李賢は『魏志』を見ている!

2020-3-23 (Mon)
通行本(百衲本)『後漢書』倭伝にみえる李賢注【案今名邪摩惟音之訛也】について、「惟」が、邪馬壹の「壹」の音に通じるのではないかと唱える向きが少なくない。両字とも「い」と読めそうだから。

しかしこれは浅慮と言わざるを得ない。なぜなら、「惟」は本来の李賢注では「堆」とあっただろうことが、容易に導き出されるからである。

「今名」とは隋唐代の倭都の名であり、李賢付注の対象となった「邪馬臺」は漢魏代の倭都の名であるから。そして、隋唐代の倭都の名は『隋書』の邪靡堆、あるいは『北史』の邪摩堆に他ならない。いずれも「堆」である。それは『後漢書』を引用・参照する他の典籍にも少なからず遺存しており、諸書の表記の推移を見るに、「惟」は南宋代頃に発生した刊刻上の誤刻であることは疑いのないことである。

私は自身のブログ「「魏志倭人伝」への旅 ブログ版」に、この件について「李賢は『魏志』を見ている!」というタイトルで連載したが、必要な箇所を検索するに手間のかかることを感じ、思い切って一つのページとして作成・公開することとした。

文や画像はブログ上のものに変更を加えていないはずだが、作業途中での過誤により変化してしまった部分があるかもしれないことを一応お断りしておく。

※右画像は百衲本『後漢書』倭伝李賢注部分。

李賢は『魏志』を見ている!

2019-11-29 (Fri)
ん?と思ったことがあったので調べた。

『後漢書』李賢注といえば、「倭伝」の【案今名邪摩惟音之訛也】がすぐに思い起こされるが、実は李賢は『魏志』(『蜀志』『呉志』も)を附注に用いている。

「東夷列伝」で言えば、「扶餘伝」「東沃沮伝」「韓伝」でも引く。

また、李賢注は実に詳細で、音の読みや人の字(あざな)、他書での表記についても煩瑣と思えるほどの注を施している。

その上、裴松之注にまで言及しているのだから、かなり徹底していると言える。

その李賢が「倭伝」の【其大倭王居邪馬臺國】には、上掲注を附すのみである。

もし仮に、唐代流布していた『魏志』に「邪馬壹国」なる表記があったとしたら、李賢は注を加えなかっただろうか?

續漢書「𨻳」字作「堰」、英雄記「珌」作「毖」、獻帝春秋「咨」作「資」、九州春秋「儀」字作「景」などと、実に詳細な字句の異同まで当時の文献を引いているのに、「邪馬臺国」についてはなんらの注も施していない。これはなぜか?

李賢と言えば、唐の高宗と則天武后の次男であり、当然朝廷の中枢に所蔵されていた正史等を閲覧することは可能だったはずだ。その李賢の注に「邪馬壹」なる文言が登場しないということは、ただ当時流布していた『魏志』に「邪馬壹」なる表記が存在しなかったという事実を表しているとしか考えられない。

李賢は『魏志』を見ている!その2

2019-11-29 (Fri)
古田武彦氏はその第1書『「邪馬台国」はなかった』70ページで以下のように述べる。
繁雑をかえりみず、多くの例をあげたが、これによってまとめれば、裴松之の注解・校閲の態度はつぎのようだ。
(1)裴松之は『三国志』とその原資料について、異本をできるだけ校合しようとつとめている。
そして底本と異るものがあれば、その状況を記している。しかるに「邪馬壹国」に対しては、一切校異・注記をしていない。これは、倭の中心国名だから重要である。それに一切校異を記していない点から見れば、少なくとも裴松之の探索・校合できたかぎりにおいて、「邪馬壹国」以外の字句を伝える異本はなかったこととなる。すなわち、裴松之の目には、「邪馬臺国」というような表記をした異本は存在していないのである。
そして、次ページでは、
このように、裴松之の厳正な校訂・注記の方針からみても、五世紀段階において、「邪馬壹国」以外の字句を掲載した異本の存在した形跡は、一切発見できないのである。
すなわち、この裴松之こそ、〝范曄は「邪馬臺国」と記した正本を見たのではないか〟という疑いを否定する絶好の証人となった。
とも述べる。

この「裴松之」を「李賢」に置き換えて、同様の論法を施してみたらどうなるのか?

まさしく、7世紀中の唐代に生きた李賢の目には、「邪馬壹国」というような表記をした異本は存在していないのである。そのように言うことができよう。

同書72ページにおける古田氏の表現を借りるとすれば、天子の息子であり、諸本を広く校合した李賢が、「邪馬壹国」なる表記をもつ『魏志』を見たなどとはどうしても考えられないのである。

73ページでは邪馬壹国、壹与を除く「臺→壹」の誤写・誤刻は0であるとするが、「孫聖壹」の事例における古田氏の考証は明らかに破綻しており、この両字の異同が『三国志』中に実在することは否定しようがない。

極めて簡明にこのことを要約すれば、現行の南宋代刊本に至るまでの間に『魏志』を引用・参照した多くの典籍に「邪馬壹」なる表記がただの1例も出現しないという厳然たる事実は、「邪馬壹国」が宋代になってから出現したと考えざるを得ないことを雄弁に物語っている。

李賢は『魏志』を見ている!その3

2019-12-02 (Mon)
『後漢書』「倭伝」李賢注の【案今名邪摩惟音之訛也】については、2019-11-29(13:51)の「李賢は『魏志』を見ている!」で書いたが、どうやら、この「惟」が「壹」の痕跡だと受け止めている向きもある。

「今名」と書いてあるのだから、3世紀の名称ではないことくらい理解できそうなものだが、、、

李賢が「今名」を知り得た理由は一つしか無い。それは『隋書』あるいは『北史』。李賢は7世紀ちょうど中頃生れている。西暦684年、31歳で不慮の死を遂げている。636年成立『隋書』、659年成立『北史』、そのいずれも手に取ることが出来た。

彼が知った「今名」は『隋書』の「邪靡堆」、『北史』の「邪摩堆」である。すなわち、『後漢書』李賢注の当初の姿は「堆」であったことが容易に理解しうる。

『隋書』巻三十三経籍志二に『三國志』六十五巻は収載されており、【叙録一巻晋太子中庶子陳壽撰宋太中大夫裴松之注】との細注がある。李賢は確かにこれを見ている。

ついでに言えば、唐中期801年成立の『通典』でも「或云邪摩堆」と注にある。したがって、「堆」字が「推」「惟」など、他の文字に変化するのは、唐中期以降のことと見るのが至当である。

現行刊本『後漢書』に見える李賢注の「惟」に「壹」を見ようとするのは虚しい試みと言わねばならない。

李賢は『魏志』を見ている!その4

2019-12-03 (Tue)
王先謙『後漢書集解』から、この部分の細注を引く。

 【其大倭王居邪馬臺國】細注「案今名邪摩推音之訛反〔集解〕惠棟曰魏志臺作堆又注邪摩推案北史推當作堆」

読み下すと、「案ずるに今の名邪摩推は音の訛(なまり)反(也の誤か)〔集解〕惠棟曰く 魏志の臺を堆に作る 又邪摩推に注して 案ずるに北史は推を當(まさ)に堆に作る」でいいかと。

また、「漢籍電子文献」の校注では、「按:汲本、殿本作「邪摩推」,此作「惟」,形近而譌」とある。訳すと「按ずるに汲(古閣)本、(武英)殿本は「邪摩推」に作るを,此(通行本)が「惟」に作るのは,形(かたち)近くして譌(あやま)る」か。

つまり、汲古閣本、武英殿本は「推」であるという。確かに『後漢書集解』は毛氏汲古閣本を底本としており、そこには「推」と見える。また、武英殿版によると見られる啓明書局版も「推」とあるから、「漢籍電子文献」の校注のとおりである。

2002/ 2/12 23:55にYahoo!掲示板に私が投稿した文中に、
ある掲示板からの、孫引きになりますが、「百衲本」では「惟」ですが、同じ「後漢書」そのものでも、「汲古閣本」と「武英殿本」では「堆」ということです。この両者は、私は所蔵しておりませんので、誰か確認できる方は、ご教示を!
と書いたが、今となってみればこれは間違い。汲古閣本、武英殿版ともに「推」である。他者からの伝聞がいかに危ういか、好個の例と言えるだろう。

李賢は『魏志』を見ている!その5

2019-12-03 (Tue)

現行の通行本である百衲本『後漢書』は南宋紹興本を底本としている。それは表紙に「宋紹興刊本」と題字に添えてあるし、扉裏には次のようにも明記されている。
上海涵芬楼景印宋紹興本原闕五巻半借北平図書館蔵本配補原書板高営造尺七寸寛五寸七分
しかし次ページの「百衲本二十四史後漢書覆校記略」には、より詳しく刊行の経緯が記されており、原闕五巻半については北平図書館の他に、日本の静嘉堂文庫残本も配補されているという。以下続けて、更に詳しい刊刻の経緯が述べられている。我々が普段何気なく利用している影印本にしても、その成立の過程は事程左様に複雑なものである。

前置きが長くなったが、この百衲本『後漢書』よりも古い刊本かとも思われる仁寿本二十六史『後漢書』には、問題の「惟」或いは「推」が以下のような画像で印行されている。
文字が崩れてしまっている。版木を繰り返し印行に用いた結果、細かい線が耐えられなくなって印字しても字形をなさなくなったのだろう。無理に推量すればやはり「推」のようにも見える。

因みに百衲本『後漢書』には列伝末尾に中書門下の牒が掲げられており、その日付は「乾興元年十一月十四日」とあり、AD1022年。一方の仁寿本『後漢書』列伝末尾には牒は掲げられていないが、「右奉淳化五年七月二十五日 勅重校定刊正」とあり、年次はAD994となって、こちらが古い。

いずれも北宋代の原刻だが、前者は南宋紹興での刊行で、後者は南宋福唐郡庠重刊である。刊本としての素性は後者のほうが古さで一日の長があるとみていいのかもしれない。

『後漢書』「倭伝」李賢注に「邪摩惟」とあるではないか!と唱える人も少なくなかろうが、上述のような史料状況に照らして考えれば、「惟」は却下され、「推」は「堆」の誤写であると考えるのが最も理にかなうものと言えよう。

李賢は『魏志』を見ている!その6

2019-12-07 (Sat)
百衲本二十四史後漢書覆校記略

〈原文〉

百衲本後漢書係根據本館前涵芬楼所藏紹興本影印,原闕五巻半,借北平圖書館及日本靜嘉堂文庫残本配補。當年意在存眞,其中未盡完善之處,一仍其舊。今已印行數版,流通近一千部,保存珍本之目的已達。爰就影本,加以覆校。勉圖尺寸之進,以期便利讀者。

