「犬臺宮」と「太壹宮」
Yahoo!掲示板上における「犬臺宮」vs「太壹宮」論争
Yahoo!掲示板「邪馬台国論争が好きな人集まれ!!」上で、主に古田説支持のzarakoku氏との間で交わされた「犬臺宮」と「太壹宮」に関する議論のうち、私の投稿分からこの両語句をキーワードとして検索したものの一覧である。やり取りの相手の投稿を表示することを控えたため、議論の流れが汲み取りにくい部分があるかも知れないが、拾い上げた史料事実などを保存しておくだけでも意義あるものと思い拙サイトに1頁を追加することにした。(2025/2/5)
>犬臺宮
2006/7/18 23:41:00
メッセージ:#46333
横レス失礼します!
そう言えば、この「犬臺宮」の問題も「臺・壹」のケースにあたりますね。
>大壹宮
刊本によっては「太壹宮」となっているのもあります。「太」と「大」は通じることがありますので問題はないのでしょうが、「臺・壹」は考えさせられますね。
『漢書』「江充伝」の顔師古注では「誤也」で片づけていますね。
to#46326 by iiiioyajiii
Re: >犬臺宮
2006/7/19 0:09:00
メッセージ:#46336
>
そんな時は大変でも
『大壹宮』『大臺宮』『太壹宮』『太臺宮』
ぜ〜んぶ検証する事をおすすめします
>
そんな簡単に言わないでくださいな!
顔師古の注を紹介しておきます。
【今書本犬臺有作太壹字者誤也漢無太壹宮也】(北宋淳化監本・南宋福唐郡庠重刊・仁寿本二十五史による。北宋景祐刊本・百衲本二十四史によると「有作太壹」を「有作大壹」に作る)。
釈読すれば、「今ノ書本ニ犬臺ヲ太壹ニ作ルモノ有ルハ誤也。漢ニ太壹宮無キ也」でしょうか。
to#46334 by geaf7019
Re: >犬臺宮
2006/7/19 0:16:00
メッセージ:#46337
>知りえた限りでは「臺・壹」の交換が生じたのは、この「犬臺宮」と「邪馬臺國」だけなんですよね
あと、その疑いが指摘されているのは「孫聖壹」「孫聖臺」ですね。
>誤写が生じた実例でもありますが、それが滅多なことでは生じない性質のものであることも表していますね
誤写は、「むべなるかな」という場合が多いのは当然ですが、「なんでぇ〜?」というケースも時折あります。
「狗古智卑狗」と「狗古制卑狗」(汲古閣本)とかですね。
「邪馬臺」「臺與」の場合は、多の漢籍との校勘から誤として間違いないと考えます。
to#46335 by iiiioyajiii
Re: 犬臺宮
2006/7/21 23:33:00
メッセージ:#46570
『太平御覧』「巻一百七十三 居所部一 宮」に『漢書』の「犬臺宮」部分が引かれていましたのでご報告しておきます。
『漢書』・・・【今書本犬臺有作大壹字者誤也漢無太壹宮也】(「作大」は仁寿本、啓明書局板では「作太」と見える)
『御覧』・・・【今書本犬臺有作太臺字者誤也漢無太臺宮_】
顔師古の注として記されている文なのですが、古田氏と尾崎雄二郎氏との間で論争がありました。両者とも、唐代の書本に「太壹宮」とあることについてのやりとりだったのですが、『太平御覧』に引かれている『漢書』当該部分を比べてみると、顔師古の注は「犬臺宮」と「太壹宮」について注記してあるのではなく、「犬臺宮」と「太臺宮」についての注であったことが分かります。つまり「犬か太か」という問題なのです。
決して、唐代の書本中に「太壹宮」とするものがある・・・ということではないようです。唐代でもこの部分は「太臺宮」だったわけです。
しかるに、こんにち広く読まれている百衲本『漢書』(北宋・景祐刊本)には「太壹宮」と見えることから、これは宋代、刊刻に当たって用いられた『漢書』テキストにおいて、はじめて「太壹宮」という表記が出現したことを意味しています。
これはまさしく、百衲本『三国志』に「邪馬壹国」とあり、それに先立つ諸書に「邪馬臺国」とある事実関係と“軌を一”にします。
to#46542 by zarakoku
Re: 魏徴らは魏志も後漢書なども見ている?
2006/7/22 0:05:00
メッセージ:#46574
>隋書を見れば、魏徴らは、魏志だけでなく後漢書なども引用していますよ
そんなことはザラさんに言われなくとも先刻承知!私がお聞きしているのは、魏徴は『魏志』を見て書いたと思うか?ということです。
>魏志に「邪馬壹國」と書かれていても、魏徴らは、それは「邪馬臺国」の間違いであると、判断して
なんで「間違いであると、判断し」たんですか?『後漢書』の記事を優先させようとするなら、【則後漢書所謂邪馬臺者也】と書いたはずでしょ?
ザラさんによれば、魏徴は『後漢書』を見ているわけですよね。記述対象となる時代は『後漢書』の方が古いし、卑弥呼が共立されたのは“後漢代”ですからね。
でもわざわざ【則魏志所謂】と『魏志』に言及している。ということは、倭国の都「邪靡堆」について説明するには『魏志』の方が相応しい・・・と考えたからに他なりません。
「邪靡堆」の説明として「邪馬臺」を用いたかったのなら『後漢書』を引いたでしょう。また『魏志』を引くのなら「邪馬壹」と書いたでしょう。しかし、現実は【則魏志所謂邪馬臺者也】。
ザラさんは、#46077で、
>『魏志』には「邪馬壹」とあったかどうか?は不明です
と書いています。そこまで言いながら、「邪馬臺」と書いてあったことをここまで頑なに拒否するのは、なにゆえなんでしょう?不思議でなりません。
>「犬臺宮」の時にも、唐代には、現代と同じように「臺」は「臺」の間違いとするものがあって、顔師古に批判されたのですよ
残念ながら、そのような理解は成り立たないようですよ。詳しくは、#46570をお読み下さい。
to#46545 by zarakoku
>「魏臺訪議」
2006/7/22 22:48:00
メッセージ:#46644
ご教示いただきありがとうございます。古田氏は『魏臺雑訪議』と書いておられましたので、それで検索すると出てきません。『魏臺訪議』で検索しましたところ、いろいろ出てきて、それをもとに芋蔓式に調べてみました。
『隋書』「経籍志」には『魏臺雑訪議』『魏臺訪議』両方見えますので、前者でも間違いではないのでしょうが・・・。
さて、この『蜀志』に見える、
【臣松之案魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也】
は、同じ記事が『史記』「凶奴伝」にも見えます。
【索隠曰案釈名云漢以来謂死為物故就朽故也又魏臺訪議高堂崇對曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事者也】
ここでは『蜀志』とは違って『魏臺訪議』と書名が示されています。
またご紹介いただいた『通典』の記事は【尚書曹訪云・・・】と始まりますが、この「尚書」が「臺」のことでしょうね。
また、百衲本『史記』のその箇所を見ていて驚いたのですが、なんと「魏臺訪議」が「魏壹訪議」となっています!
『魏臺訪議』は『北堂書鈔』や『芸文類聚』にも引かれ、『隋書』「経籍志」にも載るほど唐代では名の通った書物のようですから、これを何らかの理由でわざわざ「魏壹訪議」と“故意に”書き換えることは考えられません。
これは間違いなく「臺」を「壹」と誤写した明らかな例と考えて間違いないでしょう。
先の「犬臺宮」の件とあわせて、どうやら宋代刊刻のテキストとなったものの中に、「臺」を「壹」と誤写したものが含まれていたことが今回の検証で明らかになったと考えます。
また、「臺は天子一人を指すから、邪馬臺なる表記は絶対にあり得ない」という古田氏の主張が、根拠のないことも明白になったと思います。
to#46592 by tenchuukun
Re: 頭から信用していない?
2006/7/24 22:52:00
メッセージ:#46796
>何らかの思想的な要因のためか?、史料の選択や論理に「恣意性」を感じる時は
そりゃ、古田氏のことですよ。「犬臺宮」『魏臺訪議』『容斎続筆』の使い方なんて、「恣意性」そのものですよ。
>hyena no papaや安本氏のように、「奇妙な古田攻撃」されるのをみると、いくら正確な論理を展開されても
「正確な論理を展開」しているのに「奇妙な古田攻撃」ってのは不思議な申し様ですね〜。奇妙なのは、「正確な論理」を「奇妙」と感じる、ザラさんの感覚の方なんですが・・・。
to#46654 by zarakoku
Re: ↓思い出した!
2006/8/6 22:37:00
メッセージ:#48335
>>尾崎雄二郎ですね
>+あ、一瞬で出典がバレましたね
京都大学教養部『人文』第十六集「邪馬臺国について」ですね。
この尾崎論文については、古田氏も『邪馬壹国の論理』において、125頁から188頁まで延々と反論を書いています。例の「犬臺宮」の話は、この中で出てきます。
既にご存じだったかも知れませんが、他の方の参考にもなろうかと敢えてご紹介いたしました。
to#48267 by tenchuukun
Re: いえいえ、こちらこそ。
2006/8/10 23:15:00
メッセージ:#48804
>ああよかった。パパさんには喜んでいただけるんじゃないかと思ったんですよ
お心遣い、痛みいりますm(_ _)m
>僕も「方〜」といったら「〜四方」としか思っていなかったので、今回は貴重な勉強をさせてもらいました
この「方」をですよ、「一大国=壱岐」に当てはめたらどうなんでしょう?かなり“長里”臭いような気がしますが・・・。ま、これは雑談としてお聞きください。
>しかし何年付き合っても、漢籍ってヤツは、知らないことが出てきますね。もちろんそれが魅力なんですが
談天さんと私とでは、基礎学力が段違い(蛇足ながら、談>hy)だと承知しておりますが、蟻のようにコツコツと歩いてゆくと、結構な拾いものをすることがあるんですよね。
「女臺と女壹」「魏臺訪議と魏壹訪議」「太臺宮と太壹宮」とか・・・。
何かとお忙しいでしょうが、お手すきの折りはおつきあいのほどよろしく!
to#48702 by tantian
Re: 後漢書の最古の刊本も12世紀?
2006/9/19 23:24:00
メッセージ:#53100
>理由は簡単です
これ、止したほうがいいですよ!
>范曄は、倭奴国も倭國王帥升も卑弥呼も、皆、同じ場所の同じ国で、「其大倭王居邪馬臺國?」だと考えたのですよ
そんなことが『後漢書』のどこから窺えるんでしょうか?「倭奴国」については【倭国之極南界】と書いてありますが、帥升の「倭国」や、大倭王の「邪馬臺国」についての位置の記述はありません。どこから「皆、同じ場所の同じ国」なんて理解が出てくるんでしょう?
>そして、「犬臺宮と太壹宮」の場合のように唐代には既に「壹と臺の間違い論」起きていたのですから、写本の書き換えの可能性も否定出来なくなったのです
これ、以前にもお聞きしましたがレスが無かったようですね。古田氏がこの「犬臺宮と太壹宮」を「書き換え」で説明しようとしていますが、なんで「犬臺宮」を「太壹宮」に書き換えにゃならんのですか?
『邪馬壹国の論理』173頁以降を今一度、お読み下さい。古田氏は、
−−−−−
「犬」字も宮殿名ににつかわしくない
−−−−−
と書いていますが、古田氏自身が同書173頁で「顔師古注」を引いて「外有走狗観也」と書いているように、これは犬に因む宮殿の話なのです(「狗」は犬)。なんで唐代の人が、犬とは関係ない「天神を祀る宮殿」の意味に書き換えねばならないのです?理屈が通りませんが・・・。
>そして、その最古の刊本がどちらも12世紀なのですよ。どちらも、写本を引き継いできたものだ、として、同じようにほぼ信頼するしかないのではありませんか?
いいえ。そんなこと云ったら、写本は記事を引き継いできたから、その文面は信用できる・・・という結論になり、夥しい誤写の存在という事実に反します。
『三国志』の“刊本間”の誤写は約四千ヶ所ですよ!大量に刊行され、それがまた復刻されてきたコピー群であるはずの“刊本間”でさえ、これだけの誤写が生じているのです。この事実から目を背けないでください。
>>「唐代」の混乱って何ですか?<
>倭の都の国名は、以前にisaq forceさんが示されたように、幾つもの記載が出現していましたね。確か「ヤマイ」もありましたよ
その「isaq forceさんが示された」ものって、私が紹介したものですが・・・。
全部誤写です。扁の誤写なんて、ぞろぞろあります。
>倭人伝と後漢書以降は、「倭の都の国名」の記載は、唐代以降しかないのですよ
意味がよく分かりませんね。『隋書』によると『魏志』には「邪馬臺」とある・・・と書いてあります。何度も繰り返します。これは、当時流布していた『魏志』に「邪馬臺」とあったからに他なりません。
当時の『魏志』に「邪馬壹」とあって、それを魏徴が「邪馬臺」と書き改めたというのなら、その合理的な説明をお願いします。
to#52991 by zarakoku
Re: 後漢代は「其大倭王居邪馬臺國」
2006/9/22 23:10:00
メッセージ:#53399
>後漢書の倭伝の初めで総括して「其大倭王居邪馬臺國」と書いた、と言う事は、後漢代は「其大倭王居邪馬臺國」である、と言う事ですよ
それなら、後漢代は「邪馬臺国」ですよね?以前、ザラさんは後漢代も「邪馬壹国」って云いませんでしたっけ?
