裴清の道行き文
「裴清の道行き文」
「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」トピック#29997
『隋書イ妥国伝』
【明年,上遣文林郎裴清使於倭國.度百濟,行至竹島,南望[身冉]羅國,經都斯麻國,迥在大海中.又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也.又經十餘國,達於海岸.自竹斯國以東,皆附庸於倭.倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎.後十日,又遣大禮哥多[田比],從二百餘騎郊勞.既至彼都】(台湾中央研究院
漢籍電子文獻より。一部表示できない文字は川村氏の表記法に従った)
上記文はいわゆる「裴清の道行き文」と称されるものである。この「裴清の道行き文」が、漢籍に多く見られる行程記事の類と性格を異にすることはこの文を理解する上でまず重要なポイントとなる。すなわち「いつ」「だれが」「なんのために」辿った道行きなのか?ということである。
「いつ」は、「大業三年の明年」で「大業四年=推古十六年=608年」。
「誰が」は、「裴清」である。
「何のために」は、煬帝の命を受けて、倭王多利思比孤に会うためである。
上記「道行き文の冒頭」【明年,上遣文林郎裴清使於倭國】に「いつ」「誰が」「何のために」が記されている。さて、続いて以下の「道行き」の文について見てゆく。
いきなり「度百濟」とある。「百済をわたり」(石原道博氏の訳)、「百済にわたり」(井上秀雄氏の訳)と読むが、この「度」の主語は何であろうか?いうまでもなく「裴清」である。
われわれは、ついつい順次記される国名などに目を奪われ、裴清の辿った道を読み解こうとするが、それでは「筑紫国以東十余国」の解釈で難渋することになる。先学や川村氏の解釈とはすこし見方を変えてこの道行き文を読んでみたい。
といっても、何も難しいことはない。「度百濟」の主語が「裴清」であるとするならば、以下主語の省かれている文の主語は何なのか、考えてみる。長くなるので、頁を改める。
「裴清の道行き文」2
「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」トピック#30004
では、主語の省かれている文を並べてみる。( )で括ったものは主語の示されている文である。
a.度百濟
b.行至竹島
c.南望[身冉]羅國
d.經都斯麻國
e.迥在大海中
f.又東至一支國
g.又至竹斯國
h.又東至秦王國
i.(其人同於華夏)
j.以為夷洲
k.疑不能明也
l.又經十餘國
m.達於海岸
n.(自竹斯國以東,皆附庸於倭)
o.(倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎)
p.(後十日,又遣大禮哥多[田比],從二百餘騎郊勞)
q.既至彼都
このうちpは、oの「倭王遣」に続いて「又遣」とあるから主語は「倭王」である。あとやや判断に迷うのは、eの「迥在大海中」だろう。「石原訳」では「迥在」は、裴清の目的地である「倭国」であるかのような訳である。また「井上訳」では「都斯麻国」のことだと訳す。文章の流れから見て「石原訳」のほうが文意の通りがよいように見える。
が、私はこれも「裴清」を主語として読めるのではないかと思う。以前「サイバー氏」が「九州王朝トピ」でそのように書かれていたが、この点は意見を同じくするといえるだろう。
そうすると、aからqまでの文のうち、主語の示されていないものは「裴清」を主語として解釈しうる。それはこの文の書かれた意味から当然のことである。
【明年,上遣文林郎裴清使於倭國】にはじまり、次に「度百濟」と続く。ならば以下の主語は「裴清」であって当然である。
すなわち、「又經十餘國」の「經」たのは「裴清」であり、「達於海岸」の「達」したのも「裴清」である。そして、この道行きの結びが「既至彼都」で、この「既至」の主語も「裴清」であることに異論はないだろう。
川村氏の論述の中にも見えるように「自竹斯國以東,皆附庸於倭」というのは、「裴清の経てきた竹斯国以東の十余国」のことであることは確かである。つまり「自竹斯國以東,皆附庸於倭」は、その前の「又經十餘國」のことを説明しているわけであるから、文章は「達於海岸」から「倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎」へと続けて解釈すべきである。
すなわち、「来迎」を受けた場所は「海岸」であり、これは一行が海路を経て上陸したことを示している。
陸路を経て「達於海岸」ならば、倭王の都は「海の中」か「海の向こう」ということになるが、そういう理解は困難である。
よって、かの「裴清の道行き文」を「九州王朝」の都へ至るものであると解釈することは難しいと言わざるをえない。もちろん「畿内へ至った記事」と読むに、何らの不都合もなく、「推古紀」や「丈六光背」の記事と合わせて、裴清の目的地が「畿内」であることは当然の結論である。また、裴清の来倭の目的が「倭王多利思比孤に会うため」である以上、「多利思比孤の都」は「畿内」であり、『隋書』「裴清の道行き文」から解釈するに「九州王朝説」は成立しえないと言いうる。
「ついでに、 」
関連書き込み「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」トピック#4298
古田氏が自身の「九州王朝説」をご自分で「否定」なさっているケースをひとつ・・・。
先にも挙げました「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編「邪馬臺国の常識」所収162頁)で、「太平御覧所引魏志」の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがう文章に書き改められている・・・」。すなわち、「投馬国」「邪馬壹国」への行程が「又」でつないであることが「見まちがうことがない」と言われる。
さて、それでは「隋書」の「裴清の道行き文」。
又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国・・・
ありゃりゃ?こりゃ「なんの見まちがうこともなく」「竹斯国」は単なる「通過国」に過ぎませんね!
めでたし、めでたし・・・。「九州王朝説」の張本人が、自分でそれを否定されているのですから、もう何と言っていいやら・・・。
※hy注:「もう何の見まちがう文章に書き改められている・・・」は引用ミスで、正しくは「もう何の見まちがうこともない文章に書き改められている・・・」。
参考サイト、川村 明氏「九州王朝説批判」 「第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった」