一字作訛 衆家奔妄


一字の過謬に道を迷う人々
 ~臺と壹、倭と俀、堆と惟、比と北~


古田武彦氏の唱える「邪馬壹国」説の臺と壹を始め、倭と俀、堆と惟、比と北など一文字の異同に立脚した古代史論が少なくないが、これらは皆、訛字と見るのが至当である。これらについて2020年4月、twitter上で思いつくままに連続投稿したツイートをひとまとめにして自身のHPに1頁として付け加えることにした。

急ぎ働きゆえのタイプミス・誤変換・勘違いなど散見されるが、敢えて修正せずそのままにしておく。また、スレッドを外れてツイートしたものもあるかも知れない。発見次第この頁に追加することにしたい。

尚、ページタイトルの「一字作訛 衆家奔妄」は〝一字訛(か)を作(な)すや 衆家妄(もう)に奔(はし)る〟との意を込めて綴っては見たものの、高等学校の漢文の先生の採点では100点満点中10点にもなるかどうか?というレベルだろうとの予感は正直ある。on 2020/4/22
古田武彦「九州王朝の史料批判」『邪馬一国の証明』234頁。
「ここに「邪馬臺、原形」説は、第一書にもまして、決定的に拒否されざるをえないのである。この明々白々の道理を回避して、(この道理への反論を行いえぬまま)なお、「邪馬臺(台)」の名を使いつづける人々は、(続く)
午後1:43 · 2020年4月11日

もはや率直なる学問探求者の名に値しない、そう言っても過言ではないのではあるまいか。」
「ここに」とは、魏代には天子のことを「臺」と称したとする古田氏の所見。しかし、『三国志』中には「臺」を以て天子のことを表した例は一つも無い。
午後1:47 · 2020年4月11日

「率直なる学問探求者の名に値しない」などという言葉は古田氏にこそ相応しい。12世紀刊本の文面を絶対視する古田氏にこそ、「率直なる学問探求者の名に値しない」という言葉は最もよく当てはまる。
午後1:58 · 2020年4月11日

古田氏の「邪馬壹国説」を批判した角林文雄氏に対して、古田氏は「わたしはただ〝『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない〟ことを実証的に確認しただけのことである」と再反論する。『邪馬一国の証明』所収「「謎の四世紀」の史料批判」140頁。
午後2:05 · 2020年4月11日

角林氏は反論する。「古田氏の「調査・検証」は『三国志』に限定されていないのであって高句麗好太王碑やら、敦煌出土資料やらあれこれ引用して「各時代の字形考察」ほ行われたのは当の古田氏である」。同氏『倭と韓』98頁。
#古田説 #角林文雄
午後2:09 · 2020年4月11日

古田氏の言う〝『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない〟というのは誠に奇異な発言である。そもそも錯誤なるものは特定の書物に置いて発生するものではあるまい。時代、地方、組織、個人、そういう書写者の個性によって錯誤は生じるのではあるまいか?
#古田説 #角林文雄
午後2:12 · 2020年4月11日

角林文雄氏の『倭と韓』など、古田説に関心を持つ人が目を通すとは考えにくい。しかし既に40年近い昔に、このような古田説批判が行われている。しかも極めて有効な批判と言える。古田氏にはこのようにその場限りの〝反抗〟を試みる傾向がある。それは例の偽書事件の際にも見られた。
#古田説
午後2:16 · 2020年4月11日

〝『三国志』という史料において両字間の錯誤と認識しうるものがない〟と断ずる古田氏だが、孫聖壹と孫聖臺の例は誤写の可能性が高いと言えよう。これについては白崎昭一郎氏、安本美典氏による反証があり、古田氏の主張は崩壊していると言っていい。盧弼の考証の通りである。
#古田説
午後2:30 · 2020年4月11日

『邪馬一国の証明』「わたしの学問研究の方法」95頁で「呉志残卷によって現版本は疑われるか」という一項を立てて論じているが、古田氏の所見は〝逆立ち〟しているとしか言えない。「別系統本」という言葉を当てはめて「現存自筆本の字句を自由にいじり」と親鸞の例を持ち出す。
#古田説
午後3:06 · 2020年4月11日

そりゃ、『三国志』に「自筆本」があれば何も問題はない。古田氏は喩えにならないものを持ち出す。しばしば見かける手法だ。12世紀刊本と呉志残卷と、いずれが古いか?論ずるまでもない。内外の研究者の論考も同じである。古田氏の本筋から離れた反論は続く。
午後3:09 · 2020年4月11日

「だから古写本・古刊本の異同をあつかい馴れた人なら、この呉志残卷と現存『三国志』程度の異同を見ても、決して驚きはしないであろう。まして〝『三国志』現存本にあやまりの多い証拠。従って「邪馬壹国」も〟といった類の性急な論法に走ることなど、とても出来はしない。」(続く) #古田説
午後3:12 · 2020年4月11日

「呉志残卷に「藉口」した論法は、両氏が厳正な古写本・古刊本の処理に馴れておられないための〝お手つき〟、失礼ながら、そういうほかはないのである」。では古田氏はどのような「処理」をなされたか?現行刊本文面をひたすら是とする教条主義路線を邁進するのみである。
#古田説
午後3:15 · 2020年4月11日

97頁の終わりに京大人文科学研究所の藤枝晃氏について「強烈に「呉志残卷、偽作説」を唱えておられた。中国古筆・古文書の研究家の言として見のがしえぬ見解であろう」とも書く。これまでに6点ほど発見されている『三国志』残卷についてそのように藤枝氏は断じているのだろうか?
#古田説
午後3:19 · 2020年4月11日

古田氏が自説の土台と捉える百衲本(南宋紹煕本影印)について張元済がそれを影印に採用したことを以て裏付けとしているが、その張元済は呉志残卷について何と言っているか?『校史隨筆』「三國志」「寫本には少し誤りがあるものの、大概はみな、宋本よりも勝っている」。
#古田説
午後3:25 · 2020年4月11日

「両氏」とは白崎昭一郎氏と安本美典氏。この両氏に対して「古写本・古刊本の処理に馴れておられないための〝お手つき〟」などと言ってのけるのは、どういう心理なのか?後に短里論争で古田氏は白崎氏の追求に対して支離滅裂の反論を行ったことは古田氏の行論がいかなるものかを明示しています。
午後3:38 · 2020年4月11日

古田氏は上掲書101ページで「「邪馬台国」論者は、次々と仮説を重層させながら、」という表現を用いる。これは古田説について最もよく当てはまる表現であろう。古田氏の本がなにゆえあれほどまで分厚くなっていくのか?根本の過ちを矮小化するために枝葉のデコレーションを重ねた故ではないのか?
午後3:43 · 2020年4月11日

足元の大地、地球は不動である!という感覚に基づけば、全ての天体は地球の周りを回っているし、大陸が移動することなど思い浮かばない。しかし事実は相違する。〝足元の大地、地球は不動である!〟というのは感覚にすぎない。古田氏の12世紀刊本を陳壽原本とイクオールであるとする立場はこれに似る。
午後3:48 · 2020年4月11日

