古田武彦の「博多湾岸」とは

『「邪馬台国」はなかった』以下の著作に見える「博多湾岸」などの表現

記述(主に文献により三世紀女王国の位置比定した表現を取り上げた。考古学や4世紀以降に関して類似の表現を用いた箇所もあるが、一応除外しておく。傍点などは省いた。
『「邪馬台国」はなかった』 昭和46年11月15日/朝日新聞社
272 そこ「不弥国」の南、「最終行程0」の地点に存在する「邪馬壹国」。その地は、必然に、現在の福岡市域を中心とし、博多湾を前にした平野部とその周辺丘陵部の一帯であった。
274 一九七〇年十二月、わたしは福岡市の西南の地、福岡大学において「邪馬壹国の所在地について」という研究発表をおこなった(西日本史学会、九州史学会の大会)。そのとき、わたしは「ここが邪馬壹国です」という言葉をもって、結びとした。これは、この博多湾にのぞむ平野と周辺丘陵部が、卑弥呼の国の中心領域であることをさしていたのである。
281 すなわち、博多湾沿岸は「邪馬壹国」であり、「奴国」は糸島半島平野部に存在した可能性が高い。
288 とすれば、それらの地域と質的・時代的等質性を共有する地域である「博多湾にのぞむ平野と周辺丘陵地帯」の中に、三世紀の「邪馬壹国」が存在した、ということは、きわめて“妥当性のある帰結”なのである。
289 ただ、“自分たちの先入観に衝突するから”という理由のほかに、「邪馬壹国」を博多湾にのぞむ平野とその周辺部に対して、拒否する道は存在しないのである。
291 したがって、今後わかしたちは、「三〇メートル前後」の規模の「冢」を博多湾にのぞむ平野とその周辺丘陵部の一帯の中に求めねばならぬこととなろう。
298 さて、このような視野から、博多湾にのぞむ平野に存在した卑弥呼の国を考えるとき、考古学上まず注目されるのは、先にものべた「須玖遺跡」であろう。
299 三世紀をふくむ、博多湾に樹立されていた古代王権の中心地域としての「邪馬壹国」。−その墓域の一端が、今わたしたちの知っている須玖遺跡であることは確実であると思われるのである。
311 しかし、今や状況は一転した。問題の原点である博多湾沿岸こそ、「七万」の「邪馬壹国」と「二万」の「奴国」が東西にほぼ相接した地域であることが判明したからである。
339 「邪馬壹国」の存在領域を、現在の博多湾にのぞむ平野と周辺丘陵地帯に測定することができた。
386 つまり、九州博多の卑弥呼の国の倭人たちと同一の種族である、と魏使には認識できたのである。
392 わたしは、この本において、あらかじめ女王国を博多湾沿岸へもってゆこうと、いわば“目見当”をつけておいてから、論証をはじめたのでは、けっしたなかった。逆に、「論証が、いやおうなく、わたしを博多湾沿岸に導いた」それだけなのである。
403 なぜなら、わたしたちは、邪馬壹国を強引に博多湾の沿岸へと、もってゆこうとしたのではなかった。一定の方法論を、一貫した原則としてつらぬきとおし、その率直な帰結を手ににぎっただけだ。いわば、わたしたちは論理の女神の導くところへ導かれたにすぎないのである。
『失われた九州王朝』 昭和48年8月8日/朝日新聞社
はじめに わたしの古代史探究の旅は、『三国志』からはじまった。その中の魏志倭人伝に書かれている「邪馬壹(やまい)」国」。卑弥呼の君臨したこの女王国は、九州北岸の博多湾頭にのぞんで存在していた。(わたしの前の本『「邪馬台国」はなかった』参照−朝日新聞社、昭和四十六年刊)
10 つまり、私の前の本『「邪馬台国」はなかった』の結論、「邪馬壹国=博多湾岸」説をみずから否定することになりではないか、と。
12 これに対して、わたしの立場は異る。なぜなら、すでに前の本において“卑弥呼の国は九州博多湾岸に存在した王朝”であるという結論に達した。いかなる先入観念にも依存せず、『三国志』魏志倭人伝そのものに対するもっとも正確な史料批判による限り、どうしてもそのような帰結に到達するほかない。