本館編印衲本之初,全體編輯同人共成校勘記百數十册,極具價値。本擬董理,印行專書,其後因故未果。今大陸淪陷,原稿已無法利用,深以爲惜。惟近年故宮珍藏善本,陸續公開,特借故官博物院所藏宋福唐郡庠復景祐刊元代修補本及中央圖書館所藏錢大昕手跋北宋刊本與宋慶元間建安劉元起刊本,覆校影本。經此互校以後,宋刊原來面目,大致可復舊觀。

計修正影本因配補殘本而致首尾不貫者五處,其中重複者四處,共圏刪衍文四十二字,脱漏者一處,補足闕文兩字。原板存留墨丁四十五處,補正五十二字。另有顯屬雕刻錯誤者若干字,亦酌爲改正。又修正目錄,計補字二十,刪字十,改錯字六,補墨丁一,移字四。先予列表於後,以備査考。

全書尚在詳細覆校之中,將來事畢,擬另刊單行,就正於學界高明。

臺彎商務印書館編審委員會

中華民國六十五年十月

〈読み下し〉

百衲本『後漢書』は根據を本館(臺彎商務印書館)の前涵芬楼の所藏する「紹興本」に係って影印し,原闕の五巻半は,北平圖書館及び日本靜嘉堂文庫の残本を借りて配補す。當年(=往年)意(=考え)は眞の存するに在るも,其の中で未(いま)だ完善を盡(つく)さざるの處(ところ),一は仍(すなわち)其の舊(古さ)なり。今已(すで)に數版を印行し,流通すること一千部に近く,珍本を保存するの目的は已(すで)に達す。爰(ここ)に影本に就きて,覆校を以て加ふ。勉めて尺寸の進を圖(はか)り,以て讀者の便利を期す。

本館の編印せし衲本(百衲本)の初,全體を編輯せし同人(=同志)は校勘記百數十册を共成し,極めて價値を具(そな)ふ。本(もと)は擬(=計画する)して董理(とうり=正し、おさめる)し,專書を印行するも,其の後(のち)故(=死)に因りて未だ果たさず。今大陸は淪陷(りんかん=陥落する)し,原稿は已(すで)に無法に利用さるは,以て惜と爲すところ深し。惟(ただ)近年故宮珍藏の善本は,陸續(りくぞく=次々と)公開され,特に故官博物院所藏にて宋福唐郡庠の復す「景祐刊元代修補本」及び中央圖書館所藏の錢大昕手跋「北宋刊本」と宋慶元間建安「劉元起刊本」を借りて,影本を覆校す。此(こ)の互校を經て以後,宋刊原來の面目は,大ひに舊觀を復す可きに致る。

計(かぞ)ふるに殘本を配補するに因(よ)って影本を修正し而して首尾の不貫に致るは五處,其の中重複せしは四處,共に圏刪(範囲を削除する)せし衍文は四十二字,脱漏は一處,闕文を補足せしは兩字。原板の墨丁を存留せしは四十五處,補正は五十二字。另(別)に顯(あきら)かに雕刻の錯誤に屬する者若干字有り,亦(また)酌(く)みて改正を爲す。又修正せし目錄は,計(かぞ)ふるに補字は二十,刪字は十,錯字を改むるは六,墨丁を補ふは一,字を移すは四。先(ま)ず予(あらかじ)め後に列(なら)べて表(あらは)し,以て査考に備ふ。

全書は尚(なほ)詳細覆校の中(=途上)に在(あ)りて,將來事畢(=終)らば,另(別)に單行の刊を擬(はか)り,學界の高明に就正(叱正を請う)す。

臺彎商務印書館編審委員會

中華民國六十五(1976)年十月

李賢は『魏志』を見ている!その7

2019-12-07 (Sat)
百衲本『後漢書』巻頭には、「百衲本二十四史後漢書覆校記略」が掲げてあり、その原文と拙読を掲げてみたところだが、その中に「故官博物院所藏宋福唐郡庠復景祐刊元代修補本」という部分が見える。

この「宋福唐郡庠復景祐刊」こそ、仁寿本二十六史『後漢書』の「南宋福唐郡庠重刊北宋淳化監本」のことなのだろう。とすると、「覆校記略」にある「元代修補本」というのは何か?


仁寿本二十六史『後漢書』列伝末尾には、確かに「淳化五年七月二十五日 勅重校定刊正」とあるが、実は仁寿本『後漢書』とは、更に元代に修補されたものを影印してあるということなのか。

何とまあ、刊本の世界とは複雑なものよ!

・・・と、ここまで書いて気が付いた!仁寿本は「淳化」であり、故宮博物院蔵は「景祐」。

淳化は北宋太宗の年号で、990-994(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)。
景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。
乾興は北宋真宗の年号で、1022。

同じ福唐郡庠刊でも、両者は別物?わけがわからなくなってきた、、、

李賢は『魏志』を見ている!その8

2019-12-08 (Sun)
昨夜の投稿(2019-12-07(22:37))「李賢は『魏志』を見ている!その7」で、
仁寿本は「淳化」であり、故宮博物院蔵は「景祐」
と書いたが、ここまで書いたら『玉海』を開いてみなければならないだろう。

『玉海』巻四十三 芸文 湻化校三史(湻は淳の俗字)に、【湻化五年七月詔選官分校史記前後漢書】とあり、【景祐元年〈中略〉九月癸卯詔選官校正史記前後漢書三國志晉書】とある。

これ以外にも、景徳元年には『前後漢書』を〝覆校〟したと見えているので、この際にも或いは刊行されたのかも知れない。

また、『玉海』に【乾興元年十一月戊寅校定後漢志三十巻頒行】とあるのは、百衲本『後漢書』列伝末尾に掲げられている中書門下の牒の日付「乾興元年十一月十四日」と一致する。年次はAD1022年であり、仁寿本『後漢書』に司馬彪『続漢書』の「志」が収載されていないのは、仁寿本の底本となった北宋淳化刊本刊行の際には未だ『続漢書』「志」の校定が終わっておらず、乾興に至ってその校定を終えた後、景祐元年(1034)に、「志」を併せた『後漢書』の刊行がなされ、それが現行の百衲本『後漢書』の底本となったということになる。

頭がこんがらがってきそうだ。

李賢は『魏志』を見ている!その9

2019-12-09 (Mon)
話を少しまとめてみよう。

2019-12-07(22:37)の「李賢は『魏志』を見ている!その7」で、
百衲本『後漢書』巻頭には、「百衲本二十四史後漢書覆校記略」が掲げてあり、その原文と拙読を掲げてみたところだが、その中に「故官博物院所藏宋福唐郡庠復景祐刊元代修補本」という部分が見える。
と書いたが、その中の「元代修補本」というのは、「景祐刊本」についてであるから、仁寿本の「南宋福唐郡庠重刊」とは関係ない話ということ。

「景祐刊本」は北宋刊とは言っても、仁寿本の底本となった「淳化刊本」よりは一世紀近く遅れるのであるから、刊本としての信頼性という点で、仁寿本の方に〝舊觀〟を窺いたいと思いたくなるが、どうなんだろうか、、、

李賢は『魏志』を見ている!その10

2020-01-05 (Sun)
金在鵬氏の『日本古代国家と朝鮮』「Ⅰ邪馬壹国考」では、古田氏の唱える「邪馬壹国」説に同意して、その27-28ページで以下のように述べる。
范曄は三国志原文の「女王」を「大倭王」に改める一方、「女王」の「邪馬壹国」も「大倭王」の「邪馬臺国」に改めたものと思う。「大倭王」の居所名としては、「邪馬壹国」を「邪馬臺国」にしなければならないというのが、范曄の意見であったとすべきであろう。「臺」には「邸閣」の意味があり、諸国(国々)より租賦をとった「天子の御殿」の意味があったからである。要するに三国志の「女王」を「大倭王」に改めた范曄は、この「大倭王」といった称号にふさわしく「邪馬壹国」の名を「邪馬臺国」に改めたのである。これはそのつぎにつづく李賢の注によって、裏書きされると思う。

按ずるに今の名は邪摩惟の音の訛なり

李賢のこの注は、今の名――即ち、范曄の後漢書の「邪馬臺国」が「邪摩惟の音の訛なり」ということである。この場合の「邪摩惟」の音は「邪馬壹」の音に通じる。要するに「邪摩惟」は「邪馬壹」のことであろう。そうして范曄撰の後漢書の「邪馬臺」は「邪摩惟」――即ち、三国志の「邪馬壹」の音の訛――転訛であるということであって、この李賢の注によっても范曄が三国志の「邪馬壹」を「邪馬臺」に改めたということを知り得るのである。なによりも、范曄が三国志通り「邪馬壹国」と書いていれば、李賢のこの注は必要のないものである。
『後漢書』李賢注の【案今名邪摩惟音之訛也】を「按ずるに今の名は邪摩惟の音の靴なり」と読み下している。先に触れた塚田敬章氏も同様の読みをしている。全く信じられない読み方である。このように読んだ場合の「今の名」は何か?金在鵬氏は「即ち、范曄の後漢書の「邪馬臺国」が「邪摩惟の音の訛なり」ということである」と明言する。『後漢書』の「邪馬臺国」が、なにゆえ「今の名」なのか?『後漢書』は後漢代について書かれている。その後漢代が李賢の言う「今」なのか?

【案今名邪摩惟音之訛也】は、「案ずるに今の名(である)邪摩惟は音の訛也」と読むのが正しい。李賢にとっての「今」とは、李賢の生きていた唐前期のことを指すのは言を俟たない。

試しに『後漢書』「馬援伝」から一例を引く。
伯高名述,亦京兆人,為山都長,[注]山都,縣,屬南陽郡,故城在今襄州義清縣東北,今名固城也。由此擢拜零陵太守。[注]今永州也
ここに出てくる「襄州」は初め西魏により置かれたが、隋初大業3年(607)に襄州は襄陽郡と改称され、武徳4年(621)に襄陽郡は襄州と復し、天宝元年(742)に襄州は再び襄陽郡と改称されたが、乾元元年(758)に襄州に戻されたという。

また、「永州」についても、零陵郡が永州と称されるのは、武徳4年(621)から、天宝元年(742)までの間で、その後一旦零陵郡と改称されたが、乾元元年(758)、零陵郡は永州と改称され、零陵郡の呼称は姿を消したという(以上二項Wikipediaによる)。

つまり、李賢注の「今」は、紛れもなく李賢の生きた時代であることを示している。なにゆえ、後漢代の国名である「邪馬臺国」を「今の名」とする解釈が生じるのか、理解に苦しむという以外の表現を知らない。

