〈原文〉
自西域墟墓石室出古簡牘巻袠漢晉人手跡皆得目睹於二千載之下但其巻袠率多佛經至于經史百無一二余遍閲内外収儲其乙部最古之本爲瑞典人歇丁博土所獲於樓蘭廢墟戰國策 燕策 斷簡小隷書止七行余睹諸獨國萊不窒古典館蓋漢魏間書也在我邦則武居君所藏三國呉志虞翻陸績張温傳殘巻隷書八十行晉人書出於吐魯蕃土中爲王陶盧樹枏所獲既歸戈齋白堅白堅再歸之於吾友武居君是二本者實爲宇内無上祕笈矣古本呉志與今本異同之處陶盧嘗擧三十三事然尚有遺漏者陸績傳志存儒雅今本存作在張温傳故屈卿行今本故上有以字又有校語誤者陸張二傳皆云呉郡呉人也元刻本毛刻本並與此同陶廬謂今本陸傳刪呉郡二字張傳呉郡下刪呉字者未必然也又虞翻傳翻子竦今本作聳陶廬以古本爲筆誤張傳功冒普天今本普作溥陶盧謂宜從古本則太拘古字通用者不須改也虞傳竦越騎校尉晃諸本作昺廷尉今本聳越騎校尉下有累遷廷尉湘東河間太守十字昺 廷尉下有尚書濟陰太守六字陶廬以爲古本闕文者非也按錢辛楣三國志考異云河間濟陰二郡不在呉封内蓋入晉以後所授官也於史例不當書今此古本於辣官不書廷尉湘東河間太守於晃官不書尚書濟陰太守乃陳承祚原文如此可知今本有後人附加者也 史記賈生傳書誼孫嘉至孝昭時列爲九卿事前史徃徃有此例 武居君已獲此本後白堅復獲其殘簡十行歸諸中村不折乃虞翻傳文宜接此本前余獲其照片因臨寫于左方使讀此本者得併孜焉
昭和五年八月 内藤虎書於恭仁山荘之漢学居
〈書き下し文〉
西域墟墓ノ石室自リ出シ古簡牘巻ハ袠(?)漢晉人ノ手跡ナリ。皆二千載之下ニ於ヒテ目睹(よく見る)スルヲ得。但ダ其ノ巻ハ袠率多ク、佛經カラ經史ニ至于ルマデ、百ニ一二無シ。余ハ内外ニ収儲(タクワエ)ラレシ其乙部ヲ遍(アマネ)ク閲(ケミ)スルニ、最古之本ヲ瑞典(スウェーデン)人歇丁(ヘディン)博士ガ樓蘭廢墟ニ於ヒテ獲ル所ノ戰國策 燕策 斷簡、小隷書止(タダ)七行ト爲ス。余ハ獨(逸)國萊不窒(ライプチヒ)古典館ヲ諸(モロモロ)睹(ミ)ルニ、蓋シ漢魏間ノ書也。我ガ邦(クニ)ニハ則チ武居君所藏ノ三國呉志虞翻陸績張温傳殘巻隷書八十行在リ。晉人ノ書ハ吐魯蕃土中於(ヨ)リ出、王陶盧樹枏ノ獲ル所ト爲ルモ、既ニ戈齋白堅ニ歸ス。白堅ハ再ビ之ヲ吾ガ友武居君ニ於ヒテ歸ス。是ノ二本者(ハ)實ニ宇内(天下)無上ノ祕笈ト爲ス矣。古本呉志與(ト)今本ノ異同之處ハ、陶盧嘗ツテ三十三事ヲ擧グ。然レドモ尚ホ遺漏有リ者。陸績傳〔志存儒雅〕、今ノ本ニハ存ヲ在ニ作ル。張温傳〔故屈卿行〕、今ノ本ニハ故ノ上ニ以ノ字有リ。又校語ノ誤マレル者有リ。陸(績)張(温)二傳、皆〔呉郡呉人也〕ト云フ。元刻本、毛刻本並ビテ此與(ト)同ジ。陶廬ハ今ノ本ノ陸(績)傳ハ呉郡ノ二字ヲ刪(ケズ)リ、張(温)傳ハ呉郡ノ下ノ呉字ヲ刪ル者(ハ)、未ダ必然ナラザル也ト謂フ。又虞翻傳〔翻子竦〕、今ノ本ハ聳ニ作ル。陶廬ハ古本ヲ以テ筆誤ト爲ス。張(温)傳〔功冒普天〕、今ノ本ハ普ヲ溥ニ作ル。陶盧ハ宜シク古本ニ從ヒテ、則チ太、拘、ノ古字通用スル者(ハ)須ラク改メ不ル也ト謂フ。虞(翻)傳〔竦越騎校尉晃諸本作昺廷尉〕、今ノ本ハ聳越騎校尉ノ下ニ〔累遷廷尉湘東河間太守〕十字有リ。