陸機「辨亡論」-三國志呉書三嗣主傳裴注-


〈原文〉

陸機著辨亡論,言呉之所以亡,其上篇曰:「昔漢氏失御,奸臣竊命,禍基京畿,毒徧宇内,皇綱弛紊,王室遂卑。於是羣雄蜂駭,義兵四合,呉武烈皇帝慷慨下國,電發荊南,權略紛紜,忠勇伯世。威稜則夷羿震蕩,兵交則醜虜授馘,遂掃清宗祊,蒸禋皇祖。於時雲興之將帶州,飆*起之師跨邑,哮闞之羣風驅,熊羆之族霧集,雖兵以義合,同盟戮*力,然皆包藏禍心,阻兵怙亂,或師無謀律,喪威稔寇,忠規武節,未有若此其著者也。武烈既沒,長沙桓王逸才命世。弱冠秀發,招攬*遺老,與之述業。神兵東驅,奮寡犯衆,攻無堅城之將,戰無交鋒之虜。誅叛柔服而江外厎定,飭*法修*師而威德翕赫,賓禮名賢而張昭為*之雄,交御豪俊而周瑜為之傑。彼二君子,皆弘敏而多奇,雅達而聰哲,故同方者以類附,等契者以氣集,而江東蓋多士矣。將北伐諸華,誅鉏干紀,旋皇輿於夷庚,反帝座于紫闥,挾天子以令諸侯*,清天歩而歸舊物。戎車既次,羣凶側目,大業未就,中世而隕。用集我大皇帝,以奇蹤襲於逸軌,叡心發乎令圖,從政咨於故實,播憲稽乎遺風,而加之以篤固,申之以節儉,疇咨俊茂,好謀善斷,東*帛旅於丘園,旌命交于塗巷。故豪彥尋聲而響臻,志士希光而影騖,異人輻輳*,猛士如林。於是張昭為*師傅,周瑜、陸公、魯肅、呂蒙之疇入為*腹心,出作股肱;甘寧、淩統、程普、賀齊、朱桓、朱然之徒奮其威,韓當、潘璋、黄蓋、蔣欽、周泰之屬宣其力;風雅則諸葛瑾、張承、歩騭以聲名光國,政事則顧雍、潘濬、呂範、呂岱以器任幹職,奇偉則虞翻、陸績、張温、張惇以諷議舉正,奉使則趙咨、沈珩以敏達延譽,術數則呉範、趙達以禨祥協德,董襲、陳武殺身以衞主,駱統、劉基彊諫以補過,謀無遺算,舉不失策。故遂割據山川,跨制荊、呉,而與天下爭衡矣。魏氏嘗藉戰勝之威,率百萬之師,浮鄧塞之舟,下漢陰之衆,羽楫萬計,龍躍順流,鋭騎千旅,虎歩原隰,謀臣盈室,武將連衡,喟然有呑江滸之志,一宇宙之氣。而周瑜驅我偏師,黜之赤壁,喪旗亂轍,僅而獲免,收迹遠遁。漢王亦馮帝王之號,率巴、漢之民,乘危騁變,結壘千里,志報關羽之敗,圖收湘西之地。而我陸公亦挫之西陵,覆師敗績,困而後濟,絶命永安。續以灞*須之寇,臨川摧鋭,蓬籠之戰,孑輪不反。由是二邦之將,喪氣摧鋒,勢衂財匱,而呉藐*然坐乘*其弊*,故魏人請好,漢氏乞盟,遂躋天號,鼎峙而立。西屠庸蜀之郊,北裂淮漢之涘,東苞百越之地,南括羣蠻之表。於是講八代之禮,蒐三王之樂,告類上帝*,拱揖羣后。虎臣毅卒,循江而守,長戟勁鎩,望飆*而奮。庶尹盡規於上,四民展業于下,化協殊裔,風衍遐圻。乃俾一介行人,撫巡外域,臣*象逸駿,擾於外閑,明珠瑋寶,輝於内府,珍瑰重跡而至,奇玩應響而赴,輶軒騁於南荒,衝輣息於朔野,齊民免干戈之患,戎馬無晨服之虞,而帝業固矣。大皇既歿,幼主蒞*朝,奸*回肆虐。景皇聿興,虔修*遺憲,政無大闕,守文之良主也。降及歸命之初,典刑未*滅,故老猶存。大司馬陸公以文武熙朝,左丞相陸凱以謇諤盡規,而施績、范慎*以威重顯,丁奉、鍾離斐以武毅稱,孟宗、丁固之徒為*公卿,樓玄、賀劭之屬掌機事,元首雖病,股肱猶良。爰及末葉,羣公既喪,然後黔首有瓦解之志,皇家有土崩之釁,曆命應化而微,王師躡運而發,卒散於陳*,民奔于邑,城池無藩籬之固,山川無溝阜之勢,非有工輸雲梯之械,智伯灌激之害,楚子築室之圍,燕子濟西之隊,軍未浹辰而社稷夷矣。雖忠臣孤憤,烈士死節,將奚救哉?夫曹、劉之將非一世之選,向時之師無曩日之衆,戰守之道抑有前符,險阻之利俄然未改,而成敗貿理,古今詭趣,何哉?彼此之化殊,授任之才異也。」其下篇曰:「昔三方之王也,魏人據中夏,漢氏有岷、益,呉制荊、揚而奄*交、廣。曹氏雖功濟諸華,虐亦深矣,其民怨矣*。劉公*因險飾智,功已*薄矣,其俗陋矣。呉桓王基之以武,太*祖成之以德,聰*明睿達,懿度深遠矣。其求賢如不及,恤民如稚子,接士盡盛德之容,親仁罄丹府之愛。拔呂蒙於戎行,識潘濬于*係虜。推誠信士,不恤人之我欺;量能授器,不患權之我逼。執鞭鞠躬,以重陸公之威;悉委武衞,以濟周瑜之師。卑宮菲食,以豐功臣之賞;披懷虚己*,以納謨士之算。故魯肅一面而自託,士燮蒙險而效命。高張公之德而省游田之娛,賢諸葛之言而割情欲之歡,感陸公之規而除刑政之煩,奇劉基之議而作三爵之誓,屏氣跼蹐以伺子明之疾,分滋損甘以育淩統之孤,登壇慷慨歸魯肅之功,削投惡言信子瑜之節。是以忠臣競盡其謀,志士咸得肆力,洪規遠略,固不厭夫區區者也。故百官苟合,庶務未遑。初都建業,羣臣請備禮秩,天子辭而不許,曰:『天下其謂朕何!』宮室輿服,蓋慊如也。爰及中葉,天人之分既定,百度之缺粗修*,雖醲化懿綱,未齒乎上代,抑其體國經民之具,亦足以為*政矣。地方幾萬里,帶甲將百萬,其野沃,其民練,其財豐,其器利,東負滄海,西阻險塞,長江制其區宇,峻山帶其封域,國家之利,未見有弘於茲者矣。借使中才守之以道,善人御之有術,敦率遺憲,勤民謹政,循定策,守常險,則可以長世永年,未有危亡之患。或曰,呉、蜀脣齒之國,蜀滅則呉亡,理則然矣,夫蜀蓋藩援之與國,而非呉人之存亡也。何則?其郊境之接,重山積險,陸無長轂之徑;川阨流迅,水有驚波之艱。雖有鋭師百萬,啟*行不過千夫;軸艫千里,前驅不過百艦。故劉氏之伐,陸公喻之長虵,其勢然也。昔蜀之初亡,朝臣異謀,或欲積石以險其流,或欲機械以御其變。天子總*羣議而諮之大司馬陸公,陸公以四瀆天地之所以節宣其氣,固無可遏之理,而機械則彼我之所共,彼若棄長技*以就所屈,即荊、楊而爭舟楫之用,是天贊*我也,將謹守峽口以待禽耳。逮歩闡之亂,憑保城以延彊寇,重資幣以誘羣蠻。于時大邦之衆,雲翔電發,縣旌江介,築壘遵渚,襟帶要害,以止呉人之西,而巴漢舟師,沿江東下。陸公以偏師三萬,北據東坑,深溝高壘,案甲養威。反虜踠跡待戮,而不敢北闚生路,彊寇敗績宵遁,喪師大半,分命鋭師五千,西禦水軍,東西同捷,獻俘萬計。信哉賢人之謀,豈欺我哉!自是烽燧罕警,封域寡虞。陸公沒而潛*謀兆,呉釁深而六師駭。夫太康之役,衆未盛乎曩日之師,廣州之亂,禍有愈乎向時之難,而邦家顛*覆,宗廟為*墟。嗚呼!人之云亡,邦國殄瘁*,不其然與!易曰『湯武革命順乎天』,玄*曰『亂不極則治不形』,言帝王之因天時也。古人有言,曰『天時不如地利』,易曰『王侯*設險以守其國』,言為*國之恃險也。又曰:『地利不如人和』,『在德不在險』,言守險之由人也。呉之興也,參而由焉,孫卿所謂合其參者也。及其亡也,恃險而已*,又孫卿所謂舍其參者也。夫四州之氓非無衆也,大江之南非乏俊也,山川之險*易守也,勁利之器易用也,先政之業易循也,功不興而禍遘者何哉?所以用之者失也。故先王達經國之長規,審存亡之至數,恭己*以安百姓,敦惠以致人和,寬沖以誘俊乂之謀,慈和以給士民之愛。是以其安也,則黎元與之同慶;及其危也,則兆庶與之共患。安與衆同慶,則其危不可得也;危與下共患,則其難不足卹也。夫然,故能保其社稷而固其土宇,麥秀無悲殷之思,黍離無愍周之感矣。
※「漢籍電子文献」による