>倭奴国も倭國王帥升も卑弥呼も皆「其大倭王居邪馬臺國」である、と解するしかありません
なんで「解するしかありません」なんですか?金印貰った「倭奴国王」、帥升の「倭(面土)国王」、邪馬臺国に居する「大倭王」、皆名前が違うでしょ?なんでいっしょくたんにするんですか?
>唐代に「臺」を「壹」の間違いだ、として書き換えた人があって、それが願師古によってとがめられたのでしょ?
いいえ、「犬臺宮」と「太臺宮」の誤の話です。
>唐代にも「臺」と「壹」の誤謬を唱える人が存在したのですよ
「犬」と「太」の
>誤謬を唱える人が存在したのですよ
>古田さんは、三国志の中の100個位の「壹と臺」をほぼ全部調べられて、「壹と臺」の写し間違い、と考えられる所がほぼない、事を確認されたのですよ
これね、古田氏が何度も主張されていますが、大変な間違いなんですよ。なんでか?
古田氏は『三國志』中の「臺と壹」の誤写のケースを調べたわけですよね?
なんで『三國志』中なんですか?『三國志』ばかりを書写し続ける個人とか家系とか役所があるわけじゃありませんよ。
よ〜く考えてみて下さい。
>写本を経たからには、その中に「壹と臺」を間違う人がいたかも知れないと考えて、その場合には「壹と臺」を間違えたところがあるはずだ、として、「壹と臺」を調べられ、その結果、間違う人はいなかった
実際はいたんです。↓
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/tai_ga_tadashii.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/giichihougi.html
特に「魏壹訪議」ってなんだと思います?これ「魏臺訪議」に他なりませんよね?これも「書き換え」で説明するんでしょうか?
「書き換え」だと解釈するというのなら、その「書き換え」た人は、なにゆえ「臺」を「壹」と書き換えたのだと思いますか?
to#53370 by zarakoku
Re: 後漢代は「其大倭王居邪馬臺國」
2006/9/22 23:10:00
メッセージ:#53399
>後漢書の倭伝の初めで総括して「其大倭王居邪馬臺國」と書いた、と言う事は、後漢代は「其大倭王居邪馬臺國」である、と言う事ですよ
それなら、後漢代は「邪馬臺国」ですよね?以前、ザラさんは後漢代も「邪馬壹国」って云いませんでしたっけ?
>倭奴国も倭國王帥升も卑弥呼も皆「其大倭王居邪馬臺國」である、と解するしかありません
なんで「解するしかありません」なんですか?金印貰った「倭奴国王」、帥升の「倭(面土)国王」、邪馬臺国に居する「大倭王」、皆名前が違うでしょ?なんでいっしょくたんにするんですか?
>唐代に「臺」を「壹」の間違いだ、として書き換えた人があって、それが願師古によってとがめられたのでしょ?
いいえ、「犬臺宮」と「太臺宮」の誤の話です。
>唐代にも「臺」と「壹」の誤謬を唱える人が存在したのですよ
「犬」と「太」の
>誤謬を唱える人が存在したのですよ
>古田さんは、三国志の中の100個位の「壹と臺」をほぼ全部調べられて、「壹と臺」の写し間違い、と考えられる所がほぼない、事を確認されたのですよ
これね、古田氏が何度も主張されていますが、大変な間違いなんですよ。なんでか?
古田氏は『三國志』中の「臺と壹」の誤写のケースを調べたわけですよね?
なんで『三國志』中なんですか?『三國志』ばかりを書写し続ける個人とか家系とか役所があるわけじゃありませんよ。
よ〜く考えてみて下さい。
>写本を経たからには、その中に「壹と臺」を間違う人がいたかも知れないと考えて、その場合には「壹と臺」を間違えたところがあるはずだ、として、「壹と臺」を調べられ、その結果、間違う人はいなかった
実際はいたんです。↓
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/tai_ga_tadashii.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/giichihougi.html
特に「魏壹訪議」ってなんだと思います?これ「魏臺訪議」に他なりませんよね?これも「書き換え」で説明するんでしょうか?
「書き換え」だと解釈するというのなら、その「書き換え」た人は、なにゆえ「臺」を「壹」と書き換えたのだと思いますか?
to#53370 by zarakoku
Re: 後漢代は「其大倭王居邪馬臺國」
2006/9/28 21:59:00
メッセージ:#54182
>5世紀の范曄が、そのように認識してそう書いている
>実態は、范曄は「邪馬臺国」が後漢代に存在したように認識し記載してけれども
また「認識」ですか?それはもう結構です。ザラさんの云う「認識」は『後漢書』には、そう書いてある・・・という以上の意味はないのですから、そんなこと繰り返されても前へは進みません。
>>>倭奴国も倭國王帥升も卑弥呼も皆「其大倭王居邪馬臺國」である、と解するしかありません
>>なんで「解するしかありません」なんですか?金印貰った「倭奴国王」、帥升の「倭(面土)国王」、邪馬臺国に居する「大倭王」、皆名前が違うでしょ?なんでいっしょくたんにするんですか?
>范曄が、「いっしょくたん」に「其大倭王居邪馬臺國」と書いたからです
倭奴国ってのは、「倭国之極南界也」ですよ。つまり倭国の一部。倭国の一部である倭奴国の王が、なんで「大倭王」なんですか?
>そうですか? 古田さんは、「犬臺宮」が唐代の「今流俗書本」に「太壹宮」と書き換えられていた事を願師古がとがめた、と言うように書いていますが
それは古田氏が間違っているのです。#53100でもお尋ねしましたが、この点についての反論はなかったようですね。犬に因む宮殿の名前を、なんで「天神を祀る宮殿」の意味に書き換えなければならないのですか?
改訂した・・・と仰るのなら、その合理的な説明をお願いします。
>>特に「魏壹訪議」ってなんだと思います?これ「魏臺訪議」に他なりませんよね?これも「書き換え」で説明するんでしょうか?「書き換え」だと解釈するというのなら、その「書き換え」た人は、なにゆえ「臺」を「壹」と書き換えたのだと思いますか?
>またhyena no papaさんのご紹介のサイトを見せて頂きましたが、三国志には無関係な話ですよ。それではダメでしょ?
>今問題なのは、三国志の写本が引き継がれた間に、「壹と臺」を間違える写本者がいたとしたら、現在の通行本三国志の「壹と臺」に写し間違った場所があるはずだ、と言うので、調べたがなかった、と言う話です
>それを、いくら他の文献での間違い例?を挙げられても、三国志には関係はありませんよ
>ましてや、唐代には、「犬臺宮」と「太臺宮」の話のように、「壹と臺」を意図的に間違いだと判断する人がいた位ですから、別の文献で間違えている事は有り得ますが、それと、三国志で間違うかどうかは、関係がありませんよ
この件については、#53399で書きましたので改めてレスを下さるかと思いますが、なぜ『三国志』に限定するのか?よく考えてみて下さい。
他の文献を書写するときに発生する誤写が、『三国志』では発生しない!という“理由”は何ですか?
古田氏の“論理”とやらの不思議な部分がよく現れています。
>例えば、古事記と大鏡で違いがあったら
あらら?ザラさんは、かつて私が“例え話”を持ち出したら、受け付けませんでしたよね?ですから、極力ザラさんには“例え話”をしないようにしてきました。ザラさんが“例え話”を受け付けると仰るのなら、これからどんどん出します。
>日本書紀も違っているはずだ
同じ人が『古事記』『大鏡』『日本書紀』を書写したら、同じ文字を同じように誤写する可能性はあります。
また別の人がこの三書を書写したら、別の文字を揃って誤写する可能性はあります。
いろんな時代の、いろんな人が『古事記』を書写する場合、他でする誤写を『古事記』上では揃ってしない・・・ということが考えられますか?
to#53875 by zarakoku
Re: 後漢代は「其大倭王居邪馬臺國」
2006/10/3 22:25:00
メッセージ:#55079
>文献は、基本的には、その時点で著者にとって判った事を記録主張しようとするものだ、と言う事ですよ。その事を理解してから前へ進むのです
へぇ?それで「前へ進」んだ結果が、「タリシヒコ」が大勢いるとか?
>しかし、范曄は「其大倭王居邪馬臺國」と思っているのです
そりゃ、後漢代は「邪馬臺国だった」ということに他ならないからです。何度もお尋ねしているのですが、范曄『後漢書』に「邪馬臺国」と見えるのは、倭の五王の時代の伝聞が反映されたとお考えなのですよね?
それならば、『宋書』にそれらしい表現が見えてしかるべきだと考えますが・・・。『宋書』のどこかに「大倭王」なんて書いてありますかねぇ?
>>それは古田氏が間違っているのです。#53100でもお尋ねしましたが、この点についての反論はなかったようですね。犬に因む宮殿の名前を、なんで「天神を祀る宮殿」の意味に書き換えなければならないのですか? 改訂した・・・と仰るのなら、その合理的な説明をお願いします。
>そうですか? 古田さんの理解は、tenchuukunさんも同じであったようでしたが
あれ?「天誅君大先生」が「犬臺宮」について古田氏と同じ理解をされているんですか?私が忘れてしまったのですかねぇ?記憶で構いませんので、「天誅君大先生」がどのように古田氏と同じ考えを述べられたのが、示していただけませんか?
>説明は、「邪馬壹国の論理」の173頁を見て頂ければいいのです
そんなものは読んだ上での質問です。これまでも書いてきたでしょ?なにゆえ天神を祀る宮殿の名前に書き換えたのか?って・・・。走狗觀の話もしたでしょ?
>>この件については、#53399で書きましたので改めてレスを下さるかと思いますが、なぜ『三国志』に限定するのか?よく考えてみて下さい。他の文献を書写するときに発生する誤写が、『三国志』では発生しない!という“理由”は何ですか?古田氏の“論理”とやらの不思議な部分がよく現れています。
>馬鹿げた話です。古田さんでなくても、「すべての文献には間違いがない」などと言った事は、当然有り得ませんよ
で、刊本『三国志』には「間違いがない」って云う。これこそ、
>馬鹿げた話です
>だから、現存の三国志の写本や版刻を引き継がれた人たちの中に、「壹」と「臺」わ間違える人はほぼいない、と言えるのです
前にも書きましたが、また書きます。『三国志』を書写するときには間違えない・・・というのはなにゆえですか?
>>同じ人が『古事記』『大鏡』『日本書紀』を書写したら、同じ文字を同じように誤写する可能性はあります。また別の人がこの三書を書写したら、別の文字を揃って誤写する可能性はあります。いろんな時代の、いろんな人が『古事記』を書写する場合、他でする誤写を『古事記』上では揃ってしない・・・ということが考えられますか?
>hyena no papaさんが誤写するものは、zarakokuも誤写するはずなのですか?
ザラさん、私の文を誤読していますよ!今一度、読み直してください。私がする誤写を、ザラさんもする・・・なんて云っていませんよ。よく読んでください。
to#54713 by zarakoku
Re: 動機と冤罪?
2007/1/8 1:30:00
メッセージ:#65746
>范曄は、魏志の「女王のいたのが邪馬壹国か」どうかに拘わらず、5世紀のまでの情報を総合して、「其大倭王居邪馬臺國」と認識し記載したのですよ
「5世紀のまでの情報」が「邪馬臺國」なら、3世紀も「邪馬臺国」でしょうに・・・。“刊本が正”とする考えに捕われなければ・・・。
>「壹」と「臺」の間違い論の流行による
そんなものありませんよ。「犬臺宮」の話ですか?
