『三国志』の版本について

これは「日本史」「「魏志・倭人伝」行程記事解析」に連載したものを集めた。2004年3月25日から、同4月11日までである。

「三国志」の版本について(1)

2004/ 3/25 23:51
メッセージ: 2894 / 2936
今日、われわれが見ている「魏志倭人伝」は「陳寿」の記した「三国志」の中の「魏書東夷伝倭人(の条)」の部分の通称である。

「魏志倭人伝」とは「三国志魏書東夷伝倭人(の条)」の略称である・・・と言う説明は、多くの本に書いてある。が、本当はそう簡単にも言えない。第一「三国志」というひとまとまりの書物として「陳寿」が書いたものではなく、三国それぞれの「国志」を後に総称して「三国志」と称したもののようである。このあたりについて記したものを紹介するだけで、長文となるので後の機会に譲ることとする。

なお、これまでのシリーズと違い、できるだけ私の考えを排して、知り得た限りのことをまとめて見たいと思っている。

「三国志」の版本について(2)

2004/ 3/26 22:44
メッセージ: 2911 / 2936
先に「古本三国志について」というシリーズを書いた。これは、陳寿が「三国志」を記してから、北宋代はじめて刊行されるまでの「書写の時代」の「三国志」についてまとめてみたものだった。

特に、中国西域から出土した「呉志残卷」「魏志残卷」について注目することによって、今日われわれが目にしている「三国志」というものが、陳寿の書いたものとは少なからぬ相違点を抱えているのではないかという危惧を持たざるを得ないことを述べた。

今回のシリーズは、北宋代、初めて「三国志」が刊行されて以降、今日見ることのできる版本にどのような系統があり、そして、「版本の流布」という事象が、いったいどのような意味を持つものであるかについても触れてみたいと思う。

「三国志」の版本について(3)

2004/ 3/26 23:16
メッセージ: 2912 / 2936
岩波文庫版「魏志倭人伝他三篇」や「邪馬台国」関連の多くの書籍には「原文」と称する影印が収録されている。活字ではなく「影印」を初めて見ると、それがそのまま陳寿の時代の面影を残しているかのような錯覚に陥る。

「三国志」について云えば、それらの影印はおそらく「百衲本」とか「紹煕本」「紹興本」とか注記してあるはずだ。

「三国志」が最初に刊行されたのは、北宋咸平五年(1002)のことで、これは現存しない。
で、今日現存する最古の版本は「紹興本」と呼ばれるもので、宋の南遷直後・紹興年間(1131-1162)のものと言われる。それに続いて「紹煕本」というものが刊行され、これが最もよく目にすることのできる「三国志」の版本だということができる。紹煕年間は1190-1194である。

上記「紹興本」「紹煕本」そして「咸平本」の説明がもっともポピュラーな説明のパターンかと思う。

ところが、上記の説明は、「邪馬台国本」の注釈としてはよいとしても、はっきり言うと正しくない。

「三国志」の版本について(4)

2004/ 3/26 23:49
メッセージ: 2913 / 2936
これまでも紹介したことがあり、重複となるが「三国志」最初の版本「咸平本」の刊行された経緯を書いておきたい。

北宋第三代真宗の咸平五年(1002)に「三国志」は初めて刊行されることとなった。この「咸平本」というものが実は、我が国の「静嘉堂文庫」に蔵されているという。但し「呉志」のみである。その巻首に「咸平六年十月二十九日の中書門下の「牒」がつけられていることからもわかる(咸平六年は1003年であり、実際の刊行はその年になったものだろう)。

したがって、先に(3)で「咸平本は現存しない」と書いたのは間違いと言うことになる。

しかし、実はこの「静嘉堂文庫」蔵「咸平本呉志」も南宋代の版本を元に作られたものらしい。北宋代の版本が、毎半葉十行、行十九字であるのと違い、毎半葉十四行、行二十三字と相違する。また避諱ほかからこの「呉志」と称するものも、南宋初期に北宋末の版本を元に刊行されたものだと云われる。

それでも、この「咸平本」が「紹興本」に先んずることには違いがない。ただし、「呉志」のみで、「魏志」はない。

「魏志」のもっとも古い刊本は、やはり「紹興本」ということになる。が、これはなかなかお目にかかれない。もっともポピュラーなものはやはり「紹煕本」と称されるものだろう。しかし・・・。

「三国志」の版本について(5)

2004/ 3/28 0:05
メッセージ: 2915 / 2936
さて、「咸平本」は「呉志」のみが静嘉堂文庫に存する・・・と書いた。もちろん咸平五年(あるいは六年)の版本そのものではないが、その趣を引き継いでいるのだろう。