古田氏が「陳寿を信じ通した」と言明した出発点から誤りである。それは基本に置くべきことではなく、論証されねばならないことだからだ。しかし、12世紀刊本上の表記が陳寿原本とイクオールなどということは誰も論証していないし不可能だろう。よって様々な史料に基づいて追い求めるしか無い。
午後3:51 · 2020年4月11日

同書92頁では次のように述べる。「一九八〇年代という現代の時点で、なお原書と版本とを混同させ、世人を惑わす論者があるとすれば、それは研究史の流れの〝逆行〟者に他ならない」。古田氏自身のことを言っているとしか思えない。古田氏の文を読むと陳寿と南宋刊本との間の9世紀が〝無〟に思える。
午後3:56 · 2020年4月11日

『翰苑』所引『廣志』に見える「邪馬嘉国」を古田氏は山鹿だと断定。そして「百女国」を八女だとも。誤写説を拒否する古田氏ならではの解釈。『廣志』がなにゆえ伊都国の南にある邪馬嘉国を記さねばならないのか?女王之都を書かずに。しかも、次斯馬国と『魏志』に共通する国名が3個連記してある。
午後6:40 · 2020年4月11日

『廣志』の【次斯馬国】とは、何の「次」なんだろうか?『魏志』では女王之所都である邪馬壹国の、或いは女王国の「次」と理解できる。同名の国が3個あって、それが何の「次」であるか?『廣志』は記載していないことになる。ありえいない解釈である。
#古田説
午後6:43 · 2020年4月11日

それほどまでに誤写を否定するなら古田氏は「五東里」をどう解釈するのか?『翰苑』所引『魏略』には【東南五東里到伊都国】とある。通常の認識ならば当然「五百里」の誤であるとする。しかし古田氏は邪馬嘉国も百女国も誤ではないと。ならば「五東里」とは何ぞや?誤写説を排してどう説明するのか?
午後6:48 · 2020年4月11日

邪馬嘉国も百女国も誤写ではない!として角林氏に反論したつもりだったろうが、こういう主張自体が全くの没論理であり、他者には求める〝必要十分な論証〟とはかけ離れている行論である。果たして古田氏は12世紀刊本が陳寿原本と同一であることを、如何様にして論証したのか?やってはいない。
午後6:53 · 2020年4月11日

仮に「五東里」の「東」が「百」の誤でしか有り得ないことを古田氏が認めたとしよう。古田氏はそれに対して〝必要十分な論証〟を行うことができたのか?『魏略』逸文全てから「東」と「百」の用例を挙げ、異同の有無を検証せねばならない。やっていないし出来ない。
午後6:57 · 2020年4月11日

「五東里」を「五百里」の誤であると判断するのは実際に発生してる多くの異同例に鑑みて健康的な判断である。誤写を拒否するゆえに邪馬嘉国も百女国も誤写ではない!と強弁するのは角林氏の指摘に対して反論の体をなそうとする〝為にする〟議論でしか無い。古田氏の反論手法のひとつである。
午後7:01 · 2020年4月11日

前掲書132頁で古田氏は次のように述べる。「後代の研究者が現文面(『三国志』の現版本)を〝あやまり〟だ、として改定しうるためには、それ(現文面)が誤りであり、これ(改定文面)が正しい、という必要にして十分な論証が必要である」。何故?何故「必要」なのか?
#古田説
午後7:06 · 2020年4月11日

古田氏はそれを〝必要にして十分な論証〟してみせたのか?古田氏が「必要」と思ったのは、単に自分の〝信念〟でしかない。「改定文面」という文言を使うこと自体が古田氏の思考の限界を露呈している。12世紀の刊本が陳寿原本と同一内容であることを古田氏は〝必要にして十分な論証〟をしたのか?
午後7:13 · 2020年4月11日

古田氏は前掲書132ページで次のようにも述べる。「しかし、いかなる「定説」も、〝史料の上に立脚した論理的厳密正〟をもっていなければ、無意味だ。それなしには、何の権威もありえぬ。―わたしにはそのように見えているのである」。いかにも高尚な宣言に聞こえるが、実際に古田氏がやっているのは、
午後10:53 · 2020年4月11日

邪馬嘉国を山鹿だとし、百女国を八女だと強弁する異様な論法だ。ここにどんな「論理的厳密正」があるというのか?現文面墨守に基づく現存地名の牽強付会に過ぎない。人には求める厳格さを自身には課せられない。しばしば古田氏について評される言葉である。
#古田説
午後10:56 · 2020年4月11日

210ページでは鏡銘の景初・景和問題に言及して、次のようにも言う。「このように〝主観主義〟的な手法とは、袂をわかつ。わたしにはそれが学問にとって肝要の一事、と思われる」。12世紀刊本の現文面こそ、陳寿原本に最も近いとする思考こそ〝主観主義〟そのものである。
#古田説
午後11:05 · 2020年4月11日

古田氏の〝全版本の事実〟は、スローガンにすぎない。宋代に至るまでに多出する「臺」字と一切登場しない邪馬壹という厳然たる事実から自他の眼をそむけさせるためのスローガンである。古田氏は後漢書主義による改変だと主張する。しかし『隋書』は明記している。【則魏志所謂邪馬臺者也】と。
午後11:09 · 2020年4月11日

後漢書主義では説明できないのが臺與である。先月も書いたが、『後漢書』には臺與は出てこない。南宋刊本刊行までの間の9世紀の間、たった一つも「邪馬壹」とするものは無い。厳然たる事実である。避けようのないこの事実から目をそらすために、古田氏は〝全版本の事実〟というスローガンを繰り返す。
午後11:15 · 2020年4月11日

古田氏が特効薬のように持ち出す「後漢書主義」「神聖至高文字」「全版本の事実」などは既に薬効のないことが明らかにされている。これらのスローガンをいくら繰り返しても、南宋代までの諸書に邪馬壹が一切登場せず、「臺」ばかりであることは如何ともし難い。
#古田説
午後11:19 · 2020年4月11日

古田氏は自著のタイトルに「邪馬一」を使うケースが多くなっていく。それは『邪馬一国の証明』冒頭に「〝邪馬一国のすすめ〟―邪馬一国の証明―」という一文を掲載して明言している。そこには何と書いてあるか?「『三国志』の原本には、どこにも「臺」や「台」を使ったものはない」。 #古田説
午後11:23 · 2020年4月11日

この書き様は古田説を生かじりした人への〝思考停止メッセージ〟である。事実、この受け売りをブログに書く人も見かける。これは版本とは何か?などという時系列を織り込んだ思考回路を停止させる魔力を持っている。陳寿からの9世紀という長いときの隔たりを隠蔽する効果とも言えよう。 #古田説
午後11:26 · 2020年4月11日

前掲分の続きを書く。「みんな「邪馬壹国」または「邪馬一国」だ。それを封建時代の学者が「ヤマト」と読むために、勝手に直したものだった。それが分かった今、あなたが真実を望むなら、この簡単明瞭な「邪馬一国」を、誰の前でも恐れずに使って欲しい」。完全な刷り込みである。
#古田説
午後11:30 · 2020年4月11日