>「邪馬臺」を選択したものが多かった
“多い”もなにも、「邪馬壹」なんてのを襲った文献なんてありませんもの、宋代までには・・・。
>別に、動機などではなく、史書の著者自身の考えによる選択に過ぎません
“選択”には“動機”があったんじゃないんですか?それとも、サイコロ振って「丁が出たから“臺”にしよう」なんて書いた・・・わけありませんよねぇ。“動機”があったから“選択”したんですよね。
>陳寿の記載した三国志が一種類だけであった、と確定しているのなら
陳寿の記載した三国志が複数あったんですか?聞いたことありませんが・・・。
>2種類の刊本で記載の違いがあれば、片方が間違っているか?両方が間違っているか?でしょう
当たり前田のクラッカー。
>しかし、それらを間違いだ、として、抹消しようと意図する人には、何故それが間違いであるのか?、どうしてどのようにして間違いが発生したのか?、間違いでない可能性を全部否定出来るのか?などを、明確にして頂く必要がありますよ
既に明確に論じられています。古田氏の考えを踏襲する人々が。それを受け入れないだけの話です。
>そうですね。古田さんも理由を書く習慣があるようです。また、古田さんは、「間違いと推定」される文言であった、と思います
それ、早く紹介してください。
to#65585 by zarakoku
Re: 唐代の「壹」と「臺」の間違い論の流行
2007/1/13 0:42:00
メッセージ:#66640
>>「5世紀のまでの情報」が「邪馬臺國」なら、3世紀も「邪馬臺国」でしょうに・・・。“刊本が正”とする考えに捕われなければ・・・
>「5世紀のまでの情報を総合して」と言っただけですから、3世紀も「邪馬臺国」であったか?は判りません
『後漢書』倭伝の冒頭に見える「韓」「楽浪郡」「拘邪韓国」は何世紀の呼称ですか?5世紀ですか?『後漢書』だから、後漢代までの事を書いてあるってなぜ解釈しないのですか?
また、5世紀は倭の五王の時代ですが、その時点で『魏志』の頃にはもたらされていなかった「邪馬臺国」という名称が中国に知られたとする根拠はなんですか?
>>>「壹」と「臺」の間違い論の流行による
>>そんなものありませんよ。「犬臺宮」の話ですか?
>そうです。唐代に、「壹」と「臺」の間違い話を使っている人がいる、事が確認できたのです
確認なんてされていませんよ。この話はさんざんしました。走狗觀のある犬臺宮がなにゆえ「太(大)壹宮」と書き改められねばならないのです?古田氏が『邪馬壹国の論理』176頁で云われている「太壹宮=天神を祀る宮殿」と、ドッグレースとどんな関連があるのでしょう?
古田氏の解釈に無理がある上に、私が紹介した『太平御覧』の〈「太臺宮」・・・・『太平御覧』「居所部」〉の例から見ても、臺と壹の混同が唐末〜宋初にかけて発生したと見る方が、理に叶っています。
ドッグレースと天神を祀る宮殿は関係ありません。
>
しかし、「維」や「惟」は、「臺」よりは「壹」に発音が近いのではありませんか?
だから、「ヤマイ」と言う発音の呼称は、「邪馬壹」から来たものではないか?とも考えられ、当時存在した「邪摩堆」という文字情報との整合を図るために、いろいろな文字が選ばれた可能性はありませんか?
>
この「維」や「惟」が出てくるシーンを思い出してください。皆「邪馬臺国」の注として見えるものです。「邪馬壹国」の注として出てくるものはありません。この「維」や「惟」に類する誤写は、張元済の『三国志校勘記』の中にも見られます。過大視する必要はないでしょう。
因みにこれらの表記の見える史書については、私のHPのどこかに書いており、伊作さんも時折引用していますから、ザラさんもご覧になった事があるでしょう。皆、「邪馬臺国」に懸かる注なのです。
>>>しかし、それらを間違いだ、として、抹消しようと意図する人には、何故それが間違いであるのか?、どうしてどのようにして間違いが発生したのか?、間違いでない可能性を全部否定出来るのか?などを、明確にして頂く必要がありますよ
>>既に明確に論じられています
>明確に論じられた記憶がありません。傍証ばかりでしたが
ザラさんが「明確な論証」を「傍証」としか見る事が出来ないだけです。
この「臺」と「壹」の誤写論は、スゴク簡単な話なのです。「邪馬壹国」なる表記が、宋代まで全く見えない事で、ほとんど「壹は臺の誤」という校勘は成立します。
マリリン・モンローのホクロですよ。
to#66272 by zarakoku
Re: 唐代の「壹」と「臺」の間違い論の流行
2007/1/18 22:58:00
メッセージ:#67357
> 「古田氏の解釈に無理がある」というのは、何処ですか?
読んでないんですか?
>確認なんてされていませんよ。この話はさんざんしました。走狗觀のある犬臺宮がなにゆえ「太(大)壹宮」と書き改められねばならないのです?古田氏が『邪馬壹国の論理』176頁で云われている「太壹宮=天神を祀る宮殿」と、ドッグレースとどんな関連があるのでしょう? 古田氏の解釈に無理がある上に、私が紹介した『太平御覧』の〈「太臺宮」・・・・『太平御覧』「居所部」〉の例から見ても、臺と壹の混同が唐末〜宋初にかけて発生したと見る方が、理に叶っています。ドッグレースと天神を祀る宮殿は関係ありません
と書きましたでしょ?天神を祀る宮殿とドッグレースとなんの関係があるんですか?
>「臺」が、何故「イ」と言う発音の「維」や「惟」の文字に誤写されるのですか?
そんなこと私は言っていませんが・・・。「臺」が「維」や「惟」の文字に誤写されるなんて言ったことは一度もありません。ザラさんの勘違いでしょう。
>何故、張元済は、「壹」を校勘していないのですか?
なんべん書けば学習してくれるのやら〜。張元済は刊本同志(一部晋抄本)しか校勘していないのです。刊本に見えない「臺」について言及するはず、ありません。
>後代史書は、記載当時の読者に判り易い表現を選択しているだけですから、清代までは「校勘」の対象にもならなかったのでしょ?
一度も選択されなかった「邪馬壹」って何なのですか?
to#67191 by zarakoku
Re: 「後代史書立脚主義」を批判
2007/2/12 22:46:00
メッセージ:#68835
>>「臺」の発生源が「後漢書」だなんていうのが“史料実態”であるといういい方自体がおかしい
>「邪馬臺国」の呼称は、後漢書が初めてでしょ?
「臺の発生源」の話ですよ。史料としての初出は確かに『後漢書』です。「発生源が後漢書」だなんてのがオカシイと言ってるんです。そこで既に3世紀の『魏志』には「邪馬壹とあった」と言外に前提しているわけですからね。
>>ちゃんと『魏志』を引いているものまで『後漢書』の理解に従ったとすることもおかしい
>勿論引用の全部が「後漢書そのまま」と言うのではありません
意味がわからん。
>「後漢書の理解?に従った解釈」と言っております
だから、それをオカシイと言っています、私は・・・。
>唐代以降の梁書や晋書や太平御覧などは、当然、魏志も後漢書も見ているのですから、魏志も後漢書の記載の差異のある部分は、著者の判断によって、あるところは魏志を引き、あるところは後漢書を引いているように見えます
それがなんか「邪馬臺」という表記と関係あるんですか?『魏志』を参照・引用して「臺」を用いるものばかりですよ。「壹」を用いているのは、「珍宝部」までありません。
>願師古は「今書本犬臺有作大壹字者誤也」としたように、唐代に「臺」を「壹」とする者が有る、事を証言しています
この「大壹」が「太臺」であろうことは既に説明しました。一方、古田氏の説明は「犬臺宮」を、天神を祀る「太一宮」に書き換えたというものでしたよね?なんでドッグレースを見る建物を天神を祀る「太一宮」と改めにゃならんのですか?その理由を説明してください。
>「魏壹訪議」もその例です
「魏壹訪議」という表記が唐代のものなんですか?手元の百衲本『史記』は「宋慶元版」ですよ。
>>「ヤマタイ」「ヤヒタイ」「ヤマイ」などの呼称が生じていた・・・というのも誤写を排除した曲説
>いろいろな呼称があった事は史料実態です
呼称ではありませんね。表記です。“呼称”とは現実に存在した呼び名のこと。その表記が現実にあったものかどうかを論じているのです。ザラさんは無批判に書いてあることがそのまま実在していたと捉えてるんですよね?史料解釈の第一歩から間違っています。
>むしろ著者の理解や判断によって書き分けている事を、排除しようとする姿勢が問題です
「著者の理解や判断によって書き分けている」のも「誤」。オリジナルは一つしかありません。
to# by
Re: 「天誅君大先生」!質問です
2007/2/16 22:23:00
メッセージ:#69097
早速のご回答、ありがとうございますm(_ _)m
>隋楊居墓誌
>唐孔子家廟陜西本
は確認していたのですが、
>北齊姜纂造像記
を見落としていました。画像がぼやけていたので、見逃したようです(^^;)
>唐汝州魯陽府別將胡明期母曹夫人誌銘
>も「臺」の至が豆になった中間的なやつですね
はい、まさにそのようで・・・。
>
そういう異字体があったとするには事例が少ないですし
「臺」は「壹」と書くことがあるが逆はない
という現象をなんと理解するか…
>
確かに、
「邪馬壹」は諸書との校勘で、「魏壹訪議」は実際の書名で、「存聖壹」は兄弟の名前から、また「太壹宮」は『太平御覧』の記事から「臺→壹」への誤写が疑われる例になりますね。
また、拓本データベースで「壺」も検索したのですが、これはまた見事にこんにちの「壺」「壷」しか見あたらず、文献上に見える「沙臺」「沙壺」「沙壹」のケースについては考察が及ばないところです。
>ちょっと難しいですね
古田氏が30年前に、このデータベースの「壹」を知っていたらどうだったんだろうか?と、フト思ってしまいました。
to#69063 by tenchuukun
Re: 唐代史書の後漢書優先主義
2007/2/18 22:58:00
メッセージ:#69175
>>>後漢書以外の諸書とは、さらに後代の唐代史書のことであり、その中の梁書と隋書と北史が始まりですが、いずれも、魏志と後漢書を参照しているが後漢書の方をより優先しているのです
>>よくまあ平気でこんなことを書けますねぇ!『梁書』と『北史』は間違いなく『魏志』を参照していますよね。記事はご存じでしょ?『北史』は「魏志曰・・・」とは書いてありませんが、ほぼ引用といえるでしょう。又、『隋書』は「魏志」と明記して「邪馬臺」と書いているのです。どこが「後漢書の方をより優先しているのです」になるんですか?
>古田さん第1書の90頁の表に挙げられていますが
あの表から「後漢書優先主義」があったと言えると?あの表では『三国志』『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』と比較してありますが、(a)〜(e)までに付いて見てみましょう。
(a)『北史』『隋書』は『魏志』を引いて「邪馬臺」とする。『梁書』の「祁馬臺」は例の行程記事中であるから、『魏志』に拠ったものであること明らか。
(b)『隋書』「楽浪郡境及び帯方郡を去ること・・・」とあるから、『後漢書』「楽浪郡」と『三国志』「帯方郡」の折衷記事。
(c)『梁書』「その俗、女多く男少し」は『後漢書』の記事に近いが、『梁書』のその記事の直前「八九十」は『三国志』には見えるが『後漢書』には見えないのでどちらを優先して引いたかは言えない。『三国志』の方から優先して引いた記事も挙げることが出来る。
(d)「桓・霊帝の間」「霊帝光和中」については、『隋書』は確かにこの部分は『後漢書』の記事を引いている。しかし、『梁書』の「霊帝光和中」は、全く同文が『御覧魏志』にも見えるので、『梁書』のこの部分が『後漢書』によったとすることはできない。
(e)「建武中元二年」「安帝永初元年」。これは後漢代の記事であるから、『三国志』に詳述されるべきものではない。よって優先の比較の対象としては適切ではない。
いかがですか?たった5項目で「後漢書優先主義」なんて言えないのです。
>唐代の史家や外交官僚にとって、倭については、三国志と後漢書とでは、後漢書は三国志を参照してそれを意解して強調誇張表現し時には内容変更になる記載をしてしまっているのに、後漢書の方が、倭奴国からの記載があることや、表現に具体的なものがあるため?に、後漢書が「通説」的な位置を占めたのではないか?、ということです
何度も申し上げているように、それなら『隋書』は『後漢書』から「邪馬臺国」を引くはずですよね?なんで『魏志』から引いたんでしょう?
>そして、この通説は、写本にも影響があり、魏志にも「「邪馬臺国」と書き換える写本が現れたのではないか?と思います
それでは、他にも見える「臺」「壹」の異同の説明が付きません。「如壹」「如臺」、『魏壹訪議』『魏臺訪議』、「太壹宮」「太臺宮」、「沙壹」「沙臺」「沙壺」の異同は、「後漢書優先主義」とは無関係なところで発生していますからね。
「「邪馬臺国」と書き換える写本が現れたのではないか」とまで想定できるのなら、上記の各例の出現から見て、誤写した寫本が発生したと考えることも出来るはずですが・・・。
to#69154 by zarakoku
Re: 唐代史書の後漢書優先主義
2007/2/22 23:53:00
メッセージ:#69337
>唐代史書が後漢書の記載を踏襲している事になるのですから、唐代史書の後漢書優先主義の傍証と言えます
ザラさんは“優先”の意味、ご存じですか?どこが“優先”なんでしょう?