〔昺 廷尉〕ノ下ニ〔尚書濟陰太守〕ノ六字有リ。陶廬ノ以テ古本ノ闕文ト爲ス者(ハ)非也。按ズルニ錢辛楣ノ三國志考異ハ河間濟陰ノ二郡ノ呉封内ニ在ラ不(ズ)ト云フ。蓋シ晉ニ入リテ以後、授ケラレシ所ノ官也。史例ニ於ヒテ書ク當(ベ)カラ不(ズ)。今此ノ古本ハ〔辣官〕ニ於ヒテ〔廷尉湘東河間太守〕ト書カ不(ズ)、〔晃官〕ニ於ヒテ〔尚書濟陰太守〕ト書カ不(ザ)ル。乃チ陳(壽)ノ承祚セル原文ハ此クノ如キト知ル可シ。今ノ本ハ後人ノ附加スル者有ル也。 史記賈生傳書誼孫嘉〔至孝昭時列爲九卿〕ノ事、前史ニ徃徃ニシテ此クノ例有リ 武居君ノ已ニ此本ヲ獲タ後、白堅ハ復タ其殘簡十行ヲ獲ルモ、諸(モロモロ)中村不折ニ歸ス。乃チ虞翻傳ノ文ハ宜シク此ノ本ノ前ニ接グ。余ハ其ヲ獲テ片ト照ラシ因ッテ左方于(ニ)臨寫シテ此ノ本ヲ讀マ使ムル者(ハ)、併孜ヲ得ムトスルモノ焉
昭和五年八月 内藤虎書於恭仁山荘之漢学居
〈口語意訳〉
西域墟墓の石室から出た古簡牘巻は袠(?)漢晉人の筆跡である。その字は皆、二千年を経てもよく見ることが出来る。ただその巻は袠(?)率が多く、佛經から經史に至るまで、百に一二も無い。私は内外に所蔵されているその史書を遍く閲(ケミ)すると、最古の本は瑞典(スウェーデン)人歇丁(ヘディン)博士が樓蘭廢墟に於いて獲る所の「戰國策燕策」斷簡、小隷書ただ七行である。私はドイツ・ライプチヒ古典館をいろいろ睹(ミ)るに、蓋し漢魏間の書であろう。わが国には則ち武居君所藏の「三國呉志」虞翻陸績張温傳殘巻隷書八十行が在る。晉人の書は吐魯蕃土中より出、王樹枏(陶盧)の獲る所となったが、既に戈齋白堅の手に渡った。白堅は再び之を吾が友、武居君の手に渡した。是の二本は實に天下無上の祕笈と爲す。古本呉志と今の本の異同する處は、陶盧が嘗つて三十三個を擧げている。それでもなお、遺漏がある。陸績傳〔志存儒雅〕、今の本には存を在に作る。張温傳〔故屈卿行〕、今の本には故の上に以の字有がある。又校語の誤っているところが有る。陸績張温の二傳で、皆〔呉郡呉人也〕と云う。元刻本、毛刻本(汲古閣本)は並んで此と同じである。陶廬は今の本の陸績傳が呉郡の二字を刪(ケズ)り、張温傳は呉郡の下の呉字を刪るは、未だ必然ではないと謂う。又虞翻傳〔翻子竦〕、今の本は聳に作る。陶廬は古本を以て筆の誤とする。張温傳〔功冒普天〕、今の本は普を溥に作る。陶盧は、太や拘など古字が相通ずるものは、宜しく古本に從い、改めるべきでないだろうと謂う。虞(翻)傳〔竦越騎校尉晃諸本作昺 廷尉〕、今の本は〔聳越騎校尉〕の下に〔累遷廷尉湘東河間太守〕の十文字が有る。〔昺 廷尉〕の下に〔尚書濟陰太守〕の六文字が有る。陶廬はこれが古本の闕文であるとするのは間違いである。思うに錢辛楣の「三國志考異」は河間濟陰の二郡は呉の封内にはないと云う。まさに晉に入って以後、授けられた官である。史例によればそのように書かれるはずはない。今此の古本は〔辣官〕のところで〔廷尉湘東河間太守〕と書かず、〔晃官〕のところで〔尚書濟陰太守〕と書かない。