明治43年、内藤湖南は「卑弥呼考」の中で「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言うまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり」と明断していることが誤写誤刻説の基本的考え方である。既に古田氏の「邪馬壹国説」については同じ立場からの反論が寄せられている。しかし氏は意に介することは無い。
午後11:39 · 2020年4月11日

最早、古田氏の「邪馬壹国こそ是」という主張には、なんらの〝必要にして十分な論証〟など無いことは明白である。そんなものは必要ないのだ!という立場である。なぜなら、自分は現文面こそ正しいという立場に立つから!全くの没論理であり、史料批判の欠落と言えよう。
#古田説
午後11:42 · 2020年4月11日

「『三国志』の原本」という言葉がマジックフレーズ。きちんと古田氏の本をよんでいる人には、古田氏がここで言う「原本」とは何か?分かる。しかし、きちんと読まない人、読みかじり・聞きかじりの人は〝へえ!そーなんだ!〟と感じ入ってしまうのかも知れない。
#古田説
午前11:23 · 2020年4月12日

事実、ツイートを検索していると、父親から〝邪馬壹が正しいのだ〟と教わったという御仁もいる。この父親氏が古田説の反対説を読み、共通して用いる史料にも自身であたった上で、そのように考えたのならば大したものだ。しかし、想像するに恐らくそうではあるまい。
#古田説
午前11:34 · 2020年4月12日

『邪馬一国の証明』7頁「はじめに」「一個のわたしの頭脳が狂っているのか、それとも従来の〝万人の認識〟が狂っていたのか。新しい局面を示す発見に接するたびに、このような問いを深夜ひそかに発し、慄然としたこと、それは稀ではない」。古田氏は自身が正しいと主張する。ならば〝万人の認識〟が?
午前11:42 · 2020年4月12日

古田氏の現文面拘泥という手法が如何に無力であるか、如実にわかる例を挙げよう。『隋書』の「多利思北孤」である。一番上が百衲本(元大德刊本)であり、以下は諸書に引かれた『隋書』。『隋書』以外は全て「多利思比孤」である。氏は『北史』の「比」については「意改」であるとする。第2書p282。
午前11:56 · 2020年4月12日

画像は自作の校合表である。何故他の多くの転籍が「比」とするのか?古田氏の立場ではそれが説明できまい。「比」こそが『隋書』のオリジナルであり、「北」は大德刊本上の誤である。明々白々の校勘事例である。
#古田説 #多利思比孤 #多利思北孤
午後0:00 · 2020年4月12日

古田氏は『北史』の「比」を「意改」だと判断した。では他の多くに見える「比」も皆意改されたのか?その理由は何か?「臺」の場合は「後漢書主義」を用いた。このケースでは何を用いるのか?議論するまでもない校勘事例といえよう。
#古田説
午後2:03 · 2020年4月12日

特に北宋1084年成立の『資治通鑑』は好個の証人と言える。『資治通鑑』は「北」である。しかも同書は北宋代であるから間を置かずに刊行されたと考えられる。今日知られるその北宋刊本は同書成立当初の姿をほぼそのまま伝えていると見てよい。そこには「比」とある。
#古田説
午後2:07 · 2020年4月12日

まちごた(^^;)『資治通鑑』は「北」である、、、ではなく「比」。謹んで訂正させていただきますm(_ _)m
午後2:10 · 2020年4月12日

古田氏は第2書282頁で百衲本『隋書』中の「比」と「北」を拾い出して見る。「多利思北孤」だという。それはそうだ。しかし古田氏の検証力はこれが限界なのである。先程掲示したように、他の典籍で全て「比」である。それでも尚、元大德刊本の「北」が正しい!と言うのか?
#古田説 午後2:17 · 2020年4月12日

話を角林氏に戻す。『倭と韓』96頁で氏は古田氏の反論を引く。古田氏は「〝いかなる文献においても両字の錯誤はおこりえない〟などと、言いはしない」と言う。ただ『三国志』中の例を挙げただけであると。他の文献で起きる誤写誤刻は『三国志』でも起こりうる。当然のことだ。
#古田説
午後2:31 · 2020年4月12日

古田氏の話を聞いていると、まるで『三国志』には〝抗菌加工〟ならぬ〝抗誤写加工〟でも施されているかのように聞こえる。他で生じる誤写誤刻は『三国志』でも生じる。異同のある両字いずれが是かは校勘の対象となることは勿論否めない。
#古田説
午後2:34 · 2020年4月12日

例えば孫聖壹か孫聖臺か、という問題は〝疑い〟というレベルと言えよう。が、先月も書いた『魏壹訪議』のケースは間違いなく臺→壹の誤写である。古田氏も取り上げているように『魏臺訪議』という書はあっても『魏壹訪議』という書は存在しない。誤写の方向が明確な例である。
#古田説
午後2:39 · 2020年4月12日

古田氏は言う。「〝いかなる文献においても両字の錯誤はおこりえない〟などと、言いはしない」と。南宋刊本『史記』に発生した臺→壹の誤写は、別の文献である『三国志』で発生しても、何ら異とするには当たらない。古田氏の言から許容される。
#古田説
午後2:44 · 2020年4月12日

古田氏が角林氏や藪田氏の指摘に対して激しく反論する理由は明らかである。出発点である現文面拘泥主義が崩れてしまうことを防御するためである。そのためには誤写誤刻など安易に認めてはならない。故に邪馬嘉国=山鹿やら百女国=八女などという珍解釈に奔らざるを得なかった。
#古田説
午後2:49 · 2020年4月12日

そもそも文献に異同があることは周知の事実である。古田氏の信拠する張元済にしてから、その『百衲本三国志校勘記』で、宋本(百衲本)と清武英殿版とのたった2つの刊本の間に4,605個の異同があることを記している。両者の隔たりは約6世紀。大量に刊行され流布したはずの刊本ですら、これだけの異同が。
午後3:00 · 2020年4月12日

一方、陳寿と南宋刊本の隔たりは9世紀である。しかもほそぼそと手から手へと伝写されてきた書物に異同の生じないはずはない。書物は紙である。その滅びるのも早い。大量流布したはずの宋代刊本ですら、前世紀前半には渉猟に苦心したことが張元済の伝えるところでもある。
#古田説
午後3:08 · 2020年4月12日

『三国志校勘記』「整理縁起」には以下の様にある。【可見諸本不誤者約佔五分之一強、五分之四則宋本勝於諸本】。出稿した前四史についてのカウントである。8割は宋本が勝っているが2割は宋本にも誤りがある。〝誤りがない〟などという主張など始めから〝誤り〟であることは間違いない。
#古田説
午後3:24 · 2020年4月12日

一休みして画像を一つ。『南史』「宋本紀文帝元嘉二十八年」【七月甲辰進安東将軍倭王綏済】 。この「綏済」とは「倭済」であることに誰しも異論はなかろう。つまり「倭」が「綏」と誤られている。旁の「委」「妥」の異同については先月も書いたが、明らかに扁まで込みの誤である。
#古田説
午後3:43 · 2020年4月12日

