黄武元年、陸遜はどこにいたか?-改めて「督」について考える-



古田氏が掲示された『三國志』「呉主孫権傳」の

(建安二十五年)
於是諸縣及五谿民皆反為蜀。權以陸遜為督,督朱然、潘璋等以拒之。

について考える。


古田『邪馬壹国の論理』241ページから引用する。

(9) 山尾氏は次の二文を「淵、在長安」説の証拠としてあげておられる。

1).(建安十六年十二月)(太祖)留夏候淵屯長安。(魏志第一、武帝紀)
2).(建安十八年十一月)(太祖)使夏侯淵討之。(同上)

この中、2)は別段、夏侯淵の居所を指定した文面ではない。だから、1).を根拠として2)を理解されたのであろう。この(1)は「夏侯淵を留めて長安に屯せしむ」という文だから、確かにこの時点では、淵は長安に駐留している。
 ところが、氏の看過されたのは、次の記事だ。
(建安十七年)太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等屯長安。(魏志第九、夏侯淵伝)
〔太祖乃ち鄴に還り、淵を以て護軍将軍に行せしめ、朱霊・路招等の長安に屯するを督せしむ。〕

 この「屯長安」とは誰のの行為だろうか。一応二つのケースが考えられる。
(a)“朱霊・路招等を督する”と“長安に屯する”の二つとも淵の動作。
(b)「屯」の主語は「朱霊・路招等」であり、「督」は「朱霊・・・長安」の全体にかかる。(I see him run〈彼が走るのを見る〉のseeと同じような用法)。 このいずれが正しいか、類例を見よう。
(建安二十五年)権以陸遜為督、督朱然・藩璋等以拒之。(呉志第二、孫権伝)

 この場合、つぎの三段の関係が表現されている。
〈A〉孫権 ーー 〈B〉陸遜(督) ーー 〈C〉朱然・藩璋等(「拒之」の実際行為)
 この点、問題の文も同じだ。
〈A〉太祖 ーー 〈B〉夏侯淵(督) ーー 〈C〉朱霊・路招等(「屯長安」の実際行為)
 ここにおいて〈B〉も当然〈C〉の行為に関係している。しかし、実際行為上でなく、あくまで「督」が〈B〉にとっての直接行為なのである。それゆえ右の(a)(b)の両解のうち、やはり(b)が正しいことがわかる。


