昭和24年和田親子発見の場所に関する諸書の記載

『季刊邪馬台国』69号/1999年冬号214~217頁より転載。「出典」項目中の漢数字は算用数字に改めた部分あり。また「記事の内容」中では、「っ」と書くべき所を「つ」とするものがあったが、「っ」に変えた。他はママ。ただし、タイプミスの可能性はあるので気が付いた時に逐次訂正する。

発見場所 発掘物 出典 記事の内容 備考
飯詰山、飯詰村より一里半ほどの奥山飯詰村糠塚盛沢の甲地、村から約一里ばかりの奥山 役の小角に関する資料 『役の小角の古墳発見について』(昭和25年11月識す) ○二十四年夏、端なくも唐国ならぬ北郡飯詰山に其の墳墓が発見されたのである。即ち飯詰村より約一里半程の奥山から発掘された(中略)昨年七月飯詰村農和田元市父子の手によって発見されたのである。
○場所は飯詰村糠塚盛沢の甲地で、村から約一里半ばかりの奥山で、此所は昔から魔の神が居るといひ伝へられ、人の近寄らなかった地であるが、最近更正部落を構成するため鬱蒼たる樹木を伐りたおしたのである。ところが部落構成にはあまりに凹凸がある関係上、不適当として場所を換えたが、その伐採した樹木を木炭に製造するため七月一日和田氏は八拾俵焼の大々的改良炭釜を造ることになり其所を掘ったところ(中略)掘り出されたのである。
○その土地の概観は東北は山伝えであり、南は谷を隔てゝ山に連なり、西は低く山々を見下ろすという風景のよい所である。その周囲は二重の濠を廻らし、枯木も一、二本見えて、往昔何等かの建物があったらしく、その一帯が由緒ありげな地相である。かねて石器、土器に趣味を有する同人の長男喜八郎氏は土器類を採集すべく同月(※七月)廿九日彼方此方を試掘した(略)
糠塚川を遡る約二里の甲地(梵珠山の一角) 同前 『飯詰村史』福士貞蔵(昭和二六)176~177頁 ○糠塚川を遡ること約二里の甲地(梵珠山の一角)に、東西北に三方は山に囲まれ、南面は展けたる丘陵地帯で、東西北の三方には堀を廻らしたる一反歩位の平坦地がある。此所は大伽藍のあった所らしく、それより一段高い処は目を遮ぎる何物もなく、青森湾や日本海を眺め得べき景勝地で、加之彼方此方に小さな平坦地がボツボツ散点し、誰が見ても此所は多数の坊舎があった跡と、頷かれてならぬ地位である。東部には細流ながらも廿米位の瀧もあって、全く仙郷とはこんな土地を指したものであらうと、思はれる位の幽勝地である。果たせる哉、本年六月廿七日和田元市なる者が、八十俵焼の大々的改良釜を新造すべく中段の平地より少し下の階段らしき所に在る大きなヒバの朽株を掘ったら、入物は何へ入れたものやら腐蝕して判らんが、何物かへ納めたものと見え、五尺位の地下に青銅製の仏具は八ケの陶器に包まれギツスリ固まってあった。
飯詰より約二里程の奥山 同書189頁(hy注) ○今回端なくも唐国ならぬ津軽飯詰山に其の墳墓は発見された。即ち飯詰より約二里程の奥山から発掘された(後略)
記載なし 同前 「藩政前史梗概」開米智鎧(『飯詰村史』付録昭和二六)30頁 ○文明十二年(二一四〇)南朝天真名井宮が郎党とも十七名高楯城主五代の藤原藤光に頼らせられ「天下太平祈願」を中山に修せられた事は諸翁聞書に出て居るが、今回発掘の摩訶如来像は当時法要の本尊ではあるまいか、というのは、仏像と一処に掘り出された護摩器の中に鉄の金剛[木厥](ケツ)が大小四本ある、此は調伏の護摩法に限り使用せられる[木厥]で、恐らくは宮が北朝足利勢調伏の護摩法を修行して士気を鼓舞し、行丘出陣の際して待つボツせられたものと想像される、調伏の護摩は民間の修法にはあり得ないから。 発掘物の金剛は、『金光上人にも記載あり、役小角墳墓と金光上人関係資料が同一地点から発掘されたことを示す
