事例。
#壬申大乱
2021年5月20日 14時50分

磐井以後、筑紫はヤマトの制圧下に入っているんです。古田氏の言ってることからも、『書紀』の記述からも。筑紫大宰もヤマトから任じられているという状況下で、どうして薩夜麻が「九州王朝の天子」たりうるのか?

いや!『日本書紀』は全てウソを書いてる!とでもしなければ、、、
#壬申大乱
2021年5月20日 14時54分

じゃ、天渟中原瀛眞人も高天原廣野姬もいなかった!吉野もなかった!つまり吉野ケ里説も不要!

もちろん、壬申の乱も壬申大乱も無かった!

はい、ご苦労さまでした!
#壬申大乱
2021年5月20日 15時0分

気を取り直して、続けます、、、

p187~188には、「(字)紫宸殿」「(字)大裏」「(字)大裏岡」「朱雀門」等の地名が遺在し、この地がかつて「日出ずる処の天子(2字傍点)」の在地であったことをしめしている。

はて、これらの地名はどこまで古く遡れるのか?そんな裏付けなど示されていない。
#壬申大乱
2021年5月20日 15時11分

「駅鈴」だの「虎翼」だの細かい字句をほじくり返して異を唱えています。だから何?まさかとは思いますが、そんな字句で「九州王朝の天子」実在が裏付けられるとでも考えてるんでしょうか?
#壬申大乱
2021年5月20日 15時21分

p196
第四は「倭京」問題である。

10頁程に亘ってぐだぐだと、、、そしてp208で「九州年号」の「倭京」を持ち出します。

p202注11によれば、「二年難波天王寺聖徳建」と。聖徳って聖徳太子じゃないの?九州王朝にも聖徳太子がいた?
#壬申大乱
2021年5月20日 15時35分

『襲国偽僭考』には「推古二十六年戊寅。倭京元年とす」と。「聖徳」とか「推古」じゃなくて、九州王朝の人物名はどうして出てこないんでしょうか?九州王朝の年号なんでしょ?「九州年号」って、、、
#壬申大乱
2021年5月20日 15時40分

p210には「定居」という「九州年号」が。611-617とか。『海東諸国紀』ではその3年「癸酉大職冠生于大和州高市郡」と。大職冠と言えば藤原鎌足。なんで藤原鎌足の生年が「九州年号」で書かれてあるんですか?「九州年号」って九州の人に使わずにヤマトの人に使う?
#壬申大乱
2021年5月20日 15時52分

『如是院年代記』にはイミフな記述が。その中に「大和国片岡山」と。なんで「九州年号」の記事の中に九州の地名が出ずに「大和国」の地名が出てくるの?
#壬申大乱
2021年5月20日 16時0分

あらら~『如是院年代記』には光充(他では光元)三年(607)に「七月野妹子入隋」と。「九州年号」って畿内ヤマトの事績を記すために存在したんでしょうか?光充六年三月「高麗貢曇徵法定二比丘」もほぼ同内容で推古紀18年3月に見えてます。なにこれ?
#壬申大乱
2021年5月20日 16時15分

p214-215
「誰か(2字傍点)が」「この「誰か」とは、誰か。すでに本稿を読み進んでここに至った人には誰人にも明らかであろう。――天武天皇である。」
#壬申大乱
2021年5月20日 16時23分

え?持統六年(692)に天武天皇?天武天皇は朱鳥元年(686
)9月丙午(9)正宮に崩御されてますが、、、それとも生存説?
#壬申大乱
2021年5月20日 16時30分

あのう、私何かこの本を誤読してますでしょうか?お気づきの方はぜひご一報頂きたく、宜しくお願い申し上げますm(_ _)m
#壬申大乱
2021年5月20日 16時33分

p214
持統紀の中に、不思議な一文がある。
「復(また)、大唐の大使郭務悰が、御近江大津宮天皇(天智天皇)の為に造れる阿弥陀像を上送(たてまつ)れ。」〈中略〉
誰か(2字傍点)が、筑紫に来ていた郭務悰に会い、天智天皇の「病い深き」さま(或は「崩」)を告げた。
#壬申大乱
2021年5月20日 16時39分

天智天皇の「病い深き」さま(或は「崩」)って、天智天皇はその10年(671)12月3日【天皇崩于近江宮】ですけど、、、古田氏がp214に言う「持統六年〈六九二〉」とは21年も隔たってます!