ところが、驚きはこれにとどまらない。35ページでは次のようにも述べる。
これら中国側の史書に通じることは倭王が都する所が邪馬臺国――邪摩堆であるということであり、大倭王が居る所が邪馬臺国――邪馬堆であるということである。即ち「倭王都-邪馬臺-邪馬堆-ヤマト」ということである。これは古事記の場合も同じことである。この場合も「倭―ヤマト―王都」である。即ち、古事記で「倭」と書いて「ヤマト」とよむ場合、上掲中国側の史書の場合と同じく「倭王が都する所」の意味になっている。
堂々と「邪摩堆」と書く。これは、『北史』にみえる「邪摩堆」に他ならない。恐らくは『隋書』も当初は「邪摩堆」だったのではないか。李賢の言う「今名」とは「邪摩堆」であり、李賢の生まれる少し前に成立した『隋書』、あるいは李賢の存命中に成立した『北史』に記す【都於邪摩堆】を認知した上での、「今名」つまり「邪摩堆」との付注をした。このように推測するのが最も合理的な解釈であることは容易に理解しうることではないか。

「按ずるに今の名は邪摩惟の音の訛なり」などと訳せば、「今の名」が不明となってしまう不合理に何ら気が付かないのか?「壹」と「惟」という音の類似に引かれてしまったゆえか。『隋書』『北史』それに『通典』も「堆」である。唐代知られていた倭都の名は「邪摩堆」あるいは「邪靡堆」であり、それ以外には考えられない。

李賢は『魏志』を見ている!その11

2020-01-05 (Sun)
「その10」のみを読んだ方は、「邪摩惟」と「邪摩堆」との関係が理解しづらかったかもしれない。その場合は、「李賢は『魏志』を見ている!その4」を読んでいただければ理解も進むかもしれない。

いや、できれば「李賢は『魏志』を見ている!」を通しで読んだいただくのがいいのかもしれない。

「邪馬壹」が是か、「邪馬臺」が是か、この問題はすでに唐代に答えは出ている。

『隋書』に【魏志所謂邪馬臺者也】とあり、李賢は「魏志」も注引しているのに、【其大倭王居邪馬臺国】に「魏志」の「壹」を注引してはいない。なぜか?答えは明白である。唐代には「邪馬壹」なる表記が存在しなかったからである。

李賢は『魏志』を見ている!その12

on 2020-01-06 (Mon)
昨夜の投稿で、もう一つ言わねばならないことがあった。『後漢書』「馬援伝」の「今名固城」である。

原文を再掲し、読み下しをつけてみる。

伯高名述,亦京兆人,為山都長,[賢注:山都,縣,屬南陽郡,故城在今襄州義清縣東北,今名固城也]。由此擢拜零陵太守。[賢注:今永州也]

(龍)伯高は名を述といい,亦(また)京兆の人である。山都の長と為る[賢注:山都は縣にして,南陽郡に屬し,故城は今の襄州義清縣東北に在り,今の名は固城也]。此(これ)に由(よ)りて零陵太守に擢拜(抜擢して任命する)す。[賢注:(山都は)今の永州也]。

かつて(後漢代)の「山都」の「今名」が「固城」である。

翻って『後漢書』「倭伝」をみてみよう。【其大倭王居邪馬臺国〔李賢注〕案今名邪摩惟音之訛也】。「邪馬臺」が後漢代の名であり、「邪摩惟」が「今」、すなわち李賢の生きた唐代の名である。

李賢はどうやって倭都の名を知り得たか?『隋書』『北史』によって知ったことは容易に理解しうる。そして、その両書には「堆」とある。よって、現行刊本である「百衲本」にみえる「惟」は「堆」の誤写誤刻である。

もちろん、『後漢書集解』や「漢籍電子文献」の校勘も同様である。

李賢は『魏志』を見ている!その13

2020-01-06 (Mon)
『冊府元亀』外臣部国邑一に、問題の李賢注がそのまま見えている。『冊府元亀』は北宋の大中祥符6年(1013)成立した類書で『太平御覧』と並んで、その名は高い。ただ、『太平御覧』と違う点は、引書名を明記していないところであり、これはかなりの不自由さをもたらしている。
しかし、『冊府元亀』の成立時期に注目すれば、『後漢書』の最も早い刊本である「淳化本」を底本にしている可能性が高い。

淳化は北宋太宗の年号で、990-994(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)。
乾興は北宋真宗の年号で、1022。
景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。

この『冊府元亀』国邑一の引文は、現行刊本である「百衲本」すなわち、おおよそ南宋「紹興刊本」に非常に親しい関係にあり、かつ、「紹興刊本」よりは1世紀以上早く刊行された「淳化刊本」に依拠しているとなれば、『冊府元亀』に見える表記を軽んじることは許されないだろう。

この『冊府元亀』外臣部国邑一に見える李賢注は、紛れもなく【案今名邪摩堆音之訛也】であり、「邪摩堆」は『北史』の「邪摩堆」と一致し、『隋書』の「邪靡堆」とも「堆」を共有する。

『冊府元亀』の「堆」を、もともと「惟」とあったものが校定を受けて『隋書』『北史』の「堆」へと修正された可能性を完全には排除できないとも言えるが、それならそれで唐代の倭都の名が「邪靡堆」「邪摩堆」であったことを校定者が再確認したことにもなるわけだから、やはり「堆」は動かない。

李賢は『魏志』を見ている!その14

on 2020-01-07 (Tue)
『通典』『文献通考』と並んで「三通」と称される『通志』は王樹海・鄭樵らによって南宋代(1161)編纂された。当時はすでに刊刻が盛んに行われていた時代であるから、この『通志』も成立して間もなく刊行されたものと考えられる。したがって、永年の書写による誤写の可能性は比較的少ないのかもしれない。

『通志』は『太平御覧』とは違い、直接引文によって構成されておらず、独自に成文する。したがって、出自の明らかな条文にしても編者の意図による改変がなされている恐れは無しとしない。

この『通志』の中に、「邪靡堆」の字が出てくる。巻百九十四・四夷一・倭の条である。『魏志』『後漢書』などに基づいて成文しているようだが、おおよその出自は読み取れる。この「邪靡堆」が見えるのは、以下の条文中である。

【南至邪馬臺即倭国之所都也〔細注〕邪馬臺亦曰邪靡堆音之訛也】

前後の文を見るに、この部分についてはおおよそ『魏志』を下敷きにして、独自の解釈で文を若干〝いじって〟ある。しかし、「邪靡堆」は『隋書』に見える倭都名そのものである。『後漢書』李賢注の【案今名邪摩惟音之訛也】の「音之訛也」と部分を共有している。意味は明白である。「邪靡堆」は「邪馬臺」の「音之訛也」ということ。つまり、「訛」は「臺」と「堆」または、「馬臺」と「靡堆」について言及しているのであって、「惟」などという文字は、ここでの「訛」の問題外なのである。

李賢は『魏志』を見ている!その15

2020-01-07 (Tue)
『冊府元亀』外臣部国邑一に、『後漢書』李賢注が見えていることについては、昨夜の投稿「その13」で書いたが、この『冊府元亀』にしても、現行刊本の来歴は複雑である。

その点について、かつて「影印明本冊府元亀弁言」で書いた。

今、われわれが普通に利用している諸漢籍も少しその来歴を調べてみれば、斯くの如しである。たった一字について考える際も、諸書諸本に見える表記について一通り視野に入れ、それらの先後関係を頭に置きつつ、その文字の〝原初の姿〟はいずれなりやを考究せねばならない。

「邪馬壹」と「邪摩惟」とを結びつけて何らかの説明を施そうとする直感それ自体は、考究の入口として一概に退けるべきではないのかもしれないが、当然のごとく、慎重な校勘が求められるのではないか。

李賢は『魏志』を見ている!その16

2020-01-07 (Tue)
手許に上海民国第一図書局印の乾隆四年校刊『後漢書』のコピーがある。「自序」「後漢書注補志序」に続いて、中縫いに「景祐刊正箚子」と記す一葉がある。「景祐元年九月」と始まるが、『玉海』にも同年月で見えている景祐刊についての「箚子」なのだろう。

『後漢書』の宋代の刊本としては、湻化、乾興に続く三番目の刊行ということになる。ここに見える例の李賢注は「邪摩推」である。
「汲古閣本」「武英殿版」は「推」とあるが、これはこの「景祐刊本」の流れを汲むものなのだろうか。

李賢は『魏志』を見ている!その17

on 2020-01-07 (Tue)
さてそれでは、現行刊本である「百衲本」『後漢書』の「邪摩惟」は、〝孤独〟なのか?いや、そうではない。

『太平御覧』では「邪魔惟」であり、『太平寰宇記』でも「邪摩惟」。この「惟」と関係あるのか、『文献通考』『図書編』『大明一統志』では「維」。『太平御覧』『太平寰宇記』はいずれも北宋代で、『文献通考』『図書編』『大明一統志』は元代以降。

簡単にまとめてみると、この「邪摩堆」「邪靡堆」の「堆」には、3つの流れがあるように思える。

一つは「堆」、もう一つが「推」、そしてもう一つが「惟」「維」。もちろん、「邪摩■」の初源の姿が「堆」であることは動かない。しかし、一旦誤られた文字が延々と引き継がれていくことは諸書を時系列で見てゆく時、しばしばお目にかかる現象ではある。

尚、台湾商務印書館刊上海涵芬楼影印『太平御覧』も、その扉裏には「宋刊本」と記されているが、冒頭の「重印宋蜀刊本太平御覧序」をみると、そんな簡単なものでないことが窺われる。

この『太平御覧』巻四第九葉には「喜多村直寛袖珍本」と「宋刻本」が半葉ずつ影印されている。

そう言えば、「百衲本」『三国志』にしても、「紹煕本」を底本として影印しながら、「魏志」の巻一から巻三までは「紹興本」を用いている。この三巻が「紹煕本」に欠けていたからである。

李賢は『魏志』を見ている!その18

on 2020-01-08 (Wed)
悪い癖で、人様のサイトへ出かけていってコメントを書いた。「邪馬壹国から邪馬臺国へ⑴」というページである。
hyena_no_papa

通りすがりの者ですが、コメント失礼しますm(_ _)m 「「案今名邪摩惟音之訛也」(今の名を案ずると、邪摩惟という音が変化したものである)」との読みですが、ならば「今の名」とは具体的に何を指すのでしょうか?古田氏の「按ずるに、今、邪摩惟と名づくるは、音の訛なり」という読みが〝読み方〟としては正しく、「今の名」が「邪摩惟」なのです。そして、李賢にとっての「今の名」は『隋書』の「邪靡堆」、『北史』の「邪摩堆」にほかなりませんが、いかがでしょうか?そもそも、「●●の音の訛なり」と書くなら、引き合いに出すべきは「邪馬壹」と書いて然るべきかと考えます。なにゆえ従前存在しない表記である「邪摩惟」なる字句を持って「音の訛」を延べようとしたのか?理路が通らないと思います。
さてさて、返信が来るだろううか?