飯詰本村から約一里ほど離れた(雨池から約2K)奥山 同前 『週刊民友』昭和27・8・14 ○古蹟は去る二十四年の夏(七月二十四日)飯詰村に住む二十五才の青年和田喜八郎君によって発見された。父元市氏と共に飯詰本村から約一里ほど離れた(雨池から約二K)奥山で、木炭を焼く炭焼釜をつくることになり、そこを掘ったところが、約五尺ぐらいのところで八箇の陶器に包まれたかっこうで青銅製の大小八体の仏像と沢山の仏具がぎっしり土のごとくかたまって掘り出された。
梵珠連山の一角 同前 『郷土史料異聞珍談』福士貞蔵(昭和三〇)23頁 ○昭和廿四年七月飯詰村炭焼和田元市父子が、梵珠連山の一角に於て発掘したる遺物中の木皮に、同所附近の図がえがかれ、その中に親母墓は東方に、小角墓は西方に、その中間の北方に「田道墓」と明記されている。
村より約二里ほどの奥山 同前 同書28頁 ○昭和廿四年七月飯詰村炭焼業和田元市父子が、村より二里ほどの奥山に於て発掘したる遺物中に、木皮?百廿五枚、銅板四十八枚あって、夫れに役小角の出生から遷化迄詳細に書かれている。
飯詰の山の石化洞窟 金光上人資料ほか修験宗に関する資料多数 『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人』佐藤堅瑞(昭和三五)132頁 ○昭和二十四年七月下旬、青森県五所川原市大字飯詰の一農夫和田氏が、炭を焼くために、飯詰の山(和田氏はある事情により場所を明確にせず)を掘りたるところ、石で閉れたる穴を発見し、(石化洞窟)その中に数々の仏像、経巻、その他数種の貴重なる品々を発見した。
梵珠山糠塚の沢の洞窟 同前 『金光上人』開米智鎧(昭和三九)岸信宏序文 ○金光上人の遺跡の一つである正中山梵場寺は或いは大中山梵寿寺といわれているが、その跡を今は梵珠山と呼んでいるとのことである。その山の洞窟の中から近年多くの古文書が発見せられたのである。それは修験道に関する文書が多いのであるが、その中に金光上人に関するものが含まれているのである。(中略)これらの古文書は五所川原市飯詰(いいづめ)の和田喜八郎氏が梵珠山の糠塚の沢というところで、炭焼の釜を掘っている内に洞窟をほりあて、その中より種々の古文書、陶器、銅器などを発見したとのことである。
古墳の洞窟 同前 同書本文196頁 ○本資料は、寛永十年(一六三五)、幕府のキリスタン対策により、修験宗は外教の要素を含むによって、其の制裁の強行なるを察して、同年五月六日、一切の証拠品によって、其の件を、古墳の洞窟に埋蔵したものを、昭和二十四年、七月一日、和田元市父子によって、偶然発見されたものであることを申し添えておきます。 「藩政前史梗概」の役小角の遺跡解説の一文に「古墳下の洞窟」とあるのと同一
飯詰山糠塚の興隆開拓団の入植地 同前 同書本文258~259頁 ○七月十二日、荒吐神の霊山石化嶽に於て、天真名井宮は、北朝を奉ずる朝敵を服滅する、護摩を修法の時、修験宗の大本尊、金剛不壊摩訶如来は、行方明らかならず、星光坊は大心痛して自殺しました。
行方不明の大本尊は、約四百七十年を経て、昭和二十四年七月一日、飯詰山糠塚の興隆開拓団入植地から、偶然発見されました。乃ち同団伐採の枝条炭焼夫、和田元市の筑釜内、地下約四尺の底から、青銅の護摩器約四五十個、青磁と白磁との香炉と茶碗と、天目の茶碗一個とに包まれて、他に何ら被覆物のない、所謂本尊物が発見されました。