>唐代史書が、魏志よりも、魏志を誇大表現したり書き換えたりした後漢書に拠っている事が、はっきりしていますよ
既に書いたとおりです。『梁書』は『魏志』に対する依存度が『後漢書』より高い。かの行程記事一つをとってもそれは明らか。
>唐代には、「犬臺宮」を「太壹宮」と書き直す「今書本」がある事が指摘されているのですから
それは何度も説明しました。「犬臺宮」を「太臺宮」と間違っていたのです。なんで「犬」が「天神」に書き換えられにゃならんのですか?
>御覧魏志が、魏志引用なのに、後漢書を引く梁書の記載を書いている、という事実は
そういう事実はありません。
>つまり、通説に依存した唐代写本は、写本本来の業務を失ったものだ、と言う可能性がある事です
その“唐代寫本”はどこに行ったんですか?10世紀半ばまでは確かに存在していたんですよね。「臺」と書く写本が・・・。
to#69255 by zarakoku
Re: 唐代史書の後漢書優先主義
2007/2/25 22:44:00
メッセージ:#69525
>>>唐代には、「犬臺宮」を「太壹宮」と書き直す「今書本」がある事が指摘されているのですから
>>それは何度も説明しました。「犬臺宮」を「太臺宮」と間違っていたのです。なんで「犬」が「天神」に書き換えられにゃならんのですか?
>いくら言っても、話がずれているようですよ。私の話は、古田さんの第4書の173頁の終わりに書かれている願師古の註の話です
私もその話ですよ。半年くらい前になります。#46570をお読み下さい。古田氏が、「犬臺」を「太壹」と書き改めた理由とするものは「天神を祀る宮殿」の「太一」である、ですよね。同書176頁に書いてあります。ですが、古田氏自身が173頁で「犬臺宮外有走狗觀」と引用しているように、これは犬に関わる(狗も犬)建物の話なのです。それを「天神」に牽強付会していることを再三指摘してきたのです。なんで「犬」と「天神」が関係有るんですかって・・・。
>>>御覧魏志が、魏志引用なのに、後漢書を引く梁書の記載を書いている、という事実は
>>そういう事実はありません
>梁書と御覧魏志が「漢霊帝光和中」と書いているのは、事実でしょ
事実ですよ。でも「太平御覧経史図書綱目」には『梁書』は見えませんから、ザラさんの云うように「後漢書を引く梁書の記載を書いている」というのは事実に反します。
>御覧が引用した写本には初めから「漢霊帝光和中」や「臺」と書かれていたのか?
多分そうでしょう。
>判っている事は、版本製作時に、御覧のした?事が「否定」された、と言うことです
『御覧』が何をしたと?先に私が「表記群」の話をしましたよね?『御覧』の表記はグループをなしているのです。一方、刊本『魏志』の表記は“孤独”です。
この意味するところは一つしかないと考えます。則ち、刊本に用いられた『魏志』は新出のもので、これまで諸書に用いられてきた『魏志』とは系統を異にするものであろう・・・ということです。
で、その新出の『魏志』(三国志)の出自こそが問題ですよね。これが、隋唐以前の姿を残すある種の“古本”であるなら、こんにちの刊本こそが陳寿原本に最も近いことになります。
そのような可能性を考えることは当然許されるかと思いますが、いかんせんその可能性を裏づける“根拠”がないのです。
従って、ザラさんのように、刊本こそが最もよく陳寿原本の姿を残すものである・・・という立場を取ろうとするのなら、その出自についての探求をせねばならないでしょ。それなしに“後代史料”などと繰り返しても、それはお題目に過ぎません。われわれの主張は論理を構成していますが、ザラさんの主張はそれを形成するに至っていないと考えます。
to#69492 by zarakoku
Re: また御覧の記載で「漢書の註」を否定?
2007/3/2 23:53:00
メッセージ:#69745
>普通は、後代類書の御覧が、自己判断で「壹」は「臺」の間違いだ、として、「太臺宮」と書き換えたのではないか?とも、考えるのではないのでしょうか?
それはないでしょう。だって、漢代には「太壹宮」も「太臺宮」もなく「犬臺宮」がある・・・という注なのですから、書き換えるのなら「犬臺宮」とするはずですよね?
>>しかるに、こんにち広く読まれている百衲本『漢書』(北宋・景祐刊本)には「太壹宮」と見えることから、これは宋代、刊刻に当たって用いられた『漢書』テキストにおいて、はじめて「太壹宮」という表記が出現したことを意味しています。これはまさしく、百衲本『三国志』に「邪馬壹国」とあり、それに先立つ諸書に「邪馬臺国」とある事実関係と“軌を一”にします
>刊刻者が、写本の「臺」を「壹」に間違えた、とでもされるのですか? 或いは、写本には「壹」とあった、事を否定されるのですか?
いいえ、上記文をお読みいただければ分かると思います。刊刻について云う場合の「テキスト」というのは底本という意味ですから、「太壹宮」とする写本があったのは確かだろうと思いますよ。ただ、その写本の出現時期を私は「唐末〜宋初」だろうと推定してするわけです。
>唐代には、「犬」と「太」を間違える人が、そんなに多かったのですか?
誰も多いなんて云ってませんが・・・。ザラさんは特定の文字間の誤写が頻繁に見られるとでも考えてるんでしょうかねぇ?ま、「二と三」はかなり頻出しますが、それでもすべての「二と三」を抽出して調べたら、率的には相当低いでしょう。それは「二」とか「三」とか云う文字自体の出現回数が非常に多い。古田氏の第1書でもあわせて1375個あると書かれています。その上「二と三」は版木の摩滅や文字のかすれなどで誤写されやすいことが容易に考えられます。ですから、このケースは多く発生しています。
「犬と太」ではありませんが、「犬と大」の異同については張元濟『三國志校勘記』にも2例挙げてあります。
「巻三十」第二葉後三行注、宋本の「犬」と殿本の「大」。
同巻同葉後五行注、宋本の「大」と殿本の「犬」。
いずれも宋本を誤として、殿本によって改めてあります。つまり、今日見る「百衲本」上では、既に修正してあることになります。
>「犬」と「太」の間違いだけなら「犬臺有作太臺字者」と「臺」を付けなくても、「犬有作太字者」でも十分でしょ?
これは至極もっともな指摘ですね。これから校勘記を見る時には、この点に留意しておきましょう。なんか新しい発見があるかも知れません。
ひょっとすると、「臺と壹の誤」が顔師古の唐初にまで遡るかも知れません・・・。
>私は、仕事場の自分の部屋と、少し離れた自宅の両方にPCがありましたが、今日の昼頃から仕事場のPCが動かなくなりまして、しばらくお返事がかなり遅れるのではないか?と思います。申し訳御座いませんが
ま、ぼちぼちやりましょう。こちらもふんだんに時間が使えるわけでもありませんから・・・。
to#69705 by zarakoku
Re: 淮南子の「太一宮」?
2007/3/6 23:12:00
メッセージ:#69909
>しかし、淮南子が「天神を祀る宮殿」を「太一宮」とし、またそれとは別に漢書では「太一」と「太壹」が相通じて用いられた、と言うのですから、唐代の「今書本」に、「太壹宮」の間違いだ、と解する人がいた可能性はあるのです
古田氏は第四書、175〜176頁で次のように書かれています。
−−−−−
このように検してくれば、問題の「犬臺宮→大壹宮」という改定を行なった「今の諸本」の資料的性格も明らかとなろう。「犬臺宮」という字面を奇異とし、(とくに、「臺」は「宮」を指すこととなったため、後代からはこの両字は重複と見えるようになった。また「犬」字も宮殿名ににつかわしくない。)これを「大壹宮」と「改定」しているのである。
−−−−−
古田氏自身が、173頁に引かれるように、この「犬臺宮」に続いて「走狗觀」と書かれてありますよね。「狗」は「犬」です。なんで「につかわしくない」んでしょうかねぇ?天神を祀る宮殿の方が、よほど「につかわしくない」と思いますが・・・。
それと「重複」ですが、「行臺宮」「滑臺宮」「三臺宮」「神臺宮」と、実際にあります。重複だから、別の字に書き換えたという他の例でもあるんでしょうか?
古田氏の発言には根拠がないように思えます。
to#69871 by zarakoku
Re: 「臺」は「宮」を指すから重複?
2007/3/8 23:59:00
メッセージ:#70067
>>古田氏は第四書、175〜176頁で次のように書かれています。−−−−−このように検してくれば、問題の「犬臺宮→大壹宮」という改定を行なった「今の諸本」の資料的性格も明らかとなろう。「犬臺宮」という字面を奇異とし、(とくに、「臺」は「宮」を指すこととなったため、後代からはこの両字は重複と見えるようになった。また「犬」字も宮殿名ににつかわしくない。)これを「大壹宮」と「改定」しているのである。−−−−−古田氏自身が、173頁に引かれるように、この「犬臺宮」に続いて「走狗觀」と書かれてありますよね。「狗」は「犬」です。なんで「につかわしくない」んでしょうかねぇ?天神を祀る宮殿の方が、よほど「につかわしくない」と思いますが・・・
>古田さんは、唐代の今書本が「犬臺宮」を「大壹宮」に変えた理由を、今書本の立場になって、推定しておられるだけなのです
どこが“今書本の立場”なんですか?なんで“今書本の立場”の立場に立つと、犬とは無関係な天神を祀る宮殿の話になるんですか?それを再三お尋ねしているんですがね〜。
>現代のhyena no papaさんは、事情を判ったのですから、当然「似つかわしくない」と判るだけでしょ?
は?【黄図上林有犬臺宮外有走狗觀】ですよ。
『漢書舊儀』には「苑中養百獣」とあり、『関中記』には「走狗觀、走馬觀、魚鳥觀、觀象觀、白鹿觀」とあります。つまり、動物園なワケです。その黄図上林にあるという「犬臺宮」をなんで天神を祀る「太壹宮」と書き換えるんですか?
>「臺宮」を「壹宮」に書き換えられた理由の推定、ですから、問題はありません
つまりは、古田氏の推定には根拠がないということですね。
>また、他に「〜臺宮」がある事は構いません。他に「「〜臺宮」が沢山あることを知っている人なら、「臺宮」を「壹宮」に余り書き換えませんよ
これまた古田氏の言ってることが無根拠であることの証ですね。
即ち、この犬臺宮・太壹宮における「臺と壹」について、誤写であることを否定する根拠は、古田氏にはなんら“無い”ということです。
to#70010 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/3/11 0:20:00
メッセージ:#70221
>>即ち、この犬臺宮・太壹宮における「臺と壹」について、誤写であることを否定する根拠は、古田氏にはなんら“無い”ということです
>古田さんは、願師古の注に、唐代の今書本に「犬臺宮」を「大壹宮」とかいているものある、とされているから、「太壹宮」の意味を考えて、何故そんな記載が生じたのか?を考えているだけでしょ?
だから、なんで“誤写の可能性”を考えないのか?ということですよ。「何故」と考えたのなら、「あるいは誤写か?」とも考えるでしょ?でも古田氏は「犬臺宮」とはなんの関係もない「太壹宮」に書き換えた・・・という解釈を出しているわけです。
尾崎氏が「誤りの例」としてあげた「犬臺宮〜太壹宮」を、古田氏は「改定しているのである」(第4書176頁1行)と云います。ここで古田氏は“誤写の可能性”についてはなんら触れてはいません。逆に、「壹」と改めた「悪例」「後代改定者の錯失」と断じています(同177頁)。
ザラさんは云いましたよね?古田氏は決して全ての誤写の可能性を否定しているわけではないと・・・。でも、ここではなんら誤写の可能性の検証もすることなく、無関係な例を持ち出して“改定論”に終始しています。
これでも古田氏は、誤写の可能性も認めているんですか?
>そして、太平御覧の「太臺宮」では意味は通らないのでしょ?
意味の通らないことが書かれてあるのなら、そりゃ“誤写”の可能性が高いでしょう。誤写は意味が通らなくなることはありますが、意味が通らなくなる「改定」は考えにくいでしょう。
動物園に天神を祀るというのも、意味が通じませんよね?
>だから、hyena no papaさんは「犬」を「太」に間違い説を唱えておられるのでしょ?
「、」の場所の違いですから、十分ある得る誤写です。
>太平御覧は、どうやら意図的書き換えを実行していますから、信が置けないのですよ
へぇ?すると『御覧』では、『漢書』の注文「太壹宮」を「太臺宮」と“書き換えを”したと?意味の通じなくなる“書き換えを”?