李賢は『魏志』を見ている!その19

on 2020-01-08 (Wed)
先程の投稿で案内した「邪馬壹国から邪馬臺国へ⑴」というサイトで、古田氏の第1書『「邪馬台国」はなかった』からの引用として、次のように紹介してある。
注)古田氏は著書「「邪馬台国」はなかった」の中で、李賢の注釈を〈按ずるに、今、邪摩惟と名づくるは、音の訛なり〉と書かれています。これは隋書や北史の邪摩堆の「堆」を「惟」と書き間違えたと見ているように思われます。この場合は邪馬臺ヤマダイと邪摩堆ヤバタイの音の微妙な変化を指していることになります。
この「按ずるに、今、邪摩惟と名づくるは、音の訛なり」の箇所を見出すことが出来ない。数え切れないほどこの本を読み返してきたのに、探し出すことが出来ないのは老化現象なのか?

ただ、84ページには、『後漢書』李賢注を返り点の付いた形で引用してある。

案、今名二邪摩惟一、音之訛也。

これを読み下し文にすれば、確かに「按ずるに、今、邪摩惟と名づくるは、音の訛なり」にはなる。つまり「今の名」が「邪摩惟」との解釈である。しかし、そう読んでしまえば、三世紀の「女王之所都」の名前「邪馬壹」と「イ」つながりを見出そうとする目論見は不成立となる。

しばしば見かける「今の名は邪摩惟の音の訛なり」という解釈をする人に、「では、今の名とは具体的に何ですか?」と尋ねてみればいい。恐らくは答えられない。「今の名」が不明となるような解釈を施しているという自覚が無いのか。

李賢は『魏志』を見ている!その20

on 2020-01-08 (Wed)
今夜も李賢の注についてネット検索をやってみた。「邪摩惟」が「邪馬壹」に関連すると捉えている人は少なくない。そのような人は、はっきり言って以下の2つの誤りを犯していると言えよう。

1.「邪摩惟」が李賢注のオリジナルだと思い込んでいること。
2.「今名」が「邪摩惟の訛」だと読んでいるので、「今名」とは何かについて不明であることに気がついていないこと。

先程見かけたのは、張莉という方の「「倭」「倭人」について」という論文である。「立命館大学白川靜記念東洋文字文化研究所 第七號拔刷」とある。なんとまあ荘厳なタイトルか!同論文の43ページに次のようにある。
この記事(hy注:其の大倭王は邪馬臺国に居る)について、唐の李賢(六五四~六八四)は「案今名邪摩惟音之訛也(案ずるに、今の名は、邪摩惟の音の訛(なま)りなり)」と注している。
とし、また次ページでは、
「邪摩惟」は『北史』(六五九年成立)の「邪摩堆」と対比して作られた語と思われる。「惟(ヰ)」→「堆(タイ)」の発音上の推移が「隹」という同じ文字符号を媒介として述べられている。「邪摩惟」の読みは「ヤマヰ」であろう。「邪摩惟」の「惟(ゐ)」は、『魏志』倭人傳の「邪馬壹國」の読みが「邪馬壹(い)國」であることを示している。
と述べている。

ここでも例によって「案ずるに、今の名は、邪摩惟の音の訛(なま)りなり」と読んでいるのだ。では、「今の名」とは具体的に何か?つまり、李賢の生きた「今」の倭都の名前である。それについては明言していない。

そして、「「邪摩惟」は『北史』(六五九年成立)の「邪摩堆」と対比して作られた語と思われる」と。意味が分からない。「対比して作られた語」とは何か?この「惟」が「邪馬壹」の「壹」と関連があるというのなら、李賢は他所で『魏志』も引いているのだから、「案ずるに、今の名は、邪馬壹の音の訛(なま)りなり」と書けばいいのではないか。何故わざわざ「対比して作られた語」である「邪摩惟」をここに置いて、〝不明な〟倭都の名の「訛」を注釈する必要があるのか?

この張莉氏もそうだし、他の人達もそうだが、おしなべて文字の誤写誤刻について想起するという脳内回路が甚だしく欠落している。

李賢の生きた唐前期の倭都の名は「邪摩堆」である。あるいは『隋書』に見える「邪靡堆」である。李賢はそれを認知した上で、『後漢書』に見える「邪馬臺国」について、「今名」の「邪摩堆」(邪靡堆)が「邪馬臺」の音の「訛」したものだと注釈しているということである。何にも難しい話ではない。話を難しくしているのは、各書の表記を整理して考えていないからであり、誤写誤刻について考慮が及ばないからでもある。

各書の表記の状況を見れば、李賢注のオリジナルは「堆」であることは明々白々である。「惟」は南宋「紹興刊本」刊行までの間に、いずれかで発生した誤写誤刻と考えるのが至当である。『後漢書』北宋「景祐刊本」の流れを汲むと見られる後世の刊本は「邪摩推」ともある。「汲古閣本」「武英殿版」「乾隆四年校刊本」などがそれである。

くどいようだが、重ねて言う。「今」とは、李賢の生きた「今」である。そして、李賢の認識した倭都の名は「邪摩堆(邪靡堆)」でしかあり得ない。

李賢は『魏志』を見ている!その21

2020-01-09 (Thu)
問題となっている諸記述について、一覧にしておく。

a.『隋書』(636)俀国伝【都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也】
b.『北史』(659)俀国伝【居於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也】

c.百衲本『後漢書』李賢注(676)【其大倭王居邪馬臺国〔賢注〕案今名邪摩惟音之訛也】

a,bとcとを対比してみれば、「今名」が「邪靡堆」「邪摩堆」であることは一目瞭然。その「今名」が、『魏志』に言うところの「邪馬臺」が「訛(なま)」ったものだと李賢は注記しているのだ。

もちろん、隋唐代の倭都の名が唐地に知れたのは、遣隋使・遣唐使によるものと考えて間違いない。『隋書』俀国伝を読めば、冒頭から『魏志』『後漢書』とは、全く違った倭国の国勢が伝えられていることが明らかである。倭都「邪靡堆」或いは「邪摩堆」であり、王名の「多利思比孤」であり、その版図も「東西五月行南北三月行」と、以前の『魏志』『後漢書』には無い情報が伝えられている。この〝新しい倭国の情報〟の一つとしての倭都「邪摩堆」或いは「邪靡堆」だったのである。李賢が倭都の「今名」と言えば、それら「邪靡堆」「邪摩堆」以外にはあり得ない。

cの「邪摩惟」と言う字句がこの箇所(李賢注)に存在するはずは文意から見てない。「惟」とは、南宋代までの間に生じた「堆」の誤写誤刻である。

尚、李賢注『後漢書』の上書された年時については、『旧唐書』高宗紀儀鳳元年に【十二月丙申,皇太子賢上所注後漢書,賜物三萬段】とある。

李賢は『魏志』を見ている!その22

2020-01-09 (Thu)
「その13」で、『後漢書』宋代刊本を以下の3つ挙げた。

淳化は北宋太宗の年号で、990-994(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)。
乾興は北宋真宗の年号で、1022。
景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。

しかし、『後漢書集解』巻首の「後漢書集解述略」末尾には、この3つ以外にも、宋代『後漢書』の刊行があったらしきことが記されている。記述順に並べてみると、

湻化(淳化)本 太宗・湻化(990-994)(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)
景徳本 真宗・景徳(1004-1007)間奏上
乾興本 真宗・乾興初(1022)
景祐本 仁宗・景祐初(1034-1038)
熙寧本 神宗・熙寧初(1068-1077)
紹興本 孝宗時(1162-1189)

「後漢書集解述略」の最後には、北宋以前の本は見ることが出来ない旨、記されている。

【北宋以前之本未有能見之者遭乱辟地聚書滋難其書未詳以俟来者】

拙読「北宋以前の本、未(いま)だ能(よ)く之(これ)を見ること有らざるは、乱に遭(あ)ひ地に辟(かたよ)り、書を聚(あつむ)るは滋(ますます)難(かた)く、其の書の未だ詳(つまびらか)ならざるは、以(もっ)て来者(今後、将来)に俟(ま)つ。」

李賢は『魏志』を見ている!その23

2020-01-09 (Thu)
唐中期の『通典』を見てみよう。

【其王理邪馬臺国〔細注〕或云邪摩堆】
この文は『宋書』の倭王武「安東大将軍」の除正記事と『隋書』からの引文と思しき文との間に挿入されている。『通典』倭条を通して読むと、杜佑は漢魏から唐代に至るまで、倭都は一貫して「邪馬臺」であったと認識しているかのような書きぶりに見える。

『通典』の「邪馬臺国」に注して「或云邪摩堆」とあり、「邪摩惟」も「邪馬壹」も全く窺わせない。なぜか?簡単である。『通典』成立の唐中期頃には、この「邪摩惟」なり「邪馬壹」などという表記は出現していなかったからである。

「惟」の最も早い出現は、恐らく『太平御覧』の「邪魔惟」であろう。これとほぼ同時期と見られる『太平寰宇記』にも、「邪摩惟」「邪摩維」(四至)の双方の表記が見え、以後、この系統の表記も受け継がれてゆく。

『通典』自体では、その後も「邪摩堆」の表記を受け継いでゆき、清の「武英殿版」や、我が国の松下見林が編んだ『異称日本伝』所引『通典』でも、現行刊本『通典』の表記をそのまま保っている。

要するに、唐代には「邪馬壹」も「邪摩惟」もいずれも存在しない。宋代に入ってから出現した表記で、誤写誤刻によるものであることは明白である。

李賢は『魏志』を見ている!その24

2020-01-11 (Sat)
さて、今取り上げている「堆」「推」「惟」についての異同が実際に発生しているか、手元にある『三国志校勘記』『後漢書校勘記』『隋書校勘記』で拾ってみたい。これらの校勘記は、『百衲本二十四史』を刊行した張元済が、その刊行の際に行った校勘作業について、各正史ごとに取りまとめたもので、これらの本を開くと、漢籍における校勘がいかに重要な作業であるか、嫌でも思い知らされる。

これらの校勘結果について思慮のうちに入れずに歴史を推考することは、建築に例えて〝不良建材〟をあちこちに用いて家を建てるようなものである。

前置きはこれくらいにして、『後漢書校勘記』から例をあげよう。とは言っても、どんぴしゃりのケースが多発しているわけではない。異同のケースで見受けられる一つのパターンは、偏の異同である。例えば「楊」と「揚」などは頻繁にでてくる。「楊州」と「揚州」のごとくである。考えるに、これは誤写というより、或いは通用ではないかとも思える。もちろん、明らかに誤写である偏の異同も多い。

『後漢書』王符伝
李賢注【又況掘冢搏掩犯姦成富】の「搏」が「明万暦二十四年北京国子監刻本」「明崇禎十六年毛氏汲古閣本」「明嘉靖汪文盛等刻本」「元大徳九年寧国路儒学刻本」では「博(旁は甫/寸)」となっている。

『後漢書』范滂伝
【君為人臣,不惟忠國,而共造部黨,自相襃舉】の「惟」は、底本である「宋本(紹興本)」と「元大徳九年寧国路儒学刻本」では「惟」であるが、「明万暦二十四年北京国子監刻本」「明崇禎十六年毛氏汲古閣本」「明嘉靖汪文盛等刻本」「明正統八年至十一年刻本」では「推」となっている。