その後の「紹興本」「紹煕本」と何が違うかといえば、特徴的なこととして、「注」が本文と同じ文字で、一段字下げして書かれてあるという点が挙げられる。われわれ見慣れている「裴松之注」は「割り注」だが、「咸平本」はそうではない。

また、行格も北宋版正史が毎半葉十行、行十九字であるのと相違して、毎半葉一四行二三字で、この点も北宋・咸平の版本ではないことの証左と見られる。

結局、当面の関心事である「倭人伝」を含む最古の「魏志」は何かといえば「紹興本」ということになる。

「紹興本魏志倭人伝」の文面を見るのはなかなか難しかったようだが、こんにちでは三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社/昭和四十五年四月十五日発行)の巻頭グラビアとして見ることができる。これと、「百衲本魏志」(便宜上「紹煕本」と称することもある)とを比べてみると、同じ版本と言いながら、様相が異なることが一見してわかる。

「三国志」の版本について(6)

2004/ 3/28 0:37
メッセージ: 2916 / 2936
「咸平本魏志」が現存しないことを述べたが、同じ版本だから、その後の「紹興・紹煕本」と内容的には同じではないか?と言うのが妥当な見方だろうが、少し違う意見もある。

それが「臺」と「壹」問題に関わっているので少しばかり触れておく。

中央公論社「歴史と人物」昭和五十年九月号に藪田嘉一郎氏が「『邪馬台国』と『邪馬壹国』」という一文を寄せておられる。それによると、北宋が金に逐われ南遷したことから、南宋の人は激しい「攘夷思想」を抱いたとする。「紹興・紹煕本」の校訂者がその攘夷思想の故に、「邪馬臺」「臺與」の「臺」という朝廷をも意味する文字を「壹」と書き改めたとしても不思議ではない・・・。今日見る「魏志」に「太伯之後」という文言の失われていることも、同じ意図によって削られたのだと。

かつて私は、この藪田氏の意見を「なるほど」と思って読んだものだが、その後の調べでその考えは成り立たないことを確信した。

それを教えてくれたのが「冊府元亀」である。

「三国志」の版本について(7)

2004/ 3/28 0:56
メッセージ: 2917 / 2936
ここで訂正をば・・・。

>実はこの「静嘉堂文庫」蔵「咸平本呉志」も南宋代の版本を元に

の「南宋代」は間違い。その直後にある、

>南宋初期に北宋末の版本を元に刊行されたものだと云われる

が正。

>ただし、「呉志」のみで、「魏志」はない

誤解を与える書き方だったかも・・・。「ない」は「現存しない」。

「三国志」の版本について(8)

2004/ 3/28 11:47
メッセージ: 2918 / 2936
「冊府元亀」は、「咸平本」に遅れること10年(1013年)にして成立した宋代類書の一つである。約20年ほど先行して成立した「太平御覧」とともに名高い。

この「冊府元亀」に引かれる「魏志」とこんにち見る「通行本魏志」との違いを見ることによって、少なくとも「倭人伝」部分における「咸平本」の様子を窺うことができる。

「冊府元亀外臣部」の「国邑」「土風」「種族」「朝貢」「継襲」「封冊」「褒異」に「倭」についての記事が見えるが、それらは「魏志」からあり「晋書」からあり、また「梁書」からあり・・・とさまざまである。

そのうち「土風」「封冊」の記事は、ほとんど「通行本魏志」と同じである。まるで「紹興・紹煕本」成立後にそれを引用して「冊府元亀」が編まれたと勘違いするほどだ。それはとりもなおさず、「咸平本」が「通行本」とほぼ同じで、「冊府元亀」のテキストとなったことを示していると言えよう。

それに比べて「咸平本」成立の20年ほど前に成った「太平御覧」に引かれる「魏志」は様相を異にする。そこに見える「魏志」はいくつかの点で「通行本魏志」と異なる点があり、その「異なり方」は、それ以前の各代の史書と相通ずるのである。

こうして「咸平本」は「倭人伝」部分に関するかぎり、通行本と大きな違いはないのではないかと考えたのである。藪田氏の云われる「攘夷思想」が南宋代のことであるとするならば、北宋代に成った「冊府元亀・土風」に、こんにちの通行本と同様「太伯之後」の文言が既に見えないことの説明が付かない。

「三国志」の版本について(9)

2004/ 3/28 23:46
メッセージ: 2919 / 2936
「咸平本」「紹興本」「紹煕本」にとりあえずご登場願ったところだが、なんといってももっともポピュラーなのは「紹煕本」だろう。