〈校注〉  左が「漢籍電子文献」、右が百衲本他。

飆:颷(風+焱)。
戮:勠。
攬:擥(攬の本字)。
飭:飾。
修:脩。
為:爲。
侯:矦。
東:束。集解も束。
輳:湊。集解によれば晉書は輳。
為:爲。
為:爲。
灞:濡。
藐:莧の横棒1本。集解「宋本馮本藐作莧晉書文選作莞論語釋文作莧文選校異曰呉志注作藐卽莧之誤」
乘:乗。
弊:獘。犬ではなく大。
帝:帝字闕。
飆:颷(風+焱)。
臣:巨。
蒞:莅。
奸:姦。
修:脩。
未:末。
慎:愼。
為:爲。
陳:陣。
矣:矣字闕。
公:翁。
奄:有。
已:巳。
太:大。
聰:聦。
于:於。
己:已。
修:精。
為:爲。
啟:啓。
總:緫。
技:伎。
贊:賛。
潛:潜。
顛:顚。
為:爲。
瘁:悴。
玄:幺戈。
侯:矦。
為:爲。
已:巳。
險:嶮。
己:巳。


〈読み下し〉

陸機は辨亡論を著はして、呉の以て亡する所を言ふ。其の上篇に曰く、「昔、漢氏の失御*するに、奸臣は命を竊(ぬす)み、禍は京畿に基(おこ)り、毒は宇内に徧(あまね)く、皇綱は弛紊*し、王室は遂に卑(ひく)し。是に於ひて羣雄は蜂駭し、義兵は四合し、呉の武烈皇帝は下國*に慷慨*して、荊南を電發し、權略は紛紜*にして、忠勇は世に伯たり。威稜は則ち夷羿*を震蕩させ、兵交へれば則ち醜虜*授馘*し、遂に宗祊*を掃清*し、皇祖を蒸禋*す。時に於て雲興の將は州を帶し、飆*起の師は邑に跨(拠)り、哮闞*の羣は風驅*し、熊羆*の族は霧集し、兵は義を以て合し、同盟戮力*すると雖も、然(しか)し皆禍心*を包藏して、兵を阻(たの)みて怙亂*し、或ひは師に謀律*無く、威を喪(失)ひ稔寇*し、忠規の武節*、未だ此(か)くの若(ごと)く其の著しき者は有らざる也。武烈は既に沒し、長沙桓王の逸才は命世*たり。弱冠*にして秀發*、遺老*を招攬*し、之と業ヲ述*す。神兵は東驅し、寡*を奮ひて衆*を犯し、攻むるに堅城の將無く、戰ふに交鋒*の虜*無し。叛を誅し服を柔して而るに江外*は厎定*し、法を飭(ただ)し師を修め而して威德*は翕赫*にして、名賢*を賓禮*し、而るに張昭は之を為して雄とし、豪俊を交御するに而して周瑜は之を傑と為す。彼の二君子は、皆弘敏にして而して多奇、雅達にして而して聰哲*、故に同方者は以て類附し、等契者は以て氣集し、而して江東は蓋し多士矣。將に諸華を北伐し、干紀*を誅鉏*し、皇輿*を夷庚*に旋(めぐ)らせ、帝座を紫闥*に反(かえ)し、天子を挾(助)けて以て諸侯に令し、天歩*を清(あきらか)にして而して舊物*に歸さむとす。戎車*の既に次ぐや、羣凶*は側目*するも、大業の未だ就(な)らざるにして、中世*にして隕*す。用集我が大皇帝は、奇蹤*を以て逸軌*を襲ひ、叡心*は令圖*に發し、政に從(よ)りては故實に咨(はか)り、憲*を播(し)くに遺風に稽(当た)り、而して篤固*を以て之に加へ、節儉を以て之に申(重)ね、俊茂*に疇咨(はか)り、好(よ)く謀り善(よ)く斷じ、東帛*は丘園に旅し、旌命*は塗巷*に交ふ。故に豪彥*は聲を尋(聞)きて而して響臻*し、志士は光を希みて而して影騖*し、異人*は輻輳し、猛士は林の如し。是に於て張昭は師傅*と為し、周瑜、陸公、魯肅、呂蒙の疇(たぐい)は入りては腹心と為し、出でては股肱と作(な)す。甘寧、淩統、程普、賀齊、朱桓、朱然の徒は其の威を奮ひ、韓當、潘璋、黄蓋、蔣欽、周泰の屬は其の力を宣(の)べ、風雅なるは則ち諸葛瑾、張承、歩騭の以て聲名國を光(てら)す。政事は則ち顧雍、潘濬、呂範、呂岱の器を以て幹職に任じ、奇偉*なるは則ち虞翻、陸績、張温、張惇の諷議*を以て舉正し、使を奉れば則ち趙咨、沈珩の敏を以て延譽に達し、術數*は則ち呉範、趙達の以て禨祥*協德す。董襲、陳武は身を殺して以て主を衞(まも)り、駱統、劉基は彊諫*して以て過ちを補ひ、謀りて遺算*無く、舉げて策を失はず。故(か)くして遂に山川に割據し、荊、呉に跨制*し、而して天下と爭衡*す。魏氏は嘗(かつ)て戰勝の威を藉(借)り、百萬の師を率ひて、鄧塞*の舟を浮べ、漢陰の衆に下*して、羽楫*萬計、龍躍*し流れに順い、鋭騎は千旅し、虎は原隰*を歩み、謀臣は室に盈(満)ち、武將は連衡し、喟然*たるは江滸を呑むの志、宇宙を一にするの氣有り。而して周瑜は我が偏師*を驅りるや、之を赤壁に黜(退)け、旗を喪(失)ひ轍を亂して、僅かにして免かるるを獲、收迹シ遠遁*す。漢王は亦帝王の號に馮(よ)りて、巴・漢の民を率ひ、危に乘じ變に騁(馳)せ、壘を結ぶこと千里にして、關羽の敗に報いるを志し、湘西の地を收むるを圖る。