『隋書』『北史』には倭のことを「俀」で表している。しかし帝紀では倭を用いている。古田氏はこの両者を峻別して、俀=九州王朝、倭=畿内であると主張している。この案を異として薮田氏が指摘している。薮田嘉一郎「「邪馬臺国」と「邪馬壹国」」『歴史と人物 s50 9月号』49頁。
#古田説 #俀 #倭
午後7:16 · 2020年4月12日

このように「委」と「妥」は混用されていたので、今の場合両字を弁別することは野暮な話である。「俀伝」は「倭伝」のことであったのである。『北史』巻九十四の「俀国」を同人が撰した『南史』巻七十九には「倭国」に作る。〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
午後7:17 · 2020年4月12日

そして「倭国、その先の出づるところ及び在るところ、事、北史に詳なり」と書いているから、「俀」と「倭」が同語であることは疑いない。〈引用終わり〉
古田氏はこれに対して反論する。『邪馬一国の証明』「九州王朝の史料批判」241頁
#古田説 #俀 #倭
午後7:20 · 2020年4月12日

ところが、〝『宋書』―『南斉書』―『梁書』相当記事〟で終わっている南朝側では、「俀国」などという国号には〝およそお目にかかったことはない〟のだ。すべて「倭国」だった。だから『南史』では、一貫して「倭国の歴史」の一齣して処理したのである。〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
午後7:22 · 2020年4月12日

すなわち、李延寿が『北史』と『南史』で、それぞれ「俀」と「倭」とに書き分けたのは、決して〝漫然たる混用〟の類ではない。逆に〝厳密な峻別〟の表記なのだ。この点、『隋書』における「俀国」と「倭国」という表記例と、ここでも軌を一にしていたのである。考えても見よう。〈続く〉
#古田説
午後7:24 · 2020年4月12日

この『北史』『南史』とも、元大徳本だ。つまり同一刊本である。それなのに(かりにいくら「混用字」だったにせよ)、「俀」と「倭」に両著述で版刻し分ける、というのは、何とも〝気まぐれすぎる〟ことではあるまいか。〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
午後7:25 · 2020年4月12日

この不自然さ、という事実に薮田氏は深く目をそそぐことなく、いたずらにわたしの説への論難に奔られたようである。〈引用終わり〉
薮田氏は『南史』『北史』の俀・倭を持ち出して指摘しているのだが、それに続いて古田氏の九州王朝説での俀・倭の区別について述べている。
#古田説 #俀 #倭
午後7:28 · 2020年4月12日

古田氏によれば俀は九州王朝、倭は畿内のはずだ。ならば『南史』での「倭」はどう理解するのか?「南朝側では、「俀国」などという国号には〝およそお目にかかったことはない〟」などというのも意味不明である。『南史』『北史』ともに李延寿り撰であるが、彼は『隋書』の編纂にも関わっていた。
午後7:32 · 2020年4月12日

その『隋書』に於て、俀は九州王朝、倭は畿内だとするのが古田氏の理解のはずだ。それを薮田氏は指摘している。李延寿が『南史』に於て、「倭」を用いているということは、『南史』に書かれた国々は畿内を指す!ということになるのではないか?勿論『南史』には倭の五王の記事がある。
#古田説
午後7:35 · 2020年4月12日

倭の五王についての記述のある『南史』の倭とは九州王朝なのか、畿内なのか?「『隋書』における「俀国」と「倭国」という表記例と、ここでも軌を一にしていたのである」などと言うが、どこが「軌を一にして」いるのか?古田氏は自身が『失われた九州王朝』で述べたことを忘れたのか?
#古田説
午後7:38 · 2020年4月12日

「軌を一にして」いるというのなら、『南史』に書かれた倭の五王は畿内の王である!ということになる。完全なる自家撞着である。古田氏は藪田氏のこの部分については反論していない。先に引用した文に続けて、「遂に絶つ」への反論へ移っている。でも読者には古田氏がスルーしたことは分からない。
午後7:43 · 2020年4月12日

古田氏の「俀と倭は別の国」という主張は、この『南史』『北史』の例ではっきりしている。【倭國,其先所出及所在,事詳北史】と明記してある。両国が別物であるなどという理解は不能である。因みにこれに続く文は【其官有伊支馬,次曰彌馬獲支,次曰奴往鞮】であり、明らかに『魏志』を引く。
#古田説
午後7:49 · 2020年4月12日

『北史』には『魏志』の行程記事が引かれている。『魏志』倭人伝が『南史』と『北史』でバラして引用されているのだ。古田氏の抗弁は自説が崩れていないように見せかける〝為にする〟抗弁でしかない。今から45年ほど前の歴史雑誌にはかかる記事が掲載されている。俀・倭別国説などとうに崩壊している。
午後7:53 · 2020年4月12日

「いたずらにわたしの説への論難に奔られたようである。」とは、いかにも藪田氏の批判が不当であるかのような物言いだが、こうやって見ると古田氏が藪田氏の批判を一部スルーしていることが分かる。そしてそれは、古田古代史の大きな柱のひとつである「九州王朝説」を揺るがす重要な指摘である。
午後10:11 · 2020年4月12日

『邪馬一国の証明』の証明にはまだ不思議な発言がある。252頁、()内の記述。
⇒なお、直木氏は、『三国志』では「刊本時点」を、その他では「著作時点」をあげておられる。しかし厳格な史料批判の立場から検証し、比較しようとするならば、同じ〝刊本同士〟でなければ、論証の論理上、不公平である。
午後10:28 · 2020年4月12日

「刊本時点」では、『後漢書』〈宋紹興本に北京図書館蔵本配補〉『梁書』〈宋の蜀大字本に涵芬楼蔵元明逓修本配補〉『隋書』〈元大徳刻本に北京図書館・江蘇省立国学図書館蔵本配補〉『北史・南史』〈元大徳本〉〔いずれも百衲本二十四史所収〕であるから、大異ない。〈続く〉
#古田説
午後10:28 · 2020年4月12日

むしろ、南宋本二本〔紹煕本と紹興本〕の配補された『三国志』の方が優秀とさえ言えよう。〈引用終わり〉
意味がよく分からない。直木氏の指摘した『後漢書』『梁書』『隋書』『北史・南史』に「臺」とあることは誰しも否定しない。古田氏でさえ否定しない。共通認識である。
#古田説
午後10:32 · 2020年4月12日

「同じ〝刊本同士〟でなければ、論証の論理上、不公平である」とはどういう意味なのか?『三国志』の方は南宋本二本を底本とするから優秀なのだ!だから「壹」が正しいのだ!とでも言うのか?完全に思考停止である。
#古田説
午後10:35 · 2020年4月12日

諸氏が古田氏の「邪馬壹国説」を批判するのは、当初は「臺」だったのではないか?ということである。それが後に「壹」と誤られた。そういう指摘である。こういう考慮に対して、何故「同じ〝刊本同士〟でなければ、論証の論理上、不公平である」などという言葉が出てくるのか?意味がわからない。
午後10:37 · 2020年4月12日