まず、古田氏が「建安二十五年」としている件について。

【権以陸遜為督、督朱然・藩璋等以拒之】は「建安二十五年」(220)ではなく、黄初二年(221)以降のことである。

「孫権傳」【二十五年春正月】と、上掲文の間に、【冬,魏嗣王稱尊號,改元 為黃初。二年四月,劉備稱帝於蜀】という記述があるからそれは明らかである。

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二十五年春正月,曹公薨,太子丕代為丞相魏王,改年為延康。秋,魏將梅敷使張儉求 見撫納。南陽陰、酇、筑陽、筑音逐。山都、中盧五縣民五千家來附。冬,魏嗣王稱尊號,改元 為黃初。二年四月,劉備稱帝於蜀。權自公安都鄂,改名武昌,以武昌、下雉、尋陽、陽 新、柴桑、沙羨六縣為武昌郡。五月,建業言甘露降。八月,城武昌,下令諸將曰:「夫存不 忘亡,安必慮危,古之善教。昔雋不疑漢之名臣,於安平之世而刀劍不離於身,蓋君子之於 武備,不可以已。況今處身疆畔,豺狼交接,而可輕忽不思變難哉?頃聞諸將出入,各尚謙 約,不從人兵,甚非備慮愛身之謂。夫保己遺名,以安君親,孰與危辱?宜深警戒,務崇其 大,副孤意焉。」自魏文帝踐阼,權使命稱藩,及遣于禁等還。十一月,策命權曰:「蓋聖王 之法,以德設爵,以功制祿;勞大者祿厚,德盛者禮豐。故叔旦有夾輔之勳,太公有鷹揚之功,並啟土宇,幷受備物,所以表章元功,殊異賢哲也。近漢高祖受命之 初,分裂膏腴以王 八姓,斯則前世之懿事,後王之元龜也。朕以不德,承運革命,君臨萬國,秉統天機,思齊先 代,坐而待旦。惟君天資忠亮,命世作佐,深覩曆數,達見廢興,遠遣行人,浮于潛漢。望 風影附,抗疏稱藩,兼納纖絺南方之貢,普遣諸將來還本朝,忠肅內發,款誠外昭,信著金 石,義蓋山河,朕甚嘉焉。今封君為吳王,使使持節太常高平侯貞,授君璽綬策書、金虎符 第一至第五、左竹使符第一至第十,以大將軍使持節督交州,領荊州牧事,錫君青土,苴以 白茅,對揚朕命,以尹東夏。其上故驃騎將軍南昌侯印綬符策。今又加君九錫,其敬聽後 命。以君綏安東南,綱紀江外,民夷安業,無或攜貳,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。 君務財勸農,倉庫盈積,是用錫君袞冕之服,赤舄副焉。君化民以德,禮教興行,是用錫君 軒縣之樂。君宣導休風,懷柔百越,是用錫君朱戶以居。君運其才謀,官方任賢,是用錫君 納陛以登。君忠勇並奮,清除姦慝,是用錫君虎賁之士百人。君振威陵邁,宣力荊南,梟滅 凶醜,罪人斯得,是用錫君鈇鉞各一。君文和於內,武信於外,是用錫君彤弓一、彤矢百、玈 弓十、玈矢千。君以忠肅為基,恭儉為德,是用錫君秬鬯一卣,圭瓚副焉。欽哉!敬敷訓典,以服朕命,以勖相我國家,永終爾顯烈。」是歲,劉備帥軍來伐,至巫山、秭歸,使使誘 導武陵蠻夷,假與印傳,許之封賞。於是諸縣及五谿民皆反為蜀。權以陸遜為督,督朱然、潘璋等以拒之。遣都尉趙咨使魏。
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「漢籍電子文献」より。以下同。

また、「陸遜傳」を見ると、【権以陸遜為督、督朱然・藩璋等以拒之】の実行が、黄武元年(222)のことであると分かる。

古田氏が、夏侯淵が都にいたことを示す文と同様の文例として挙げた上掲文の「督(朱然)」も、以前私が触れたように「ひきいる」と理解するのが適切であることは、「陸遜傳」等の記事からも明白である。

「朱然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮于丹、孫桓等」の諸将は、明らかに“陸遜と共にいた”のであり、陸遜が諸将をどこか別の場所で“督”していたのではない。

古田氏は「夏侯淵傳」の【(建安十七年)太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等屯長安】について、夏侯淵が長安に屯せしめられた「朱霊・路招等」とは別の場所にいて、太祖が夏侯淵をして彼らを“督せしめた”と解釈し、例の建安十九年の軍議が都(洛陽もしくは遷都中の許)で行われた・・・と主張するが、氏の挙げられた“類例”はまさしく、“督”が“共にいてひきいる”という意味であることを明白に証言している。

この“類例”に基づけば、乃ち夏侯淵は朱霊・路招等とともに長安におり、その周辺と以西の討伐に明け暮れていたのである。そのことは、「夏侯淵傳」の詳細な記述から見て、至極当然の理解である。


古田氏の「督せしむ」という読み方は不適切であると考える。
http://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/63715335.html
http://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/63713513.html
http://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/63712050.html
http://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/63689869.html
http://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/63715415.html


