九州王朝説と倭の五王にかかる小考

2021年7月13日午後11:42から2021年7月16日午後11:33までのtweet集成


>西暦477年には倭王武の前代の倭王興が宋に朝貢
古田氏の第2書p106では、462-502を「武の在位期間」とくくってあり、「477年」は「武の在位期間」だとのお考えかと思いますが、、、それとも後に修正?

hy注)『宋書』順帝紀昇明元年(477)【冬十一月己酉,倭國遣使獻方物】 https://twitter.com/hinotomoki2/status/1412185818345578496
2021年7月13日 23:42

『関東に大王あり』を開いてみました。p286-287で、この件について触れてあります。#原田実 氏ご案内の通り、会話形式の表現になっていますので、どの発言が誰のものかは「」の後の「と東谷さん」等で判断。それがないのが古田氏か。ここで昇明元年(477)まで興が存命と〝会話〟していますね。
2021年7月14日 09:18

日野氏はこちらのほうが記憶に残っていたんでしょうか。この箇所は古田氏の第2書における「少なくとも二十六年(四七七-五〇二)」の武の在位(p107)を〝訂正〟したものと理解していいんでしょうかねぇ、、、ご参考までに下図は第2書p106「武の在位期間」。明らかに477を在位期間中に含めています。
2021年7月14日 09:25

『関東に大王あり』p362では古田氏自身の考えとしてこの件が取り上げてあります。前述の如く、この本の主要な部分を対話形式にしたことについては「ひとこと」で触れてありますが意図は?

細かなあら捜しを!p362
「進めて征東将軍と写せしむ」

原文は「號」です。「写」は何を間違ったのか?
2021年7月14日 10:04

あ!なんだぁ!多分「號」を原稿で「号」と書いてあり、それを見誤って「写」と植字したんですよね!?
古田氏の原稿には「号せしむ」と書いてあった!昭和54年の刊行当時は写真植字だったのかな?ありうるミスでしょうね(^^;)
2021年7月14日 10:57

「倭の五王」問題というのは漢籍史料が少ないので、なかなか難しい。古田氏は一生懸命、『記紀』の没年干支等で『宋書』『南斉書』『梁書』等の年次との矛盾を並べ立てて力説していますが、この時点で『記紀』全面的信拠という立場に立っていることが不思議ですね。
2021年7月14日 11:02

既に『古事記』『日本書紀』間で没年干支は大きく乖離しているんですから、まずはそのことについての解明をせねば先へは進めないんじゃないかと思うんですけど、、、

というか、偽書(古田氏の言)と年次が矛盾する!といって立論された〝倭の五王=九州王朝〟説って、根無し草じゃ?
2021年7月14日 11:11

またまた #原田実 氏の『#幻想の多元的古代』から引用させていただきます。
引用(p275
そもそも古田氏が『日本書紀』を偽書とする根拠は、『日本書紀』では九州王朝の存在が抹殺されているとみなしたからである。九州王朝の論理を徹底していくと、その説の根拠を否定せざるをえない。九州王朝説はその内部に自滅への萌芽を兆していたのだ。

古田説ファンは、多分気がついていない。
午後3:03 · 2021年6月12日)
2021年7月14日 11:19

同書p274
最近の古田氏は、『日本書紀』を偽書であると明言し(『九州王朝の歴史学』駸々堂、一九九一)、近畿天皇家の〝はじまり〟は西暦七〇一年以後だから、それより前の「大和朝廷はなかった」と唱える(『古代史の未来』明石書店、一九九八)。〈続く〉
2021年7月14日 11:24

これは実に九州王朝説成立のための前提を否定するものである。なぜなら、九州王朝説の最大の根拠は、『宋書』『梁書』のいわゆる〝倭の五王〟や『隋書』の〝日出ずる処の天子〟を大和朝廷の天皇とみなすと、中国史書と『日本書紀』との間に矛盾を生じるというところにあったからだ。〈引用終り〉
2021年7月14日 11:25

久しぶりに #安本美典 氏の『#0倭の五王の謎』を読み返しています。当然のごとく、古田氏の所論を批判していますが、その中で梁武帝天監元年の記事について、#藤間生大 氏の所説を『#倭の五王』から以下のように引いています。

梁の初代皇帝の武帝が即位して二日後の任官であり
2021年7月14日 14:02

『梁書』武帝紀天監元年
【夏四月丙寅,高祖即皇帝位於南郊。】
【戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王梁彌𩒎進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。】