而るに我が陸公は亦之を西陵に挫(くじ)き、覆師は敗績*し、困*するも濟(救)ひての後、永安に絶命す。續ひて以て灞須の寇は、川に臨み鋭を摧(くじ)き、蓬籠の戰は、孑*輪も反へらず。是に由りて二邦の將は、氣を喪ひ鋒*を摧(くじ)き、勢は衂(衰)へ財は匱(乏)ふも、而るに呉は藐然*坐して其の弊に乘じ、故に魏人は好(よしみ)を請ひ、漢氏は盟を乞ひ、遂に天號に躋(のぼ)りて、鼎峙*して而るに立つ。西は庸蜀の郊を屠り、北は淮漢の涘を裂き、東は百越の地を苞(包)み、南は羣蠻の表を括る。是に於て八代の禮を講じ、三王の樂を蒐(集)め、類*を上帝に告げ、羣后*に拱揖*す。虎臣*毅卒*は、江(長江)に循ひて而して守り、長戟*や勁(強)鎩*は、望飆*而して奮*ふ。庶尹*は上に於て規を盡(尽)シ、四民は下に業を展(開)き、殊裔*を化協*し、遐圻*に風衍*す。乃(すなは)ち一介*の行人*を俾(遣)はし、外域を撫巡し、臣象逸駿*は外閑*に擾(飼)はれ、明珠瑋寶*は内府*に輝き、珍瑰*は重跡し而して至り、奇玩*は應響し而して赴き、輶軒*は南荒に騁(馳)せ、衝輣*は朔*野に息(止)み、齊民*は干戈*の患を免かれ、戎馬*は晨服*の虞(おそれ)無く、而して帝業は固まる。大皇既に歿し、幼主の朝(朝廷)に蒞*(のぞ)むや、奸回*肆虐*す。景皇の聿興*するや、遺憲を虔修*し、政に大闕無く、守文*の良主也。降って歸命の初に及びても、典刑*は未だ滅せず、故老*猶ほ存す。大司馬陸公*は文武を以て朝を熙(興)し、左丞相陸凱は謇諤*を以て規に盡し、而るに施績・范慎は威重*を以て顯(現)はれ、丁奉・鍾離斐は武毅を以て稱へ、孟宗・丁固の徒は公卿と為し、樓玄・賀劭の屬は機事*を掌り、元首*病と雖も、股肱*猶良し。爰(しかる)に末葉に及ぶや、羣公既に喪(な)く、然る後、黔首*瓦解の志有り、皇家土崩の釁*有リ、曆命*は應化し而して微(衰)へ、王師の躡運*は而して發するや、卒は陳(陣)を散り、民は邑を奔り、城池は藩籬*の固*無く、山川は溝阜の勢無く、工輸の雲梯の械、智伯の灌激の害、楚子の築室の圍、燕子の濟西の隊も有らざるにして、軍未だ浹辰*あらずして而して社稷は夷(滅)ぶ。忠臣孤憤し、烈士死節すると雖も、將に奚(なに)をか救ふべきや?夫れ曹(曹操)・劉(劉備)の將は一世の選に非ず、向時*の師は曩日*の衆無く、戰守の道は抑(そもそも)前符*有り、險阻の利は俄然未だ改まらず、而るに成敗*は理を貿(変)へ、古今詭趣*するは、何哉(なんぞや)?彼此*の化*は殊(こと)にして、授任の才異る也」。
其の下篇に曰く、「昔、三方の王也、魏人は中夏に據り、漢氏は岷*・益(州)を有(たも)ち、呉は荊(州)・揚(州)を制し而して交(州)・廣(州)を奄(おお)ふ。曹氏は諸華を濟ふの功なりと雖も、虐は亦深く、其の民は怨む。劉公は險に因りて飾智*するも、功已(いま)だ薄く、其の俗は陋*なるのみ。呉の桓王*は之を基(もとい)とするに武を以てし、太祖は之を成すに德を以てし、聰明睿達*にして、懿度*深遠たり。其の賢を求むるは及ばざるが如く、民を恤(哀れむ、慈しむ)こと稚子の如く、士に接するに盛德*の容を盡し、仁に親しむは丹府*の愛を罄*(つく)す。呂蒙を戎行*於(よ)り拔き、潘濬を係虜于(よ)り識る。誠信*の士を推し、人の我欺を恤(憂)へず、能を量りて器*を授け、權の我逼を患(憂)へず。鞭を執り鞠躬*し、以て陸公の威を重んじ、悉く武衞*を委ね、以て周瑜の師を濟(救)ふ。宮を卑(低)くし食を菲(薄)くし、以て功臣の賞を豐かにし、披懷*虚己*、以て謨*士の算を納(容)る。故に魯肅は一面*にして而して自ら託し、士燮は險を蒙(冒)し而して效命*す。張公の德を高(尊)び而して游田*の娛(楽しみ)を省き、諸葛(瑾)の言を賢(尊)び而して情欲の歡を割き、陸公の規に感じ而して刑政*の煩を除き、劉基の議を奇*とし而して三爵(杯)の誓を作り、屏氣*跼蹐*以て子明*の疾(病)を伺ひ、滋を分ち甘を損ひ以て淩統の孤*を育み、登壇*慷慨*するに魯肅の功に歸し、惡言を削投*して子瑜の節を信ず。是以(ここを以て)忠臣は競って其の謀を盡くし、志士の咸(皆)肆力*するを得、洪規*遠略*、固より夫(そ)の區區たるに厭(飽)かざる者也。故に百官苟合*するも、庶務未だ遑(暇)あらず。初め建業に都し、羣臣は禮秩*を備ふるを請ひ、天子は辭して而して許さず、曰く、『天下其の謂(おも)へらくに朕の何ぞや!』。