意味が通じるように“書き換え”ると云うのなら分かりますが、意味が通じないように“書き換え”たというのは、ちょっと考えにくいですね〜。ザラさんには考えられるんですか?この、意味が通じなくなる“書き換え”というのは・・・?
to#70155 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/3/15 23:49:00
メッセージ:#70464
>何度も書きましたが、古田さんは、誤写の可能性を、別に否定されていませんよ
でも、実際にはその例を(必要十分な根拠を以て)挙げてはいないのじゃありませんか?
>>>そして、太平御覧の「太臺宮」では意味は通らないのでしょ?
>>意味の通らないことが書かれてあるのなら、そりゃ“誤写”の可能性が高いでしょう。誤写は意味が通らなくなることはありますが、意味が通らなくなる「改定」は考えにくいでしょう。動物園に天神を祀るというのも、意味が通じませんよね?
>それなら、太平御覧が「孫引き」した「太壹宮」の記載が問題なのではありませんか?
何のことでしょう?「孫引き」した「太壹宮」の記載ってのは・・・?『御覧』は「太臺宮」ですよね。
>「犬」を「太」の間違う例は、なかったのではないのですか?
今のところ知りません。『漢書』の例以外には・・・。
>>>平御覧は、どうやら意図的書き換えを実行していますから、信が置けないのですよ
>>へぇ?すると『御覧』では、『漢書』の注文「太壹宮」を「太臺宮」と“書き換えを”したと?意味の通じなくなる“書き換えを”?意味が通じるように“書き換え”ると云うのなら分かりますが、意味が通じないように“書き換え”たというのは、ちょっと考えにくいですね〜。ザラさんには考えられるんですか?この、意味が通じなくなる“書き換え”というのは・・・?
>師古の「今書本」の引用を、孫引きした太平御覧に文句を言われたらどうですか?
話を逸らさないでくださいな。ザラさんは誤写ではなく、書き換えだと考えるんでしょ?「犬臺宮→太壹宮」にしろ、『御覧』の「太臺宮」にしろ。書き換えだというのなら、意味が通るように書き換えるはずでしょ?意味が通らなくなる書き換えをするって、ザラさんは考えられるんですか?というお尋ねですよ。
to#70379 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/3/18 0:28:00
メッセージ:#70582
>>話を逸らさないでくださいな。ザラさんは誤写ではなく、書き換えだと考えるんでしょ?「犬臺宮→太壹宮」にしろ、『御覧』の「太臺宮」にしろ。書き換えだというのなら、意味が通るように書き換えるはずでしょ?意味が通らなくなる書き換えをするって、ザラさんは考えられるんですか?というお尋ねですよ
>私は「太臺宮」の意味は判りませんよ
いや、ザラさんがその意味を知っているかどうかを聞いているんじゃなくて、「太臺宮」にしろ「太壹宮」にしろ、書き換えだとは考えるのに、誤写とはなぜ考えないのか?と言う疑問なんです。
古田氏は「太壹宮」が「天神を祀る宮殿」の意味で、「犬臺宮」ではオカシイからそう書き換えた・・・と主張されているでしょ?しかし、それは筋違いの説明でしたよね。「犬」の話ですから。ですから、やはり古田氏にも書き換えの理由は分からない。
でも「誤写」とは考えない・・・ということですよね?それはなにゆえだろうか?と思うんです。それほどまでに「誤写」との考えを避けるのは・・・。古田氏は、誤写の可能性を全て否定するわけじゃないんですよね?じゃ、ここでも「誤写」の可能性を一応考えてみるべきだったのでは?
でも、それをしないで「犬」とは無関係な「天神」の話を持ってきて説明しようとした。それは通りません。
to#70552 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/3/24 0:04:00
メッセージ:#70872
>>>私は「太臺宮」の意味は判りませんよ
>>いや、ザラさんがその意味を知っているかどうかを聞いているんじゃなくて、「太臺宮」にしろ「太壹宮」にしろ、書き換えだとは考えるのに、誤写とはなぜ考えないのか?と言う疑問なんです
>願師古が、「今書本」に「大壹宮」と書いたものがある、とし、それは「太壹宮」の事だとして「漢代には太壹宮はない」と書いているのですから、この段階では、ストーリーに問題はありません
それを古田氏は「犬臺宮→太壹宮」への書き換えだと説明するわけですよね?でも、書き換えだと考えるには根拠に乏しい。ですから、「誤写とはなぜ考えないのか?」という疑問を持つのです。
>その「大壹宮」を、太平御覧が「太臺宮」と書いたから、問題になっただけです
いいえ、「太臺宮」というのは、私が探し出してきたものですから、古田氏の所論には影響ありませんよね?尾崎雄二郎氏が、「臺と壹の誤写例」としてこの「犬臺宮、太壹宮」を引き合いに出した。それへの反論として古田氏は「太壹宮への書き換えである」とした。つまり、誤写を否定したのです。
で、書き換えの理由としてあげたのが、上記の「太壹宮=天神を祀る宮殿」。これは理由にはならない。幾度も説明したとおりです。つまり、尾崎氏の「誤写説」を否定するには至っていないということです。
>つまり、「今書本の誤解書き換え」の意味を、願師古の指摘に合わせて、理解して(判って)あげただけなのです
顔師古が「誤解書き換えだ」と云っているんですか?「誤也」としか書いてありませんよ。「誤也」がなんで「書き換え」という意味になるんですか?説明をお願いします。
>結局、また、hyena no papaさんの古田誹謗が、顔を出しているようなのです
根拠のある正当な批判です。それを“古田誹謗”などというのは、ザラさんの私への“誹謗”と受け止められてもやむを得ないでしょう。
>「犬」とは無関係な「天神」の話と繋げる意図があったのは、願師古なのです。「太壹宮」と言う言葉を出したのですから
「言葉を出した」んじゃなくて、「今書本」に書いてあるんですよ。
>だから、hyena no papaさんは願師古に「通りません」と文句を言っている事になるのですよ
顔師古が「天神を祀る太壹宮」なんて云ったのですか?それを云ったのは古田氏でしょうが・・・。
to# by
Re: 「間違いだ」とは9割以上言えない
2007/3/25 23:05:00
メッセージ:#70965
>三国志の「臺」の全例調査だけで9割強は「朝廷禁省」の至高文字での使用で
その「9割強」ってのは、私のサイトに紹介したもののうち、どれどれなんでしょうか?
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/sangokushi_no_dai.html
>その上、刊本の文献的には全て「壹」であり
機械的にコピーしたものだから、当然。刊本間で異同の生じる可能性は「0.5%」程度。刊本間で「壹」に異同が生じなくとも不思議ではない。
>他の金石文や前代や同時代文献文字として「壹」と「臺」は似ていないし
似ていなくとも誤写されうる。
>「間違いだ」とは9割をはるかに越えて言えないのです
でも、間違いはある。これが現実。「魏臺訪議と魏壹訪議」「如臺と如壹」「太臺宮と太壹宮」「沙臺と沙壹と沙壺」。
>>あれ?ザラさんはこの「邪馬臺国」という呼称が、5世紀、倭の五王の時代にもたらされたものだと考えてるんじゃなかったですか?いつから「范曄の勇み足」になったんですか?
>いえ、4〜5世紀はいいのですが、3世紀以前は、前項のように「至高文字」などの理由で9割以上の確率で「邪馬臺国」の記載が否定されますから
「否定され」ません。ザラさんは、#70821で、「魏臺」は「高堂隆が個人的に「呼んだ」と書かれているじゃありませんか!?個人的なものなら、別に他の人が使う分には構わんでしょうに・・・。だから、京観としても「臺」という文字が使われている。
>古田さんの「邪馬壹」は「邪馬倭」説によって、「邪馬壹国」は「倭国」とそのまま呼ばれるようになったのかな?と想像しているだけです
またまたなんか意味がよく分かりませんね〜。「邪馬壹国」が「倭国」とそのまま呼ばれることになった?じゃ、奴国がその極南界にある「倭国」や、安帝永初元年の「倭国」は一体何なのですか?
to#70894 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/3/27 22:42:00
メッセージ:#71021
>>>願師古が、「今書本」に「大壹宮」と書いたものがある、とし、それは「太壹宮」の事だとして「漢代には太壹宮はない」と書いているのですから、この段階では、ストーリーに問題はありません
>>それを古田氏は「犬臺宮→太壹宮」への書き換えだと説明するわけですよね?
>違いますね。「今書本」に「犬臺宮→大壹宮」としたものがある、と説明したのは願師古です。古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです
「違いますね」。第4書175頁、
−−−−−
このように検してくれば、「犬臺宮→太壹宮」という改定を行なった「今の書本」の史料正確も明らかになろう。「犬臺宮」という字面を奇異とし、(とくに、「臺」は「宮」を指すこととなったため、後代からはこの両字は重複と見えるようになった。また「犬」字も宮殿名ににつかわしくない。)これを「太壹宮」と「改定」しているのである。
−−−−−
これでも「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」か?ちゃんと「改定」と言ってるじゃありませんか!
>>でも、書き換えだと考えるには根拠に乏しい。ですから、「誤写とはなぜ考えないのか?」という疑問を持つのです
>願師古は「誤写だ」とは決めていないようです。
「改定」とも決めてはいません。
>「今書本」が何らかの考えで記載した、と言うように考えたのでは有りませんか?
そんなことは言っていません。【今書本犬臺有作太壹字者誤也漢無太壹宮也】です。「何らかの考えで記載した、と言うように考えた」なんてどこからそういう解釈が出てくるんですか?手前みそもいいところです。
>>顔師古が「誤解書き換えだ」と云っているんですか?「誤也」としか書いてありませんよ。「誤也」がなんで「書き換え」という意味になるんですか?説明をお願いします
>「誤也」ですから、別に「誤写だけだ」とは言っていないのです
「改定」だとも言っていませんよね?
>当然他の「誤り方」の可能性も含むのです。その一つが、意図的書き換えですよ
上述の通り、古田氏は「改定」としています。なんで「誤写の可能性」を考えなかったのか?
177頁からも引用しましょう。
−−−−−
したがってこの例は、“『三国志』以外ではあるけれども、「壹と臺」の両字面の錯誤が存在した”という屈強の事例として、尾崎氏によって提出されたのであるが、その実は、“原文の「臺」を軽々しく後代の知見をもっと「壹」と改めた”という悪例だったのである。
−−−−−
どうですか?顔師古が「誤也」としか書いていないところを古田氏は「改定」「改定」「改めた」と結論していますよね。
再度書きます。これでも、
>古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです
なんですか?
特に“「犬」字も宮殿名ににつかわしくない”なんてのがオカシイ。「犬臺宮」の直後に「走狗觀」と見えているのに、なんで“につかわしくない”んでしょうか?
>尾崎さんの話は、この「今書本」の「誤写の可能性の指摘」に留まるものです
重要な指摘です。それを古田氏は根拠にならない根拠を以て「改定」とした。尾崎氏と古田氏、どちらの言い分に利があるか?お分かりになりませんか?
to#70983 by zarakoku
Re: 甘い論法
2007/3/28 23:58:00
メッセージ:#71052
先にこれにレスを付けます。
>>でも、間違いはある。これが現実。「魏臺訪議と魏壹訪議」「如臺と如壹」「太臺宮と太壹宮」「沙臺と沙壹と沙壺」
>これらは、何時の時代の話なのでしょうか?
ご覧下さい。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/tai_ga_tadashii.html
>以前にも書いた「甘い論法」ではないのですか?
どういう意味でしょうか?
>>>いえ、4〜5世紀はいいのですが、3世紀以前は、前項のように「至高文字」などの理由で9割以上の確率で「邪馬臺国」の記載が否定されますから
>>「否定され」ません。ザラさんは、#70821で、「魏臺」は「高堂隆が個人的に「呼んだ」と書かれているじゃありませんか!?個人的なものなら、別に他の人が使う分には構わんでしょうに・・・。だから、京観としても「臺」という文字が使われている
>やはり無理なのではありませんか?陳寿よりもはるかに高い身分の高堂隆が、天子を「魏臺」と呼んでいるのに、下役人の陳寿が夷蛮の国名に「臺」を付けることは、まず考えられません
まず、天子を「魏臺」と呼んでいる・・・というのは、古田氏の解釈に過ぎません。事実ではありません。ですから、「のに」などと次へ進むことは難しいでしょう。
それから、「下役人の陳寿が夷蛮の国名に「臺」を付けることは、まず考えられません」というのなら、その「下役人」の陳寿が、高堂隆が天子を「臺」と称したのに、自身の本文中で天子のことを「臺」と一言も書いていないのは、「まず考えられません」。
本日も博士から「天子」「朕」「上」「皇帝」「陛下」についてのご教示がありました。「臺」が恐れ多い言葉だという証拠はないんですよ。
いま、『册府元龜弁言』の釋読を進めているところですが、その『册府元龜』の「序」は面白い書き方をしてあります。「皇」「天」「君」という文字を、他の行頭の文字よりも一段高く記してあるのです。ひょっとすると、こういうのは懼れ多い“至高文字”と言えるのかも知れません。また、『太平御覧』序文でも、「祖」「宗」「聖」「御」「皇」「聖」「太」「宋」などの文字は、文中であっても、一々“改行”して書かれてあります。これは、聖上を懼れての表記法なのでしょうね。
この『册府元龜』序中に「臺」の文字があります。第4葉後葉第1行2文字目です。残念ながら、一格を高ずる書き方とはなっておりません。ま、宋代のことですから、魏代の参考とはならないでしょうが・・・。
>>>古田さんの「邪馬壹」は「邪馬倭」説によって、「邪馬壹国」は「倭国」とそのまま呼ばれるようになったのかな?と想像しているだけです
>>またまたなんか意味がよく分かりませんね〜。「邪馬壹国」が「倭国」とそのまま呼ばれることになった?じゃ、奴国がその極南界にある「倭国」や、安帝永初元年の「倭国」は一体何なのですか?
