晋寫本陳壽三國志呉志残巻校字記

「虞翻陸綾張温」羅福成

〈原文〉
  晋寫本古籍中土至爲希見此巻長五尺計八十行毎行字數多寡不一首尾残缺無年月近年出土於新彊省吐魯番爲予友白君堅發見遂以重値得之珍如拱璧此僅存虞翻傳下半陸績傳全張温傳上半攷其書於扑茂爾雅一見即知爲晋時士大夫書六朝寫経中至精者不是過也決其爲裴松之以前人手迹無或猶疑據此巻以校通行本不同處得三十餘則古寫本之可貴無待予言矣甲子十月二十日上虞羅福成書於津寓之媚古樓


〈書き下し文〉
  晋寫本ノ古籍ハ中土ノ至ッテ希見ト爲ス。此ノ巻ノ長サハ五尺、計八十行、毎行ノ字數ハ多寡アリテ首尾ヲ一ニセ不(ズ)。残缺ハ近年、新彊省吐魯番於(ヨ)リ出土シテ年月無ク、予ノ友白君(堅)ノ發見シ遂ニ重値ヲ以テ之ヲ得ルトコロト爲ル。珍ナルコト拱璧ノ如シ。此レ僅カニ虞翻傳ノ下半、陸績傳ノ全テ、張温傳ノ上半ヲ存ノミ。攷フルニ其ノ書ノ扑茂爾雅ナルニ於ケルヤ、一見シテ即チ晋時ノ士大夫ノ書ト爲スヲ知ル。六朝ノ寫経中ノ至精ナル者トスルモ是レ過ラ不(ザ)ル也。決シテ其レ裴松之以前ノ人ノ手迹ト爲シ、或ヒハ猶ホ疑ヒモ無キナリ。此巻ニ據リテ通行本ヲ校ブルヲ以テ不同ノ處ヲ得ルコト三十餘。則チ古寫本之貴ナル可(ベ)キコト予ノ言ヲ待ツモ無シ矣。
  甲子十月二十日上虞(浙江省地名)ノ羅福成、津寓之媚古樓ニ於ヒテ書ス。


〈口語意訳〉
  晋寫本である古本は中国の極めて希見である。此の巻の長さは五尺、計八十行、毎行の字數は多寡があって首尾一貫しない。この残缺は近年、新彊省吐魯番より出土してから年月を経ずに私の友人白堅君が見出し、遂に高値で之を手にすることが出来た。珍らしいものであることは拱璧(大きな財宝)のようである。此れ僅かに虞翻傳の下半分、陸績傳の全部、張温傳の上半分を残すのみである。攷えるに其の書が扑茂(意味不明)爾雅(非常に優れていること)であることから、一見して即ち晋時代の士大夫(教養・識見の高い人)の書であることが分かる。六朝の寫経中の至精(極めて立派)であるとしても誤りではない。決して其れを裴松之以前の人の手によるものとしても、またどんな疑いも無い。此の巻によって通行本を校(しら)べると不同の處が三十ばかりも得られる。則ち古寫本が貴重であることは私の言うまでもないことであろう。
  甲子(1924)年十月二十日、上虞県(浙江省地名)の羅福成、津寓の媚古樓に於いてこれを書く。


  惟大司農劉基 呉志巻十二虞翻傳大司農無司字 惟作唯
  手殺善士 寫本無手字殺作煞下同
  天下孰知之 寫本孰作誰不
  曹孟德尚殺孔文舉 寫本無尚字殺作煞
  孤於虞翻何哉 寫本無有字
  孟徳輕害士人 寫本人作仁
  芳闔戸不應而遽避之 寫本作遽而避之
  又經芳營門 寫篤本作營中
  當閉反開當開反閉 寫本作當開反閉當反開 閉作閈下同
  世豈有仙人也 寫本也作耶
  權積怒非一 寫本積件責
  門徒常數百人 寫本百作十
  在南十餘年七十卒 寫本餘年下缺一字七十作十九 按所缺之字當是六字 作六十九卒
  翻有十一子 寫本無翻字下作有子十一人
  聳越騎校尉 寫本聳作辣
  累遷廷尉湘束河間太守 寫本無遷字無湘東河間太守句
  昺廷尉尚書濟陰太守 寫本昺作晃無尚書濟陰太守句
  須當用武 陸績傳 寫本須作唯
  遠人不服則修文徳以來之 寫本無則修二字
  績容貌雄壮 寫本貌作狼下同
  星歴等數 寫本等作算
  處翻舊齒名盛 寫本名盛作成名
  又意在儒雅 寫本在作存
  有漢志士 寫本志士作志民
  遘疾遇厄遇命不幸 寫本遇作逼 幸作永
  當今與誰爲比大司農劉基曰 張温傳 寫本比字下有也字 大司農無司字
  以故屈卿行 寫本無以宇
  便欲大構於蜀 寫本蜀作丕 刻本大謬
  呉國軍勤任旅力 寫本任作恁
  軍事奥煩 寫本興作充煩
  是以忍鄙倍之差 寫本倍作陪
  臣自入遠境 寫本無入字 寫本境字以下殘


  『支那学』第3巻第11号82~83頁/1925年8月より転載