この部分の古田氏の語調はやや穏やかである。それは直木氏が一部古田氏の所論を評価している事によるものだろう。同228頁「公平にみて古田説に歩のあることは認めなければなるまい」との発言を承けてのことだろう。『まぼろしの国家の原像を求めて 邪馬台国 伝統と現代 保存版』1975/9/1刊p43。
午後10:44 · 2020年4月12日

直木氏は同文の中で続けて「このような重要なところを見落としていては、日本古代史の「実証的研究」も、まだまだ弱いといわざるをえない」。確かに仰るとおりである。古田氏は確かに実証的作業を行った。しかしそれはあくまでも〝外形的〟なものにすぎない。
#古田説
午後10:49 · 2020年4月12日

古田氏の原文拘泥主義に基づく「壹こそ是」という仮説を裏付けるための「実証的」作業である。俗に〝理屈と膏薬はどこへでも付く〟と言う。古田氏の「実証的」とはこの類のものである。
#古田説
午後10:52 · 2020年4月12日

『邪馬一国の証明』234頁からは藪田氏の「俀と倭は同じ」という指摘に対して実際に『隋書』から両字を検出してその異同を調べている。そしてそれが見出して反論とする。しかし古田氏は「臺と壹」の際にはこう言った。「〝いかなる文献においても両字の錯誤はおこりえない〟などと、言いはしない」。 午後10:59 · 2020年4月12日
午後10:52 · 2020年4月12日

つまり、他の文献で発生した異同は『隋書』でも起こりうる。たとえ『隋書』中にその異同例が無くとも。ただ、『隋書』『北史』の「俀」は誤写誤刻ではない。藪田氏も言うように混用・通用した字である。それは『太平御覧』に於いては所引『後漢書』に俀を用い、『北史』は倭であることからも分かる。
午後11:03 · 2020年4月12日

直木氏の名前を出したついでにエピソードを一つ。中央公論社『日本の歴史』の第2巻「古代国家の成立」は直木氏の担当だが、文庫版p98で「秦王国は周防の音をうつしたのではないかともいうが、この文のすぐあとに、「又十余国を経て海岸に達す」とあり、海から隔たった地のようである。」と書く。
午後11:07 · 2020年4月12日

直木氏は「又十余国を経て」を明らかに陸路と理解している。陸上交通の発達した現代人がそう錯覚するのは無理もないのかも知れないが。但し直木氏は裴世清の訪れた地を畿内としているのは、多利思比孤を聖徳太子と推定していることから明らかである(p64)。直木氏の多大な功績には影響はない。
午後11:12 · 2020年4月12日

昨日の投稿数は45本。今読み返しているところだが、タイプミスや変換ミスも少なくない。いちいち訂正するには手間なので忖度していただければ幸いである。ただ、【其官有伊支馬,次曰彌馬獲支,次曰奴往鞮】を『魏志』から引くと書いたが、これは『梁書』から。謹んで訂正をばm(_ _)m
午前10:03 · 2020年4月13日

【其官有伊支馬,次曰彌馬獲支,次曰奴往鞮】は一見『魏志』の官名と共通するように見えるが、彌馬升が欠けている。勿論『梁書』は『魏志』を参照しており、行程記事も含めて類似する記述が多い。『北史』には邪馬臺国の官名が記されていないので、『南史』の官名でこれに代えたのでは?
午前10:20 · 2020年4月13日

俀と倭について書いたが、古田氏がもう一つの「俀と倭」について言及している件を。『古代は沈黙せず』245頁から。『市民の古代 8号』所収、千歳竜彦氏「『日本書紀』と『隋書』」中の『史記』魯宣公俀について。俀と倭が書き分けられているが、古田氏は両者が〝同一の実体〟であることは認めている。
午後3:32 · 2020年4月13日

では、何故「俀と倭」の〝書き分け〟があるのか?古田氏のだした回答が、「俀」は元服前の幼名としてふさわしい。「倭」は「即位」しえた後の「倭(みにくい)」字。そんなことで書き分けするのか?と思う。検索してみると古田氏学会会員の方のブログに興味深い記述を見つけた。
午後3:43 · 2020年4月13日

「『隋書』の「俀」とは?-『史記』・『海東諸国紀』との関連-」
http://wanotoiti.livedoor.blog/archives/2019-07-04.html
「十二諸候年表第二」の「俀」を示し、「ただし、同版本の表(掲載した表)即位後も「俀」である。また、他の版本では即位後も「俀」である。」と古田氏の所見と相違する意見である。
午後3:45 · 2020年4月13日

この方は続けて、「おそらく、百衲本は春秋左氏伝に宣公の名を「倭」とあるから、即位後を「倭」と訂正し、表は訂正せずにそのままとしたと思われる。」と書き、本来「表」では即位後も「俀」となっていたのだ、と古田氏の見解と矛盾しない意見にしている。果たしてそこまで〝書き分け〟に拘るべき?
午後3:48 · 2020年4月13日

問題はその後である。古田氏は『隋書』『北史』での俀と倭の書き分けについて言及し、注10で「要するに、「俀国」と「倭国」とは大義名分上の〝表記分け〟である。したがって(B)(南史)の「倭国」と(C)の「倭国」(隋書煬帝紀)とは、必ずしも「同一実体」ではないようである。
#古田説
午後3:52 · 2020年4月13日

意味不明である。『南史』『北史』の編者である姚思廉は『隋書』の編纂にも関わっている。なのに「必ずしも「同一実体」ではないようである」とはどういうことなのか?『古代は沈黙せず』のこの部分は理解し難い。俀と倭とは九州王朝と畿内の違いなのではないのか?昨夜疑問を呈した点そのままである。
午後3:57 · 2020年4月13日

例のブログ氏が百衲本『史記』十二諸侯年表の書影を掲げておられるが、手元に仁寿本二十六史『史記集解』があるので、当該箇所をスキャンしてみた。「俀」である。
#古田説 #俀 #倭
午後4:25 · 2020年4月13日

仁寿本『史記』は北宋景祐監本配南宋重刊北宋監本であり、景祐は北宋仁宗の1034-1038。百衲本は宋慶元黄善夫刊本。慶元は南宋寧宗の1195-1200であるから、元々の古さに於いて差はなさそう。例のブログ氏が「百衲本云云」されるが、それを刊刻時点とでも読み替えれば意は通じる。
午後4:28 · 2020年4月13日

何故、これほどまでに俀と倭との異同について意味を持たせようとするのか?甚だ疑問である。『太平御覧』所引『後漢書』が「俀」とし、同所引『北史』が「倭」としていること、或いは『資治通鑑』注引『隋書』も邪靡堆はそのまま襲いつつ「倭」とするのは俀が一部の通用字であったと見て大過ない。
午後4:32 · 2020年4月13日

古田氏の『盗まれた神話 記・紀の秘密』3頁「“原文の文字を一字一句みだりに改変せず、『三国志』全体の表記のルールに従って倭人伝を読む”-このルールに従って、従来の「邪馬台国」への改変を非とし、わたしは博多湾岸なる卑弥呼の国「邪馬壹国」へと導かれたのである」。
#古田説
午後4:57 · 2020年4月13日

