重印宋蜀本太平御覧序

上海涵芬樓影印中華學藝社借照日本帝室圖書寮亰都東福寺東亰岩崎氏靜嘉堂文庫蔵宋刊本

〈原文〉

  太平御覧爲宋四大書之一,其他三者爲太平廣記,文苑英華與册府元龜;太平御覧又爲宋三大類書之一,其他二者爲册府元龜與山堂考索。除太平廣記属子部小説家,文苑英華屬集部總集外,其屬於類書之三種中,兩種爲帝王勅撰,厪山堂考索爲章俊卿私人之作。
  在勅撰之兩部類書中,太平御覧始於太宗之太平興國二年(公元九七七)三月,詔儒臣従事編纂,自經史子集以及百家之言,博觀約取。書成於太平興國八年十二月,賜名太平御覧。其規模之鉅,雖略遜於眞宗勅撰之册府元龜,實遠勝於唐代之北堂書鈔與藝文類聚,故在類書中堪稱空前。
  太平御覧受命編纂諸臣,爲翰林學土李防,扈蒙,知制誥李穆等十七人,皆一時之選。全書千巻,分五十五部,四千五百五十八類。各部詳略不一。以類數言,最詳者爲職官部,占四百十四類;次爲四裔部,占三百九十類;又次爲皇親部,人事部,皇王部,鱗介部,薬部,分別占二五七類,二三四類,二二三類,二〇七類及二〇三類。以巻數言,最多者爲人事部,占一百四十一巻;次爲兵部,占九十巻;又次爲職官部,占六十七巻。其他占四十巻以上者有皇王部,禮儀部,地部。
  御覧引書多至一千六百九十件,外有古律詩,古賦、銘箴、雜書等類,不具録。以今考之,失傳者十之七八。失傳諸書,由於因襲唐代諸類書,仍其前引書,非必宋初盡存者。然藉御覧而保存今已失傳之古籍,實不在少敷。古代類書之可貴,殆以此爲最。又其保存古訓,可藉以訂正宋以後經史刊本之譌,亦有足多者。舉例言之,毛詩東門之栗「有踐家室」;踐,作靖,靖,善也,言有善可與成家室。尚書「敬授人時」;人,作民,與日本足利學本合。又如禮記「夫婦斎戒沐浴,盛服奉承而進之」,多「盛服」二字;「以致天下之和,以達天下之理」,多「以達」二字,故可補今本禮記之闕。孟子「不方十里,不方百里」;多兩「方」字,亦可補今本之闕。至所引諸史,足爲今本訂誤者亦多,不具述。
  以版本言,御覧告成之後,殆歴太宗眞宗二朝,至仁宗朝始付剞劂。清陸心源氏曾藏有北宋刻御覧殘本。觀其中避諱闕筆,可推定爲仁宗時刊本,堪稱北宋官刊之母本。茲略舉宋以來諸刻本如次・・・

一、北宋刊本,明代已不全,清乾嘉間流出人間者,僅三百餘巻,約占全書三分之一。
二、南宋閩刊本,何年刊行及現時是否存有殘帙,皆不得而知。
三、南宋蜀刊本,寧宗慶元五年,蒲叔獻爲成都府路轉運判官兼提舉學事,於是年七月取御覧刊於治所。是本海内已無存,海外惟日本尚藏有殘本二部,分別爲宮内省圖書寮及京都東福寺所有。
四,明倪炳校刻本,海内惟國立北平圖書館藏有一部
五、明活字本,國立北平圖書館亦藏有一部。
六,清汪昌序活字本,嘉慶十一年,揚州汪氏用活字校印。
七、清張海鵬刻本,合宋刻殘本,及諸家舊鈔本校刻
八、清鮑崇城刻本,嘉慶二十三年,歙縣鮑氏據明倪炳刻本及明活字本,並参酌鈔本校刊。
九、廣東重刊鮑氏本,光緒十八年南海李氏學海堂就鮑刻重刊。
十、石印本,光緒二十年,上海積山書局印。
十一、日本倣宋聚珍本,日本安政二年(清咸豐五年),就明人影宋鈔本以聚珍版印行。