17 しかしながら、今やこの「聖域」にも、史料批判の矢は向けられた。その結果、この博多湾岸こそ、女王の居城する「邪馬壹国」の中心領域であることが判明し、「奴国=博多」説は拒否されることとなった。では、古き「奴国=博多」説と新しき「邪馬壹国=博多」説の当否を、同時代史料において決定するものは何か。それは、博多湾頭、志賀島出土の金印である。
40 帰結 さまざまの方向からの論証をすすめてきた。しかし、その到達点はただ一つだ。“志賀島の金印は「漢の委奴(2文字傍点)の国王と読む。そして、光武帝から「委奴国」と呼ばれたのは、のちに魏・晋朝から「邪馬壹国」と呼ばれた国だ。それは博多湾岸に都する九州の王者であった”と。どの視点からの論証も、みな一致してこの同一命題を指している。そして、他のいかなる解釈をも拒否しているのだ。
41 四、「委奴」は倭人部族全体という意味をあらわした名称だ。それは、博多湾岸に存在した倭国の中心王朝に対して光武帝から与えられた国号である。そして、その直接の後身が、三世紀の卑弥呼の王朝となっている。
42 そのような旧説、旧々説の苦心に対し、今わたしが自然な解読に到達できたのは、ほかでもない。「邪馬壹国=博多湾岸−倭国の中心」という視点に立っていたからにすぎない。
69 これは、前の本で述べた、博多湾岸という邪馬壹国の地理的位置にピッタリ適合する。中国・朝鮮側より末盧国を経て倭国の都(福岡市周辺)に到ろうとするとき、その都の前面(都からは西側)に当る地が伊都国である。ここは、一大率の存する要塞の地、中国側の郡使が一旦ここに車馬を駐める(以上6文字に傍点)べき地なのであった。
455 その倭国の地(都)が新羅の対岸に当る博多湾岸であってこそ、もっとも真実性(リアリティ)があろう。
555-556 前の本で、邪馬壹国の中心の都城のありかを求めて博多湾岸にいたった。西は室見川流域より東は那珂川、御笠川の流域まで。現在の福岡市、春日市の両市域(大宰府町をふくむ)を中心とする地帯であった。しかし、この場合、わたしが求めたのは、あくまで“卑弥呼の都城のありか”であった。つまり邪馬壹国の中心地(hy注:以上3文字に傍点)は、『三国志』魏志倭人伝の行路記事に従うかぎり、この地域内だ、というのである。けれども、「邪馬壹国の外延(hy注:以上2文字に傍点)(ひろがり)」を求めるときは、問題は異なる。なぜなら、倭人伝の行路記事は、「女王の都城」に到着することを求める、その地点でストップしている。そのあとの“邪馬壹国の領域の南辺や東辺”については、叙述の興味をもたないのである。(北は不弥国と博多湾、西は伊都国、奴国であるから、判明している。)
『盗まれた神話 記・紀の秘密』昭和50年2月5日第1刷発行/朝日新聞社
3 “原文の文字を一字一句みだりに改変せず、『三国志』全体の表記のルールに従って倭人伝を読む”−このルールに従って、従来の「邪馬台国」への改変を非とし、わたしは博多湾岸なる卑弥呼の国「邪馬壹国」へと導かれたのである。(『「邪馬台国」はなかった』昭和四十六年刊)
99 ここで対照されるのは、『三国志』魏志倭人伝だ。わたしはその分析によって、卑弥呼の国、邪馬壱国が博多湾岸とその周辺に存在したことを知った。この博多湾岸とその周辺とは、御笠川の流域(須玖遺跡、太宰府)および基山および朝倉付近をふくんでいる。〈中略〉(二)代々、博多湾岸なる女王国に「統属」してきている、として、両国の特殊関係を表記していること。
206 けれども実は、わたしはかつて一度原田さんのお宅をおたずねしたことがあった。『「邪馬台国」はなかった』の出る直前のことだった。そのとき、はじめの二時間半くらいは、機嫌よく滔滔と自説をのべておられた原田さんだったが、“さて、あなたのお考えは?”と聞かれて、“実は、わたしは博多湾岸を女王国の中心と考えており、この糸島郡が伊都国と奴国に当り・・・、”と言いはじめた途端、突如として“帰れ!帰れ!”と叫び出されたのであった。野人たる氏の面目躍如たる場面であった。
『邪馬壹国の論理』昭和50年10月30日第1刷発行/朝日新聞社