そして、大小四本「他の二本は紛失」の、鉄の金剛が掘り出されたので、筆者は飯詰村史発行の際に、鉄の金剛 は、調伏の護摩を意味する。調伏の護摩は、南朝系「当地は北畠系」の、高貴の方の修法に、相違ないことをね指摘しておきましたが、此等資料の発見は、実にそれに端を発しております。
地点が同一であることを示す「藩政前史梗概」の記述とあわせて、役小角に関する資料と金光上人関係資料の発掘
梵珠山系魔神山麓、糠塚沢付近 同前 同書、藤本光幸「刊行にいたるまで」 ○たまたま昭和二十四年、五所川原市飯詰の和田喜八郎氏が梵珠山系魔神山麓、糠塚沢附近で炭焼釜を造築中、偶然にも洞窟を発見、その中を探索しました所、種々の仏具、護摩器等を見付けました。それらの中に太い竹筒を細い糸で幾重にも巻き、漆で塗りかためた経筒がありましたが、この経筒の中から今回発刊される事になった金光上人に関する新資料が多数の修験宗の資料と共に見出されたのであります。(この洞窟の岩の扉には享保年間の刻字とともに「不開」の文字が認められたと云う。)
以下、hyenaによる追加
飯詰山中 発掘の結果仏、神像をはじめ仏具経木を利用した古文書など

アララ、カマラ仙人、老子、聖天狗、ガンダラ仏、アシュク如来、ムトレマイヲス、法相菩薩、救 世観音像(いずれも同寺住職開米智鎧氏鑑定による)のほか経木に書いた祭文、原始宗教のうち山岳教(山伏し)の表徴で学説では架空の人物とされている『役 の小角』の一代記の他、造形文字の古文書仏舎利壺などで出土品はこのほかまだ相当ある
「東奥日報」昭和二九年二月十四日 (見出し)
 五年前、和田親子が発掘
 本邦には珍しい佛、神像など
 融雪まって一般に公開
 飯詰山中から古文化財出土
 北郡飯詰村大字飯詰、農和田元一さん(五五)同長男喜八郎さん(二六)親子は昭和二十四年七月同村東方の飯詰山中で炭焼窯を造ろうとして土中を掘り返し たところ相当大きい石室を発見、発掘の結果仏、神像をはじめ仏具経木を利用した古文書などが出土した。出土品は本邦の原始宗教につながりのある全く珍しい ものとされているが、同親子は出土品と場所を公開することを極端に拒否したためその真偽をめぐって関係者から興味を持たれていたが初の出土品の公開が十二 日午前十時から同村大泉寺で行われた。
 この公開には県教育庁文化財施設係員市川秀一氏らも立会いアララ、カマラ仙人、老子、聖天狗、ガンダラ仏、アシュク如来、ムトレマイヲス、法相菩薩、救 世観音像(いずれも同寺住職開米智鎧氏鑑定による)のほか経木に書いた祭文、原始宗教のうち山岳教(山伏し)の表徴で学説では架空の人物とされている『役の小角』の一代記の他、造形文字の古文書仏舎利壺などで出土品はこのほかまだ相当あるといわれるが公開されたもののうち摩訶如来像、ムトレマイヲス像は本 邦には全く珍しいものといわれている。
 しかし同鑑定は中央の専門家によるものではなく、その上同村附近で産出する俗称『アマ石』で約千四百年前に製作された像としては原型が完全過ぎること と、問題である『役の小角』の晩年は山岳宗教家の間では『唐』へ渡ったという説があるため飯詰山中にその仏舎利があるわけはないと疑問視しているという。
 このため県教育庁では同日公開された出土品を写真に収め文部省の文化財保護委員会に鑑定を依頼することになったが、一方和田親子もこの疑問を解くため今 春の雪融けと同寺に発掘場所を仏神教と考古学研究家に公開することになったので五年間とりざたされた同問題も一挙に解決することになった。
△和田喜八郎さん談 今まで公開しなかったのは出土品を政府に持って行かれては村としても困ると思ったからだ。出土品が本物だかどうかは発掘場所を見てもらえばはっきり解ると思う。今春その場所へ案内する。