「みだりに改変」とはどういう意味なのか?『広辞苑』【みだりに】むやみに。やたらに。わけもなく。思慮もなく。順序をみだして。無作法に。「壹は臺の誤」と考える人は「みだりに改変」しているのか?否!ちゃんと理由がある。古田氏こそ「みだりに」現文面に拘泥しているではないか!
午後5:05 · 2020年4月13日

俀と倭を別のものだとしたり、多利思「北」孤を是としたり、邪馬嘉国を山鹿、百女国を八女などというのは、「むやみに。やたらに。わけもなく。思慮もなく」現文面に拘泥していると断言して良い。大学で史料を扱う際の〝掟〟としてそのように教わったのか?だとすれば教えた側の罪は相当に深い。
午後5:08 · 2020年4月13日

在野の研究者のブログや書籍を見ても、〝原文通りに読む〟という姿勢を明らかにしているものも少なくない。裏を返せば、文字の誤りを想定することが、まるで学問的に〝不正なこと〟であるかのような思いに囚われているのだろう。
#古田説
午後5:12 · 2020年4月13日

ストイックと言えばストイックなのかも知れないが、実際に大量の誤写誤刻は存在しており、故に古来校勘は文献を扱う際の必要不可欠な作業だったはずだ。校勘をどこかに置き忘れて、思いつきの解釈の上に立つ邪馬台国論は絶えることなく再生産され続けているように感じられる。
#古田説
午後5:13 · 2020年4月13日

古田氏もかつて取り上げていた。『魏志』倭人伝の裴注に【臣松之以為地應為綈,漢文帝著皂衣謂之弋綈是也。此字不體,非魏朝之失,則傳寫者誤也】とある。既に1600年前に裴松之は伝写者の誤を指摘している。誤はある。どこにでも。Here,There And Everywhere!
#古田説
午後6:17 · 2020年4月13日

『太平御覧』所引『後漢書』の「俀」画像をUpします。画像左端に李賢注の「邪魔惟」が見えますね。もちろんこの「惟」は「堆」の誤です。詳しくは「李賢は『魏志』を見ている!」を。
http://hyenanopapa.obunko.com/rikenchuu.html
#古田説 #俀
午後6:47 · 2020年4月13日

今度は『太平御覧』所引『北史』の「倭」の画像です。
午後6:48 · 2020年4月13日

『太平御覧』「服章部四 帽」所引『梁書』に「俀」が見えるので画像をUpする。梁はもちろん南朝であり、当然『南史』に『梁書』は濃く用いられており「倭」と記す。『太平御覧』所引『梁書』が何故「俀」とするのか?古田氏流の解釈では説明が不可能ではないか。
#古田説
午後7:21 · 2020年4月13日

古田氏は『太平御覧』所引『後漢書』が「俀」とすることについて、『邪馬臺国の常識』「邪馬壹国の史料批判」159頁で次のように書いています。「では、『後漢書』に「俀」と書いた版本があったのでしょうか。そうではありません。」〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
午前10:06 · 2020年4月14日

「これは要するに『太平御覧』の著者の判断で、『後漢書』に対する判定として先のような私の場合とは違った判定をしたわけです。つまり一、二世紀に「俀」と呼ばれたと判断したのです。そしてそれ以後は「倭」になったのだと理解したわけですね。」〈続く〉
#古田説 #俀 #倭
午前10:07 · 2020年4月14日

「だからその理解で〝編成替え〟したわけで、「後漢書曰」という場合の、「倭」に当たるところはみな「俀」と〝書き直して〟いるのです」〈引用終わり〉。まず「版本」というのは間違い。『太平御覧』成立時には未だ版本の刊行は始まっていない。
#古田説 #俀 #倭
午前10:09 · 2020年4月14日

「つまり一、二世紀に「俀」と呼ばれたと判断したのです」の意味不明。李昉がどうしてそんな「判断」を下したのか?説明など出来まい。李昉はどんな材料を以てして「判断」したのか?空虚な思いつきとしか言い様がない。同文末尾に「講演」とあるので聴衆を前にしての発言。理解できた人はあるまい。
午前10:15 · 2020年4月14日

例えば『隋書』と『梁書』。どちらも同じ年(636)の成立。前者は「俀」で、後者は「倭」。後者には倭の五王の記事があるので当然古田氏の立場では九州王朝。なのに「倭」。同年成立の両書が「俀」と「倭」と別の表記をしていることに古田氏は説明をしたことがあったのだろうか?
#古田説 #俀 #倭
午前10:28 · 2020年4月14

『隋書』では列伝では「俀」、帝紀では「倭」とあり、古田氏によれば前者が九州王朝で後者が畿内。しかし、『梁書』武帝紀に出てくるのは「倭」。もちろん倭王武の進号記事であるから九州王朝に違いない。古田氏によれば現行文面は成立当時のままであるから、両書の書き分けに説明を要するはずだが。
午前10:34 · 2020年4月14日

『隋書』帝紀の場合は大業4年と6年に倭、倭国と出て、人名は出ない。しかし『梁書』武帝紀の場合は確かに「倭王武」と出ている。古田氏によれば当然「九州王朝」に他ならないはずだ。なのに「倭」である。くどいようだが同年成立の『隋書』『梁書』の俀と倭について、別物とする理解など不可能である。
午前10:43 · 2020年4月14日

下の画像の【進号征東将軍】は「征東大将軍」の誤かと。このままでは進号にならないんじゃ?
午前10:49 · 2020年4月14日

古田氏は前掲書168頁で「壹=倭」と「臺=大倭」という方程式を立てています。続いて170頁では「俀は大倭」とも。つまり、「臺=大倭=俀」ということに。このアイデアを裏付ける例として一つだけ挙げている。それは『太平御覧』所引『後漢書』の「俀王」の箇所。現行文面は「大倭王」。この箇所は確かに。
午前10:56 · 2020年4月14日

氏は同書160頁で「「後漢書曰」という場合の「倭」に当たるところはみな「俀」と〝書き直して〟いるのです」と書く。既に矛盾。理由は明白。本来「大倭」とあったところを「俀」としたと言いつつ、「倭」を「俀」と書き直す?じゃ「大倭=倭」。つまりは「壹=倭=大倭=俀」で、書き分けなど無!
午前11:04 · 2020年4月14日

早い話が、俀と倭とは別物だ!なんて発想が最早歴史的考察の範疇外なのでは?単なる言葉遊びとしても〝梅の下〟。
午前11:46 · 2020年4月14日

「漢書」にある”中外[示是]福”という、[示是]という字は、”示篇”に従うべきなのに、江南地方の書本では、誤って「手偏」に従っているものが多い。「後漢書」の酷史・樊曄伝で、”寧見乳虎穴”とあるのが、江南地方の書本では、みな誤って”六”に作っている(「漢籍版本入門」陳国慶 研文出版)。
午前11:48 · 2020年4月14日

ここまで俀と倭とは別物だとする古田氏の主張が到底成り立たないことを述べてきた。両者は同じ物を指す。この結論に立てば『隋書』【此後遂絕】の解釈はどうなるのか?煬帝紀大業6年【己丑,倭國遣使貢方物】を古田氏は九州王朝からの使いではない!とする。
#古田説 #九州王朝説
午後1:35 · 2020年4月14日