二十世紀前半、張元済が「百衲本二十四史」を編纂する折り、「三国志」のテキストとして、我が国の帝室図書寮蔵(こんにちの宮内庁書陵部)「北宋紹煕刊本」を用いたと明記してある。ただし、巻一〜巻三は欠けていたので、「紹興本」を用いたとする。

従って「百衲本三国志魏志」は帝室図書寮蔵「北宋紹煕刊本」とまったく同一のはずである。一見すると「別物」とは見えない。ところが、細かい点で相違している。

「倭人伝」について云えば「紹煕本」の「郡支国」に対して「百衲本」は「都支国」。また、「言語虫さん」がかつて指摘されたように、「紹煕本」では「百衲本」の「黄幢」を「黄憧」とする。

この両者はコピーにかけたようにそっくりなのだが(影印したものだから当然)、違いがあって、どうやら「百衲本魏志」が「帝室図書寮本」に全面的に依拠したものではないのではないかとの疑いがもたれる。

ここでもう一つの刊本「仁寿本」を挙げる。これも「紹煕本」「百衲本」とまったく同一の姿をしている。ところが、例えは「百衲本三国志呉書孫亮伝」には「帝室図書寮」の印が捺されているのに対して「仁寿本」の当該部分には、そのような押印が見られない。「仁寿本」は宮内庁本とは別の「紹煕本」を影印したものだろう。また、「百衲本」にしても宮内庁本以外の「紹煕本」を用いていることか窺える。榎博士はこれを北京図書館現蔵の「旧楊氏海源閣本」であろうと推測されている。

同じテキストを影印して刊行されたものに於いても、かかる字句の異同が見られる。

なお、「紹煕刊本」との通称も実は不適切で、南宋第三代光宗の年号「紹煕」ではなく、次の寧宗の諱「拡」を避けているので「慶元本」と称すべきだと榎博士は説かれている。

※とりあえずいつものことだが、ここまでのところ主に榎一雄「改訂増補版邪馬台国」(至文堂/昭和五十三年)によった。

「三国志」の版本について(10)

2004/ 3/29 23:21
メッセージ: 2920 / 2936
ここで修正を入れておきたい。

>同じテキストを影印して刊行されたものに於いても

と言う表現は正しくない。同じ「紹煕本」を影印して・・・とすべきである。つまり、一口に「紹煕本」といってもそれぞれ微妙な違いがある。なぜそのようなことか生じるかと云えば、版本の性質上、版木が古く印刷に耐えられなくなってくると、いたんだ部分のみ補修をして印刷する。「補刻」とか「覆刻」とか云われるものである。

「紹煕本」という「ブランド」の版本も、実際いつ頃の刊行であるかを知るには、先にも述べた「避諱」と「刻工」から推測する。「宮内庁書陵部蔵宋紹煕刊本」というものも、実際は「紹煕」の版など既に使われてはいないのかも知れない。

尾崎康教授(現・帝京大学文学部史学科長)によれば、宮内庁書陵部蔵「三国志」は南宋中期に下るもので、「紹煕本」と称するのは不見識もはなはだしいとのこと。これは民間で刊行された「坊刻本」(商業的な出版所から刊行されたもの)で、テキストとしては余りよいものではない・・・とされる(『季刊邪馬台国』18号/1983年冬号/170p)。

つまり、宮内庁書陵部本と旧海源閣本とでは、同じ「紹煕本」と称する版本でも、補刻・覆刻の受け方によって、文字に異同が生ずることがある。「郡」と「都」、「黄幢」「黄憧」もその例であろう。

「三国志」の版本について(11)

2004/ 3/29 23:41
メッセージ: 2921 / 2936
さて、版本が大いに流布することになった宋代だが、一体それはどれくらいの勢いだったかというと、以前にも紹介したが、北宋景徳二年(1005)、時の真宗が国子監に行幸した折りの話が残っている。

それによると、昔は経疏を所有している者は万人に一人か二人だったのが、今は家ごとにある・・・という。

版本の流布というものが、どれくらいの勢いだったかよく分かる。

それから約900年。残存する「紹煕本」「紹興本」はそれぞれ数種を数えるのみである。張元済が百衲本を編纂するとき、「三国志」のテキストとして、時の日本帝室図書寮蔵のものを使わざるを得なかったことからも、書籍のいかに滅びやすかったかが知れる。それも巻一から巻三まで欠けており、「紹興本」で補った。成立時代は「紹興本」か古いのだが、張元済は「紹煕本」を採った。この判断が妥当であるかどうかは、私の知見の及ぶところではない。

「三国志」の版本について(12)

