Yahoo!掲示板上での短里論争 主な論点

case 原文 出典 年次 西暦 zarakoku氏の反論要点や長里と解釈すべき要旨
A 登白狼堆去柳城二百餘里 魏書田疇傳 建安十二年 207 『三國志』等で蹋頓が白狼で斬られたとする記述に注目すれば、それは柳城の手前二百里であることは明白である。
B 一日一夜行三百餘里 蜀書先主劉備傳 建安十三年 208 短里説に基づくと、「一日一夜行三百餘里」は“犬のお散歩”程度の平均速度にしかならない。【精騎五千急追】との表現とは余りにもかけ離れている。また、『三國志』より遥か後代の『舊唐書』には【於是選精卒一萬人馬三千匹馳掩襲之一日一夜行三百里】との記述が見え、「先主傳」の【一日一夜行三百餘里】が長里であることは明白である。
C 詣涪去成都三百六十里 蜀書劉璋傳 建安十六年 211 古田氏は「郊迎」説を採るが先主と劉璋が会したのは『三國志』中に複数書かれている通り「涪」に他ならないから、これは成立しない。
D 而慮水道泝流二千里 呉書孫奐傳裴注江表傳 黄初二年~黄龍元年 221~229 zarakoku氏は「泝流」を「激しい遡りになる流れ」という意味に取るが、そんなことはどこにも書かれていない。【慮水道泝流二千里】と武昌~建業間の隔たりを案じているのだから、両者間の距離でなくては意味をなさない。
E 漢中去涪垂千里 蜀書王平傳 延熙七年 244 zarakoku氏は「外縁部」という概念で短里説による説明を試みているが、涪~成都間や、合肥新城でのケースなど、恣意的な援用に奔っており、全く合理的な反論とはなっていない。
F 今屯苑去襄陽三百餘里 魏志王昶傳 青龍四年 236 「乃表徙治新野」と治を新野に徙す話であるから、「苑」は、それまで治のあった場所。荊州の治は宛に他ならない。
G 割據江東地方數千里 呉書周瑜傳 建安五年 200 魏書郭嘉傳に「孫策轉闘千里盡有江東」とあり、実際の孫策の征討範囲と比べれば、短里での「千里」は余りにも小さい。また『袁宏後漢紀』「孝獻皇帝紀」には同文が見えるが、袁宏は東晋代の人であり、記述対象は後漢代。「魏(西)晋短里朝説」の対象外の時期に書かれたものが、同じく「割據江東地方數千里」とあるのだから、短里説によって説明することは不可。
H 公在鄴反覆四千里比報敍等必敗非攻急 魏書夏侯淵傳 建安十九年 214 建安十七年から十九年の夏侯淵の事績を見れば、彼が長安周辺及びその以西において戦闘に明け暮れていたことは明白。「行護軍將軍」が都にあった証拠とする古田氏の主張は、「夏侯淵傳」の記述により否定される。
I 其西三十里有奇險可依更立城以固守 魏書滿寵傳 建安十四年 209 『方輿紀要』『江南通志』『合肥県志』など後代文献によっても新城は合肥の「三十里」「四十里」「三十五里」などと相近い数値で記される。満寵傳の「三十里」が短里でないことは明白。
J 且臨沮去江陵二三百里 呉志關羽傳裴注 建安二十四年頃 219頃 「臨沮」「江陵」ともに歴史地図に明示してある。その直線距離を測ってみると、大凡110Km程。これを「二三百里」とするのであるから、1里は367m~550mとなり、「長里」に極めて近い。
K 郿去長安二百六十里 魏書董卓傳裴注英雄記 初平元年~三年頃 190-192 郿~長安間は100Km弱である。これを【二百六十里】とするのであるから、1里は約370m程で、もちろん「長里」である。「英雄記」の成立は時期的に、夏侯淵の軍議の頃であり、この頃短里の存在した根拠は薄弱である。
L 吳自宮門南出苑路府寺相屬俠道七里也 三都賦呉都賦 建康都城の調査から建康宮城の門から朱雀橋まで七里であり、古田氏が『三都賦』を短里説の根拠としようと計ったが成り立たない。
