朝臣眞人の唐入朝は長安何年か

この件について自分が定見に至っていないことに気がついたため、とりあえずtwitter投稿を自己まとめした。
『玉海』では朝臣真人の朝貢が、
長安三年
長安二年
長安元年
と三説載っているそうな(⊙.⊙) 明日にでも確かめてみよう!
午後11:29 · 2022年7月30日

『玉海』中の朝臣真人遣使年次三説
①長安元年:巻一百五十四 唐宴日本麟德殿
②長安二年:巻一百五十四 唐日本貢方物百濟貢金甲雕斧
③長安三年:巻一百五十三 唐人遣使入朝 請授經

午前11:19 · 2022年7月31日

関連ツイート。
おさらいになりますが、長安の朝臣真人遣使について。
1985『古代は輝いていたⅢ』p295
長安元年(冊府元亀)
長安二年(旧唐書本紀)
1991『九州王朝の歴史学』p102
長安三年(旧唐書日本国伝)

結局はいずれかに落ち着いてとは思うんですが、年次が3説あるんですよね。
午後6:15 · 2021年6月26日
そのうち長安二年(702)は『続日本紀』5月29日「参議朝政」とあるので元年はナシ。同年6月29日、ようやく出航し、慶雲元年(704)7月帰朝。

一方、『旧唐書』則天皇后長安二年に【冬十月,日本國遣使貢方物。】とあります。よって、恐らく正解は、
702真人発⇨702則天皇后に貢献⇨704帰朝
で宜しいかと。
午後6:37 · 2021年6月26日
午前11:28 · 2022年7月31日

これも関連ツイート。
「漢籍電子文献」『新唐書』日本伝に以下のような校注が付いていました。
【長安元年 舊書卷一九九上日本傳、唐會要卷一〇〇「元」作「三」,通典卷一八五作「二」】

三例併記でいずれが是かは示してありません。たぶん「二」が妥当ではないかと。要調査継続!
午後10:22 · 2021年6月7日
岩波文庫『旧唐書倭国日本伝...』p38の「長安三年」の注(1)には「元年」「二年」については触れず。注(2)では、
粟田真人のこと。『旧唐書』巻六・則天武后本紀には見えぬが云々
とありますが、同則天皇后紀長安二年に【日本國遣使貢方物】とあり、これが粟田真人を指すことは明らか。
午後10:55 · 2021年6月7日
『続日本紀』慶雲元年(704)七月甲申朔 粟田朝臣真人自唐国至
とあり、唐人曰く【亟聞。海東有大倭国。謂之君子国】と。国号〝日本〟はまだあまねく知れ渡っていたわけでもなく、、、
午後11:12 · 2021年6月7日
Wikiで粟田真人を見ると、長安三年説を採ってますね。『旧唐書』日本伝に従ったんでしょうが、則天皇后紀では長安二年ですし、こちらが間違いにくいんでは?と思うんですが、、、これも白村江と同じく、もっと簡単な理由で長安三年が是とか?
午後11:18 · 2021年6月7日
第2書p356で、
だから、長安三年という『旧唐書』側の記載とピッタリ一致して矛盾がないのである。
と。しかし、『古代は輝いていたⅢ』p295で『冊府元亀』から「長安元年=七〇一」説を引くというのは甚だ疑問。第2書p354では、
また、両者年代もくいちがっている。
と不審を述べています。
午前11:53 · 2021年6月8日
粟田真人は701年出発するも風浪激しく入唐できず、702年6月に再出発するわけですから、『冊府元亀』701年の記事は粟田真人ではないことに。すると誰なのか?高表仁の場合に年次に不審を持ったのなら、ここでも当然〝別の誰か〟を想起すべきでは?それも「大臣」!どこの「大臣」なんでしょうか?
午前11:57 · 2021年6月8日
ついでに、『旧唐書』倭国伝 貞観22年(648)又附新羅奉表,以通起居。
について古田氏は、
孝徳天皇の大化四年に当る。しかし、この場合は孝徳紀には全く遣唐使のことは書かれていない。矛盾はハッキリしている。
と。では、『冊府元亀』による701年の遣使はどうなるんでしょう?
午後4:32 · 2021年6月8日
701年の遣使など『書紀』には書かれていない。矛盾はハッキリしている。じゃ、誰?九州王朝は滅亡したんでしょうし(古代は:p285)、ヤマトでもない。しかも誤字を認めない!