2004/ 3/30 23:07
メッセージ: 2922 / 2973
ここでひとまず、これまでの話をまとめておく。

「咸平本」・・・北宋咸平五年(あるいは六年=1002 or 1003)、初めて刊行された「三国志」版本。「呉志」のみが宮内庁に残っているとされたが、これも南宋初期の覆刻本らしい。ただし、「咸平本」の面目を保っていると考えられる。

「紹興本」・・・南宋紹興年間(1131-62)、刊行された、まとまったものとしては現存最古の「三国志」刊本。

「紹煕本」・・・南宋紹煕年間(1190-94)の刊行とされるが、尾崎康教授によるとそれには根拠が無く、南宋中期のものだろうという。こんにち最もよく知られる「百衲本三国志」も巻一〜三を除いて、この「紹煕本」を影印している。その一つに宮内庁書陵部蔵のものも含まれる。

「三国志」の版本について(13)

2004/ 3/30 23:35
メッセージ: 2923 / 2973
訂正をば!

>宮内庁に残っているとされたが

先にも述べたように「静嘉堂文庫」である。込み入った話の「まとめ」のつもりが、とんだ勘違いで恐懼の極み!

「三国志」の版本について(14)

2004/ 3/31 21:52
メッセージ: 2927 / 2973
尾崎康教授のお名前を出させていただいたからには、出典も明らかにしておきたい。

『斯道文庫論集』第十六輯(1979年12月)所載「宋元刊三国志および晋書について」(慶応義塾大学附属研究所斯道文庫)の「三国志」についての部分を「季刊邪馬台国」18号(1983年冬号)から24号(1985年夏号)にかけて転載されたものから主に引用・参考にさせていただいた。

しかし、在野の好き者が消化するにはあまりに難解で、引用することすら大恥を覚悟の上のことと、諸兄にはご理解を賜りたい。

「三国志」の版本について(15)

2004/ 3/31 23:12
メッセージ: 2928 / 2973
ここで、「避諱」と「刻工」について極めて簡単に紹介しておこう。

「避諱」とは、帝王の本名(諱)は人民が口に出して呼ぶことが出来ないばかりではなく、文章を書くときもその諱にあたる文字は必ず謹んで避けなければならなかった。これを「避諱」という(陳国慶『漢籍版本入門』/研文出版/1984年/114p~)。

あるいは、どうしてもその文字を用いる場合には、最後の一画を「欠く」という方法が採られた。両者を併せて「避諱欠画」という。

尾崎教授が静嘉堂文庫蔵の「呉志」を南宋初期と考えられる根拠は、この「欠画」と「刻工」にある。「匂当」という文字を「高宗」の諱を避けて「幹当」に書き換えている。

また、「刻工」についても、彼らが実際に活躍したことが判明している時代の特定から、そのような判断をなされる。

例えは「丁保」という刻工は、南宋紹興一八年(1148)成立の『開元釈教録』にその名が見えることから、その刻工として活躍した時代がわかる(『季刊邪馬台国』19号/1984年春号/184p)。

「避諱」と「刻工」からその刊本の印刷された時代が特定できるというわけである。

因みに「避諱」の例で、わが古代史にもっとも関係あるのが「裴世清」であろう。唐の太宗・李世民の「世」の字を嫌って「裴世清」は「隋書」では「裴清」と書かれる。一方、同じ唐代に成立した「北史」では「裴世清」と書かれているが、これはまた、別途の考察を要するのだろう。

「三国志」の版本について(16)

2004/ 3/31 23:43
メッセージ: 2929 / 2973
さて、「咸平本」「紹興本」「紹煕本」「仁寿本」と紹介したところで、次に「汲古閣本」について触れたい。

明代の毛晋は八万四千冊余を数える著名な蔵書家だったが、17世紀前半から中葉にかけて、およそ600余点の書籍を刊行した。これらを「毛刻本」あるいは「汲古閣本」と称する。どれも印刷が精巧で校勘も優れているというので「善本」とされる。

「百衲本」ほどではないが、この「汲古閣本」も時折書物に書影か掲載される。小生も清末・光緒十三年の江南書局重刊の「汲古閣本三国志」を蔵している。

ただ、「狗古智卑狗」の「智」を「制」とするのが不思議といえば不思議である。

「三国志」の版本について(17)

2004/ 4/ 1 23:30
メッセージ: 2930 / 2973
もうひとつ、よく聞くものとして「武英殿版」という版本がある。清代、武英殿で刊行された版本をこう呼ぶ。乾隆十二年までに印刷された書物は、版の雕りがみごとであり、用紙もえりすぐった優良品で、刷り上がりの墨色は光沢があり、校勘も精確で、善美を尽くしたものである(前掲「漢籍版本入門」61頁)といわれる。