宮室輿服、蓋く慊如*也。爰(則)ち中葉に及び、天人の分既に定まり、百度*の缺粗は修まり、醲化*懿綱*は、未だ上代に齒(及)ばざると雖も、抑(そもそ)も其の國經民の具を體し、亦た以て政を為すに足る。地は方幾萬里にして、甲將百萬を帶し、其の野は沃にして、其の民は練、其の財は豐かにして、其の器は利、東に滄海*を負ひ、西は險塞*に阻み、長江は其の區宇*を制し、峻山は其の封域を帶(巡)らせ、國家の利は、未だ於茲者(これにおいて)弘(広)きの有るを見ず。借(試み)に中才*をして之を守ら使むるに道を以てし、善人をして之を御するに術有らば、遺憲*に敦く率(従)ひ、勤民謹政して、定策に循(従)ひ、常險を守らば、則ち以て長世永年す可きにして、未だ危亡の患有らず。或ひは曰く、呉・蜀は脣齒*の國にして、蜀の滅ぶや則ち呉の亡ぶは、理則ち然り、夫れ蜀は蓋し藩援*の與國*なるも、而して呉人の存亡に非ざる也。何則(何となれば)、其の郊境の接するは、重山積險し、陸に長轂*の徑無く、川は阨(狭)く流は迅(速)く、水に驚波の艱有り。鋭師*百萬有りと雖も、啟行*するは千夫に過ぎず、軸艫千里なるも、前驅するは百に過ぎず。故に劉氏の伐、陸公は之を長虵に喻(たと)ふるは、其の勢や然也(しかり)。昔、蜀の亡せし初め、朝臣の異謀するに、或ひは石を積み以て其の流れを險しくせむと欲し、或ひは機械以て其の變を御するを欲す。天子は羣議を總(す)べ、而して之を大司馬陸公に諮るに、陸公は四瀆*を以て天地の其の氣を節宣*する所以(ゆえん)にして、固(もとよ)り遏(止める)可くの理無く、而も機械は則はち彼我の共にする所にして、彼若(も)し長技を棄て以て屈する所に就かば、即はち荊(州)、楊(州)は而して舟楫*の用を爭ひ、是れ天の我を贊(助)くる也、將に峽口を謹守し以て禽(とりこ)を待つ耳(のみ)。歩闡の亂に逮(およ)び、城に憑保*し以て彊寇*に延べ、資幣を重ねて以て羣蠻を誘ふ。時に大邦の衆は、雲翔電發し、江介(界)に旌を縣け、渚に遵(したが)って壘を築きて、襟帶*要害、以て呉人の西するを止め、而して巴漢の舟師、江に沿ひて東下す。陸公は偏師三萬を以て、北して東坑に據り、溝を深くし壘を高くし、甲を案じ威を養ふ。反虜*は踠跡*して戮を待ち、而るに敢へて北に生路を闚(窺う)ひもせず、彊(強)寇(敵)も敗績*して宵遁*して、師の大半を喪ひ、分ちて鋭師五千に命ずるに、西は水軍を禦ぎ、東西同じく捷(勝)ち、俘を獻ずるに萬を計る。信(まこと)なる哉(や)賢人の謀、豈(あ)に我を欺かむ哉!是れ自(よ)り烽燧(のろし)は警するも罕(まれ)にして、封域の虞(恐れ)寡(少な)し。陸公の沒するや而(すなは)ち潛謀*は兆(きざ)し、呉の釁*は深く而して六師は駭(乱)る。夫(そ)れ太康の役、衆は曩日の師に未(いまだ)し盛んなるや、廣州の亂、禍は向時の難に愈(勝)るもの有りや、而して邦家は顛覆し、宗廟は墟と為す。嗚呼!人之云亡*、邦國の殄瘁*するは、其れ然らざる與(かな)!易*の曰く『湯武*の革命は天に順ふ』と、玄*の曰く『亂極まざれば則ち治は形(現)れず』と、帝王の天時に因るを言ふ也。古人に言有りて曰く『天の時は地の利に如(しか)ず』と、易に曰く『王侯は險に設け以て其の國を守る』と、國を為(治)むるは之れ險を恃(たの)むと言ふ也。又曰く:『地の利は人の和に如かず』、『德在らば險在らず』と、險を守るは之れ人に由るを言ふ也。呉の興る也(は)、參而して由る焉(や)、孫卿の所謂其の參を合はす者也。其の亡に及ぶ也、險を恃む而已(のみ)にして、又孫卿の所謂其の參を舍(捨)つる者也。夫れ四州の氓(民)は無衆に非ざる也、大江の南は俊*乏しきに非ざる也、山川の險は守るに易き也、勁利*の器は用ふるに易き也、先政の業は循(したが)ふに易き也、功は興きず而して禍遘なるは何(なんぞ)哉?之を用ふるの失なるが所以(ゆえん)也。故に先王は經國の長規に達し、存亡の至數*を審(つまびらかに)し、己を恭(つつし)み以て百姓を安んじ、惠を敦(あつ)くし以て人の和を致し、寬沖*以て俊乂*の謀を誘ひ、慈和*以て士民の愛を給ふ。是を以て其の安なる也、則ち黎元*之(これ)と同慶し;其の危に及ぶ也、則ち兆庶*之と共患す。安んずるに衆と同慶すれば、則はち其の危や得る可からざる也;危くして下と共患すれば、則はち其の難は卹(憂)ふ足らざる也。夫れ然り、故に能く其の社稷を保ち而して其の土宇*を固むれば、麥秀*殷を悲しむの思無く、黍離*周を愍(哀れ)むの感無し。