>金印の国は、本来は「委奴国」でしょ?
「金印の国は」「倭奴国」です(『後漢書』「帝紀」「倭伝」、袁宏『後漢紀』)。
>「倭国」かどうか?は明確ではありません
「倭奴国」が「倭国」とは言っておりませんよ。「奴国がその極南界にある」「倭国」ですよ。『後漢書』「倭伝」ご存じなんでしょ?
>また、倭國王帥升等は、「等」の通りであれば何人か代表がいた事になり、文字通り、その中で「倭」を代表したのでしょう
文面通り「倭國王帥升等」を読むと、「帥升」は「倭国王」です。「何人か代表」がいたかどうか分かりませんが、彼らは「倭国王」でないことは確かです。「倭国王」が何人もいるわけありませんから・・・。
>だから、まだ、倭の構成諸国の方の権威が強く残っているのではありませんか?
たったあの何文字かで、「倭の構成諸国の方の権威が強く残っている」なんて読み取るんですか?それはスゴイですね〜。肯定するにしろ否定するにしろ根拠がありませんから、何とも申し上げようがありません。
to#71050 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/4/1 22:11:00
メッセージ:#71195
>>>違いますね。「今書本」に「犬臺宮→大壹宮」としたものがある、と説明したのは願師古です。古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです
>>「違いますね」。第4書175頁、−−−−−このように検してくれば、「犬臺宮→太壹宮」という改定を行なった「今の書本」の史料正確も明らかになろう。「犬臺宮」という字面を奇異とし、(とくに、「臺」は「宮」を指すこととなったため、後代からはこの両字は重複と見えるようになった。また「犬」字も宮殿名ににつかわしくない。)これを「太壹宮」と「改定」しているのである。−−−−−これでも「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」か?ちゃんと「改定」と言ってるじゃありませんか!
>願師古が「誤也」と指摘した「犬臺宮→太壹宮」の変化は、「今書本」に変化があったのですから、それを「今書本の改定」と言っても、何もおかしくありませんよ
まず「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」というのが間違いであることは認めますよね?ザラさん自身が
>それを「今書本の改定」と言っても、何もおかしくありませんよ
と発言しているわけですから。
それから、顔師古は「誤也」としか書いていないものを「今書本の改定」
と解釈するのはあまりに身勝手です。「誤=改定」なんですか?
>そして、古田さんは、改定の意味や理由を考察説明されたのでしょ?
これからも、ザラさんの先の発言「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」が誤認であることは明らかです。
>願師古が「誤也」と言ったものを「誤写だ」と決め付ける尾崎さんは、何か「誤写」である根拠を言われたのですか?
そんなことを言う前に、「誤也」としか書いていないのを「改定」とした古田氏や、「改定」と言っている古田氏の発言を誤認して「考察されただけです」と言われたザラさん自身のことを振り返るべきじゃありませんか?
to#71084 by zarakoku
Re: 甘い論法
2007/4/2 22:12:00
メッセージ:#71243
>いくら同じ後漢書内であっても、内容Aが間違いだから、内容Bも間違いだ、なんて甘い論法は通りませんよ
あれ?おかしなことを仰いますよね。古田氏は『三國志』中の「臺と壹」を全数検査された。で、「邪馬壹」「壹與」以外は間違えられてはいない・・・、だから「邪馬壹」「壹與」も間違いじゃないであろう。違いますか?昨日私が書いたレスも、そんなザラさんの考えへの反論だったはずですが・・・。
>これだけでなく、「魏臺訪議と魏壹訪議」「如臺と如壹」「太臺宮と太壹宮」「沙臺と沙壹と沙壺」が、本当に間違いなのか?は、確認しなければ判りません
どうぞ、ご確認下さい。その結果を期待しております。
>「太臺宮と太壹宮」は既に議論したように、間違いではなく「考えて判断した上での記載」である可能性があります
どのような“判断”なのですか?
to#71151 by 71151
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/4/5 0:25:00
メッセージ:#71347
>ふーん、何かまた言葉尻を極論に解釈して、論難しようとされているのですね。性格は直らないようですね
そんなこという前に、ご自分の発言が古田氏の書かれていることと食い違っていることを素直に認めるべきじゃありませんか?
>願師古は、「漢無太壹宮也」と追記しており、もしも「誤記」であれば漢代に「太壹宮」のある話など全く必要がないのですから、願師古も「大壹宮」を意味のある書き換えだ、と考えている事になるのですよ
なんちゅう解釈をするんでしょうか?これまた“我田引水”の見本。「漢代に」って、この注文は何に附せられたものなんですか?『漢書』でしょうが・・・。『漢書』「江充傳」の【初充召見犬臺宮】の注文なんですよ。その「犬臺宮」を今の書本に「太壹宮」としているものがあるが・・・という話です。なんで、
>漢代に「太壹宮」のある話など全く必要がないのですから
なんて考えになるのか?
わかりませんか?
>>>願師古が「誤也」と言ったものを「誤写だ」と決め付ける尾崎さんは、何か「誤写」である根拠を言われたのですか?
>>そんなことを言う前に、「誤也」としか書いていないのを「改定」とした古田氏や、「改定」と言っている古田氏の発言を誤認して「考察されただけです」と言われたザラさん自身のことを振り返るべきじゃありませんか?
>では、尾崎さんは「誤写」の説明はしておられなかったのですね
あのですね〜。ご自分が「虚偽」を述べていることへの自覚は無いんですか?古田氏の話ですら、誤認して臆するところもない・・・というのは、最早古田氏に対する“侮蔑”ともいえるかも知れませんよ。
尾崎氏の主張についてはご自分でお調べ下さい。手元には京都大学教養部「人文」第16集のコピーがありますしご紹介も出来ますが、確か『邪馬台国基本論文集V』にも収録されていたと思いますので、ご自分の足でお確かめ下さい。少しは努力も必要でしょう。
>また、「改定」に一生懸命に拘っておられますが、前項の通りですから、hyena no papaさんは、ご自分の「言葉尻極論解釈論難」の性格を振り返るべきじゃありませんか?
「改定」に一生懸命に拘っておられますが・・・って、飽くまでもザラさんは自身の“誤認”については認めようとしないのですね?
古田氏の本もロクに読んでいない。読んでも誤認する。言ってもいないものを言ったように主張し、言っていることを言っていないように主張する・・・。
私が古田氏だったら、ザラさんのこの有様は迷惑千万と感じるでしょう。
to#71238 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/4/8 0:21:00
メッセージ:#71605
一点だけ、先にレスしておきます。
>今の書本にあるのは「大壹宮」です。「太壹宮」ではありません。
あら、そうでしたね〜。「百衲本」『漢書』(北宋景祐刊本)ではそうでした。古田氏が第4書で書かれていたのも、この「百衲本」からの引用でした。
私の手元には「仁寿本二十五史」『漢書』というのがあって、これは北宋淳化年間の刊本なのですが、「百衲本」の景祐より数十年先行します。これには「太壹宮」とあります。
「太壹宮」でなければ文意が通らないと思いますが、ま、私のことを余り信用していないザラさんのことですから、素直に受け止めていただけるかどうか・・・。
to#71590 by zarakoku
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/4/13 22:48:00
メッセージ:#71914
>>>ふーん、何かまた言葉尻を極論に解釈して、論難しようとされているのですね。性格は直らないようですね
>>そんなこという前に、ご自分の発言が古田氏の書かれていることと食い違っていることを素直に認めるべきじゃありませんか?
>また、変な話を宣伝しようとしているのですか?
私は、別に古田説を100%完全に同じことを言っている、などとは思っていませんよ。言葉や表現が違えば、少し内容は変わるでしょうし、記憶で書けば、少し思い違いも有り得るでしょう
「記憶で書けば、少し思い違いも有り得るでしょう」って“思い違い”を認めてるんですか?
>「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」というのが間違いであることは認めますよね?
についてですが・・・。それなら「変な話を宣伝しようとしている」というのはおかしな話です。
>最低、hyena no papaさんのように部分の言葉尻を取り出して、曲解して誹謗しようなどとは思っていませんから
自分が矛盾を指摘された部分は“言葉尻”と矮小化する・・・。ザラさんは「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」と仰った。これは、古田氏の発言とは食い違っていますよね。ご自分で記載頁や内容も把握していながら、古田氏の発言と違うことを云う。
「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」というのは、ザラさんの誤認ですよね?
>「食い違っていることを素直に認めるべきじゃありませんか?」と言われると、いかにもhyena no papaさんが全てを判った上で、素直でない人を諭した形になってしまっていますね
実際に、誰が読んでも食い違っているでしょ?古田氏は「考察されただけ」なんですか?違うんでしょ?「改定」と云われたでしょ?
>>>願師古は、「漢無太壹宮也」と追記しており、もしも「誤記」であれば漢代に「太壹宮」のある話など全く必要がないのですから、願師古も「大壹宮」を意味のある書き換えだ、と考えている事になるのですよ
>今の書本にあるのは「大壹宮」です。「太壹宮」ではありません
この件については、既に最古の刊本を引いて説明しました。
>だから、顔師古は、単なる誤字ではなく、「太壹宮」と言う意味のある書き換えだ、と理解しているのです
「誤也」です。古田氏も第4書174頁で書かれているとおり、顔師古が「書き換えだ」と考えている部分については「流俗所改耳」と「改」の字を用いています。「誤也」は「誤なり」で、それ以上のものではありません。
>まだ、判りませんか? また、言葉上手に誤魔化されますか?
云ってもいないことを云っているように主張するのは「誤魔化し」です。
>
>あのですね〜。ご自分が「虚偽」を述べていることへの自覚は無いんですか?古田氏の話ですら、誤認して臆するところもない・・・というのは、最早古田氏に対する“侮蔑”ともいえるかも知れませんよ。
>「改定」に一生懸命に拘っておられますが・・・って、飽くまでもザラさんは自身の“誤認”については認めようとしないのですね? 古田氏の本もロクに読んでいない。読んでも誤認する。言ってもいないものを言ったように主張し、言っていることを言っていないように主張する・・・。私が古田氏だったら、ザラさんのこの有様は迷惑千万と感じるでしょう
>
>hyena no papaさんは、こうゆう風な言い回し方が、上手なのですね。おそらくまた何人かの人は、またそう思うのでしょうね。
いえ、感心しているのですよ
“言い回し方”ではなく、古田説に立って論戦しているザラさんが、古田氏の所論を間違って紹介している事への反省はないのですか?というお尋ねなのです。
再度書きます。「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」というのが間違いであることは認めますよね?
to#71590 by zarakoku
Re: 気持ち悪い理由
2007/4/16 21:48:00
メッセージ:#
>正直申し上げて、往生際が悪くてとっても気持ち悪いです
ザラさんみたいなのを“這っても黒豆”っていうんでしょうね〜。古田氏が「改定」と云っているのに、「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」と書いちゃって、それを撤回しようともしない・・・。
古田説の立場を取りながら、古田氏の本すらきちんと読んでいない。これじゃ、古田氏も迷惑でしょう。
ザラさんが古田氏と違った意見を持つことは、それで結構なことなんですが、古田氏の所論を誤って紹介するなどというのは、怪しからんことだと思うのですがね・・・。
to#72194 by pikupopodemi
Re: 唐代の「今書本」の記載理由
2007/4/16 22:21:00
メッセージ:#72198
また逆順でレスを差し上げます。
>>>「食い違っていることを素直に認めるべきじゃありませんか?」と言われると、いかにもhyena no papaさんが全てを判った上で、素直でない人を諭した形になってしまっていますね
>>実際に、誰が読んでも食い違っているでしょ?古田氏は「考察されただけ」なんですか?違うんでしょ?「改定」と云われたでしょ?