この「武英殿版」は、元明時代のものを超えたといえるだけでなく、両宋時代のものにも肩を並べるほどだという。

以上、よく知られた「三国志版本」について紹介したが、実際には版本というものは実に間断なく刊行されているもののようで、「季刊邪馬台国」18号に、井上幹夫氏が書かれた「『三国志』の成立とそのテキストについて」の中に紹介してある刊本をここで列挙する。改ページ・・・。

「三国志」の版本について(18)

2004/ 4/ 2 0:04
メッセージ: 2931 / 2973
元代
「池州路学刊本」大徳3年(1299)
「朱天錫刊本」大徳10年(1306)

明代
「嘉靖間蔡宙等刊本」
「陳仁錫刊評点本」
「南監馮夢禎刊本」
「北監敖文驫ァ本」
「汲古閣十七史本」

清代
「乾隆武英殿付考証本」
「金陵書局聚珍本」
「席氏掃葉山房刊二十一史本」
「光緒湖南宝慶三昧書坊繙刻殿本」
「新会陳氏覆刻殿本」
「成都局刻四史本」
「同文書局影印殿本」
「五洲同文書局影印殿本」
「図書集成局鉛印排印本」
「竹簡斎石印本」
「蜚英館影印四史本」
「竢実斎石印本」
「史学斎石印横行本」

もちろん、上記ほすべて見たことがない。またそれらに「倭人伝」部分が残っているのかどうかも知らない。

「三国志」の版本について(19)

2004/ 4/ 3 23:55
メッセージ: 2932 / 2973
ついでだから、同じ井上幹夫氏の文から最近刊行された「三国志」(版本ではないが)を引用しておく。

1)中華書局排印四部備要本
2)商務印書館影印殿本
3)商務印書館縮印四史本
4)商務印書館百衲二十四史影印本
5)新陸書局武英殿本
6)芸文印書館四史本
7)鼎文書局四部備要本
8)汲古書院倭刻本正史

(18)で、

>上記はすべて見たことがない

と元代、明代、清代の各版本について書いたが、それは「原刊本」を見たことがない、という意味で学者・研究者でもない一介の素人が目にすることのできるものでないことは当然のこと。

ただし、清代の重刊であれば「汲古閣本」は所持しているし、近年のものであれば上記のうち、1),4),5)は所持しているし、恐らく8)だと思うがコピーを持っている。

また、井上氏が挙げられなかった「啓明書局四史本」もある。あと、「三国志旁證」「三国志集解」もある。

6)は、「邪馬一国」と見えると云うことだが、残念なことに書籍に引用された書影すら見たことがない。

「三国志」の版本について(20)

2004/ 4/ 4 0:40
メッセージ: 2933 / 2973
また、尾崎教授の文からの引用になるが、元代の「三国志」刊本としてこんにち知られているのは「元九路本(大徳十年池州路儒学刊本)」のみであるとして、先の井上氏の元代もう一つの刊本「朱天錫刊本」を南宋「衢州刊本」であると断じられる。

それはさておき、「邪馬台国トピ」#3497で「庠」について触れたが、尾崎教授の「『三国志』の宋元刊本について(六)」(「季刊邪馬台国」23号/1985年春)で「池庠」と出てくる。

前掲の「元九路本」の十七史のうち「三国志」を「池州路」が担当したという。この「路」というのは宋代の行政区画の名で、こんにちの省に当たる。そして、「三国史」の刊行を命ぜられたのが「池州路学」すなわち「池庠」である。

「田舎の学校」としたのは、やや言い過ぎで「地方の学校」こんにちで云えば「県立大学」ほどの意味であろうか?

「三国志」の版本について(21)

2004/ 4/ 4 1:24
メッセージ: 2934 / 2973
尾崎教授のシリーズからの引用の最後として、教授の校合を紹介しておこう。

楊紹和「楹書隅録」と、張元済の校勘記とをあわせた校合表を「季刊邪馬台国」(24号/1985年夏号)190−193頁に掲げておられる(「斯道文庫論集」からの転載)。版本間にもこれだけの異同の生じる事実が一目瞭然である。

なお、ここで尾崎教授が用いられた刊本は下記の通りである。

1.南宋中期建安刊本(百衲本)
2.南宋初期刊「呉書」(いわゆる「咸平本」)
3.南宋前期衢州刊至明嘉靖補修本
4.元大徳十年池州路儒学刊本
5.明万暦二四年南京国子監本
6.明万暦二八年北京国子監本
7.明崇禎一七年汲古閣本
8.清乾隆四年武英殿刊本
9.1960年中華書局刊校点本

教授曰く、「ここで校合に用いたのは、武英殿版も含めて、原刻である」。

当代一流の学者の言である。
素人がどうあがいたところでかなうはずもない・・・。

あと、「倭人伝」部分について、刊本間に見られる異同について触れてみたいと思う。ではまた明日・・・。

「三国志」の版本について(22)