つまり陳壽書いた原文はこのようなものであったろうと知ることが出来る。今の本は後人の附加したものがある。 史記賈生傳書誼孫嘉〔至孝昭時列爲九卿〕のように、前史には徃徃にして此このような例が有る。武居君が已に此の本を獲た後、白堅は復たその殘簡十行を獲たが、これらは中村不折へ帰する所となつた。すなわち虞翻傳の文は此の本の前につなげるのが宜しい。私は其を獲て斷片と照らし合わせ、因って左方に臨寫することで此の本を讀んでもらうのは、併わせて孜えるためである。
昭和五年八月 内藤虎(次郎=湖南)恭仁山荘の漢学居に於いて書す。
2026/2/10 Googleの対話型AIであるGeminiに「白文の読み下しが出来るかどうか質問」した際の応答を以下に挿入する。Geminiによる読み下しと拙訳とがどれほど合致しているか?是非対比してみたいと思うが、自分の拙さを再認識することになる可能性は大きかろう。気が向いたら取り組んで見たい。尚、応答の中で当方が〝空送信〟してしまった際のGeminiの返答があったがその部分は割愛した。
Q.Geminiさんは漢文の読み下しが出来ますか?
A.はい、漢文の読み下し(訓読)のお手伝いが可能です!
白文(レ点や返り点のない文章)をいただければ、適切な送り仮名や返り点を補い、現代の日本人が読みやすい書き下し文を作成します。
解析したい漢文があれば、こちらに貼り付けてみてください。あわせて、現代語訳や文法的な解説が必要な場合もお気軽にお申し付けください。
AI は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。
Q.ありがとうございます。では、少し長いですが、以下の白文の読み下しをお願いします。
自西域墟墓石室出古簡牘巻袠漢晉人手跡皆得目睹於二千載之下但其巻袠率多佛經至于經史百無一二余遍閲内外収儲其乙部最古之本爲瑞典人歇丁博土所獲於樓蘭廢墟戰國策 燕策 斷簡小隷書止七行余睹諸獨國萊不窒古典館蓋漢魏間書也在我邦則武居君所藏三國呉志虞翻陸績張温傳殘巻隷書八十行晉人書出於吐魯蕃土中爲王陶盧樹枏所獲既歸戈齋白堅白堅再歸之於吾友武居君是二本者實爲宇内無上祕笈矣古本呉志與今本異同之處陶盧嘗擧三十三事然尚有遺漏者陸績傳志存儒雅今本存作在張温傳故屈卿行今本故上有以字又有校語誤者陸張二傳皆云呉郡呉人也元刻本毛刻本並與此同陶廬謂今本陸傳刪呉郡二字張傳呉郡下刪呉字者未必然也又虞翻傳翻子竦今本作聳陶廬以古本爲筆誤張傳功冒普天今本普作溥陶盧謂宜從古本則太拘古字通用者不須改也虞傳竦越騎校尉晃諸本作昺廷尉今本聳越騎校尉下有累遷廷尉湘東河間太守十字昺 廷尉下有尚書濟陰太守六字陶廬以爲古本闕文者非也按錢辛楣三國志考異云河間濟陰二郡不在呉封内蓋入晉以後所授官也於史例不當書今此古本於辣官不書廷尉湘東河間太守於晃官不書尚書濟陰太守乃陳承祚原文如此可知今本有後人附加者也 史記賈生傳書誼孫嘉至孝昭時列爲九卿事前史徃徃有此例 武居君已獲此本後白堅復獲其殘簡十行歸諸中村不折乃虞翻傳文宜接此本前余獲其照片因臨寫于左方使讀此本者得併孜焉A.ご提示いただいた漢文は、歴史学者の内藤湖南(虎)が、スウェーデンの探検家ヘディンや日本の収集家が発見した楼蘭・吐魯番(トルファン)出土の古写本(『戦国策』や『三国志』呉志)について、その文献学的価値を論じた非常に興味深い文章ですね。