50 ここから私の論文「邪馬壹国」(『史学雑誌』78-9、昭和四十六年、以下「前著」と呼ぶ)が生まれた。そこでは、三世紀の卑弥呼の国に関するかぎり、「邪馬壹国」であって「邪馬臺国」ではない、という根本に立ち、その女王国の所在が追求された。−九州博多湾岸だった。
205 わたしは前掲書において、邪馬壹国の所在地をもって、“博多湾に臨む平野部とその周辺山地”として指定した。この解読結果は、伊都国をもってまさに“隣接した近傍の地”とする点、この字面の意義ともよく適合しているのである。
275 一世紀中葉に「倭人百余国」を代表して金印を授与された「委奴国王」。彼の後継者は百五十年のあと、三世紀にはどうなっていただろうか。消え去ったか?否。移転したか?否・同じ博多湾岸とその周辺を首都圏とし、著名な女王を「共立」していた。その名が卑弥呼。そしてその首都は「邪馬壹国」と呼ばれたのである。今はさらにその最中心部を指定することができる。それは「須玖遺跡−太宰府−基山−朝倉」の線だ。つまり、もとの筑紫郡・朝倉郡を中心とする地帯である。そして首都圏を挟む二つの重要地域がある。東は香椎宮から宗像神社に至る領域。西は糸島郡。この両者とも、“博多湾岸の首都圏にとっての「聖域」”だった。
『日本古代史の謎』所収「「邪馬台国」はなかった=その後=」昭和50年3月25日/朝日新聞社
20 以上四つの解読を会わせて読むと、邪馬壹国は、基山、朝倉郡を含む博多湾岸及び周辺山地ということになる。
29 まず、考古学的な問題に少しだけ触れておきます。時間の関係で簡単にしか言えないが、私の主張する博多湾岸とその周辺説は遺跡の面からも言えるのか、ということです。
33 次は、博多湾岸及びその周辺山地というばく然たる表現をもっと突きつめるとどうなるかという問題です。
35 そう考えれば、不弥国の真南の都地とバカ正直に考える必要はないので、要するに博多湾を主体とした領域の中のいずれかのところに中心があったということになってくる。都地にもあるいは離宮ぐらいはあったかもしれないし、須玖、その北の高宮、南へ行って白木原、太宰府近辺の都府楼跡、塔原、基山、基山町、朝倉郡に至る、筑紫と呼ばれる、その原点をなしたこの地域が、卑弥呼の国の中心地である。
『古代史の宝庫』所収「邪馬壹国の諸問題」昭和52年12月20日/朝日新聞社(古田論文は昭和51年10月1日講演)
92 私は“邪馬壹国は博多湾岸を中心とする領域である”と主張したわけですけれども、これについての反論はあまりにも少なかったようです。
93 そうすると、一万二千里といっても、赤道の向こうまで行く必要はないわけで、九州の博多湾岸で全然おかしくないということになってきました。
『続・邪馬台国のすべて』所収「邪馬台国論争は終わった」昭和52年4月30日/朝日新聞社(昭和52年1月4日、NHKスタジオ102で発表)
45 つまり考古学を途中でちょっと引っ張ってきて使うと、我田引水になる可能性がある。だから考古学はどうであろうと、全部横に置いて、ひたすら文献だけから解読したんです。倭人伝は『三国志』の一部だから、倭人伝に何か問題が起こったら、すぐ『三国志』全体という字書を引いて、その字書の全項目から帰納すると、答えはこうなる、というやり方を徹底して読む。その読んだ結果が、こちらの先入観や従来の学説に都合がよかろうと悪かろうと知ったことではない。とにかく『三国志』全体の表記を全部あげて、そのルールに従えばこう読むよりしようがない。その結果、邪馬壹国がどこになろうとしようがない。私も博多湾岸と周辺山地だということになったときは、だいぶびっくりしたんです。しかしいくらびっくりしたって、こうなるんだから、私が“手直し”することはできない、ということから、「博多湾岸と周辺山地の邪馬壹国」という結論になったのです。この場合、考古学的な出土遺物の間題は導入しなかったんです。最後にちょっと書いてありますけれども、それはいわば“いいわけ”みたいに書いてあるだけで、解読そのものにはぜんぜん導入しなかった。こんどはそういう文献のほうは問題にせずに、出土遺物だけで結論を出したのです。ところが両者まったく同じ結論になった、というわけです。私の素朴な理解では、ぜんぜん別種の方法で同じ答えが出た場合は、それが真実と認められる。こういうことですから、やはり答えははっきり出ている、と考えていいだろうと思いました。そこで、非常に刺激的な題ですが、「邪馬台国論争は終わった」という題をつけたんです。