2004/ 4/ 5 23:24
メッセージ: 2935 / 2973
申し訳ない!尾崎教授からもう一つだけ引用を・・・。

「汲古閣本」についての説明(「季刊邪馬台国」24号/189頁)。

「汲古閣本」は、明末清初に蘇州常熟の毛晋が十三経とともに十七史を刊刻したもので、『三国志』は明の崇禎一七年・清の順治元年(1644)に十七史の最後に完成した。宋刊本を得て文字を補正し、両監本より善本をつくったとされる。

注1)「常熟」・・・地名
注2)「両監本」・・・「南監本=南京国子監本」と「北監本=北京国子監本」の総称

「宋刊本を得て」ということは、既に書写本は手に入らなかったと云うことだろう。「咸平本」「紹興本」「紹煕本」などのいずれかなのか?

さて、このシリーズは、なるべく私の考えを排して・・・と思ったのだが、やはり刊本流布後に諸書に引用された「魏志」について触れたくなったので、シリーズを予定より延長させていただく。

その前に、各版本間の文字の異同について触れておきたい。

「三国志」の版本について(23)

2004/ 4/ 6 0:20
メッセージ: 2936 / 2973
先に紹介した井上幹夫氏の文中に簡明な対比が掲げてあるので、先ずそれから紹介する(「季刊邪馬台国」18号/167頁)。

No. 「紹興本」/「書陵部宋本慶元本」(俗に「紹煕本」と呼ばれているもの)
1.対馬国/対海国(「汲古閣本」「武英殿版」「中華書局校点本」「啓明書局本」「三国志集解」も「対馬国」。
2.自女三国以北/自女王国以北
3.其戸数道里可略載/其戸数道里可得略載
4.[木子]/杼
5.都支国/郡支国(同じ「紹煕本」でも「百衲本」の底本となったものは「都支国」。「仁寿本」も同。
6.滅其妻子/没其妻子
7.検察諸国諸国畏憚之/検察諸国畏憚之
8.相遥/相逢

つぎに、小生の知るところを列挙する。
9.「邪馬一国」=「芸文印書館四史本」
10.「狗古制卑狗」=「汲古閣本」
11.「以宋丹」=「四史本」
12.「持哀」=「三国志集解」
13.「猴」>>「猿」=「武英殿本」
14.「四節但計」>>「四時」=「武英殿本」、>>「但記」=「汲古閣本」
15.「不妬忌」>>「不炉忌」=「汲古閣本」
16.「諍訟」>>「争訟」=「汲古閣本」「武英殿本」
17.「及宗族」>>「及親族」
18.「邸閣」>>「邸閤」=「武英殿本」
19.「能惑衆」>>「能感衆」=「四史本」
20.「我甚哀汝」>>「我甚衰汝」=「汲古閣本」
21.「金印紫綬」>>「金銀紫綬」=「汲古閣本」
22.「掖邪拘」>>「掖邪狗」=「汲古閣本」
23.「黄幢」>>「黄憧」=「宮内庁本」

但し、「汲古閣本」とあっても、小生所有のものと相違するものがある。「原刊本」を見ていない以上、学者、研究者の説を優先して紹介しておく。

「三国志」の版本について(24)

2004/ 4/ 7 0:18
メッセージ: 2937 / 2973
さて、「三国志」の版本が初めて刊行されたのが咸平のころである。最初にその「咸平本」を引用したのは恐らく「冊府元亀」であろうことは、以前にも述べた。

「冊府元亀外臣部封冊一」に引かれる「魏志」の「倭人」は通行本魏志と極めて類似している。

すんません!猫が早く寝ろとウルサイので、つづきは明日!

「三国志」の版本について(25)

2004/ 4/ 7 22:48
メッセージ: 2938 / 2973
>「冊府元亀外臣部封冊一」に引かれる「魏志」の「倭人」は通行本魏志と極めて類似している。

と書いたが、これは例の「景初二年」以降の部分。「通行本魏志」は「景初二年六月」とするが、「冊府元亀封冊一」「同朝貢一」「玉海」が同じく「景初二年六月」。いずれも「咸平本」成立以後のものである。

「六月」が見えるのは「日本書紀神功紀所引魏志」のみである。「景初三年六月」とする。

「封冊」に引かれた部分に先立つ文としては「土風」もまた、「魏志」の文をよく写している。これも「咸平本」からの引用だろう。「通行本」が「東冶」を「東治」と誤っているのまで引き継いで「土風」では「東治」とする。