私に読み間違いがあるのか?めまいを起こしそうです。
#壬申大乱
2021年5月20日 16時46分

この「誰か」とは、誰か。

持統六年閏五月己酉(15)、詔筑紫大宰率河內王等曰「宜遣沙門於大隅與阿多、可傳佛教。復、上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。

筑紫大宰率河內王じゃないんでしょうか?
#壬申大乱
2021年5月20日 16時49分

天武元年(672)三月【於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首】昨日も書きました。東へ向けて頭を地に着くまで下げて礼をした。

古田氏が引く持統六年の詔は、郭務悰の向東稽首から20年後。

ついでに、古田氏がp214で「五月十六日」と書いてますが、正しくは「閏五月十五日」。
#壬申大乱
2021年5月20日 17時1分

しかしこれは相当にひどい話のよう。私のように『記紀』にあまり親しまない人間にも数日にして、これだけのあら捜しが出来ました。2001年にこの本が刊行された直後に、上述の如き過誤を指摘する声は、当然出たでしょう。古田氏はそれらにどう答えたのか?
#壬申大乱
2021年5月20日 18時12分

p225
なぜなら、草壁皇子(日並知皇子尊)の没した「持統三年(六八九)」には、当然父の天武天皇もすでに崩じていたからである。

あれ?p214-215の「誰か」の箇所では持統六年〈692〉郭務悰に向かって「阿弥陀の作造」を要請し、それが天武天皇だ!と。

689亡くなったのに692要請?
#壬申大乱
2021年5月20日 18時22分

p226
「甘木の大王」というのが。甘木と言えば安本美典氏のホームグラウンド。理詰めで組み立てられた安本甘木説の邸内に、妄想の土足で踏み込んでくるというのはいかがなものか。

その「甘木の大王」とやらの生没年は?諱は?漢籍にも『書紀』にも見えないのか、『萬葉集』を弄り回す!
#壬申大乱
2021年5月20日 18時47分

p245からの第七章〈別論二〉筑紫の飛鳥

トホホ、究極の地名付会!明治前期の全国村名小字調査書第四巻に「三井郡(小郡市)井上村 飛鳥(ヒチャウ)」という地名があるとか。明治前期ですよ!『和名抄』はどうしたんですか?
#壬申大乱
2021年5月20日 18時54分

p260
「御井の王者」というのが出てきました。んでその生没年は?諱は?

ったく話にならない!
#壬申大乱
2021年5月20日 19時5分

p277からの第九章〈別論四〉越(をち)を恋うる嬬の歌
はほとんど理解不能。p292では、
このように考えてくると、やはり当初から、最もいだきやすかったイメージ、「明日香皇子=筑紫君薩夜麻」という命題が、合理的(リーズナブル)だったようである。

あの~、どなたか解説を!
#壬申大乱
2021年5月20日 22時22分

p293
その「薩夜麻を悼む人麿作歌」が大量に「盗用」された。そして近畿天皇家への讃歌として、万葉の心臓部とされたのであった。

それで「盗用」された側の「九州王朝」には何一つ残らなかった?空き地にあったといふ旧豪邸!
#壬申大乱
2021年5月20日 22時26分

p294からの「終章」
その結果は〝惨憺(さんたん)〟たるものだった。
まさしく!
わたしの目や頭が〝おかしい〟のでなければ、そのように「評価」する他はないのである。

いや、〝おかしい〟でしょ?影も形もないところに幻を見るなんてのは!
#壬申大乱
2021年5月20日 22時29分

p300
先にあげた、筑紫君薩夜麻が
薩野馬(2字傍点)(天智十年十一月)
と書かれていることにも、それはしめされていた。

何を気取ってるんでしょうか?漢字表記が違うのは『書紀』内でもフツーにあります。筑紫と竺紫、筑紫と竹斯、三田耜と御田鍬、栗前王と栗隈王など。
#壬申大乱
2021年5月20日 22時45分