則ち推古紀第二回遣隋使の通事福利が彼の地に留まり同年の「正月奉賀に参列した」(『失われた九州王朝』303頁)との解釈である。このような解釈はそのまま俀国=畿内という主張に援用できる。【此後遂絕】がそれほど決定的意味合いを持たないことは、既にStrom_dorf氏の検証で明らかと言えよう。
午後1:38 · 2020年4月14日

『邪馬一国の証明』でちょっと思いついたことを。掲示板でも話題になりましたが「竹斯国以東」という場合、竹斯国は含まれるか否か。309頁で古田氏は「基準たる「竹斯国」は入らないのである」とします。〈続く〉
#古田説 #九州王朝説
午後10:50 · 2020年4月17日

次頁で「それゆえ、右の文において、「附庸」の基準点(すなわち権力中心の「都」)が「竹斯国」であること、―この事実を今や疑うことは出来ない」と言います。周知の例として【自女王國以北,特置一大率,檢察諸國】でこの場合女王国が検察の対象にならないことを根拠にします。
#古田説 #九州王朝説
午後10:56 · 2020年4月17日

しかし倭人伝にはそれこそ「周知」の【女王国以北】があります。【自女王國以北,其戶數道里可得略載】ですね。邪馬壹国の戸数は書かれてあります。「道里」は日数ですから拒否するかも知れませんが投馬国の戸数・日数は書かれてあり、古田氏は第1書p268-269で投馬国を「以北」に含めています。
午後11:07 · 2020年4月17日

つまり投馬国が戸数道里の略載されている国に含まれるのなら、邪馬壹国も戸数道里の略載されている国に含まれることになります。ここでの「女王国以北」は女王国も含まれることになり、竹斯国も以東の対象となる解釈も可となるはずです。〈続く〉
#古田説 #九州王朝説
午後11:11 · 2020年4月17

ま、そんなメンドイこと言わずとも「以東」とは裴清が経てきた「十余国」のことを指すなんてことはフツーの読解力があれば分かることなんですが、、、古田氏の場合は何が何でも俀都を九州に置かないといけないもんで、そういう我田引水の解釈に奔ることになるわけです。
#古田説 #九州王朝説
午後11:13 · 2020年4月17日

『邪馬一国の証明』320頁。「むすび」
ふりかえってみれば、〝三世紀の卑弥呼の国と七世紀の多利思北孤の国とは、共に筑紫なる同一王朝である〟という命題は、『隋書』俀国伝の冒頭の左の一句に明白に表現されていた。」〈続く〉
#古田説 #九州王朝説
午前11:31 · 2020年4月18日

◯邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり。
この「邪馬臺」が〝五世紀時点の後代名称〟の置換によって、記されているものであることは、すでにのべた(古田「邪馬壹国の史料批判」『邪馬臺国の常識』毎日新聞社刊、所収)。〈引用終わり〉
#古田説 #九州王朝説
午前11:33 · 2020年4月18日

「すでにのべた」とは「そうしますと、先にのべたように、「壹」が「臺」になった、しかもその内容から見ますと「倭」よりも「俀」(臺)のほうがりっぱな名前なのですから、―「俀」は「大倭」です―これで書き直しているということは、これはやはりルールどおりなわけです。」〈続く〉
#九州王朝説
午前11:35 · 2020年4月18日

「別におかしい話ではないのであります。実はここに唐宋代史書がみな「邪馬壹国」ではなくて、「邪馬臺国」である、「魏志に曰く」としてあっても「邪馬臺」と書き改められているという、その本当の理由があるわけなのです。」〈引用終わり〉
#古田説 #九州王朝説
午前11:36 · 2020年4月18日

まず細かい話から。俀が「りっぱな名前」って?『古代は沈黙せず』「古典研究の根本問題」p259では諸橋を引いて「俀―よわい」って書いてますけど?「よわい」がどうして「りっぱな名前」なのか?その場その場で都合よく解釈するんですね?
#古田説 #九州王朝説
午前11:40 · 2020年4月18日

「別におかしい話ではない」って何故?「これはやはりルールどおりなわけです」って何?『隋書』と同年成立の『梁書』は「倭」ですが?古田氏は第1書で「壹」を論証したつもりになって、以後の行論を展開するが、逆立ちした論証としか言い様がない。逆ピラミッド型に構築されている。
#九州王朝説
午前11:48 · 2020年4月18日

古田氏の「置換によって、記されているものであることは、すでにのべた」というのが空虚なものであること明白。没論証。あるのはただ現行刊本の文面を是とする信念のみ。『続・邪馬台国のすべて』「邪馬台国論争は終わった」の中でも『邪馬臺国の常識』所収「邪馬壹国の史料批判」を引くが、〈続く〉
午後2:22 · 2020年4月18日

その中で〝『魏志』に曰く〟の例として『南史(北史の誤)』『通典』を挙げているが、両書ともに〝『魏志』に曰く〟などとは書かれていない。聴衆を前にした軽率な発言。聴衆からの質問は「『隋書』に〝『魏志』のいわゆる邪馬臺〟とあるんですが」である。〈続く〉
#古田説 #九州王朝説
午後2:27 · 2020年4月18日

つまりこの会場での聴衆の質問に対して古田氏は正当な回答をしておらず、しかも引き合いに出した「邪馬壹国の史料批判」にしても『隋書』の〝『魏志』に曰く〟に対する論理的回答とはなっていない。今日では古田氏のこの抗弁は通用していないと見ていいだろう。〈続く〉
#古田説
午後2:30 · 2020年4月18日

唐宋代の多くの史書が「臺」を用いている事実は如何ともし難い。しかも邪馬「壹」とするものは一つだに無い。これら史料上の諸事実を最も簡明に説明するのは、『魏志』には当初「臺」とあった!とする考えである。『隋書』『太平御覧』の〝魏志に曰く〟は重いと言わざるをえない。
#古田説 #九州王朝説
午後2:37 · 2020年4月18日

「むすび」に戻ります。「逆に、この稿の最終論証のしめすように、「竹斯国」こそ俀王の都、〝以東の国々〟を「附庸」せしめた原点(権力中心)である、という認識を〈以下略〉」。「竹斯国」こそ俀王の都?俀王の都は邪靡堆ですが?そして竹斯国といえば【又至竹斯國,又東至秦王國】。単なる通過国!
午後2:46 · 2020年4月18日

『邪馬一国の証明』323頁。「従って「女王国」と同じく、「竹斯国」が中心国だ。この中心判断こそ重要、かつ問題の核心を突くものだった(「以北」「以東」などの、ごくそのものの包含範囲の議論は、むしろ末節であり、あくまで文脈全体から判断すべきものだったのである)」。
#古田説 #九州王朝説
午後2:51 · 2020年4月18日

「末節」であり「文脈全体から判断すべき」なら、「竹斯国」は単なる通過国でしかない。例えば『魏志』の如く〝竹斯国俀王之所都〟とでも書いてあれば誤解もなかろう。でも何の説明もない単なる通過国。古田氏の強弁は度が過ぎている。
#古田説 #九州王朝説
午後2:58 · 2020年4月18日

