原文拘泥主義

古田武彦氏における詭弁の研究

以下は2020年4月、ツイッター上に投稿した古田武彦氏の〝原文拘泥主義〟についての連続ツイートである。

『広辞苑』によれば【詭弁】とは、
①道理にあわぬ弁論。理を非に言いまげる弁論。こじつけの議論。
②相手をだますために行われる、外見上はもっともらしい虚偽の推論。
古田氏の〝原文拘泥主義〟とも言える推論は、まさに『広辞苑』【詭弁】の②の字義に当てはまろう。
古田武彦「九州王朝の史料批判」『邪馬一国の証明』234頁。
「ここに「邪馬臺、原形」説は、第一書にもまして、決定的に拒否されざるをえないのである。この明々白々の道理を回避して、(この道理への反論を行いえぬまま)なお、「邪馬臺(台)」の名を使いつづける人々は、(続く)
後1:43 · 2020年4月11日

もはや率直なる学問探求者の名に値しない、そう言っても過言ではないのではあるまいか。」
「ここに」とは、魏代には天子のことを「臺」と称したとする古田氏の所見。しかし、『三国志』中には「臺」を以て天子のことを表した例は一つも無い。
後1:47 · 2020年4月11日

「率直なる学問探求者の名に値しない」などという言葉は古田氏にこそ相応しい。12世紀刊本の文面を絶対視する古田氏にこそ、「率直なる学問探求者の名に値しない」という言葉は最もよく当てはまる。
後1:58 · 2020年4月11日

古田氏の「邪馬壹国説」を批判した角林文雄氏に対して、古田氏は「わたしはただ〝『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない〟ことを実証的に確認しただけのことである」と再反論する。『邪馬一国の証明』所収「「謎の四世紀」の史料批判」140頁。
後2:05 · 2020年4月11日

角林氏は反論する。「古田氏の「調査・検証」は『三国志』に限定されていないのであって高句麗好太王碑やら、敦煌出土資料やらあれこれ引用して「各時代の字形考察」ほ行われたのは当の古田氏である」。同氏『倭と韓』98頁。
#古田説 #角林文雄
後2:09 · 2020年4月11日

古田氏の言う〝『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない〟というのは誠に奇異な発言である。そもそも錯誤なるものは特定の書物に置いて発生するものではあるまい。時代、地方、組織、個人、そういう書写者の個性によって錯誤は生じるのではあるまいか?
#古田説 #角林文雄
後2:12 · 2020年4月11日

角林文雄氏の『倭と韓』など、古田説に関心を持つ人が目を通すとは考えにくい。しかし既に40年近い昔に、このような古田説批判が行われている。しかも極めて有効な批判と言える。古田氏にはこのようにその場限りの〝反抗〟を試みる傾向がある。それは例の偽書事件の際にも見られた。
#古田説
後2:16 · 2020年4月11日

〝『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない〟と断ずる古田氏だが、孫聖壹と孫聖臺の例は誤写の可能性が高いと言えよう。これについては白崎昭一郎氏、安本美典氏による反証があり、古田氏の主張は崩壊していると言っていい。盧弼の考証の通りである。
#古田説
後2:30 · 2020年4月11日

『邪馬一国の証明』「わたしの学問研究の方法」95頁で「呉志残卷によって現版本は疑われるか」という一項を立てて論じているが、古田氏の所見は〝逆立ち〟しているとしか言えない。「別系統本」という言葉を当てはめて「現存自筆本の字句を自由にいじり」と親鸞の例を持ち出す。
#古田説
後3:06 · 2020年4月11日

そりゃ、『三国志』に「自筆本」があれば何も問題はない。古田氏は喩えにならないものを持ち出す。しばしば見かける手法だ。12世紀刊本と呉志残卷と、いずれが古いか?論ずるまでもない。内外の研究者の論考も同じである。古田氏の本筋から離れた反論は続く。
後3:09 · 2020年4月11日

