高島忠平氏の古田氏への弔文について



2015年10月14日、日本古代史論壇にひときわ異彩を放った古田武彦氏が死去した。享年89。古田史学の会では今年2016年3月25日発行の『古代に真実を求めて第19集』で「追悼特集 古田武彦は死なず」を組んでいる。その巻頭、古田史学の会代表・古賀達也氏を初めとして、多くの弔文が寄せられているが、その中に学校法人旭学園理事長、考古学者 高島忠平氏の一文も含まれていた。邪馬台国のフォーラムでの縁で面識があったのだろうか、「西日本新聞」2015年11月4日朝刊掲載の追悼文を転載している。

この高島氏の文を読んで、やはり考古学者は考古学者であり、どちらかといえば文献に軸足を置いていた古田氏の所説に対しての認識がやや乏しいのではないかという気がしたのである。

そこで、この高島氏の追悼文に注釈を付けてみようと思った。高名な考古学者に対して、やや批判的な注釈を付けるなど不遜の極みかも知れないが、そこは在野の趣味人の特権ではないかと、手前ミソの納得をし、敢えてその不遜なる所行を試みた。



古田武彦さんを悼む

学校法人旭学園理事長、考古学者 高島忠平

 「『邪馬台国』はなかった」。古田武彦さんのこのフレーズは、私にとってショックだった。古田さんは、一九六九年に史学雑誌(注1)、七一年に単行本(注2)を出され、現存する 『三国志』「魏志倭人伝」のすべてに「邪馬臺(台)国」ではなく「邪馬壱国」とあり、邪馬壱国はあっても邪馬台国はないと主張したのである。
 魏志倭人伝を中心に独自の文献考証を行い、邪馬壱国は現在の博多湾岸地域にあったとされた。在野の研究者の一説であるにしても、邪馬臺(台)国と当然のように理解して、近畿(畿内)か九州かを軸に各説を戦わせていた論争に大きな波紋を投じた。後に三種の神器も博多湾岸の弥生文化にみられると考古学的に自説を補強された。
 当時、私は奈良国立文化財研究所に在籍していて、所内の研究会で邪馬台国九州説を主張し、先輩研究者たちにこてんばんに批判された。負けん気が強い私は考古学界を圧倒する邪馬台国近畿説に対抗できる九州説を構築しようと考えをめぐらせていた。
 当然、私は邪馬台国(ヤマタイコク)と疑わず、私の九州説を厳しく批判した先輩たちもヤマタイコクであった。
考古学アカデミズムは古田説を無視するか、関心を示そうとはしなかった。古代史研究者からは、邪馬壱国の「壱」は「臺」の誤記で、やはり「邪馬台国」と読むべきだと反論もあった。これには 『日本書紀』が語る日本古代国家生成の主体とされる、奈良の「ヤマト」が考古学・古代史研究者の先入観(注3)としてあったことは否めない。
 太宰府天満宮に伝来する 『三国志』など中国の歴史書を書写した九世紀の「翰苑」(注4)(中国の最古の木刻本「三国志」(注5)よりも古い)には、「伊都に至る。又南して邪馬臺国(注6)に至る」とあり、邪馬壱国を「邪馬台国」と読んでいる(注7)。しかし、邪馬壱国はまったく否定されるものではなく、「卑弥呼の都するところ」として、その可能性は検討されるべきだろう(注8)。 古田説は、古代史に関心がある市民や、歴史学とは別分野の研究者には説得力を持っていた。今もって人気があり、数年前に福岡県が主催した「邪馬台国」シンポジウムで、聴衆に最も多く支持されたのが「邪馬台国?」福岡市説であった。
 古田さんはさらに「多元的古代史観」を提唱され、古代の「九州王朝」の存在を主張された(注9)。日本書紀や考古学・古代史研究者の大勢にある 「一元的なヤマト王権による列島の支配・統一」への対極の古代史観であった。
 私は多元的古代史観に共感している(注10)古田さんの描く九州王朝説をそのままは受け入れられないが(注11)、「地域史観」を持っている。私も列島各地に弥生時代から古墳時代にかけてツクシ・キビ・ヤマト・イヅモ・ケヌといった独自に王権が生成される状況を見てとっているからである。古田さんは、既成の歴史学に対して、他にも多くの問題・課題を提唱され、「古田史学」を確立された。
 古田さんは発掘されて間もない吉野ヶ里遺跡を訪れ、一書を出されている(注12)。私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた(注13)姿が印象的であった。
 古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鷲の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鷲と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心(注14)があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているのだろうか。
 ご冥福を祈ります。
                                   (「西日本新聞」 二〇一五年十一月四日朝刊より転載)


