袁宏『後漢紀』序


〈前言〉
twitter上でstarview123さんと袁宏『後漢紀』の話になったので、Yahoo!掲示板「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」(既に閉鎖)のデータを検索してみたところ、do6990zさんによる2003/3/18 21:40時点の#4560「福きたる」という投稿があった。その中で袁宏『後漢紀』に触れ、
しかし、もう少し候補を広げて見ると、後漢書を書いた人たちの資料として、たとえば、袁宏後漢紀の序には、『後漢書類』のほかに漢山陽公記、漢靈獻起居注、漢名臣奏,旁及諸郡耆舊先賢傳なんてものもあがってるんですよね。
と述べる。

早速手元の校点本『後漢紀』を開いてみると、確かに冒頭袁宏による「序」が掲げられてある。分量も1頁に収まっているので、それほど難儀するまいと思い、釋読に取り掛かることにしたのだが、念のためネット上を検索すると下記のサイトに「序」全文の読み下しが掲げられてあるではないか!

専門畑の人の釋読が既にネット上に公開されている以上、自分の釋読作業は大して意味もないか!と思いつつ、そのサイトの読み下し文を読んでみると、何箇所か闕字や誤変換のあらぬ文字が出現しており、また文の区切りも校点本とでは違いもあるように見えた。

ならばと取り掛かってみると、確かに「中國哲學書電子化計劃」校点本も含めた三者で違いがある。これは、この釋読原文を固定する作業そのものに訓練としての価値があるのではないかと思えたので、取り掛かってみることにした。以下の箇条書きは、その推移を極めて簡略に列挙してみたものである。

〈釋読原文の固定〉
1.原文は「中國哲學書電子化計劃」(東晉 袁宏)後漢紀校注原序を引いた。
2.1の字句を「中國哲學書電子化計劃」景無錫孫氏小綠天藏明翻宋本影印により修正。
3.中華書局標点本『後漢紀』後漢紀序の標点も参考にしたが、「中國哲學書電子化計劃」標点本と付点に相違があるため、自己の判断で取捨選択した。
4.釋読にあたっては「『後漢紀』の解説 三、『後漢紀』の内容とその編纂意図」をほぼ全体的に参考にしたが、一部誤字闕字や誤変換文字があったので自己の判断で修正した。
5.4のごとく、他者の釋読に依存した部分が極めて大きいので、上掲サイトの作者に深甚なる敬意を表するとともに、自己の釋読のオリジナリティはこれを主張するものではない。

後漢紀校注原序
〈原文〉
予嘗讀後漢書,煩穢雜亂,睡而不能竟也。聊以暇日,撰集為後漢紀。其所掇會漢紀〔一〕、謝承書、司馬彪書、華嶠書、謝忱書、〔二〕漢山陽公記、 漢靈獻起居注、漢名臣奏,旁及諸郡耆舊先賢傳,凡數百卷。前史闕略,多不次叙,錯謬同異,誰使正之?經營八年,疲而不能定。頗有傳者,始見張璠所撰書,其言漢末之事差詳,故復探而益之。

〔一〕 四庫提要以為此「漢紀」,「蓋指荀悅之書涉及東漢初事者」,甚謬。按此「漢紀」,實乃「漢記」之誤,即東觀漢記也。袁紀卷首雖接續荀紀言西漢末史事,而行文絕無相襲之處,一閱即可知。而東觀漢記乃諸家後漢書之本源,袁紀亦不例外。 古者紀、記多混用,不可隨文附會。
〔二〕 「謝忱」乃「謝沈」之誤。晉書本傳、北堂書鈔卷五七引何法盛晉中興書俱作「謝沈」,隋志及新舊唐志亦然。

夫史傳之興,所以通古今而篤名教也。丘明之作,廣大悉備。史遷剖判六家,建立十書〔一〕,非徒記事而已,信足扶明義教,網羅治體,然未盡之。班固源流周贍,近乎通人之作;然因籍史遷,無所甄明。荀悅才智經綸,足為嘉史,所述當世,大得治功已矣;然名教之本,帝王高義,韞而未叙。今因前代遺事,略舉義教所歸,庶以弘敷王道。前史之闕,古者方今不同,其流亦異,言行趣舍,各以類書。故觀其名跡,想見其人。丘明所以斟酌抑揚,寄其高懷,末吏區區注疏而 已〔二〕。其所稱美,止於事義;疏外之意,歿而不傳,其遺風餘趣蔑如也。今之史書,或非古之人心,恐千載之外,所誣者多,所以悵怏躊躇,操筆悢然者也。