また「魏志」では「魏略」からの引用として、

【魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀】

とあるのを、「土風」では故意か過失かそのままの文面で、「其〜」以降を本文としている。「梁書」「南史」「晋書」にも「不知正歳」という文言は出てくるが、これほど長く一致するのもではない。

また「土風」では、多くの史書に見える「自謂太伯之後」という文言が「通行本」と同様に見えない。

挙げればキリがないほど、「冊府元亀」が10年前に成立した「咸平本魏志」を見ていることが明らかである。

「三国志」の版本について(26)

2004/ 4/ 7 22:53
メッセージ: 2939 / 2973
ここで、くどいようだが注意を喚起しておきたい。

「冊府元亀」に引かれた「咸平本」の、そのまた約20年前に成立した「太平御覧」に引かれる「魏志」は、その様相を「咸平本」と余りにも異にする。

この20年という時間が、諸問題の謎を解く鍵となるのではないかと考えている。

「三国志」の版本について(27)

2004/ 4/ 7 23:27
メッセージ: 2940 / 2973
次に、「玉海」。これは南宋元初の王応麟(1223-96)の編になる書で、13世紀後半の成立と見られる。ここにも「魏志」が引かれる。ここで引かれた「魏志」は「紹興・紹煕刊本」あたりだろうか?

文面を見てみると、冒頭の「倭人在・・・三十国」までが「通行本魏志」と完全に一致する。多くの史書の「倭」の書き出しに同様の文が見えるが、完全に一致するのはこの「玉海」のみのようである。

また、先にも述べたが、「玉海」ではこれに続いて「景初二年六月」とあり、以下文字の節略がひどく、比較しにくいが、刊本を写したことに違いはなかろう。

この「玉海」は最近入手したので、「魏志」からの引用部分をとりあえず拾ってみたが、見落としもあるかも知れない。

「三国志」の版本について(28)

2004/ 4/ 7 23:59
メッセージ: 2941 / 2973
元の馬端臨による「文献通考」には「後漢書」「魏志」「宋書」「隋書(実は「北史」)」「旧唐書」から文を大量に引用しており、その成立した1317年頃の各文献がどのような文面であったかを知るまたとない材料を与えてくれる。

が、「文献通考」について語り始めると長くなるので、明日に譲りたいと思う。

「三国志」の版本について(29)

2004/ 4/ 9 0:00
メッセージ: 2944 / 2973
私が漢籍についていろいろと発言するとき、断定的な物言いをすることが多いが、別に自信過剰によるものではなく、私と同じ視点に立てば(同じ作業をすれば)、誰しも私と同じ結論を導き出すだろう・・・という思いを持つからに他ならない。

さて、「文献通考」について触れる前に、一つ明らかにしておきたい。「後漢書」「宋書」「隋書(北史)」とか、或いは「魏志」の「東夷伝諸条」の校合からして、「通行本」と「太平御覧所引」「文献通考所引」「通典」「太平御覧所引」などの当該部分は、非常に並行しているということである。

榎博士も指摘しておられたように記憶するが、「魏志倭人条」には特異な状況が見えるのである。なぜこれほどに「乱れて」いるのか?

私が自分なりの仮説を持つようになったきっかけの一つに、このことがある。

「三国志」の版本について(30)

2004/ 4/ 9 0:28
メッセージ: 2945 / 2973
>隋書(実は「北史」)」

からご紹介を。

「開皇二十年・・・」の記事の前に「陳平至」と見えるのは「北史」と「文献通考」である。「文献通考」は「至」と「開皇」の間に「隋」という文字が入っている違いはあるが、先ず「文献通考」が「隋書」ではなく「北史」に依ったことの根拠の一つ。

もっとも分かりやすい証左は、以下の部分である。「隋書」に「其王與清相見大悦曰・・・」とある部分が、「北史」「文献通考所引」「太平御覧所引」ともに「相見」以降を欠落する。以後「来貢方物」まで見事に足並みを揃えて欠落が続く。

引用時の恣意でないことは明らかである。「太平御覧」や「文献通考」が引用した「北史」には、その部分が欠落していた。ただそれだけのことである。実に見事な現象ではある。

こうやって、「文献通考」は「隋書」ではなく、「北史」を引用したことが知れる。

「三国志」の版本について(31)

2004/ 4/ 9 23:06
メッセージ: 2946 / 2973

やや本題から外れた。

「文献通考」に引かれた「刊本魏志」がこんにちの通行本と比較して、どのような有様だったのかを見てみたい。

実は、「通志」の方が、「刊本魏志」に近い。ただ、「文献通考」は「刊本魏志」に特徴的な表記が見られる。

その手始めは「対海国」である。これも刊本のうち「紹煕本」系統に見られるものだが、「文献通考」は「対海国」とする。

細かい点は省くとして、次に特徴的な部分といえば、

魏志・・・南至邪馬壹国女王之所都
文通・・・南至邪馬一国女王之所都

たびたび取り上げているが、「郡支国」「都支国」は、「文献通考所引魏志」では「郡支国」。これは、「紹煕本」系統でも両者に分かれる。

「対海国」「邪馬一国」の表記を見るに、「文献通考所引魏志」が「刊本魏志」に依ったことは、うかがい知ることができる。もうこの頃は、「写本魏志」はほとんど残存していなかったのではないか?