よって「夏侯淵傳」の【反覆四千里】が“鄴~長安”の往復距離であることは明白であり、この事例での古田氏の「短里説」主張は成り立たない。


〈参考史料〉
この【権以陸遜為督、督朱然・藩璋等以拒之】については、『呉書』「陸遜傳」に、やや詳しく述べてある。当該諸将の各傳と併せて以下に引き、拙訳を添える。

『呉書』「陸遜傳」
黄武元年,劉備率大衆來向西界,權命遜為大都督、假節,督朱然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮于丹、孫桓等五萬人拒之。備從巫峽、建平連圍至夷陵界,立數十屯,以金錦爵賞誘動諸夷,使將軍馮習為大督,張南為前部,輔匡、趙融、廖淳、傅肜等各為別督,先遣呉班將數千人於平地立營,欲以挑戰。諸將皆欲撃之,遜曰:「此必有譎,且觀之。」備知其計不可,乃引伏兵八千,從谷中出。遜曰:「所以不聽諸君撃班者,揣之必有巧故也。」遜上疏曰:「夷陵要害,國之關限,雖為易得,亦復易失。失之非徒損一郡之地,荊州可憂。今日爭之,當令必諧。備干天常,不守窟穴,而敢自送。臣雖不材,憑奉威靈,以順討逆,破壞在近。尋備前後行軍,多敗少成,推此論之,不足為戚。臣初嫌之,水陸俱進,今反舍船就歩,處處結營,察其布置,必無他變。伏願至尊高枕,不以為念也。」諸將並曰:「攻備當在初,今乃令入五六百里,相銜持經七八月,其諸要害皆以固守,撃之必無利矣。」遜曰:「備是猾虜,更嘗事多,其軍始集,思慮精專,未可干也。今住已久,不得我便,兵疲意沮,計不復生,犄角此寇,正在今日。」乃先攻一營,不利。諸將皆曰:「空殺兵耳。」遜曰:「吾已曉破之之術。」乃敕各持一把茅,以火攻拔之。一爾勢成,通率諸軍同時倶攻,斬張南、馮習及胡王沙摩柯等首,破其四十餘營。備將杜路、劉寧等窮逼請降。備升馬鞍山,陳兵自繞。遜督促諸軍四面蹙之,土崩瓦解,死者萬數。備因夜遁,驛人自擔,燒鐃鎧斷後,僅得入白帝城。其舟船器械,水歩軍資,一時略盡,尸骸漂流,塞江而下。備大慚恚,曰:「吾乃為遜所折辱,豈非天邪!」