「だから古写本・古刊本の異同をあつかい馴れた人なら、この呉志残卷と現存『三国志』程度の異同を見ても、決して驚きはしないであろう。まして〝『三国志』現存本にあやまりの多い証拠。従って「邪馬壹国」も〟といった類の性急な論法に走ることなど、とても出来はしない。」(続く) #古田説
後3:12 · 2020年4月11日

「呉志残卷に「藉口」した論法は、両氏が厳正な古写本・古刊本の処理に馴れておられないための〝お手つき〟、失礼ながら、そういうほかはないのである」。では古田氏はどのような「処理」をなされたか?現行刊本文面をひたすら是とする教条主義路線を邁進するのみである。
#古田説
後3:15 · 2020年4月11日

97頁の終わりに京大人文科学研究所の藤枝晃氏について「強烈に「呉志残卷、偽作説」を唱えておられた。中国古筆・古文書の研究家の言として見のがしえぬ見解であろう」とも書く。これまでに6点ほど発見されている『三国志』残卷についてそのように藤枝氏は断じているのだろうか?
#古田説
後3:19 · 2020年4月11日

古田氏が自説の土台と捉える百衲本(南宋紹煕本影印)について張元済がそれを影印に採用したことを以て裏付けとしているが、その張元済は呉志残卷について何と言っているか?『校史隨筆』「三國志」「寫本には少し誤りがあるものの、大概はみな、宋本よりも勝っている」。
#古田説
後3:25 · 2020年4月11日

「両氏」とは白崎昭一郎氏と安本美典氏。この両氏に対して「古写本・古刊本の処理に馴れておられないための〝お手つき〟」などと言ってのけるのは、どういう心理なのか?後に短里論争で古田氏は白崎氏の追求に対して支離滅裂の反論を行ったことは古田氏の行論がいかなるものかを明示しています。
後3:38 · 2020年4月11日

古田氏は上掲書101ページで「「邪馬台国」論者は、次々と仮説を重層させながら、」という表現を用いる。これは古田説について最もよく当てはまる表現であろう。古田氏の本がなにゆえあれほどまで分厚くなっていくのか?根本の過ちを矮小化するために枝葉のデコレーションを重ねた故ではないのか?
後3:43 · 2020年4月11日

足元の大地、地球は不動である!という感覚に基づけば、全ての天体は地球の周りを回っているし、大陸が移動することなど思い浮かばない。しかし事実は相違する。〝足元の大地、地球は不動である!〟というのは感覚にすぎない。古田氏の12世紀刊本を陳壽原本とイクオールであるとする立場はこれに似る。
後3:48 · 2020年4月11日

古田氏が「陳寿を信じ通した」と言明した出発点から誤りである。それは基本に置くべきことではなく、論証されねばならないことだからだ。しかし、12世紀刊本上の表記が陳寿原本とイクオールなどということは誰も論証していないし不可能だろう。よって様々な史料に基づいて追い求めるしか無い。
後3:51 · 2020年4月11日

同書92頁では次のように述べる。「一九八〇年代という現代の時点で、なお原書と版本とを混同させ、世人を惑わす論者があるとすれば、それは研究史の流れの〝逆行〟者に他ならない」。古田氏自身のことを言っているとしか思えない。古田氏の文を読むと陳寿と南宋刊本との間の9世紀が〝無〟に思える。
後3:56 · 2020年4月11日

『翰苑』所引『廣志』に見える「邪馬嘉国」を古田氏は山鹿だと断定。そして「百女国」を八女だとも。誤写説を拒否する古田氏ならではの解釈。『廣志』がなにゆえ伊都国の南にある邪馬嘉国を記さねばならないのか?女王之都を書かずに。しかも、次斯馬国と『魏志』に共通する国名が3個連記してある。
後6:40 · 2020年4月11日