>古田さんは、尾崎さんの、唐代の今書本の「壹」と「臺」の誤謬説に対して、願師古が、単純な誤謬とは採らずに「漢無太壹宮也」として意味ある書き換えだ
まずこの時点でウソですね。顔師古が「意味ある書き換え」をしたと、どこに書いてありますか?原文は以下の通りです。
【師古曰今書本犬臺有作大壹字者誤也漢無太壹宮】
この短い文面から、どう読めば「意味ある書き換え」と読みとれるんでしょうか?【漢無太壹宮】は【誤也】と考えた理由であって、「書き換え」の理由ではありませんよ。【誤也】を「書き換え」と解釈したのは飽くまでも古田氏。
>願師古の話の説明をしただけです
古田氏自身、顔師古の書いていることを次のように書いています。
−−−−−
唐の顔師古は、当時(唐代)の本に、この「犬臺宮」を「大壹宮」としているものがあることを指摘した上、これはあやまりだ、と判断した。
−−−−−
続いて古田氏は、顔師古が“改めた”例を挙げていますね。「流俗、改むるのみ」と。そして、古田氏は次のように書いています。
−−−−−
このように検してくれば、問題の「犬臺宮→大壹宮」という改定を行なった「今の書本」の史料性格も明らかとなろう。
−−−−−
お分かりですか?「犬臺宮→大壹宮」を「改定」と云っているのは、顔師古ではなく、古田氏なのです。これでも、「考察されただけ」なんですか?顔師古が云っていないことを古田氏はちゃんと「改定」と云っているじゃないですか。
>>「誤也」です。古田氏も第4書174頁で書かれているとおり、顔師古が「書き換えだ」と考えている部分については「流俗所改耳」と「改」の字を用いています。「誤也」は「誤なり」で、それ以上のものではありません
>いえ、願師古は、今書本の単純な文字の誤謬ではなく、今書本の意味のある書き換え、を「誤也」と言っているのです
上に紹介した短い文章のどこから「書き換え」と読みとれるんですか?ハッキリと説明してください。
>>“言い回し方”ではなく、古田説に立って論戦しているザラさんが、古田氏の所論を間違って紹介している事への反省はないのですか?というお尋ねなのです。再度書きます。「古田さんは、太壹宮の意味を考察されただけです」というのが間違いであることは認めますよね?
>正直申し上げて、執念深くて少し気味が悪いです
ザラさんは、私を含む他の投稿者(特に畿内説諸氏)に対してばかりではなく、古田氏に対しても“不誠実”だと言えるんじゃないでしょうか?
この無感覚の方が、よほど「少し気味が悪いです」。
to#72191 by zarakoku
Re: 倭国の都は筑紫
2008/4/25 0:17:00
メッセージ:#95299
>>何ですか?その「唐代の一種の「何でも間違い論」」ってのは・・・
>「臺與」も「景初三年」も、唐〜宋代文献や写本を引き継いだ刊本に「壹與」や「景初二年」の記載があるし、倭の都の「馬臺」も、唐代以降にいろいろな呼称があったし、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamai232.html
の、(4), 犬臺宮と太壹宮について の議論でも、指摘した事
別に「おとぼけ」でも何でもなくて、これらの現象については、以前から明快な自説を紹介してきていると思いますが・・・。
「邪馬臺」と「邪馬壹」を例に挙げれば、刊本以前に『魏志』を引用・参照した文献に「邪馬壹」の例が“皆無”であること。
これは、「邪馬壹」の表記が、刊本成立の少し前に生じたと考えることによって、実に簡明に理解できます。
張楚金が「馬臺」と書いたのも、恐らく「邪馬臺」の節略かと考えますが、これにしても、張楚金の見た『魏志』に「邪馬臺」とあり、また「臺與」とあったことの明白な証拠となります。
非常に簡単な論理なんです。それを「オリジナルは邪馬壹だ」と考えるから、さまざまな事態を想定しないと説明できなくなる・・・ということです。
>朱蒙伝説に、文献的根拠や伝承が存在することが明確であれば、空想ではないのですから、技法的問題はありませんよ
それなら、『翰苑』の「[魚是]壑」「鼇波」も『魏略』という「文献的根拠や伝承が存在する」とは考えられませんか?
どこかに「社会的信用はなくなる」ような事態が存在するんでしょうか?
>雍公叡は、漢書後漢書を知っていれば、彼は分割を意図していませんよ。それを「魚是人」の根拠を示さずに分割したのは竹内さんで、それを盾に取っているのがhyena no papaさんです
『漢書』『後漢書』に出てくる「東[魚是]人」と、雍公叡が注引した『魏略』にみえる【[魚是]壑東[魚是]人居】の「東[魚是]人」の部分が、“同じものだ”という根拠は必要ないんですか?
例えば『魏略』にも「會稽海外[魚是]壑」なんて文言があれば連想もするでしょうが、そんな表記はなく、ただ【[魚是]壑東[魚是]人居】なんですからね・・・。
この二つを“直結”した古田氏の読み方よりは、竹内氏の読みが「飲みやすい」ということです。
>このハングルの分割読みの根拠が必要であるだけ
もう、ザラさんは【[魚是]壑東[魚是]人居】の中の「東[魚是]人」が、“不可分”の文字に見えてるんでしょうねぇ?
>の「魚是壑」以降の文が、魏略の文としたら、それは何故何を書いた、と言うことにされるのですか?
は?そんなことがどうして私に分かるんですか?魚豢がその文を書いた理由を・・・。不思議なことを仰る。
>>『翰苑』本文には、東[魚是]人など出てきませんが・・・。「會稽海外」の東[魚是]人の記事から、どうして「三韓条」の「[魚是]壑」を「東[魚是]人のことだと考えたんですか?飛躍が過ぎるように思いますが・・・
>漢書後漢書の「東魚是人」記載を知っているはずの雍公叡が、「魚是壑」の「魚是」に対して「東魚是人」と言う解釈を示しているからで
ほらまた・・・。雍公叡が「東魚是人」と言う解釈を示しているから・・・って、どうして分かるんですか?
ザラさんは別々の人の考えが混じり合っていませんか?
>「東魚是人」と言う解釈を示している
のは、古田氏。
to#95281 by zarakoku
Re: 間違いだとするのが簡単なのは当たり
2008/5/2 23:38:00
メッセージ:#95721
>>だから、妥当性が高いのですよ
>いえ、間違いだったのではなくそれなりの事情が有った、と言う可能性を(頭から)無視しているから
なんですか?その「それなりの事情」って・・・?宋代刊行されるまでの間、例外なく「邪馬壹」の「壹」を「臺」と書き換えたという「事情」ですが・・・?そのような想定をしなければならないということが複雑だと申し上げています。
唐末五代あたりまでは「臺」であったと考えれば、いとも簡単に説明が出来ます。「壹」への誤写はそれ以降に生じたのだ・・・と。
この考えが成立困難だとでも仰る?
>「何でも間違いの可能性がある」と言う論理を突き詰めれば、hyena no papaさんがいいと思われる史料もhyena no papaさんの意見も、全て「間違いの可能性がある」のですから、それも否定しなければならないから、「無」になってしまう、と言う話
やっぱり、意味がよく分かりませんね〜(〜_〜;)
陳寿原本は「邪馬壹」なんですよね?ザラさんの考えは・・・。で、史料事実としては「邪馬壹」と引用・参照した文献は皆無。なら、「邪馬臺」と書いた文献は、皆「まちがい」でしょ?これぞ「何でも間違い」じゃありませんか?
>その時点での筆者の認識としては認めるが、幾つかの情報の中で、根拠や論としてベターなものを選択して、それに拠って立論する、と言うお考えでしょ?
現実に、多くの「邪馬臺」という表記は斥けていますよね?刊本を“是”とするんですから・・・。「ベターなものを選択」って、刊本以外に何か選択しましたか?刊本と相反する表記を持つもので・・・。
>採用しなかったものも、時と場合に拠っては正しい可能性がある、と言う事です
古田氏がそんなことを言っている具体的事例をご紹介下さい。
>いえ、おそらく、後漢書以降には倭の都の国は、実際に「邪馬臺」や「邪靡堆」や「邪摩惟」や「邪馬堆」などという呼称であったであろう、と言う事で、だから、唐代には「壹」と「臺」の間違い論もあったから、「邪馬壹」は「邪馬臺」の間違いだったのだろう、と言う考えがスンナリ受け入れられ、史書などでは、「邪馬壹」と書く著者がいなくなっていたのだろう、と言う事です
それが、“複雑な”説明だと言うんです。誰一人「邪馬壹」と書く著者がいなくなっていたのだろうってのは、怪奇現象ですね。皆さん、目の前の『魏志』には「邪馬壹」と書いてあったんですよね?それなのに、例外なく「邪馬臺」と書き換えた。根拠のない推定です。
刊本までの間に「邪馬壹」という表記があったという“証人”などいないんですよ。
>>「臺」と「壹」の「混乱」などなかった!あるというのなら、その史料事実を挙げてください
>の(4), 犬臺宮と太壹宮について、を参照
−−−−−
何故「邪馬壹」と引用・参照する文献がないのか?その事実からは、ザラさんのいうような「混乱」など、なかった!ということに他ならないという結論にしか得ることが出来ません
−−−−−
の話ですよ。
「臺」と「壹」が誤写されうる例は私自身がHPで挙げています。そうではなくて、私が言っているのは、何故「邪馬壹」と引用・参照する文献がないのか?ということです。
「邪馬壹」「邪馬臺」の“混乱”がありますか?どこかに・・・。
to#95536 by zarakoku
相変わらずの卑怯な議論テクニック?
2008/10/24 23:39:00
メッセージ:#108462
どこが?
>それで、「差異と誤写の違い」はどうなったのですか?。それには答えないで、また反転質問ですか?
「差異」は「誤写」ですが・・・。何度言えば分かるんですか?オリジナルは一つ。オリジナルと違うものは誤写。
>はいはい、「犬臺宮と太壹宮について」もそうですよ
あれ?「邪馬壹」と「邪馬臺」はどうなったのですか?。それには答えないで、また反転質問ですか?。(相変わらずの卑怯な議論テクニック?。)
で、「邪馬壹」なんて表記は存在しませんが・・・についてのお返事はどうなりました?
ザラさんは唐代に「邪馬壹」と書いた写本が実際にあったということを「必要にして十分な論証」で示して頂きたい。傍証ではいけませんよ。
>私も唐代の「壹」と「臺」の混乱や「誤謬論」の例証としたような記憶があります
あのですね〜。根本が理解できてないようですね。『魏臺訪議』というよく知られた書名が『魏壹訪議』と誤られている。
まさかザラさんもこれが誤写ではないとは言いませんよね?正史の注にも引用されるくらいよく知られた『魏臺訪議』が確かに誤写されている。
確かに「臺」であるべきところを「壹」と誤っている確固たる事例だということです。
「壹」が「臺」と誤写されたものではありませんよ。もちろん、その可能性を否定するものではありませんが、実際の漢籍上に見えるのは「邪馬壹」であるのか?「邪馬臺」であるのか?「壹與」であるのか?「臺與」であるのか?
これら文献上の諸事実を併せて考えてみて下さい。「壹→臺」と「臺→壹」とどちらに高い蓋然性が認められるか?
後者でしょ?
これに対する反論は何ですか?史料的根拠を以て反論してみて下さい。
>明確に「誤字だ」と断定抹消出来るものは知りません
オリジナルは一つでしょ?違うんですか?
「担当者の大切な証言の記録」って、それはザラさんの斥ける“後代史書”上の表記ですよね?なんでそんなものをこともあろうにザラさんが「大切」と言うんですか?
それが「担当者の大切な証言の記録」と言えるのなら、多くの「臺」証言こそ、「担当者の大切な証言の記録」のはずですが・・・。その「担当者」が「臺」を見た!という・・・。
to#107939 by zarakoku
Re: 相変わらずの卑怯な議論テクニック?
2008/11/22 23:06:00
メッセージ:#109765
>唐代での「壹」と「臺」の混乱があった事について、『「邪馬壹」と「邪馬臺」のですか?』、と言われたので、『はいはい、「犬臺宮と太壹宮について」もそうですよ』、とお答えしています。
>「も」が付いているのを見逃されたのですか?。だから、「邪馬壹」と「邪馬臺」を肯定した上で、犬臺宮と太壹宮について「も」そうだ、とお答えしているのです
だから、唐代の「邪馬壹」と「邪馬臺」の混乱がどうして肯定できるのか?聞いたつもりだったんですが・・・。唐代にはこの「邪馬壹」と「邪馬臺」両方があって、それが書物によって混乱した表記を見せている・・・というのなら、その史料を挙げて貰えばいいだけのことです。
そうではなくて、「犬臺宮と太壹宮について」もそうですよと答えた。私が聞いたのは「邪馬壹」と「邪馬臺」の混乱。
>私はちゃんと答えているではありませんか
どこでですか?「邪馬壹」と「邪馬臺」についてですよ。唐代の混乱ですよ。どこで答えました?