〈字釈〉  「諸」は『諸橋大漢和辞典』。数字は巻-頁。

失御:国家の統治を誤る。
弛紊:弛み乱れる。
下國:地方。
慷慨:怒り嘆くこと。
紛紜:盛ん。
夷羿:いげい。簒奪者。夏の時代の有窮国の君主。弓術にすぐれ、横暴で政治を顧みなかったため、臣下の寒浞(かんさく)に殺された。以下百度百科。后羿(約前1998年—前1940年),又稱“夷羿”、“羿”,“後”是夏代君主尊號,夏代有窮氏首領。夏后仲康死後,其子相繼位。不久,羿驅逐了相,自己當了君主,是為夏時代第六任君主,後被家臣寒浞(かんさく)所殺。
醜虜:敵国人、多くの捕虜。
授馘:首を斬る。
宗祊:先祖を祀る。
掃清:掃き清める。
蒸禋:火をくべて祀る。
飆:つむじ風。
哮闞:吠える。
風驅:風のように駆ける。
熊羆:ゆうひ。熊とヒグマ。勇猛な喩え。
戮力:りくりょく。力を併せる。
禍心:謀叛の心。
怙亂:乱につけ込む。
謀律:思案。
稔寇:敵を利する。
武節:軍隊の節度。
命世:世に有名なこと。
弱冠:二十歳。
秀發:優れて立派なこと。
遺老:先帝よりの旧臣。
招攬:人を招いて心を引き寄せる。
述:受け継ぐ。
寡:少数。
衆:多数。
交鋒:交戦。
虜:敵。
江外:揚子江の南の地。
厎定:平定。
威德:威厳のある徳。
翕赫:盛んな様。
名賢:名高い賢者。
賓禮:客をもてなす儀式。
聰哲:非常に賢い。
干紀:秩序を犯す者。
誅鉏:討伐する。
皇輿:天子の輿。
夷庚:東と西。
紫闥:皇居。
天歩:国運。
舊物:昔の制度。
戎車:兵車。
羣凶:多くの悪人ども。
側目:憎しみや恐れのため目をそらす。
中世:生涯の中途。
隕:没。
奇蹤:優れた功績・事跡。
逸軌:すぐれたあしあと、けだかい手本。諸11-97。
叡心:天子の言動。
令圖:よいはかりごと。諸1-618。
憲:法。
篤固:志が厚くかたいこと。諸8-834。
俊茂:才知や学問が優れている人、事。
東:束の誤。束帛で束ねたきぬ。
旌命:賢士を招き、人材を任用すること、その使者。諸5-700。
塗巷:ちまた、市街。
豪彥:優れた人物。
響臻:響いて至る。
影騖:む。馳せる。
異人:優れた人、非凡な人。
師傅:太師と太傅。天子を補佐する官。
奇偉:優れて立派なこと。
諷議:それとなく諭す。
術數:国を治めるてだて、法制。
禨祥:吉凶などのきざし。
彊諫:強く諫める。
遺算:目論見違い。
跨制:双方にまたがって支配する。
爭衡:天下の権を得ようと勝負を争う。
鄧塞:地名。
下:命令を発する。
龍躍:劉が躍(おど)る。
羽楫:羽のような櫂。
原隰:平らな高い土地と湿った低い土地。
喟然:きぜん。ため息をつくさま。嘆息するさま。
偏師:一部の軍隊。
遠遁:遠くへ逃げる。
敗績:戦いに大敗する。
困:進退窮まる。
孑:けつ、げつ。①ひとり。ひとつ。「孑立」 ②ちいさい。みじかい。 ③のこる。あまる。by goo辞書。
鋒:ほこ、剣。
藐然:ばくぜん。遠く離れた様。
鼎峙:三方に分かれて対立する。
類:日月星辰の祀り。
羣后:諸侯。
拱揖:両手を胸の前でこまねいて会釈する。
虎臣:虎のような臣下。
毅卒:武き兵士。
長戟:長いホコ。
鎩:剣、ホコ。
望飆:乱を望む者。
奮:おののき震える。
庶尹:諸々の長官。
殊裔:遠い未開の国。
化協:協和。
遐圻:畿外。
風衍:教化が溢れ拡がる。
一介:一人。
行人:使者。
逸駿:駿馬。
外閑:朝廷の厩。
瑋寶:珍宝。
内府:兵器や貢ぎ物を入れる宮中の倉。
珍瑰:珍品貴宝。
奇玩:珍物。
輶軒:天子の使者の乗る車。
衝輣:兵車。
朔:北方。
齊民:庶民。
干戈:戦乱。
戎馬:軍馬。
晨服:朝早く車に馬をつけること。諸5-888。
蒞:臨む。辞書に無し。
奸回:邪悪。
肆虐:しぎゃく。ほしいままに虐げる。
聿興:いっこう。治める。
虔修:謹んで修める。
守文:以前からある法律や制度を守って、武力などを用いない。
典刑:古来の掟。
故老:古老。
陸公:陸抗。
謇諤:直言。
威重:いかめしく重々しい。
機事:機密のことがら。
元首:国のかしら。天子、帝王。
股肱:主君の手足となって働く、最も頼みとなる家来。
黔首:人民。
釁:きん。争いのもと。
曆命:月日の運行と運命。
躡運:じょううん。天運。
藩籬:垣根。
固:防備。
浹辰:しょうしん。十二支一巡=十二日間。
向時:当時。
曩日:過ぎ去った日。
前符:手本。
成敗:勝敗。
詭趣:趣を異にする。
彼此:あれとこれ。
化:教化。
岷:岷江・岷山一帯の地。
飾智:智恵があるように見せる。
陋:卑しい、古くさい。
桓王:孫策。
聰明睿達:賢くてものの道理をよく知る。
懿度:立派な度量。
盛德:優れた徳。
丹府:心の底。
罄:けい。つくす。
戎行:軍隊。
誠信:真心、まこと。
器:才能によって人を適所に用いる。
鞠躬:体をかがめて敬いつつしむこと。
武衞:近衛兵。
披懷:心の中を開く。
虚己:自分の心をむなしくして人の言うことを聞き入れる。
謨:国家の大計。
一面:一度会うこと。
效命:命を捨てる覚悟で全力を尽くす。
游田:狩。
刑政:刑罰に関する政治。
奇:優れている。
屏氣:息をひそめる、おそれ慎むこと。
跼蹐:非常に恐れて身の置き所のないこと。
子明:呂子明=呂蒙。
孤:孤児。
登壇:天子の位に就く。
慷慨:意気上がり感激する。
削投:うち捨てる。
肆力:尽力。
洪規:大計。
遠略:遠謀。
苟合:こうごう。いささか集まる。
禮秩:諸々の儀礼の総体によって示される、宮廷等での序列秩序。
慊如:慎ましい。
百度:いろいろの法律制度。
醲化:てあつい、こまやか。
懿綱:立派な綱紀。
滄海:大海或いは東海・渤海。
險塞:要害堅固な砦。
區宇:区域。
中才:中くらいの才能の人。
遺憲:残された掟。
脣齒:唇と歯。互いに利害関係が密接なこと。
藩援:守り助ける。
與國:同盟国。
長轂:長い車両。
鋭師:選り抜きの強い軍隊。
啟行:啟=啓。道を開く。
四瀆:四つの大河。揚子江、黄河、淮水、済水。
節宣:調節か。
舟楫:船とかじ。
憑保:依って保つ。
彊寇:強い敵。
襟帶:山や川に囲まれた要害の地。
反虜:反逆者=歩闡。
踠跡:もがき足踏みする。
敗績:戦いに大敗する。
宵遁:夜間逃亡する。
潛謀:密かな謀。
釁:仲違い、亀裂。
人之云亡:賢人死亡了by百度百科。
殄瘁:てんすい。国力が弱って苦しむ。
易:易経。
湯武:湯王と武王。
玄:太玄経。
俊:優れた人。
勁利:武器などが鋭く強い。
至數:優れた策略。
寬沖:広く深いこと。
俊乂:優れて賢い人。
慈和:君主は臣下を慈しみ臣下は君主に和する。
黎元:多くの民。
兆庶:多くの民。
土宇:国土。
麥秀:箕子の一節。
黍離:詩経の一節。