『後漢書』志十五
「百衲本」(p4083)【壞容水澤】が、『後漢書集解』(p1196)では【懷容水澤】となっている。

とりあえず上掲3例を拾うことが出来たが、これら異同のうち、いずれが是であるかは、校勘者の知力に頼った仕事になる。

李賢は『魏志』を見ている!その25

2020-01-11 (Sat)
次に、『三国志』から拾ってみる。

a.『魏志』巻三十東夷伝「評曰」所引『魏略』西戎伝に2ヶ所見える「龍堆」のうち、二番目に出てくる【辟三隴沙及龍堆,出五船北】の「龍堆」が、底本(南宋「紹煕本」)では「龍推」となっており、「百衲本」刊行時に修正されて「堆」となっている。

b.『呉志』巻十三陸遜伝所引呉録【若不惟算】が「元本」「明南監本」「明北監本」「明毛氏汲古閣本」では「推」となっている。『三国志集解』では、この箇所に「宋本推作惟」と細注が入っている。
「校点本」が「百衲本」の表記を襲って「惟」としているのは、理由不明。いや、「百衲本」はりっしんべん「忄」とは言えないのではないか。「博」などのように〝じゅう〟に見える。つまり、「扌」の下の横棒が脱落したものと見たほうがいい。それを「校点本」がりっしんべん「忄」に見立てたのは形の上からのみ言えば軽率にも思える。

余談だが、百衲本『魏志』倭人伝の「対海国」「諸国」を「校点本」では「対馬国」「諸国諸国」と、「汲古閣本」「武英殿版」側の表記に添っているので、独自の校勘に基づくものか。

このbの部分の筑摩訳は「もし十分な配慮をされず」(『世界古典文学全集24c 三国志Ⅲ』267ページ)となっている。「推算」という語はこんにちでも常用すると思うが、「惟算」は目にしたことがない。試しに「漢籍電子文献」で「惟算」を検索してみると、ヒットするのは『三国志』のこの1例のみだが、「推算」ならば、『三国志』で【進退推算】【達之推算】の2例がヒットする他、他書でも多数がヒットする。『三国志』の「惟算」は「推算」の誤だろうと考えて大過ないとは思うが、歴史的に「惟算」という言葉が全く使われなかったと断言することも出来ないだろうから、「推算」の誤であろうと強く「推」定される、、、という程度に留めておくのが穏当か。

李賢は『魏志』を見ている!その26

2020-01-11 (Sat)
『隋書校勘記』中には、「惟」と「維」の異同が挙げられている箇所があった。その36ページで、「百衲本」『隋書』音楽志 享廟樂辭 【顧指惟極,吐吸風雲】の「惟」が「武英殿版」では「維」になっているという。備註に「見考證 殿是○四維八極」とあり、「武英殿版」を正しいとしている。

「見考證」とは、「武英殿版」の考證を参照すべしの意にして、その「清乾隆武英殿版」の影印である芸文印書館二十五史『隋書』巻十四考證には、この「顧指維極」についての考證が確かに載っている。

【監本維作惟樂府一本作維 〔細注:臣映斗〕按辭意當四維八極今從維】

拙訳「監本は維を惟に作る。樂府(古体詩の一種)の一本には維に作る。按ずるに辭意は當(まさ)に四維八極なるべし。今維に從(したが)ふ」。
映斗は国史の編纂(へんさん)、経書の侍講などを主に担当した清朝翰林院の張映斗にして、『明史』の対校者名として名を列する。手許の『漢和中辞典』によると、〔四維〕とは四方の隅で、乾(いぬい)・坤(ひつじさる)・艮(うしとら)・巽(たつみ)のことで、〔八極〕とは八垠(はちぎん)で、八方の果てのこと。つまり「四維八極」は四方八方の意。

李賢は『魏志』を見ている!その27

2020-01-12 (Sun)
昨夜に続いて『隋書校勘記』から、「忄」「扌」「土」の異同の例を探してみた。とりあえず以下の3個が目に止まった。

『隋書校勘記』42ページ
律歴志上 和聲の【試推其旨】が「百衲本」の底本たる「元大徳刊本」では「堆」となっていて、これは備註に「修」とあるので、刊行時すでに「推」と修正してある。「武英殿版」も、もちろん「推」である。

同111ページ
秦孝王俊伝の【謬當推轂】が「元大徳刊本」では「惟」となっており、これも備註に「修」とあるので、刊行時すでに「推」と修正してある。

同184ページ
蕭琮伝の【唯當恃】が「元大徳刊本」では【唯當持】となっており、これも備註に「修」とあるので、刊行時すでに「恃」と修正してある。

昨夜は、「惟」と「維」の異同の例を挙げたが、「糸」は画数も多く、「忄」「扌」「土」からの誤写誤刻は起きにくいのではないかと思っていたところ、『漢和中辞典』の【維】の項には以下のようにあった。

④はかる(度)。おもう(思)。=惟
⑥惟イ・唯イに通じ、助字として用いる。
 (ア)これ。また。句の初めまたは中間で語調を整える。=惟。

また、【惟】の項には、
②これ。この。発語の助字。=維・伊イ
ともある。

すなわち、「惟」と「維」とは、ある意味での通用性があったのかも知れない。しかし、「邪摩惟」「邪摩維」は倭都の名として記されているわけだから、このような可能性も低かろう。文字の異同は単純なケースも多いが、中には首をひねる場合もある。様々な理由で文字の異同が発生するという事実の指摘から一歩踏み出そうとする場合には、慎重な考慮が必要なことは当然だろう。

李賢は『魏志』を見ている!その28

2020-01-12(Sun)
読書の合間に、ぶらりとまたネット検索をやってみた。以下のサイトに遭遇する。
邪馬台国論

「邪馬台国論3章 國名と国家形態」
「女王國は連合国家」
「卑弥呼の國名と國家形態後漢書「邪馬臺國」と紹興本「邪馬壹國」」(更新日)2018/10/10
http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-3-1.pdf
と盛大なタイトルが付けられている。トップページの最下部には、
The copyright of all my sentences and pictures on my website is reserved
by K. M.
If you have any ideas,please give me e-mail. メールの宛先はこちら
と、Gmailのアドレスが表示されている。

ツッコミどころ満載な文なので、メールを送ってみようかとも思ったが、いたずらに人を挑発するのはいかがなものかという気もする。
この方の文中で、ひとつ〝おや?〟と思ったのが、「(2)版木作成者は5人」という部分。「「紹興本」の「倭人伝」版木作成には5人の職人がいたと思われる」と。なかなかこういう点に注目する人は少ないので、目が止まった。しかし、「5人」はこの方の挙げた「二十六」「二十七」「二十八」「二十九」「三十」という「紹興本」倭人伝の占めるページ数そのままなのではないか?もしそうなら、「二十五」が抜けている。

この倭人伝部分の「版木作成者」、つまり〝刻工〟は2名である。刻工名は版心の下部、象鼻の部分に記されており、その2名とは「昌庚」「李安」。もちろん、尾崎康氏の「宋元刊三国志および晋書について」324ページに挙げる多くの刻工の中にその名も見える。

この方も李賢注の「邪摩惟」に引きずられている。
女王卑弥呼の國名は三世紀に作成された魏志倭人伝では、「邪馬臺國」ではなく、「邪摩惟」と書かれていた。これが真実である。
あるいは、
紹興本・紹熈本の元本十二世紀、三国志・魏志倭人伝の紹興本・紹熈本が作られた。だが、何故、900年も経過した南宋の時代に突如、紹興本・紹熈本が作成されたのか。これが第一の疑問であるが、その答えは難しくない。南宋の時代に三国志が偶然発見されたのであろう。むろん、三世紀作成の版本である。南宋王朝は歓喜した。「後漢書」でしか知ることができなかった「三国志」の版本が見つかったのである。この貴重な幻の版本を再版しよう。南宋王朝は当然、そう考えた。当代の一流の学者、技術者を集めて版本作成にとりかったのである。
とも書いている。

「南宋の時代に三国志が偶然発見されたのであろう」という文言には驚く。『三国志』は各書に引用されたり、参照されたりしているし、『隋書』(636)や『旧唐書』(945)の経籍志に明記されているし、わが国の『日本国見在書目録』(897以前)にもちゃんと載っている。

もちろん、『隋書』には『魏志』から引いた有名な文【則魏志所謂邪馬臺者也】とあるし、『翰苑』にも『魏志』は引かれている。宋初の『太平御覧』(983)にも『魏志曰』として多くの文が引かれている。何より、『後漢書』に付注した李賢自身が『魏志』を多く注引している。「これが真実である」と意気込んで書いておられるが、『隋書』の記述をどう説明するのか?

細かいことだが、「三世紀作成の版本」「「三国志」の版本」「この貴重な幻の版本」などというのは、全て〝写本〟の誤。また、『三国志』の刊本が最初に刊行されたのは、北宋咸平年間であったことは周知の事実である。

李賢は『魏志』を見ている!その29 伊作さんの正鵠を得た発言

2020-01-16(Thu)
付記1・邪馬台の証明01」というページで伊作さんは以下のように主張している。
❹注釈をつけた李賢と裴松之がみた『三国志』にも邪馬臺とあった。
 『後漢書』倭伝の場合は、「其の大倭王は邪馬臺国に居る」と書いた。これに続けて、唐代に李賢が「案:いま邪摩惟の音をこれに訛えて名ぶ」と注釈している。李賢は、自らが入れたその注釈のすぐ上にある邪馬臺の文字を見ていながら、「壹の誤りである」とは注釈していない。これが壹の間違いだったとすれば、いうまでもなく注釈を加えたはずである。
 これに先立って、裴松之は『三国志』に膨大な注釈をつけている。彼の注釈が完成したのは429年で451年に死去。私たちがテキストとしている『倭人伝』は12世紀に刷られたものだが、これよりも700年以上前の人である。その裴松之は臺と壹については何も触れていない。つまり、彼が見た時点では触れる必要がなかったのだと採れる。
 ほぼ同時代の笵曄は『後漢書』に臺と書き、『三国志』に注釈をつけた裴松之は臺にも壹にも触れていない。ということは、5世紀の裴松之と笵曄と、7世紀の李賢らが見た『三国志』には臺と書いてあった証拠である。
李賢注の読み下しはやや怪しいが、大筋では正鵠を得ていると言えよう。ここで、李賢注にまで踏み込んでいたとは、と驚く。

伊作さんが、ここまで芯のある考察を施し得たのも、幾分かは掲示板で鍛えてきた成果が反映されているからではないか。

李賢は『魏志』を見ている!その30

2020-01-30 (Thu)
長澤規矩也解題和刻本正史『後漢書』を見ることが出来た。その「倭伝」を開いて、かなり重要な事実に気がついた。それは劉攽の注である。
【自武帝滅朝鮮使驛】に注して〔劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕とある。この注が刊本に依って有無が分かれる。

