同書16〜17頁
虹ノ松原砂丘の形成をこの時期とし、その背後に汽水生の高い潟ないし水田化可能な後背湿地の形成をみたと考えることにより、島田塚古墳をはじめとする鏡山北麓部の古墳の成立条件も理解されるのである。
また、玉島川は比較的下流部まで扇状地性の沖積平野を形成していたこともあって、弥生時代から古墳期にかけても、現河口付近まで陸化していたことが推測される。そのような状態にあった玉島川の沖積低地に面して、谷口古墳、淵ノ上古墳、経塚山古墳のほか、五反田支石墓などの分布することも納得されるのであるが、しかし当時の玉島川が現在と同様に浜崎集落の東北端で唐津湾へ注いでいたか否かについてはなお検討を要する。上述の虹の松原砂丘の後背湿地の標高が、浜崎中学校北東側の農道で3.2m→虹ノ松原学園の南側で3.0m→虹ノ松原駅南側で2.0m→松浦川右岸の水田で1.0mと、明らかに東(玉島川)から西(松浦川)に向かって低下していることからみて、虹ノ松原砂丘で閉塞された玉島川が同砂丘の後背湿地を西流していたことも考えられる。
(b)松浦川左岸地域
虹ノ松原砂丘に相当する新砂丘列は、松浦川左岸(西側)の唐津市街地にも発達しており、そこでは唐津神社がのる砂丘となって東西(旧県立唐津西高校以西では北西方向)に連なってい。唐津神社はこの新砂丘の最高部(海抜ほぼ5m)に位置している。しかしこの新砂丘の南縁は市役所方面へ向かって一旦低下するものの、桜馬場遺跡などの弥生遺跡群がのる唐津線北側の旧砂丘列に接続することからみて、近世の唐津市街地は、新・旧砂丘からなる複合砂丘上に形成された城下町であったことがわかる。
新砂丘の形成が4〜5世紀ごろからの海面の再上昇に関係があるという一般的傾向をこの地域にもあてはめてみた場合、旧砂丘の後背湿地における地下水位を高め、水田化された湿地部分を一部では潟に戻したことも考えられる。そのことは菜畑遺跡の水田址をもつ縄文晩期包含層が、厚さ2〜3mに及ぶ暗灰色粘土質シルト層(沼沢性湿地堆積層?)によって地表面まで被覆されてしまったこととも矛盾しない。
なお松浦川の河口は、現在、唐津城の城山(満島山)の東側にあるが、築城以前には城山の西側にあり、今日の県立唐津東高校の所にあったことは地形的にも明らかである。
(井関弘太郎)