〈現代語意訳〉

陸機は「辨亡論」を著して、呉がどうして亡んだのかを言っている。その上篇に言う。「昔、漢室が国家の統治を失ったとき、奸臣(董卓)は政権を盗み、禍は京畿に基(おこ)り、その毒は世界中にあまねく拡がり、皇帝の統治は弛み乱れて、王室の権威は遂に地に堕ちてしまった。是に至って羣雄は立ち上がり、義兵は四方から集まって、呉の武烈皇帝も地方にありながら怒り嘆いて、荊南の地に奮い立ち、權略を盛んにして、その忠勇は世の中に秀でた。その威は則ち簒奪者を震え上がらせ、兵を交えれば則ち醜虜の首を斬って、遂に漢の宗廟を掃き清め、皇祖への蒸禋をしたのである。時にあたって雲のごとくわき起こった將たちは州を手にし、つむじ風のように起った兵は村々を占拠し、咆吼する軍勢は風のように驅け抜け、猛獣のように猛々しい者たちは霧のごとく集まり、兵たちは義を以て力を合わせ、同盟して力を併せるとはいっても、しかし皆謀叛の心を内に抱き、兵を阻(たの)んで乱につけ込もとうとしたし、或いは軍に思案も無く、威信を失い敵を利したりしたが、忠誠と軍隊の節度において、未だこの(武烈皇帝・孫堅)ようにその著しい者は無かった。武烈皇帝の沒した後、長沙桓王の優れた才能は世に有名であった。二十歳にして優れて立派で、先帝よりの旧臣たちを招き寄せ、彼らと共に先帝の遺業を受け継いだ。神のような兵たちは東へ驅け、少数を奮って多数を破り、攻められて城を守ることのできた將は無く、戰っても交戦しうる敵は無かった。叛く者は誅し、服属するものは懐柔し、そうして揚子江の南の地は平定され、法を整え軍隊を整備することで威德は盛んなとなり、名高い賢者をもてなしたが、中でも張昭が秀でており、豪く俊者と交わり仕えさせたが、周瑜は抜きん出ていた。その二人は、皆弘敏にして多奇、雅達にして非常に賢かったので、故に同じ性向の者たちが寄り集い、同じ志の者たちは意気投合して、江東の地は多士済々となったのである。將に諸華を北伐し、秩序を犯す者を討伐し、漢の天子の輿を東西に旋らせ、帝座を皇居に戻して、天子を助け、以て諸侯に発令し、国運をあきらかにして、それによって昔の制度に歸そうとした。兵車が既に宿営するや、多くの悪人どもは憎しみや恐れのため目をそらしたのだが、大業が未だ成就しないうちに生涯の半ばにして没した。用集(語義未詳)我が大皇帝は、優れた功績を以て逸軌を踏襲し、叡心は令圖に發して、政事にあたっては故實に咨(はか)り、法を播(し)くには遺風に稽(当た)り、そうして篤い志をこれに加え、節儉をこれに重ね、才知や学問が優れている人に咨り、好く謀り善く斷じ、束帛は丘園に旅し、賢士を招く使者は巷に行き交った。それ故に優れた人物は聲を聞いて響くように集まり、志士は光を希んで影のように馳せて、優れた人々が寄り集まり、勇猛な人々は林のように集った。その中でも張昭を天子の補佐役とし、周瑜、陸公、魯肅、呂蒙という人たちは宮中で腹心となり、外に出れば股肱となった。甘寧、蒋統、程普、賀齊、朱桓、朱然という人たちは国威を奮い起こし、韓當、潘璋、黄蓋、蒋欽、周泰という人たちが国の力を伸ばし、風雅の人々としては諸葛瑾、張承、歩隲らの名声が國を照らした。政事においては顧雍、潘濬、呂範、呂岱という器が要職に任じ、非凡なるものとしては虞翻、陸績、張温、張惇たちが主君を諭し正したし、使を奉じては趙咨、沈?の敏なるを以て国の名譽を延べ拡げ、国を治める手だてについて呉範、趙達らが吉凶などによって君主の人民を教化する助けとした。董襲、陳武はわが身を殺しても主君を衞ったし、駱統、劉基は強く諫めることで主君の補った。謀(はかりごと)をしても目論見違いなど無く、行ってもその策が失敗することは無かった。そうして遂に山川に割據し、荊州、呉州とにまたがって支配するようになり、それによって天下の権を得ようと勝負を争うまでになったのである。魏氏はかつて戰勝の勢いを借りて、百萬の軍を率い、鄧塞(地名)の軍船を浮ベ、漢陰の軍勢に命令を発して、羽楫萬計、龍躍し流れに順い、鋭騎千旅し、虎は原隰を歩み、謀臣たちは陣屋に満ち、武將たちは牛馬の横木を連ね、大きく息をすれば江湖を呑む程の志と、宇宙を一つにする氣迫が有った。しかるに周瑜は我が軍の一部を驅りて、之を赤壁に退けるや、魏は旗を失い轍を亂して、辛うじて免がれることが獲て、收迹し遠くへ逃げ帰ったのである。漢王は亦、帝王の號に馮(よ)って、巴・漢の民を率い、呉の危に乘じ變を受けて馳せ、壘を千里に結ぶことにより、關羽の敗北に報いんと志し、湘西の地を收めようと圖った。しかしながら我が陸公(陸遜)は亦之を西陵に挫(くじ)き、劉備は戦いに大敗し、進退窮まりながらも救われて後、永安に於て絶命した。續いて起こった濡須への外寇では、川に臨み精鋭を摧(くじ)き、蓬籠の戰では、兵車の一輪も還ることは無かった。是により魏・蜀二国の將は、戦意を喪失し鋒を摧(くじ)き、勢は衰え財も乏しくなったのだが、しかし呉は藐然坐して其の弱点に乘じたので、それが故に魏人は好(よしみ)を通じることを請い、漢氏(蜀)は同盟を乞い、遂に帝座にのぼって、鼎立することになったのである。西では庸や蜀の周辺を攻め取り、北は淮水や漢水の流域を裂きとり、東では百越の地を包み込み、南では羣蠻の地までも取り込んだ。こうして八代之禮を講じ、三王之樂を集め、日月星辰の祀りを以て上帝に告げ、諸侯を恭しく招いたのである。虎のような臣下や勇猛な兵士は、長江に循って守りを固め、長い鉾や強い剣には、乱を望む者もおののき震えた。諸々の長官は上にあっては規範を尽し、四民は下にあって業を開き、遠い未開の国を協和し、畿外に教化が溢れ拡がった。そこで一人の使者遣わし、外域を撫巡し、臣巨象や駿馬は朝廷の厩に飼われ、宮中の倉には珍宝が輝き、貴重な品々は次々に到来し、珍らしい物は打てば響くように集まってきた。天子の使者の乗る車が南方に馳せることも、兵車が北方に進むこともなく、齊庶民は戦乱の憂いを免れ、軍馬は朝早くから車を引く虞(おそれ)も無く、そうして帝業は固ったのである。大皇帝(孫権)はやがて歿し、幼主(孫亮)が朝廷に臨むようになると、邪悪な者達が残虐を恣にした。景帝(孫休)の治世になって、遺された法を謹んで修め、朝政に大きな闕陥は無く、以前からある法律や制度を守って、武力などを用いない良君となったのである。時代は降って歸命侯(孫皓)の初年に及んでも、古来の掟は未だ滅びず、古老も猶お存命であった。大司馬の陸公(陸抗)は文武を以て朝政を盛んにし、左丞相の陸凱は直言を以て規範を盡したし、施績・范慎は威厳の重さを以て現われ、丁奉・鍾離斐は武勇を以て稱され、孟宗・丁固等は公卿となり、樓玄・賀劭という者達が機密のことがら掌握し、天子が病と雖も、主君の手足となって働く家来達は猶良かったのである。しかるに、その末葉に及んで、これら羣公は既に喪(な)くなってしまった後、人民の心は瓦解のをはじめ、皇室も崩壊の気配が起きて、国の天命はそれに應じて衰微すると、王師(晋の軍)は天運によって發するや、兵卒は陣を棄て、人民は邑を捨て去り、城池も垣根としての防備にもならず、山川はまた溝阜ほどの形勢無く、工輸の雲梯のような機械、智伯の灌激の攻撃、楚子の築室の方圍、燕子の濟西の隊も有らずして、晋軍は未だ十二日間もせずに呉の社稷は滅んだのである。忠臣は独り憤慨し、烈士は節を保って死んだと言っても、どうしてこれを救うことが出来たろうか?曹操や劉備の将軍達は一代にして頭角を現わしたものではないのだが、滅亡当時の軍は過去のような大軍ではなく、戰守の道は抑(そもそも)手本が有り、險阻の利は俄に改まった訳でもないのに、しかし勝敗が変わり、古今において結果が違ったのはどうしてなのか?それとこれでは教化が異なり、任を授かるものの才が異っていたからだ」。