・南宋福唐郡庠重刊北宋淳化監本影印仁寿本二十六史『後漢書』→無し
・南宋紹興本影印百衲本二十四史『後漢書』→無し
・北宋景祐本校刊清乾隆四年刊本→有り
・宛陵郡学元大徳九年刊古活字印和刻本『後漢書』→有り

「李賢は『魏志』を見ている!その13」で、以下のように述べた。
淳化は北宋太宗の年号で、990-994(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)。
乾興は北宋真宗の年号で、1022。
景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。
ここで劉攽の生涯が関わってくる。劉攽の生没は1022ー1088である。

・仁寿本二十六史『後漢書』は淳化監本を重刊しているので、この箇所の劉攽注が無いのは劉攽出生前のことなので当然。
・乾隆四年刊本は、中縫いに「景祐刊正箚子」と記す一葉があるから景祐刊本に拠ったと見られ、劉攽の生後となる。
・和刻本は元大徳刊本を底本としているようで、「邪摩推」という李賢注があることから、これも景祐刊本の流れを汲んでいるのであろう。

問題は「百衲本」である。紹興本を影印したとされるが、その紹興本が底本としたのはどの北宋刊本なのか。劉攽注の有無から考えると、淳化監本あるいは乾興刊本ということになる。「百衲本」の列伝末尾には乾興元年の中書門下牒が掲げられているので、「百衲本」影印の底本「紹興本」の依拠した北宋本は乾興刊本ということ。

劉攽が成人した頃は景祐刊本が既に流布していたと考えられるので、劉攽は最も新しい版本である景祐刊本に付注したということになる。「汲古閣本」「武英殿版」は、その景祐刊本に拠っているのだろう。元大徳刊本も景祐刊本に拠っていて、和刻本『後漢書』は結局の所、景祐刊本の流れを引いている。

さて、本日気がついたばかりの劉攽注について、少し考えてみたが、これまで書いてきたことと整合性があるのか?齟齬をきたしていないか?

明日にでもゆっくりと咀嚼してみたいと思う。

李賢は『魏志』を見ている!その31

2020-01-31 (Fri)
昨夜、劉攽注について書いたが、その劉攽注を読み下しておきたい。

【自武帝滅朝鮮使驛】〔劉攽注 劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕

拙訳「劉攽曰(いわ)く 使驛を按ずるに當(まさ)に譯に作るべきは 説(と)きて已(すで)に上に見ゆ」

「已見上」とは、前述したということだろうから、探してみると、「東夷伝」序文にやや詳しく述べてある。

乾隆四年校刊『後漢書』東夷伝序文〔劉攽注〕
【劉攽曰 使驛不絶按郵驛中國可有之不可通於四夷自前書皆言使譯使則使者譯則譯人故合作使譯此書内有自作使驛處明是後人不暁妄改之】

拙訳「劉攽曰く 使驛不絶を按ずるに郵驛(=古代の宿場。駅家。うまや)は中國之有る可くも四夷に通づる可からずにして、前書自(よ)り皆使譯と言ふ。使は則(すなは)ち使者、譯は則ち譯人(=通訳)にして故(ゆえ)に合はせて使譯に作る。此(こ)の書の内に自(みづか)ら使驛に作る處(ところ)有るも、明(あきらか)に是れ後人の暁(さと)らずして妄(みだり)に之を改む」

「漢籍電子文献」の校注は以下の通り。

〔按:刊誤謂「驛」當作「譯」。郵驛中國可有之,不可通於四夷,自前書皆言「使譯」,使即使者,譯則譯人〕

劉攽注とほぼ同じ。

李賢は『魏志』を見ている!その32

2020-01-31 (Fri)
昨夜書いたことを元に、これまでのことをおさらいしておこう。

『後漢書』最初の刊本である、北宋淳化監本は、990-994(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)の間に成立。次の北宋代刊本は乾興刊本(1022)であり、1013年成立の『冊府元亀』に見える『後漢書』引文は、時期的に見て淳化監本に基づく。『冊府元亀』は「邪摩堆」に作る。

現行の百衲本『後漢書』は、南宋紹興刊本を影印したとされ、列伝末尾に「乾興元年十一月十四日」日付の中書門下牒が掲げられているので、紹興刊本はこの乾興刊本を復刻したものであろう。周知のごとく百衲本では「邪摩惟」である。

乾興にやや遅れる景祐刊本は、以後の諸刊本に最も多く用いられているようで、「汲古閣本」「武英殿版」「乾隆四年校刊本」も皆これに基づく。この系統が伝えるのは「邪摩推」である。

李賢注の原初の姿が「邪摩堆」であることは、「今名」の考察から明らかであるし、また『冊府元亀』の成立時期からも、そのことは裏付けられる。

問題は百衲本の「邪摩惟」であるが、淳化刊本を南宋福唐郡庠で重刊した仁寿本では、「邪摩■」の「■」が潰れて文字の体を成していない。無理に察すれば、「忄」よりは「扌」の崩れた形のように見える。

「その25」で書いたことを以下に再掲する。
b.『呉志』巻十三陸遜伝所引呉録【若不惟算】が「元本」「明南監本」「明北監本」「明毛氏汲古閣本」では「推」となっている。『三国志集解』では、この箇所に「宋本推作惟」と細注が入っている。
以上、淳化・乾興・景祐の三刊本における「邪摩堆」「邪摩惟」「邪摩推」の変異の流れを窺ってみたが、「邪摩惟」については『太平御覧』『太平寰宇記』上の表記も視野に入れて考えなければ確定的なことは言えないのだろう。

劉攽注から幾許かの考察を試みてきたが、これでスッキリしたなどとは到底言えない。未だ余燼くすぶるの感しきりである。

李賢は『魏志』を見ている!その33

2020-02-01 (Sat)
昨日、「未だ余燼くすぶるの感しきりである。」と書いたが、まさしくその通りだ。

『後漢書集解』巻首の「後漢書集解述略」の末尾に掲げてある一文を釋読してみた。
皇明崇禎十有六年歳在尚章叶洽寎月上已琴川毛氏開雕 索隠曰尚章癸也爾雅作昭陽今從史記厤書〔集解〕黄山曰汲古閣本後漢書無宋乾興元年孫奭奏請並劉昭補志合刊牒文亦無景祐元年余靖奏請刊誤牒文蓋所據宋本原非監本故文字視監本多異而亦往往有勝監本者南宋私家刻本書籍流傳後代如廖氏世綵堂余氏有勤堂等凡六七家皆稱善本毛氏収蔵既富所據必別有至精之本

〈拙読〉
皇明(=明朝)崇禎十有六年(注1)、歳は尚章(注2)叶洽(注3)に在りて、寎月(注4)上已(注5)に琴川(注6)の毛氏(注7)開雕(注8)す。〔索隠(注9)曰く 尚章は癸(みずのと)也 爾雅(注10)は昭陽(注11)に作る 今、史記厤書(注12)に從ふ〔集解〕黄山(注13)曰(いわ)く汲古閣本後漢書は、宋の乾興元年(注14)に孫奭(注15)の奏請(注16)し、並(なら)びに劉昭(注17)補志に合刊せし牒文無く、亦(また)景祐元年(注18)に余靖(注19)の奏請して刊誤(注20)せし牒文も無し。蓋(けだ)し據(よ)る所は宋本の原監本(注21)に非(あら)ずして、故(ゆえ)に文字は監本と多くの異を視(み)る。而して亦(また)往往にして監本に勝(まさ)るところ有るは、南宋私家刻本の書籍の後代に流傳すること廖氏世綵堂、余氏有勤堂等の如く、凡(およ)そ六七家は皆善本と稱す。毛氏の収蔵するは既に富(ゆたか)にして、據(よ)る所は必(かなら)ずや別に至精(いたって精妙)之本有り。
『後漢書集解』が底本としたのは、確かに「汲古閣本」なのだろうが、北宋監本を底本としている訳でもなさそうだという。写本はもちろんだが、刊本にしても出自来歴は一筋縄ではくくれなさそうだ。

新日本古典籍総合データベース 国文学研究資料館 鵜飼文庫の汲古閣本『後漢書』書影では、倭伝の「使驛」に劉攽の注は無い。また、【邪馬臺】への李賢注は【案今名邪摩推音之訛反】である。
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200019100/viewer/1253

和刻本『後漢書』では、【使驛】の直後に〔劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕とあるが、『後漢書集解』では、【使驛】の直後ではなく【三十許國】の直後に〔集解〕として、〔劉攽曰使驛案當作譯説已見上惠棟驛魏志作譯〕とあり、両者の違いにが何に基づくものかは即断できない。