△県教育課市川秀一氏談 開米住職の鑑定通りでは驚くほどのものだ。はっきり調査するため文化財保護委員会へ鑑定を依頼する。
古賀達也「和田家資料(出土物)公開の歴史」『古田史学会報1997年12月28日 No.23
石化洞窟 金光上人に関するもの 「浄土宗宗報」
昭和31年9月15日/開米智鎧
此の資料は、寛永十二年(一六三五)幕府の宗教政策に因り、中山修験宗(従来の修験道ではないが)弾圧に弾圧を加えられて同年五月六日所謂御沙汰書なるものが発せられた日に石化洞窟に埋蔵秘閉されたものを主として昭和二十四年七月下旬一農夫和田氏によって偶然発見されたものゝ中から金光上人に関するものを抜抄したもので、本文は漢字を以て和文を綴ったようなもので、複写には誤字があったり、難解の箇所もあるから訳文注釈も加えたが、徒に私蔵するにしのびず、貴紙を借りることにしたい。 hy注)用字は現代表記・現代仮名遣いに代えた。
飯詰の興隆開拓部落 本尊佛摩訶如来 「浄土宗宗報」
昭和32年4月15日付/開米智鎧
昭和二十四年七月一日、青森縣五所川原市大字飯詰の興隆開拓部落から異形の佛像が發見された。一農夫和田元市が、開拓森林のヒバ材の枝條で製炭中、地表約四尺の窯の底部から偶然掘り出したものである。
興隆開拓団入植地 行方不明の本尊仏 「青森民友新聞」
昭和32年4月21日「中山修験宗の文化物語(44)」/開米智鎧
行方不明の本尊仏は、約四百七十年を経て、昭和二十四年七月一日、飯詰山糠塚の、興隆開拓団入植地から、偶然発見された。乃ち同団伐採の、枝条炭焼夫、和田元市の築窯内、約四尺の底から、青銅の護摩器約四五十個、青磁と白磁との香炉と、茶碗一個とに包まれて、他に何等の被覆物のない、所謂本尊仏が、発見された。そして大小四本の、鉄の金銅ケツが堀り出されたので、筆写は飯詰村史、発行の際に、鉄の金剛ケツは、調伏の護摩を意味する。調伏の護摩は南朝系の、高貴の方の修法に、相違ないことを、指摘しておいたが、この文書発見は、正に之を裏書するものと、思われる。 開米智鎧『金光上人』258~259頁と同内容。

(2010/7/29 hy注)「同書189頁」とあるが、179頁の誤。ただし、この文の記載のある“179頁”には「189頁」というページ表記が実際に誤植されている。
(2010/11/14 hy注) 古賀達也氏は「和田家資料(出土物)公開の歴史」の中で次のように書いている。

本年五月、和田家文書調査のおり、弘前図書館にて東奥日報を閲覧した。その時、昭和二九年二月十四日付の記事に、和田家が和田家文書に基づいて発掘した文化財公開のことが記されていた。昭和二十年代既に和田家が文化財を大量に収蔵していた事実を証明する記事だが、このことはとりもなおさず、和田家文書が偽作ではなく、安倍安東一族の伝承と秋田孝季らによる調査を記した貴重な文献であることを裏づける。 このように昭和二十年代には、客観的な取材記事を掲載していた東奥日報であったが、現在では偽作論者を支援する斉藤光政記者により、完全に偽作キャ ンペーン紙へと変質していると言わざるを得ない。以下、貴重な資料として、同記事を紹介する。なお、紙面には遺物と若き日の和田喜八郎氏の写真も掲載され ている。
「東奥日報」の記事ははっきりと「発掘」と書いている。しかも古賀氏の言う「和田家が和田家文書に基づいて発掘した」などという事は全く書かれていない。曲解を通り越して捏造的解釈と言えよう。江戸時代から和田家に大量の文書が伝承されてきて、それが昭和22年頃、天井から落下したなどという事を伺わせる記述は、当時の記録に皆無である。自分の書いた文が“天井よりの落下説”と齟齬を来していることに気がつかないのであろうか?