『廣志』の【次斯馬国】とは、何の「次」なんだろうか?『魏志』では女王之所都である邪馬壹国の、或いは女王国の「次」と理解できる。同名の国が3個あって、それが何の「次」であるか?『廣志』は記載していないことになる。ありえいない解釈である。
#古田説
後6:43 · 2020年4月11日

それほどまでに誤写を否定するなら古田氏は「五東里」をどう解釈するのか?『翰苑』所引『魏略』には【東南五東里到伊都国】とある。通常の認識ならば当然「五百里」の誤であるとする。しかし古田氏は邪馬嘉国も百女国も誤ではないと。ならば「五東里」とは何ぞや?誤写説を排してどう説明するのか?
後6:48 · 2020年4月11日

邪馬嘉国も百女国も誤写ではない!として角林氏に反論したつもりだったろうが、こういう主張自体が全くの没論理であり、他者には求める〝必要十分な論証〟とはかけ離れている行論である。果たして古田氏は12世紀刊本が陳寿原本と同一であることを、如何様にして論証したのか?やってはいない。
後6:53 · 2020年4月11日

仮に「五東里」の「東」が「百」の誤でしか有り得ないことを古田氏が認めたとしよう。古田氏はそれに対して〝必要十分な論証〟を行うことができたのか?『魏略』逸文全てから「東」と「百」の用例を挙げ、異同の有無を検証せねばならない。やっていないし出来ない。
後6:57 · 2020年4月11日

「五東里」を「五百里」の誤であると判断するのは実際に発生してる多くの異同例に鑑みて健康的な判断である。誤写を拒否するゆえに邪馬嘉国も百女国も誤写ではない!と強弁するのは角林氏の指摘に対して反論の体をなそうとする〝為にする〟議論でしか無い。古田氏の反論手法のひとつである。
後7:01 · 2020年4月11日

前掲書132頁で古田氏は次のように述べる。「後代の研究者が現文面(『三国志』の現版本)を〝あやまり〟だ、として改定しうるためには、それ(現文面)が誤りであり、これ(改定文面)が正しい、という必要にして十分な論証が必要である」。何故?何故「必要」なのか?
#古田説
後7:06 · 2020年4月11日

古田氏はそれを〝必要にして十分な論証〟してみせたのか?古田氏が「必要」と思ったのは、単に自分の〝信念〟でしかない。「改定文面」という文言を使うこと自体が古田氏の思考の限界を露呈している。12世紀の刊本が陳寿原本と同一内容であることを古田氏は〝必要にして十分な論証〟をしたのか?
後7:13 · 2020年4月11日

古田氏は前掲書132ページで次のようにも述べる。「しかし、いかなる「定説」も、〝史料の上に立脚した論理的厳密正〟をもっていなければ、無意味だ。それなしには、何の権威もありえぬ。―わたしにはそのように見えているのである」。いかにも高尚な宣言に聞こえるが、実際に古田氏がやっているのは、
後10:53 · 2020年4月11日

邪馬嘉国を山鹿だとし、百女国を八女だと強弁する異様な論法だ。ここにどんな「論理的厳密正」があるというのか?現文面墨守に基づく現存地名の牽強付会に過ぎない。人には求める厳格さを自身には課せられない。しばしば古田氏について評される言葉である。
#古田説
後10:56 · 2020年4月11日

210ページでは鏡銘の景初・景和問題に言及して、次のようにも言う。「このように〝主観主義〟的な手法とは、袂をわかつ。わたしにはそれが学問にとって肝要の一事、と思われる」。12世紀刊本の現文面こそ、陳寿原本に最も近いとする思考こそ〝主観主義〟そのものである。
#古田説
後11:05 · 2020年4月11日

古田氏の〝全版本の事実〟は、スローガンにすぎない。宋代に至るまでに多出する「臺」字と一切登場しない邪馬壹という厳然たる事実から自他の眼をそむけさせるためのスローガンである。古田氏は後漢書主義による改変だと主張する。しかし『隋書』は明記している。【則魏志所謂邪馬臺者也】と。
後11:09 · 2020年4月11日