あと、「文献通考」では「壹與」である。

「三国志」の版本について(32)

2004/ 4/ 9 23:42
メッセージ: 2947 / 2973
次に、困った部分について触れてみる。

例の「景初二年六月」が、「文献通考」では「景初二年既平公孫氏倭女王・・・」とある。以下、通行本魏志の文面とは趣を異にする。では、一四世紀初頭流布していた「魏志」は、こんにち伝わるものと文に相当の異同があるものなのか?

答えは簡単である。

「文献通考四裔考倭」はまず「後漢書」の文を丸写し。一部に欠落があるものの、これまた見事なものである。「〜不可往来」の後に細注として「南史」とことわって「文身国」などの記事を引いている。それに続くのが「魏志曰・・・」で「至女王国万二千余里」と、めずらしく一段「字下げ」の引用である。これは「静嘉堂文庫」蔵「伝・咸平本呉志」の注と同じだ。その直前の「南史」からの細注とは違うものの、この「魏志」からの引用も、「注」なのだろう。

そして、「魏景初二年既平公孫氏・・・」と本文か続く。つまり、「魏志」の丸写しではなく、編者の改変を受けているのだろう。ただ、なぜこの部分のみ、改変したのかの理由は想像すら出来ない。

その後に「宋書」「北史」からの引用(曰くとはしていないが、丸写しに近い)が続く。

以上の観察から、当然の事ながら「文献通考」の編者にしても、「刊本魏志」から文を引いている。

(18)で紹介した大徳3年(1299)刊「池州路学刊本」が「文献通考」に引かれた「魏志」なのかも知れない。

「三国志」の版本について(33)

2004/ 4/11 0:12
メッセージ: 2965 / 2973
最後に「大明一統志」について触れたい。「大明一統志」は天順5年(1461)成立と云われる。

私が所有しているのは松下見林の「異称日本伝」に引かれたもので、「大明一統志」自体は古書として出ることもあるが高価でなかなか手が出ない。

その「大明一統志」にも「魏志」が引用されている。「魏志曰」とは書かれていないが、「魏志」にしか見えない「21ヶ国(欠落はあるが)」が引かれてある。

「邪馬壹国」を「邪馬一国」とする。そこに至る行程記事は概ね「梁書」と同じ。「梁書」の「祁馬臺国」を「邪馬一国」とするのは、一応語順では「梁書」に従ったものの、国名は刊本の「邪馬壹国」を用い、なお「一」に略記したものだろう

あと「臺與」を「壹與」とする。

例の「21ヶ国」なんて当時既に存在していないことなど分かりそうなものだが・・・。

この「大明一統志」は誤りが多いとされるが、それでも当時流布していた版本の様子を知る手がかりにはなるのだろう。

もう一つ、「図書編」というものが「異称日本伝」に収録されている。しかし、これがいかなる文献なのか、ネットで検索してもなかなか出てこない。どなたかご存じの方があれば、ご教示をお願いしたい。

ちなみに「図書編」に引かれる「魏志」とおぼしき文献は、「大明一統志」の文面とよく似ている。

「三国志」の版本について(34)

2004/ 4/11 0:31
メッセージ: 2967 / 2973
以上で連載をひとまず閉じるが、「季刊邪馬台国」に掲載された尾崎康教授、あるいは榎一雄氏、井上幹夫氏などの記事は、専門の研究書がなかなか手に入らない市井の凡人には有難いものであると言える。

「刊本」は「写本」に比べて異同が生じにくい。従って、いったん刊行されてしまえば、その文面は大がかりな校勘が行われない限り、そのまま長く伝えられてしまう。

「魏志」一つをとってみても、数々の校勘が為されているものの、それに漏れているものも見受けられる。

例えば張元済の「百衲本二十四史(三国志)校勘記」(商務印書館)には通行本の「狗古智卑狗」と「汲古閣本」の「狗古制卑狗」については触れていない。

「邪馬台国論争」において国名・人名などに主要因の確定すらおぼつかない状況で、われわれは論争の時を費やしているのではないかという危惧を持つ。。