強弁の最たるもの。秦王国に続く「其の人」が「〝俀国の人民〟の意」と言うんですから驚きです。しかも「『隋書』四夷伝全体の表記慣例」だとか。その「表記慣例」(p303-304)を見ると「其の人」「其の風俗」の挙例が。では俀国伝ではどうか?「其風俗」「其俗」という長大な風俗記事が前半に出ている!
午後3:17 · 2020年4月18日

【又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。】である。「其人」記事は「又」と「又」の間にある。これが秦王国についての記事ではなくて何故〝俀国の人民〟の記事と言い張るのか?有り得ない解釈である。
#古田説 #九州王朝説
午後3:20 · 2020年4月18日

何故古田氏はこのような強弁に奔るのか?「もはやその直前の「竹斯国・秦王国」で、主線行程は完結している」を言いたいが為である。どうしても行程を「竹斯国」あたりでストップして貰わなければ、裴清が九州なる俀都に到ったことにならない。それ故である。
午後3:23 · 2020年4月18日

「『隋書』四夷伝全体の表記慣例を〝強引に無視する〟ていの読解へとひきずりこまれたのである。」とは驚くばかりの発言である。俀国の風俗記事が前半で詳しく書かれていることを「強引に無視」しているのは古田氏自身である。こうまでして無理筋極まる〝竹斯国=俀国の都〟を主張せねばならないのか?
午後3:27 · 2020年4月18日

「あくまで文脈全体から判断すべきもの」と言われたのは古田氏自身である。「其」が何を指すのか?それは「あくまで文脈全体から判断すべきもの」。『隋書』四夷伝赤土国に以下の記事がある。【浮海十餘日,至林邑東南,並山而行。其海水闊千餘歩,色黄氣腥,舟行一日不絶,云是大魚糞也】。
午後3:29 · 2020年4月18日

ここに見える「其」は赤土国を指すのか?そんな解釈をする人はいまい。「浮海十餘日,至林邑東南,並山而行」した際の、そこでの「海水」を指していることは明々白々。同伝でも風俗記事は前半で記してある。俀国伝と同様だ。これほどまでの強弁でしか読者を納得させられない事自体が無根拠の証である。
午後3:36 · 2020年4月18日

秦王国の「其の人」が〝俀国の人民〟を表すと強弁した古田氏は、その後p315で「其の俗」に言及する。「阿蘇山記事が、俀国伝中に占めている位置」を考えるため。何故『隋書』夷蛮伝の表記慣例を列挙した際に俀国の「其の俗」記事も並べなかったのか?不審としか言い様がない。
#古田説 #九州王朝説
午後5:59 · 2020年4月18日

古田氏は301ページからの「「其」の用法と解釈」の中で①~⑤の例を挙げて「其」が表題の国を表すと述べる。俀を除く4例を見てみると、明らかに表題の国について述べてある文脈中に見える。つまり、俀国伝で俀国の風俗記事の中に「其の人」と出てくれば当然古田氏の言われる解釈を可とする。
#古田説
午後6:11 · 2020年4月18日

一方で302ページで、
(a)直前の文(語)を指すもの―二六八個
(b)表題の国を指すもの―一一二個
とする。圧倒的に「直前の文(語)を指すもの」が多い。このことと、前述の俀国風俗記事中ではないという2つの事実から、秦王国後の「其」は「直前」則ち「秦王国」を指していると解するのが至当である。
午後6:15 · 2020年4月18日

「あくまで文脈全体から判断すべきもの」。ではこの文はどういう「文脈」中の文なのか?【明年,上遣文林郎裴清使於倭國】に始まり【既至彼都】に終わるこの文は、大業四年(608)煬帝の命によって裴世清が倭国王へ会うために使いした行程文である。
#古田説 #九州王朝説
午後6:27 · 2020年4月18日

この行程文の途中、秦王国の直後に、何故〝俀国の人民〟についての風俗記事を挟まねばならなかったのか?そのような解釈は到底理解できない。前半の風俗記事には黥面文身や仏教、飲酒、女多男少など、まさしく「其の人」とも言いうる記事が多く含まれている。
#古田説 #九州王朝説
午後6:32 · 2020年4月18日

その上に「秦王国」直後にも〝俀国の人民〟についての風俗記事を挟むのか?説明不能であろう。つまり古田氏の〝其の人=俀国の人民〟という解釈は破綻している。「もはやその直前の「竹斯国・秦王国」で、主線行程は完結している」などという主張は成り立たない。
#古田説 #九州王朝説
午後6:36 · 2020年4月18日

306頁で「これに対して(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである」。何故、十余国の「傍線行路」を書かねばならないのか?何故、「竹斯国以東」のみ書かねばならないのか?説明がつかない。
#古田説 #九州王朝説
午後7:09 · 2020年4月18日

古田氏が『邪馬一国の証明』中で述べた北部九州諸国の位置図を作成してみた。古田氏の記述も落とし込んである。「裴清の道行き文」も参考に記載した。図にしてみれば一目瞭然である。古田氏の想定は明らかに非現実的である。
#古田説 #九州王朝説
午後10:54 · 2020年4月18日

画像が不鮮明なのでもう少しマシなものをUp。
#古田説 #九州王朝説
午後11:00 · 2020年4月18日

古田氏の言われることを作図してみるといかにも不自然でいびつな位置関係であることが一目瞭然。邪馬壹国博多湾岸説の際にも同じことを感じた。第1書中で古田氏が掲げる図と文中の説明とが齟齬をきたしていることはしばしば。つまり論述を並べているだけで具体的現実的な図解との間に齟齬がある。
午後11:05 · 2020年4月18日

竹斯国や秦王国や十余国や俀都・邪靡堆は〝紙の上〟にあるのではない。7世紀のこの大地の上にある。〝紙の上〟にいくら論述を装って主張を並べたところで、現実にこの大地の上にその位置を投射出来なければ、それこそ〝画餅〟でしかない。
#古田説 #九州王朝説
午後11:18 · 2020年4月18日

先程掲げた前掲の九州北半の地図上に自分の指先を走らせ、裴清が辿ったコースを描いてみるといい。確かに辿れるものかどうか?「裴清の道行き文」を読みつつ、指で辿り、裴清は無事【彼都】邪靡堆へ至ることができるのか?
#古田説 #九州王朝説
午後11:21 · 2020年4月18日

ついでに。『邪馬臺国の常識』所収「邪馬壹国の史料批判」p162で『太平御覧』所引『魏志』の「又南水行」の記事について「もう何の見まちがうこともない文章に書き改められている」。すなわち、「投馬国」「邪馬壹国」への行程が「又」でつないであることが「見まちがうことがない」と言われる。
午後11:30 · 2020年4月18日

ならば【又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也.又經十餘國,達於海岸】はどうなのか?「又」の連鎖である。この文は確かに「見まちがうことがない」はずだ。裴世清は都斯麻国を「經」ている。十余国にも「經」とある。これも裴世清が「經」たと読むのが当然。
午後11:37 · 2020年4月18日