後漢書主義では説明できないのが臺與である。先月も書いたが、『後漢書』には臺與は出てこない。南宋刊本刊行までの間の9世紀の間、たった一つも「邪馬壹」とするものは無い。厳然たる事実である。避けようのないこの事実から目をそらすために、古田氏は〝全版本の事実〟というスローガンを繰り返す。
後11:15 · 2020年4月11日

古田氏が特効薬のように持ち出す「後漢書主義」「神聖至高文字」「全版本の事実」などは既に薬効のないことが明らかにされている。これらのスローガンをいくら繰り返しても、南宋代までの諸書に邪馬壹が一切登場せず、「臺」ばかりであることは如何ともし難い。
#古田説
後11:19 · 2020年4月11日

古田氏は自著のタイトルに「邪馬一」を使うケースが多くなっていく。それは『邪馬一国の証明』冒頭に「〝邪馬一国のすすめ〟―邪馬一国の証明―」という一文を掲載して明言している。そこには何と書いてあるか?「『三国志』の原本には、どこにも「臺」や「台」を使ったものはない」。 #古田説
後11:23 · 2020年4月11日

この書き様は古田説を生かじりした人への〝思考停止メッセージ〟である。事実、この受け売りをブログに書く人も見かける。これは版本とは何か?などという時系列を織り込んだ思考回路を停止させる魔力を持っている。陳寿からの9世紀という長いときの隔たりを隠蔽する効果とも言えよう。 #古田説
後11:26 · 2020年4月11日

前掲分の続きを書く。「みんな「邪馬壹国」または「邪馬一国」だ。それを封建時代の学者が「ヤマト」と読むために、勝手に直したものだった。それが分かった今、あなたが真実を望むなら、この簡単明瞭な「邪馬一国」を、誰の前でも恐れずに使って欲しい」。完全な刷り込みである。
#古田説
後11:30 · 2020年4月11日

明治43年、内藤湖南は「卑弥呼考」の中で「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言うまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり」と明断していることが誤写誤刻説の基本的考え方である。既に古田氏の「邪馬壹国説」については同じ立場からの反論が寄せられている。しかし氏は意に介することは無い。
後11:39 · 2020年4月11日

最早、古田氏の「邪馬壹国こそ是」という主張には、なんらの〝必要にして十分な論証〟など無いことは明白である。そんなものは必要ないのだ!という立場である。なぜなら、自分は現文面こそ正しいという立場に立つから!全くの没論理であり、史料批判の欠落と言えよう。
#古田説
後11:42 · 2020年4月11日

「『三国志』の原本」という言葉がマジックフレーズ。きちんと古田氏の本をよんでいる人には、古田氏がここで言う「原本」とは何か?分かる。しかし、きちんと読まない人、読みかじり・聞きかじりの人は〝へえ!そーなんだ!〟と感じ入ってしまうのかも知れない。
#古田説
前11:23 · 2020年4月12日

事実、ツイートを検索していると、父親から〝邪馬壹が正しいのだ〟と教わったという御仁もいる。この父親氏が古田説の反対説を読み、共通して用いる史料にも自身であたった上で、そのように考えたのならば大したものだ。しかし、想像するに恐らくそうではあるまい。
#古田説
前11:34 · 2020年4月12日

『邪馬一国の証明』7頁「はじめに」「一個のわたしの頭脳が狂っているのか、それとも従来の〝万人の認識〟が狂っていたのか。新しい局面を示す発見に接するたびに、このような問いを深夜ひそかに発し、慄然としたこと、それは稀ではない」。古田氏は自身が正しいと主張する。ならば〝万人の認識〟が?
前11:42 · 2020年4月12日

『隋書』『北史』には倭のことを「俀」で表している。しかし帝紀では倭を用いている。古田氏はこの両者を峻別して、俀=九州王朝、倭=畿内であると主張している。この案を異として薮田氏が指摘している。薮田嘉一郎「「邪馬臺国」と「邪馬壹国」」『歴史と人物 s50 9月号』49頁。
#古田説 #俀 #倭
後7:16 · 2020年4月12日