  本書,通稱四部叢刊三編本,係借自日本帝室圖書寮及京都東福寺藏南京蜀刊本。民國十七年本館前輩張菊生(元濟)先生赴日本訪書,先在岩崎氏靜嘉堂得見陸心源舊藏北宋殘本三百六十餘巻,嗣復於帝室圖書寮京都東福寺獲見宋蜀刊本,雖各有残佚,然視陸氏舊藏爲贏,因乞便影印。凡得目録十五巻,正書九百四十五巻,又於静嘉堂文庫補巻第四十二至六十一,第一百十七至一百二十五;此二十巻均半葉十三行,同於蜀刻。自餘尚闕二十餘巻,及殘棄,則用喜多村直寛之聚珍本補宋刻,遂成全璧,具詳張先生對本書之後跋。
  総之,在上述十數種御覧版本中,宋刊已爲希世之珍;明刊、張海鵬刊與汪氏活字本皆不易得;其較通行者爲鮑刻、重刊鮑刻、石印及聚珍四種。石印者字體過小,訛誤亦多;聚珍多據鮑刻,而鮑刻與重刊鮑刻,譌脱不少,皆非善本。本書據宋蜀刊本影印爲主,少數補綴,亦皆據善本精校,實爲現今通行本之最佳者,已有定評。
  余近年重主商務印書館,先後編印鉅籍多種。其在舊籍方面,以版本見長者,如四部叢刊初編、續編,及百衲本二十四史等;以捜羅廣博著稱者,如叢書集成簡編等;以参考便利爲主者,如佩文韻府,嘉慶重修一統志等。本書以版本言,實與四部叢刊等齊觀,而以效用言,則又有参考便利之必要;因仿佩文韻府例,以二頁爲一面,擴大版式爲十六開,由原書一百三十六册,精装爲七鉅册。又因原書目録,至爲詳盡,所有五十五部,千六百餘類,皆列載於目録之中,一一注明巻數,檢査上尚無[ロ/力]編索引之必要;此與佩文韻府,在目録上僅列韻目,而内容所含詞藻多至五十萬者,大異其趣,未編索引,即以此故。
  中華民國五十六年十一月五日王雲五識

〈現代語訳〉

  『太平御覧』は宋代の四大書の一つである。その他の三者は『太平廣記』『文苑英華』と『册府元龜』である。『太平御覧』はまた、宋代三大類書の一つであり、その他の二つは『册府元龜』と『山堂考索』である。『太平廣記』が子部小説家に属し,『文苑英華』が集部總集に屬するのを除いた外で、類書に屬するその三種中、二種は帝王の勅撰であり、わずかに『山堂考索』が章俊卿という私人の作である。
  勅撰である二部の類書中に在って、『太平御覧』は始め太宗の太平興國二年(紀元九七七)三月、儒臣に詔して編纂に従事させ、經史子集(四部の分類)から百家の言までを、博(ひろ)く觀(み)て(要)約して取りいれた。書は太平興國八年十二月に成立し、『太平御覧』の名を賜った。その規模の鉅(大)きいことでは、眞宗の勅撰になる『册府元龜』に略(ほぼ)遜(およ)ばないと謂っても、實に唐代の『北堂書鈔』と『藝文類聚』には遠(はるか)に勝っており、故に類書中に在って空前と稱するに堪えるものである。
  命を受けて『太平御覧』の編纂にあたった諸臣は、翰林學土である李昉、扈蒙、知制誥である李穆等十七人で、皆一時的に選ばれたものである。全書で千巻。五十五部、四千五百五十八類に分かつ。各部において詳略(詳しいことや簡略なこと)は均しくない。類數を以て言えば、最も詳しいのは「職官部」で、四百十四類を占める。次が「四裔部」で、三百九十類を占める。また次が「皇親部」、「人事部」、「皇王部」、「鱗介部」、「薬部」で、分別して二五七類、二三四類、二二三類、二〇七類、及び二〇三類を占める。巻數を以て言えば、最も多いものは、「人事部」で、一百四十一巻を占める。次が「兵部」で、九十巻を占める。また次が「職官部」で、六十七巻を占める。その他、四十巻以上を占めるものには、「皇王部」、「禮儀部」、「地部」が有る。
  『御覧』の引書は多く、一千六百九十件にも至ぶ。外に古律詩、古賦、銘箴、雜書等の類(たぐい)や不具録などが有る。今、これを考ると、失傳したものは十のうち七八。失傳した諸書は、拠ったところの因襲した唐代の諸類書と、またその前の引書で、必ずや宋初に盡く存しているというわけではない。しかるに、『御覧』は今已に失傳した古籍を保存し,實に無いものは少敷である。古代類書の貴(たっと)ぶべきところは、殆どこれを以て最上とする。またそれは古訓を保存し、それによって宋以後の經史刊本の譌を訂正できるものは、また十分に多く有る。例を舉げて言えば、『毛詩』「東門之栗」で「有踐家室」の踐を靖に作る。靖は善である。「善可與成家室」という言葉が有る。『尚書』で「敬授人時」の人を民に作り、日本の足利學校本と合う。また『禮記』の「夫婦斎戒沐浴,盛服奉承而進之」では「盛服」の二字が多にように。「以致天下之和,以達天下之理」では「以達」二字が多いように。故に今の本『禮記』の闕文を補うことができる。『孟子』の「不方十里,不方百里」では二つの「方」字が多く、また今の本の闕文を補うことができる。至る所で諸史を引き、今の本の誤をまた多く訂(ただ)すことができるが、具(つぶさ)には述べない。
  版本について言えば、『御覧』告成の後、殆んど太宗眞宗の二朝を歴、仁宗朝に至って始めて剞劂(きけつ=版木に彫る)に付された。清の陸心源氏は曾(かつ)て北宋代刊刻の『御覧』殘本を藏有していた。その中の避諱闕筆を觀ると、仁宗時の刊本であると推定でき、北宋代に官刊された母本であると稱するに堪(た)える。ここで、概略して宋以來の諸刊本を舉げると次のようになる。