馬鹿馬鹿しい気持ちに襲われながら、2回目読了。というか、マトモに読める本とは言い難い。1回目通観した時に思ったこと、筑紫大宰は誰が任じたのか?それが徹底的に無視されている。筑紫における事象についても、多くは畿内ヤマトからの派遣に基づいて行われている。
#壬申大乱
2021年5月20日 22時51分

それともう一つ、天武紀上に「精しすぎる」ほど描かれている壬申の乱の全体は、どのようになるのか?全て虚構なのか?全てが虚構だとするなら、代りにどのような「壬申大乱」が筑紫を舞台として展開されたのか?何ら示されない。
#壬申大乱
2021年5月20日 22時57分

このような荒唐無稽の書に苛立つ私が未熟なのかも知れません。未読ですが、古田氏は同じ2001年に『古代史の十字路-万葉批判』を出してます。これくらい荒唐無稽であれば、誰も追いかけてこないんでしょう。20世紀最後の10年の体験が選ばせた道だったのかも知れません。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時9分

それにしても天智、天武の崩御を失念して空想を羽ばたかせるという失態は、いくらそれまで漢籍に軸足を置いていたとしても、目を覆うばかりの有様といえるでしょう。

なんら実体の見えない「九州王朝の天子」とか「甘木の大王」とか「御井の王者」とか、もはや妄想としか。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時14分

Yahoo!掲示板時代、壬申の乱は筑紫が舞台だった!というようなことを書いた人がいました。その方も強くは主張しなかったような記憶がありますので、半信半疑だったのかも知れません。私もまさか、これほどひどい内容とは思っていなかったんですが、、、荒唐無稽の極地です。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時18分

ことのはじまりは、書中に出てくるsさん(書中実名)からの手紙。最初は古田氏よりずっと年長というsさんへのリップサービスならぬ〝ペンサービス〟なのかな?という気がしましたが、そうでもないようです。古田氏は本当にこのような結論に至ったのでしょう。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時23分

この2年後の2003/5/4、古田氏は『魏志』倭人伝の郡支国・都支国異同問題を知ります。
2006年末頃から「寛政原本」の噂が流れ、翌2007年4月、原田実氏が古田氏の講演会に参加し実見。詳細はと学会『トンデモ本の世界』を御覧いただきたい。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時33分

そして亡くなる年、2015/4/20刊『古田武彦の百問百答』の中で、張元済『百納本二十四史校勘記(三国志校勘記)』に触れ、「底本(宋本)と諸本の間には、四六〇五カ所の相違があり、そのうち一三三七カ所、底本を修正したと書かれています。」と引いています。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時35分

恐らく古田氏はこの頃、校勘の真実というものを知ったのではないかと思います。正面から『百納本二十四史校勘記(三国志校勘記)』に向き合ったとしたら、それまで40数年に亘る自分の〝方法〟が間違っていたのではないか?と気づいた可能性もあるかも知れません。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時37分

細かいことを。「底本(宋本)と諸本の間には」というのは間違いです。〝底本(宋本)と武英殿版との間には〟です。「三國志校勘記整理説明」に明記してあります。確かに「諸本」を参考にしてはいますが、「四六〇五カ所の相違」というのは〝底本(宋本)と武英殿版との間〟の数字です。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時41分

遅くなりましたので、もう一つだけ。例えば、
紹興本の女三国vs紹煕本の女王国
汲古閣本の狗古制卑狗vs紹煕本の狗古智卑狗
は『百衲本三國志校勘記』には取り上げてありません。なぜなら、紹煕本と武英殿版との間に、それらの異同は無いからです。
#壬申大乱
2021年5月20日 23時48分

脳の疲労回復のため、#原田実 氏が『トンデモ本の世界』に書かれた文を読みました。短くまとめることって難しいんですよね。私も昔、雑誌に投稿した原稿を半分に縮めて!と言われて断念した経験があります。

2011年の刊ですので10年前。それでも擁護派は絶えることもなく、、、
#偽書 #東日流外三郡誌
2021年5月21日 10時9分

689亡くなったのに692要請?ってのは間違い。天武の崩御は686。よって689を686に訂正。
#壬申大乱
2021年5月21日 10時44分