〈拙訳〉
黄武元年(222)、劉備ハ大衆ヲ率ヒテ西界ニ來向ス。(孫)權ハ(陸)遜ニ命ジテ大都督・假節ト為シ、朱然・潘璋・宋謙・韓當・徐盛・鮮于丹・孫桓等五萬人ヲ督(ひき)ヒテ之ヲ拒(ふせ)ガシム。(劉)備ハ巫峽・建平從(よ)リ圍(かこみ)ヲ連ネ、夷陵ノ界ニ至リテ、數十屯ヲ立テ、金錦爵賞ヲ以テ諸夷ヲ誘動シテ,將軍・馮習ヲシテ大督ト為サ使メ、張南ヲ前部ト為シ、輔匡・趙融・廖淳・傅肜等各ノヲ別督ト為シテ、先ニ呉班ノ將數千人ヲ遣ハシテ平地於(に)立營シテ、以テ戰ヲ挑マムト欲ス。諸將ハ皆、之ヲ撃タムト欲スモ、(陸)遜ハ曰ク、「此レ必ズヤ譎(偽り・欺き)有リ、且(しばら)ク之ヲ觀ム」。(劉)備ハ其ノ計ノ不可ナルヲ知リ、乃ハチ伏兵八千ヲ引キテ、谷中從(ヨ)リ出ズ。(陸)遜ハ曰ク、「諸君ノ(呉)班ヲ撃ツヲ聽カ不ル所以(ゆえん)者(ハ)、之ヲ揣(はか)ルニ必ズヤ巧(たくらみ)有ル故也」ト。(陸)遜ハ上疏シテ曰ク、「夷陵ハ要害ニシテ、國之關限(=関門)、得ルハ易(やす)キト為スト雖ヘドモ、亦タ復(ふたた)ビ失フモ易シ。之ヲ失フハ徒(た)ダ一郡之地ヲ損ネルニ非ザルニシテ、荊州ハ憂フ可シ。今日之ヲ爭フモ,當ニ必ズヤ諧(=平ぐカ?)令(せし)ムベシ。(劉)備ハ天常ヲ干(おか)シ、窟穴(=洞穴。領国のこと)ヲ守ラ不(ず)、而シテ敢ヘテ自ラ送ル。臣ハ不材(=役立たず)ト雖モ、威靈ヲ憑(たの)ミ奉ジテ、以テ討逆(=逆賊を討つ)ニ順ハバ、破壞スルハ近キニ在リ。 (劉)備ノ前後行軍ヲ尋ネルニ、敗ルルハ多ク成ルハ少ナシ、推シテ此ニ之ヲ論ズルニ、戚(おそ)レヲ為スニ足ラ不(ず)。臣ハ初メ之(これ)、水陸倶(とも)ニ進ムヲ嫌(うたが)フモ、今ハ反ッテ船ヲ舍(=捨)テ歩ニ就(つ)キ、處處ニ營ヲ結ブ。其ノ布置ヲ察スルニ、必ズヤ他變(=他に不審)無シ。伏シテ願ワクバ至尊(=陛下)ハ高枕シテ、以テ念ヲ為サ不ル也」。諸將ハ並ビニ曰ク、「(劉)備ヲ攻ムルハ當ニ初メニ在ルベシ。今、乃ハチ五六百里ヲ入ラ令(し)メ、相ヒ銜持(=対峙)シテ經ルコト七八月、其ノ諸要害ハ皆以テ固守シ、之ヲ撃ツニ必ズヤ利無キ矣」。(陸)遜ハ曰く、「(劉)備ハ是レ猾虜ニシテ、更ニ嘗事(?)多ク、其ノ軍ノ始メ集(=到る)ヤ、思慮ハ精專ニシテ、未ダ干カス可カラザル也。今、住(とどま)ルコト已ニ久シク、我ガ便ヲ得不(ず)シテ、兵ハ疲レ意ハ沮(うしな)フニ、計リテ復タ生セ不(ず)、此ノ寇ヲ犄(百衲本=掎)角(=前後呼応して敵を攻めること)スルハ、正ニ今日在ルベシ」。乃チ先ヅ一營ヲ攻メルニ、利不(あらず)。諸將ハ皆曰ク、「空シク兵ヲ殺ス耳(ノミ)」。(陸)遜曰ク、「吾已ニ之ヲ破ル之(の)術ヲ曉(さと)ル」ト。乃チ敕シテ各ノ一把ノ茅ヲ持タシメ、以テ火攻メシテ之ヲ拔ク。一爾ニシテ勢ハ成リ、率ヲ通ジテ諸軍時ヲ同ジクシテ倶ニ攻ムルヤ、張南・馮習及ビ胡王沙摩柯等ノ首ヲ斬リテ、其ノ四十餘營ヲ破ル。(劉)備ノ將、杜路・劉寧等ハ窮逼シテ降ルヲ請フ。(劉)備ハ馬鞍山ニ升(のぼ)リ、自ノ繞(まわり)ニ兵ヲ陳(なら)ブ。(陸)遜ハ諸軍ニ督促シテ四面ハ之ニ蹙(せま)ルヤ、土崩ハ瓦解シ、死者ハ萬數。(劉)備ハ因リテ夜遁シ、驛人自ラ擔(にな)ヒ、鐃(=どら)鎧(=よろい)ヲ燒キテ後ヲ斷テバ、僅カニ白帝城ニ入ルヲ得。其ノ舟船器械、水歩(=水軍歩兵)ノ軍資ハ一時ニ略盡サレ、尸骸(=死骸)ハ漂流シテ、(長)江ヲ塞ギ而シテ下ル。(劉)備ハ大ヒニ慚恚(=恥じて怒る)シテ曰ク、「吾乃ハチ(陸)遜ノ折辱(虐げ辱める)スル所ト為スハ、豈ニ天(=天運)ニ非ザル邪(や)」ト。