このように「委」と「妥」は混用されていたので、今の場合両字を弁別することは野暮な話である。「俀伝」は「倭伝」のことであったのである。『北史』巻九十四の「俀国」を同人が撰した『南史』巻七十九には「倭国」に作る。〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
後7:17 · 2020年4月12日

そして「倭国、その先の出づるところ及び在るところ、事、北史に詳なり」と書いているから、「俀」と「倭」が同語であることは疑いない。〈引用終わり〉
古田氏はこれに対して反論する。『邪馬一国の証明』「九州王朝の史料批判」241頁
#古田説 #俀 #倭
後7:20 · 2020年4月12日

ところが、〝『宋書』―『南斉書』―『梁書』相当記事〟で終わっている南朝側では、「俀国」などという国号には〝およそお目にかかったことはない〟のだ。すべて「倭国」だった。だから『南史』では、一貫して「倭国の歴史」の一齣して処理したのである。〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
後7:22 · 2020年4月12日

すなわち、李延寿が『北史』と『南史』で、それぞれ「俀」と「倭」とに書き分けたのは、決して〝漫然たる混用〟の類ではない。逆に〝厳密な峻別〟の表記なのだ。この点、『隋書』における「俀国」と「倭国」という表記例と、ここでも軌を一にしていたのである。考えても見よう。〈続く〉
#古田説
後7:24 · 2020年4月12日

この『北史』『南史』とも、元大徳本だ。つまり同一刊本である。それなのに(かりにいくら「混用字」だったにせよ)、「俀」と「倭」に両著述で版刻し分ける、というのは、何とも〝気まぐれすぎる〟ことではあるまいか。〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
後7:25 · 2020年4月12日

この不自然さ、という事実に薮田氏は深く目をそそぐことなく、いたずらにわたしの説への論難に奔られたようである。〈引用終わり〉
薮田氏は『南史』『北史』の俀・倭を持ち出して指摘しているのだが、それに続いて古田氏の九州王朝説での俀・倭の区別について述べている。
#古田説 #俀 #倭
後7:28 · 2020年4月12日

古田氏によれば俀は九州王朝、倭は畿内のはずだ。ならば『南史』での「倭」はどう理解するのか?「南朝側では、「俀国」などという国号には〝およそお目にかかったことはない〟」などというのも意味不明である。『南史』『北史』ともに李延寿り撰であるが、彼は『隋書』の編纂にも関わっていた。
後7:32 · 2020年4月12日

その『隋書』に於て、俀は九州王朝、倭は畿内だとするのが古田氏の理解のはずだ。それを薮田氏は指摘している。李延寿が『南史』に於て、「倭」を用いているということは、『南史』に書かれた国々は畿内を指す!ということになるのではないか?勿論『南史』には倭の五王の記事がある。
#古田説
後7:35 · 2020年4月12日

倭の五王についての記述のある『南史』の倭とは九州王朝なのか、畿内なのか?「『隋書』における「俀国」と「倭国」という表記例と、ここでも軌を一にしていたのである」などと言うが、どこが「軌を一にして」いるのか?古田氏は自身が『失われた九州王朝』で述べたことを忘れたのか?
#古田説
後7:38 · 2020年4月12日

「軌を一にして」いるというのなら、『南史』に書かれた倭の五王は畿内の王である!ということになる。完全なる自家撞着である。古田氏は藪田氏のこの部分については反論していない。先に引用した文に続けて、「遂に絶つ」への反論へ移っている。でも読者には古田氏がスルーしたことは分からない。
後7:43 · 2020年4月12日