68-69 わたし以前に卑弥呼のいた女王国の中心が博多湾岸だという説はなかった、と思います。
『邪馬一国への道標』1978年5月8日/講談社
136 すなわち、倭人の中心的な密集地は「洲」にあるのです。この点も、博多湾岸にはズバリ当りますが、近畿大和には不適切な表現です。
192 そのさい、半周読法は、不可欠のキイ。そのキイでギイッと鍵のまわった瞬間、謎のドアが開いて、その向こうには、博多湾岸の全景が「女王の都」の美しい姿をわたしに見せていたのです。
253 けれども今、わたしにとって邪馬一国のありかは、確定しました。博多湾岸を中心としてその周辺です。
255 博多湾岸の都の中心域(博多駅−太宰府)から見ての“西の拠点”を意味する言葉となります。
259 この伊都国(糸島水道付近)の地から山(高祖山)一つ越えたところ、その博多湾岸こそ女王の都であることを。
『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』昭和54年6月10日/朝日新聞社
はじめに そして今、わたしは邪馬一国という名の卑弥呼の都城が博多湾岸に存在したこと、また前二〜七世紀の間、筑紫を中心とする九州王朝が存在したこと、その物証をここに提示することができた。
9 以上の問題は、とりもなおさず、「里程最終地たる不弥国(博多湾岸)が邪馬一国の玄関」という帰結、すなわちわたしの博多湾岸首都説を指示することになろう。なぜなら、
@不弥国までの行程(里程)しか記されていない。したがってここが長行程の最終地である。
A魏使はまぎれもなく邪馬一国に至った。
この二命題の唯一の結節点は、「邪馬一国は博多湾岸にあり」との帰結以外にないからである。
329 わたしは、かつて『「邪馬台国」はなかった』を世に問う前夜、当時九州大学の教授だった鏡山氏のお宅を訪れた。そして率直にわたしが「邪馬一国、博多湾岸説」に到達した、文献批判上の経緯をのべた。
『邪馬一国の証明』昭和55年10月20日/角川文庫
40 これに対し、わたしの博多湾岸首都説の場合。
178 このようにして「女王国は博多湾岸にある」という命題がえられた。この命題は考古学的出土品からの検証にもピッタリ一致する。
196 「沈黙」をつづける諸大家・専門家たち、たとえば九州説の榎一雄・井上光貞、近畿説の直木孝次郎れ上田正昭等の諸氏が、これを範とし、敢然とわたしの邪馬一国博多湾岸説に対する撃破の論を展開されんこと、それを日夜待つ。
『多元的古代の成立−[上] 邪馬壹国の方法』昭和58年3月25日/駸々堂出版
18 すなわち博多湾岸邪馬壹国説がその帰結であった。(20)→p43 古田『「邪馬台国」はなかった』参照。
『吉野ヶ里の秘密 解読された「倭人伝」の世界』1989年6月30日/カッパブックス
212 博多湾岸とその周辺」。−−−『「邪馬台国」はなかった』で、わたしはそう書いた。(朝日新聞社、角川文庫)
「筑前中域」。−−−『古代は輝いていた』第一巻「風土記にいた卑弥呼」(朝日文庫)で、わたしはそう書いた。“糸島・博多湾岸から朝倉まで”を指す言葉だった。
213 これに対して、わたしの解説。博多湾岸と周辺丘陵部が邪馬壹国の中心部。その中の中枢地として、一に室見川流域、二に那珂川と御笠川流域をあげた。(『「邪馬台国」はなかった』)
当時は、わたしに考古学的知識は皆無。ただ倭人伝の論理的分析、それだけだった。
217 わたしの解読の鍵(キイ)をなす、この一句が誕生した。邪馬壱国は、博多湾岸とその周辺を中心とする国家だったのである。