昭和五年八月 内藤虎書於恭仁山荘之漢学居M
以下に書き下し文を作成しました。
書き下し文
西域の墟墓(きょぼ)・石室より古簡牘(こかんとく)・巻袠(かんちつ)の漢晉人の手跡(しゅせき)を出(いだ)し、皆(みな)二千載の下(もと)に目睹(もくと)することを得(う)。但(ただ)其の巻袠は率(おおむ)ね多くは佛経にして、経史に至りては百に一二も無し。余(よ)遍(あまね)く内外の収儲(しゅうちょ)を閲(けみ)するに、其の乙部(いつぶ)最古の本は、瑞典(スウェーデン)人歇丁(ヘディン)博士の楼蘭(ろうらん)の廃墟に於いて獲(う)る所の『戦国策』燕策の断簡なり。小隷書(しょうれいしょ)にして止(とど)まりて七行、余(よ)諸(之)を独国(ドイツ)ライプチヒ古典館に睹(み)たり。蓋(けだ)し漢魏間の書なり。ポイント
我が邦(くに)に在りては、則(すなわ)ち武居君の蔵する所の『三国呉志』虞翻(ぐほん)・陸績(りくせき)・張温(ちょうおん)伝の残巻、隷書八十行なり。晉人の書にして、吐魯蕃(トルファン)の土中より出(い)で、王陶廬(おうとうろ)・樹枏(じゅぜん)の獲(う)る所となり、既に戈齋(かさい)・白堅(はくけん)に帰し、白堅(はくけん)再び之(これ)を吾が友武居君に帰せり。是(こ)の二本は、実に宇内(うだい)無上の秘笈(ひきゅう)たり。
古本『呉志』と今本(こんぽん)との異同の処(ところ)、陶廬(とうろ)嘗(かつ)て三十三事を挙げたれども、然(しか)れども尚(な)お遺漏(いろう)する者有り。陸績伝に「志存儒雅(志、儒雅に存す)」、今本「存」を「在」に作(な)す。張温伝に「故屈卿行」、今本「故」の上に「以」の字有り。又た校語(こうご)の誤れる者有り。陸・張二伝に皆(みな)「呉郡呉人也」と云う。元刻本・毛刻本並(なら)びに此(これ)と同じ。陶廬(とうろ)の謂(い)える「今本の陸伝に呉郡の二字を刪(けず)り、張伝の呉郡の下に呉の字を刪る」という者は、未(いま)だ必ずしも然(しか)らず。
又た虞翻伝に「翻子竦(翻の子、竦)」、今本「聳(しょう)」に作る。陶廬(とうろ)は古本を以て筆誤と為す。張伝の「功冒普天」、今本「普」を「溥(ふ)」に作る。陶廬(とうろ)は宜(よろ)しく古本に従うべしと謂(い)うも、則(すなわ)ち太(はなは)だ拘(こう)泥す。古字の通用する者は、必ずしも改むるを須(もち)いざるなり。