同「朱然傳」
黄武元年,劉備舉兵攻宜都,然督五千人與陸遜并力 拒備。然別攻破備前鋒,斷其後道,備遂破走。拜征北將軍,封永安侯。
〈拙訳〉
黄武元年(222)、劉備ハ舉兵シ宜都ヲ攻ム。(朱)然ハ五千人ヲ督(ひき)ヒテ陸遜與(と)力ヲ并(あわ)セ、(劉)備ヲ拒(ふせ)グ。(朱)然ハ別ニ(劉)備ノ前鋒(=先鋒)ヲ攻破シテ、其ノ後道(=退路)ヲ斷テバ、(劉)備ハ遂ヒニ破走ス。征北將軍ヲ拜シ、永安侯ニ封ゼラル。

同「潘璋傳」
劉備出夷陵,璋與陵遜并力拒之,璋部下斬備護軍馮習等,所殺傷甚衆,拜平北將軍、襄陽太守。
〈拙訳〉
劉備ノ夷陵ニ出ルヤ、(潘)璋ハ陵遜與(と)力ヲ并セテ之ヲ拒(ふせ)ギ、(潘)璋ノ部下ハ (劉)備ノ護軍・馮習等ヲ斬ル。殺傷スル所ハ甚シク衆(=多)ク、平北將軍・襄陽太守ヲ拜ス。
注)「潘璋傳」には年次が書かれていないが、「陸遜傳」「先主傳」に、馮習の没を章武二年(222)とする。

同「孫権傳」
黄武元年春正月,陸遜部將軍宋謙等攻蜀五屯,皆破之,斬其將。三月,鄱陽言黄龍見。蜀軍分據險地,前後五十餘營,遜隨輕重以兵應拒,自正月至閏月,大破之,臨陳所斬及投兵降首數萬人。劉備奔走,僅以身免。
〈拙訳〉
黄武元年(222)春正月、陸遜ハ將軍宋謙等ヲ部(統)ベ、蜀ノ五屯ヲ攻メ、皆之ヲ破リテ、其ノ將ヲ斬ル。三月、鄱陽ハ黄龍ノ見ユルト言フ。蜀軍ハ險地ニ分據スルコト、前後五十餘營。(陸)遜ハ輕重ニ隨(したが)ヒ兵ヲ以テ應ジ拒(ふせ)ギ、正月自(よ)リ閏月ニ至リテ、,大ヒニ之ヲ破ル。陳(百衲本=陣)ニ臨ミテ斬リ及ビ投兵降首スル所ハ數萬人ナリ。劉備奔走シテ、僅カニ身ヲ以テ免カル。

同「韓當傳」
宜都之役,與陸遜、朱然等共攻蜀軍於涿郷,大破之,徙威烈將軍,封都亭侯。
〈拙訳〉
宜都之役、陸遜與(と)、朱然等ハ共ニ涿郷於(ニ)蜀軍ヲ攻メ、大ヒニ之ヲ破ル。威烈將軍ニ徙リ、都亭侯ニ封ゼラル。

同「徐盛傳」
劉備次西陵,盛攻取諸屯,所向有功
〈拙訳〉
劉備ノ西陵ニ次(=駐留)グヤ、(徐)盛ハ攻メテ諸屯ヲ取リ、向カフ所ニ功有リ。
注)「孫権傳」によれば、「夷陵」が「西陵」と改められたのは、黄武元年(222)である。【(黄武元年)是歲改夷陵為西陵】。