以上出典)古田史学の会編『古代に真実を求めて 古田史学論集第十九集 追悼特集 古田武彦は死なず』19-20ページ/2016年3月25日/初版第一刷発行。

〈注釈〉
注1)『史学雑誌』七八−九「邪馬壹国」(昭和44年9月)掲載。後に古田武彦『多元的古代の成立−[上]邪馬壹国の方法』収載。

注2)冒頭に書かれてある 「『邪馬台国』はなかった」。昭和46年11月15日第1刷発行/朝日新聞社。

注3)「先入観」ではなく、内藤湖南の言う「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり(「卑弥呼考」)」の如く、魏志を受けて成立したと見られる後代の史書に臺とあることによる。『三國志』の現存する最古の刊本の刊刻は、上記正史より数世紀遅れる。

注4)「九世紀の「翰苑」」という表現は不適切であろう。張楚金『翰苑』自体の成立は唐の高宗顕慶五(660)年であり、そのことは現存する『翰苑』残存部分の最後に「叙曰」として述べてある。九世紀というのは、その『翰苑』に雍公叡が附注した年代のことで、それは唐の太和年間(827-835)のこととされる。太宰府天満宮に残る『翰苑』は平安時代の書写にかかるものと見られている。

注5)「紹興本」「紹煕本」のこと。詳細は小生のHP「「三国志」の版本について」参照。

注6)『翰苑』に見えるのは、邪馬嘉国である。

注7)「邪馬壱国を「邪馬台国」と読んでいる」という表現は「嘉」についての錯誤があるにしても、ことの前後関係の認識が乏しいのではないかと疑う。通説の“壹は臺の誤”というのは、歴代史書に見える「臺」が『魏志』本来の表記であり、刊本の「壹」は本来の「臺」を誤ったものであると考えているのであるから、『翰苑』が「邪馬壱国を「邪馬台国」と読」むことなどあり得ない。『翰苑』成立時点での『魏志』には臺とあったのであり、それ故、同じ唐代の『隋書』でも【魏志所謂邪馬臺者也】としているのである。

注8)この部分は古田説へのコメントとしては、意味が不明である。「邪馬壱国はまったく否定されるものではなく」というのは、『翰苑』の邪馬臺(『廣志』原文の邪馬嘉の誤)をもってしても、古田の邪馬壹は何の影響も受けることはない。古田の第1論文、第1書を読めば分る。

注9)九州王朝説の提唱が先にあり、そこから発展して「多元的古代史観」を提唱するに至った。

注10)「多元的古代史観」は古田のネーミングだが、古代にあって地域地域に王権があったとするのは古田固有の主張ではない。特に古墳の分布から地域王権を唱える考え方は存在していた。

注11)「そのままは受け入れられない」というのは、古代列島にあって、中国と通交していた王朝は九州王朝であった、とする古田の主張のことであろう。

注12)光文社カッパブックス『吉野ヶ里の秘密 解明された「倭人伝」の世界』である。その214ページで次のように書いている。
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私のインタビュー記事の題として「吉野ヶ里は邪馬台国だ」〈週刊文春4月13日号〉とあったのは、編集部のワーク。それを“うけて”わたしの説が「吉野ヶ里=邪馬台国」説であるかのように紹介したものもあった。〈月間ASAHI創刊号、佐原真氏〉
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しかし、件の『週刊文春』1989年4月13日号では、古田氏自身以下のように書いている。
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「ああ、やっぱりそうであったか。そうでしょう。そうでなきゃおかしい」
そういう「ついに出たか」という驚きだったのです」
『こうした点からも、この一帯が倭国の中心部であるとの感を深くしました』
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「倭国の中心部である」と言えば、それが「邪馬台国」であると受け止められたとしても特段不思議なことではない。古田氏自身が第1書から何度も主張してきた「邪馬壹国=博多湾岸とその周辺山地」説との齟齬を指摘された故の弁解であるかは知りようがないが、安本美典氏からはこの件について鋭い批判が出ている。

注13)「他説には謙虚に耳を傾けておられた」というのは、その場での高島氏の個人的印象に過ぎない。実際の古田氏の議論の手法は、口先で誤魔化すとも言いうるやり方である。白樺湖シンポジウムの際も、魏西晋朝短里説についての反論に再反論するにあたって、その場限りの遁辞を用いていることが明らかである。古田・反古田の論争を逐一追っていけば、古田氏の反論は決して「謙虚」などという態度とは言い難いものである。

注14)「常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心」を持つということは、もちろん是認されるべき態度であるが、提出した自説を維持するためには、どういう弁法を用いても良いということではあるまい。安本氏の言葉を借りるとすれば、「九州王朝は蜃気楼(かいやぐら)にすぎない」(『古代九州王朝はなかった』221ページ)と言い切って大過ないと信じる。