M 夏侯淵三日五百六日一千 魏書夏侯淵傳裴注王沈魏書 建安十四年以前 199以前 夏侯淵は3日で500里、6日で1,000里を進んだという。いわゆる「短里」説に立てば、500里は約40Kmであり、1日になおして約13Km余。1日13Kmと言えば、散歩程度のスピードである。とても「急疾」などと表現できる速ささではあるまい。
N 我轉闘千里 魏書夏侯淵傳 建安十九年 214 長安から主戦場の略陽あたりまでは直線で約300キロ。長離・興国・顕親を巡っての戦いを含めると、より長くなる。これを「千里」と表現するのは概ね妥当である。一方「短里」として考えると、約80キロで、略陽周辺での戦いでそれくらいの距離は消費してしまう。兵士の疲弊を論じているのであるから、ここは当然、出発地(通常の認識では長安)からの行軍も含まれると考えるのは当然のこと。また、古田氏の言われるように、“淵が都(洛陽もしくは許)にいた”とするなら、「千里」は約500キロ、1里=500mとなり、全く「短里説」は成り立たなくなる。
O 武關在析西百七十里 漢書劉邦紀文穎注 「武關在析西百七十里」と明記されているので、縮尺に従って計測すると、約65Kmとなる。これを「百七十里」で割ると、1里は約382mとなる。古田氏が『邪馬壹国の証明』で文穎注「介山」の例を出し、短里の根拠にしようとしているが、「百七十里」の扱いがどうなるのか?不透明である。
P 去郡八百餘里 呉書張嶷傳 「安定縣~越嶲郡」は直線距離で約200Km。これを「八百餘里」とするのであるから、1里は単純計算で250m。この地域は山岳重畳、経路は曲折しており、実際の道のりは遥かに長かったと考えられる。よってこの張嶷傳の【八百餘里】も当然の如く「長里」としか考えられない。
Q 今千里蹈敵 魏書曹純傳 建安十年 205 太祖の拠点をこの「譙」と仮定すると、「譙~南皮」はおおよそ300Km弱であり、行程の曲折と軍議の誇張を勘案すれば、長里での「千里」と解するに無理はない。
R 拓土三千里 武帝紀注引王粲五言詩 建安二十年 215 [業β]から關右地方までは、往復千数百キロほどあり、これを「三千里」と表するのは、“詩中の修辞”とみれば、あながち誇大とも言えない。
S 陽人去魯陽百餘里 呉書孫堅傳 初平二年 191 「陽人」も「魯陽」も『中国歴史地図』に明示されている。直線距離でおおよそ60Km。「百餘里」を「百二三十里」と考えてみると、1里は約500m弱となる。道路の曲折を考えれば1里が今少し大きな値となろうが、いずれにしても紛れもなく「長里」である
T 四千里征伐 魏書明帝紀 景初二年 238 古田氏はこの「四千里征伐」を遼東郡の戦闘領域内のことであるとするが、記載事実に反する。
U 去北軍二里餘 呉書周瑜伝裴注江表傳 建安十三年 208 古田氏が短里説の根拠の一つとしてしばしば挙げているが、こんにちの川幅を以て1800年前の川幅を論ずるなど牽強付会と言いうる。
V 到洹水去鄴五十里 魏書袁紹傳 地図に「鄴」「洹水」の位置を求めると、容易に見出すことが出来た。比例尺で測ると、その間大凡20Km弱か?これを「五十里」とするのであるから、1里は400m弱となる。
W 天柱山高峻二十余里 魏書張遼傳 古田氏はこの「二十余里」を山高だとして譲らないが、『三國志』中には山高を里で表わした例は一例も無い。
X 今臣所統千里 呉志陸抗傳 鳳皇三年 274 陸抗は「柴桑の督」も拝しており、「信陵」を西とし、「柴桑」を東とする陸抗の統べるところは、まさに「荊州の牧(州の長官)」と呼ぶに相応しい。
+ 『周髀算經』 谷本茂氏の論文により、『周髀算經』から1里=76-77mが導かれるとするが、これは机上の空論に過ぎない。