「日本国」を僭称した某勢力の偽遣使だった!とでもしなくては、、、
午後4:37 · 2021年6月8日
年次の矛盾など無い高表仁の遣使については「くいちがっている」とし、明らかに年次の矛盾する701年については、取り上げておきながら〝ほっかむり〟。

古田氏の第1書(p147)での表現を借りれば、上述2例は「身勝手な」解釈と言っていいでしょう。
午後5:02 · 2021年6月8日
午前11:33 · 2022年7月31日

則天皇后
700年:久視元年
700年:冬十月甲寅,復舊正朔,改一月為正月,仍以為歲首,正月依舊為十一月,大赦天下。(舊唐書則天皇后紀)
701年:久視二年正月改元大足元年
701年10月:長安改元
702年:長安二年⇨朝臣真人出立。
703年:長安三年
704年:長安四年⇨朝臣真人帰朝

改元癖!
午後3:01 · 2022年7月31日

『日本書紀私記』
博士答云、文武天皇大寶二年者、當大唐則天皇后久視三年也。彼年遣使粟田眞人等入朝大唐。卽唐暦云、是年日本國遣使貢獻。日本者、倭國之別名者。然則唐朝以在日出之方、號云日本國。東夷之極、因得此號歟。

久視は二年まで。二年正月大足に、十月長安に改元。

「博士答云」が「久視三年」としているのは大足~長安の改元が念頭にない。しかし、当年は長安二年に当たり、則天皇后紀十月の【二年...冬十月,日本國遣使貢方物。】と年次合致。

『続日本紀』大宝二年(702)6月29 遣唐使等、去年従筑紫而入海。風浪暴険、不得渡海。至是乃発。旅程3ヶ月余で長安着!
午後3:16 · 2022年7月31日

《慶雲元年(七〇四)七月甲申朔》○秋七月甲申朔。正四位下粟田朝臣真人自唐国至。
《慶雲元年(七〇四)十月辛酉(九)》○辛酉。粟田朝臣真人等拝朝。
《和銅元年(七〇八)三月丙午(十三)》従三位粟田朝臣真人為大宰帥。
午後3:27 · 2022年7月31日

《養老三年(七一九)二月甲子【五】》○甲子。正三位粟田朝臣真人薨。

薨:身分の高い人の死。日本では、皇族および三位(さんみ)以上の人の死。
午後3:33 · 2022年7月31日

しかし、『玉海』という一つの文献の中で遣使の年次が三説あるというのは戸惑うこと頻り。これも『続日本紀』という独立した史料があり、それとの突合で当否を決することができるという好例。◯◯を信じとおした!というメソッドでは解決不能!それにしても『通典』は「二年」で正解!
午後3:41 · 2022年7月31日

『新唐書』日本伝
【長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。朝臣真人者,猶唐尚書也。】

このソースから、「遣朝臣真人粟田貢方物」を「長安元年」と読んだ可能性はあるかも。
午後10:23 · 2022年7月31日

早い話が:
『唐暦』が長安二年
『唐録』が長安三年
『唐録』は『通典』とほぼ同時期の成立。どうやら『唐録』の三年が『會要』系統に流れていったか?
午後10:29 · 2022年7月31日

ちょっと待ってくださいよ!Wikiでは粟田真人、遣唐使いずれの項目でも武則天に面会したのが703年となっていますね。

要継続調査?
午前10:46 · 2022年8月1日

『遣唐使研究と史料』p261注23

現行の『日本書紀』推古天皇紀には三十年条がなく、二十九年・三十一年・三十二年・・・・・・となっているが、暦日を調べると、三十二・三十三年条は、それぞれ三十一年、三十二年条の誤りである。⇨
午後3:36 · 2022年8月1日

また『日本書紀』諸本の中には三十一年を三十年に作るものもある(東洋文庫所蔵岩崎本)。

やだね~、また作業が増えちゃった(-_-;)
午後3:37 · 2022年8月1日

推古紀三十二年夏四月丙午朔...

確かに推古三十二年(624)夏四月の朔は庚子であって丙午ではない。前年623夏四月朔こそ丙午。
午後3:53 · 2022年8月1日

同三十三年春正月壬申朔...

三十三年(625)正月の朔は丙申。翌年正月の朔が庚寅...ここは壬申じゃない!どゆこと?
午後4:00 · 2022年8月1日

同三十四年夏五月戊子朔

三十五年(627)
午後4:02 · 2022年8月1日

同三十四年夏五月戊子朔

同三十四年夏五月の朔は確かに戊子でここはズレてない。
午後4:06 · 2022年8月1日

33年➔32年
32年➔31年
ひょっとすると
31年➔30年かもしれない?じゃ33年がブランクになるんですけど?
午後4:16 · 2022年8月1日

『遣唐使研究と史料』p259-284の注の部分に更に注を付けたら立派な本が1冊完成しそうな、、、(@_@;) 参考文献や論考が並んでいるのは極めて有り難い!
午後6:19 · 2022年8月1日

例えば注21に井上光貞氏の『飛鳥の朝廷』(小学館「日本の歴史」三、1974年)が引いてあります。この本読むことがあるかどうか分からなかったけど買っておいたんですよね。それが今、役に立ちそうな、、、しかし、書棚に無ければ読むのを諦めていたかも知れないので、何とも名状し難く、、、
午後6:29 · 2022年8月1日

p262 注28

「唐録」は、唐朝の実録が、五代の頃に散佚してしまったため、北宋の趙隣機が補修を始め、ついで宋敏求(1019-1079)が受けついで完成させ、慶暦五年(1045)に献上されたものである。

なんか時代が違うような、、、
午後7:01 · 2022年8月1日