同「孫桓傳」
孫桓字叔武,河之子也。年二十五,拜安東中郎將,與陸遜共拒劉備。備軍衆甚盛,彌山盈谷,桓投刀奮命,與遜戮力,備遂敗走。桓斬上兜道,截其徑要。備踰山越險,僅乃得免,忿恚歎曰:「吾昔初至京城,桓尚小兒,而今迫孤乃至此也!」桓以功拜建武將軍,封丹徒侯,下督牛渚,作橫江塢,會卒。
〈拙訳〉
孫桓ハ字ヲ叔武、(孫)河之子也。年二十五ニシテ、安東中郎將ヲ拜シ,陸遜與(と)共ニ劉備ヲ拒(ふせ)グ。(劉)備ノ軍衆ハ甚ダ盛ニシテ、山ヲ彌(おお)ヒ谷ニ盈(み)ツルモ、(孫)桓ハ刀ヲ投(ふる)ヒ命ヲ奮ヒテ、(陸)遜與(と)力ヲ戮(あわ)スヤ、(劉)備ハ遂ニ敗走ス。(孫)桓ハ上兜(百衲本は兠。兜の俗字。『集解』「趙一清曰兜當作夔」)道ヲ斬リ、其ノ徑要(要路)ヲ截(た)ツ。(劉)備ハ山ヲ踰(こ)ヘ險ヲ越ヘテ、僅カニ乃ハチ免カルヲ得、忿恚(両字とも怒る)シ歎キテ曰ク、「吾レ昔、初メ京城ニ至リシニ、(孫)桓ハ尚ホ小兒ナルヲ、而シテ今ハ孤(私)ニ迫リテ乃ハチ此ニ至ル也!」。(孫)桓ハ功ヲ以テ建武將軍ヲ拜シ、丹徒侯ニ封ゼラレ、下リテ牛渚ニ督シ、橫江ノ塢(=小城)作ルモ、會卒(=急逝)ス。

『蜀書』「先主傳」
章武元年夏四月,大赦,改年。以諸葛亮為丞相,許靖為司徒。置百官,立宗廟,祫祭高皇帝以下。五月,立皇后吳氏,子禪為皇太子。六月,以子永為魯王,理為梁王。車騎將軍張飛為其左右所害。初,先主忿孫權之襲關羽,將東征,秋七月,遂帥諸軍伐吳。孫權遣書請和,先主盛怒不許,吳將陸議、李異、劉阿等屯巫、秭歸;將軍吳班、馮習自巫攻破異等,軍次秭歸,武陵五谿蠻夷遣使請兵。 二年春正月,先主軍還秭歸,將軍吳班、陳式水軍屯夷陵,夾江東西岸。二月,先主自秭歸率諸將進軍,緣山截嶺,於夷道猇亭猇駐營,自佷山通武陵,遣侍中馬良安慰五谿蠻夷,咸相率響應。鎮北將軍黃權督江北諸軍,與吳軍相拒於夷陵道。夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。先主自猇亭還秭歸,收合離散兵,遂棄船舫,由步道還魚復,改魚復縣曰永安。吳遣將軍李異、劉阿等踵躡先主軍,屯駐南山。秋八月,收兵還巫。司徒許靖卒。冬十月,詔丞相亮營南北郊於成都。孫權聞先主住白帝,甚懼,遣使請和。先主許之,遣太中大夫宗瑋報命。冬十二月,漢嘉太守黃元聞先主疾不豫,舉兵拒守。 三年春二月,丞相亮自成都到永安。三月,黃元進兵攻臨邛縣。遣將軍陳曶。討元,元軍敗,順流下江,為其親兵所縛,生致成都,斬之。先主病篤,託孤於丞相亮,尚書令李嚴為副。夏四月癸巳,先主殂于永安宮,時年六十三。 亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹德,覆燾無疆,昊天不弔,寢疾彌留,今月二十四日奄忽升遐,臣妾號咷,若喪考妣。乃顧遺詔,事惟大宗,動容損益;百寮發哀,滿三日除服,到葬期復如禮;其郡國太守、相、都尉、縣令長,三日便除服。臣亮親受敕戒,震畏神靈,不敢有違。臣請宣下奉行。」五月,梓宮自永安還成都,諡曰昭烈皇帝。秋,八月,葬惠陵。