其に下篇に言う、「昔、三方の王は、魏は中夏に據り、漢(蜀)は岷江・岷山一帯の地と益州を有(たも)ち、呉は荊州・揚州を制し、そうして交州・廣州を奄(おお)った。曹氏には諸華を平定する功があったと言っても、暴虐はまた、其の民はこれを怨んだ。劉公は險阻に因って知謀を巡らせたが、その功績は已(いま)だ薄く、其の風俗も古くさいものであった。呉の桓王(孫策)は武を以てその基礎とし、太祖(孫権)は德を以て成し、聰明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの權力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豐かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯肅は一度会っただけで自らを託し、士燮は險を冒して臣下となることを望んだのである。張公の德を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵(杯)之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂子明=呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯肅の功績に歸し、惡言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。こういう訳で忠臣達は競って其の謀を盡くし、志士は皆尽力することができたし、大計は遠略にして、固より區區たるに飽きぬものであった。だから百官は幾らかまとまってはいたが、庶務については未だ手が回らなかった。建業に都した当初、羣臣は禮秩を備えるように願ったが、天子は辭退して許さず、『天下は朕にことを何と思うだろうか!』と言った。宮室や輿服は、蓋く慎ましかった。中葉に至って、天人の身分も既に定まり、いろいろの法律制度の不備も整えられて、手厚く細やかで立派な綱紀は、上代には及ばないとは言っても、そもそも國を治める機能はその體をなし、また政治を行うに十分となったのである。統治する地域は方幾萬里にもなり、甲將は百萬を有し、その田野は肥沃にして、その民はよく訓練され、その資材は豐かにして、その武器は鋭利であり、東は大海を背にし、西は山險が阻み、長江はその区域を制し、峻しい山々がその封域を巡っていて、國家の利のこれほど広く備わっていることは、未だ例を見ないほどである。試みに中くらいの才能の人をして道を以って國を守らせ、善人が國を御する術を持ち、残された掟に篤く従い、民を勤めさせ政治に謹しみ、定策従って常險を守ってゆけば、則ち國は末永く、未だ危亡の憂いは無いのである。或いは、呉と蜀は互いに利害関係が密接な間柄であり、蜀が滅べば則ち呉も滅ぶというのは、理の当然にして、蜀は蓋し守り助ける同盟国ではあっても、だからといって呉の存亡にかかわるものでは無いとも言う。何となれば、両国の国境を接しているのは、連なる山々であり、陸路には長い車両の進む徑も無く、川狭く流れも急で、水路には激しい波の難所も有る。選り抜きの強い軍隊が百萬有ると言っても、道を開いて行けるのは千人程にも過ぎず、千里に連なる艦隊も、先駆けするのは百に過ぎない。だから劉氏が出兵したときも、陸公は之を長蛇に喩(たと)えたのは、其の地勢からして当然なのである。昔、蜀が滅亡した当初、朝臣たちは様々な謀をするに、或いは石を積んで急流を作ればいいと考えたり、或いは機械を以て變に対応すればいいと考えたりした。天子は羣議を總括して、その上で之を大司馬陸公に諮ると、陸公は四つの大河:揚子江、黄河、淮水、済水は以って天地が其の氣を調節する所以(ゆえん)にして、固(もとよ)り止める理由など無く、而も機械は則わち彼我共に用いる所であって、彼若(も)し得手を棄てて窮屈な手段を執れば、即ち荊州、楊州は水軍の用戦を爭うことになり、是こそ天が我を助けけるものにして、將に峽口を謹守して敵が禽(とりこ)になるのを待つ耳(のみ)である。歩闡は亂に及んで、城に依って保ち以て彊寇(強い敵=晋)を引き寄せ、資幣を重ねて羣蠻に誘いを掛けた。時に大邦(=晋)の軍勢は、雲集し、長江の川沿いに旌を縣け、渚に沿って壘を築いて要害とし、それで呉人の西進するのを止め、そうして巴漢の水軍は、長江に沿って東下してきたのである。陸公は軍隊の一部、三萬を以って、北へ進み東坑に據ると、溝を深くし壘を高くして、兵を安んじ戦意を養った。反逆者(歩闡)はもがき足踏みして誅殺を待つのみで、なのに敢えて北に活路を窺うこともせず、敵も大敗して夜間逃亡して、軍勢の大半を喪ったのである。別に精鋭五千に命じて、西は水軍を禦ぎ、東西同じく勝利を得て、捕虜になった者は萬にも上った。誠に賢人の謀(はかりごと)というものは、我々を裏切らないものであることよ!是れより烽燧(のろし)が急を告げることも稀で、領域には不安も少くなったのである。陸公が沒すると陰謀の兆(きざし)が見え始め、呉における亀裂も深くなり、そうして六軍の兵士にも乱れが生じた。太康の役^では、軍勢も昔日の程には盛んではなく、廣州の亂^の折りも、禍は当時の困難に勝るものでもなかったのだが、しかし国家は顛覆し、宗廟も廃墟となってしまった。ああ!『詩経』には「賢人が消え去って、國家が衰亡する」とあるのはその通りではないか!『易経』の言う『湯王・武王が革命を起こしたのは天に順ったのだ』とは、『太玄経』の言う、『亂が極まらなければ治政は出現しない』とは、帝王は天の時に因るとことを言っているのである。古人の言に『天の時は地の利に如(しか)ず』と言い、『易経』に『王侯は險に備えることで以って其の國を守る』と言い、國を治めるには險に恃(たの)ことを言っているのである。又『地の利は人の和に如かず』、『德在らば險在らず』とも言われるが、險を守ることは之れ人に由ることを言っているのである。呉の國が興ったのは、この三つに由っているのだが、孫卿(荀子)の所謂「其の參を合わせた」者なのだ。其の滅亡の時には、險を恃(たの)むだけであり、又孫卿の所謂「其の參を捨てた」ものであったのだ。呉の四州の民は決して少なかった訳ではなく、長江の南に優れた人が乏しかった訳でもなく、山川の險は守るに易く、鋭利な武器は容易に用いることができたし、先政の業は循(したが)い易かったのに、成果が上がらず禍をもたらしたのは何故だろうか?之を用いるに失敗したからである。だからこそ先王は国家経営の恒久的規範に通暁し、繁栄と滅亡の優れた策略を審(つまびらか)にし、己を慎み民衆を安んじ、仁愛を敦(あつ)くし、人の和を為し、広く深い心で優れて賢い人の献策を誘い、慈和の心で士民への愛を給わった。だからこそ國が安定している時は、多くの民はともに慶び、危急になれば、多くの民はまた共に憂えたのである。安定しているとき、民衆と慶びを分かち合えば、則ち危機など起きえないのであるし、危機にあって下々と憂いを共にすれば、則ち其の困難など憂えるに足らない。それは当然であって、故によく国家を保つことが出来、そうして其の国土を固めれば、麥の穂の秀いでても^殷を悲しむ思いも無く、黍が生い茂っても^周を哀れむ気持ちも感ずることは無いのである」。