〈注〉
注1)崇禎十有六年 1643年
注2)尚章:しょうしょう:癸年の異称
注3)叶洽:きょうこう=未年の異称。尚章叶洽で癸未(みずのとひつじ)。1643年は癸未の歳。
注4)寎月:へいげつ=陰暦三月の別称
注5)上已:上巳(じょうし)か=三月三日桃の節句
注6)琴川:今の江蘇省常熟市
注7)毛氏:毛晉(1599年1月31日-1659年9月13日)原名鳳苞,字子久。後改字子晉,號潛在,別號汲古主人。常熟(今屬江蘇省)人。明末著名藏書家、出版家、刻書家、文學家、經學家。by百度百科
注8)開雕:かいちょう=刊刻を開始すること
注9)索隠:史記索隠
注10)爾雅:じが=中国最古の類語辞典・語釈辞典
注11)昭陽:しょうよう=癸(みずのと)年の異名
注12)史記厤書:厤は歴の略字。「汲古閣本」には「歴」と見える。
注13)黄山:『後漢書集解』編者王先謙の弟子。『後漢書集解』巻末の「後漢書集解坿續志集解跋」に【癸亥季冬月朔門人同邑黄山謹跋於杭州旅次】とある。書虫データベースには「《後漢書集解》未刊成而先謙已卒,底稿有散佚,頼弟子黄山及柳従辰校勘補成之。」と紹介。
注14)乾興元年:けんこう。1022年。
注15)孫奭:そんせき。962-1033。字宗古、博州博平(今山東茌平縣博平鎮)。北宋時期大臣、經學家、教育家。by百度百科
注16)奏請:天子に申し上げて決済を請う。
注17)劉昭:『後漢書』志に補注した。
注18)景祐元年:北宋仁宗の年号で元年は1034。
注19)余靖(1000-1064)、本名餘希古,字安道,號武溪,韶州曲江(今廣東省韶關市)人。北宋政治家,“慶曆四諫官”之一。by百度百科
余永楫 余靖,北宋仁宗朝名臣,原名希古,字安道,號武溪。廣東韶關人。生于公元1000年,卒于公元1064年。他博學廣識,舉凡史記雜家小說,陰陽律歷,音韻小曲,乃至禪經道典,無所不通。他是個政治家。他的政治生涯始于宋仁宗天圣二年(1024年),25歲時中進士,被派任贛縣尉。踏上宦途之后,歷任秘校、集賢校理、右正言、知制誥等朝官。慶歷三年(1043年)与歐陽修、蔡襄、王素并列諫官之職,史稱四直諫。是年仁宗采納范仲淹的奏議,推行”慶歷新政”。余靖竭盡全力,運用直諫職權,監督新政實施。對于民族矛盾他善于化解,對持續數年的湘蠻之亂,他主張招撫安民,果然收到實效。由于剛正不阿,敢于對皇帝直言,因而名聲大噪。后來受讒言遭貶,謫為縣令等地方官,也曾辭職歸田。在他64歲那年三月,仁宗駕崩,英宗即位,他在廣州知州的任職中被擢升為工部尚書,赴任途中染病不治去世,皇帝賜謚號襄,并份贈刑部尚書。
余靖又是一個外交家。曾三次出使遼國,前兩次載譽而歸,第三次促成宗、遼、西夏結盟,平息了干戈,功勛彪炳。
余靖也是個軍事家。公元1052年,壯族酋領儂智高叛亂,占据9個州,直逼廣州。此時守父喪休假在家,但他急朝廷之急,招募鄉兵,協助防衛。不久奉命停喪任潭州令,轉瞬又改任桂州知州。稍后朝廷派他輔助狄青領軍平定叛亂。之后他計擒賊酋,使宋廷得以轉危為安。宋仁宗嘉許他御筆親題:"風采第一,廣南定亂,經略無雙。"
余 靖還是個文史學家。他34歲時任秘書監,隨后任集賢校理,掌管典籍,校正了《漢書》,《后漢書》,《史記》,等古籍。他所寫的奏折和任知制誥時為皇帝所擬的詔書 以及平時應邀寫的記、銘等(見《武溪集》),精煉無懈,博大精深,富有文采,洵為典范之作。他的詩詞造詣可比唐宋名家。 在現存的《武溪集》中有140多首, 每一首都具有极高的 思想性和藝術性。
余靖是一個清官。他率眾平亂后,把皇帝賞賜的財物,全數轉贈給當地軍民,保持自己兩袖清風的本色。調任時,他所帶走的不是成箱累笈的金銀珠寶衣服,而是農耕所需的种子,帶往新任地發展農業生產。他又是一個愛民如子的好官。甚得民心,公元1060年在邕州(今南宁)离任另就時,百姓哭道相送,后世有遠識的人建祠樓紀念他。在韶美市,有一座明代跨街而建的風采樓。在廣州曾有八賢祠余靖受祀其中;在廣東境內所有名賢祠風采堂,都是為紀念他而建的。2005年,廣東省紀委宣 教室編 寫了一本《政聲人去后-----岭南古代廉吏故事》,里面有一篇《北宋名諫 風采流芳》的記事文,就是彰顯余靖事跡的。by點問頓余風采堂
http://www.yeefungtoy.org/edmonton/Yee_Jing.html
注20)刊誤:書物の内容や文字の誤りを正す。
注21)監本:国子監(=国立大学)校定の出版本。

李賢は『魏志』を見ている!その34

2020-02-01 (Sat)
今日日中の長い投稿の内容を「武英殿版」で確認してみた。「中國哲學書電子化計劃」にその書影があったので見ると、確かに列伝の最後に続けて、范曄の「自序」と、梁剡令劉昭の「後漢書注補志序」、それに余靖の景祐元年九月付「上奏文」が付されていた。

しかし、新日本古典籍総合データベース国文学研究資料館 鵜飼文庫の汲古閣本『後漢書』には、それらが付されていない。

「武英殿版」は恐らく「景祐刊本」の流れを引くものだろう。「邪摩推」とあるし。一方で「汲古閣本」が、何をルーツにしているのか判然としない。

余燼はくすぶり続ける、、、

李賢は『魏志』を見ている!その35

2020-02-03 (Mon)
一昨日の投稿で「梁剡令劉昭」と書いたが、この「梁剡令」について調べもせずに、そのような名の官名なんだろうと、スルーしてしまっていた。

今、ちょっと調べてみたら、これは「梁の剡(せん)県の令」という意味。何でも見過ごさずに一つ一つ調べなくてはイケナイという見本。

『梁書』劉昭伝
劉昭字宣卿,平原高唐人,晉太尉寔九世孫也。祖伯龍,居父憂以孝聞,宋武帝敕皇太子諸王並往弔慰,官至少府卿。父彪,齊征虜晉安王記室。昭幼清警,七歲通老、莊義。既長,勤學善屬文,外兄江淹早相稱賞。天監初,起家奉朝請,累遷征北行參軍,尚書倉部郎,尋除無錫令。歷為宣惠豫章王、中軍臨川王記室。初,昭伯父肜集眾家晉書注干寶晉紀為四十卷,至昭又集後漢同異以注范曄書,世稱博悉。遷通直郎,出為剡令,卒官。集注後漢一百八十卷,幼童傳十卷,文集十卷。
『南史』劉昭伝
劉昭字宣卿,平原高唐人,晉太尉寔九世孫也。祖伯龍,居父憂以孝聞,宋武帝敕皇太子諸王並往弔慰,官至少府卿。父彪,齊征虜晉安王記室。昭幼清警,通老、莊義。及長,勤學善屬文,外兄江淹早相稱賞。梁天監中,累遷中軍臨川王記室。初,昭伯父肜集眾家晉書注干寶晉紀為四十卷,至昭集後漢同異以注范曄後漢,世稱博悉。卒於剡令。集注後漢一百三十卷,幼童傳一卷,文集十卷。
ここでの「卒」は〝終える〟でいいんだろう。「出(いで)て剡の令と為し,官を卒(を)ふ」「剡の令に卒(を)ふ」。

李賢は『魏志』を見ている!その36

2020-02-03 (Mon)
ちょっと横道にそれるが、宋代の刊刻について、昔読んだ榎一雄博士の『改訂増補版 邪馬台国』の一節を、またまた思い出した。この一節は、私にとって〝教訓的一節〟なので、しばしば脳内を横切っていく。

榎一雄『改訂増補版 邪馬台国』22ページ
咸平五年(一〇〇二)から三年後の景徳二年(一〇〇五)五月一日、真宗は国子監(大学)に行幸し、その書庫を閲し、祭酒(総長)邢昺に「書版(版木)はどの位あるか」と訊ねた。昺は対えて「国初は四千に足りませんでしたが、今は十余万ございまして、経史正義皆揃っております。私は年少の時から儒学の研鑽を仕事にして参りましたが、当時は学徒で経疏を所有しております者は万人に一人か二人も居りませんでした。これは写本作りが間に合わなかったからでございましょう。今は板木が大いに備わりましたので、士人も庶民も家ごとに皆もっております。こうした時勢に生まれあわせましたことは、儒を学ぶものの幸でございます」と言ったことが、続資治通鑑長編巻六十及び宋史巻四三一邢昺伝に見えている。
それで、その『宋史』「邢昺伝」の該当部分を引く。
景德二年〈中略〉是夏,上幸國子監閱庫書,問昺經版幾何,昺曰:「國初不及四千,今十餘萬,經、傳、正義皆具。臣少從師業儒時,經具有疏者百無一二,蓋力不能傳寫。今板本大備,士庶家皆有之,斯乃儒者逢辰之幸也。」上喜曰:「國家雖尚儒術,非四方無事何以及此。」
榎博士の訳出に続く部分、【上喜曰「國家雖尚儒術,非四方無事何以及此。」】のみ拙訳を掲げる。

拙訳「上(=帝・真宗)は喜びて曰(いは)く、國家は尚(なほ)儒術(=儒者の道)と雖(いへど)も,四方無事に非(あら)ずんば何を以(もっ)てか此(こ)れに及ばむ。」

2020/2/4修正)『宋書』「邢昺伝」ではなく、当然『宋史』である。よって修正。

李賢は『魏志』を見ている!その37

2020-02-04 (Tue)
武英殿版『後漢書』列伝末尾の「祕書丞余靖上言」を読み下してみた。
景祐元年九月祕書丞余靖上言國子監所印兩漢書文字舛譌恐誤後學臣謹參括衆本旁據他書列而辯之望行刊正詔送翰林學士張觀等詳定聞奏又命國子監直講王洙與靖偕赴崇文院讎對謹按後漢明帝詔班固陳宗尹敏孟冀作世祖本紀及建武時功臣列傳後有劉珍李充雜作建武已後至永初間紀傳又命伏無忌黃景作諸王王子恩澤侯并單于西羌地理志又邊韶崔寔朱穆曹壽作皇后外戚傳百官表及順帝功臣傳成一百一十四篇號曰漢紀嘉平中馬日磾蔡邕楊劇盧植續爲東觀漢紀吳武陵太守謝承作漢書一百三十卷晉散騎常侍薛塋作後漢紀一百卷泰始中祕書丞司馬彪始取衆說首光武至孝獻作續漢書又散騎常侍華嶠刪定東觀記爲漢後書九十七篇祠部郎謝沈作後漢書一百二十二卷祕書監袁山松作一百卷至宋宣城太守范曄益集詣家作十紀十志八十列傳凡百篇十志未成曄被誅至梁世有剡令劉昭者補成之唐章懷太予賢詔集當時學者右庶子張太安洗馬劉訥言洛州司戶參軍革希玄學士許叔牙成玄一史藏諸周寶寧等同註范曄後漢書儀鳳初上之詔付秘書省傳之至今靖洙悉取館閣諸本參校二年九月校畢凡增五百一十二字損一百四十三字改正四百一十一字
〈拙読〉
景祐元年(1034)九月 祕書丞の余靖は上言するに、國子監の印する所の『兩漢書』の文字の舛譌(せんか=あやまり)は後學を誤まるを恐る。臣は謹しんで參じ衆本を括(あつ)め、旁(かたは)ら他書の列(=部類)に據(よ)り、而(しか)して之を辯じ、刋正(せんせい=切ると正す)を行はむことを望む。詔して翰林學士の張觀等を送り、詳定して聞奏(=天子に申し上げる)す。又(また)國子監直講の王洙と(余)靖に命じて、偕(とも)に崇文院へ赴(おもむ)き讎對(=対校)す。謹しんで按ずるに後漢の明帝は班固、陳宗、尹敏、孟冀に詔して「世祖本紀」及び「建武時功臣列傳」を作る。後(のち)劉珍、李充の雜作有り。建武已後(=以後)永初間に至りて紀傳は又、伏無忌、黄景に命じ「諸王」「王子」「恩澤侯」并(ならび)に「單于」「西羌」「地理志」を作る。又(また)邊韶、崔寔、朱穆、曹夀は「皇后外戚傳」「百官表」及び「順帝功臣傳」を作りて一百一十四篇と成し、號して『漢紀』と曰く。嘉平中、馬日磾、蔡邕、楊劇、盧植は續けて『東觀漢紀』を為し、呉の武陵太守の謝承は『漢書』一百三十卷を作(な)し、晉の散騎常侍の薛塋は『後漢紀』一百卷を作し、泰始中、祕書丞の司馬彪は始めて衆説を取り、光武(帝)を首(はじめ)とし孝獻(帝)に至るを『續漢書』と作し、又散騎常侍の華嶠は『東觀記』を刪定して『漢後書』九十七篇を為し、祠部郎の謝沈は『後漢書』一百二十二卷を作し、祕書監の袁山松は一百卷を作す。宋に至りて宣城太守の范曄は諸家の作を十紀十志八十列傳、凡(およ)そ百篇に益集するも、十志は未(いま)だ成らずして(范)曄は被誅(ちゅう)せらる。梁の世に至りて剡令の劉昭なる者有りて、之を補成す。唐の章懐太子(李)賢は詔して當時の學者たる右庶の張太安、洗馬の劉訥言、洛州司戸參軍の革希玄、學士の許叔牙、成玄一、史藏諸、周寳寧等を集め、同じく范曄の『後漢書』に註す。儀鳯の初、之を上するに詔して祕書省に付して之を傳へ、今に至る。(余)靖と(王)洙は悉(ことごと)く館閣の諸本を取りて參校し、二年九月校畢(をは)る。凡(すべ)て五百一十二字を増し、一百四十三字を損(へ)らし、四百一十一字を改正す。