〈拙訳〉 章武元年(221)夏四月、大赦、改年ス。諸葛亮ヲ以テ丞相ト為シ、許靖ヲ司徒ト為ス。百官ヲ置キ、宗廟ヲ立テ、高皇帝以下ヲ祫祭(先祖代々の御霊を始祖の病に会わせ祀る)ス。五月、吳氏ヲ皇后ニ立テ、子ノ(劉)禪ヲ皇太子ト為ス。六月、子ノ(劉)永ヲ以テ魯王ト為シ、(劉)理ヲ梁王ト為ス。車騎將軍・張飛ハ其ノ左右(側近)ノ(殺)害スル所ト為ス。初メ、先主ハ孫權之關羽ヲ襲フヲ忿(いか)リ、將(まさ)ニ東征セムトシテ、秋七月、遂ヒニ諸軍ヲ帥(ひき)ヒテ吳ヲ伐ツ。孫權は書ヲ遣(おく)リテ和ヲ請フモ、先主ハ盛ンニ怒リテ許サ不(ず),吳將ノ陸議、李異、劉阿等ハ巫、秭歸ニ屯シ、將軍吳班、馮習ハ巫自(よ)リ攻メテ(李)異等ヲ破リ、軍ハ秭歸ニ次(=宿営する)グ。武陵五谿ノ蠻夷ハ遣使シテ兵ヲ請フ。 二年(222)春正月、先主ノ軍ハ秭歸ニ還リ、將軍吳班、陳式ノ水軍ハ夷陵ニ屯シ、江ノ東西ノ岸ヲ夾(はさ)ム。二月、先主ハ秭歸自(よ)リ諸將ヲ率ヒテ進軍シ、山ニ緣(そ)ヒ嶺ヲ截(よこぎ)リ、夷道ノ猇亭ニ於ヒテ駐營す。佷山自(よ)リ武陵ヲ通リテ、侍中ノ馬良ヲ遣ハシ五谿ノ蠻夷ヲ安慰セシメ、咸(みな)相ヒ率ヒテ響應(すぐに呼応)ス。鎮北將軍黃權ハ江北諸軍ヲ督(ひき)ヒテ、吳軍與(と)夷陵道於(に)相ヒ拒グ。夏六月、秭歸自(よ)リ十餘里中ニ黃氣見ユルコト、廣サ數十丈。後十餘日、陸議ハ猇亭ニ於ヒテ先主ノ軍ヲ大ヒニ破リ、將軍馮習、張南等ハ皆沒ス。先主ハ猇亭自(よ)リ秭歸ニ還リ、離散ノ兵ヲ收合シ、遂ヒニ船舫ヲ棄テテ、歩道由(よ)リ魚復ヘ還リ、魚復縣ヲ改メテ永安ト曰ク。吳ハ將軍李異、劉阿等ヲ遣ハシ先主ノ軍ヲ踵躡(=追)ヒ、南山ニ屯駐ス。秋八月、兵ヲ收メテ巫ニ還ル。司徒ノ許靖ハ卒ス。冬十月、丞相・(諸葛)亮ニ詔シテ南北郊ヲ成都於(に)營ム。孫權ハ先主ノ白帝ニ住(とどま)ルヲ聞キ、甚ダ懼レ、遣使シテ和ヲ請フ。先主ハ之ヲ許シ、太中大夫・宗瑋ヲ遣ハシテ報命ス。冬十二月、漢嘉太守・黃元ハ先主ノ疾(=病)不豫(=天子の病気)ナルヲ聞キテ、舉兵シ拒守ス。 三年春二月、丞相・(諸葛)亮ハ成都自リ永安ニ到ル。三月,黃元ハ兵ヲ進メテ臨邛縣ヲ攻ム。將軍陳曶ヲ遣ハス。(黃)元ヲ討チ、(黃)元ノ軍ハ敗レテ、流ニ順ヒテ江ヲ下ルモ、其ノ親兵ノ縛スル所ト為シテ、生キテ成都ニ致スヤ、之ヲ斬ル。先主ノ病ハ篤(重)ク、孤(=遺子)ヲ丞相・(諸葛)亮於(に)託シ、尚書令・李嚴ヲ副ト為ス。夏四月癸巳、先主ハ永安宮于(に)殂(=薨)ズ、時ニ年六十三。 (諸葛)亮ハ後主於(に)上言シテ曰ク、「伏シテ惟(おも)フニ、大行皇帝(=崩御した皇帝、または諡号のつくまでの呼び名)ハ仁ニ邁(つと)メ德ヲ樹(た)テ、覆燾(=覆う)コト疆(きわま)リ無ク、昊天(=青空)ハ不弔(=天恵が無い)ニシテ、寢疾(=病臥)スルニ彌留(=危篤)、今月二十四日奄忽(=俄に)升遐(崩御)シテ、臣妾(=家来とそばめ)ハ號咷(=号泣)、若(けだ)シ考妣(=父母)ヲ喪フガゴトシ。乃ハチ遺詔ヲ顧ルニ、惟(た)ダ大宗(=皇統)ヲ事トシ、動キテハ損益ヲ容レ、百寮ノ哀(喪)ヲ發スルハ、滿三日ニシテ除服シ、葬期ニ到レバ復タ禮ノ如クシ、其ノ郡國太守、相、都尉、縣令長ハ、三日ニシテ便ハチ除服セヨト。臣・(諸葛)亮ハ親シク敕戒ヲ受ケ、神靈ニ震畏(=震え恐れる)シツ、敢ヘテ違ヒ有ラ不ルナリ。臣ハ宣下シ奉行(主君の命を受けて行う)スルコトヲ請フ」。五月、梓宮(=天子の棺)ハ永安自リ成都ニ還リ、諡(おくりな)シテ昭烈皇帝ト曰フ。秋八月、惠陵ニ葬ル。
注)「先主傳」中の「陸議」は「陸遜」のこと。「陸遜傳」【陸遜字伯言,吳郡吳人也。本名議,世江東大族】