〈補注〉

^太康の役:呉国滅亡の際の晋の出兵。279-280。
^廣州(郭馬)の亂:279広州で郭馬が起こした乱。
^麥の穂の秀いでても、黍が生い茂っても:麦の秀が出そろったとは、殷の滅亡のあと、殷の皇族の微子が殷虚を通りかかり、都のあとに麦が生えそろっているのを見て嘆いた歌を作ったこと。『尚書大伝』に見える。 ^黍が生えそろったとは、『詩経』王風の黍離篇にもとづき、西周が滅びたあと、周の大夫が西周の都あとが一面に黍ばたけとなっていることに心を動かされてこの詩を作ったとされる(『筑摩』102p)。


〈書影〉  陸機「辨亡論」(百衲本『三國志』呉書三嗣主傳裴注)

尚、原文・拙訳ともにweb上で表示されない文字は書影参照。


〈跋〉

思うところあって、昨年6月20日の着手以来、難渋頓挫していた三國志呉書三嗣主傳裴注所引陸機「辨亡論」の釋読を仕上げることにした。“仕上げる”とは言っても、いつもながらの、否いつも以上の未消化生煮えの仕上がりとなったことは紛れもない。

『三國志』呉書陸遜傳の調べに始まり、「三國志呉書陸抗傳裴注漢晉春秋」「三國志呉書陸抗六子傳」と進んで、陸遜の孫陸機の「辨亡論」に辿り着いたわけだが、陸抗傳に陸機を評して【機天才綺練,文藻之美,獨冠於時】或いは【機文章為世所重】とも記される通り、その文才は世に秀でていた。

その陸機の「辨亡論」を釋読してみようと言うのであるから、初めから無謀の極みだったのかも知れない。『易経』『太玄経』『荀子』『箕子』『詩経』などという当時としての古典を知悉していなければ到底読み抜くことなど出来ないのだろう。

まして漢文の素養もなく、浅慮浅学の身にしてかかる挑戦を試みるなど、諸賢の目には滑稽の極みと映るのかも知れない。

それでも敢えて恥を忍んで艱難辛苦の成果物をここに掲示するのは、それを見て貰うためではなく、艱難辛苦の過程を自分自身忘れないための記念碑としたいがためである。

今週、身近な人が突然重篤な病に倒れた。一命は取り留めたものの、これから長いリハビリが待ち構え、後遺症が残るかも知れないとも聞いた。

我が身を振り返って思えば、その人より十歳余年長の私の身に突然の病が訪れることがあるかも知れない。或いは予期せぬ事件・事故または災害などに見舞われ、従前の生活が失われる恐れも無いとは言えまい。

そうなった時、あれこれと悔やまれることが浮かび上がってくるだろうが、昨年釋読に挑戦して未だ終えることの出来ていない「辨亡論」は小さくとも後悔の一つになるのではないかと思った。

そう思い立った途端、これまでに無い速さで釋読が進み、未熟ながら数日にして現代語意訳まで仕上げることが出来たのである。

今回も筑摩書房『世界古典文学全集 三国志』の力を大いに借りたが、それでも完成された日本語訳としての『三國志』よりは、自分の身の丈に合った生煮えの訳の方が自身の記念碑としては相応しいのではないかと考え、諸賢には読むに耐えない程度の文章ではあろうが、敢えて掲示することにした次第である。

難解な字句も多く、図書館で『諸橋大漢和』を開いて幾つかの熟語等は意味を判じることが出来たが、『諸橋』にも無く、ついにはネットで検索してもとうとうその意味を訳することの出来なかった言葉もあった。

「用集」である。『筑摩』では、これを「このようにして」とサラリと訳してあるが、『漢和中辞典』の「用」「集」の項を見て、字義を組み合わせてみても、凡庸なこの身には、どうして「用集」が「このようにして」と訳せるのか全く分らなかった。

漢文での用例なのだろうか?それとも古典中に用いられる慣用句なのだろうか?

やむなく「字義未詳」として、ここでも己の未熟を明らかにしておくことにした。

ともあれ、陸機「辨亡論」の拙訳を掲示することにしたのだが、当然のことながら、ことはこれで終らない。文中に出現する歴史事象について調べ、それを注として併記しなければ、後歳この私自身が自分の文章を読んで俄にはその意味が飲み込めない・・・という事態の生じる恐れもある。

尚、『三國志』三嗣主傳に附注された「辨亡論」は、陸機「辨亡論」の一部である。『晉書』にはその全文が引用されていると言うが、いまは『晉書』を開いてみようという気にはならない。

『三國志』裴注のものだけでも三千文字程度あり、これは大凡二千文字とされる『魏志』倭人傳の一倍半にあたる。もちろん、私がこれまで釋読を試みた文章の中では最も長い文章である。そして難解な語句が多い文章である。

それでも、漢詩に比べたらまだ“読めて当然”の文章なのかも知れないとも思った。

三国鼎立の一、呉がどのようにして滅んだのか?国家の興亡盛衰を中枢にあって支えてきた陸氏一族の陸機が書いた「辨亡論」は、現代にも通じる何かを訴えているように思えた。艱難辛苦の結果として私の胸中に留まった想いは、一言で言うことを許されるとしたら、こういう事なのかも知れない。

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※2020/11/13 文字コードの違いにより正しく表示されていなかった文字を修正。