一、北宋刊本:明代は已に全(そろ)わず、清の乾嘉間に世間に流布していたのは、僅かに三百餘巻で、全体の約三分の一を占めるのみである。
二、南宋閩刊本:何年の刊行で現在この殘帙があるかどうか、皆知ることができない。
三、南宋蜀刊本:寧宗の慶元五年、蒲叔獻をして都府路轉運判官兼提舉學事と成し、この年七月に治所に於いて『御覧』を取って刊行した。この本は國内には已に無いが、海外ではただ日本だけが殘本二部を尚藏有していて、宮内省圖書寮と京都東福寺とに分かれての所有となっている。
四、明倪炳校刻本:國内ではただ國立北平圖書館に藏有する一部。
五、明活字本:國立北平圖書館がまた藏有する一部。
六、清汪昌序活字本:嘉慶十一年、揚州の汪氏が活字を用いて校印したもの。
七、清張海鵬刻本:宋刻の殘本と諸家の舊鈔本とを合わせて校刻したもの。
八、清鮑崇城刻本:嘉慶二十三年、歙縣鮑氏が明の倪炳刻本と明の活字本、並びに参酌した鈔本に據って校刊したもの。
九、廣東重刊鮑氏本:光緒十八年、南海の李氏學海堂が鮑刻に就(よ)って重刊したもの。
十、石印本:光緒二十年、上海の積山書局印行したもの。
十一、日本倣宋聚珍本:日本安政二年(清の咸豐五年)、明人が写影した宋鈔本に就(よ)り、聚珍版として印行したもの。

  本書、すなわち通稱『四部叢刊三編本』は,日本の帝室圖書寮と京都東福寺藏の南京蜀刊本から係借している。民國十七年(1928)、本(商務印書)館の先達である張菊生(元濟)先生が日本へ赴き書を訪ね、先に岩崎氏靜嘉堂に行き、陸心源が舊藏していた北宋殘本三百六十餘巻を見ることができた。嗣(つ)いでまた帝室圖書寮と京都東福寺に於いて宋蜀刊本を見ることができた。各(おのおの)残佚が有るとは謂っても、しかし陸氏舊藏と視(くら)べて贏(まさ)っていて、乞(ねが)って影印した。凡そ目録十五巻、正書九百四十五巻、また静嘉堂文庫に於ては補巻として第四十二から六十、第一百十七から一百二十五(この二十巻は均しく半葉十三行で、蜀刻と同じ)を得た。それでも尚闕(欠)ける二十餘巻、及び殘棄については、喜多村直寛(1804-76)の聚珍本を用いて宋刻を補い、遂に全璧と成ったことは、本書の後跋として張先生が詳(つまびらか)にしているところである。
  総じて、上述十數種の『御覧』版本中、宋刊は已に「希世の珍」と爲っている。明刊、張海鵬刊と汪氏活字本は皆たやすくは得られない。それを、通行している鮑刻、重刊鮑刻、石印それに聚珍四種と較べてみる。石印は字體が小さ過ぎ、訛誤がまた多い。聚珍は多くを鮑刻に據っているが、鮑刻と重刊鮑刻は譌脱が少なくない。皆善本とは言えない。本書は宋蜀刊本に據って影印したものを主とし、少數を補綴しているが、これはまた皆善本に據って精校し、實に現今通行本の中で最も佳(すぐ)れたものであるとすることは、已に定評の有るところである。
  私は近年、再び商務印書館の長となり、先後して鉅籍(大部の書籍)多種を編印した。舊籍の分野に在っては、版本を以て長(すぐれている)と見るべきものは、四部叢刊初編、續編、そして百衲本二十四史等。捜羅(探し求め)して廣博であることが著しいと稱することの出来るのは、叢書・集成・簡編等。参考とするに便利であることを主とするものは、『佩文韻府』や嘉慶年間の重修である『一統志』等。本書を版本から言えば、實に四部叢刊等と齊しいと觀てよいし、效用から言えば、則ちまた有参考とする利便のために必要である。よって『佩文韻府』の例に仿(なら)い、二頁を一面とし、版式を擴大して十六開とする。原書の一百三十六册を、精装は七鉅册とした。また原書の目録に因って、至って詳細を極め、その有する所は五十五部、千六百餘類を皆目録の中に列載し、一々注をつけて巻數を明らかにしたので、檢査する上でまた別に索引を編纂する必要がない。これは『佩文韻府』が目録上に韻目を列(ならべ)るものが在るのは僅かである一方、詞藻(美しい言葉)を含む内容は五十萬もの多さであるのとは、大いにその趣を異にしているが、それには未だ索引が編まれておらず、だからこのようにした理由である。
  中華民國五十六年(1967)十一月五日王雲五識(しる)す