人名や書名などの基礎的知識に乏しいので、難儀する。素養のある人なら別に難しくもない文なんだろうが、、、(・_・;)

修正)「祕書丞の余靖は國子監に上言するに、印する所の」はおかしい。「上言」は「天子、天皇など、貴人に意見を申しあげること」なので、ここは「祕書丞の余靖は上言するに、國子監の印する所の『兩漢書』の文字の舛譌(せんか=あやまり)は後學を誤まるを恐る」とすべきか。よって修正。

李賢は『魏志』を見ている!その38

2020-02-04 (Tue)
「その37」で「祕書丞余靖上言」を釋読してみたが、動機は【國子監所印兩漢書文字舛譌恐誤後學】が印象的だったから。

淳化は北宋太宗の年号で、990-994。(940-944を990-994へ2020/4/23誤訂正)
乾興は北宋真宗の年号で、1022。
景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。

余靖の上言が景祐元年で、その時点で「兩漢書文字舛譌」ということは、先行する刊本である「淳化刊本」「乾興刊本」上でのことを言っていることになる。つまり、100年を出ない時点で「舛譌」が見いだされていることはどういうことなのか。

「淳化刊本」「乾興刊本」の間に「舛譌」が生じているとも受け取れるが、当時は未だ残存していた写本との対校から、そのように判断したということかも知れない。

これには、葉夢得の『石林燕語』の記載が参考になるかも知れない。

吉川忠夫訓注『後漢書』「解題」七 刊本の時代を迎えて 403ページ
しかしところで、写本の時代から刊本の時代に変ってまた新たな問題が出来した。葉夢得(しょうぼうとく)の右の文章はつぎのようなコンテキストの中に置かれているのである。「唐以前、凡そ書籍は皆な写本にして未だ模印の法有らず、人は蔵書を以て貴しと為す。人は多くは有せざるも、而るに蔵する者は讎対(しゅうたい=校勘)に精なれば、故に往往にして皆善本有り。学者は伝錄の艱(くる)しきを以て、故に其の誦読も亦た精詳なり。……国朝の淳化中、復(ま)た史記、前後漢を以て有司に付して模印せしめ、是れ自(よ)り書籍の刊鏤する者益々多く、士大夫は復(ま)た蔵書を以て意と為さず。学者は書を得ることに易ければ、其の誦読も亦た因って滅裂す。然れども板本は初めより校正せざれば、訛誤(かご)無くんばあらず。世は既に一に板本を以て正しと為し、而して蔵本も日ごとに亡(うしな)われ、其の訛謬(かびゅう)する者遂に正す可からず。甚だ惜しむ可きなり。
刊鏤:版木を彫る。
滅裂:軽率で粗略なこと。

吉川忠夫京都大学名誉教授が引いた『石林燕語』のこの一節は衝撃的である。「その36」で、『宋史』「邢昺伝」を引いて版本の普及がもたらす幸について書いたが、刊本の普及は『石林燕語』で葉夢得が嘆いているような事態も招いてしまったということになる。

これは現代人である我々にとっても、身につまされる話と言えよう。ネットから簡単に情報を入手できるようになった一方で、丹念に本を読むことが減り、断片化された知識の集積を以て〝知識〟だと錯覚してしまうご時世なのではないか。

李賢は『魏志』を見ている!その39

2020-02-04 (Tue)
吉川忠夫訓注『後漢書』「解題 七 刊本の時代を迎えて」の403ページから先に引用したが、405ページには、その続きの部分の訳出が出ている。
先に引いた『石林燕語』はさらにつぎのように書きつがれている。「余襄公靖(よじょうこうせい)の秘書丞と為るや、嘗つて前漢書の本の謬(あやま)り甚だしきを言う。詔して王原叔(おうげんしゅく)と同(とも)に秘閣の古本を取りて参校せしめ、遂に刊誤三十巻を為(つく)る。其の後、劉原父(りゅうげんふ)兄弟、両漢に皆な刊誤有り」。劉原父は劉敞(りゅうしょう)。弟の劉攽(りゅうひん)、字は貢父(こうふ)とともにその仕事を行ったのであって、とりわけ『東漢(書)刊誤』にはもっばら劉攽一人の名が冠せられる。『東漢書』とはもとより『後漢書』のこと。
「秘閣の古本」とは、恐らく写本のことだろう。

ここで、『石林燕語』の当該箇所全文を以下に掲げる。葉夢得(しょうぼうとく、ようぼうとく)『石林燕語』巻八
唐以前,凡書籍皆寫本,未有模印之法,人以藏書為貴。〔人〕不多有,而藏者精於讎對,故往往皆有善本。學者以傳錄之艱,故其誦讀亦精詳。五代時,馮道〔始〕奏請始官鏤《六經》板印行。國朝淳化中,復以《史記前後漢》付有司摹印,自是書籍刊鏤者益多,士大夫不復以藏書為意。學者易於得書,其誦讀亦因滅裂,然板本初不是正,不無訛誤。世既一以板本為正,而藏本日亡,其訛謬者遂不可正,甚可惜也。餘襄公靖為秘書丞,嘗言《前漢書》本謬甚,詔與王原叔同取秘閣古本參校,遂為《刊誤》三十卷。其後劉原父兄弟,《兩漢》皆有刊誤。餘在許昌得宋景文用監本手校《西漢》一部,末題用十三本校,中間有脫兩行者。惜乎,今亡之矣。
〔〕内は『宋本群經義疏的編校與刊印』所引『石林燕語』巻八により補。

吉川忠夫氏の2箇所の訳出の残された部分のみ、拙読を書く。
餘は許昌に在りて宋景文の用ひし監本手校『西漢』の一部を得,末題に十三本の校(=校正)を用ふも,中間に兩行の脫する者有り。惜しむべきか,今や之(これ)亡(うしな)はる。
『宋史』王洙伝【王洙字原叔】
『宋史』劉敞伝【劉敞字原父】【弟攽】
『宋史』宋庠弟祁伝【祁字子京,與兄庠同時舉進士,禮部奏祁第一,庠第三】【謚曰 景文】

宋代になってから書物の印行が極めて盛んになったことは周知のことだろうが、劉攽や『石林燕語』の語るところを見れば、数は多く流布したが質は低下した、、、という一語に尽きるのではなかろうか。

我々が日常みる「百衲本」の書影などは確かに美しいが、それと訛謬の有無・多寡は恐らく無関係なのではないか。

李賢は『魏志』を見ている!その40

2020-02-15 (Sat)
合間合間に【案今名邪摩惟音之訛也】について、ネット検索をやっているが、やはり「今の名は、邪摩惟という音の訛也」と読んでいる人が少なくない。それと、この「訛」だが、「馬」と「摩」、「臺」と「堆」は、どちらも同じ音だ!と思っている人も少なくないかのようである。

この件についての明白な見解を、私は今年の元旦にこのブログに案内しておいたが、その一部分を抜粋して掲出しておこうと思う。

永井俊哉ドットコム 日本語版「ヤマトは本来どこにあったのか
邪馬壹國派の塚田敬章は、『後漢書』倭伝に「案今名邪摩惟音之訛也」という注があることを指摘して、これに反論している。

隋書にしたがえば、「魏志には邪馬臺国と書いてあった」ことになります。言葉通り受け取る人もいますが、そう簡単にはいかない。後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤバタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。[5]

塚田は「賢注の入れられた頃の「臺」「堆」は同音です」と言い、『三国志』に書かれている「邪馬壹=邪摩惟」が本来の音で、それが今の「邪馬臺=邪靡堆」に訛ったというように解釈する。だから後世の歴史書が「邪馬臺」という訛りの音写を採用しているからと言って、『三国志』が編集されていた頃は「邪馬壹」であったことと矛盾しないというのである。

しかし、塚田の主張は正しくない。まず「臺」と「堆」は、当時同音ではなかった。元朝時代の近古音(中原音韻音系)ではともに[t’ai]であるが、『隋書』や『北史』が編集され、李賢が注を書いた七世紀は中古音の時代であり、「臺」は[dəi]と発音され、「堆」は[tuəi]と発音され、明確に区別されていた。また「邪摩惟」が「邪馬壹」の伝承というのも正しくない。「壹」の中古音は[.iět]で、「惟」の中古音は[yiui]で、両者の間に伝承の関係があるとは言えない。李賢が『三国志』の「邪馬壹」を意識しているのなら、「邪摩惟」とは書かずに、「邪馬壹」と書くはずだ。
永井俊哉氏が、「惟」や「壹」を成立時のオリジナルだと捉えている点については、誤写誤刻の実態を知悉していない故のことと考えられるが、塚田氏の「同音です」に反論し、「李賢が『三国志』の「邪馬壹」を意識しているのなら、「邪摩惟」とは書かずに、「邪馬壹」と書くはずだ」というのは、至極尤もなことで、「惟」に引きずられている人々は、このような単純な想定にも考えが及ばないかのごとくである。

「李賢の生きた時代と倭国 略年表」作成

2020-02-27 (Thu)
「李賢は『魏志』を見ている!」というタイトルで連載を書いてきたが、年次を追っていくのに一覧表が有用だと思い、作成してみた。

李賢の生きた時代と倭国 略年表

あちこち覗いてみてよく感じることだが、どうも時系列で物事を考えることが苦手な人が少なくないように思える。そういう場合、年表はかなりお役に立つ。