古田氏の「俀と倭は別の国」という主張は、この『南史』『北史』の例ではっきりしている。【倭國,其先所出及所在,事詳北史】と明記してある。両国が別物であるなどという理解は不能である。因みにこれに続く文は【其官有伊支馬,次曰彌馬獲支,次曰奴往鞮】であり、明らかに『魏志』を引く。
#古田説
後7:49 · 2020年4月12日

『北史』には『魏志』の行程記事が引かれている。『魏志』倭人伝が『南史』と『北史』でバラして引用されているのだ。古田氏の抗弁は自説が崩れていないように見せかける〝為にする〟抗弁でしかない。今から45年ほど前の歴史雑誌にはかかる記事が掲載されている。俀・倭別国説などとうに崩壊している。
後7:53 · 2020年4月12日

「いたずらにわたしの説への論難に奔られたようである。」とは、いかにも藪田氏の批判が不当であるかのような物言いだが、こうやって見ると古田氏が藪田氏の批判を一部スルーしていることが分かる。そしてそれは、古田古代史の大きな柱のひとつである「九州王朝説」を揺るがす重要な指摘である。
後10:11 · 2020年4月12日

『邪馬一国の証明』の証明にはまだ不思議な発言がある。252頁、()内の記述。
⇒なお、直木氏は、『三国志』では「刊本時点」を、その他では「著作時点」をあげておられる。しかし厳格な史料批判の立場から検証し、比較しようとするならば、同じ〝刊本同士〟でなければ、論証の論理上、不公平である。
後10:28 · 2020年4月12日

「刊本時点」では、『後漢書』〈宋紹興本に北京図書館蔵本配補〉『梁書』〈宋の蜀大字本に涵芬楼蔵元明逓修本配補〉『隋書』〈元大徳刻本に北京図書館・江蘇省立国学図書館蔵本配補〉『北史・南史』〈元大徳本〉〔いずれも百衲本二十四史所収〕であるから、大異ない。〈続く〉
#古田説
後10:28 · 2020年4月12日

むしろ、南宋本二本〔紹煕本と紹興本〕の配補された『三国志』の方が優秀とさえ言えよう。〈引用終わり〉
意味がよく分からない。直木氏の指摘した『後漢書』『梁書』『隋書』『北史・南史』に「臺」とあることは誰しも否定しない。古田氏でさえ否定しない。共通認識である。
#古田説
後10:32 · 2020年4月12日

「同じ〝刊本同士〟でなければ、論証の論理上、不公平である」とはどういう意味なのか?『三国志』の方は南宋本二本を底本とするから優秀なのだ!だから「壹」が正しいのだ!とでも言うのか?完全に思考停止である。
#古田説
後10:35 · 2020年4月12日

諸氏が古田氏の「邪馬壹国説」を批判するのは、当初は「臺」だったのではないか?ということである。それが後に「壹」と誤られた。そういう指摘である。こういう考慮に対して、何故「同じ〝刊本同士〟でなければ、論証の論理上、不公平である」などという言葉が出てくるのか?意味がわからない。
後10:37 · 2020年4月12日

この部分の古田氏の語調はやや穏やかである。それは直木氏が一部古田氏の所論を評価している事によるものだろう。同228頁「公平にみて古田説に歩のあることは認めなければなるまい」との発言を承けてのことだろう。『まぼろしの国家の原像を求めて 邪馬台国 伝統と現代 保存版』1975/9/1刊p43。
後10:44 · 2020年4月12日

直木氏は同文の中で続けて「このような重要なところを見落としていては、日本古代史の「実証的研究」も、まだまだ弱いといわざるをえない」。確かに仰るとおりである。古田氏は確かに実証的作業を行った。しかしそれはあくまでも〝外形的〟なものにすぎない。
#古田説
後10:49 · 2020年4月12日

古田氏の原文拘泥主義に基づく「壹こそ是」という仮説を裏付けるための「実証的」作業である。俗に〝理屈と膏薬はどこへでも付く〟と言う。古田氏の「実証的」とはこの類のものである。
#古田説
後10:52 · 2020年4月12日

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