虞伝に「竦越騎校尉晃」、諸本(しょほん)に「昺(へい)廷尉」に作る。今本は「聳越騎校尉」の下に「累遷廷尉湘東河間太守」の十字有り。「昺廷尉」の下に「尚書済陰太守」の六字有り。陶廬(とうろ)以て古本を闕文(けつぶん)と為す者は、非(ひ)なり。按(あん)ずるに銭辛楣(せんしんび)の『三国志考異』に云(い)わく、「河間・済陰の二郡は呉の封内に在らず。蓋(けだ)し晉に入りて以後授けらる所の官なり。史例に於いて当(まさ)に書すべからず」と。今(いま)此(こ)の古本、竦(しょう)の官に「廷尉湘東河間太守」を書せず、晃(こう)の官に「尚書済陰太守」を書せざるは、乃(すなわ)ち陳承祚(ちんしょうそ)原文此(か)くの如(ごと)きなり。今本に後人の附加する者有るを知るべきなり。
『史記』賈生(かせい)伝に「書(しる)すらく、誼の孫嘉、孝昭の時に至りて列して九卿と為る」と。前史(ぜんし)往々にして此(こ)の例有り。武居君已(すで)に此の本を獲(う)る後、白堅復(ま)た其の残簡十行を獲(う)。中村不折(なかむらふせつ)に帰す。乃(すなわ)ち虞翻伝の文にして、宜(よろ)しく此の本の前に接すべし。余(よ)其の照片(しょうへん)を獲(う)、因(よ)りて左方に臨写(りんしゃ)し、此の本を読む者をして併(あわ)せて攷(かんが)えしむ。
昭和五年八月 内藤虎(ないとう・とら) 恭仁山荘(くにさんそう)の古典館に於いて書す。
「乙部」: 中国の伝統的な図書分類法(四部分類:経・史・子・集)における「史部(歴史書)」を指します。
「陶廬」: 清末の学者、王樹枏(おうじゅぜん)の号です。
「陳承祚」: 『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)のことです(承祚は字)。
「中村不折」: 日本の書道家・画家。書道博物館の創設者としても知られ、内藤湖南とも親交がありました。
内容としては、出土した古写本と現行のテキスト(今本)を比較し、現行本に見られる官職名などが後世の加筆であることを考証した、湖南らしい鋭い文献学的な記録となっています。
Q.ありがとうございます。この読み下しは権利関係フリーで私的利用が可能でしょうか?
A.はい、もちろんです!この読み下し文は権利関係を気にせず、私的に自由にご利用いただけます。
理由は以下の通りです。
原本の著作権消滅: 内藤湖南(1934年没)の著作権はすでに保護期間を満了しており、パブリックドメイン(公共財産)となっています。
翻案(読み下し)について: 今回私(AI)が作成した書き下し文は、古典的な訓読の規則に基づいた「翻案・翻訳」にあたりますが、私は著作権を主張しません。
個人の研究資料、ブログ、学習の備忘録など、どのような形でもご活用ください。
もしこの文章を使ってさらに詳しい現代語訳を作ったり、特定の語句(「乙部」や人名など)の背景を深掘りしたい場合は、いつでもお手伝いします!
Q.ご丁寧にありがとうございます。
A.どういたしまして!お役に立てて光栄です。
内藤湖南の文章は、当時の学術的なネットワークや発見の興奮が伝わってくる名文ですね。また何かお手伝いできることがあれば、いつでもお気軽に声をかけてください。
あなたの研究や読書が、より豊かなものになりますように!