■詳補

A)「蹋頓はどこで斬られたか?」参照。
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白狼~柳城付近の地図
太祖、白狼山に登る
「未至」の意味

B)zarakoku氏は「一日一夜行三百餘里」のような事もあった、と言っているだけであり、襄陽から長坂の全部を一日一夜であったんではない」と書いている(「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」#207399)が、『蜀書』張飛傳には次のようにある。
【表卒,曹公入荊州,先主奔江南。曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至,棄妻子走,使飛將二十騎拒後】(「漢籍電子文献」より。以下、特に断らない限り原文の引用は同サイトによる)
先主が既に江南へ遁走したことを知った曹公が之を追い、「一日一夜」で當陽の長坂で追いついたとある。zarakoku氏の抗弁は史料事実を知らないが故の無効な反論である。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/1/207399
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「千里の馬」
川柳一句
各史にみる「一日一夜」+「里」
【曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪】について考える
『陳書』程靈洗傳
虞翻の健脚
日中戦争当時の馬行軍
「一日一夜行三百餘里」、古田氏の詭弁
「一日一夜行三百餘里」は長里
「一日一夜行三百餘里」の参考文献

C)
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「三百六十里」を巡る、古田vs白崎の応答@白樺湖シンポジウム
「華陽國志」漢中志【涪縣 去成都三百五十里】
漢中~成都間の距離
綿陽~漢中間は徒歩で413Km
綿陽~漢中間は直線距離で、約280Km
涪を巡る360里
先主と劉璋との会見
「成都を去る三百六十里」について考える
「成都を去る三百六十里」について考える-2-
“外縁部”という珍アイデア
篠原俊次氏による『三国志』「里」の検証

D)
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建業~武昌間の距離 by GoogleMap
呉書六「孫奐傳」の「二千里」

E)
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「成都を去る三百六十里」について考える
『三國志』「蜀志」王平傳の【漢中去涪垂千里】
古田氏における直線距離と道のり距離
涪を巡る360里

F)
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『三國志旁證』にみる「苑」は「宛」の誤
『三國志』魏書巻二十七 王昶傳 「苑」は「宛」の誤
『三國志』魏書巻二十七 王昶傳
「今宛に屯す」は、「今苑に屯す」の印刷間違いか?
古田氏の「屯苑」
古田氏は「宛」という解釈に落ち着いた。
直径と半径を間違えた(^^;)
襄陽から「三百里」の「苑」とは?
苑菀宛古通用
曹公、白馬の囲みを解く
『翰苑』の「菀」
魏、呉の荊州治は・・・

G)
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孫策の「転闘千里」
袁宏『後漢紀』に見える「江東 ,地方數千里」と「周瑜伝」

H) 黄武元年、陸遜はどこにいたか?-改めて「督」について考える-参照。
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古田氏は「夏侯淵傳」を読んだか?
「英雄記」の【二百六十里】
二度の「還」
「淵引軍還」
建安十八年の夏侯淵
建安十七年から十九年の夏侯淵の事績
「督」の意味
夜霧の第三京浜国道
「反覆四千里」は、「片道」なのか?
馬超の家族が殺されたのはいつか?
張魯の降伏は何年か?
筑摩訳「夏侯淵傳」に疑問点が・・・
『呉志』「孫匡傳」裴注に見える「率」
『三國志』「呉志」残卷にみる「督両義併用之例」
督両義併用之例
『三國志』「呉志」より「督」2例
「街亭の戦い」 二条
梁興を斬る
『三國志』「武帝紀」建安十八年の夏侯淵
『三國志』「武帝紀」建安十六年の夏侯淵
『三國志』「夏侯淵傳」の建安十七年乃至十九年
黄武元年、陸遜はどこにいたか?-改めて「督」について考える-(結語)

I)
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『魏書』巻二十八「満寵傳」の【三十里】
「合肥新城」の件

J)
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『三國志』「呉志」 關羽傳の「二三百里」

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「英雄記」の【二百六十里】

L)
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「呉都賦」の【列寺七里】
「呉都賦」の【列寺七里】其ノ弐

M)
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夏侯淵「三日五百,六日一千」

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建安十七年から十九年の夏侯淵の事績
「夏侯淵傳」の「我轉闘千里」

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V)
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「山高」を里で表わす
山高の里
天柱山のケース
天柱山の例2
天柱山の例3
天柱山の例4
天柱山の里例5
天柱山の例6

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『呉志』「陸抗傳」の【今臣所統千里】

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“陳子榮方問答”原文
“陳子榮方問答”原文 とりあえず〈拙訳〉Upします。
冬至の影長をEXCELによって計算する
「1里=76m」は机上の空論
「水正」にしたのは、どこか?
能田忠亮「周髀算經の研究」より「二十八宿」抜粋
北極璿璣四游の観測
『周髀算經』における「尺六寸」と「丈三寸」
『周髀算經』に見える「キ」(=影)という字
『周髀算經』の「1歩=6尺」
後漢~魏晋も「1里=300歩=1800尺」
「即為百歩」は『周髀算経』の本文
『周髀算經』と谷本論文
『周髀算經』から短里の実在は裏づけられない
『漢書』食貨志中の「歩=6尺」
『漢書』食貨志に見える「家=戸」
『海島算経』問2
『科学の名著2 中国天文学・数学集』
『漢書』食貨志上
これが『山海経』だ!
殷周の井田制
「周官」は書名
「周公」とは?
古田武彦氏による「六尺一歩」新制度
能田忠亮『周髀算經の研究』より
周髀算経による短里算定の理路概略
太陽は伸縮する!
陽城南135000短里は、このあたり・・・
「知日之高大」にかかる計算手順
1+1=10
洛陽―金陵間の千里
谷本算定を用いて、各緯度ごとの1里の長さを求める
「天誅君大先生」かく語りき
「天誅君大先生」かく語りき2
谷本論文末尾のⅢ
「谷本論文」末尾のⅡ