「丙寅」の2日後が「戊辰」。最低、電話と飛行機が無ければ不可。
2021年7月14日 14:05

古田氏が第2書p105で「武の亡霊」として天監元年武生存説を採っていますが、武帝の即位、梁建国の〝2日後〟の遣使は物理的に不可能。

また、安本氏は前掲書p136で、『宋書』424年に百済余映が遣使貢献したことを記していますが、余映はその4年前に没。424年は久爾辛王の時代。
2021年7月14日 14:12

参考のために開いた古田氏の『古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち』p308に、以下のような〝名文〟が掲げてあります。

「分からないものは、分からないとする」。この学問上の王道から戦後史学ははなれて歩み、批判にも耳をかそうとしない。」
2021年7月14日 14:18

多くの人がこの文に対して同じような感想を持つでしょう。

それ、古田氏自身のことじゃん!
2021年7月14日 14:20

『梁書』武帝紀天監元年【鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍。】は刊本の文面では「征東将軍」。「漢籍電子文献」の校注には【「征東大將軍」各本及倭國傳並作「征東將軍」。今據南史倭國傳補】とあります。「鎮東大將軍」から「征東将軍」では降下であり、進号になりません。
2021年7月14日 15:07

『南史』倭国伝では「征東大将軍」で、これなら進号になりますので、おそらくは「大」の闕だと思われます。ただし、『南史』でも梁本紀では、『梁書』と同じく「征東将軍」。
2021年7月14日 15:11

安本美典氏の『倭の五王の謎』を三読。藤間生大氏の『倭の五王』から天監元年の任官が武帝即位の2日後であることを引いてましたが、古田氏の『失われた九州王朝』p106では、藤間氏の「武帝が総花式に」を引いています。そして、以下のように述懐します。
〈続く〉
2021年7月15日 22:27

(p107)それなのに、これを〝だいたい一致する〟とか、〝うっかり死者に授与したのだろう〟といった大まかな論法で、井上や藤間のような大家が処理し去ってきたのを見るとき、わたしは慄然とするほかない。〈引用終り〉
2021年7月15日 22:29

古田氏は『倭の五王』を読んでいます。しかし、その「総花的」の一行前には何と?p32

しかし即位したのは四月丙寅であり、武が任官を受けたのは四月戊辰である(『梁書武帝紀』)。まさに即位して二日目の任官である。武帝の即位をきいて使いを出して、任官してもらったのではない。〈続く〉
2021年7月15日 22:34

この任官は、武帝が総花的に行った即位に際しての任官の一つであったのである。武のあずかり知らぬ所でなされた任官である。五〇二年の武の任官をもって、武の在世をきめる根拠にすることはできない。〈続く〉
2021年7月15日 22:38

しかし一面、雄略在世のうわさを聞いて、任官したということも考えられる。『記紀』の年代をよりどころとして、この『梁書』の記事を抹殺することはゆきすぎである。今後の検討に値する記事である。
2021年7月15日 22:41

古田氏が「この任官は」以降を引用しながら、直前の重要な記載事実である「まさに即位して二日目の任官である。武帝の即位をきいて使いを出して、任官してもらったのではない。」を引かないのは、明らかに異常。

古田氏の言葉を借りれば「わたしは慄然とするほかない」。
2021年7月15日 22:52

梁の武帝即位二日後の任官であるから、古田氏流の言い方を借りるとすれば〝絶対に〟遣使に基づく任官ではありえない。藤間氏は、次いで斉の建元元年の任官についても触れ、その月が記されていないので遣使に基づくかどうかは断定していません。
2021年7月15日 22:55

近年『職貢図』の逸文が発見され、どうやら建元元年には遣使があったらしいと言われていますが、天監元年は物理的に遣使に基づく任官はありえないわけです。

しかも、建元元年の遣使を認めるにしても、その後『南斉書』『梁書』中には倭国からの遣使は見えません。
2021年7月15日 23:00

天監元年の武の任官は遣使に基づくものではなく、これを以て武の在世の証拠にはできないと考えられます。

生きていたかも知れないし、死んでいたかも知れない。それが結論です。古田氏はこの「二日目」を引用せず、そのうえ「「武」の亡霊」などという大仰な項目を立てて印象操作をします。
2021年7月15日 23:04

古田氏の「倭の五王」に関する立論は、例えば武の場合、『日本書紀』の没年479年を信拠することで成り立っているわけです。しかし『古事記』の没年干支によれば489年没。それでも天監元年(502)年には届きませんが、10年の差がある。允恭天皇の即位以前については『記紀』の間でより大きな乖離が。
2021年7月15日 23:09