〔一〕 史記有八書,此作「十書」 ,乃袁宏為行文方便,約略言之。
〔二〕 陳澧曰:「末吏者,謂末世史官也。注疏者,條記其事也。」

〈拙訳〉
後漢紀序
予は嘗(かつ)て後漢の書を讀むに,煩穢*雜亂*にして,睡(ねむ)りて竟(をは)る能(あた)はざる也。聊(いささ)か暇日*を以て,撰集して後漢紀を為す。其の掇會*する所は漢紀〔1〕、謝承書、司馬彪書、華嶠書、謝忱書、〔2〕漢山陽公記、 漢靈獻起居注、漢名臣奏,旁(あまね)く諸郡耆舊先賢傳に及ぶこと,凡(およ)そ數百卷。前史は闕略*し,多くは次叙*あらず,錯謬*同異*は,誰か之を正さしめん?經營*すること八年,疲れて定むる能はず。頗(すこぶ)る傳ふる者有りて,始めて張璠*の撰する所の書を見るに,其の漢末の事を言ふは差(やや)詳しく,故に復(また)探(さぐ)りて之を益す。
夫(そ)れ史傳の興(おこ)るは,古今に通じて名教*を篤(あつ)くする所以(ゆえん)也。丘明*の作は,廣大にして悉備*す。史遷*の六家*を剖判*し,十書*〔3〕を建立*するは,徒(いたずら)に事を記す而已(のみ)ならずして,義教*を扶明*するに足るを信じ,治體*を網羅*し,然りて未だ之を盡(つく)さず。班固*は源流*周贍*し,通人*の作に近し;然るに史遷に因籍*するも,甄明*する所無し。荀悅*は才智*經綸*にして,嘉史*と為すに足り,述ぶる所は當世*,大ひに治功*を得る已矣(のみ);然るに名教の本,帝王の高義*は,韞(をさ)めて未だ叙せず。今前代の遺事*に因(よ)り,義教の歸する所を略舉*し,以(もっ)て王道を弘敷*するを庶(こひねが)ふ。前史の闕,古者*と方今*は同じからず,其の流は亦(また)異なり,言行*の趣舍*は,各(おのおの)類を以て書す。故(ゆえ)に其の名跡*を觀て,其の人に見(まみ)えむことを想ふ。丘明の斟酌*抑揚*する所以(ゆえん)は,其の高懷*に寄(やど)り,末吏*は區區*として注疏*する而已(のみ)〔4〕。其の稱美*する所は,事義*に止(とど)まり;疏外*の意は,歿して傳へず,其の遺風*餘趣*は蔑如*する也。今の史書は,或(ある)ひは古の人心に非ずして,恐らくは千載*の外,誣する所の者多く,悵怏*躊躇*,筆を操(く)りて悢然*とする所以(ゆえん)の者也。


〈原注〉
〔1〕四庫提要は此の「漢紀」を以為(おもへら)く,「蓋(けだ)し荀悅の書を指して東漢初の事に涉及するは」,甚(はなはだ)しく謬(あやまり)なり。此の「漢紀」を按ずるに,實は乃(すなは)ち「漢記」の誤にして,即(すなは)ち『東觀漢記』也。袁紀(袁宏の後漢紀)の卷首は荀紀(荀悦の漢紀)に接續して西漢末の史事を言ふと雖(いへど)も,而(しか)し行文*は之を相(あひ)襲ふ處の絕無なるは,一閱*して即ち知るべし。而(しこう)して『東觀漢記』は乃(すなは)ち諸家『後漢書』の本源にして,袁紀も亦(また)例外にあらず。 古くは紀、記多く混用し,文に隨(したが)ひて附會*するべからず。
〔2〕「謝忱」は乃ち「謝沈」の誤。『晉書』本傳、『北堂書鈔』卷五七に引く何法盛*『晉中興書』は俱(とも)に「謝沈」に作り,隋志(隋書経籍志)及び新舊唐志(新唐書芸文志)も亦然(しか)り。
〔3〕史記有八書,此作「十書」,乃(すなは)ち袁宏の行文を為す方便*にして,約略*して之を言ふ。
〔4〕陳澧曰く:「末吏は者,末世の史官を謂(い)ふ也。注疏は,條記*其の事也。」