参考のため、陸遜と彼が「督」した諸将のその時点(とその後)の官職を列挙する。

陸遜・・・東曹西曹令吏~海昌屯田都尉~定威校尉~帳下右部督~偏将軍右部督~宜都太守・撫辺将軍・華亭侯~(建安二十四年)~右護軍・鎮西将軍~(黄武元年=222)大都督・佳節~輔国将軍(加冠)・荊州牧・江陵侯~上大将軍・右都護(黄龍元年)~丞相(赤烏七年)(陸遜傳)
朱然・・・建安二十四年、昭武将軍・西安郷侯(朱然傳)
潘璋・・・偏将軍~(劉備を夷陵に防ぐ)~平北将軍・襄陽太守(潘璋傳)
宋謙・・・黄武元年(222)春正月,陸遜ハ將軍宋謙等ヲ部(ひき)ヒテ蜀ノ五屯ヲ攻メ,皆之ヲ破リ,其ノ將ヲ斬ル(呉主傳)
韓當・・・偏将軍(韓當傳、宜都の戦役前)~威烈将軍・都亭侯
徐盛・・・建武将軍・都亭侯(劉備の西陵進出前)
鮮于丹・・・将軍(黄武五年)
孫桓・・・安東中郎將~(劉備敗走後)~建武将軍

一目瞭然。大方、将軍位にある。