#原田実 氏の『#幻想の多元的古代』から引用させていただきます。

そもそも古田氏が『日本書紀』を偽書とする根拠は、『日本書紀』では九州王朝の存在が抹殺されているとみなしたからである。

倭の五王の比定候補である仁徳から雄略までの『日本書紀』には、もちろん「九州王朝」など出てきません。
2021年7月15日 23:14

即ち、古田氏の立場にたてば倭の五王の時代も『書紀』は偽書であることになります。その「偽書」と『宋書』など南朝正史との齟齬を以て、自身の立論の基礎に据えようとするのですから、論の出発点から間違っているといえるでしょう。
2021年7月15日 23:17

時系列を整理:
a.1968藤間生大『倭の五王』
b.1973古田武彦『失われた九州王朝』⇨477は武の在位期間
c.1978毎日新聞等で稲荷山鉄剣銘報道⇨銘文の「辛亥年」は通説471年
d.1979古田武彦『関東に大王あり』⇨昇明元年(477)まで興が存命
e.1981安本美典『倭の五王の謎』
2021年7月16日 10:40

第2書では477年を武の在位期間と述べていたものを、稲荷山鉄剣銘報道の後、477年まで興が存命であったとし、よって471年の銘文時は武の在位期間に非ず!という主張へ変更したと見ていいのでは?

これによって、稲荷山鉄剣と雄略天皇との関連を〝断ち切る〟ことができる!という目算?
2021年7月16日 10:57

あれ?藤間生大『倭の五王』p29では、

(4)四七七年 興、この頃死亡。武、立つ。興の治世約一七年(宋朝からみれば一五年)

とあります。興477年頃死亡説ですね。古田氏はこれを見ているのに、第2書では462に興の死亡、477武の在位期間説を採っていた?

で、鉄剣銘が出ると藤間説に従う?
2021年7月16日 11:27

藤間生大『倭の五王』p33

この様子をみると、建元元年の任官の場合は、倭から使者を送ったと考える方が事実に即するようである。しかしこれを最後にして中国王朝への倭の使いは中絶してしまう。

建元元年に遣使があったとする藤間氏の見立ては、その後『職貢図』逸文発見により裏付けられることに。
2021年7月16日 13:09

ただし、『愛日吟廬書畫續錄』については未確認。今後の勉強課題。
2021年7月16日 13:16

『愛日吟廬書畫續錄』については #河内春人 氏の『#倭の五王』p214に書影が掲げてあります。倭国条の末尾には【齊建元中奉表貢獻】と。そのまま理解すれば建元元年の任官もこの遣使に因むものと考えられるでしょう。以後、齊梁代に遣使が途絶えたのは、山東半島の領有が宋から北魏に移った結果?と。
2021年7月16日 16:52

#倭の五王 については『記紀』と『宋書』『梁書』上での系譜の比較が云々されますが、もう一つ忘れてならないのが『通典』。『通典』では武を讃の曾孫と明記。つまり五王は三世代ではなく、四世代だというのです。どれくらい史料価値があるか不明ですが、頭の片隅に留めておく必要があるかも。
2021年7月16日 22:53

ただし、「曾孫」が果たしてこんにち使われる意味なのかどうかは確認が必要かも。

一部に「讃」を応神に充てる考えもありますが、その場合だと「武」が「讃」の「曾孫」ということで合致します。
#倭の五王
2021年7月16日 22:56

讃(賛)の出現時期と武の出現時期とは約半世紀ほど隔たっています。この半世紀の間に武の父と祖父を置くのは、かなり窮屈な気もします。讃(賛)の遣使が、かなり高齢になってからであり、武が若くして遣使したと考えればなんとか収まるかも知れませんが、、、
#倭の五王
2021年7月16日 23:16

『通典』邊防一 東夷上 倭
【宋武帝永初二年,倭王讚修貢職,至曾孫武,順帝昇明二年,遣使上表曰】
#倭の五王
2021年7月16日 23:22

問題発生!『太平御覧』所引『南史』に、以下の文が見えます。
【至齊建元中及梁武帝時並來朝貢】

この文をそのまま受け止めれば、建元中はもちろん、天監元年も遣使朝貢したことになります!ただ、【南史曰】としますが、実際の『南史』にはこの文はありません。ほぼ『梁書』の文を襲っています。
2021年7月16日 23:29

引書名を明記しているのは『太平御覧』の大きなメリットですが、引文を節略しているのはデメリットと言えます。他の類書等でも節略はフツーに行われているので、そういうものだ!と受け入れるしかありません。取り扱いを注意すれば収穫も大きい!ということです。
2021年7月16日 23:33