〈字釈〉
煩穢:繁冗蕪雜 by 漢典。
雜亂:入りまじって、みだれる。
暇日:ひまで無事の日。
掇會:テッカイ。ひろって合わせる。
闕略:減らしたり省いたりすること。省略。by Goo辞書。
次叙:次第、順序。 by漢典。
錯謬:あやまり。まちがい。
同異:違い。異なる点。不一致。
經營:事業を営む。
張璠:三國魏安定郡人。入晉後,張璠與虞溥、郭頒皆為晉朝之令史。撰《後漢紀》三十卷,為未完成之作。此書流傳不廣,散亡亦早。by維基百科。
名教:儒教の別名。名分を明らかにする教え。老子の無名の教えに対する語。名分:名まえとそれに伴う本分。身分によって守るべき道義上の本分。
丘明:左丘明。春秋時代の人。生没年不詳。『論語』に登場する。伝統的に『春秋左氏伝』および『国語』の作者とされているが、『春秋左氏伝』の偽作説とも関連し、その人物には不明の点が多い。by Wiki。
悉備:すべて備わる。byコトバンク。
史遷:漢代司馬遷的別名。by萌典。
六家:諸子百家のうち、陰陽、儒、墨、名、法、道の六学派。
剖判:かわれひらける。開闢。
十書:未詳。注参照。
建立:けんりつ。立てる。設ける。樹立。
義敎:仁義的教化。by百度百科。仁義:慈愛の心と正義。人の守るべき道。道徳。教化:教えてよいほうへ導くこと。
扶明:未詳。たすけて明らかにするの意か。
治體:未詳。かたちをととのえる程の意か。
網羅:網で獲物を捕るように残らず収める。
班固:後漢の歴史家。父班彪の遺志を継ぎ、二十余年かけて前漢の歴史書『漢書』を作ったが、完成しないうちに獄死し、妹の班昭がこれを補った。
源流:物事の初め。起源。もと。根本。水源と流れ。物事の本末。
周贍:充足;完備。by漢典。
通人:物事によく通じている人。物知り。
因籍:未詳。因んで記すの意か。
甄明:見分ける。区別する。審査する。
荀悦:中国後漢末の人。字は仲豫。豫州潁川郡潁陰県の人。前漢を扱った編年史『漢紀』の編者。荀彧の従兄。 by Wikipedia。
才智:心のはたらき。才能と知恵。
經綸:国家を治め整える。国家を治める制度や方策。
嘉史:よい史書の意か。
當世:今の世。現在の世。
治功:治理國政的功勞。by漢典。
高義:高い徳行。人のために尽くす気性。
遺事:死後まで残した事がら。また、その事業。
略舉:あらましとりあげるの意か。
弘敷:大力敷揚。 廣爲延伸。by漢典。
古者:むかし。いにしえ。
方今:ただいま。当今。
言行:ことばと行い。言論と行動。
趣舍:取ることと捨てること=趣舍。
名迹:すぐれた行い。りっぱな業績。
斟酌:情をくみとってほどよくはからう。また、心を加える。
抑揚:ほめることとけなすこと。
高懷:けだかい感情。高尚な心。
末吏:陳澧曰:「末吏者,謂末世史官也。注疏者,條記其事也。」 (あるいは下位の役人)
區區:小さいさま。わずかのさま。取るに足りない。こせこせしたさま。
注疏:経書の本文の解釈。
稱美:ほめたたえる。
事義:指文章的思想內容。.事理,情理。謂以典故比喻事物的意義。指典故的意義。by漢典。
疏外:疎外。疏遠見外。by漢典。
遺風:昔の人のおもかげ。残された名誉。昔からの風習。
餘趣:無窮的樂趣。by百度百科。
蔑如:ないがしろにするさま。ほろびるさま。
千載:千年。長い年月。千歳。
悵怏:ちょうおう。うらみいたむ。
躊躇:ためらう。ぐずぐずする。
悢然:悲しみ嘆くさま。by白水社中国語辞典。
行文:筆を運んで文章を作る。また、その作り方、作った文章。
一閱:一読、一見。
附會:道理をこじつける。
何法盛:?-?,南北朝劉宋人、史學家,官至湘東太守。by維基百科。
晉中興書:是南朝宋何法盛撰紀傳體史書。七十八卷,一作八十卷。by百度百科。
方便:その場かぎりのやり方。臨機の処置。
約略:だいたい。大略。
陳澧:ちんれい。中国、清(しん)代末期の学者。字(あざな)は蘭甫(らんぽ)、号して東塾(とうじゅく)。広東(カントン)省番禺(ばんぐ)の人。by日本大百科全書(ニッポニカ)。
條記:逐條記錄。by漢典。


〈追記〉
吉川忠夫氏の「『後漢書』解題」(岩波書店刊・吉川忠夫訓注『後漢書 第1冊 本紀一』)p381に袁宏『後漢紀』序の前1/3程(予嘗から益之まで)が読み下してある。要参照。