>>で、「邪馬壹」なんて表記は存在しませんが・・・についてのお返事はどうなりました?
>前項で「戻した」部分の中の、「そして」の後に、お返事を書いておりますよ
>「邪馬壹」は、「邪摩惟」の存在と
ですか?私がお尋ねしたのは「邪馬壹」と「邪馬臺」の混乱なんですが・・・。唐代に於ける・・・。
>返事を見ていない振りをして
答えたフリをして・・・です。
>>ザラさんは唐代に「邪馬壹」と書いた写本が実際にあったということを「必要にして十分な論証」で示して頂きたい。傍証ではいけませんよ
>いえ、初めから、魏志刊本が(一字一字写した)写実主義に拠って出来たものである事からの
その「写実主義」なるものを、いつ・だれが「必要にして十分な論証」で明らかにしたんですか?是非ご紹介下さい。
>逆にたどった「推論」である事を言っておりますから
つまり、根拠はなし・・・ですね。
>必要十分の話にはそぐいませんので、お断り申し上げます
ほほう、自分の方は「写実主義」とさえ唱えていれば論証は免責され、人には「必要にして十分な論証」を要求する?
自分に大甘。人には厳しく・・・。しかし、何度も指摘されて普通なら気が付く筈なんですがね〜、このダブルスタンダードなんか・・・。
to#108539 by zarakoku
誤謬とは?
2008/11/22 23:59:00
メッセージ:#109771
>>あのですね〜。根本が理解できてないようですね。『魏臺訪議』というよく知られた書名が『魏壹訪議』と誤られている。まさかザラさんもこれが誤写ではないとは言いませんよね?
>さあ、資料実態をよく知りませんので、断定は出来ませんが、誤謬の可能性はあるでしょ?
なんですか、その「誤謬」ってのは・・・?「誤写」ではないと?
>『魏壹訪議』と言う文献が歴史上存在しない、とはすぐには断定出来ませんから
これも遁辞。『魏臺訪議』を『魏壹訪議』と誤写したのだ!と考えてどこに矛盾がありますか?「壹・臺」の誤写は他にもあります。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/tai_ga_tadashii.html
「壹」「臺」「壺」は誤写された可能性があるんです。根拠は史料事実です。
>いや、誤写された可能性があるのでしょう
「ある」と思うのは何故?
>犬臺宮を太壹宮とした人は、「臺→壹」だった事になるのでしょ?
だったら、「邪馬臺→邪馬壹」ですね。
>>オリジナルは一つでしょ?違うんですか?
>一つだ、とは決まらない場合があるし
どういう場合ですか?
>オリジナルが失われてしまっている場合もある
「失われてしまって」もオリジナルは一つ。
>そう言う事を許容する人が存在した、と言う歴史的事実だから
なんですか?その「許容する人」ってのは・・・。
>だから、別に後代史書を100%否定などしていませんよ。参考資料などと言ったりして来ましたから、価値は少しはある事は認めているのですよ
唐代「壹」の証人はいませんから、「臺」こそ当時の『魏志』の姿であると考えるのが順当なんです。
で、反論は「邪摩惟」とか「通説」とか「写実主義」とか・・・。
直接的史料根拠を挙げていただけますか?唐代に「邪馬壹」とあったのだ!と言う・・・。
to#108541 by zarakoku
惟は堆の間違いだ3その2
2008/11/26 0:03:00
メッセージ:#109932
>これなら「犬臺宮」と書いた人をも「馬鹿だ」と言い出しかねませんね
え?どうしてですか?ドッグレース絡みですから、「犬臺宮」で何も問題ありませんが・・・。
>だから、「誤写がボロボロある」、と言ったような「多い」事を言い立てる表現は、都合の悪い史料実態を、自説にとって都合のよいものにすり替えるための「詭弁」
どうして「詭弁」なんですかねぇ?さっぱり分かりませんが・・・。事実を事実として紹介しているのが「詭弁」?事実でもないものを事実であるかのように装うのが「詭弁」では?
>やはり、hyena no papaさんの思想の根底には中国人蔑視の思想が有った、と言う事ですか
いいえ。誤写はどこにでもあります。先日も『源氏物語』の「大沢本」が新聞紙上で奉じられていましたよね?『朝日』では7月22日でした。
それは現在知られている『源氏物語』と相違した部分があるとのことです。これが写本というものの実態なんです。機会があれば読んでみて下さい。
>>返事になっていません。「史料事実」ってのは、宋代刊本という「史料事実」。それまでのある時点での誤写であると切り返されたら、ザラさんはどう反論するんですか?「史料事実だから」というお題目でも唱えますか?
>いえ、存在確定された史料事実は根拠に使えます
だから、その「存在確定」ってのは宋代の刊本。
>また、「それまでのある時点での誤写である」と言うのなら、オリジナルなどを提示されるか?、「誤写」である事を必要十分に説明されればいいのですよ
ほらね、ご自分ではその「存在確定された史料」=刊本・・・という時点から一歩も進めないじゃないですか。それを無理矢理遡らせているのは「通説」とか「写実主義」とかいうお題目。
私の方は根拠を挙げていますよ、唐代までの諸書。ザラさんはどんな根拠を挙げていますか?
>>“マリリン・モンローにはホクロがある。よって生まれたときから有った・・・・
>マリリンモンロウは名前位しか知りませんし、全く関心がありません。ご随意に
いやはや、この比喩が分からないのか?それとも分かるとまずいのか?刊本には「壹」とある。よって、陳寿原本にも「壹」とあった・・・ということです。
「通説」「写実主義」・・・。そんなものは根拠になりません。
>史料事実は、李賢は、7世紀後半の筑紫に?「ヤマイ」という地名があった、として書いている事にな
つまりは、誤写は認めないってことですね?「何でも正しい論」です。
4600箇所の異同は何なのですか?「黄色い憧れ」っていったい何なのですか?
魏は倭に「黄色い憧れ」を授けたんですか?
to#108655 by zarakoku
Re: 「内容の説明紹介」文書
2009/4/10 23:17:00
メッセージ:#118025
>それなら、hyena no papaさんは『そう言えば、古田さんも「後代史書の根拠性は始めから否定的」でしたよ』に対する否定的レスを書かれなければよかった
自分の曖昧な表現は棚にあげて・・・。
>>いつ「ほぼ破綻し」たんですか?具体的に話してください。<
>古田さんの、
>http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamai21.html
>で、
あのね、それは宋刊本のいくつかを殿本で考証している・・・ということですよ。
−−−−−
当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ
すなわち、張元済が“紹煕本は他本(諸本)にまさっている”というとき、当然、紹興本もその「対照校異内」に存在するのである。
−−−−−
でしょ?この、どこにザラさんの言うような、
−−−−−
幾つもの宋代刊本が、一個の写本だけから転写版刻された、と言う「断定話」はほぼ破綻している
−−−−−
ってことが書いてありますか?
よく読みかえしてください。
>北宋本が戦火で失われたのなら、他の残存写本が底本に使われた可能性が高いから
「可能性が高い」ってのはザラさんの想像でしょ?裏づける根拠は?
>「犬臺宮と太壹宮について」や「魏壹」の話を忘れられた?。
は?言いだした私がなんで忘れるんですか?ドッグレースと『魏壹訪議』です。
ドッグレースについてはザラさんのマトモな反論はとうとうありませんでしたよね?
『魏壹訪議』は「百衲本」『史記』「匈奴列伝」に見えるものです。『魏臺訪議』を引く文献は幾つかあり、私がそれを探求してまとめました。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/gidaihougi.html
この二つともまた、話題にしますか?
>>「壹與も臺與の誤謬である筈だ」と姚思廉が判断した・・・根拠のない空想。<
>いや、史料実態そのもの
だから、それは唐代の『魏志』には邪馬壹とあった!という結論先取りですって・・・。
>いや、後漢書と隋書の記録。但し、7世紀後半は「邪摩惟」になった
単なる誤写です。
>後代史書の一発で沈没
魏徴が見た『魏志』には「邪馬臺」とあった!という紛れもない証拠。
to#117921 by zarakoku
Re: 「内容の説明紹介」文書
2009/4/16 22:57:00
メッセージ:#118325
>当たり前
はれ?何が「当たり前」なんでしょうかねぇ?読みようによっては「ザラさんのマトモな反論はとうとうありませんでしたよね?」が当たり前・・・とも。
>私の論点は、古田さんが言われた、唐代に「壹と臺を間違えたのだろう」とする史家がいた事、の問題であったのだから
顔師古でしょ?『邪馬壹国の論理』175頁前後。
>その話と関係のない、『hyena no papaさんの「ドッグレース」と言う奇妙な名前を付けた話』、など、始めから(馬鹿にして)相手にしていないだけ
同書174頁前後。
古田氏はこれを誤写ではなく、改定だしていますよね。この話は2年前にもザラさんとやりとりしました。
−−−−−
この「大壹」が「太臺」であろうことは既に説明しました。一方、古田氏の説明は「犬臺宮」を、天神を祀る「太一宮」に書き換えたというものでしたよね?なんでドッグレースを見る建物を天神を祀る「太一宮」と改めにゃならんのですか?その理由を説明してください。
−−−−−
それに対するザラさんの返事。
−−−−−
何か問題なのですか?
願師古の「今書本犬臺有作大壹字者誤也」は、間違いだ、といわれるのですか? 「犬」を「大」と書き換え、「臺」を「壹」と書き換えて、願師古に「誤也」と言われている人がいるのでしょ?
−−−−−
古田氏の176頁を読んで下さい。古田氏は第四書、175〜176頁で次のように書かれています。
−−−−−
このように検してくれば、問題の「犬臺宮→大壹宮」という改定を行なった「今の諸本」の資料的性格も明らかとなろう。「犬臺宮」という字面を奇異とし、(とくに、「臺」は「宮」を指すこととなったため、後代からはこの両字は重複と見えるようになった。また「犬」字も宮殿名ににつかわしくない。)これを「大壹宮」と「改定」しているのである。
−−−−−
古田氏自身が、173頁に引かれるように、この「犬臺宮」に続いて「走狗觀」と書かれてありますよね。「狗」は「犬」です。なんで「につかわしくない」んでしょうかねぇ?天神を祀る宮殿の方が、よほど「につかわしくない」と思いますが・・・。
思い出していただけましたか?
>>『魏壹訪議』は「百衲本」『史記』「匈奴列伝」に見えるものです。『魏臺訪議』を引く文献は幾つかあり、私がそれを探求してまとめました。・・・この二つともまた、話題にしますか?<
>どうぞどうぞ。
>この話は、そもそもhyena no papaさんの方から「壹と臺を間違えた例証」として提示されたのだから、
>私の「唐代に壹と臺を間違い論があった」事の根拠になっていたのですから
だから、誤写があったんでしょうが!何言ってるんです?古田氏は「犬臺宮」「太壹宮」は誤写ではなく、改定だと言ってるんですよ。誤写だったら困るのは古田氏の方・・・。
>姚思廉が、邪馬壹國を祁馬臺國と書き換えたのと同じように
古田氏の立場に立てば、それは『後漢書』主義によって改めたのです。『後漢書』には臺與は出てきません。
>「壹與も臺與の間違いだ、と判断した」事になるだけ
だからなんで「臺與→壹與」のケースは考えないんですか?目の前の『魏志』に「壹與」とあるのに諸書の編者は、『梁書』という、まさしく“後代史書”によって、次々に『臺與』と書き改めたんですよね?なぜですか?
>一番基本(90〜99.5%の信頼性)になる三国志記載
こんどは「90」という数字まで出現(~_~;)どこから算出したものなのか?
>10%の位の信頼性しかない後代史書類書を判定基準に据えて、三国志記載を否定する、と言う、騙しや詐欺師の論法
後代史書の編者が、みな書き改めたという現象はどう説明するんですか?しかも、実在しない「臺與」という表記まで創作して・・・。
>自説に都合が悪い記載事実は、全て「間違いだ」とする、畿内説者特有の詐欺的論法
どこが「自説に都合が悪い」んですか?また「畿内説者特有」でもありませんよ。九州説の人も邪馬臺と考える人は多い。
>後代史家の魏徴らが、『魏志』には「邪馬臺」とあった筈だ、と推定判断した記載であるだけの事
どうしてそう魏徴らは思ったんですか?『魏志』を目の前にしているのに?
>後代史家の使う「曰」「云」「謂」の記載内容が、10%位の信頼性しかない事は、既に何度も確認した事
何を基準に「10%位の信頼性しかない」と言ってるんでしょうかねぇ?こんな粉ということ自体が、刊本の表記が代々流布していたものと同一である・・・という結論が先に立っちゃっているんですが・・・。
to#118050 by zarakoku
「盛行」事例
2009/5/30 21:22:00
メッセージ:#121145
>「犬臺宮と太壹宮」の話
1個で「盛行」とは、これ如何に?
to#120369 by zarakoku